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新聞配達の自転車がスタンドを跳ね上げる音で、遊戯は朝の訪れを知った。油の切れたペダル音が去っていく。 綿雲のようなあやふやな夢を見ていた。鮮明さや神秘性は、『彼』が重なり合うくらい隣にいた頃よりも遠くなって、目が覚めたときには中身をほとんど覚えていない。あとで既視感となって蘇り、遅まきながら虫の知らせに気がつくのだ。 大人の男が寝転ぶにはもう随分窮屈になってしまったベッドから、泥のように重い身体を引きはがす。全身がこわばって痛んだ。 整頓されすぎた机――青春の思い出をピースに当て嵌めたパズルは完成し、眺めて楽しむ飾りものになってしまった。額に入れて壁に飾ってある星形の人物画。幼いクレヨン文字で『ハッピー・バースデイ』と添えられている。『いつも応援しています。十代』。 影に沈み込んだ家具のふちを薄い埃が覆い、空気に舞い上がって、天窓から射し込む光の中で雪の粒のようにまたたいていた。部屋の中にあるものはすべて過ぎ去った日々の墓標だ。 最近になってようやくわかったことがある。どこへ行ってもどれだけの距離を歩き続けても、深い追憶の森のなかから抜け出せたことは一度もなかったし、それはこれから先も決して変わることはない。 玄関先に届けられたばかりの新聞を広げて、遊戯は唖然とした。 一面を顔見知りの少女の写真が占めていた――『トップアイドル神月カンナ誘拐される。神月さんは、昨夜宿泊していた童実野ホテルの部屋から何者かに連れ去られたと見られる。在籍しているデュエル・アルカディア学園に、多額の身代金を要求する犯行声明文が届けられた』。 昨夜、遊戯は本物の神月カンナに出会った。テレビの中から華やかな栄光と自尊心を振りまいている偶像とは裏腹に、彼女は警戒心が強く、本当は内気で感じやすい少女で、大人の男の前で人慣れしない猫のように毛を逆立てて怯えていた。 事件のディテールを追って新聞記事を繰っていくうちに、また見覚えのある人物の訃報が目に留まった。〈KCグランプリ二〇〇九〉開催記念のパーティー会場で遭った、肉塊のような男の顔写真が載っている。かなりの資産家らしかった。 昨日の夜、男が乗っていた車は会場を出てまもなく無人の暴走トラックに追突された。即死だったらしい。 トップアイドルの誘拐事件と、偶然起こった不幸な交通事故には何の関連性もない。しかし、今朝の新聞に登場するふたりの人物と、ほんの半日前に偶然顔を合わせていた遊戯は妙な心地になる。 日曜日の朝の道路を、黒塗りの高級車が無声映画のように音もなく走ってきた。亀のゲーム屋の正面に乗りつけ、いつものサングラスと黒服姿の磯野が降りてくる。 「折り入って頼みがあって参りました」 磯野が言った。以前会ったときよりも頬がこけている。遊戯は新聞紙を広げてみせた。 「それって、この事件が関係あるんですか」 磯野は生真面目に紙面を見つめていたが、静かに首を振った。 「いえ、まったくありません――誘拐? カンナちゃんが」 「そうですよ。あのカンナちゃんが」 「……由々しき事態ですが、本日の用件はそうではない。貴方には、今年度のKCグランプリ予選開幕の合図となるオープニング・デュエルのゲストを務めていただきたい。対戦は本日午後十八時の開始となっております」 「え。今日の夜? 急だな」 遊戯はぽっかりと口を開けた。磯野は機械的な無表情を崩さないが、彼の喉の奥に魚の小骨の形をしてつっかえている疑念が伝わってきた。 「モクバ様の一存です。サプライズ企画だそうで、今夜瀬人様が戻られるまで伏せておくようにと命じられております」 「モクバくんの頼みなのか。でも、それは、海馬くんならきっとすごく――」 「はい。そうと知れば、間違いなくお怒りになるでしょう」 モクバは長年兄の傍らに寄り添い、共に歩んできた。決闘者たちがわきまえているルールとはずれた思いつきが海馬瀬人を激怒させる結末が、彼になら誰よりもよく見通せているはずだ。 「うーん。モクバくんらしくないな。そのオープニング・デュエル、ボクは誰と闘うことになっているんですか?」 「初代KCグランプリ優勝者、レオンハルト・フォン・シュレイダーとの再戦が組まれています」 「レオンくんか。彼もこんな特別扱いは望んでいないだろうな」 レオンには、今度こそただの楽しい決闘をさせてやりたいと思っていた。誰よりも純粋に決闘を愛している人間が、なぜいつも周りの勝手な思惑に強要され、義務的な舞台の上に立たされる羽目になるのだろう。 「残念だけど、今はできない。ボク『たち』のデッキはまだデュエル・アカデミアに預けてあるし……磯野さん、モクバくんと話がしたいんだけど、いいかな」 「それはもう、ぜひ!」 磯野は珍しく感情をあらわにし、遊戯の手を強く握った。 「ぜひ、お願いします。ここだけの話ですが、どうも昨夜からモクバ様の様子がおかしいんです。部屋に誰も寄せ付けられずに、今回の唐突な対戦のほかにも奇妙な提案ばかりされて。あげくの果てにはライバル校であるアルカディアの理事長に、我が社の株を譲渡するなどと言い出されますし……」 「なんだって? どうしちゃったんだ、モクバくん」 遊戯が最後に見たモクバは、いつも通りの彼だった。誘拐されてしまった神月カンナの手を引き、会場を大股で歩き去っていく後姿。 「我々は瀬人様がお戻りになるまで何もできない。頼れるのは貴方だけなのです」 磯野が言った。 ![]() 冬の始まりの日曜日の早朝、海馬コーポレーションビルの内部は気が抜けたように静かだ。今夜開催される〈KCグランプリ二〇〇九〉予選大会のオープニング・デュエルにおいて、決闘王武藤遊戯との対戦を控えたレオンは、執務室の海馬モクバに詰め寄っていた。 「決闘王武藤遊戯には、彼にふさわしい高みまで到達しなければ触れることも赦されない。こんな決闘者の誇りを穢すような真似をきみがするはずないって信じていたのに、いったいどういうつもりなの」 モクバは何も答えない。薄気味悪い静けさにじれったくなって彼の顔を覗き込んだレオンは、雨と埃で汚れた曇りガラスに変わり果てているモクバの瞳に愕然とした。 「……モクバ?」 肩に手を触れると、ぼさぼさ頭がずるりと崩れ落ち、机に頭蓋をぶつける鈍い音が腹の底まで響いた。ショーは終わり、役目を失って倉庫に投げ入れられた寂しいマネキン人形。 ――いったい、どうしたっていうんだ? 「サプライズさ。きっとみんな、びっくりするだろう?」 スチールの扉の前に、赤毛の幼馴染が立っている。ディヴァイン。デュエル・アルカディア学園の現最高責任者であり、失われた武藤遊戯のデッキを所持していると目される男。 彼の出現はスイッチを入れたフィラメント電球の点灯のように音もなく唐突で、レオンはそこにある姿がソリッドビジョンの幻影かもしれないと疑った。 「やあ。よく来たな、レオンハルト」 「ほんとにディヴァインなの?」 「じつを言うと、今までおまえを侮っていたんだ。昔は馬鹿で正直者のお坊ちゃんだったレオンが、まさかライバル会社の副社長と示し合わせて友だちを騙そうとするなんて。モクバに種明かしを聞かせてもらうまでは、さすがに信じられなかった。月日というものは残酷だ。見直したよ」 醒めた目を細くして見つめられると、背筋を氷の杖でなぞられたような気分になる。ディヴァインは、いつからこんなにも底の知れない人でなしの顔をするようになったのだろう。 「どうしてきみが海馬コーポレーションにいるんだ。まさか、きみがモクバになにかしたのか」 ディヴァインは微笑のかたちに凍りついた表情のまま、一枚のカードをディスクに読み込ませた。闇色のカーテンがひるがえり、覚えのある圧迫感がレオンの胸を締めつける。初代KCグランプリの幕を下ろした決闘王武藤遊戯のエース・モンスター、〈ブラック・マジシャン〉が、偽りの主の召喚に応じた。 「おいレオンハルト、見ろよ。すごいじゃないか。このブラック・マジシャン・デッキは本物らしいぜ」 ディヴァインが軽く言った。 モクバの目は確かだった。彼が遊戯のデッキを盗んだのだという確信が、レオンの怒りと義心に火をつける。 「今すぐそのデッキを返すんだ。それはきみやぼくが気安く触れていいものじゃない」 「これは父の遺品さ。だから私のものだ。いったいどんなあくどい手を使ってきたのかは知らんが、決闘王の座を十年以上も守り通している怪物の剣だぜ。この最強のデッキを手にして出来心を起こさない決闘者がいるとは思えんね。レオン、おまえだって本当はこいつが欲しくて仕方がないんだろう?」 たとえ同じカードでも、マスターが違えば使役されるモンスターの性質も大きく異なっていた。ディヴァインにかしずいている青白い肌をした黒衣の魔法使いは、魂のないただの立体映像に過ぎない。気高さも凛々しさも、主人に勝利をもたらす鋼の決意も持ち合わせてはいない。 機械的な青い目が、このモンスターは義務的にとり行われるゲームの駒のひとつでしかないのだとレオンに告げている。ぜんまい仕掛けのブリキの玩具のような魔法使いの姿を見ていると、ひどく悲しい気持ちになった。 あのとき相対した遊戯の〈ブラック・マジシャン〉は、確かに主の信頼を背負ってフィールドに立っていた。そこに、きっと魂は宿っていたはずだ。 「誰もが望むデッキを、それにふさわしい決闘者が使うからこそぼくは憧れるんだ。きみはあの人を何もわかってない。決闘王はいつだって正々堂々と闘って勝ってきた。遊戯さんを侮辱すると許さないぞ」 「侮辱だって? 心外だな、褒めているんだよ。金と名誉のためにあそこまでやれる執念深さをね。しかし、なんだこれは。我々が子どもの頃とまるっきり同じ構成じゃないか。よくもこんな古臭いカードで闘えるな。宿っている力はすさまじいが、変化を諦め成長を止めた者に訪れるのは崩落だ。歳を取ったヒーローは必ずそうなる」 「きみだって子どもの頃はあの人に憧れていたじゃないか。信じられないよ。遊戯さんを悪く言うなんて」 「世界中の子どもたちに決闘が面白い娯楽だと教え込んでしまったのは、武藤遊戯の悪行だ。奴は決闘の現実を知った子どもの心が折れる音を聞いたことがないだろう。最初から日和見な誤解をしなければ、それなりの救いはあったんだ。決闘王は罪人だ。まやかしを吹いて回る詐欺師だ。あの男に盲目のきみには言ってもわからんだろうが、私は奴を嫌悪する」 ふたりの言葉はお互いの心にかすることさえなく、認識はいつまで経っても交わらない。 ならば――。 「力ずくっていうのは好きじゃないけど、ぼくはどんな手を使っても、必ずあの人のもとに大切なデッキを取り返すつもりだよ」 ――決闘だ。 レオンはデュエルディスクを起動し、グリム童話のヒロイン〈シンデレラ〉を喚んだ。彼女こそハッピーエンドの体現だ。主人公の娘たちが暗くて悲しい結末を迎える童話は嫌いだった。 彼女が華奢な足を振りかぶった。リアルな破砕音がして、跳ね上げた靴を額にぶつけられたディヴァインが苦痛の声を漏らした。透明なガラスの破片が舞い、優しい朝の光の中で赤っぽいきらめきを放っている。 〈シンデレラ〉の攻撃に成功だ。モンスター効果により、装備した〈ガラスの靴〉を敵に移し変えることができる。砕け散ったガラスがひとところに集まっていき、どろりと溶け合ったかと思うと、生き物のようにうねって〈ブラック・マジシャン〉の足に絡みついた。 〈ガラスの靴〉が恩恵をもたらすのは、所有者にふさわしいたった一人の女の子だけだ。不機嫌になった靴は〈ブラック・マジシャン〉の攻撃力を大きく削ぎ、加えて相手は〈シンデレラ〉を攻撃することができなくなる。 「ぼくはこれで、ターン・エンドだ」 先制は取ったものの、さすがに決闘王のデッキと対峙する重圧は半端なものではない。 しかし、プレイヤーは別人だ。盗んだ他人の力を振りかざすのは、自身のデッキを信頼できない偽物の決闘者がやることだ。もしもこの闘いに負ければ、レオンを真の決闘者だと認めてくれた遊戯に顔向けができない。 「私のターンだ。ドロー、速攻魔法〈サイクロン〉を発動する」 ディヴァインが掲げたカードから大渦が生まれ、〈ブラック・マジシャン〉を封じていた〈ガラスの靴〉が破壊されてしまった。拘束を解かれた魔法使いが、鋼の杖を〈シンデレラ〉に向ける。 「レオンハルトに攻撃しろ、時代遅れのおんぼろ魔法使い。――〈黒・魔・導〉!」 局地的な放電現象が〈シンデレラ〉を跡形もなく吹き飛ばし、レオンを打った。 ソリッドビジョンは幻影だ。日夜闘いに明け暮れる異世界の戦士たちの手練手管を、恐ろしいほどのなまなましさで映し出すが、現実の感触を伴うことなどありえない。 それなのに、しもべが破壊された瞬間にレオンを襲ったのは、暗い雲から落ちてきた雷光が本当に全身を貫く耐えがたい痛みだった。マスターのレオンが、墓地に送られた〈シンデレラ〉と死の体感を共有したとしか思えない。 プレイヤーとモンスターの命がリンクする。そんなことが、現実にあり得るのか。 「ああそうだ、最初に伝え忘れていた」 ディヴァインが、もったいぶった調子で言った。 「私には少々不思議な力が備わっているんだ。おまえが愛するデュエルモンスターズのカードを、現実のものにすることができる」 よく見ると、ディヴァインの額にはいくつもの小さな切り傷が生まれていた。最初の〈シンデレラ〉の攻撃で、〈ガラスの靴〉の投擲が本物の質量を伴っていたとしたら――ゲームの最後にライフポイントを失った側は、いったいどうなってしまうのだ? 「死さ。敗北した者は、もちろん命を失うんだ」 とても誇らしそうにディヴァインが腕を広げた。 耳をつんざく雷鳴は録音されたサウンド・エフェクトではない。流れる血はソリッドビジョンではない。これは本物の魔法の雷撃で、本当の痛みだ。 「これが決闘だ、レオンハルト。おまえが大好きな楽しい決闘だ」 「こんなのは決闘じゃない。全然楽しくない!」 「楽しい決闘なんてものがそれこそ欺瞞なのさ。決闘はただの殺し合いだ。戦争だ」 いまだになりきり遊びを続けている幼稚な友人に向ける侮蔑と、幼稚でいることが赦される境遇の人間へのある種の羨望と嫉妬と嫌悪を交えたまなざしでレオンを見つめていたディヴァインは、グリーンのカーペットの上に倒れているモクバを顎で示した。 「海馬モクバに何をしたのか教えてやる。デュエルモンスターズの力によって、そいつは私の忠実なしもべに生まれ変わったんだ。レオンハルト、おまえにもぜひ私の力になってもらいたい――世界征服の野望を叶えるために」 「は?」 レオンは呆気にとられてディヴァインを凝視した。彼は本気で言っているのだろうか。それともまた冗談を言って、からかっているのだろうか。 「いったいどうしてしまったの。そんな非現実的なことができっこないじゃないか」 「できるさ。彼女が教えてくれた。カンナと出会って私は目が覚めたんだ。彼女のたったひと言が、私を子どもから大人に成長させてくれたんだよ」 「カンナだって? うそだ。カンナはそんなこと言わない。ぼくと同じで遊戯さんが大好きな決闘者に、悪い人はいないよ」 「……おまえが知ったふうにあの娘を語るな!」 突然、不可視の手に突き飛ばされた。背中から叩きつけられた窓一枚を隔てて、はるか眼下に、再開発を待つ童実野町の余命幾ばくもない建物群が佇んでいる。 連続窓の表面に蜘蛛の巣のような罅が入り、屋外へ向かって弾けた。高空の風は冷たく、薄い雲が敷き詰められた朝の空が視界いっぱいに広がっている。割れた窓ガラスの破片が、宝石のように輝いている。レオンは海馬コーポレーション本社ビルの高層階から投げ出され、のっぺりとした灰色の地面に向かって残酷に落下していく。 ――ぼくは、死ぬのかな。 激しい未練が胸を焦がした。 ――もう一度あの人に会いたい。今度は真正面から挑みたい。 「……レオン!」 レオンはそのとき、この世界で最も憧れている男の声を聞いた。彼の姿を見た。子どもの頃に一度だけ相対した、鋭い剣のまなざしと苛烈な魂を間近に感じている。 「危ないところだったな。無事でよかった」 かつての決闘の結末に掛けられたものと同じトーンの、懐かしいいたわりの声が降ってきた。 ――あなたは、来てくれたんですか。またぼくを助けてくれたんですか……。 だが違った。『彼』ではない。レオンは短い白日夢から醒めた。筋肉質の片腕がレオンを軽々と抱きとめてくれている。銀色の光の巨人。 少女と見まごう美しい顔立ちが覗き込んできている。神月カンナ。顔立ちも仕草も年恰好も、憧れの人物に似たところは見当たらない。それなのにレオンには、カンナが一瞬本物の武藤遊戯その人に見えた。 「生身の〈ブラック・マジシャン〉を拝めるなんて。これが盗まれたデッキじゃなきゃ、きっとワクワクしただろうけど……」 魔術師は、誰からも忘れ去られた遺構の黄ばんだ石柱に変わり果てている。カンナは人間離れした身軽さで、割れたガラス窓の中へ飛び込んでいった。赤毛の青年へ向けた表情は諦観に翳っている。 「キミとはもしかしたら仲間になれるかもしれないって思ってた。ディヴァイン理事長。だけどモクバさんをこんな姿に変えて、オレの友だちのレオンを傷付けて、遊戯さんのカードを悪用するようなやつは赦さない。おまえをブッ倒して、そのブラック・マジシャン・デッキは何としても返してもらうぜ」 驚いたことに、彼もまたデュエルモンスターズのカードを実体化させる摩訶不思議な超能力者のようだ。整った横顔には熱くゆるぎない闘志と強者ゆえの優しさが宿っていた。 正しい心が大きな力を律しているその姿は、レオンに小気味のよい安堵と信頼を与えてくれる。健全な魂。 そんな正統派ヒーローの姿を前にしたディヴァインは、今まで鳥だと思っていた生き物が本当は毛の生えたとかげだったとでもいうような、認識の一角が脆く崩れていく絶望にも似た戸惑いを表わしていた。 「馬鹿な子どもだった私に世界征服の野望を囁きかけたきみが、なにを寝ぼけたことを言っているんだ? 神月カンナ。きみは私に特別な存在としてそうあるべき運命を示してくれた。あのときからいつでもきみの言葉を拠り所にし、共に進んできたんじゃないか」 「わけのわからないことを言ってごまかすのはやめろ。これ以上オレの憧れの人のデッキを穢させはしない」 「カンナ!」 ディヴァインが悲劇の登場人物のように胸に手を当て、心変わりをしてしまったかたくなな恋人役に切々と訴えかける悲壮さで叫んだ。 「忘れたとは言わせない。きみだけはわかってくれたはずじゃないか。力こそ正義だ。権力こそ信頼だ。選ばれし者にのみ授けられた大いなる力を弱者に振りかざす快楽を、あのとき私に教えてくれたじゃないか」 急にカンナは、昔書きなぐった幼稚な日記に唾を吐くような顔になり、情感たっぷりの茶番劇を無視してしもべに攻撃命令を下した。〈ネオス〉と〈ブラック・マジシャン〉の攻撃力は互角、相打ち覚悟の特攻だ。 カードをごく近しい友人として大切に扱う遊戯に憧れる神月カンナが、一緒に闘う仲間を使い捨てがきく道具のように扱うさまは意外だった。 しかし、それはレオンの思い違いらしかった。カンナは決してカードの価値を軽んじているわけではない。 攻撃宣言が現実の暴力となる異常な決闘において、プレイヤーとモンスターは痛覚を共用することになる。カンナは最大限の信頼を寄せる〈ネオス〉を、自らの肉体の一部として削ぎ取ったのだ。 二体のモンスターが砕け散った。おぞましい殺し合いゲームをするふたりに、平等な死の体感が訪れる。ディヴァインの上げたぞっとする苦悶の声が耳にこびりついて離れない。 カンナのほうは微動だにせず、再び〈ネオス〉を召喚した。自分自身の魂が削れていく現実に怯まない。 この男は痛みを感じないのか。レオンはカンナがすこしだけ怖くなった。 肉を持って蘇った〈ネオス〉が突き出した手刀が、赤毛に縁取られた色の白い眉間に触れそうな距離で、ぴたりと止まった。 「きみは痛みをかえりみない。素直に恐ろしいよ、カンナ」 ディヴァインが面を上げ、不敵なやせ我慢の笑みを浮かべた。 「きっと腕を取られても喉笛を噛みちぎる。脚を斬られてもどこまでも追ってくる……そんなかわいいなりをして、まるで百戦錬磨の古兵だ。まったく、やれやれ――きみ、いったいどれだけこの戦争に勝ってきたんだ」 ディヴァインは両手を突きだし、指の間にはさんだ〈ブラック・マジシャン〉のカードを今にも破り捨てようとしている。何もかもが自分の思い通りに進むのだと確信した顔だ。 「そのくせこんな骨董品にご執心ときた。まったく女というやつはわからん。さあ攻撃してこい、カンナ。できるものならね。そのときは、この紙くずみたいなモンスターを本物のごみに変えてやる――」 「そんなことをしてみろ」 カンナの声色が変わった。 人の喉から漏れ出したとは信じられないほどに機械的で、見渡す限りの凍てついた岩の荒野に吹き荒れる、悪意を運ぶ風を思わせた。 「あの人の大切なものを壊して悲しませるような存在を、オレがおめおめと生かしておくとでも思うか? そのこざかしい敵意も野望も心の闇も、すべて跡形もなく踏み砕いてやる」 ほんの一瞬の間に、彼は絶対の権力を持った無慈悲な王に変貌を遂げていた。愛嬌と快活さで人を和ませるブラウンの瞳はあらゆる感情とともに死に絶え、狂った野獣の金色の瞳が、人類が足を踏み入れたことのない呪われた大地に蔓延する異教の神聖さを帯びて、爛々と光っている。 この男は本当に、あの屈託のない憧れをレオンと共有していた神月カンナなのか。 「おまえは孤独のなかで戦う宿命を生まれ持った戦士だと期待していた。だが見込み違いだ。どうやらただの下衆な虫けらに過ぎなかったようだな」 底なしの黒い気迫は、瘴気とすら呼べるほどに澱んでいた。彼は人の心の中にある不安の種に水をやり、発芽した恐怖を急速に成長させ、全身の内側の隅々にまで絶望の根を張り巡らせて抵抗を奪ってしまう力を持っているのだ。 真正面から彼と向き合ってしまったディヴァインは、毛むくじゃらで丸太のように太い八本足を持つアトラナート蜘蛛の糸に絡め取られてしまっている。 神月カンナは人間ではない。ディヴァインと同類の、超能力を得た新人類でもない。レオンは気の合う友人への好感と信頼を越えたところで真実を理解した。人の想像の外側に生息する異生物だ。彼を表わす言葉があるとしたら――。 「――悪魔め」 ディヴァインがしゃがれ声を絞り出した。闇が彼に迫る。 「いいか、私におかしな真似をすれば、〈ブラック・マジシャン〉を破り捨てるぞ」 「そのときはおまえも同じ運命を辿ることになる」 抑揚のないカンナの声が、歴史年表を読み上げるような事務的な死の宣告を下した。 レオンはディヴァインの失策を悟った。彼はこの得体の知れない悪意の塊に歯向かうべきではなかった。不興を買うべきではなかった。ただ従順を強いられていればよかったのだ。 そうすれば、命だけは助かったかもしれない。 「……こ、この魔女を殺せ!」 轟音が鼓膜を殴りつけた。 冷えきった調度品のひとつと化していた海馬モクバがいつの間にか立ち上がり、まるで軽薄な玩具に見えるプラスチックフレームの小柄な拳銃を握っている。カンナが、砂袋が倒れるように床の上へくずれ落ちた。 彼が撃ったのだ。 ディヴァインはうつろに笑い、ぜんまいばねを連想させる癖毛をかきあげた。狼狽と恐慌の余韻に痙攣する膝で立ち上がり、じっとりと湿った恨めしさを込めて、カンナの赤い小さな穴が空いた胸を踏みつけた。 「モクバに持たせた弾は父が遺した特別製でね。意味は分かるだろう?」 カンナのチョコレート色の長いツーテールを手綱のように引きながら、ディヴァインが銀でコーティングされた九ミリ弾をひけらかした。人間らしい感情を失っていたカンナの顔に、怒りと後悔と慟哭を張り合わせた混沌とした悪意が浮かぶ。 「――それで、おまえの、親父は……あの娘たちを、捕らえたのか?」 カンナが言った。ディヴァインは地に這いつくばった死にかけの捕食者を見下し、優越感に浸っている。 「あの男の実験動物どものことを言っているのなら、どうやらそうらしいぜ。きみはあの銀の髪飾りを見たことがあるのか? そのおいしそうな髪の色にさぞ似合うだろう」 カンナは洞窟のようにぽっかりと開いた瞳で銃口を見上げ、モクバを凝視し、かすれ声で言った。 「モクバさん。目を覚ましてください」 温かい血が彼の肺を満たし、喉を逆流してきて、薄い唇を真っ赤に染め上げた。それでも金の瞳の力は揺るがない。 モクバに逡巡するところはなかった。再びトリガーを引く。オートマティックのイジェクションポートから空薬莢を弾き出し、次弾を装填。発砲。一度、二度、躊躇なくもう一度。 レオンはモクバに飛びつき、彼の耳元で静止を絶叫しながら床に押さえつけた。視線をスライドさせる。緑のカーペットが大量の血液を吸って、むらのある黒に染まっていた。動かなくなったカンナが横たわっている。 モクバがカンナを殺す。信じられない。良くない夢を見ているに違いない。 「いったいどうした、カンナ。ざまあないな。きみともあろう女が、ただの人間にやられ放題じゃないか」 ディヴァインはさも滑稽そうに笑っていた。どこかが壊れている。人にあるべき、ぬくもりを持ったなにかが欠け落ちてしまっている。 「なあ、きみはたしかに私の道しるべだった。自分自身の力のみを信じ、すべての他者を疑えと諭してくれた――それはきみだって例外なく疑えという意味だっただろう。だからこそ、神月カンナが私を裏切るという結末も勘定にいれておいたのさ。きみの負けだ、カンナ」 ひしゃげた窓枠をくぐり抜けて、筒状の金属が飛び込んできた。細身の缶ジュースにも見える。それは床にぶつかって破裂し、濃い白煙を撒き散らした。 りんの燃える臭い。発煙弾だ。映画で見たことがある。吹き込んでくる高空の強い風に乗って、あっという間に部屋中に充満する。 「くそ。何者だ!」 白いもやの向こうで、ディヴァインが毒づいている。 レオンは誰かに強く手を引っぱられた。男の固い手だ。つんのめったかと思うと、足元がぐらついて消失した。正体の分からない誰かは、レオンを道連れに高層ビルから飛び降りたのだ。正気じゃない。 風が雑な口笛を吹きながら耳朶を切り裂いていく。肝を冷やす浮遊感のあとで、一度大きく全身が跳ねた。気が付くと、コンクリート柱に撃ち込まれた金属の杭から鋼線でぶら下がっている。 レオンを宙吊りにしているのは、傭兵然とした無骨な男だ。オースチン・オブライエン、モクバに雇われた狂言誘拐犯だった。 「モクバ。カンナ!」 壊れた窓を見上げてレオンは叫んだ。血だるまで横たわる神月カンナ。影法師のように立ちつくした海馬モクバ。あのふたりをこのまま放ってはおけない。 「カンナは撃たれてるんだ、オブライエン。何度も何度も。ぐずぐずしてたらあの子が死んでしまうよ。モクバは人殺しになってしまう」 「このミッション、依頼主をひとりでも無事に救い出すのがオレの役割だ」 「昨日モクバに聞いたよ。きみはデュエル・アカデミアの卒業生でカンナとは仲間だったって。友だちなら……」 「今は無理だ、ミスター・シュレイダー。自分の心配をしていろ」 レオンがいくら食い下がっても、オブライエンが意志を曲げる気はなさそうだった。まるでぶあつい鉄板に向かって話し掛けているような気分になる。 鋼線が緩やかに降下し、レオンは自分の足で地面に降り立った。海馬コーポレーション本社ビルの正面口に、黒塗りの高級車が乗りつけている。運転席には海馬兄弟の側近の姿があった。 レオンの前に、昔よりもずっと背が高くてたくましい大人の男になった遊戯が立っている。 ――だめだよモクバ。もうおしまいだ。ぼくらがやったのは、この人が悲しむのを余計に大きくしただけだよ。 後ろめたさが肺を圧迫する。彼の清潔な光は真実を照らし出し、向かい合って嘘を貫ける者はいない。 レオンは疲弊しきった顔を上げた。本社ビル上階の、飴細工のようにねじれて吹き飛んだガラス窓の向こうに、勝ち誇ったまなざしの赤毛の青年が立っている。上空を覆っていた煙幕の雲が晴れたころには、その姿は幽霊のように掻き消えていた。 ![]() 〈「バース・オブ・アルカディア(8)」につづく〉 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() このコンテンツは二次創作物であり、版権元様とは一切関係がありません。無断転載・引用はご容赦下さい。 −「スクラップトリニティ」…〈arcen 〉安住裕吏 12.11.11→12.11.29− |
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