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「貴方が納得いかないというのなら、俺の頼みをひとつ聞いてもらうというのはどうでしょうか」
「ものによるけど、いいぜ。今のオレにできることなら何でもいい」
「十代さん、俺と友達になってくれませんか?」
「へ? まさか、そんなんでいいのかよ」
「充分です。少しでも貴方の信用を得られれば嬉しい」
「キミは見た目通りに無欲なやつだな。それとも期待してないだけか? ま、いいよ。遊星。オレ達は友達だ。じゃあオレの方からも早速、その友達にひとつお願いがあるんだけど」
「何なりと」
「ふふ、キミがそんな、家来みたいな言い方するとなんかおかしいよ。……他のふたりには、オレのこと黙ってて欲しいんだ」
「だけど、あの人たちは貴方を心配しているんです」
「うん。嬉しいよ。信じらんないくらい嬉しい。……もう元には戻らないってこと、自分でもわかるんだ」
十代は布を巻き付けた両目を示し、疲れた笑みを浮かべた。
「こんなじゃあの人たちの役に立てないよ。何もできないならいないのと同じじゃないか。遊戯さんたちに失望されるくらいなら、消えたほうがずっとましだ」
「十代さんは、本当にお二人のことが好きなんですね」
「キミこそあの人達に憧れてるんだろ」
「初代決闘王に憧れない決闘者なんていません」
「うん、そうだよな。そうだよ」
十代はまるで自分の手柄を褒められたように、誇らしげに胸を逸らした。単純に嬉しそうで、滑稽なほど子供っぽく、遊星はそんな十代に物悲しさを感じながらも、たまらなく愛おしくなった。
「へへ、自慢話、聞いてくれるか? キミは嫉妬するかもしれないけど」
「構いません」
「遊戯さんが綺麗な眼だって言ってくれたんだ。オレにその、きらきらしてて綺麗だって。あの人はもうきっと忘れちまってるだろうけど――ずっと昔のことだしさ。オレの中で一番古い思い出なんだ。でもオレには一番大切な記憶なんだよ。まだ全然子供だった頃だけど、綺麗だって遊戯さんが言ってくれて、そうだなって、アテムさんも頷いてくれたんだ。ふたりがオレのこと見てくれたんだ。……でもオレの眼、こんなになって、がっかりされたくないなぁ」
「同情を引けるかもしれませんよ」
衝動的に、突き放すような言葉が零れていた。確かに十代の言うとおりだ。頬を紅潮させてたどたどしい言葉を繋ぎ、彼の中にある唯一の自慢を恥ずかしそうに見せびらかす十代に、遊星は身勝手な怒り混じりの嫉妬を覚えていた。『俺だってずっとそう思ってました』、『遊戯さんたちを尊敬しています。でも十代さんがお二人ばかり見ていると、胸が苦しい』――そう叫びたかった。これほどまでに十代に対して理解を望んだのは初めてだった。
アテムと遊戯がろくに十代へ目を向けてもいないこと、彼らにとっての遊城十代は毛並みの悪いねずみと同程度の存在であること、そして遊星が十代へ向ける強い執心を正しく理解して欲しいと願った。
遊星が知っている十代なら予想通りの反応を得て機嫌を良くし、わざと意地の悪いからかい方をしながら笑ったかもしれない。だが現実は違った。十代は背筋を凍り付かせて、抱えた膝に顔を埋めた。押し殺された嗚咽が聞こえてきた。遊星はぎくりとして、何も言えなくなった。火照った頭が急速に冷えていく。
十代を泣かせてしまったその時、急に彼のかぼそい体がいやに気になった。半陰陽の半身を、女を強く意識した。常に凛々しくまっすぐに立っていた十代からは想像もつかない、脆い姿だ。無理もない――十代は居場所を失い、神からも世界からも必要とされず棄て去られ、憧れの人間たちへ向けてどれだけ手を伸ばしたところでもう届かないことを知ってしまったのだ。忍び寄ってくる死に怯え、またうまく死ねない苦しみに怯えていた。いくら虚勢を張っていても、十代はまだ遊星と同い年の感じやすい少年であり、あどけない少女だった。
遊星は強い罪悪感に苛まれながら、うなだれて弱々しくうめいた。
「……すみませんでした」
興奮と激情のおもむくままに、十代へ酷薄な真実を投げ付けなかったことを、心の底から安堵した。現実を思い知った十代にはもう何もない。おそらく、本当に何も残らないのだ。
「綺麗だって言ってくれたんだ」
十代が繰り返した。冷たい水の底から助けを求めるような震え声だった。
「あの人が初めて、やさしい声で、オレの眼、綺麗だって言ってくれたんだ……」
十代の肩のあたりへ手をやったまま、そのまま肩を抱いてやることもできず、抱き寄せてやることもできなかった。腕が宙ぶらりんのまま、臆病なねずみになった気分だ。
十代はしばらくの間、壊れやすい女の子のように泣いた。
6
十代を背負った時、彼は長い手足を振り回して暴れようとしたが、失われた視界のなかでぐらぐらした姿勢を取り続けることに疲れ、結局は不満そうにしながら細い腕で遊星の肩を掴んだ。十代は、今は遊星には逆らえないという不自由な事実をここで痛感したようで、悔しそうに下唇を噛んでいた。
なぜ彼はそんなふうにして張りぼてのプライドを振りかざし、突っ張ってみせるのだろう。もしも今彼を抱くのが憧れのアテムだったとしたら――十代は華奢な体つきをしていたが、遊戯の幼児めいた腕に預けるのは酷だろう――おとぎ話のお姫様のようにしおらしくしていたに違いないのだ。
ふと、滑稽な思い付きをした。遊戯が用意した手狭な檻の中で、餌を奪い合ってきいきいと喚く二匹の鼠。遊戯たちの寵愛を巡るライバルとして、十代は遊星を目の敵にしているのではないか。
「放っておいてくれよ。あんまりオレに関わると、ゾーンのお気に入りのキミだってまずい立場になるぜ。それとも恩でも売ってるつもりか。迷惑なんだよ。この根暗童貞、むっつり蟹頭野郎。お前の背中、骨ばってて痛いんだよ」
十代の機嫌は最悪で、八つ当たりじみた文句を言い続けている。怒らせた心当たりはあったが、そろそろ黙らせたほうがいい。やがて自己憐憫混じりの泣き言に変わって、彼がみじめな気分になるだけだ。腹の傷を着衣越しに掴んでやると、彼は脂汗を浮かべてうめき、たちまち静かになった。だが、ひと時だけだった――再びすぐに口を開き、優しい造作の唇が吐くにはあまりにも不似合いな汚い言葉で遊星を罵りだした。そうされると、変な気分になってくる。十代は手で触れた肌の上から遊星の奇妙な興奮を見透かしたかのように、軽蔑をあらわにして肘で首を締めた。
「なに嬉しそうにしてんだ、変態。オレをどこへ連れてく気だよ」
アーククレイドルの中枢部へ連れ戻されるのか、それとも知らない場所へ、特に遊星が思うままに振る舞えるような場所へ連れて行かれるのか、十代はどちらも歓迎できない様子で、ともかく警戒している。友人同士になるという約束を交わしはしたが、それは対等の立場で取り決められた契約ではなかった。だから、十代に信頼されていないのは知っている。
だが救いようがないほどに魅力をたたえた十代の、敵意も悪意も侮蔑も、これは初めて見た姿だが、悪くなかった。両腕で抱えた脚は片方が少年らしく筋張っていたが、もう片方はなめらかですべすべしていた。かすかな胸のふくらみにどぎまぎした。十代は遊星の背中が強張っている理由に目ざとく気が付いた。遊星の顎のあたりに慎重に腕を回して――彼は目が見えず、振り落とされてしまうことを余計に怖れていた――柔らかい女の胸を首筋に押し付け、注意深く遊星の髪をかき分けると、耳を探り当てて噛みついた。鋭い痛みと同時に濡れた舌の感触を憶え、背筋が粟立つ。
「仕返し。痛かったぞ、ばか」
十代が勝ち誇ったようにほくそ笑んだ。
「あとキミって、やっぱむっつりスケベだ」
やけにひんやりと空気が染みる耳に、遊星を小馬鹿にしてからかう十代の声が親密な内緒話をするように囁かれ、頬が熱くなった。性悪そうな薄笑いを浮かべる口唇を横目で眺め、この人になら笑いものにされてもいいと思った。胸の中が甘酸っぱく煮崩れていくようで苦しかったが、決して悪いものではなかった。
「なんだよ、黙って。怒ったのか?」
「いえ、その……変わった身体だと思って。すみません」
「ああ。これさ、ここへきてすぐだったと思うけど、ゾーンに『超融合』ってカードを渡されたんだ。そいつを使って精霊とひとつになった……悪魔族のモンスターだったっけな。それからだ。こんなふうになった。オレが生まれたばっかの頃は普通の男のガキだったらしいんだけど、よく覚えてない。ま、男でも女でも一緒だけど、ただルチアーノが気にするんだよ。そういうの」
「あの子供ですか」
「女のオレはお気に入りの娘と似てて、男のオレは大嫌いな男と似てんだってさ。意味わかんないけど」
ふいに十代がけたたましく笑い出した。怪訝に思っていると、彼の上着がもぞもぞと蠢いて、首元からまだらのレミングが顔を出した。風が流れてくるほうへ鼻先を向けて小刻みに動かしている。肩を伝って十代の頭の上へ飛び乗った。
「お、お前かよ。くすぐったいよ。ついてきちゃったのかファラオ」
「ファラオ?」
「こいつの名前。遊戯さんのねずみだよ。昔どこかに同じ名前のすげぇ長生きした猫がいたんだってさ。ゾーンって、延命とか不老不死とか、そういうの好きだろ。その猫を参考に造った実験動物……らしいんだけど、猫からねずみだぜ。あいつってやっぱやることがわかんないよな」
「はぁ。確かに、わざとそういうことをやっているのではないかと思う時がよくあります。ゾーンは滅びた人類が極め尽くした科学力を持っているはずです。それなのに奴が造る模造品はことごとく失敗作で、オリジナルに蹂躙される」
「オレ達みたいにか?」
「貴方は違うでしょう。十代さん。俺が知る限り、唯一のゾーンの成功例です」
「意味ないぜ。もう、そんなの」
十代は自嘲をまぶした溜息を吐いた。暴れ疲れたようで、力なく遊星の肩へ腕を回し、軽い身体を預けてくれた。地表が近付くにつれて空気が乾燥しはじめ、赤い光が強くなってきた。十代は滅びた街の遠景へ見えない目を巡らせ、砂混じりの埃っぽい風を吸って咳き込んだ。死んだ星の汚れた大気が、機械の城の中、完璧に管理された生活環境にあった十代の肺を汚していた。
「外の空気はひどいもんだな。遊星、キミは平気なのか?」
「はい。慣れていますから。俺たちが暮らしていたところ以外は、どこへ行ってもこうです」
「まあ、オレも大したことはないんだけどさ」
「疲れましたか? 少し休みましょうか」
「うん」
遊星は歩みを止めた。かつてダイダロスブリッジと呼ばれた、ネオ童実野シティ住民の希望の象徴の残骸がそばに見える。湾岸地区までやってきていた。この辺りは比較的損傷が少なく、舗装された道路の跡がまだ白く残っていた。海は干上がり、潮風は永遠に止んでいた。
砂粒を払った廃材の上に十代を座らせてやる。レミングは十代の荒れた髪の上が気に入ったようで、尻を落ちつけて脚を投げ出していた。
十代はポケットの中に手を入れ、ティアドロップ型のオーナメントをつまみ出した。古い時代に、クリスマスの訪れを祝してもみの木に吊り下げられていた飾りに似ていた。十代は遊星の手首を掴んで、無色の多面体を手のひらにそっと押し付けた。
「これ、お前にやるよ。オレのとっときのとっときの、とっておきの宝物のひとつだ」
「……そんなに大切なものなら、俺よりも遊戯さんたちにお渡ししたほうがいいんじゃないですか」
「うーん、まぁ、キミでいいや」
十代はもったいぶった様子で、首をすくめておどけてみせた。
「なんてな」
「いいんですか?」
「なんか、気持ち悪いだろ、そういうの。オレがいなくなっても憶えてて下さい、みたいでさ」
十代は、声に無理矢理とわかる笑みを含ませ、足をふらふらと揺らした。うなだれ、白いうなじが見えていた。
「あの人たちに忘れないでくれなんて言える立場かよ。友達ですらないんだぜ」
「十代さん、そんなことは」
「あのさ遊星。あれ、嘘なんだろ。キミが言ってた、オレのこと遊戯さんが心配してくれてたってやつ。アテムさんがオレを気にしてくれてたってのもさ」
「……嘘じゃありません。あの人たちは本当に十代さんを心配されていたんです」
「うん、いいんだ。わかってる。もういいんだ」
具合の悪い沈黙が落ちた。あれはまぎれもなく真実だったのだと、十代に理解してもらいたかった。だが遊星は、同時に嘘を暴かれた気まずさも感じていた。ふたりは確かに十代を気に留めていたが、それは二人きりで完結した彼らが人懐っこい小さなねずみへ向ける情だった。
落ちつかない。居心地が悪かった。また十代が泣いてしまうような気がしたのだ。恐る恐る横顔を盗み見ると、十代の唇は穏やかにカーブを描いて、微笑みのかたちに持ち上がっていた。遊星は息を呑み、気が付くと十代の手を握っていた。
「俺は決して忘れません。十代さんを憶えています」
「友達だから?」
「はい、必ずです」
十代は軽い戸惑いをもって首を傾げた。無邪気に遊星の手を握り返すと、頬に押し付けた。みずみずしい果物のような柔らかい輪郭だ。自然に遊星の口元も綻んでいた。
「へへ。キミって、なんか、……ほんとわかんない奴だよなぁ!」
「よく言われます」
「そうだろ。変にすかしてて、意地悪で、胸にぐさーっと刺さるようなこと言うと思ったら、そんなふうに優しい嘘なんかついて、友達だとか超似合わないこと言い出して、マジわかんねぇ」
遊星は頭上へ腕を伸ばし、遠い時空の彼方に向かって十代のオーナメントをかざした。透き通ったプリズムが、ゆらゆら揺れながら七色に輝いている。横を向くと、プラスチック製の他愛無い玩具を心から誇らしそうにして、十代が賞賛を待っていた。彼自身のほうが余程美しいと思ったが、言うのはやめておいた。
「虹の色ですね。綺麗だ」
「本物見たことあるか?」
「まさか」
「好きなんだ。虹色。なんでかわかんないんだけど、懐かしい感じがしてさ。きらきらしてて良いだろ。ちょっとロマンティックすぎるかな。女の子みたいで自分でも笑えるんだけど」
「俺、てっきり十代さんは赤が好きなんだと思っていました」
「赤はあんまり好きじゃない」
「でも、似合っていました」
「え?」
「赤い服です。あでやかな……あの、過去の映像で見た、燃えるような。良く似合っていました。貴方よりも赤が似合う人なんていないと信じたくらい」
「いや、服が似合うとか似合わないとか、そんな褒め方されたの初めてだよ。どんな顔すればいいよ、おい。笑い飛ばせばいいか? それとも、からかってるつもりなら怒るけど」
十代はぶっきらぼうに顔を背け、塞がれた眼を逸らすふりをした。照れている。年相応の仕草が可愛かった。
「ともかく、それをやるよ。お礼さ。キミはあのカプセル・モンスター・チェスみたいに、もっといいものをいっぱい持ってるんだろうけど」
「俺は貴方が思っている程沢山のものを持っているわけじゃない。……ありがとうございます。大切にします」
遊星は立ち上がって十代の前に片膝をつき、彼に手を伸べた。
「そろそろ行きましょう。平気ですか?」
「うん」
十代は、今度は穏やかに頷いてくれた。遊星の腕に掴まってふらつきながら立ち上がる。
ふたりはD・ホイール格納庫へ向かった。遊星にとってはアンチノミーと共に何度も訪れた場所だ。慣れ親しんだ分厚いシャッターをくぐって冷え冷えとした内部へ足を踏み入れると、壁伝いに青緑色の光の線がはしり、照明が点灯する。鋼鉄製の棺桶に閉じ込められたライディング・ロイド連中の姿が浮かび上がった。両目を大きく見開いたまま静止している。いつ見ても不気味な光景だ。
整列した量産型D・ホイールに混じって、ひときわ目立つ赤色のマシンが停まっている。レプリカ遊星号。誰も乗り回してやったことがない新品の機体だが、調整は相変わらず完璧だった。オイル汚れは神経質にクリーニングされ、部品のあそびに最適な設定がなされていた。遊星の育ての親は、車輪がついた乗り物が手入れの行き届かない姿で放置されることが、それこそ根源悪のように我慢ならないD・ホイール狂いだった。
おかげでエンジンは容易にかかったが、身体の丈に合わない機械を操るのはやはり苦労する。シートからずり落ちそうになる尻を浮かして、膝に十代を抱いた恰好でアクセルを回した。一度がくんと強い衝撃があり、なめらかに滑り出してようやく安定する。
「これから貴方をこのアーククレイドルから連れ出します、遊城十代さん」
「は?」
十代は驚いて遊星の上着を掴んだ。強く力を込める。彼は戸惑っている。
遊星号にはアーククレイドル製D・ホイールの例にもれず時空を跳躍する機能が備わっている。きたるべき日に神の尖兵として過去に干渉するためだ。創造主の意図とは真逆の用途だが、すでに決意は固まっていた。
「十代さん、貴方自身が言ったことだ。貴方はゾーンに追放された。この城は正史では実験の障害だった貴方を決して救わない。たとえどの時間軸に行き着いても、歴史を思うままに操るゾーンの手の中にある世界には、貴方が息をできる居場所はない。だけど放棄された未来なら、ゾーンが見捨てた破滅の星の往き着く先なら――未来に干渉する権利も意志も彼にはないはずだ――そこなら貴方を救う方法がきっと見つかる。俺がその場所へ必ず貴方を連れていく」
十代は心の底から呆れ返ったようだった。
「……まるでキミはオレの王子様だな。感謝するよ、ほんと。ご苦労様だ」
「貴方を迎えに来たのが、遊戯さんたちだったらよかったと?」
「また意地悪なこと言いやがって。まあいいや。キミでよかった」
「本心ではないでしょう」
「いいや。オレは長い間ずっとあの人の隣に立てる強さが欲しかったんだ。オレたちが歴史を変えるために間違った過去と闘えるくらい成長した時、あの人へ向いた悪意を殺す剣になりたい。あの人へ向いた悪意から抱きしめて守る盾になりたい。それがオレの夢だった」
「夢、ですか。そんな言葉、初めて聞きました」
「こればっかりは笑ったら歯が折れるまでぶつからな。オレは、遊戯さんたちに迷惑なんか絶対かけられない。それって違うと思うんだ。そうだろ」
「俺にはいいんですか?」
「なんだよ」
「迷惑」
「別に、頼んでないだろ。……ばか。これ以上キミに借りを作るの、なんか怖いぞ」
「高くつきますよ」
「ほんと、馬鹿野郎だよ。でも感謝してるのは嘘じゃない。オレ、キミになら抱かれてもいいわ」
「悪趣味です」
「うん。そういうとこ、ほっとするよ」
十代は気だるそうに頭を振った。笑おうとしたらしいが、うまくいかなかった。表情は凍土のように硬く強張ったままだ。
「なぁ、不動遊星。そろそろ話してもいいんじゃないか。何が望みだ? 何を企んでる。くたばり損ないのオレをおとなしくゾーンに差し出したほうが、キミにとっては……いいや、そんな面倒を引き受けなくたって、知らないふりして放っておいてくれたら良かったんだ。見返りなんかないぜ。それとも、これが正史で英雄って呼ばれてたキミなりの正義か。それこそ欺瞞じゃないか。……頼むからなんか言えよ。友達なんて意味わかんないことじゃなくて、オレが納得できることを、なんか」
「俺はただ、貴方を護りたいだけだ」
「どうしてだよ。キミは何故良く知りもしないオレなんかの為にここまでするんだよ。誰も愛してくれないオレなんかに、なんで」
十代の爪が遊星の背中を抉った。とらえどころのない十代が感情的になっている姿は、あまり見たことがなかった。胸の奥深くに抑え込めてきたものが昂り、暴発を始めたのだ。
「ゾーンが言ってた。オレは改竄される前の世界では今よりもっと寂しい奴だったって。でも今のオレには遊戯さんたちへの想いがある。絆の力ってこういうのなんだろ。そいつがあるから、独りぼっちだった過去のオレには決して負ける気がしない。オレは、大切な人の為に命をかけられるこの世界が好きだぜ。元の時代じゃ、もしかしたら遊戯さんもアテムさんも、オレの声に振り向いてもくれなかったかもしれない。それとも空っぽのオレ自身が、あの人たちを見ても何も感じなかったかもしれない。そんな世界、無くなってくれてせいせいするぜ。だけど……ここでオレが見てた夢だってもう醒めちまった」
自分自身を突き放すように十代が言った。少しだけ涙まじりで、諦めきれずにもがく彼の心の揺れが手に取るように伝わってくる。
「走ってる間は怖くない。何も考えないで済むからな。ホントの時間のこととかさ。馬鹿なオレにもさすがに、遊戯さんとアテムさんの間にオレは必要ない存在だって分かってたから、絶対に振り向いてくれない人たちを追い駆けてここまで来られたんだ。たとえばゾーンが言うことなんかみんな意地悪なあいつの嘘っぱちで、オレにできるかもしれなかった絆のこととか、楽しい時間があったかもしれない過去の世界のこととかさ、変な想像しなくてよかった。どうせオレの時代の人間は、みんなもう死んじまってどこにもいないんだろ。今更失くしたもので苦しむのは嫌だ。だったら知らないままでいたい。はじめから何もいらない。オレの心は大好きな人への想いだけで満足してる。
だからあの人に恋をしてるのが、オレにとっての救いだった。……でも違ってたのかもしれない。憧れと恋と、全然違ってて、オレはただあの人に恋をしてるって夢を見ていたかったのかもしれない。どっちにしろ、オレ、ひとりで浮かれて馬鹿みたいだったよな。夢は醒めちまったから、きっともう会えない。もし会えたって二度とあの人の顔を見れない。
キミも優しくするのは止してくれないか。オレなんかに手を差し伸べたり、支えてくれたり、そんないたわりを向けないでくれ。遊星。マジで、なに考えてんのか全然わかんねぇよ。キミが今どんな顔をしてるのか知らないけど、できたら笑ってくれよ。オレがブッ飛ばしたくなるくらい嘲笑え。じゃないと、遊星。キミのこと――」
格納庫の闇の中を自動操縦のD・ホイールが疾走する。やがて光の向こう側へ飛び出し、血の色をした空へ向かって跳ねた。時空の乱れが雷雲のように姿を現し、上空を覆い尽くしている。不安定な大気が強い風を生み、禍々しい唸り声を張り上げている。だがその中でも十代のひそやかな囁きだけは、不思議なことに決してかき消されずに遊星に届いた。
「キミを信じちまう。キミを知りたくなる。……キミのこと、好きになっていく。わけわかんなくって怖い」
十代はこれまでにない感情の変化に怯えていた。停滞したアーククレイドルの中で、同じように停滞していた十代の心が動き始めたことを、彼自身も必死に目を逸らそうとしながら、しかし確かな事実がそこにはあったのだ。遊星にすがる十代の腕が戸惑いと後悔で突っ張っている。手の指がとても優しいかたちをしていると思った。
「子供の頃のことです。初めて笑いかけてくれた人がいた。俺は、一目で好きになってしまった。あまりにもその人が美しかったからです。彼は俺の憧れで、毎日毎朝彼が遊戯さんを見つめている姿を、遠くから眺めて過ごす時間が好きだった」
「遊星?」
「ずっと見つめていられるだけでよかった。……いや、そうじゃない、俺には話し掛ける勇気もなかったんです。何を言えば楽しませることができるのか、何と言って声を掛ければいいのかさえ、何もわからなくて苦しかった。どうしたらその人の前で楽に息ができるのか。恋をしたことなんて初めてで、俺にはなにも……。
その人はいつも遊戯さんに見惚れていて、俺のような男に振り向いてくれるとは思えなかった。確かに俺は遊戯さんたちを誰よりも尊敬しています。間違いない。だけど嫉妬している。大それたことですが、だけど俺が恋をした貴方が、……十代さんがおふたりばかり見ているから」
遊星は、まっすぐに前を睨み付けながら言った。
「俺、ずっとずっと貴方のことが好きでした。十代さん」
十代は、やはり唖然としていた。
「い……いきなりそんなこと言われても困るよ」
「……はい」
「へへ。ほんとかなぁ。ほんとだったら、ほんと……」
「十代さん?」
「わけわかんないな」
「……すみません」
「だって遊星、誰かに好きだなんて言われたの、生まれてはじめて――」
ごく軽やかな音がした。空気がはじける音だ。
十代がのけぞった。細い首が伸び、白い喉がさらされた。それ自体が感じやすい生き物のようにすべらかで、艶めかしかった。普段は髪で隠れている耳の後ろに、星形の傷痕が見えた。狙撃されたのだ。気付いた時には十代の身体が浮き上がり、遊星の腕から零れ落ちていくところだった。慌てて手を伸ばしたせいで、遊星はバランスを崩して宙に投げ出された。遊星号が踊るようにくるくると弧を描き、タイヤを回転させ続けたまま真っ赤な側面を晒して静止した。レミングが逃げていくのが視界の隅に見えた。遊星は上体を起こすなり、倒れている十代に這うようにして取りすがった。
「十代さん! 十代さん! 十代さん!!」
即死だ。十代は頭を撃ち抜かれて絶命していた。冷静に理解をしながら、遊星は信じなかった。十代は、おそらくは目が眩みそうな高空から地面へ叩きつけられても死ななかったのだ。何よりも遊城十代という異能力者には強力な精霊の加護がある。たった一発の銃弾が彼の命を奪えるはずがない。
十代はぽっかりと口を開け、空洞のような口腔内から一筋の血が静かに顎へ流れた。嘘だと思いたかったが、遊星の目の前にあるのは、この世で最も美しい死体だった。
ひんやりした頬を両手で包んで、遊星は意味のないうめき声をあげた。嘆いているのでも泣いているのでもない、わけのわからない叫びだ。十代が死んだ。
十代の腰のうしろに引っかけてあったデッキケースが壊れ、ヒーロー・デッキのカードたちが風に吹かれて散らばっていく。奇妙なカードばかりだ。真っ白で絵柄がない。紙面に宿っていた不思議な力はすでに感じられず、抜け殻に変わり果てている。
セキュリティ・ライディング・ロイドが、遊星を取り囲んでいる。いつもアーククレイドル中を滑稽なほど実直に巡回している連中だ。機械は城主の寵児である遊星を傷付けない。異物だけを正確に排除する。忠実に役目を果たしたロボットは、十代を撃ち抜いた腕を伸ばして、死体を掴み上げようとした。神の居城を赤黒い体液で汚すごみを相応の場所へ廃棄するべきだと判断したのだろう。
「やめろ! 触るな!」
遊星はぞっとして叫び、十代を腕の中に抱え込んだ。不恰好な鉄のアームが、主のひとりの命令に従い静止した。警備ロボットは、この動物の遺骸はまだごみではなく、遊星にとって利用価値がある品物だと判断したようだ。次の作業に取り掛かるために去っていく。
奥歯を噛みしめて、十代の目隠し布をむしり取った。そこにあった傷跡は、遊星にゾーンへの殺意を植え付けるには充分なものだった。
眼球がなかった。瞼を押し上げるはずのふくらみが消え、薄い皮膚の隙間から眼窩の赤い闇が覗いている。『きっともう元には戻らないよ』――脳裏に十代の声が再生された。
この世界に起きた事象を、とりわけ彼自身が住まう城における出来事を、機械仕掛けの冷たい神が知らないはずはなかった。あの男は今この時も遊星を注視しているはずだ。
「……ゾーン! 答えろ。なぜ十代さんは死んだ!」
神はどこにだっている。砂嵐のなかに白いフライ・ホイールが浮かび上がった。ゾーンは幾本ものざらついたパイプでホイールに肉体を縫いつけるような姿で、のっぺりとした灰色の仮面越しに遊星を見下している。
「十代さんは、お前のくだらない実験には必要な部品ではなかったかもしれない。だが俺にとっては何よりも誰よりも必要だったんだ。俺が生きる理由ですらあった。この人を失った俺に何が残る。この人を失った世界に何が残る。滅びた未来か。救済を待っている過去か。そんな概念に今を生きていたこの人ほどの価値がどこにある?
ゾーン、お前は確かに神にも等しい力があるのかもしれない。だが、関係ない。俺には赦せない。お前は俺の大切な人から意味を奪った。どれだけ美しくたって、命のない、形だけの物体に何の意味がある。もうこの人は俺を見てはくれない。何も言わない。俺たちの絆は未来へ繋がらないんだ!」
遊星は従順と諦念をかなぐり捨て、敵意をさらけだした。ゾーンは鋼鉄のかたつむりの中から、遊星の激昂をつぶさに観察していた。青い目の中に感情を読み取ることはできない。やがて例の機械越しの音声が、蜃気楼のように不安定な反響を伴って零れた。
『貴方の心を乱したくはなかった。だから私は、あの英雄たちが貴方に近付くことを懸念していました。思った通りでした。遊星、貴方が現在感じている怒りはおそらく、僅かな間ながら接触した遊城十代に対する同類意識から生じた同情のためだと考えます。その子供を気に入っていたのなら、貴方には哀れなことをしました。ですが、私はなによりも恐ろしかったのです』
ゾーンの声質は意外なくらいに優しかった。不思議な親密さが満ちていて、穏やかに遊星を諭す。激情にかられた遊星が戸惑いを覚えるほどだった。
「馬鹿なことを言うな。怖れも知らずに神を名乗るお前が十代さんに怯える理由がどこにある? この人は傷付いていた。ひとりでは満足に歩くことさえできなかったんだ」
『彼が無邪気に放った言葉が――あの言葉が、頭から離れないのです。十代は私におぞましい呪いをかけました。だから私は、彼の眼がそこにあるだけでたまらなくなった。抉らないわけにはいかなかった。棄て去らないわけにはいかなかった。今そこで彼の生命活動が停止し、ようやく荷が下りたのです。私のこの安堵は、不動遊星という人物にはきっと理解できないでしょう』
「理解なんかできるものか」
遊星は吐き捨て、縋るように十代の死に顔を一瞥した。今にも息を吹き返してくれるかもしれないという僅かな希望を抱き続けたが、現実は変わらなかった。体温を失い、少しずつ肉が硬くなりはじめている。十代に宿っていた魔法の力は、今はまやかしの幻想のようだった。
「……どうして精霊たちは十代さんを助けてくれない。この人のことはいつだって必ずカードの精霊の加護が守っていたはずだったのに」
『遊星。残念ですが』
ゾーンは、遊星がかすかにひとりごちた疑問を拾い上げ、慰めるような声を出した。
『この世界にはもう、そんなものはどこにも存在しないのです』
彼は、手垢にまみれた黙示録の一篇を無感動に語った。
――精霊の在り処である異次元世界は、常に人間界と共生関係にあった。繁栄の終焉を迎えた人類を追うように、精霊たちもまた石版と化したカードを墓標に遺して死に絶える。僅かばかりの精霊たちが生き残り、故郷を失った者同士でささやかな群れを作っていた。そして自らに力と意味を与えてくれる人間の主を探して流浪をはじめた。
多くは天敵から逃げ隠れを繰り返すだけの弱小モンスターだったが、それでも彼ら特有の性質という点では素晴らしい逸材だった。彼らは老化という緩やかな肉体の崩壊から解き放たれた存在で、無垢な遍在を続けた。利用価値は大いに残っていたのだ。
不死の必要を痛感していたゾーンは精霊たちを捕獲した。透明な存在を人間世界に相応しい形で定着させるためには、暫定的なシェルターが必要になる。魂の受け皿としての機能を有している遊城十代を使った。
武藤遊戯も十代と似通った性質の異能を持っていたが、彼は千年アイテムに選ばれ王の魂の座として守護されている。王の寝所を侵す者は裁きの炎に焼き滅ぼされてしまう運命だ。
十代はそうではなかった。遊城十代はどのような魂をもいくらでも中に咥え込むことができたのだ。たったひとりの高潔な王を受け止めるために生まれた遊戯とは比ぶべくもない、野卑で浅ましい体質だが、何度も使いまわしがきく分だけ良く役に立った。
はたして十代は、彼なりにゾーンの思惑とは異なる精霊の利用方法を得ていた。自らの中に宿した数々の精霊の魂を消費し、突発的な死を回避してきたのだ。それは十代が望んだことなのか、それとも精霊たちによる自己犠牲だったのかは知れない。
ゾーンの不興を買った十代は、両目を抉られてアーククレイドル上空から投げ捨てられた。ごみ捨て場の地表に叩きつけられて死亡した十代を、羽の生えた小さな精霊が消滅と引き換えに蘇生した――それが歴史上最後の精霊観測の瞬間になる。
十代は魂の中に身代わりとして置いた不純物を失い、ただの人間になった。銃弾を撃ち込まれれば絶命する、どこにでもいる脆い生命体に成り下がり、そして今ここで終焉を迎えた。
『遊城十代。精霊の力を操る類稀な決闘者と呼ばれてはいましたが、彼の本質は受け入れた異物に存在そのものを左右される不確かな魂です。遊星。貴方はこんな武藤遊戯の劣化品に過ぎない、中身が空っぽな入れ物にすら、価値を見出すというのですか。彼を惜しみ、憐れな死者を墓地から蘇生させ、再び貴方自身の手で意味を与えてやりたいと願うのですか。本当に貴方がこの無為な十代を特別な存在として扱い、彼に居場所を与えたいと望むなら――遊星、このがらくたではなく優し過ぎる貴方の可能性に、私の力を授けても良いでしょう』
「……十代さんは、がらくたなんかじゃない」
抗議の声はあまりにも弱々しく響いた。十代の死骸へ目を落とす。かつては赤い服が良く似合っていて、すべらかで色の白い手がカードを引く仕草が格好良かった。それが、ぼろぼろの布きれを体に巻き付け、皮膚は血と埃と油でぬめっている。遊星が何より好きだった宝石めいた色違いの瞳はくり抜かれ、空の眼窩がグロテスクで痛々しい。
遊星の手の中には腐敗を経て無へ進行する死があり、滅びた世界を幾度歩き回っても実感しなかった虚無を初めて思い知った。十代は存在するだけで遊星から絶望を遠ざけてくれていた。彼の笑顔が希望そのものだった。十代の死とともに遊星の未来もまた息絶えたのだ。あとは等しく無為が続いているだけで、ただ肉体が自動的に動いているに過ぎない。機械と同じだ。ゾーンと同じだ。
そして今この時、歴史を改変する神の力を、遊星は目の前にしていた。死んだ人間を、その死因を削除することで蘇らせるゾーンの力。
十代がもう一度微笑んでくれるなら、どうなったって構いはしない。神に魂を売ることすら、ゾーンに媚びることすら、今の遊星は何とも思わない。ためらいや後ろめたさを感じる心は死んでいた。乾いた唇が無機質に動いていた。
「俺の望みは、この人を――遊城十代を永遠に俺の手で護りたいんだ」
ゾーンは、ひとつの計算式の過程と答えを見極める目を遊星に向けていた。求めた答えが返ってきたのか、それとも見当違いだったのかは知れないが、少なくとも彼が満足していることは確かだった。
興味も湧かない。神の気まぐれさにはもう辟易していたし、『ゾーンなど』どうだってよかったのだ。
7
遊戯のレミングが鉄の檻の中を駆けずり回りながら空腹を訴えていた。この動物はいくら餌を食べても一向に満足しない。鳴き声で眠りから醒めた。
短い夢を見ていた気がするが、良い夢ではなかっただろう。背中に嫌な汗が浮いている。知らないうちに泣いていたようで、湿り気を帯びた頬が冷えていた。眼球が熱を持ち、鈍く痛む。
文庫本が開いたまま腹の上にうつぶせに乗っている。どうやら人を待っている間に居眠りをしてしまったらしい。冷たい手が額に乗せられ、それは清らかな泉のように遊星の悪夢の余韻を吸い取ってくれた。
「遊星」
とても居心地の良い声に、名前を呼ばれて目を上げた。吹き抜けのホールは巨大なぜんまいの他は何もない殺風景な空間だったが、今は無機質ではない。隣に十代がいた。
「おはよう。お寝坊さんだな」
十代は少し首を傾けて、色違いの眼を細めて微笑んだ。無邪気で優しい笑い方だった。
「十代さん」
「ん、どうしたよ、変な顔して。オレの顔になんかついてる?」
遊星は十代の腕を強く引いた。衝動的に薄い肩をかき抱く。十代は驚いて軽い悲鳴を上げたが、彼特有の思慮深さで遊星の不安を察してくれる。背中を抱き返して、女の柔らかい手で上下に撫でてくれた。
「どうせひっでぇ夢でも見たんだろ。気にすんな。そんなもんごとき、オレが全部どこかへブッ飛ばしてやるさ」
遊星は頷いた。目を眇め、とても眩しいものを眺める心地で、十代を見つめていた。
「おはようございます、十代さん」
十代は今朝もきれいだ。
彼は『ゾーンミニオン』。神の寵児だ。今は亡き人類の歴史から摘出された歴代決闘王のひとりだ。感じやすい少年のようにくるくるとよく表情が変わり、無垢な少女のようにあどけなく笑う人だった。遊星は十代に始末に負えないほど憧れている。
午前七時四十分。十代が穴の空いたシャッターの残骸によりかかって、古びた携帯ゲーム機の電源を入れた。
「キミ、毎朝オレを待ってるなんてずいぶん物好きなやつだよ」
十代がウインクをして言った。彼の宝物の赤い携帯ゲーム機は、以前は壊れかけていて電源の点きが悪かった。それを機械いじりが得意な遊星が直してやったのが、こうしてふたりで話をするようになったきっかけだ。遊星も自作の青い同型機を起動する。アメリカン・コミックス風の格闘ゲーム画面が立ち上がった。
十代は驚異的な身体能力を有し、実体化した精霊の加護を受け、闇を統べる覇王の力をもって生身のデュエルでは負け知らずだが、通信越しの娯楽ゲームの腕前はさっぱりだった。あの十代が遊星を相手に手も足も出ないのだ。対戦で彼と向かい合った時には、贔屓のヒーローの無残なノックアウト姿に大げさにがっかりし、髪をかき乱して悔しがる貴重な姿を見ることができる。
「うあぁ、また負けたァ! 遊星って全然容赦ないのな」
「十代さんは下手ですね」
「こいつ!」
「不思議ですよ。デュエルはあんなに強いのに」
「じゃあデュエルで勝負しようぜ」
「できませんよ。わかってるでしょう」
各自がトレーニング以外で行うデュエルは、命の危険を伴うせいで禁止されている。デュエル・モンスターズが持つ不思議な力をそれぞれのあり方で宿す二人が行うデュエルでは、発生したダメージがすべて現実の事象となる。十代自慢のヒーロー・デッキと一度は闘ってみたいと何度も夢に見ていたが、どちらかが死ぬまで止まらない殺し合いをするつもりはなかった。
十代は悪だくみを持ちかけるようにほくそえんで、ポケットから薄っぺらい紙束を引っ張り出した。一枚ずつはさみで不恰好に切り揃えてあり、ちょうどカード程度の大きさだ。クレヨンで珍妙な絵が描かれている。添えられている汚い文字のおかげで、それらの絵がどうやら遊星と十代のエースモンスター、スターダスト・ドラゴンとネオスを描いたものであることが知れた。
それは粗末な紙切ればかりだった。だが、どんなレアカードよりも素晴らしい紙切れだった。
「オレの手作り」
十代が薄い胸を逸らし、得意げにふんぞり返った。遊星も頷いた。
「さすがです」
「絵はちょっとだけまずいかもだけど」
「味があります。それに手持ちのデッキでデュエルができないのなら、無害なカードを自作してしまえばいいというその発想が天才的だ」
「口のうまいやつだな。褒めたってなんにも出ないぜ」
十代は照れた様子で頭を掻いた。口元がにやついている。まんざらでもないようだ。
ふたりで落書きカードを使ったデュエルを始める。ターンが進むごとに喉の奥が笑い混じりになっていき、真剣勝負にはならなかったが、遊星はどんなかたちであれ十代がデュエルをしている時の顔が好きだ。向かい合った相手を死に至らしめるための救いようがない決闘でも、十代は決して笑顔を絶やさない。彼は傷付くことも傷付けることも等しく心から楽しんでいる。それは異常な性癖なのかもしれないが、比較する対象をあらかた失ったこの世界においては数少ない希望にさえ思える。
時計は午前八時少し前を指している。扉が開いた。遊戯がやって来るにはまだ少し早い時間だ。ルチアーノだった。珍しい顔が気取った足取りで二人のところへやってくる。
「やあ、十代君」
よそ行きの顔をしたルチアーノが、遊星を無視して十代に微笑みかけた。髪をかきあげて涼しい流し目をくれる。大人びた仕草だ。幼稚で悪意に満ちた本性を知っている遊星は強烈な違和感を抱いたが、ルチアーノは遊星にどう思われようが一向に構わない様子だった。
「今朝もかわいいね」
「お前もな」
十代は、ルチアーノの長い三つ編みをぬいぐるみのように抱き寄せた。オレンジブラウンの髪に頬をすり寄せ、悪戯っぽい上目遣いで「きれいな緑の目」と言う。
「君がお望みのデュエルボード、さっそく作らせてみたんだ。あとで取りに来るといい」
「ほんとか!」
「きっとぴったりのはずだよ。十代君の身体に合わせてあるから」
「嬉しいな。欲しかったんだ、あれ」
十代が顔を綻ばせて、ルチアーノの広い額に口唇を落とした。触れるだけの清潔なキスだったが、遊星は動揺し、思わず膝を曲げて立ち上がりかけていた。ルチアーノはいつもの残酷で陰湿な一瞥を遊星へ投げ掛けてきていた。下品に歯茎を見せていたが、再び十代へ向き直った時には、彼はもう礼儀正しく機知に富み、誰もが好感を抱く少年に仮装していた。
「十代君、きみの相手はまたあとで。僕は彼を迎えにきたのさ。不動遊星。時間だ、遅刻なんて困るじゃないか。みんな待ってるよ」
「そうなのか? 遊星。意外とだらしねぇな」
十代がわざとらしく遊星を非難した。彼は性悪のルチアーノが猫をかぶり、まともで感じのいい少年を演じていることに気が付いているだろう。聡明な人だったし、それに遊戯たちの前では遊星が敬服するほど凄まじい猫のかぶり方をする十代だから、自身と共通する嘘のにおいを敏感に嗅ぎ取っているかもしれない。
「なんて。あのさ、ふふ、いじめられたらオレに言えよ遊星。ルチアーノのやつ、キミが特に気に食わないみたいだから」
ルチアーノは穏やかな微笑を湛えたままでいる。十代の前だけで見せる特別な顔で十代を見ていた。思考プログラムのほとんどを狂気に侵されているルチアーノがなぜ十代に親切に振舞うのか、そしてなぜ十代の前でだけはごく普通の良心を持った人間の真似をするのかは知らないが、少なくとも好意から生じたわけではないだろう。彼には絶望以外の感情が欠損しているからだ。
ルチアーノがまるで同じ年頃の気になる女の子のように十代を取扱うのは、彼にありがちな悪ふざけや気まぐれな遊びであるうちは害もないが、やはり何か良からぬ考えがあってのことに違いないと遊星は邪推した。普段は形容しがたい精神破綻機械のルチアーノがまともな顔を見せていると、どうしても薄ら寒い気がするのだ。
「じゃあ僕は行くね、十代君。いい子にしているんだよ」
「気を付けてな遊星」
十代は携帯ゲームに戻った。これから一人遊びをしながら遊戯を待つのだろう。レミングが啼いている。
ルチアーノは、十代に相手にされていないことをそれほど気にしてはいないふうにみえる。表面上は肩を竦めただけだ。ホールを出ていくまではうさんくさい笑顔を崩さなかった。だが扉が閉じてすぐに、遊星は足を蹴っ飛ばされた。
「調子に乗るなよ不動遊星。すかしちゃってさ、人間の分際で生意気なんだよ」
「あまり十代さんを妙な目で見ないでくれ」
「あ~、お前がそれ言う? それ言っちゃいますかぁあ?」
ルチアーノが大げさに手を広げた。子供っぽい動作だ。機知のかけらも残っていない。
天井を見上げた。どこまでも伸びていく無骨なパイプラインを、七色の歯車が取り巻いている。虹の色だ。十代が好きな色だ。
ゾーンがアーククレイドルから姿を消して、もうどのくらいの月日が過ぎていっただろうか。遊星は指を折って数を数えてみようとしたが、うまくいかなかった。この城において時間の感覚ほどあてにならないものはない。しかし彼が去ったあとも、虹色の歯車のなかに、そしてあらゆる冷たい鉄くずのなかに息づいている神の気配を感じることがある。遊星はゾーンの後継として選ばれた時から、人類を救済するというあの男の悲願を引き受け、神の居城の管理者となった。
ごみ山に見知った顔ぶれが集まっていた。東方の三博士じみた白装束のホセと、デルタのライディングスーツ姿のアンチノミー。遊星は彼らに向かって頷き、D・ホイールを起動した。遊星号はアーククレイドルの動力源である太陽ギアに直結されている。新たに修正を加えられ続けている人類の歴史年表が現れた。やはり、どうあがいても滅びの結末に繋がっていく。
「プラシドはまた来てないのか」
遊星は確認を兼ねて言ってみた。あらゆる時代を回し車に乗ったねずみのように忙しなく駆けずり回って、延々と染みだしてくる人類史のほころびを消去し続けているパラドックスはともかく、プラシドが特別な理由もなく遊星の前に姿を現さないのはいつものことだった。ルチアーノが遊星のうしろで白けたような目つきをしている。
「拗ねてんだよ、下っ端。調子に乗った不動遊星の顔なんて見たくもないんだって。僕も同じ意見だけど、あいつよりは利口なんでね。あの方のお気に入りの遊星様に刃向かうような馬鹿はしない」
鳥肌が立つくらいにわざとらしい猫撫で声だ。遊星に媚びるふりをしているが、ルチアーノの目つきは蟻を指で押し潰す遊びを楽しむ子供のものだった。背中を向けて、あてこするような大きな声で独り言をぼやいている。
「わけわかんない。なんで僕らよりも遊星みたいなごみが贔屓されんだよ?」
「贔屓をされているわけではない」
ホセが長いひげの下でもぞもぞ言った。
「ただ神は不動遊星に我々と等しく可能性を与えられた。その価値があると判断されたのだ」
「だからって、なんだって僕らが、あのお邪魔虫の不動遊星に頭下げてご機嫌取らなきゃなんないわけ!」
ルチアーノが叫んだ。凶暴さをむき出しにしていきり立ち、今にも噛みつきそうな剣幕で遊星を睨んでくる。しかし次の瞬間には、子供特有の移り気さで白痴めいた笑顔を浮かべていた。眉間に意地の悪い皺を寄せている。
「そういえばさ、遊星。お前知ってた?」
底なしの上機嫌だった。あきらかに良からぬことを企てている時の顔だ。この子供はおそらく、自前の鋼鉄の犬歯で噛み付くよりも、より効率的に遊星に痛みを与えられる方法を思いついたに違いない。嫌な前兆だ。黒い綿雲が喉に巻き付いてじわじわと締め上げてくるような息苦しさを感じる。遊星は警戒を込めてルチアーノを見つめ返した。
「なんだ?」
「お前が夢中になってる十代、あいつ、処女じゃないんだぜ。きひひ」
「な、何を言い出すんだ、いきなり」
ルチアーノの軽口には慣れていたし、彼から向けられる並大抵の悪意は受け流すことができた。しかし十代の名前を思わせぶりに並べられると、みっともなく狼狽してしまう。半陰陽の彼の少女としてのあり方に関わることならなおさらだ。ルチアーノの思惑通りになってしまうのが悔しかった。
「なんだ、知らなかったんだ。いつもべたべた暑苦しく付き纏ってるから、てっきりもうイイ目見せてもらったのかと思ってた」
「俺のあげ足とりにあの人をあげつらうのはやめろ。十代さんは関係ない」
かろうじて冷静な顔つきを装いながら、だが遊星の脳裏には、生々しい鮮烈さで様々な妄想の奔流が湧き起こってくるのだった。本当に十代は処女ではないのか。もしもその話が真実だとしたら、彼が繊細な身体と感じやすい心を一途に捧げるような相手とは一体誰なのだろうか。空恐ろしく、両手の震えを止めることができない。遊戯か。それともアテムなのか。
いや、くだらない憶測は今すぐにやめるべきだ。いつものルチアーノ流の悪ふざけに過ぎない。たとえ想像の中だとしても、気高い彼らを穢すような下卑た真似をするべきではない。
8
まず遊星の目に飛び込んできたのは、みだらな踊りでも舞いだしそうな、亜麻の薄布を纏っただけの裸に近い恰好をした三人だった。アテムは廃材を組んだ椅子に座って、肘掛けに肘を置き目を瞑っている。足元に十代を侍らせていた。十代は古の時代の奴隷の少女のように静々と膝を揃えて折り、恍惚の眼差しで溜息を吐いている。肌色が透けて見えた。あきらかに下着をつけていない。
退廃的で妖しい美しさをごてごてと飾り立てた光景を前にして、遊星はホールの扉の前で、呆けて立ち尽くしてしまった。目に見えるものを理解の形に整えて胸の中へ落とし込むことを、脳が拒んでいるとしか思えなかった。
「な、何をなさっているんですか? 皆さんのその恰好は、一体どうしてしまったんですか」
「古代エジプトごっこだよ。アテムさん喜んでくれるかなって思ってさ。なぁ遊星、お二人マジかっこよくねぇ?」
「十代のやつがせがむんだ」
アテムが肩を竦めた。子供の我儘を聞いてやる父親の顔をしている。
遊戯は、間違った部屋へ知らずに入り込んだ迷子が見せる困惑を表情に浮かべている。十代はそんな遊戯の足をとり、宝石が嵌め込まれた金の足輪を足首に嵌めていた。柔らかい踵にパピルスのサンダルを履かせ、うっとりと頷いている。アテムを見上げ、彼の満足そうな一瞥を受けて、無邪気な微笑みを見せた。
「こういうの良くないと思うよ。もう一人のボク」
遊戯が咎めるような声を出した。アテムは例の気遣うような、いたわりと慈愛に満ちた、遊戯だけに向けられる優しい横目をくれた。
「十代のやることが気に食わないか、相棒」
「そうじゃないよ。ボクらが王様で十代くんがボクらの奴隷の役なんて。こんなのあんまりだ。まるでいじめてるみたいじゃない。ボクは十代くんと友達になりたいんだ」
「いじめるだなんて。そんなことはありえません、遊戯さん」
十代が拳を握って、胸の前に誇らしげに掲げた。
「貴方に憐れんでもらえるなんて、オレは幸せ者です。ただこれがオレにとって一番のご褒美ですから」
「キミのことが、ボクたまによく分かんない」
「何だっていい。相棒が望むのならそれでいいさ。友達でも奴隷でもペットでも構わない。そうだろ、十代」
「もちろんです、アテムさん」
「あいつはどうだろうな。オレ達と同じ王になりたがるか。あるいは、十代に倣って奴隷になりたがるか。ああそうだ、神官が足りなかったか」
アテムが遊星を、果てしない砂漠を翼を広げて翔け往く鷹の目で射た。遊星はアテムを静かに見つめ返した。しばらくの間無言で見つめあっていた。アテムの傲慢な振る舞いの裏に隠された本当の心を、遊星は知っているような気がしていた。
アテムは、彼が存在するはずだった古代エジプト王朝時代に、狂おしいほどに激しい憧憬を憶えているはずだ。かつて彼を王と崇めた者たちが繁栄と転生を繰り返し、辿り着いた先にある滅びの未来を救済した後、いつの日にか、はるか昔に栄えた砂の王国へ、彼が王として治めた国へ凱旋する。そこで分厚い歴史書の一ページに登場する一人の王に戻り、生ききって死ぬことを望んでいるのだ。
「遊星よ。奴隷を好きにしたくはないか?」
アテムが面白そうににやつきながら、十代に目配せをした。彼は遊星が十代に不器用な執着を抱いていることを悟っている。
「オレは……」
遊星は身じろいで、うっすらと透けた布を纏っただけのしどけない姿の十代を盗み見た。目のやり場に困り、すぐに視線を逸らせてしまった。
「やっぱり駄目です。いけません。こんな恰好を十代さんにさせては、この人は、そんな……」
緊張で強張ってうまく動かない指をもどかしく思いながら、遊星は羽織っていた長衣を脱いで十代の肩に被せてやった。前を合わせて留めようとしたところで、左手に柔らかいものが触れた。
その正体を悟った途端、視界が真っ白な閃光で眩んだようになった。女の胸。布越しの触感にひどく動揺し、後退ろうとしたが、足をもつれさせて前のめりになり、無様に倒れ込んだ。
両腕の中で小さな悲鳴が上がった。我に返ると、遊星は冷たい鋼鉄の床の上に十代を押し倒した恰好になっている。長衣の開き目から、結び目が緩んだ薄布が垂れている。眼下に薄い色をした乳首が見える。遊星は石のように硬直した。
「大丈夫なのかあいつ」
遊星の奇妙な挙動に、さすがのアテムも怪訝そうに瞼を眇めた。
「いがいとムッツリスケベ」
遊戯が複雑そうに呟いた。小さな両手をアテムの頭の後ろから回し、目隠しをしている。
「相棒? 何をしているんだ」
「ああいうのは、キミは見なくていいの!」
十代は猫に似たつり目を瞬かせ、繊細な両手を伸ばして遊星の頬を包み込んだ。柔らかそうな唇がごく間近で薄く開いて、赤い舌が覗いている。遊星は思わず唾を呑み下していた。
「お、おい。大丈夫か? 顔色変だぜ。どっか悪いんじゃないか」
遊星は尻餅をついて、十代から距離を取った。十代は行き場を失った優しい手を宙ぶらりんにしながら、心配そうに見つめてくる。それが更に遊星を後ろめたい心地にさせる。
「す、すみません! 俺……俺は貴方に何ということを――十代さん、お、お許し下さい!!」
遊星は叫んだ。這うように立ち上がり、後ろも見ずに一目散に駆け出した。十代の前から逃げ出した。
柔らかい拳が扉を叩いている。ロックが正常に機能していることを横目で確認して、遊星はベッドの上でさらに身体を折り曲げた。窮屈に縮こまり、枕を頭からかぶってシーツの奥へ潜り込んだ。
「遊星。ゆーせー! ゆーくん! なぁアンチノミー、遊星どっか悪いのか? 自分の部屋から出てこないんだ。呼んだって返事もしやしねぇし、飯も食ってないみたいなんだ」
十代のたどたどしい声がした。十代とアンチノミーの二人が、ホールでの目も当てられない失態以降、自室に閉じこもりきりの遊星を心配して訪れてくれた。だが遊星は、今は誰にも会いたくなかった。特に十代には合わせる顔がない。少しの間のあとで、アンチノミーが何とも言えず穏やかな声で、ただし遊星以外の全ての人間へ向ける厳めしい口調で、うろたえている十代をなだめている。
「彼は感じやすい年頃なんだろう」
「オレだって遊星と同い年なんだけど」
十代が不満そうにぼやいた。
「遊星は特別に繊細だ。君も知っていると思う」
「うん。確かに。あいつって頭が良いから難しいことばっか考えちゃうんだろな。オレみたいにもっとばかになればいいのに」
「ぜひ君の取り分を分けてやってくれ。そうだな、ついでに私にもこれまでの記憶が飛ぶほどきついのを頼む。一度でいいから、年がら年中機械と猫についてだけを考えて生きているような、能天気な男になってみたいんだ」
「じゃ、この十代さんのあつぅいクチウツシで……」
「――そういう冗談は、やめて下さい!」
遊星は思わずベッドから跳ね上がり、開いた扉越しに廊下へ向かって怒鳴っていた。十代とアンチノミーは、猟犬に追い立てられて穴の中から飛び出してきたうさぎを見つめる農夫のような顔をして、遊星をまじまじと見つめている。
「あ、出てきた」
「ああ、出てきたな」
二人に謀られたのだと気付いたが、もう遅かった。十代は腕に掛けていた、先程羽織らせてやった白の長衣を広げて、遊星のシャツの上から被せた。彼はもういつもの患者衣姿だった。安心と残念さが入り混じった複雑な気持ちになり、そのせいでまた後悔が湧き起こってくる。
「なんだよ、遊星。顔も見せやしねぇでさ」
「そ、それは」
「それは?」
「……貴方に、嫌われてしまったかと、思ったんです」
声を震わせながら答えた途端に、アンチノミーが噴き出した。壁を向いた背中が震えている。傷付きやすい年頃の元庇護対象のために、なんとか笑いの衝動を抑え込もうとしているようだが、うまくいかないらしかった。羞恥が遊星の耳を熱くする。十代は、いまひとつ良く分かっていないような表情で、首を傾げている。
「キミ、何もしてないだろ。なんでオレに嫌われたなんて思うんだ? わっかんないやつだな。……あ、もしかして、十代さんのすけすけおっぱいを見て興奮しちゃったわけ? いやーん、ゆーくんのドスケベ!」
十代はふざけて腰をくねくねさせ、わざとらしい艶を含んだ作り声を出した。遊星は、救いようがないほどに赤面した。固く目を閉じ、太腿の横で拳を強く握りこんだ。全身が気恥ずかしさで震えた。十代の言うとおりだ。遊星は十代に軽蔑されてしかるべき『ドスケベ』だ。度し難い男だ。
「こら、やめるんだ」
アンチノミーが見かねて十代の耳を引っ張った。
「君は我々に婦人の扱いを受けた時はひどく不機嫌になるが、何故遊星に対してはそう半身の女性体を振りかざして虐めるんだ。もしかして、君は遊星に一人の女性として見てもらいたいのか?」
驚いたことに、十代は否定しなかった。それどころか恥ずかしそうに俯いて、頬を染めさえしたのだ。アンチノミーが目を丸くして、意外そうに息を呑んだ。
「驚いた。てっきり遊星の片想いなのかと思っていたが」
「な、な、なに言ってんだ。オレは別に、そんな、女なんて。ただ遊星は……」
十代は、消え入るような声で囁いた。
「遊星は半分のオレを笑わない」
不器用な信頼を持て余している十代の心がとても眩しかった。彼の光はいつも遊星の胸を刺す。心の部屋を引っ掻き回し、冷静と理性を失くし物にして、足の踏み場もないくらいの愛おしさと恨めしさでいっぱいにする。感情が暴発する。目が潤み、涙が零れた。十代がぎょっとした顔になった。
どうして泣くのか、自分でも理解できない。嬉しかったのは確かだ。安堵したのかもしれない。だが無数の言葉にならない感情が、渦のようになって遊星の中を狂ったように飛び回っているせいで、気の利いた言葉が見当たらない。
多くの場合、そういった種類の心の動きは寡黙な遊星にとっては苦痛を伴うものだったが、十代に係る情動は決して悪いものではなかった。古びてはいるものの、長い間使い慣れた毛布にくるまっている時のようで、とても温かくて心地が良かった。
アンチノミーは逆毛へ手を差し込んで、溜息を吐いて十代の肩を掴んだ。
「はあ。十代、遊星の面倒をきちんと見てやって欲しい。君が泣かせたわけだからな」
「オ、オレがなにしたよ! 笑わせてやろうと思ったんだ……ダメだったけど」
「何度も言うが、遊星は繊細なんだ。君が知らずに傷付けてしまうことだってある。いくら遊星といえども、あまりにも度を超すと君を嫌いになってしまうかもしれないぞ」
十代は喉の奥で「ぐう」と唸って、庇護者の顔をしているアンチノミーをばつの悪そうな顔で睨んだ。彼の背中を見送ってから、遊星の頬へ恐る恐る手を伸ばしてきた。
「う、嘘だよ。全部嘘だ。泣くな。虐めたわけじゃないんだ。ただ……オレなんかを普通の女の子みたいに見てくれるみたいでさ。変わった生き物を見るみたいじゃなくて、面白がったり気味悪がったりじゃなくて、それが不思議っていうか、変な感じ。嫌じゃないよ。でもちょっと恥ずかしくって。ちゃんとした女じゃないから、オレ」
「貴方は、歴史上で一番美しい女性だと、俺は……信じています」
十代は色違いの瞳を大きく見開き、遊星の頭がどうかしてしまったんじゃないかという顔をした。やがて表情を緩め、軽やかな笑い声を立てた。
「はは、変なの。……オレさ、キミになら、見られたり触られたり……その、いいんだけどな」
「え?」
遊星は動揺した。十代は微笑んで遊星を見つめ返してきている。
「いいんだけど」
「あの。えっと、その」
遊星が口ごもっているうちに、十代は触れ合っていた手を離し、少し機嫌を損ねたふうに目を逸らした。
「ばか」
「は、はい。……すみません」
「嘘だよ。どうかしてたんだ、ばか」
そう言って遊星の向こう脛を蹴っ飛ばした。
9
腕に抱えてきた本の束を歪んだ地面に降ろすと、灰色の土埃が盛大に舞った。汚れきった空気のせいで、乾いた墓標で埋め尽くされた死の街の景色が濁っている。十代がまた咳き込んだ。
幼年期からごみ漁りを好んでいた遊星の肺は、すえた外気に順応していたが、完璧に浄化された空気を吸って育った十代には辛いだろう。背中をさすってやると、人心地がついたふうに短い息をついて、わずかに涙が滲んだ目の端を擦った。
「へへ、きったねぇ空気」
「無理をして俺についてこなくても良かったんですよ」
「平気さ。そのうち慣れるよ、キミみたいに。せっかくデートなんだし」
「デ、デートですか」
「それにしても昔の古い本なんか集めてさ、キミも結構変わったやつだな。随分数があるけど、これ全部読むのか?」
「十代さんもいかがですか?」
「いいっていいって。オレは難しいのは苦手なんだ。きっとすぐに寝ちまうだろうな。あ、漫画なら欲しいかも」
「ええ、少し待って下さい――」
拾い集めた本の山の中から、十代の興味を引けそうな種類の本を探して、何気なく一冊のタイトルに目を留めた遊星は、一瞬で顔色を真っ青にした。
『ボッキン・パラダイス・マガジン』と記されている。男の欲情を露骨に掻き立てるあけすけな肌色が、いかがわしい表紙の上でてらてらと光っていた。
「うわぁ、エロ本だー」
十代は無邪気に座り込んで、男女の性交を想起させる紙製のピンナップをめくっている。遊星はじっとりした汗を額に浮かべながら、十代から本を取り上げて背中の後ろに隠した。
「じゅ、十代さん! こんなものを貴方が見てはいけません!」
「遊星はそういうの、興味ねぇの?」
十代は窺うような上目遣いで遊星を見上げてきている。あきらかに楽しんでいる。いたたまれない気持ちになった。
「い、いえ、その……こういうふうに、不特定多数の女性には、あまり」
「やっぱり。真面目だもんなぁ、お前」
「そうではなく、俺だってその……こういうことをしたいと、思うことくらいあります。あ、貴方と……」
十代が首を傾けた。遊星は、取り返しのつかないことを口走ってしまったのだと気が付いた。
十代へ向かう衝動的な好奇心が泡粒のように浮かび上がるたびに、鋼鉄の自制心によって押し潰してきたが、このまま見過ごし続けるのは限界だった。今しかない。遊星は大きく息を吸い、ずっと腹の底にわだかまっていた疑問をぶつけた。
「あの、十代さん。貴方は……貴方は、処女じゃないのか」
「はぁ?」
「こ、こんな質問をするなんて、俺自身どうかしているとしか思えない。十代さん。でも、俺にはもう耐えられないんです。すみません十代さん、あ、貴方は。貴方はもう――」
「わけわかんない」
十代がぽつりと言った。声に感情が籠っていない。慌てて顔を向けると、そこには必死に笑い出したいのを堪えている十代がいた。
「オ、オレ、男だし。意味わかんないんだけど遊星」
息苦しさからではなく、かすかな涙が滲んで光っている。本当におかしそうに十代に笑われると、遊星を蝕んでいた怯えと不安は軽々と吹き飛んでしまった。目の端の滴を指で掬い、実直に感嘆を表した。
「……綺麗だ」
十代は咳き込むように吹き出した。
「いきなり何を言い出すんだよ。綺麗だって? オレが!」
「とても綺麗です」
「遊星、キミはおかしいよ! なんでだよ。どうしてだ? へへ、そんなふうに言ってくれるのは、なんだかさ、変だけど。でも嬉しいんだと思うよ、オレ」
遊星はうっとりしたまま、この美しい人が宿した引力に逆らうことも思いつかず、口唇を重ね合わせていた。十代の口唇は乾いていた。柔らかくて冷たい感触だった。火照りきった頭が透き通った水で満たされていくようだ。
十代は驚いたようだったが、彼もまた、こうなることをどこかで知っていたのだろう。抵抗はなかった。目を閉じて、されるがままに身を任せている。遊星も目を閉じた。そうしてしばらくの間、十代の味を官能に染みわたらせていた。甘い感覚だった。
「びっくりした」
口唇が離れて一言目に、十代はそう言った。遊星は、可憐な花が咲き誇るように上気した十代の頬に、磨き抜かれた宝石を連想させるとろりと潤んだ瞳に、心臓を動かすことさえ億劫に感じるほどに見惚れていた。
「こんな、いきなりで、怒っていますか?」
「うーん。キミはどうだ? 気持ち良かったのか?」
「すみません。……とても」
「ならいいよ。うん、いいんだ。よかった」
十代が恥ずかしそうに微笑んだ。だがすぐに、腑に落ちないとばかりの渋い顔になり、遊星の胸を小突いた。
「処女じゃないって、なんだよそれ」
「だって、ルチアーノが」
十代は「ふうん」と唸り、遊星から視線を逸らした。ぎこちない言葉をぽつぽつと紡いでいく。
「えっと、調べてみるか? いいけど」
「え?」
柔らかなラインを描く頬が、遊星が気恥ずかしくなるほどに赤く染まっている。
「……ついでに、その、奪っちゃってもいいんだけど」
遊星は息を呑んだ。十代は畏れとためらいをわずかに匂わせながら、遊星を見上げて、ぶしつけな腕が華奢な身体をまさぐる時を待っていた。
操られるように、女の薄い肩を怯える手付きで抱く。痩せた背中が震えているのがわかった。
倒壊した墓標の上へ十代を横たえ、覆いかぶさって、遊星の指の動きや吐息のひとつまでをも心待ちにして熱を持った肢体が、とても愛しいと思った。
遊城十代の肉体は、若い男のみずみずしさと少女特有の不可侵さを湛えている。素晴らしく鮮やかな夢を見ているのかもしれない。そう訝るほどに、彼は完全な生命体だった。全身が歓喜にわなないていたが、それでも、偶像を穢す行為が空恐ろしかった。
「い、いいんですか。その、本当に、俺で……」
畏れる遊星の頬を、十代が宥めるように撫でてくれた。こうされることが好きだった。かつては人間の年長の兄弟が良くやったような、親愛に満ちた仕草だ。
今は緊張で少し強張っていたが、十代は満ち足りていた。期待と喜色をない交ぜにした微笑みを浮かべて遊星に頷いてくれた。
「キミならいいよ。でも、優しくしてくれよな」
「は、はい」
遊星は真っ赤になって、十代の患者衣をゆっくりとはだけていった。十代は柔らかい衣擦れの音にも敏感に反応して、握り込まれた手は慣れない肌の触れ合いに戸惑っていた。時折救いを求めるように、つやつや濡れた瞳で遊星をじっと見つめてくる。そうされると呼吸が止まり、時間すらも静止したように思えた。
「十代さん、あ、貴方とこうして抱き合うのがずっと俺の夢で――」
「ゆ、ゆうせ。……オレも、キミのこと、――」
突如として大地が激しく揺れた。暴力的に耳を犯す地響きが、すべての音を掻き消してしまった。
巨大な炎の杭が、たとえるなら神が撃ち放った矢のような、とてつもなく眩い一筋の光がアーククレイドルを直撃する。
炎は長躯の竜のかたちを繕い、あかあかと燃え滾っている。異形の姿を目に映した途端に、遊星の背筋が凍った。強烈な赤に、あまりにも禍々しい印象を受けたのだ。胃の壁を肢のない虫たちがじわじわと這い上がるかのような、嫌な感じだ。
「な、なんだよ。なんだか知らないけど空気読めって、こんな時に!」
十代が赤い顔に苛立ちの涙を浮かべて、怒ったように失望したように、上ずった声で叫んだ。
「遊星と、その、……はじめてなのに」
十代を腕の中へ抱いて、時空の彼方から現出したきらめく炎の怪物を睨み付ける。遊星の両目は、怪物に並走するD・ホイールの姿を認めていた。ひどく既視感を覚える影だった――いや、遊星自身が誰よりも良く知っている機体に間違いはない。
遊星号。伝説のD・ホイールを操っているのは、鏡の中に見覚えのある男だった。ふとこちらを向いた目は、遊星が最も嫌う色をしていた。濃い青色だ。何百年も昔の時代を生きた英雄不動遊星の幽霊と同じ色だ。
顔のかたちや体つきまでもが瓜二つだ。その男の容姿はまぎれもなく遊星自身だった。
――もうひとりの不動遊星が、得体の知れない時空の彼方から、このアーククレイドルに到達したのだ。
時間が奇妙な緩やかさで流れているように感じられ、赤い渦の中を滑ってゆく竜のどろどろとした溶岩の流れを思わせる動きだとか、遊星自身とまるでそっくりな容姿をした男が、遠目に怪訝そうにして、瞼を薄く眇める仕草だとかが、脈絡もなく始まった紙芝居のようにぶれて見えた。
「ぼーっとしてんな、遊星!」
急に、十代のよく通る澄んだ声が耳のそばでして、皮膚を取り巻く時間が元通りに動きだした。彼方からの来訪者の姿に釘付けになっていた遊星は、十代の叱責でようやく我に返った。
十代が例の銀色の巨人、彼のエース・モンスターを召喚した。実体化したネオスは遊星の腰を掴み上げ、主を肩に抱えると、青年二人分の体重を苦にするふうでもなく軽々と飛び上がっていく。背骨のあたりに心もとない浮遊感がじわりと広がった。
その直後に、二人が今まで佇んでいた場所へ、朽ち果てた廃ビルが瓦礫混じりの土砂と埃に分解されて、濁った色の煙を撒き散らしながら滝のように落下してきた。アーククレイドルの表層を覆っているネオ童実野シティの残骸は、滅びの日を越え、さらに長い年月を経て標本となり果てている。風化が進んで脆くなり、ほんの僅かな衝撃でさえ砕けてしまう。強い地震に耐えきれなかったのだ。
土煙が舞いあがり、視界が黄色くけぶった。何も見えない。咳き込む気配を頼りに十代の手のひらを掴んだ。
「十代さん、立てますか」
「当たり前だ。何だよ今の。雷? 竜巻? それとも隕石が落ちたのか?」
十代は顔を顰めて柔らかい瞼を擦っている。空を横切っていったゆらめく炎の竜と、赤いD・ホイールには気付いていない。精霊視の力を宿す特殊な眼球を持った十代が何も認識していないとすると、遊星が見たものは幻覚だったのだろうか。しかし、ぬかるみに足を取られて濁った沼の底へずぶずぶと沈んでいくような、強烈な違和感を拭い去ることができない。
「……十代さん、俺、少し様子を見てきます。十代さんは先に遊戯さんとアテムさんのところへ戻っていて下さい」
十代は驚いた顔で遊星を見上げた。傷付いたような素振りだった。遊星の長衣を掴む手が、彼の不安を示して強張っていて、まるですがるようだった。
「なんだよ、遊星。こんな時に危険なところへキミひとりでやれるかっての。オレも行くよ。キミはオレを必要としてくれる。そうだろ? オレはキミを護りたいんだ」
「雷か、竜巻か、隕石が落ちてきたのか。十代さんの言われるとおりなら、おそらくアーククレイドルの防衛システムに何らかの不具合が起こったんでしょう。機械の故障を直すのは、俺の仕事です」
「でも、だって、オレの力がきっと役に立つだろ。遊星?」
遊星は、不機嫌なエンジンをあやすような心地で十代をなだめにかかった。
「聞いて下さい、十代さん。今の地震で、中枢にも何らかの被害が出ているかもしれない。貴方が誰よりも大切に思っている遊戯さんは、貴方が誰よりも尊敬するアテムさんが必ず護るでしょう。ではアテムさんは誰が守ります。あの人は最強の決闘者だ。だけど、どこか危なっかしい人ですから。貴方も知っているはずです」
「……うん。そうだけど、でも」
「もしもアテムさんに何かがあった時、あの人を守るには遊戯さんの手はまだ小さすぎる。俺たちを世界を救うための歯車のひとつだと考えているこの世界のロボットたちをあてにはできない。だから今は、俺たちでお二人を護りましょう。十代さんは俺を信じて先に行ってください」
「あ、ああ。そうだ……うん、そうだな」
『遊戯とアテム』、十代の心をいばらの蔓でがんじがらめに縛りあげ、抗いを奪う魔法の言葉だ。十代は狡猾も打算も忘れ去って、遊星の言いなりになる。憧れに操られたまま、馬鹿正直なほどまっすぐの眼差しをして、拳を握り込んでみせた。
「よし、お二人はオレにどんと任せてくれ。この命にかえても護ってみせる。キミこそ気を付けるんだぜ、遊星。怪我なんかしたら許さないからな」
十代は頬を紅潮させていた。聖句を口ずさむように厳かに繰り返した。
「キミとオレとで、あの人たちを護ろう」
「はい、十代さん」