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十二年前の展覧会図録にデータメディアがとじ込まれていた。タイトルのないディスクの中には、電子化された日本語の新聞や総合週刊誌が入っていた。センセーショナルな見出しが目を引き付ける――『小学生男児失踪』、『両親不在の自宅から誘拐か』、『七歳児童誘拐事件、過激派宗教団体の犯行』――そして『犯人グループ逮捕、被害者無事救出』。 例の日本人男児誘拐事件の発端から終息まで、偏執的なこと細かさで記録が残されている。当時は新聞の一面を飾るほどに世間を騒がせた事件だった。しかし、不思議なことに、今ではほとんどの人間が忘れ去ってしまっている。 灰色の紙面に、拉致された日本人男児の写真が掲載されていた。おどおどしていて、気弱そうだ。子どもはチョコレート色のツートン・カラーの頭に猫のような吊り目がちの瞳をしていて、ディヴァインが混乱するほどに神月カンナとそっくりだった。 空白の塵が堆積したデータメディアの深層へ降りていく。古い時代の死んだマスメディアが連綿と続くモノクロの世界だ。そのさなかに何の前触れもなく、唐突に、目が痛くなるほどに鮮やかな色をした轢死体の写真が現れた。 腹が潰れ、手足がひしゃげ、びっくりしたように軽く見開かれたうつろな目を宙に向けて、カンナに良く似た七歳の少年は、血だまりの中であおむけになって死んでいる。 記録には、男児は誘拐された日から一月後に、警察の手で無事に救い出されたのだとある。平凡さを狂気と誇大妄想で梱包した無能人たちが興したインチキ教団が、よりによって本物の奇跡を起こし、死んだ子どもを生き返らせたとでもいうのだろうか。 それとも――ディヴァインは気味の悪い空想を描いて胸が悪くなった。保護された子どもは、はじめに攫われた子どもとは別人だったかだ。 その時、七歳の日本人少年と同じ顔をして同じ声をしたなにかが、ぬるついた虚構と認識の狭間にするりと降り立ち、何食わぬ顔をして横取りしたレールの上を歩き始めたのかもしれない。 「いったい、どういうことなんだい。カンナ」 ディヴァインは透明な空気の塊に向かって声を掛けてみた。返事はない。部屋には、ひとりで座り込んでいるディヴァインのほかには誰もいない。 もう一度、今度はいら立ち混じりの刺々しい声を宙に突き刺してやった。 「おまえは何でも知っているんだろう。カンナ? 都合が悪くなったら姿を消すのかよ」 ポケットの中で携帯電話が震えた。 デュエル・アルカディアの理事会からだ。受話器越しの声はこわばっていて、異変を強く匂わせている。 『ディヴァイン理事長、大変です、学園が――』 「どうした。落ち着きたまえ。何事だ」 『シュレイダー社が、デュエル・アルカディアに買収の提案を持ちかけてきています』 思わず携帯電話を取り落としそうになった。 童実野ホテルに現れたシュレイダー家の次男坊は、気にさわる人懐っこさでディヴァインに右手を差し出した。レオンハルト・フォン・シュレイダー、青年に成長して幼さが削げ落ちた分、面差しが少し彼の兄に似てきた。 「やあ、ひさしぶりだねディヴァイン。まず御父上のことは気の毒だった。ぼくらは友達だ。よければ力になるよ」 「は! その友達の学園を買収しようとしておいて、よく言うよ」 レオンはディヴァインの嫌味にも微笑を崩さない。カウチソファにつき、組んだ指で口元を覆って、コーヒー色の瞳が見上げてくる。 「きみにとっても悪い話じゃないってこと、ぼくはわかってもらいたくて来たんだ。気を悪くしないでほしいんだけど、きみの学校は全世界に分校を持つあのデュエル・アカデミアに遠く及ばない。だけどぼくたちシュレイダーが後ろ盾になれば話は違う」 「侮辱だ。取り消したまえ。こと女性決闘者の育成にかけては、うちはアカデミアのお稽古ごととは比較にならんのだよ」 「ある一部分においてはね。でも全体のシェアではそうはいかないよ。ライバルに勝ちたくはない? ディヴァイン、ぼくらシュレイダーは、きみの力になりたいんだよ」 数年ぶりに再会したレオンの話し方は、ずいぶん肌触りの悪いものだった。 往時のレオンはおとぎ話に登場する善良な王子様そのもので、朴訥と愚直を絵に描いたような少年だったと記憶している。 成長は人を変える。大企業の副社長という厳めしい肩書きが、幼馴染が運営する私立学校を強引な手口で買収し、商売敵への牽制に使うほどの冷徹さを彼に与えたのかもしれない。 「ミスター・シュレイダー、失礼だが、きみからはデュエル・アカデミアのオーナーへの敵対意識しか感じられない。企業闘争と金の勘定は会社に帰ってやってくれたまえ。我が学園の役割は生徒たちを一人前の決闘淑女に育て上げることだ。静謐と勤勉が僕らの美徳だ」 「そのふたつは、昔のきみが何より憎んでいたものだね」 「前理事長の死去はあまりにも突然だった。今、我々はとてもデリケートな時期にあるんだ。学園の混乱はまだ続いているし、おまけに設立されたばかりのコースを抱えている。生徒たちがこれ以上大きな変化の波をかぶるのは、正直ごめんこうむりたいのだよ」 レオンに引き下がるそぶりはまったくなかった。ブラックスーツの背中で、リボンで束ねられたぶどう色の柔らかい髪が尻尾のように揺れている。 「たしかにきみの言うとおりかもしれない。ぼくの兄が海馬瀬人に遅れをとるわけにはいかないのと同じに、ぼくは海馬モクバに出し抜かれるわけにはいかない。シュレイダーは海馬コーポレーションに負けない。でもね、ぼくたち兄弟の面子の問題は横へ置いておいて、よく考えてみて欲しいんだ。きみはお父上から受け継いだデュエル・アルカディア学園を、まだうまく制御しきれていないんじゃないかな」 言葉に詰まる。たしかに理事会の老人たちは若すぎる理事長を軽んじ、御しやすい傀儡になることを望んでいた。 「図星だね」 雑然とした数式を綺麗に解きほぐしたときのように、レオンは上機嫌だった。 「……レオンハルト、そういえばきみ、ヨーロッパ大会であいつに負けたんだって?」 「あは、もう聞いたんだ。そうなんだよ。あの〈レインボー・ドラゴン〉っていうモンスターは、本当にとんでもないよ」 意趣返しのつもりで言ってやったが、レオンは照れたように笑うだけだった。 「あの子ね、留学先でとっておきもとっておき、運命の大親友ができたんだって。男の子か女の子かも知らないけれど、たぶん日本人だよ」 「はぁ?」 ふたりの共通の友人で、あの鉛筆の削りかすのようにつまらない男もまた、ただの人間に興味や友愛を抱く機能が欠損した、ディヴァインと同じ人種の端くれだった。彼にまともな友人ができるはずがない。 「その友達なんだけど、じつは変な噂もあって、それでちょっと心配なんだよ。これは又聞きだし、本人に確かめても結局うやむやにされちゃったんだけどさ。なんでもあいつ、デュエル・アカデミア本校に留学した時に、本物のモンスター同士がいつ終わるともしれない暴力の連鎖を繰り広げている危険な異世界に、学園ごと飛ばされちゃったらしいんだ」 レオンは「信じられないような話だけど」と付け加えた。 「事件が終わったあとも、あいつの友だちは向こう側に取り残されたままだった。少ししてこっちに戻ってきたんだけど、ぜんぜん別人みたいになってて……しばらくは学園じゅうで、帰ってきたのはその子に化けた異世界のモンスターだって噂になっていたみたい」 「そいつは今どうしてるんだ?」 よく似た話を聞いたことがある。十二年前に起こった日本人男児誘拐事件の顛末だ。誘拐された幼児は死んだはずだった。しかし、何食わぬ顔をして家に帰ってきた。 戻ってきたのは、はたして本物だったのだろうか? 「なんでもアカデミアを卒業したあと消息不明になっちゃったそうだよ。たしか名前は……少し前に同じ名前の子に会ったんだ。日本人の名前ってどれも発音が似ていて――」 レオンの視線がディヴァインを離れ、スツールの上の開いた手帳に注がれている。身分証とプリントシール、そして悪戯の共犯を持ちかけるような伏し目がちの微笑みを浮かべて、こちらを見返るツーテールの少女の写真がはさみ込まれている。 「おい、人の手帳を勝手に覗き見るな」 「神月カンナのファンなの?」 レオンが無邪気に言った。ディヴァインは赤面し、わざとらしい咳払いをして、急いで手帳をポケットに隠した。彼女はデュエル・アルカディアの金の卵だ。理事長兼校長のディヴァインが最も優秀な生徒の写真を持っていても、なんら不思議はないはずだ。 「ひさしぶりに話せて楽しかったよ。ぼくも兄もきみの味方になれる。考えておいてくれ。あ、そうそう。もしもだけど、海馬コーポレーションから同じ話を持ちかけられたとして」 レオンはドアの前で振り返って、茶目っ気のある、ただし腹に一物を含んだしたたかな一瞥を投げ掛けてきた。 「そのときは、ぼくらシュレイダーは彼らの倍の条件で応えよう。いい返事を期待してる。幼馴染のよしみでね」 レオンは去った。広々とした部屋のなかは急に圧迫感を覚えるほどの静寂に包まれた。 まったく、迷惑な兄弟だ。 シュレイダー社がしゃしゃりでてきたとあっては、海馬コーポレーションも黙ってはいないはずだ。デュエル・アルカディアをライバル会社に盗られるくらいなら、アカデミアとの提携を結ばせた上で彼らの傘下に加えようと画策してくるだろう。はかったとしか思えないタイミングで、携帯電話が震えた。 『理事長。海馬コーポレーションの海馬モクバから通信が入っています』 「さすがに耳が早い。繋いでくれ」 モニター上にぼさぼさ頭の若い男の姿が現れた。名前はいやでも知っている。海馬コーポレーションの取締役副社長、海馬モクバ。彼は、こんな顔をしているのか。 『どうやらシュレイダー社のやつらが、君たちを買収しようと企んでいるらしい。まったく困ったやつらだぜい。あいつらが君にどんなうまい条件を持ちかけてくるのかは知らないが、海馬コーポレーションはその倍を出す。君は若いし、柔軟な選択ができる頭を持ってるに違いない。我がデュエル・アカデミアと提携を結ぶ気があるなら、もちろん歓迎するさ』 モクバはどこかで聞き覚えのある声で、一方的に言いたいことを言って通信を終わらせた。 「理事会に繋いでくれ」 ディヴァインはうめいた。ふたつの選択肢。 ひとつはシュレイダーという大きな後ろ盾をつけてアルカディア理事会に取り入るやり方だ。この場合、海馬コーポレーションとの繋がりは決定的に断たれてしまう。 もうひとつは海馬モクバの提案を受け入れて、デュエル・アカデミアの傘下に入る方法だ。だが、これまで信じ頼ってきた暴力ではなく、海千山千の敵と慣れない謀略を交えて相対することが本当に可能なのだろうか――。 ほどなくデュエル・アルカディア理事会の老人たちが、フラットなモニター上へ趣味の悪い影絵のように現れた。 『お坊ちゃま、周遊旅行をお楽しみのようで何よりです。ミスター・シュレイダーとの会談はいかがでしたかな』 「彼らに不用意に取り入るのは考え物だ」 ディヴァインは言った。 「我が校をライバルに対抗できる強い学園に育てたいのは、私もきみたちと同じ思いだ。だが、シュレイダーの尻馬に乗ってアカデミアと正面からことを構えるのは、はたしてうまいやり方だろうか? 節操もなく彼らの抗争の道具に成り下がるだけではないのか」 『そんな及び腰ではアカデミアの連中に出し抜かれてしまいますぞ。今回のシュレイダーの提案は申し分のないものです。敵に食い潰される前に、我々は大きな後ろ盾を手に入れなければ。先方にはさっそく視察にお越しいただきましょう。すでに手配は済んでおります』 「私の留守中に? ばかな。そんな勝手を許した覚えはないぞ」 『ディヴァイン新理事長。貴殿はまだ若く経験が少ない。御父上ならば、シュレイダーの要求を快く応諾されたに違いありません。不服があるのでしたら、もちろん我々理事会の全員を納得させてくれる理由なのでしょうな』 ディヴァインはノートパソコンを蹴飛ばした。音声が飛び、モニターが真っ白になった。老いぼれた盲目の狸どもの侮辱は、耐えがたいものだ。 ディヴァインは、自身の指導者としての手腕が、老獪だった亡父に比べて圧倒的に脆弱だという現実を思い知っていた。父は胸の悪くなるほどの狡猾さのおかげで生き延びてきた。息子の超能力によって、学園の鐘楼台から転落死するまでは。 ――あの男ならどう切り抜けるだろう。いや、父と同じやり方は決して選ぶものか。 〈彼女〉に出会って未来を知るまでは、困難から逃げることしか考えられない子どもだった。今は違う。デュエル・アルカディアは、この世界を掌中に収めるために用意された最初の武器だ。 シュレイダー・トイズと海馬コーポレーション。レオンハルト・フォン・シュレイダーと海馬モクバ、巨大な企業を身ひとつで象徴する兄を助け、影を歩むふたりの弟。相手にとって不足はない。利用し尽くして、あとはごみのように投げ捨ててやる。 カードを手にディヴァインは考えた。そうするだけの力がここにある。 ポケットから手帳を引っ張り出した。小さな写真の切れ端の中から、謎めいた少女が媚びを売るような、それとも蔑むような微笑みを向けてきている。 ――上等だとも、カンナ。世界征服だ。 手帳に貼ったプリントシールに写る自分が、少女たちに囲まれて苦笑いを見せている。ふと、小さな紙片のなかから、直感に訴えかけるものがあった。 『ゴーランド先生が、またカンナ様をいじめていたんですよ』 女生徒の声が再生される。ミス・メアリー・ゴーランド。デュエル・アルカディアの新任養護教諭。通信映像で見た海馬モクバの面貌は、厚い化粧にごまかされなければ、このミス・ゴーランドに酷似している。 すぐにふたりの写真を照合した。あの海馬モクバが教師になりすまし、デュエル・アルカディアに何食わぬ顔をしてもぐり込んでいるのだと確信を抱いた。シュレイダー社が絡んだ買収騒ぎをいち早くリークし、競争相手の企てを阻止すべく、単身アルカディアに乗り込んできたのか。それにしては対応が早すぎる。 まったく、理解に苦しむ。手遊びに父が遺したデッキケースを開き、カードをつまみあげた。 〈ブラック・マジシャン〉。かの高名な決闘王武藤遊戯を象徴するカードだ。さすがに複製物に違いないが、まるで本物のごとく途方もないエネルギーを宿している。四十枚のカードの束を前にしていると、畏れにも似た感覚に陥った。 このデッキは何なのだろう。なぜ父親は、ヒーローに憧れる洟垂れ小僧でもあるまいに、決闘王のレプリカ・デッキを後生大事にしまい込んでいたのだろう。未知の黒い箱の中に封じられた父親の遺産のすべてを、ディヴァインはまだ把握しきれていない。 突然、ドアが乱暴にノックされた。 「ディヴァイン理事長! 大変です!」 廊下には緊張しきったアルカディア監視機構員の顔があった。ただならない様子だ。他の部屋に宿泊している生徒たちが、好奇心を剥き出しに、薄く開けたドアの隙間から覗いてきている。 「生徒が。神月カンナが何者かに誘拐されました!」 「――カンナだと!」 ディヴァインは顔色を変えて叫んだ。 ![]() テレビのニュースは世界的トップアイドル神月カンナの誘拐事件でもちきりだ。機械仕掛けの犯行声明と多額の身代金の話題を繰り返し報じていた。 今夜の海馬邸は、湿り気を含んだ鈍色の闇のなかで静かに眠り込んでいる。モクバが兄の海外出張にこれほどの安堵を覚えているのは初めてだった。 『本当になりふりかまわないって感じだね』 インカムの向こう側でレオンが言った。彼はグランプリの予選に臨むデュエル・カレッジ生たちと合流し、ホテルにあてがわれた部屋に戻っている。間近で猫の鳴き声がした。そして、缶詰が開く音。 「猫がいるのか?」 『この子、トラジマのふとっちょなんだけど、ぼくらが泊まっているホテルに迷い込んできたんだよ。部屋までついてきちゃって。どこかで飼い主のにおいでもつけてきたのかな』 世間を騒がせている当のアイドルは、閉園時間あとの海馬ランドのアトラクション施設にいる。監視カメラが、非常灯の青い光の下、〈バーチャルワールド〉のカプセルマシンにもたれて膝を抱えている十代を映している。 遊戯に恩返しをするのだと暑苦しく息巻いていたくせに、浮かない顔だ。彼のそばには、有能さと口の堅さに信頼のおける雇われ誘拐犯――浅黒い肌の傭兵が、腕を腰の後ろで組んだ恰好で直立している。 『なんか、あいつ、ちょっとかわいそうだな』 十代がもごもごと言った。 見せかけの企業闘争と大がかりな狂言誘拐は、先代の遺産を受け継いだ新任理事長と、実質的な決定権を担う理事会を懐柔するために、デュエル・アルカディアの前に垂らした大きな釣り糸だ。 彼らは攫われた神月カンナを決して見捨てない。トップアイドルという幻想には、莫大な身代金と比較しても遜色のない利用価値があるからだ。一向に進展のない警察の捜査に苛立ち、一時的な融資を求めてこちらに泣き付いてくるまでにそう時間は掛からないだろう。 『周りの大人に振り回されてるガキを騙すなんて、あんまり気分がいいもんじゃない』 「そんなことはオレが誰よりもわかってる」 モクバはつい語気を強めた。 大金持ちには遺産を狙う身内がつきものだ。家督を継いだばかりのまだ十代の子どもなど、金の亡者たちがよってたかってすぐに搾りかすにしてしまうに違いない。幼い頃のモクバは、まさにその搾りかすだった。だから大人の餌食にされる子どもの悲哀は知り尽くしている。 デュエル・アルカディア理事会はディヴァイン家の親族で固められている。理事会の老人たちは、若い理事長の独断を許さない。おそらくは仇敵を抱える海馬コーポレーションではなく、シュレイダーにアプローチを仕掛けてくるはずだ。 「敵を憐れむ前に自分の役目を思い出せ。お前はあの新米理事長と遊戯のデッキ、どっちが大事なんだよ」 例のディヴァインという青年が、失われた〈ブラック・マジシャン・デッキ〉を所持している可能性が高い。彼はまだ父親の遺産のすべてを把握してはおらず、そこにつけ入る余地が見出せた。 十代の返事は、予想通りの即答だった。 『遊戯さんです。だけど、あいつが盗んだわけじゃない。もしかしたら事情を話せばわかってくれるかもしれない。たとえ親が悪いやつだったとしても、いなくなっちまったら寂しいに決まってる。あいつはたぶんオレと同じなんです。だから、そうだ、決闘したらきっと』 「お友達にでもなりたいっていうのかよ、くそガキ」 『……いいやつだったらいいのに』 十代はモクバと一度も目を合わせようとしない。十二年前から変わらない殻にこもった子どもの姿は、むしょうに苛立たしかった。モクバはディヴァインの動向に目を光らせていたが、短い学園生活のなかに、あの男と遊城十代の接点はほぼ無かったといっていい。 「おい、下っ端。お前なにか隠してないか」 『隠すっていうか。言っても信じてもらえないだろうし』 「十代」 十代は亀が甲羅の内側へ首を引っ込めるように、ますます俯いてしまった。 雇われ誘拐魔のオースチン・オブライエンは、それを世にも不思議そうな顔をして眺めていた。カメラの前へ一歩進み出る。どこか十代を庇うようでもあった。 『ミスター・モクバ。この男からはオレが事情を聴き出しておく。いざとなればいくつかの拷問も辞さないつもりだ』 十代は慌てて顔を上げ、『えぇ?』と不満そうな声を漏らした。 「ああ、そうしてくれると助かるぜい」 『そんな。モクバさぁん……』 十代の情けない呼びかけを聞きながら、監視映像を切った。オブライエンは優秀な兵隊だ。あの遊城十代に本当の意味での仲間ができるとは信じられなかったが、少なくとも十代から聞きたいことを聞き出すだろう。 話題が肝心な部分に差し掛かるとぷっつりと黙り込んでしまう十代も、『友だち』になら隠された秘密をそっと打ち明けるのかもしれない。ふたりはデュエル・アカデミア本校において、ある特殊な一時期に学園生活を共にしている。 『らしくないね』とレオンが言った。 『モクバ、初代KCグランプリをめちゃめちゃにしてしまったぼくをひとつも責めなかったきみが、どうしてあの子にはそこまで敵意をむき出しにするのかな。きみがあんなに怖がらせるから、カンナは怯えていたじゃないか』 いまだにレオンは十代を偽の名前で呼ぶ。〈ジュウダイ〉よりも〈カンナ〉のほうが喉に馴染んだ発音のようだ。それとも、彼の母国では人類一の裏切り者を暗示する名前を口にすることに尻込みしているのかもしれない。 「怯える? あいつが? ……オレに?」 『カンナを見ていると、昔のぼくを思い出すよ。家族とうまく折り合いがつかなくて、居場所がなくて、いつもひとりぼっちだった。何でもできてみんなの期待を背負った兄さんが、途方もなく大きく見えて怖かった。あの頃のぼくは、きっと今のカンナみたいだったんだ』 まだ子どもだった頃に、モクバも同じ不安を抱いたことがある。小さな足と柔らかい手では、いつかはがむしゃらに歩み続ける兄に届かなくなるかもしれないと気が気ではなかった。優しい目と言葉を何よりも求めていた。失望を恐れるあまりわざと虚勢を張ってみせたこともあった。 『今はいい子だよ』と、どこか十代のことが誇らしそうに、遊戯は微笑んでいた。 ――違う。みんなは遊城十代に騙されているだけなんだ。 同じ穴のむじなたちの悲惨な末路に取り乱す姿にも、仲間を救えなかった無力な自分を恨んでしょげかえる姿にも、ほだされてはいけない。あの男の輪郭は、すべてが嘘でできている。言葉は霧のようなものだ。本当の姿を覆い隠すための擬態にすぎない。 モクバは心から兄を尊敬し、兄のために尽くし、兄を愛している。だからこそ、ノドの地へ追放された人類最初の殺人者を憎む。今でも凍てついた金色の眼を夢に見る――眼球は濁り、死臭が鼻をつく。俊敏な蜘蛛のように不気味に跳ね、友人に這い寄る魂まで腐った小さな骸を憶えている。 モクバはまだ十代が憎かった。それにもまして、なによりも怖かった。なにしろ、遊城十代はあのとき確かに死んでいたのだ。 インカムがレオンを呼ぶ友人の声を拾った。ずいぶん機嫌の良い、人を和ませる明るいトーンだ。 『おぉい、なにぐずぐずしてるんだよ!』 ヒンジが軋む音がして、猫の間延びした鳴き声が遠ざかっていく。騒々しい物音と悲鳴が上がる――『うわぁ! なんだよ、お前、ファラオじゃないか。あいつと一緒じゃないのか。なんでこんなところにいるんだ?』。 『またあとで電話するよ、モクバ。カレッジの友だちを待たせているんだ。計画の成功を祈ってる。あとね、もう少しカンナに優しくしてあげたほうがいいよ。きみのほうがお兄さんなんだから。じゃあね』 レオンは通信の終わり際に不思議なことを言った。『お兄さん』。五つ年下のふがいない十代を相手に、慣れない兄貴風を吹かせている自覚はあったが、鼻の奥がむず痒くなる言葉だ。 ぶあつい絨毯を踏みしめる靴音が部屋の前で止まった。 モクバは訝しんだ。召使いたちはすでに下がらせておいたはずだ。 扉が開いた。穏やかなルームランプの灯りに照らし出されて、物静かな微笑をたたえた赤毛の男が立っている。欧州有数の名家の現当主、デュエル・アルカディア学園の理事長を務めるくだんのディヴァイン青年が。 「ごきげんよう、海馬モクバ。今夜は貴方に折り入って頼みがあって来たんです」 青年はあまりに静かな侵入者だった。 屋敷の警備担当者はいったい何をやっているのだ。窓の外へ目をやったモクバは、飽きて放り出された積み木の玩具のように倒れ伏している馴染みの黒服姿を認めた。背筋が凍りつく。 海馬コーポレーションが誇る屈強な守衛たちを、この痩せっぽちの優男が物音ひとつ立てずに倒してしまったというのか。 「我が校の生徒、神月カンナが誘拐されました」 ディヴァインが唐突に言った。 「神月嬢は天涯孤独で身内がいない。犯人は我が学園に莫大な身代金を要求してきましたが、なにぶん我々に支払える金額ではない。どうか貴社のご助力を。警察なんぞはもちろん頼りになりませんから」 「あ、ああ……事件のことは聞いている。ひどい話だぜい。オレたちも大切なイメージ・ガールを今ここで失うわけにはいかない。あの程度のはした金で彼女が無事に戻ってくるのなら、うちが喜んで肩代わりするさ」 相手の興味を引く話題を続けなければならない。壁に設置された非常警報ボタンに注意を向けたまま、モクバは磨かれていない鋼板のようにマットな瞳を見つめ返した。外部に連絡がつけば、大勢の警備員が迅速に海馬邸へ駆けつけ、侵入者をすみやかに排除する。ディヴァインの不意打ちは二度も通じない。 「それで、誘拐犯はいくらよこせと言ってきてるんだ?」 「すべてですよ、ミスター・モクバ。いいや、ミス・ゴーランドと呼んだほうがよろしいか? 見えすいた茶番はやめろ。拝金主義者め。カンナの誘拐は貴様が目論んだんだろうが。あの娘を私利私欲のために利用することは許さん」 平坦な声とは裏腹に、若々しい表情には残酷な憎しみが満ちている。モクバはテーブルを蹴って駆けた。飛び出したところへ、頭上から剣の形をした幾筋もの白い光が降ってきた。 乾燥標本に仕上げられた昆虫の死骸のように、眩い針が影を床に縫いとめる。身じろぎもできず、モクバは絶望的に見上げた――〈光の護封剣〉。 遊戯が愛用するカードだ。 デュエルモンスターズのテキストが現実のものとなる超常現象を、兄や仲間とともに何度も目撃してきた。亡きディヴァイン老人は、カードを実体化させる特別な力を持った決闘者を〈サイコ・デュエリスト〉と呼び、思うがままに蹂躙してきた。その男の息子が当の超能力者だとは、ずいぶんな皮肉だ。 ふと、モクバは十代の言葉を思い出した。『あいつたぶん、オレと同じなんです』。遊城十代もまた規格外の力を生まれ持った異物だ。普通人の理解の範疇を越えた共感が、超能力者同士の間で起こったのかもしれない。 違和感が頭をもたげる。脳裏に、間違った出会い方をした同類を気にかけ、これから絆を育めるかもしれないと淡い期待を抱く十代の姿が浮かんだ。あの不器用な口ぶりもまた、まやかしだったのだろうか。 真実であってほしいと願った。十二年も心の底から嫌悪してきた子どもの無害さを、モクバはいつの間にか信じはじめていた。 ディヴァインが燃えるような赤毛をかきあげ、ゆっくりと近付いてくる。海馬邸に家人の悲鳴が響きわたった。誰も聞く者はいないまま、闇に吸い込まれていく。 ![]() 〈「バース・オブ・アルカディア(7)」につづく〉 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() このコンテンツは二次創作物であり、版権元様とは一切関係がありません。無断転載・引用はご容赦下さい。 −「スクラップトリニティ」…〈arcen 〉安住裕吏 12.09.27→12.10.21− |
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