【 目次にもどる 】
1
遊星は待っていた。
眼下の、冷ややかな拒絶をたたえて閉ざされたままの扉を、時折盗み見ながら、はるか古い時代のロシア文学を読んでいた。ちょうど手のひらに収まるほどの薄い文庫本で、全体が日に焼かれて黄ばんでいる。樹木の上を飛び回る鳥たちが描かれた表紙カバーには、ところどころ破け跡があった。黴臭さが鼻をついたが、それほど気にはならなかった。それよりも、本物の紙でできたページをめくるという不思議な作業が、指に馴染んで好ましく思えた。
肝心の内容は、始まりから終わりまで一貫して、まだ幼さが残る青年が隣家の娘に執心する様が、若々しい誇張と感じやすさを孕んだ美しい文体で記されていた。気まぐれで奔放な年上の娘を女神のように崇拝する年少の男の苦悩。
物語の登場人物たちの振るまいは、あまりにもあけっぴろげで突飛であり、何もかもが失われた今を生きる遊星には、数百年前の満ち足りた時代様式の見当すらつかなかった。そのせいで、見知らぬ惑星系のスライド・ショーを眺めているようで、奇妙なイメージばかりが嵐のように膨らんでゆくのだった。
例の、空から落ちてきたごみ屑のひとつだった。
ルービックキューブや、旧型の携帯ゲーム機。取っ手のついた十字架――そして古い書物。お気に入りの玩具。その程度は、ここにいる誰もに赦される。それら所有物がもたらす娯楽性や機能は大して重要ではなかった。物そのものに宿る価値は概して薄っぺらだった。
ただ、西暦XXXX年にいついつのどこで製造されて発生。当時を生きた人間達の中で移り気な流行を起こし、多くの子供にとっての宝物となった――求められたのはそんな事実だ。
誰もが、今や歴史上から抹消された自分自身に、その輝かしい栄光に想いを馳せようとしたのだ。もしかすると、今は時空ごみに成り果てた哀しい玩具のもともとの所有者こそが、かつての『自分』だったかもしれない――各時代からこの機械仕掛けの古城に漂着したごみの群れは、そんなあやふやな夢想に浸るための恰好の材料だった。
レミングが啼いている。
午前七時四十分。昨日よりは二分早く、銀色の扉が開いた。
遊星は努めて無関心を装いながら、吹き抜けのホールへ目を落とした。特徴的なツートン・カラーの寝癖頭が見えた。様々な動物の乾いた骨を集めて組まれた墓標のような、洗いざらされた色のシルエットだった。遊星は馴染みの患者衣姿を認め、その時、自身の呼吸が止まっていることを意識した。静かに動揺する。身じろいだせいで、かすかな物音を立てた。
遊城十代は何も気が付いていないようだった。
レミングが、毛むくじゃらの前肢で細い鉄の檻を掴んでえさを催促している。十代がケージを横切りしなに、鉄棒の隙間にかじりかけの栄養タブレットを突っ込んだ。
ようやく啼き声は止んだ。
十代は、穴が空いたシャッターの残骸によりかかって、携帯ゲーム機の電源を入れた。化石のように古いものだから、うまく起動しない。二、三度試して、舌打ちをする。諦めずに何度も繰り返していると、数分掛けてようやくライトが灯った。
遊星は思った。機械弄りは得意だ。自分ならすぐにあの瀕死の携帯機を直してやれる。
簡単だ。ねじを外して故障した部分をピックアップし、くず鉄の山へ行って交換パーツを探せばいい。運が良ければ状態の良い正規品を掘り出せるかもしれない。別に互換用でも構わない。今よりましなものがきっと見つかるはずだ。
夢を見るように思い描いた。きっかけはどのタイミングがふさわしいだろうか。
たとえば、二人の数少ない接点のひとつとして、トレーニング・ルームはどうだ。たった一言切り出せばいい。『十代さん。貴方の壊れかけたゲーム機、俺、きっと直せると思いますよ』と。
十代は気を向けてくれるだろうか。それとも、嫌味を言われたと誤解して、機嫌を損ねるかもしれない。あるいは、なぜそんなことを知っているんだと、不信の表情で遊星に食って掛かってくるのかもしれない。
十代がわからない。だから遊星はこうして、幼稚な青年と気分屋の娘の交流をしたためた古い本をめくるのが好きだ。
結局のところ、虚弱体質の携帯機が持ち直したとしても、十代にとってはどうだっていいことなのだ。遊星は知っていた。あれは確かに十代の宝物だったが、彼は本当は、その宝物を見せびらかして遊戯の気を引きたいだけなのだから。
それでも十代は、それなりに真剣な表情で、パネル画面を睨み付けている。
彼はゲーム機の中にどんなソフトを入れているのだろう。ロールプレイング、格闘対戦、シミュレーション、パズル、デュエル・ゲーム。どんなジャンルがお気に召すのだろう。手持ちはそう多くないはずだ。
遊星は毎朝訪れるこの素晴らしい瞬間を心待ちにしていた。十代とふたりきりの空間で、飽きることなく彼の姿を眺めていることができた。十代の横顔の美しさ、色違いの不思議な双眸の宝石のような輝き、しなやかで自由に跳ねる二本の脚、繊細な指先、患者衣を控えめに押し上げる、右半身の胸の、膨らみ始めた初々しい乳房の気配。
それらはこの一日から切り取られたような特別な時間の中で、ほんの数十分の間に限って、遊星だけのものだ。最上の幸福だ。いまだに、かびかけた文庫本を軽く開いて膝の上に乗せてはいたが、文学の登場人物が抱く苦悩への共感も、干乾びた紙の手触りの心地良さも、どこかに消え失せていた。遊星の目はもう文字を追っていなかった。魂のすべては遊城十代の膝元へ惹きつけられていた。
十代に呼び掛けることさえできないもどかしさが、やがて遊星を妄想で蝕んでゆく。甘美なまぼろしの中で、遊星は十代と並んでくず鉄の山を漁っている。壊れかけたゲーム機器の代替パーツを探している。
『これ使えるかな?』と十代が言う。気持ちの良い声で、遊星への親愛に満ちている。遊星は、胸のあたりがむずむずして、奇妙に恥ずかしい気持ちになるが、顔には出さず、なにか気のきいた返事をする。何でもいい。差し出されたバックライトやアナログスティックについて、十代が子供のように目を輝かせて、感心を向けてくれることを言えばいい。
『遊星は物知りだな』
十代の長い指が遊星の腕に絡む。その、工作機械がどれほど精巧に削り出したとしても表現しえない柔らかな曲線を描く手を取って、心のままに賞賛する――十代はどんな反応を返してくれるだろうか。
言葉を尽くす必要はない。気障な言い方は苦手だ。ただ、とても美しいとだけ言えばいい。
十代は、はにかみながら首を傾けるだろうか。それともさも当然の褒め言葉を聴いたふうに、満足して微笑むだろうか。
そうであったら、どんなにいいか。
午前八時少し前、再び扉が開いた。
遊戯がやってきた。朝が弱い彼の瞼は重たげに半分垂れ下がっていて、狭い額についた枕の跡をしきりに擦っている。小動物めいた動作で、いかにも覇気がないふうにホールを見回した。まるい眼が十代を認めるなり、足取りが重くなった。
遊戯に、彼よりも長身で快活な十代に対して気遅れする様が見て取れた。もしかすると怯えてすらいたかもしれない。それでも遊戯は彼自身の性癖から――遊戯は幼児のような外見通り、いかにも子供が好みそうな玩具類に惜しみのない愛情を注ぐ性格だった――十代が持っている携帯ゲーム機が放つ魅力には抗えないようだった。羨ましそうに十代の手の先に目をやって、あのぱっとしない、さえない色の、彼の宝物のルービックキューブを劣等感とともに背中に貼り付けてうなだれた。
遊戯そっくりの、まるで双子のように生き写しのエジプト人少年が持っている黄金のパズルと比べると、余計に粗末に見える汚れた玩具を。
十代が立ち上がった。姿勢を正し、お辞儀をした。これほど丁寧なお辞儀を見たことがないというくらいに、ぱりっとしていて礼儀正しかった。
「おはようございます。遊戯さん」
「う、うん。おはよう……」
遊戯は狼狽した。すぐにでも逃げ出しそうだった。息を落ち着けて、ようやく平静になると、消え入りそうな声でもう一度「おはよう」と言った。十代が微笑んだ。
子供たちは、それぞれに与えられた運命にかかる役割以上の話はしない。それがこの城のルールだった。
遊戯は背中越しに十代を気にしながら、彼のペットのレミングの檻を開けた。まだら色の毛玉が飛び出してきて、壁から飛び出た幾本ものチューブの上へ二本足で立ち上がり、排泄用トレイに溜まった糞便の始末をしている遊戯の頭の上をせわしなく駆け回り始めた。
十代は、毎朝そうであるように、夢の続きを見るように恍惚として遊戯の後ろ頭を見つめている。ただ今朝は、少しだけ様子が違っていた。意を決した様子で肩を震わせ、遊戯に声を掛けたのだ。
「あの」
遊戯が振り向いた。彼はあきらかに十代を畏れていた。
「な、なに?」
「オレとゲームをしませんか?」
十代が、彼の宝物の旧型携帯機を掲げてみせた。緊張と興奮に頬がうっすらと赤く染まっていて、不自然に取り繕われた笑顔は強張っていた。華奢な両腕が、少しだけ震えていた。
遊戯と十代。ふたりは今日まで静かに距離を保っていた。距離――決められた間合いだ。お互いの存在の為に、とても重要な隔たりだ。
十代が歩み寄った。初めてのことだった。彼は焦れきってしまったのだ。
それぞれが違う種類の緊張を抱いて向き合う二人の姿に、遊星もまた意味のわからない焦燥を感じていた。デュエルで大きくライフを削られた時とも、トラップ・カードにまんまと騙されてしまった時とも違う、理由付けのうまくいかない漠然とした不安を覚えた。
遊戯が鉄の檻の扉を下げて、シャッターの穴から射し込んでくる死んだ光が眩しそうに、あどけない目を細めた。表情には期待と、誰かに話しかけられたことに対する驚きと、疑念、かすかな喜びと羞恥があった。その時、遊戯は確かに十代への興味を抱いていたのだ。
しかし好奇心は臆病に殺された。彼は注意深いレミングだった。十代から顔を背けた。
「ごめん。いろいろ用事があって、だから。ごめん」
遊戯は混乱していた。声が、慣れない嘘を乗せたせいで上ずっている。小さな身体が駆け出した。
「あ」
「ごめんね!」
遊戯が、振り切るように大きな声を出した。
十代は一度も引き止めなかった。遊戯の背中が消えた扉を見つめて佇んでいた。しばらくの間そうしていた。
かすかに微笑んで、レミングを見上げた。遊戯のペット。彼の愛すべき所有物。
「お前、いいなあ」
痩せ細っていて、出っ歯で毛並みの悪い小動物が、十代は心の底から羨ましそうだった。
彼が遊戯にレミングのようにされたがっていることが伝わってきた。しかし、それが滑稽な妄想であることを、十代はいじらしいまでに悟っているのだった。彼の献身的な一途さを覗き見るたびに、遊星の心の奥から崇拝の情が湧き起こってくる。
遊星はずっと十代の信奉者だった。この滅びた世界で、あの綺麗な人よりも希望や生命に溢れた存在はないと直感していた。
それでも遊星は、遊戯が未来永劫十代から逃げ去って欲しいと考えてしまうのだ。遊戯に受け入れられた時に、おそらく十代が浮かべるだろう表情を――頬に鮮やかな朱色がさして、不思議な瞳を柔らかく細め、喜びに溢れた笑顔を――見たくないと思った。遊星は十代の不運を願う自分を恥じたが、やはりあの奔放な人がレミングのように遊戯の檻へ囚われてしまうのは嫌だった。
午前八時十五分。耳鳴りじみたD・ホイールの駆動音と共に、青い逆毛の男が現れる。
「おはよう。遊星。調子はどう?」
赤いサングラス越しの彼の表情は見えないが、柔らかい声にはいたわりと優しさがあった。親愛を感じさせる仕草で遊星の肩を叩いた。全身にぴったりと張り付いた濃紫のライディングスーツが、擦れて音を立てた。アンチノミー。育ての親だ。
ホールを見下ろした。十代の姿はもうなかった。
十代は明日もここへやって来るだろう。釣り人は岩礁に尻を落ちつけて、餌を垂らし、目当ての魚を待ち続けるだろう。彼は決して諦めない。いや、魚を釣り上げることは、彼にとってはそう重要なことではないのかもしれない。孤独な釣り人は、ただ大きな魚を思い描いて、空想の中で戯れるためにそうしているのかもしれない。
『正史を生きた遊城十代』は魚釣りが好きだった。デュエル・アカデミアに在籍していた。学力は絶望的だったが、デュエルの腕前は初代決闘王に並ぶほどずば抜けていた。偏食は特になく、エビフライが好物だった。明るい性格で同時代の人々に愛されていた。多くの人間に夢と希望を与えたヒーローであり、多くの人間を絶望で包み込んで殺戮した悪魔だった。
そんなふうに遊星は遊城十代という人を知っている。文字と数列で記録された、失われた歴史書のひとつに登場する偉人として。
遊星と同じように過去を洗い流され、生きるべきだった時代との繋がりを絶たれて、まっさらになった今の十代のことは何も分からない。
あの人の存在は遊星をおかしくする。十代は遊星に、熱病に冒されたかのような奇妙な振るまいをさせる。
2
「少し散歩でもしないか」
アンチノミーが言った。
アーククレイドル、どこともしれない時空を漂い続ける巨大な廃墟。歴史の終着点だ。遊星の数少ない顔見知りは、こぞってこのくず鉄の山を神の居城と言い表したが、皮肉や自嘲からきた呼称であるように思えてならなかった。人類の墓所にふさわしい、暗く湿った長い回廊を歩くのは、気晴らしにはなりそうもなかった。それでもアンチノミーのそばに立つと、不思議に気分が良かった。熱と銃弾でいびつにひしゃげてなおメロディを奏でるオルゴールを前にした時のように、懐かしくて物寂しい気持ちになる。それは彼独特の接し方に由来するものだ。物心ついたころから、アンチノミーは遊星を古い昔馴染みのように扱った。遊星は彼が好きだった。
「またあの子を見てたのか」
アンチノミーが、遊星と二人きりの時だけの、ゆっくりした口調で言う。
「本を読んでいたんだ」
「嘘が下手だね」
「嘘じゃない」
繰り返した。嘘じゃない。自分がとても単純な装置になった気がした。アンチノミーが笑う。遊星を馬鹿にする嫌な笑い方ではない。彼はどんな時でも、遊星に敬意を払って接してくれる。
「君は他人を騙せる嘘吐きにはなれないよ。憧れの遊城十代にはなれない」
「あの人は、嘘吐きなんかじゃない」
むきになっていることに気が付いて、耳が熱くなった。アンチノミーは、父親のように、兄弟のように、遊星を見下ろしている。
「君は遊城十代に強い興味を抱いている。好意からのものではあるけれど、そうそう単純じゃない。罪悪感だ。わけは思い当たらないけど。それに、劣等感を覚えているんだね」
螺旋回廊は続いた。どこへも逃げられない一本道だ。胸が潰れるような圧迫感には、いつまで経っても慣れなかった。閉塞していて、空気が澱んでいる。アンチノミーは遊星の肩を抱いて、慰めるように言った。
「気に病むことはない。彼と君は違う」
「誰だって、誰とも違っている」
「そんなアフォリズムめいた意味じゃない。十代は、君とは……いや、君だけじゃないな。君達とは強さの定義が根源から違っている。君たち『ゾーンミニオン』の、おそらくたったひとりの成功例なんだ」
『ゾーンミニオン』。ゾーン、あの人類最後の男が滅びを食い止めるために過去の世界へ介入し、生まれて間もない英雄たちを攫い集めた、彼の寵児たち。修正を受ける以前の時代で、多くの人々を導いた偉人たち。
「統計的には、遊星、君はあるべき時代の君よりもずっと強いはずだった。ゾーンは収集した英雄の幼体に、各時代で各々が最期に遺したデッキを与えた。君たちは生まれた時から最強のデッキを持ち、このアーククレイドルの中で、あるべき時代よりも更なる進化を遂げるはずだったんだ。だけど君は勝てない。あるがままの時間を生きた不動遊星の思考プログラムに敗北し続けている。君自身のまぼろしを、ただの一度も超えることができないんだ。――なぜだと思う? 君がデッキをもっとうまく使いこなせるようになればいいんだろうか。ボクは違うと思う。君がもし完全に君のデッキを支配するほどに成長したとしても、少なくとも正史を生きた君に、今の君は絶対に勝てない。わかるんだ。独りきりで闘うという条件下では、君は、初代決闘王と同様に――決して強くはないんだ」
「アンチノミー。まるで俺たちが、誰かそばで助けてくれる人がいなければ何もできないみたいな言い方をするんだな」
「たとえば、そういう考えも問題だ」
「よくないか?」
「たぶんね。ボクの知っている君は常に絆に感謝していた。仲間を自分の命よりも大切にしていたんだ」
「俺にはわからないよ、アンチノミー」
遊星がトレーニング・ルームで相対した在りし日の不動遊星のまぼろしは、破滅の未来で完璧なデッキを持つ現在の遊星よりも、いくらか筋肉質で日焼けしており、破綻だらけのデュエルをした。一見弱小カードで構成されているデッキが、隙だらけのプレイングが、すべてが恐ろしいほどに美しい調和を生み出していた。デュエルを始めてそうターンを重ねないうちに、遊星はその消去された自分自身の圧倒的なタクティクスの前にひれ伏すことになり、ゾーンを失望させることを繰り返していた。遊戯も、あのアテムでさえ、自分自身の幻影から一度も星を奪うことができていない。
遊星はただひとりの例外を思い浮かべる。あの美しい人、赤い服を着たかつての自分自身を打ち据え、踏み砕き、勝利をもぎ取った十代の姿は、遊星に怖気を感じさせると同時に、ある種の恍惚と畏敬の念を植え付けた。
「アンチノミー。なぜ十代さ――遊城十代は、彼だけがどうして、過去の自分自身を越えてゆくことができるんだろう」
「あの子はきっと、遊星、何もかもそぎ落とされた君たちとは正反対なんだ。かつての彼はそういう種類の人間だったんだよ。一人で何でもできる。いつも一人で闘っていた」
「寂しい人だったんだろうか」
「どうなんだろう。ボクは当時の本人とは面識がない。知っているのはただの記録だ。だから彼がどう感じていたのかは、よくわからないよ」
螺旋回廊の終わりが近付いてきた。初めは点のようだった白い光が爆発的に膨れ上がり、薄暗がりに慣れた遊星の目を刺した。眼球の奥まで冷たい痺れが浸透し、短く痛んだ。眩しすぎる。
広い空間に出た。モーメントの虹色の輝きの中で、無数のラインがそれぞれの役割に従って絡まりあっていた。遊星ギアは問題なく稼働している。
「もとの時代が懐かしいか、遊星」
アンチノミーが、急にそんなことを言い出した。
「知らないものを懐かしむことなんてないさ。どうして訊くんだ」
「ボクは複雑な気分なんだ。ただ、ゾーンはいつも君の顔を見たがっている。不動遊星の顔が、彼には特別な意味を持った慰めなんだ」
遊星は無意識に頬を撫でた。毎朝鏡の中に映り込む不動遊星の顔を思う。誰にも言ったことはないが、時折、得体の知れない怪物のように、自分の顔をしたなにかが鏡を抜け出してくる妄想に囚われる。そいつは、鋭い牙が生えた顎を大きく開けて襲いかかってくるのだ。
遊星の端末が表示する遊城十代についての情報は、ごく客観的なものだった。デュエル・アカデミア卒業生。ヒーロー・デッキ使い。精霊の力を操る類稀なデュエリスト。もうそらで言えるテキストの隣で、赤い服を着た十代のポートレートがよそ行きの顔をして遊星を見返してきている。
彼流の感じ方、たとえば身近な人間への挨拶のやり方ひとつにとってもそうだし、異様な体質の由来や謎めいた末路に関して――そんな十代という存在の深奥へ到達できるような記録はなかった。十代にまつわるアンチノミーの仮説は、遊星が抱く遊城十代への強い好奇心を更に加速させた。
――中枢コンピュータへの侵入が城主に知れたらまずいか?
いや、どうせゾーンは気が付いている。このアーククレイドルはあの男の肉体そのものだ。端末へのアクセスは、彼の脳味噌に手を突っ込む行為に他ならない。
構わない、あとでどうなったって知ったことか――都市の残骸に埋もれ、滅びの日を生き延びた街頭端末のひとつをもてあそびながら、遊星は投げやりに考えた。どん詰まりへ行き着いてしまった者が先の心配をするほど滑稽なことはない。脳裏に、生真面目な顔をして腕を組んだアンチノミーの姿が浮かんだ。彼はまた軽く肩を竦めて遊星を小突き、不動遊星という人には信じられないほどの軽率だと呆れるに違いない。
「そこで何をしている、不動遊星」
背後から鋭い声がした。遊星は反射的に振り向き、端末が宙空へ投影した像を後ろ手で消去した。いつの間に現れたのだろうか。残酷なにやにや笑いを浮かべた男が立っている。
彼の容姿は武藤遊戯にそっくりだが、褐色の肌と敵意をあらわにした目つきが、幼いりすの子のように無害な遊戯とは真逆の性質を示していた。
「おい、何してる、遊星」
アテムがゆっくりした口調で繰り返した。機嫌は良さそうだったが、背中に嫌な汗が噴き出す種類の威圧感を覚える。
「口がないのか。それともビビってるのか?」
「いえ……何でも」
「どけよ。何を見てたんだ」
アテムは遊星の代わりに錆びかけた端末の前へ陣取って、気だるそうな手つきで弄り始めた。映写が現れる。雑然とした街並みが浮かび上がった。シンクロという滅びの予兆すらまだ訪れていない、何百年も昔の、かつて童実野町と呼ばれていた頃のアーククレイドルの風景だ。
『Sin
World』が発動した。パラドックスが使う、例のSinシリーズのひとり舞台だ。街全体がフィールド魔法の効果を受けている。コンクリート建造物群が、まるで星空を映し返す鏡にでも変化してしまったように妖しく輝き、ぬめぬめとした不気味な光を放っていた。
時計台前の広場に、パラドックスと、彼に向かい合う三人の決闘者の姿が見えた。三人ともが良く知った顔だった。不動遊星自身。武藤遊戯。そして遊城十代。彼らはそれぞれ歴史に出現したポイントがまったくずれているにも関わらず、協調してパラドックスと闘う様子を見せた。遊星は首を傾げた。理由が思い当たらない。戦局は遊星たちの圧倒的不利に見えた。
「お前も過去の自分が歩んだ歴史に興味がある。遊星、違うか?」
アテムが言った。遊星は押し黙ったままでいたが、彼は構わなかった。どうだって良いふうで、片目を細めた。皮肉を言って嘲るような、邪悪そのものの表情だ。
「オレ達は――今のオレ自身にはどうも他人事のように思えるんだが――過去を改竄しようとやってきたパラドックスに立ち向かい、勝利した。神は、あのかたつむり野郎は、骨董品みたいなデッキでSinシリーズを打ち破った決闘王たちのデュエリスト・センスを望んだ。結果オレ達はそれぞれの時代から、時空を超えて未来を救うためにこの城へ連れ去られてきた。正史じゃオレは古代エジプト王朝の王だったという。ピラミッドやスフィンクスを乱立させ、紙でできたカードの替わりに大げさな石版を使う、何もかもが馬鹿にでかかった頃のことだ。モーメントもシンクロもない、見渡す限りの砂漠を精霊や原住民たちが跋扈する異世界だ――オレが王として治めていたその国は、民はどうなった。オレを失った時代はどうなった。当然だ、オレを失ったまま時の流れに呑みこまれていったんだ。正史通りに? 何も変わらず? 王ひとり変わったくらいじゃ歴史はどこもぶれなかったのか――本当になにも変わらなかったとしたら、過去にも今にも、オレの存在に意味はあるのか? なあ、お前もその蟹頭で考えたことはあるか、優等生」
アテムが独裁者の演説めいた尊大さで言い放った。彼は確かに生まれながらの王なのだと遊星は知った。誰もがこの男に気圧される。魅せられて動けず、口もきけなくなる。ただアテムは、少し喋り疲れた様子でしゃがみこんだ。
「オレ達はこんな鉄くずの山でじっとしていていいのかってことさ。歴史の中にオレの証はどこにもない。今のオレは誰でもない。ここにいる奴らみんなそうだ。……こんなことしてちゃいけないんだ。だめだ。オレもあいつも」
「いつも貴方と一緒にいる、遊戯さんのことですね」
「あいつにはオレがいなくちゃだめだ。弱いし脆いし、ちびで臆病だ。正史のあいつは知らないが、今はともかく護ってやらなければいけない。オレ以外には無理なんだ。なあ遊星。お前は笑うかもしれないが、オレはあいつのことをオレ自身のように感じる時がある。兄弟のようにってわけじゃない、オレそのものにさ。姿かたちが似ているせいかと考えたことはあるが、どうやら理由はそれだけじゃないらしい。お前は自分以外の者に対して、そんなふうに感じることがあるか」
「……おそらく、似たようなことは」
「へえ、意外だな」
「はい。でも、まだよくわかりません」
遊星は十代を想った。彼は遊星よりも強い。庇護は必要ないが、空想することがあった。もしも闘いの中で十代を庇って勇敢に死ぬことができたなら、彼の腕の中で彼に看取られ、最期に美しい手に口付ける優しさを与えられたなら。そんな夢を何度か見たことがある。実現はしそうになかった。すでに戦争も敵もただの玩具箱になり果てている。
「今まで、オレの中にこの想いをあらわす言葉はなかった。だがゾーンがかつて棄て去ったという『絆』って言葉が、少し近いような気はする。とても大切なものだ。なあ、もしかしたらさ、優等生。オレたちは元々の時代で、そういうものを持っていたんじゃないか。今のオレたちが信じている自分の身ひとつじゃなく……もっと多くのものを。それがあの過去の幻影のオレ自身に力を与えていたんじゃないか。そう思うことがあるぜ。この世界は何も示しちゃくれない。先はない。勝ち取るものも負けて失うものも平等にない。鉄くずと荒れ果てた墓石だけだ。さて、まったく、つまらない話をしたもんだぜ。あとで会おう、遊星」
アテムが悠々とした足取りで遊星から離れていく。赤茶けた時空の風が頭上で唸っている。渦のかたちは、あまり良い兆候ではなかった。ふと聞きそびれていたことを思い出して、遊星は去り際の背中に尋ねた。
「貴方は平気なんですか」
「何だ?」
「俺と接触することで、貴方が不愉快な立場に追いやられる可能性があると、考えはしなかったんですか」
アテムは遊星を鼻で笑った。遊星も、確かにばかなことを言ったのだと自覚した。アテムが他人に気おくれしたり、後ろめたさを感じることはまずありえない。彼は王だからだ。臆病な遊戯とは正反対だ。不思議なことに、それでも生き写しの二人だった。
かつての不動遊星にあって、今の不動遊星が時の狭間に落っことしてきたもの――すなわち忘れ去られた絆こそが、失われた力の在り処なのだろうと、遊星は理解し始めていた。おそらくアテムもまた、絆の先にある名前のない想いに支えられていた。
十代はどうだ? いつもひとりで闘っていたという彼は、孤独についてどう受け止めていたのだろうか。四人の決闘王の中にあって、十代はどこか異質だった。彼だけは絆の力を必要としなかったのか。
十代に聞きたいことが沢山あった。彼を知りたいと強く願った。遊星は、十代と視線を交わすことすらできない事実が、狂おしいほどにもどかしくてたまらない。
触れることさえできない人だと思っていた。しかし、機会は思ったよりも早く巡ってきた。
3
くず鉄の山に登り、崩壊を受け入れて原形すら失くした瓦礫の塊を漁っていると、遊星の心には不思議な平穏が訪れた。必要とする者が誰もいなくなったごみに同情と共感を覚えたのか、それともそれらを拾い上げて新しい役割を与えてやる行為を気に入っていたのか、理由は解らないが、まれに生きていた頃の世界のにおいを留めた遺物が見つかると、在りし日の人類の足跡を原始的な手触りで感じ取ることができた。
それはうまく言葉にならないが、強く遊星の胸を打つ。人類の歴史が確かに存在したのだと教えてくれる。まぼろしではなく、この死んだ都市の上で気が遠くなる程の年月の間、人々は人々としての営みを繰り返してきたのだ。消えた海面に腕を差し伸べるような恰好でぶら下がった橋梁や、ビル群のなれの果ての残骸、芋虫の死骸めいたスクラップのモノレール、そんながらくたの横を通り過ぎながら、遊星は何度も何度も人類の足跡を確認してきた。それが、今は義務のようにさえ感じている。
繁華街跡の拾い物は、一抱え程の大きさの紙箱ひとつきりだった。パッケージが擦り切れているが、かろうじて印字は読めた――『二百五十種類のモンスターを、五十種類以上の惑星ガーナスター・フィールドで闘わせよう! 特製フィールド盤付き。オリジナルモンスター封入。カプセル・モンスター・チェス・スペシャルボックス』。
安っぽいゲーム盤と色とりどりの星付き卵がルールブックと一緒に入っていた。古ぼけていたが手垢もなく、使用された形跡が少ない。経過した年月を思えば、状態は奇跡的に保たれている。骨董品屋か、裕福な好事家が遺したコレクションだろうと推測できる。それとも、まだぴかぴかのうちに何らかの理由で物置に投げ込まれ、やがて持ち主に忘れ去られてしまったのかもしれない。遊び相手がいない遊星には何の意味もない玩具だが、あのゼロ・リバース以前の時代に造られた娯楽品によくあるように、単純明快な無邪気さが宿っていた。西暦二千年前後の時代のにおいがした。決闘王武藤遊戯の神話が生まれた頃だ。そして彼の伝説を追い駆けるように、ジェネレーション・ネクスト世代と呼ばれる類稀な決闘者たちが次々と歴史に現れた頃だ。世界が終わる日の訪れをまだ誰も信じていなかった、古き良き栄光の時代。
ゲーム盤の罅はふさいでやれば目立たないし、色あせたモンスター・フィギュアは上から新しい塗料を乗せ直してやればいい。塗料くらいならどこにでも残っているはずだ。
長細い影が差した。ガラス戸を叩く音がする。
「な、キミ」
「あとにしてくれ。少し考え事をしているんだ」
話し掛けてきた誰かは、遊星の言葉をおとなしく聞き入れてくれた。頭の後ろで腕を組んで、黙って覗き込んできている。
問題は保存状態の良い塗料を見つけることだ。乾ききって石のように硬くなってしまっていたら意味がない。デュエル・アカデミア跡地はどうだ。あそこなら瓦礫をいくらか退かしてやれば、質の高い工作用塗料が見つかるかもしれない。
「なんかいい考えは浮かんだのか?」
声の主は、もう沈黙に耐えきれなくなったようだ。あまり堪え性はないらしかった。遊星はふと顔を上げた。猫のようにまるく見開かれている色違いの瞳と目が合った。
遊城十代。フィックス窓の外から、膝に頬杖をつき、ガラス越しに部屋の中の遊星を覗いている。十代の注目を理解した途端に、遊星の呼吸は止まった。思考が硬直する。まさか、ありえない。遊星は口を開けたり閉じたりしながら、胸の中は嵐の森の上へ差しかかった燕の群れのようにざわついていた。十代がここにいる理由が分からない。遊星を見ているなんてありえない。
「しぃ。静かにしろって」
十代が、細くて美しい指を自分の唇に当てた。彼の手はやはり柔らかなビロードのように美しく、何より繊細そうだった。呼吸のたびに薄い胸がかすかに上下する様に見入らずにはいられなかった。
「ゾーンにばれたら面倒だろ。あのさキミ、遊星」
「あ、名前……」
「そりゃ知ってるよ。オレ達は四人しかいないんだから。キミのこと見てたんだ」
「俺を、俺のことを、貴方がですか?」
「いいもの持ってたからさ。またごみ山へ行ってたんだろ」
遊星が与えられた部屋は、研究者向けに用意されたもう誰もいない居住区画にある。遠く遊星ギアを臨むハニカム構造で、蜜蜂たちが煙で燻し出されたあとの空っぽな蜂の巣を連想させた。南側にある十代の部屋とは隣り合わせの間取りになる。窓の外はすぐに直下へ落ち込んでおり、足を踏み外せば、二通りの未来しか選ぶことはできない。はるか下方で張り出した建材に激突するか、城の外へ放り出されて時空の渦に呑み込まれていくかだ。おそらく十代は精霊の力を借りているのだろうが、危険なことに変わりはない。
「うん、やっぱりだ。間違いない」
十代は遊星の腕の中の玩具を熱心に見つめながら、彼にしかわからない納得をして頷いている。
「そのカプセル・モンスター・チェスはふたりでやるゲームだ。キミが持っててもオレが持ってても意味はない。意味ないけど、でもオレにはすっごく必要なんだよ。たぶん」
十代が、彼の宝物の携帯ゲーム機を差し出した。裏面にマジックで名前が殴り書きされている。
「オレのこいつが、替わりにはならないか?」
「譲って欲しいということですか。そ、そんなのは」
遊星は尻を地べたについたまま、後ずさって首を振った。喉から漏れた声は、自分でもみじめになるくらいに上ずっていた。十代は遊星が古ぼけたゲーム盤を手放すことを渋るとでも思ったのだろうか。遊城十代が望むのなら、遊星はなんだって差し出すつもりだ。見返りや代替品を求めず、心臓でさえそうするつもりだ。
だが、今の遊星には空気を呑み込むのが精一杯だった。十代に捧げても構わないと思った心臓がうるさく脈打っている。十代はアテムとは別の方法で、遊星をかかしのように沈黙させる。
十代は石になったような遊星のだんまりを、新しく手に入れたお気に入りの玩具を惜しんでのものだと取ったようだ。顎の横の髪を指でくるくると巻きながら、何か思案している。やがて彼なりの良い思いつきが生まれたと見えて、片方の手を腰に当てて宝石めいた瞳を輝かせた。少女のように無邪気な仕草が、遊星の胸を甘く疼かせる。
「あぁ、キミはきっともっといいのを沢山持ってんだろな。優等生。ゾーンのお気に入りだもん、欲しいものは何でも手に入る。ならオレは何かキミが気に入るようなことをやる。どうだ? そうだな、こんなのはどうかな」
そう言うなり十代は、患者衣の前を薄い胸の膨らみがあらわになるところまではだけてみせた。放心して口を開けている遊星に、歯を見せて目を細めた。
「女の胸だぜ。見たことある? この城には男だけだ。オレも半分はそうだけど、もう半分はきっとキミが知らない女って生き物なんだ。なぁ優等生、もっと見てみたいと思わないか? キミがオレの頼みを聞いてくれるなら……」
「ご自分をもっと大切にしてください」
遊星は十代から目を逸らして、がちがちに硬くなった声で言った。十代は、うまく嵌らないパズルを前にした時のように、もどかしそうに肩を竦めた。
「怒ったのか? ごみの中にも価値を見つけるキミだから……こんなのも面白がってくれるんじゃないかと思ったんだけど」
「貴方はごみじゃない」
「冗談だってば。悪かったって」
「悪趣味過ぎる」
「優等生。キミがすっごく真面目だってのはわかった」
「からかわないで下さい。貴方はいつも誰かにそういうふうにしているんですか。本気でもふざけているのでも、そんな、女を振りかざすみたいに」
「誰かって、ほかの二人にか? 冗談だろ。あの人たちには……たとえ差し出しても受け取ってはもらえないさ。今のキミみたいに、遊星」
十代が柔らかく笑った。遊星はすぐに彼が嘘の顔を貼り付けているのだと気が付いた。アンチノミーが十代を嘘吐き呼ばわりしたのは、間違いでも卑しめるためでもなく、事実を語っただけだ。遊星が十代に抱いたまぼろしは十代本人に汚され、踏み躙られていく――それでも遊星の中で遊城十代への敬意は覆らなかった。
確かに、十代はとんでもなく硬い殻の奥に誰も踏み込ませない領域を持っていて、そこから遊星をじっと見つめている。人懐っこい表情を擬態し、今も冷静に値踏みを続けている。向き合うと、冷たい手で頬を撫でられるような心地だ。嘘を吐く口唇の柔らかさは悪魔的な魅力を秘めていて、以前にも増して強く遊星の心を絡め取ってゆく。
遊星は玩具の紙箱の表面を撫でて、努めて平静な表情を作り、十代に頷いてみせた。軽蔑されたくなかったのだ。
「じゃあオレとゲームを。勝ったら貴方のものだ。遊城十代さん」
「そういうの、嫌いじゃないぜ」
「でも壊れているんです。修理しようと思って。綺麗になったら、また会えますか」
「うん」
「次はこんな危ない真似はしないで下さい」
「うん」
十代が上の空で頷いた。熱っぽい眼差しを紙箱に注ぎ、そこで初めて興味を覚えたふうに遊星の目を見た。こんな顔の造りをしていたのか、という表情を浮かべている。
「不動遊星。キミってボーソーゾクだったんだろ。なんちゃらファクションって……」
「チーム・サティスファクション。デュエル・ギャングです。……たしか。俺にもよくわかりません」
「そうそれ。怖そうなやつなのかなぁって思ってたけど、案外親切なんだな。話も分かるし。そうだ、耳貸して」
遊星は十代に言われるまま、指で招かれるとおりに、窓に耳を付けた。
「こうですか?」
十代はガラス越しに遊星の耳へ口唇を近付け、濡れた音を立てて冷たい表面を吸った。遊星は半ば呆けて、夢を見ているような心地だった。顔を上げる。十代は器用に片目を瞑って、指を揃えて突き出す仕草をした。
「女に興味ないわけじゃないだろ? お礼だよ。ありがと、ゆーくん」
そう言い置いて、無造作に窓を蹴って飛び降りた。ぞっとしてガラス戸に手をつくと、十代の姿はもうどこにもない。闇に溶けて消えてしまった。これが十代に宿った精霊の力なのだろうか。
遊星は窓にのしかかる恰好で、膝立ちになった。心臓の音が鳴り止まない。両手で耳を塞いで座り込み、顔を膝に埋めた。喉の奥で唸った。唸り声は頭蓋の内側で、墓地から蘇った死人の苦しげな慟哭のようにも、押し殺した笑い声のようにも響いた。
遊城十代。口の中で魔法のように何度も呟いた。遊城十代、遊城十代、遊城十代。彼と繋がることなどないと思っていたのに、あの色違いの目が遊星を見た。遊星のための言葉が形の良い口唇から紡がれた。それだけじゃない、たとえ嘘の顔でも彼は笑ったのだ。愛らしい音を立ててガラス越しにキスをさえした!
遊星は飛び跳ねるように起き上がった。空の荷袋と端末を掴んで部屋を飛び出した。もうじっとしてはいられなかった。急いでゲーム盤の傷を埋め、ぴかぴかで上等のジオラマに仕上げなければならない。人形たちの色を丁寧に塗り直し、玩具の怪獣に生命の息吹を吹き込むのだ。十代を失望させないように、彼が感嘆の溜息を零すほどに!
4
結果的にゲーム盤が十代の所有物になることはなかった。遊星の手によって修理された『カプセル・モンスター・チェス』は間もなく十代の手を離れ、武藤遊戯のもとへ移ったからだ。最初から、十代はそのつもりだった――これはふたりでやるゲームなのだ。遊星が持っていても意味はないし、十代にもない。
カプセルトイが流行した当時高校生だったとされる遊戯には、確かにうってつけの餌だった。遊星が仕上げた重厚なフィールド盤はアテムを感心させ、鮮やかな色に塗り替えられたモンスターたちは遊戯の心から十代への怯えを取り除き、彼らを単純に喜ばせた。釣り人は今度こそ狙った魚を引き揚げたのだ。皮肉にも遊星は、十代を遊戯とアテムに引き合わせる手引きをしたことになる。
遊戯とアテムが談笑しながら、フィールド盤の上でカプモン・フィギュアを進めている姿を、十代はいつも賑やかしながら、ただし彼なりに取り決めた線引きを侵すことはなかった。十代には、すでにアテムと遊戯のふたりだけで完成された特別な空間に招かれ、かの伝説の初代決闘王の観客でいる権利が与えられた。よく訓練された番犬のようにふたりのそばにつき、時折遊戯が歓声を上げ、アテムがモンスターを指で示して得意げに片目を瞑ると、満ち足りた幸福感で鼻をむずむずさせる。
十代が遊星に見せた蠱惑的な微笑も、自分自身の魅力を正しく理解した者特有の物怖じのなさも、アテムと遊戯の前では消え去ってしまった。傲慢で嘘吐きの遊城十代はどこにもいなかった。今の十代はただの引っ込み思案で内気な少女であり、また憧れの相手に熱いまなざしを注ぎながらも気の利いた言葉ひとつ掛けられず、うまい立ち回りもろくすっぽできない、遊星と同類の不器用な男のようだった。どちらが本当の十代なのか、遊星は訝った。ふたりでひとりの初代決闘王をひたむきに眺めている時の悦に入ったような十代の表情は、彼の中に遊星の居場所がどこにもないことを思い知らせた。
それでも遊星は、早朝のホールでレミングの世話をする遊戯と十代の交流を前にして覚えていた焦燥を、今は感じなかった。遊戯とアテムはふたりきりで完結していた。十代の一途さが報われる結末は決してないことを、遊星は、そして十代自身もおそらく理解していた。十代はその不思議な光り方をする両眼に、切ないまでの喜びと同時に、たとえようもない哀愁を浮かべていた。
モンスター・チェスの対戦が終わると、遊戯は以前よりも屈託のなくなった笑顔を浮かべて十代に一度頭を下げた。アテムが遊戯の背中を叩き、十代へ振り向いて、王が自国の民衆へ向けるいたわりのまなざしをやった。ホールを出ていく二人に、十代は滑稽なほどに綺麗な敬礼を送る。十代にはそれだけが見返りで、それだけで満足のようだった。
寒々としたホールにひとりで残った十代は、遊戯のレミングに一言二言話しかけ、そこでようやく足を投げ出し、携帯ゲーム機を使って時間を過ごす。彼はひとり遊びが身に染みついている。あの携帯機は遊戯の興味を向けることはできなくても、どうやらちょっとした暇潰しに重宝しているようだ。
遊星は点きが悪い電源ボタンのことをすっかり忘れていた。機械の修理をしてやれることを、今からでも切り出してみるべきだろうか。
しかし穏やかな幸福に浸っているツートン・カラーの頭を見下ろすことしかできない今は――十代はただ遊戯たちにちょっと話し掛けてもらえればそれで満足なのだ――虚しいものを感じていた。
かさついた孤独が遊星の肩に重くのしかかってくる。ひとりで何でもできる遊城十代。偶像しか見えない十代。ひとりよがりの崇拝に至上の幸福を見出し、見返りの愛を望まない十代。いや、彼はもしかするとふたりへ向けた愛情が報われ、同じだけ返されることを何より怖れているのかもしれない。
何であれ遊星が彼へ向ける想いは変わらない。だからこそ事実は遊星の胸を刺す。十代のためになりたいと願う遊星の存在は、彼にとっては一切が不必要で、ひょっとすると恐怖や生理的な嫌悪の対象になる可能性すらあったからだ。十代に嫌われてしまう未来を思うと、上の空になり、何をしても手につかなかった。遊星はぼんやりと日々を過ごすようになった。
そんな遊星のもとへ、一度ルチアーノがやってきたことがある。例の、今は遊星たちとそう歳の変わらないふうに見える少年は――物心ついた頃には彼が随分年上に見えたものだ。機械人間は成長も老化も変質もしない――ゆらゆらと揺れる赤い三つ編みの先端をいじりながら、結構な不機嫌だった。隠しようもない苛立ちをどこにぶつけるべきか定めている様子で、遊星と目が合うと、身に覚えのない怨みがこもった睨み殺しそうな目をくれた。
「不動遊星、お前って本当に昔も今も邪魔ばっか。そんな、何のことかわかんないって顔すんなよ。たとえばお前が十代に余計な玩具をやってほかの二人にけしかけたこと、あのとんがりチビどもが贈り物にまんざらでもない顔したことなんかさ。とぼけたって知ってんだ。お前たちのことは何でも記録してる。あーあ、せっかく苦労して拾ってきたのに、ひとつも死なせないように頑張ったのにさ。なんてことしてくれたんだよ。今に大変なことになる。壊れちゃったら、お前のせいさ」
ルチアーノが遊星の胸を指で乱暴に突いて言った。あとで、その言葉の通りになったのだ。
停滞していた毎日に変化の予兆が訪れたのは、城を取り巻く赤い渦がいやにおとなしい日だった。永遠の夕焼けの中にあった空が、その時ばかりは透き通った寂しげな金色に染まっていた。ほんの少しだけいつもとは違っていたが、気にする者はひとりもいなかった。時空の片隅に取り残された機械城に、今はまだ何らかの変化が起こりうるわけがないと、住人たちは信じきっている。
城は廻る時の円の中にあった。昨日の続きはまた昨日だ。今日が歴史を紡ぐことはない。未来は訪れない。見渡す限り墓地以外に何もない無人の風景に、遊星はとっくに慣れてしまっている。
早朝、日課になったホールでのひとときを過ごす遊星を、アンチノミーがいつもの時刻に迎えにやってきた。彼は遊城十代が昨晩トレーニング中の事故に遭ったことを遊星に教えてくれた。
「君が気にしているあの子だよ。命に別状はないんだけど、ただ、眼球を少しばかり傷つけたんだ」
遊星は強い焦燥が表情に浮かばないように努力しながら、「安心した」と答えた。
「そのくらいの怪我なら、すぐに治療できるだろうな」
十代にまつわる事件に過剰な反応をする自分の姿を――眩い恒星に恋焦がれる偏屈者の星屑。自分自身でさえ嫌気が差すほどの道化――たとえ気のおけない相手だとしても進んで見せたくはなかった。アーククレイドル中枢部へ至る長い道のりを、アンチノミーのデルタ・イーグルを軸にして赤いデュエル・ボードで並走する。
「あの子にとっては初の実体化を伴う訓練だったんだ。精霊とのリンクが飛びぬけて強い遊城十代なら、問題なくこなせるはずだった。だけど残念ながらうまくいかなかった。一瞬の判断の遅れがゲーム・オーバーに繋がるってこと、それがあまりにも経験が少ない彼にはまだうまく理解できていなかったんだろう。それにここの所上の空だったし、評価もがくんと落ちてた――もしかすると彼の中に何かの変化が訪れたのかもしれないな」
「ルチアーノが、俺たちのなかで傷付く者が出ることがあれば、それは俺が原因だと言っていた」
「君にそんなことを?」
「何か確信があるようだったんだ。ルチアーノは悪ふざけも嘘も言うが、あの時はいつもと少し違っていた」
「気にすることはないよ。あいつに良くあるただの八つ当たりだ」
「そうだろうか。アンチノミー、もし本当なら、十代さんは俺のせいで怪我をしたのかもしれない」
「ルチアーノは彼に与えられた役割を君に横取りされたと考えたんだろうと思う。彼が遊城十代の管理を任されているのにはそれなりの理由がある。ボクやパラドックスと同じだ。たとえばボクは君をこの城へ来る前からよく知っていたし、パラドックスだって彼なりにあの初代決闘王たちとは因縁がある。擁護するつもりもないし、彼だってそれを望んではいないだろうけど、あれは事故だったんだよ。パラドックスは彼なりの正義を遂行した。それがもとで、結果的には武藤遊戯の祖父を殺してしまったんだ」
「ルチアーノは、元の歴史の十代さんと何か因縁があったのか」
「それなりにあったみたいだね。たいした可愛がりようだ、見ていればボクにもわかる」
「……まさか、こ、恋人同士だったんだろうか」
「突拍子もないな! 驚いた。君の口から恋人なんて言葉が出るなんて」
アンチノミーが噴き出した。デルタ・イーグルが一瞬傾き、遊星は羞恥で顔を赤くした。
「おかしいだろう。自分でもそう思っている。笑ってくれていい」
「笑わないよ。しかし、君がねぇ。かわいい」
「もういいだろう……止してくれ」
「彼ら二人に直接的な面識はなかったはずだよ。ただルチアーノが、まあ、十代の身内とちょっと一悶着あったって話。さ、ボクが送るのはここまでだ。ゾーンによろしくね」
「また出掛けるのか」
「決闘王が抜けた穴を埋めるのは、そう簡単な仕事じゃないんだ。昔の君たちが刈り取った災厄の種が多く育っている。元々君たち自身が引き寄せた困難のほうが多かったわけだけど、それを差し引いても効率的とはあまり言えないね。ゾーンはただ君のことが欲しかっただけなんじゃないかとさえ思うことがあるくらいだ」
自走を始めたデュエル・ボードは進みにくいでこぼこ道を突っ切って、ようやくごみ山のふもとへと辿り着いた。D・ホイールがあれば――何度その『もしも』を思い描いただろう? この程度の荒れた地面に骨を折ることもないはずだ。
実の所遊星はD・ホイールを一台所持している。かつて英雄だった過去に駆った自作のD・ホイール『遊星号』を、寸分違わずゾーンが複製したレプリカだ。優美な曲線を描くシルエット、光沢のある真っ赤なボディ、素晴らしく軽やかなエンジン。失われた世界でもてはやされたこのD・ホイールには、ただ、まだ成熟しきっていない遊星の身体は不釣り合いだった。
遊星は顔を上げた。冷蔵庫の蓋と電話機の残骸、揺りかごとぬいぐるみ、赤い錆に表面を覆われた飲料の自動販売機、あらゆるがらくたを集積したくず鉄の山の上に、重力をまるで感じさせない様子で浮遊する白い円形の機械が浮かんでいる。ゾーン。ごみ捨て場の神。彼の在り処は、人類に捨てられた不燃物という点で、この破滅の未来には何よりもふさわしいと思えた。
ゾーンはアルビノの巻貝のような風体をしている。彼にまつわる遊星の知識は、その人造声帯を通した機械音声だとか、稀に渦巻きの隙間からおっかなびっくり目玉を伸ばすかたつむりのように、黙してこちらを覗き見る青い眼球だった。濃い藍色だ。遊星が一番嫌いな色に似ている。だから、一目見た時からあまり好きではなかった。
ゾーンが遊星へくれる視線は、甘ったるさすら感じる憐憫混じりで、壊れた玩具を眺めるかのように物寂しい。彼は得体が知れない。人間だと言う者もいたが、定かではない。
ゾーンは遊星との対話を好んだ。何故かはわからないが、それは城主と実験動物という隔たりを超えて、信頼に足る預言者に道しるべをせがむ王のようでもあった。遊星がゾーンの言葉に戸惑いながら一言二言返すと、彼は学習機械のように深い思考の沈黙に潜り込む。
ともかくゾーンは固い殻を持った生き物だ。あらゆる意味でそうだった。
事故に遭った遊城十代の容体を尋ねると、取るに足らないものを語るように答えてくれた。
「彼の傷付いた両目は容易に回復が可能でした。破損した部位を機械で補えば視力が復帰しますから、デュエルを行うには問題ありません。しかしそれでは、あの特別な眼球に宿っている上澄みのような存在は還らない。ただの人間にはありえないその部分、彼の異質、彼女の異能、それこそが過去を変えるために私が求めた決闘王のひとり、遊城十代の存在価値だったのです。必要な機能が壊れてしまった彼そのものには、もはや用はありませんから――」
ゾーンは遊星を青い目で不気味に見つめながら、救済の思案に耽っているらしく、今は十代のことはどうでも良いらしかった。
「遊城十代はあるべき世界に還しました。もうこの城にはいません」
ゾーンが言った。ふらつきながらごみ山を出た後のことを、遊星はよく覚えていない。
十代が消えた。毎朝レミングの世話をする遊戯を熱心に眺める彼を見かけることはなくなった。はじめのうち、遊戯はおどおどした丸い目を注意深く周りへやって、十代を探す素振りを見せた。そしてここ数日姿を現さない彼を想って溜息を吐き、見捨てられた仔鼠のように力のない足取りでホールをあとにするのだった。
十代が遊戯へ向けていたある種の偏執症的な執着は、どうやら一方的なものではなく、遊戯もまた気おくれしながら十代の来訪を待っていたのだと遊星は知った。屈託のない尊敬を隠そうともしない十代の純朴さは、確かに遊戯にとっても好ましいものであるはずだった。ただ彼はこの世界で一番臆病な子供で、十代に対する興味と好意よりも多くの気恥ずかしさと畏怖を覚えていたに違いない。
遊戯が去ったホールには、若いレミングが一匹取り残されただけだった。ねずみは柔らかい体毛に埋まった鼻を神経質にひくつかせ、物足りなさそうな顔で、硬い歯を使ってケージをかじりはじめた。十代が与えた栄養タブレットの味を憶えているのだ。鉄を擦る耳障りな音に混じって、甲高く寂しげな鳴き声が聴こえた。その時、あの美しい人はもういないのだと、遊星は理解した。
胸の中がからっぽになって、たまらない気持ちでホールを出た。外の空気は相変わらず停滞している。時空のうねりが澄んだ赤い色に染まり、果てに遠く過ぎ去った時間を隠したまま沈黙していた。
十代の時代に想いを馳せた。西暦二千年前後、まだ紙でできた本やちゃちなボード・ゲームが子供たちを楽しませていた頃のことだ。デュエル・アカデミアに在籍し、決闘王伝説に憧れた遊城十代。彼は古い時代の空気を吸い、機械仕掛けの神に示し合わされた歴史を踏みしめて歩んでいく。遊星の耳へガラスを一枚隔てて口唇を近付け、つやつやした瞳を細めて微笑んだ孤独な十代はもういない。彼は今や遊星の手が届かない世界にあるのだ。ふたりが出会うことは二度とない。
いや、このアーククレイドルから一歩踏み出して、ありとあらゆる時間の渦巻きの中へ飛び込んでいき、過去の世界へ辿り着けば、あるいは――逆さまの空に呑み込まれていくような気分で遊星は考えた。
確実に不可能な幻想であることはわかりきっていた。だからこその魅力的な思いつきだった。
十代の負傷を知らされても、遊星は人類最後の英知を集めたこの城が傷ついた彼を元通りに治してくれることを、根拠もはっきりしないまま素直に信じていたのだ。いつの間にかこのアーククレイドルという墓標こそが、鋼鉄製の誘拐犯たちが、彼らの創造主であるゾーンこそが、歴史から存在を削ぎ落とされた遊星にとっての最後の寄る辺になっていたのだ。
しかし十代は消えた。何もかもに裏切られた心地で、無人の星の表面に独りぼっちで放り出されたような、途方もない喪失感に襲われていた。もうどんな奇跡を持ってしても、身体の内側を冷たい水で満たすような空虚の埋め合わせは不可能に思えた。今の遊星には、重力の波に全身を絡め取られて肉片すら残さずに消滅したほうが、いっそ救いだとさえ思えたのだ。
「よう自殺志願者」
急に声を掛けられて、驚いて振り向いた先にアテムが立っていた。背中に臆病な遊戯を張り付けている。
「思い詰めた顔をして、自分の墓参りにでも来たのか? ところで遊星、お前、相棒のねずみを知らないか。檻を破って逃げたそうだ」
「ねずみじゃなくて、レミングだってば」
「どっちでも変わらないさ。あいつがいなくなったせいで、オレの相棒が随分ふさぎ込んでるんだ」
「……すみません。俺、今はお二人の役に立てそうにありません」
「お前も失くし物探しか」
「その、十代さんがいなくなったんです」
「ふうん。あいつも檻から逃げたのか?」
「そうじゃない」
十代を侮辱するような言い方をされて、遊星は衝動的にきつい口調を返していた。アテムは挑発する表情だ。すぐにわざとだと気が付いた。
アテムが遊星へ向けるまなざしは、ねずみをいたぶる大きな獣の眼に似ている。いつでも見上げた遥か先の方から投げ掛けられるもので、なにより王にふさわしかった。遊星には、彼に生まれながらに染みついている統治者としての性質のように感じられたが、あるいは彼は必要以上に王らしい振る舞いをすることで、孤独の中であやふやに融けてしまいそうになる自己を必死で保とうとしていたのかもしれない。
「ゾーンが言っていました。十代さんをあるべき世界に還したと」
「あのかたつむり野郎の言葉をそのまま真に受けるのか。まったくキミはおつむのおめでたい奴だぜ」
遊星は顔を上げた。アテムは明らかに遊星に失望している。
「キミはどうもひどく純粋な男のようだ。勘違いするなよ、素直さを褒めてやってるわけじゃないぜ。まぬけなほど楽観的過ぎやしないかってことさ。馬鹿だ」
「……言い過ぎだよ、もう一人のボク」
「馬鹿は馬鹿だぜ。ゾーンは遊城十代をふさわしい場所へやったと言ったんだろ。遊星、元々のオレ達は何だった? ゾーンと同調するパラドックスの実験に立ち塞がった大いなる障害だ。そんな爆弾、ただいらなくなったからという理由で、ゾーンが手間も惜しまず元の時代へ丁重に還してやったと思うのか。未来を救うために、どんな手を使っても邪魔者を取り除かなければならないって考え方をする男が?」
「あいつら、十代くんになにかしたの!?」
遊戯が驚いて息を呑み、アテムの袖を引っ張った。アテムは遊戯へ肩を竦めてみせた。
「ただの想像だぜ、相棒。どのみち十代はゾーンに見限られたらしい――どんなへまをやらかしたのかは知らないが、城主の興味もひけない玩具なんて、ここの住民の奴らにとっては生ごみと同じだろうな」
「ごみ……ですか」
「そういうことさ」
遊星はアテムの隣をすり抜けて歩き出した。かすかに空気の動きを感じる。少し前まで遊星を満たしていた空虚は、身体中をざわつかせる焦燥へと変化を始めていた。
「ねずみの住処はごみ捨て場と決まってる。あいつ、見かけたら教えてくれよ」
背中越しにアテムが言った。『ねずみ』が檻を逃げ出したレミングを指すのか、それとも行方不明の十代の身を案じているという意味なのかは、今のところは判断がつかなかった。遊星に分かったのは、アテムの中では遊戯の鼠と遊城十代のふたつは同列の存在らしいということだ。出っ歯の小動物と並べられた事実を十代が知ったらどう思うだろう。
遊戯に愛されているレミングを羨ましがった彼なら心の底から喜ぶに決まっている。
4