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ビデオチャットを立ち上げたモニター画面にレベッカ・ホプキンスが現れた。昔よりもすこしそばかすが薄くなっただろうか。手入れが行き届いた金髪をふわふわさせて、手を振ってよこした。
『ハロー、ダーリン。元気してる? 浮気してない?』
「こっちはとくに問題ないよ。じーちゃんの腰の具合がちょっと悪いくらいかな。もう歳なのに無理するから」
最近の話題は、予選が来月に迫っている今冬のデュエル・トーナメントのことばかりだ。〈KCグランプリ二〇〇九〉、優勝者は初代決闘王に相対する権利を得る。
遊戯は、まだ十代だった頃にアメリカで行われた初代KCグランプリの優勝者の顔を思い浮かべていた。デュエルモンスターズを心から愛し、天才的なタクティクスを持つあどけないレオン少年。彼もずいぶん大きくなっただろう。今度は余計な横やりもなく、純粋に決闘を楽しんで欲しかった。
「じゃあ本戦の日に合わせて、レオンくんも日本に来るんだね」
各国のチャンピオンは無条件で本戦に出場する切符を手にすることができる。しかし、レベッカは首を振った。
「レオンは予選からよ。あの子、ヨーロッパ大会で準優勝だったの」
「あのレオンくんに勝った人がいるのか。どんな決闘者なんだろう?」
『相手はワタシも実際には見たことないわ。ヨハン・アンデルセン。謎の幽霊デュエリスト、宝玉獣のヨハン』
「ああ、あの」
『そ。ペガサスお気に入りの男の子よ。それも相当入れ込んでるわ。なんたってあの人、ヨハンを世界最強の五指に挙げたうえに、今じゃ時価数億の価値がある宝玉獣のカードを一揃いタダであげちゃったんだから。それとは別なんだけど、ダーリン、ワタシね、心配なの』
「ん? どうしたの、レベッカ」
『今年のグランプリのMCは日本人のぽっと出のアイドルがやることに決まったでしょ。そんな女が、決闘のことは初めてだから優しく教えて下さい、なーんて色目を使ってきても絶対になびいちゃダメなんだから』
「え。あ、ああ、えーと」
『なによカンナカンナって。うちの会社でも、まるで催眠術にでも掛かったみたいに、みんなしておかしくなっちゃってるんだから。ねえ、ダーリンはわかってくれるよね! ワタシのほうが神月カンナよりずっとかわいいし、胸だって大きいわ』
内心ぎくりとした。冷や汗が額を伝う。
次世代決闘者アイドル、神月カンナ――名門デュエル・アルカディア学園のアイドルコース一期生。天使のような愛らしさで入学後間もなくデビューを果たし、わずか半月という異常なスピードで日本中を席巻した。今では誰も名前を知らないものはいないほどのトップアイドルに上り詰めた金の卵だ。
玄関の扉が大きな音を立てて開いた。今は安静にしていなければならないはずの双六が、階段を勢いよく駆け上って部屋に飛び込んできた。興奮した面持ちで、息を荒げてジュエルケースを掲げている。
「遊戯や! ほれ、手に入れたぞ。神月カンナちゃんのファースト・アルバムじゃ。初回特典の握手券つきのやつじゃぞ!」
遊戯は慌てて立ち上がり、叫んだ。
「じーちゃん! ボクのぶんも買ってきてくれた!?」
『……ダーリン?』
「は」
恨めしげに発音をひとつひとつ区切りながら、うつむいた金髪頭が震えている。遊戯は凍りついた。
「いや、これは、その」
『ダーリン! ワタシっていういい女がいるんだから、よそ見しないでちゃんとこっち見てよ!』
レベッカが爆発した。
*
童実野の再開発から取り残された廃工場の穴ぼこだらけのトタン屋根の下で、急にうしろから伸びてきた白い腕が十代のまぶたを覆った。
「だーれだ?」
柔らかくて親しみに満ちた甲高い声が、死んだ空間のなかでたわみ、膨れて響いた。レオンハルト・フォン・シュレイダー、おとぎの国の王子様のような青年が人懐っこく十代の手を握る。
「こんにちは、カンナ。また会えてうれしいよ」
「お前と同じ協力者だよ」とモクバが言った。
十代は呆気にとられた。海馬コーポレーションとシュレイダー・トイズは犬猿の仲、しのぎを削る競合企業同士ではなかったか。とりわけ両社の社長の反目ぶりは全世界が知っている。
レオンも十代と同じ疑惑を抱いているようで、もの問いたげにモクバを窺っている。
「武藤遊戯のブラック・マジシャン・デッキが盗まれた」
モクバが言った。レオンの表情がこわばる。
「レオンハルト・フォン・シュレイダー、あのKCグランプリの一件で、お前は遊戯に大きな借りができた。あいつをタネにライバルをゆするような真似はできないはずだ」
「なんだか、なりふり構わないって感じだなあ」
「なんとでも言ってくれ。今のオレには信用できる人材が圧倒的に足りないんだ。オレはひとりで、こいつみたいな天敵でも利用しなきゃ」
目配せで〈天敵〉だと示されて、「モクバさぁん」、情けない声を上げるが取り合ってももらえない。
言い方はそっけないが、モクバの小刻みに震えている握り拳を見れば緊張の度合いがわかる。彼は考えあぐねている。自分がやっている行為は正しいのか、真実兄のために必要なのか、もしかすると自社企業と兄への重大な背信行為に他ならないのではないか、このシュレイダー家の次男坊ははたして信頼に足る人間なのか?
甘ったるい心の闇のにおいが十代の鼻先をくすぐり、無意識に唾が湧いてくる。舌なめずりをしそうになって、慌てて自制した。武藤遊戯の友人は決して悪魔の食餌ではない。
「負い目や借りは関係ないよ」
いたたまれない沈黙の時間を、レオンが破った。
「たしかに遊戯さんには大きな恩がある。負い目だってあるよ、あのエキシビジョンでぼくたち兄弟がみんなにかけた迷惑は、そう簡単に償いきれるものじゃない。そんなものとは関係なくて、ぼくは尊敬するあの人の為なら、何でもする」
「……だそうだぜい、十代」
「あ、はい」
「じゅうだい?」
レオンは馴染みのない名前を舌の上で不思議そうに転がした。モクバが、くだらない茶番だとばかりに肩をすくめた。
「神月カンナもお前と同じ理由でここにいる。海馬コーポレーションに、そして武藤遊戯に莫大な借りと負い目がある協力者さ。偽名を使ってこんな恰好をしちゃいるけど、こいつは男だ」
「ええ? うそでしょ、そんな。カンナ、こんなにかわいいのに」
レオンは衝撃を受けたようだ。電気信号と無限のテキストと人類の幻想でできた幽霊の正体を見極めようと目をこらした。色ものの扱いをされるのが、ひどく恥ずかしい。十代はぶっきらぼうに顔をそむけて言い訳をした。
「かわいくねぇよ。遊戯さんのためじゃなきゃ、こんなみっともねぇ恰好なんか絶対するもんか。モクバさんの言うとおり、オレもキミと同じだよ。遊戯さんは恩人なんだ。何をやったって返せないくらいのものをあの人はくれた。だからオレは、あの人のためなら何でもやるのさ」
「いや、きみとは似たところばかり見つかるな」
レオンは感心のため息をついて、手のひらをぱちんと打ち合わせた。
「でも嫌がってるわりには完璧だよね。どこからどう見てもきれいな女の子にしか見えないよ。あ、もともとそういう趣味があったとか」
「ふざけんな。そんなもん、あってたまるか」
十代は真っ赤になって否定した。
「それは、その、あれだ、モクバさんが」
「彼になにかされたの?」
レオンの注目に、腕を組んだモクバが技術者特有の排他的な自尊心をもって重々しく頷いた。
「オレが組んだ携帯ゲーム型人格矯正プログラムを使ったんだ。『どんな悪魔もたおやかな淑女に』をコンセプトに、そいつが『大好きな』決闘王武藤遊戯の行動、言動パターンを組み込んだ、砂糖よりも甘く生クリームよりも濃厚な愛の教育決闘体感ソフト〈ユーギプラス〉。どうだ、十代?」
「モクバさん。あなたがオレのアニキだぜ!」
「この海馬モクバの手に掛かれば、野良犬のしつけごとき造作もないぜい」
「うわぁ。ぼくも、ぜひ、そのゲームやってみたい」
レオンは大いに心を惹かれたらしく、瞳を輝かせた。彼は十代とモクバの変装をしげしげと眺めたあとで、「きみたちの仲間に入れてもらうのなら、ぼくもそういう恰好をしたほうがいいのかな?」と言った。
「女の子の可愛い服って、ちょっと興味もあるし」
「却下だ。お前、自分の身体を見てから言え」
「からだ」
レオンは童顔で柔和な顔立ちだが、背が高く、引き締まった分厚い筋肉をゆったりしたセーターの下に隠していた。十代は呆れと羨望を覚えた。彼ら外国人ときたら、かわいい顔をしてなぜこんなに良い体をしているのだろう。
「ふうん、残念だな」
本当に残念そうに、レオンが言った。
*
「校長先生ー!」
黄色い声でかしましく呼ぶ女生徒たちに向かって、ディヴァインは気取った仕草で手を振り返した。また悲鳴が上がる。ディヴァイン青年は亡くなった父親に代わって、この秋から名門デュエル・アルカディア女学園の兼任理事長を務めている。
「やあ、楽しんでるかい」
童実野水族館のミュージアムショップの店先で、土産用の四角い紙箱を抱いた少女たちが無邪気に返事をした。
「このお土産、カンナ様がいたくお気に召していたんですよ。〈童実野水族館名物ひとでまんじゅう〉」
「彼女、ひとでが好きなのかい?」
「理由はわからないけど、あのフォルムに心魅かれるんですって」
「ふうん。覚えておく。白あんっていうものは食べたことがないが、美味いのかな。僕も買ってみよう」
ショップのガラス越しにシャチのショーが見えた。ベンチは観光客と家族連れでいっぱいだ。円筒形の人工プールのなかで波がきらめき、大きな黒い生き物が水柱を上げて頭を突き出した。会場は大きな歓声に包まれた。
「今頃カンナ様は握手会の打ち合わせですわね。どこの馬の骨とも知れない殿方が、あの方の繊細な手に馴れ馴れしく触れるなんて。私、とても耐えられそうにありません」
取り巻きの少女のひとりが眉を吊り上げた。異性を、とりわけ年配の男を恐怖しているふしがある彼女らが同世代の見目麗しいカンナへ向ける目つきは、恋慕にも似た甘ったるさだ。
「聞いてくださいディヴァイン校長先生。ゴーランド先生が、またカンナ様をいじめていたんですよ」
「そうですのよ。昨夜もホテルで、ねっとり、ちくちくと」
「きっとあの方があんまりお美しいから嫉妬してるんですわ」
羊たちは牧羊犬への不満を合唱した。
神月カンナ。非常に優秀な生徒だ。彼女はいつも教師たちの期待に応えてくれる。ディヴァインは彼女に興味を覚えていた。
初めて出会った夜から、カンナを見るたびに、いつものトリアゾラムを飲んだあとに訪れるめまいにも似た感覚に陥るのだった。心の奥に茂る、不気味な深い霧がかかった黒い森の風景が、ぼんやりと浮かび上がってくる。そこは、掴みどころがないくせに粘っこくまとわりついてくる闇で満たされている。
神月カンナはディヴァインとどこか似ている。彼女を知りたかった。同類を理解することこそが、自分自身が一体何者で、どこから来てどこへ辿り着き、そして運命に意味を勝ち取るのかという疑問に答えを得るたったひとつの方法に違いない。それが異端の烙印を押された規格外としての義務のようにさえ感じていた。
カンナには秘密が多すぎる。彼女は何者なのか。そもそものところ、人間なのだろうか。
いたって大真面目にこう考えることがある――神月カンナは悪魔なのかもしれない。鏡の向こう側へ向けられるある種の猜疑心。ディヴァインにとって、それは好意と大差ない感情だ。
「同じ教師といっても校長先生はゴーランド先生とは違いますわ。カンナ様のことを誰よりも理解してくださっているんですもの」
女生徒が熱心に喋り続けているのを、ディヴァインはにこにこしながら聞いていた。
「今回のオリエンテーション旅行を赦してくださったのだって、やっぱり以前の方のようなお年寄りに比べてずっと話がわかるし――あ、ごめんなさい。亡くしたばかりのお父様のことを悪く言うなんて」
「気にしないさ。たしかにあの男はやり方が古かったし、視野が狭かった。生徒たちに化石になった規則を押し付け、伝染病患者めいた隔離を強いるような時代錯誤な真似をして、いまどき誰が得をする? 失われた暗黒時代とは違うんだ。ここだけの話にして欲しいが、僕もいろいろと込み入った家庭の事情というやつがあってね。ろくに外へ出たことがないんだ。不自由な生活だったな。だから閉じ込められる辛さというのは、よく知っているつもりだよ、まったく」
「箱入りですのね!」
「まあ、違いないね」
自嘲を含ませて頷く。
「校長先生も一緒に記念撮影しましょうよ」
生徒たちに腕を引っ張られて、エントランスに設置されたイルカのモニュメントの前まで従順なしもべの態で連れていかれたディヴァインは、困った顔をして頭を掻いた。
「いや、まいったな」
両側から少女に囲まれてフレームの真ん中で苦笑いをする青年の姿は、ごく一般的な男子学生となにも変わらない。
噂と詮索好きの生徒たちの相手もそこそこに、ディヴァインは一足先にホテルへ戻ることにした。まだ散らかしたままの父の遺品の整理をしたかった。なにぶん数が膨大だし、あの男の性癖上、あまり人には見られたくない類の品が多かったのだ。
ひさしぶりに一人で歩く街中のあちこちで、今冬海馬コーポレーションのお膝元で開催される大規模なデュエル大会のポスターが目についた。
ディヴァインが決闘を気晴らしの娯楽のように感じていたのは、幼少時のごく限られた一時期だけだった。がらんどうの屋敷をこっそりと抜け出し、家族や使用人に秘密で街のデュエル大会に参加するのが唯一の楽しみだった。
勝つこともあったし、負けることもあった。そこでは何人かのおかしな友人もできた――今朝の新聞に載っていた参加者の一覧を見て、ディヴァインには今大会の結果が目に見えるようだった。
予選を勝ち抜いたレオンを本戦で待ち受けるヨハン。あの頃とは立ち位置こそ逆さまだが、どのみち彼らの一騎打ちだ。当時のバトルフィールドだったおんぼろカードショップのデュエルスペースは、今ではディヴァインを置き去りに、満員の観客席と眩いスポットライト、最新のデュエル設備を備えた広大なドームへと進化していた。
ゲームを心から楽しむふたりは、痛みのない決闘には何の意味もないという真実を知らないだろう。幼い日に超能力が発現したときから、ディヴァインにとっての決闘は遊びではなくなった。ただの喧嘩の道具に成り下がった。
『子どもだったね』とカンナなら笑うはずだ。『キミみたいな大人には、幼稚な喧嘩じゃなくて、たくさん血が流れて人が本当に死ぬ戦争のほうが面白いでしょ』。
――まったくそのとおりだとも、カンナ。
カンナの幻がディヴァインの手にそっと触れた。まるで現実に隣にいるような親密さで、ディヴァインはぎくりとした。
――まさか本当に悪魔に取り憑かれたんだろうか?
そうだとしても、今更構うものか。そして亡き父親の遺産のリストを思い浮かべた。一体どこから片付けたものだろう。
ディヴァインの父は超常現象と遺伝特性に異様な興味を持っていた。交配によって自由に作られる大きな力の可能性に魅せられていたのだ。デュエル・アルカディア学園はまさしく彼の牧場だった。血筋のいい牝牛を集め、力ある雄にあてがうための実験場だ。
父は人の心を食い物にするのが抜きんでてうまく、彼に囚われた女たちは狼に食い殺されるのをただ震えて待つことしかできない羊だった。そのくせ癪に障ることに、息子のほうへは汚物を見るような目を向けてきた。
あの生き汚い老人が『事故で』死に、ディヴァインが自由と解放を手にするまでの十数年間は、まさしく地獄だった。弱ければ侮られ、愚かなら失ってゆくだけで、強者のみが餌にありつける混沌の世界を生きていくためには文字通り何だってした。父が施した唯一有意義な教育は、力こそ正義であり、権力こそ信頼だと息子にあらゆる手段で思い知らせてくれたことだった。
童実野駅前の大型モニターが、海馬コーポレーション社製の新型デュエルディスクのコマーシャルを流している。キャンペーン・ガールの神月カンナが全世界の人々に向けてよそ行きの微笑みを投げ掛けていた。なめらかな手つきでディスクを展開し、フェイバリットの〈カードエクスクルーダー〉を召喚する。
――どうしてなのかな。きみのことが気になる。気が付くときみを見ている。こんなことは初めてなんだ。
圧倒的な魅力を備えたカンナが人々の心を鷲掴みにし、むしゃむしゃと貪り食っている姿を想像した。彼女はきっと本物の悪魔なのだ。
悪魔。
その存在は幼い頃からディヴァイン青年のそばにあった。
ディヴァインの父親は、息子に超能力が芽生えた日を境に夜な夜なあやしげな錬金術にふけるようになり、悪魔を呼び出す馬鹿げた儀式を繰り返していた。彼は息子の化け物じみた異能を目の当たりにした瞬間に、それまでの長い人生において鼻で笑い、こっぴどくこき下ろしてきたオカルトが、まごうことなき事実だと認めざるを得なくなったのだ。
歳を取るにつれて自分の寿命の残量をひどく気にし始めていた彼は、かねてから求めていた非現実的な望みを叶えるという妄執へ急速に陥っていった。不老不死の肉体へのどぶの汚泥のような渇望は、やがて彼の生来の神経質さを狂気へと変貌させた。
父が遺した品々の中に、十年ほど前に日本で開催された古代イスラエル展のカタログを見つけた。ディヴァイン家が多額の寄付を贈った記録も保管されている。
世界各地に伝わる不死の逸話のうちで、とりわけディヴァイン老人が興味を持っていたのが、古代の錬金術師たちの憧れの的であり、七十二柱の悪魔を操るイスラエル王の伝説だった。
世界王ダビデの子として生まれた王子は、深い叡智をもってあらゆる生命の言葉を解した。大国エジプトの忠実なしもべであり、誠意の証として時のファラオに賜った神と対になる三幻魔を従え、古代イスラエルに最大の繁栄をもたらした若き賢王となった。
いにしえの世界を統一した王は、人類の破滅を招くほどに強大な魔の力を危ぶむようになり、三体の幻魔を壺に閉じ込めて、いずこかへ封じた。今でも三幻魔は名もない孤島の地中深くの遺跡に眠っているそうだ。その力にはいささかの衰えもなく、目覚めをもたらした主に永遠の命と世界の覇権を与えるという。
展覧会の会期は、ちょうど例の騒動が起こった頃に重なっている。
当時、狂信的な宗教団体が日本人の男児を拉致するという事件があった。裕福だが仕事で多忙な両親が家を空けている間に、ひとりで留守番をしていた子どもが誘拐され、一月にもわたって犯行グループに拘束されたのだ。被害者の子どもはわずか七歳だった。いたましい事件だ。
犯人たちの言い分はこうだ――この子どもこそが叡智溢れる賢人王の生まれ変わりであり、我々の行為は拉致や監禁といった不穏で無礼な所業ではなく、礼節を尽くした王への忠義である。もちろん信じる者は誰もいなかった。
実行犯たちが逮捕されたが、警察の手はいかがわしい宗教団体の設立者や、スポンサーのひとりだったディヴァイン老人にまで及ぶことはなかった。彼らは世界有数の権力者であり、都合の悪い事実をもみ消す手法をいくらでも用意していたのだ。
そうして幼い子どもを攫い、女たちを攫い、数々の犯罪に手を染めさえしたのに、残念ながら悪魔がディヴァイン老人に応えることは生涯なかった。
優れた魂を持った者でなければ食らう価値もないということだろうか。父親は金と権力が無ければ、ただの臆病なみすぼらしい老人にすぎなかった。
父のように愚かであってはならないのだとディヴァイン青年は自分に言い聞かせた。悪魔に失笑を買うほどの度しがたいとんまであってはならない。
たしかに特別な力を見せびらかし、振りかざすのはとても気持ちがいい。しかし今はもっと上手いやり方があると知っている。
力は、それを使うタイミングを見計らうことだ。殺意と敵意と叛意は背中に隠し、傲慢と冷笑は死に顔のように穏やかなマスクで覆わなければならない。本音を隠し、決して裸の心をむき出してはならない。それは他人にとっては蜜の滴る甘い果実だからだ。
羊の群れをうまく率いてゆくには、鞭を振って脅しつけるのでは駄目だ。新鮮な餌を与えて従順にさせ、角笛を高らかに吹き鳴らし、屠殺業者のもとまで連れていかなければならない。
――世界征服でもしてみれば?
初めて出会った夜、彼女はとても軽い言い方をした。あの時は戸惑うばかりだったが、今はあの娘がくれた啓示に救われたような気がしている。ぶれていた未来へ向けた軸の方向が定まり、変われると信じていた。
子どもの時代は終わったのだ。父親から奪ったこのデュエル・アルカディアという小さな牧場を、ゆくゆくは世界中に広げてみせる。
*
「遊戯、お前の正装はいつまで経ってもお仕着せに見えるぞ」とモクバに笑われた。
〈KCグランプリ二〇〇九〉の開催を記念するパーティー会場は、トーナメントの参加者とマスコミの取材記者で埋め尽くされていた。人いきれで汗ばむほどに暑い。知り合いの姿を探して歩いていた遊戯は、ひとまずは安心した。
ちょうどよかった。モクバに聞きたいことがあったのだ。
「十代くんがどうしてるか知ってる?」
「なんでオレに訊くんだよ」
「キミが彼を引きずっていってから一度も会わないんだ。ボクも家族も心配してる。今夜会えるかと思ったんだけど、どこかで見かけなかった?」
「知らないぜい。あんなやつ」
「モクバくん。キミは、まだ十代くんを赦せないでいるのかな」
薄い肩が跳ね、隠しようもない怒りに震えている。モクバが十代に抱いている嫌悪と拒絶は、遊戯が考えるよりも根深いようだった。
「赦せるわけないよ。だってあいつは十二年前に兄サマを逆恨みで殺そうとした。オレやお前のことだって。生まれついての人間ってのは純粋な悪なんだって、オレはあいつに出会って知ったよ。あんな悪魔が子どもから大人に成長するまで、長々と目を掛けてやる遊戯がわからない」
「でも、今はいい子だろう?」
モクバは沈黙した。ワイングラスがこすれ合う音やとりとめのない上品なおしゃべり、重たげな盆を抱えて忙しなく動き回るウエイターを呼ぶ声、皿が割れる音と小さな悲鳴などが断片的に混ざり合って渦を巻いている。
「本当は、モクバくんは十代くんと仲直りをしたいんじゃないかな」
「はぁ? 冗談言うな!」
勢いよく上を向いたモクバの顔に子どもっぽい反発を見取って、遊戯はにっこりした。彼は心を開いたごく一部の人間の前では、嘘をつけない正直者の青年になる。
「キミは優しい子だし、それに人の本質を見抜く力がある。ボクはあの子が好きだ。とってもいい子だから」
「いい子ぶってるだけだよ。信じてなんかやるもんか」
「あ、そうそう。もし十代くんに会うことがあったら伝えて欲しいんだ。キミと最後に闘えるのを楽しみにしているって」
「なんでオレに言うんだよ」
「さあ、なんでだろう」
「お前はあいつを買いかぶりすぎだよ。仕事があるから、じゃ」
モクバはそっけなく去っていった。イブニングドレスと燕尾服の洪水のなかへ消えていく痩せた背中を見送りながら、「遅い反抗期なのかなぁ」、遊戯は立ちんぼうでひとりごちた。
「――モクバさん?」
耳に心地の良い、落ち着いた声がした。一方的に良く知った声が、歌のような音階で頭の中に響きわたる。遊戯は息が止まりそうになった。
「モクバさぁん」
アイドルの神月カンナが、今夜はいつものツーテールをおろして、腰まで届くおいしそうな色の髪を揺らしている。迷子特有の不安そうな落ち着きのなさで周囲を見回しているカンナの前に、肥え太ったくじらを連想させる醜怪な中年男が立ちふさがった。
ぶよぶよの顔に嵌まった驚くほど小さな目が、カンナを無遠慮に値踏みしている。カンナのほうは、物怖じもせずに小首を傾げている。
「あのォ、人を探してるんです。海馬モクバさん。はぐれちゃって。おっさ……いや、おじさま、知りませんか?」
「きみ、たしか神月カンナとかいう新人の娘だな」
男は好色さを隠そうともせず、「きみ、いくら欲しいんだ?」、とんでもなく下卑た切り出し方をした。
「おじさんがそのモクバさんと話をして、カンナちゃんがもっとふさわしい場所で歌を唄えるように頼んであげよう。またとないチャンスだ。わかるね?」
「えっと、モクバさんは」
「おおい、そこのウエイター君。このホテルで一番上等の部屋を用意してくれないか。なに、カンナちゃんが心配することはない。スポンサーとの交渉はうちの秘書がやるから」
やなぎの枝のように細いカンナの手首を男が掴む。遊戯はぞっとして、ふたりの間に割って入っていた。
「彼女に何をしているんですか」
男は邪魔をされて機嫌を損ねたようだ。持ち上げた顰め面が、遊戯を見るなり、濁った喜びでいっぱいになる。
「決闘王の武藤遊戯。すばらしい。噂以上に美しい男だ――それで、きみのほうは、『どう』なんだ?」
メディアの波打ち際に長い時間立っていると、予想もしない方向から波をかぶることがある。空き缶や片方しかないスニーカーや使用済みのコンドームを巻き込んだ灰色の海水の塊のうまい避け方を覚えるのに、十年は掛かった。
「きみたちを好きにできるのなら言い値を出してやる。スポンサーは海馬モクバでいいのかね」
十年前はどうしていただろう。たしか、青ざめて震えながら、仲間の誰かの後ろに隠れていたはずだ。今は相手を軽くあしらって、少女の手を引いた。
「ボクらは売り物じゃない。行こう。カンナちゃん」
カンナはまだ十代の少女だ。なだめすかしながら引き止めようとするねばっこいだみ声から、少しでも早く引き離してやりたかった。うしろでたどたどしい歩き方をするヒールが段差につんのめり、小さな吐息が零れた。思ったよりも彼女の手を強く握ってしまっていたようだ。
やにわに眩暈がした。神月カンナは誰もが賞賛するトップアイドルで、彼女のためなら真冬の童実野港で遠泳大会に参加したってかまわないと嘯く熱心なファンがごまんといる。
遊戯もそのうちのひとりだった。
「大丈夫だった? えっと、ボクは怪しい者じゃないから、心配しないで」
赤面し、まごついた弁解をはじめた。焦りばかりが加速して、うまくいかない。カンナはますます俯いてしまう。
「いや、あの、カンナちゃん。おじさんは悪いおじさんじゃないんだ。ほんとに」
「きゅ、急に一体何なんですか。こういうのは止してください。迷惑です」
カンナはふいと背中を向けて、マシンオイルが切れかけたロボットのような動きで歩き出した。
様子がおかしい。あの神月カンナらしくもなく、冬眠明けの白熊がようやく姿を見せた春の太陽に向かって氷の上で下手くそな歓喜のダンスを踊るような足取りだ。会場の熱気のせいでのぼせたのかもしれない。
「待って」
露出が一種の礼儀正しさの定義になっているイブニングドレスの氾濫のなかで、相変わらず一分の隙もなく素肌を覆っている衣装越しに――彼女は幼少期に火事に遭い、今もなお肉体に残った後遺症に苦しんでいると告白していた――肩をつかんだ瞬間に、大げさな動作で、まるで電気を流されたかえるの後ろ脚のようにびくっと震えた。振り向いた彼女は、遊戯が想像していたよりも背が高かった。
「キミ、具合が悪いんじゃないか。顔がすごく赤くなってる。人に酔ったのかもしれない。すこし外の風に当たったほうがいいよ」
「そんなこと、余計なお世話です。わ、わたしにもう構わないで欲しいんですけど」
カンナはミュージカルの主演にいきなり抜擢されたあがり症の女の子か、それともクラスじゅうの注視のもとで自分あてのラブレターを晒し者にされた女生徒のようにひたすら狼狽し、恥ずかしそうだった。
快活で自信に満ちたトップアイドルのイメージからはかけ離れた姿だ。もしかするとテレビの中の神月カンナは、現実の彼女が演じる架空のキャラクターなのかもしれない。
「あれ? キミって……?」
近くでよく見ると、カンナの整った目鼻立ちには見覚えがあった。それとも、とてもよく似た人間にどこかで会ったのだ。
「あ、あんまり見ないでくれませんか。その、本当にやめてください。お願いですから」
カンナは耐えきれない様子でうつむいた。雪の中で凍える雛のように震えている。
「遊戯!」
馴染みの怒鳴り声。肩をいからせて大股で戻ってきたモクバが、遊戯とカンナを引き離した。
「お前、よりによってカンナにちょっかいかけるなよ!」
「いや、モクバくん。違うんだ、これにはわけが」
「この娘はアイドルなんだ。今この会場にはマスコミが山ほど詰め掛けてる。決闘王のお前とカンナが一緒にいる写真なんて撮られてみろ、タブロイド紙が大喜びのスキャンダルになるんだぞ。いい歳して、そんなこともわかんないのか?」
「ご、ごめん。でもボクはそんなつもりじゃ。ただ、危ない目に遭ってた彼女を助けてあげたかっただけで」
遊戯は当たり障りのない愛想笑いを浮かべてモクバをなだめようと試みたが、どうやら失敗に終わったようだ。彼はカンナを背に隠して、噛みつかんばかりにこちらを威嚇している。
モクバは遊戯をなかば無視する恰好で、こわばっているカンナの腕を引いた。
「さぁ、仕事に戻ろう、カンナちゃん。トーナメントの参加者はもう集まってる。君がいないと始まらない」
「あ、はい。モクバさん」
「いいか遊戯。二度とカンナに近付くんじゃないぞ。それがお前のためでもあるんだからな」
モクバに連れられていくカンナを見送りながら、遊戯は深く、とても深く落胆の溜息をついた。憧れのアイドルと話をできるせっかくのチャンスが、すべて裏目に出てしまった。神月カンナに嫌われたかもしれない。
祖父が知った顔をして遊戯を諌める姿が目に浮かぶようだ。『ほれみたことか。抜け駆けをして勝手にカンナちゃんの手を握った罰じゃ』――稀少な握手券をひとり占めした人間に許される台詞ではない。
「それにしてもカンナちゃん、あの子に似てたなあ」
不可解な郷愁の正体に思い当たって、遊戯はひとりごちた。あの走り続ける青年は今頃どこで何をしているのだろう。いつものようにおかしな事件に巻き込まれていなければいいが、心配だ。
*
海馬コーポレーション本社ビルへの帰途につく黒塗りのリムジンのなかで、モクバは友人の性癖に憤慨していた。
「まったく遊戯のやつときたら、手が早いっていうか見境がないっていうか。あいつのじーさんそっくりになってきたぜい。よりによってこんなガキを口説こうとするなんて、見た目が女にさえ見えたらなんでもいいのかよ。おい、お前だってそろそろ幻滅したっていいんだぞ、十代」
鼻息を荒げて、いやに静かな年下の子分を振り返った。
十代は心ここにあらずといった様子で、冷たい冬の海からあがってきたびしょ濡れの子猫のように、身体が小刻みに震えている。驚いた。怯えているのだ、この規格外が。
「十代?」
「モクバさん」
「お前、泣いてるのか」
「モクバさん、さっきの遊戯さんオレだって気付いてなかったですよね。こんなみっともねぇ恰好があの人に知れたら……いくら心の広い遊戯さんだって、カラスにつつかれてる生ごみを見るような目をするに決まってます。あの人に相手にもしてもらえなくなったら、オレ、もう決闘者として生きていけない」
「心配するな。遊戯はそんなくだらない理由で相手を色眼鏡で見るようなやつじゃないぜい」
「そ、そうですよね!」
十代は顔を赤くした。祈りと陶酔が、木の実色の瞳のなかで宝石のように光っている。
「今夜の遊戯さんはいつもの優しい遊戯さんよりももっと優しかったんです。さっきのあの人が返してくれた声は、オレが知ってるどれよりも甘かった。あんなに近くて、大事そうに手まで繋いでもらえるなんて、夢でも見てるんじゃないかって信じられなくて……いっそのこと本当にオレが女だったらよかったのに」
十代の前ではつとめて感情をあらわにしないモクバだが、さすがに動揺した。この男は気でも狂ったのか?
「なんで。なんでオレ、男なんかに生まれてきちまったんだろう」
十代は現実を儚んで鼻水をすすりあげ、湿ったまぶたを指で強く擦っている。嘘泣きであることを期待したが、大嘘つきのくせに、嘘など一片も含まれていない本気も本気の泣き顔だった。彼は無意識でさえも人の心のえぐり方を心得ている。
「泣くな泣くな、うっとうしい。酔ってるんだよおまえ。言ってることが支離滅裂だ」
「酒なんか呑んでません。オレ、まだ未成年ですよ」
「あそこは酒臭かったから、空気に酔っちゃったんだ。そういうことにしておけ」
いちょう並木沿いの道路を走っていた車の後方から、大きな破裂音がした。突発的なブレーキがかかり、強い衝撃に身体が前方へ押し出されてしまう。モクバは仕切り板をスライドさせて運転席に顔を出した。
「どうした。何事だ」
「申し訳ございません。事故のようです、副社長」
バックミラーを覗くと、数メートルほど後ろのアスファルトの上に大きな血の染みができている。ひしゃげた乗用車のそばに、くじらのように肥った奇妙な男が倒れている。
割れた鋼鉄の板が全身に突き刺さり、四肢がちぎれ、もう肉塊だった。原形をとどめているのは上半身だけだ。
周りにはすでに人だかりができはじめており、救急車が到着するまで騒然となっていた。闇の中で携帯カメラのストロボがまたたいている。
「どうやら、暴走した無人トラックが後続車に衝突した模様です」
「なんで誰も乗ってないトラックが走り出すんだ?」
「私にはわかりかねますが、もしかすると悪魔の仕業かもしれませんな」
悪魔。モクバは抱えた膝に顔を埋めている十代を一瞥した。
あの頃の出来事を思い返せば無理もないのだが、何かにつけて彼をあらゆる悪意と関連付けて考えてしまうのは悪い癖だ。少なからず神経質になっている。
いくら『悪魔のような』十代でも、見知らぬ人間を交通事故に遭わせて無差別に殺傷することはないはずだ。
そういえば、遊戯から十代あての言付けを預かっていた。『武藤遊戯は、KCグランプリのエキシビジョンで遊城十代との対峙を望んでいる』――忘れるべきだ、守られるはずもない約束だ。
ある意味において遊戯の願いは叶えられる。遊城十代には、今期のトーナメントの終焉を飾る決闘王のエキシビジョンを、司会者神月カンナとしておおいに盛り上げるという役割があるからだ。
モクバはぼさぼさの髪をかきまぜて、頭を切り替えた。遊戯と十代に調子を狂わされてしまったが、迅速に取り掛からなければならない仕事がある。
「さて、はじめるぞ」
自社製のノートパソコンを膝の上で開いた。ふてくされていた十代がわずかに顔を上げる。そしてクリスマスの前夜に無垢な強欲をこめて靴下をベッドに吊り下げる子どもと同じ、羨望と所有欲を秘めた瞳を、そっと向けてきたのだった。
5
十二年前の展覧会図録にデータメディアがとじ込まれていた。タイトルのないディスクの中には、電子化された日本語の新聞や総合週刊誌が入っていた。センセーショナルな見出しが目を引き付ける――『小学生男児失踪』、『両親不在の自宅から誘拐か』、『七歳児童誘拐事件、過激派宗教団体の犯行』――そして『犯人グループ逮捕、被害者無事救出』。
例の日本人男児誘拐事件の発端から終息まで、偏執的なこと細かさで記録が残されている。当時は新聞の一面を飾るほどに世間を騒がせた事件だった。しかし、不思議なことに、今ではほとんどの人間が忘れ去ってしまっている。
灰色の紙面に、拉致された日本人男児の写真が掲載されていた。おどおどしていて、気弱そうだ。子どもはチョコレート色のツートン・カラーの頭に猫のような吊り目がちの瞳をしていて、ディヴァインが混乱するほどに神月カンナとそっくりだった。
空白の塵が堆積したデータメディアの深層へ降りていく。古い時代の死んだマスメディアが連綿と続くモノクロの世界だ。そのさなかに何の前触れもなく、唐突に、目が痛くなるほどに鮮やかな色をした轢死体の写真が現れた。
腹が潰れ、手足がひしゃげ、びっくりしたように軽く見開かれたうつろな目を宙に向けて、カンナに良く似た七歳の少年は、血だまりの中であおむけになって死んでいる。
記録には、男児は誘拐された日から一月後に、警察の手で無事に救い出されたのだとある。平凡さを狂気と誇大妄想で梱包した無能人たちが興したインチキ教団が、よりによって本物の奇跡を起こし、死んだ子どもを生き返らせたとでもいうのだろうか。
それとも――ディヴァインは気味の悪い空想を描いて胸が悪くなった。保護された子どもは、はじめに攫われた子どもとは別人だったかだ。
その時、七歳の日本人少年と同じ顔をして同じ声をしたなにかが、ぬるついた虚構と認識の狭間にするりと降り立ち、何食わぬ顔をして横取りしたレールの上を歩き始めたのかもしれない。
「いったい、どういうことなんだい。カンナ」
ディヴァインは透明な空気の塊に向かって声を掛けてみた。返事はない。部屋には、ひとりで座り込んでいるディヴァインのほかには誰もいない。
もう一度、今度はいら立ち混じりの刺々しい声を宙に突き刺してやった。
「おまえは何でも知っているんだろう。カンナ? 都合が悪くなったら姿を消すのかよ」
ポケットの中で携帯電話が震えた。
デュエル・アルカディアの理事会からだ。受話器越しの声はこわばっていて、異変を強く匂わせている。
『ディヴァイン理事長、大変です、学園が――』
「どうした。落ち着きたまえ。何事だ」
『シュレイダー社が、デュエル・アルカディアに買収の提案を持ちかけてきています』
思わず携帯電話を取り落としそうになった。
童実野ホテルに現れたシュレイダー家の次男坊は、気にさわる人懐っこさでディヴァインに右手を差し出した。レオンハルト・フォン・シュレイダー、青年に成長して幼さが削げ落ちた分、面差しが少し彼の兄に似てきた。
「やあ、ひさしぶりだねディヴァイン。まず御父上のことは気の毒だった。ぼくらは友達だ。よければ力になるよ」
「は! その友達の学園を買収しようとしておいて、よく言うよ」
レオンはディヴァインの嫌味にも微笑を崩さない。カウチソファにつき、組んだ指で口元を覆って、コーヒー色の瞳が見上げてくる。
「きみにとっても悪い話じゃないってこと、ぼくはわかってもらいたくて来たんだ。気を悪くしないでほしいんだけど、きみの学校は全世界に分校を持つあのデュエル・アカデミアに遠く及ばない。だけどぼくたちシュレイダーが後ろ盾になれば話は違う」
「侮辱だ。取り消したまえ。こと女性決闘者の育成にかけては、うちはアカデミアのお稽古ごととは比較にならんのだよ」
「ある一部分においてはね。でも全体のシェアではそうはいかないよ。ライバルに勝ちたくはない? ディヴァイン、ぼくらシュレイダーは、きみの力になりたいんだよ」
数年ぶりに再会したレオンの話し方は、ずいぶん肌触りの悪いものだった。
往時のレオンはおとぎ話に登場する善良な王子様そのもので、朴訥と愚直を絵に描いたような少年だったと記憶している。
成長は人を変える。大企業の副社長という厳めしい肩書きが、幼馴染が運営する私立学校を強引な手口で買収し、商売敵への牽制に使うほどの冷徹さを彼に与えたのかもしれない。
「ミスター・シュレイダー、失礼だが、きみからはデュエル・アカデミアのオーナーへの敵対意識しか感じられない。企業闘争と金の勘定は会社に帰ってやってくれたまえ。我が学園の役割は生徒たちを一人前の決闘淑女に育て上げることだ。静謐と勤勉が僕らの美徳だ」
「そのふたつは、昔のきみが何より憎んでいたものだね」
「前理事長の死去はあまりにも突然だった。今、我々はとてもデリケートな時期にあるんだ。学園の混乱はまだ続いているし、おまけに設立されたばかりのコースを抱えている。生徒たちがこれ以上大きな変化の波をかぶるのは、正直ごめんこうむりたいのだよ」
レオンに引き下がるそぶりはまったくなかった。ブラックスーツの背中で、リボンで束ねられたぶどう色の柔らかい髪が尻尾のように揺れている。
「たしかにきみの言うとおりかもしれない。ぼくの兄が海馬瀬人に遅れをとるわけにはいかないのと同じに、ぼくは海馬モクバに出し抜かれるわけにはいかない。シュレイダーは海馬コーポレーションに負けない。でもね、ぼくたち兄弟の面子の問題は横へ置いておいて、よく考えてみて欲しいんだ。きみはお父上から受け継いだデュエル・アルカディア学園を、まだうまく制御しきれていないんじゃないかな」
言葉に詰まる。たしかに理事会の老人たちは若すぎる理事長を軽んじ、御しやすい傀儡になることを望んでいた。
「図星だね」
雑然とした数式を綺麗に解きほぐしたときのように、レオンは上機嫌だった。
「……レオンハルト、そういえばきみ、ヨーロッパ大会であいつに負けたんだって?」
「あは、もう聞いたんだ。そうなんだよ。あの〈レインボー・ドラゴン〉っていうモンスターは、本当にとんでもないよ」
意趣返しのつもりで言ってやったが、レオンは照れたように笑うだけだった。
「あの子ね、留学先でとっておきもとっておき、運命の大親友ができたんだって。男の子か女の子かも知らないけれど、たぶん日本人だよ」
「はぁ?」
ふたりの共通の友人で、あの鉛筆の削りかすのようにつまらない男もまた、ただの人間に興味や友愛を抱く機能が欠損した、ディヴァインと同じ人種の端くれだった。彼にまともな友人ができるはずがない。
「その友達なんだけど、じつは変な噂もあって、それでちょっと心配なんだよ。これは又聞きだし、本人に確かめても結局うやむやにされちゃったんだけどさ。なんでもあいつ、デュエル・アカデミア本校に留学した時に、本物のモンスター同士がいつ終わるともしれない暴力の連鎖を繰り広げている危険な異世界に、学園ごと飛ばされちゃったらしいんだ」
レオンは「信じられないような話だけど」と付け加えた。
「事件が終わったあとも、あいつの友だちは向こう側に取り残されたままだった。少ししてこっちに戻ってきたんだけど、ぜんぜん別人みたいになってて……しばらくは学園じゅうで、帰ってきたのはその子に化けた異世界のモンスターだって噂になっていたみたい」
「そいつは今どうしてるんだ?」
よく似た話を聞いたことがある。十二年前に起こった日本人男児誘拐事件の顛末だ。誘拐された幼児は死んだはずだった。しかし、何食わぬ顔をして家に帰ってきた。
戻ってきたのは、はたして本物だったのだろうか?
「なんでもアカデミアを卒業したあと消息不明になっちゃったそうだよ。たしか名前は……少し前に同じ名前の子に会ったんだ。日本人の名前ってどれも発音が似ていて――」
レオンの視線がディヴァインを離れ、スツールの上の開いた手帳に注がれている。身分証とプリントシール、そして悪戯の共犯を持ちかけるような伏し目がちの微笑みを浮かべて、こちらを見返るツーテールの少女の写真がはさみ込まれている。
「おい、人の手帳を勝手に覗き見るな」
「神月カンナのファンなの?」
レオンが無邪気に言った。ディヴァインは赤面し、わざとらしい咳払いをして、急いで手帳をポケットに隠した。彼女はデュエル・アルカディアの金の卵だ。理事長兼校長のディヴァインが最も優秀な生徒の写真を持っていても、なんら不思議はないはずだ。
「ひさしぶりに話せて楽しかったよ。ぼくも兄もきみの味方になれる。考えておいてくれ。あ、そうそう。もしもだけど、海馬コーポレーションから同じ話を持ちかけられたとして」
レオンはドアの前で振り返って、茶目っ気のある、ただし腹に一物を含んだしたたかな一瞥を投げ掛けてきた。
「そのときは、ぼくらシュレイダーは彼らの倍の条件で応えよう。いい返事を期待してる。幼馴染のよしみでね」
レオンは去った。広々とした部屋のなかは急に圧迫感を覚えるほどの静寂に包まれた。
まったく、迷惑な兄弟だ。
シュレイダー社がしゃしゃりでてきたとあっては、海馬コーポレーションも黙ってはいないはずだ。デュエル・アルカディアをライバル会社に盗られるくらいなら、アカデミアとの提携を結ばせた上で彼らの傘下に加えようと画策してくるだろう。はかったとしか思えないタイミングで、携帯電話が震えた。
『理事長。海馬コーポレーションの海馬モクバから通信が入っています』
「さすがに耳が早い。繋いでくれ」
モニター上にぼさぼさ頭の若い男の姿が現れた。名前はいやでも知っている。海馬コーポレーションの取締役副社長、海馬モクバ。彼は、こんな顔をしているのか。
『どうやらシュレイダー社のやつらが、君たちを買収しようと企んでいるらしい。まったく困ったやつらだぜい。あいつらが君にどんなうまい条件を持ちかけてくるのかは知らないが、海馬コーポレーションはその倍を出す。君は若いし、柔軟な選択ができる頭を持ってるに違いない。我がデュエル・アカデミアと提携を結ぶ気があるなら、もちろん歓迎するさ』
モクバはどこかで聞き覚えのある声で、一方的に言いたいことを言って通信を終わらせた。
「理事会に繋いでくれ」
ディヴァインはうめいた。ふたつの選択肢。
ひとつはシュレイダーという大きな後ろ盾をつけてアルカディア理事会に取り入るやり方だ。この場合、海馬コーポレーションとの繋がりは決定的に断たれてしまう。
もうひとつは海馬モクバの提案を受け入れて、デュエル・アカデミアの傘下に入る方法だ。だが、これまで信じ頼ってきた暴力ではなく、海千山千の敵と慣れない謀略を交えて相対することが本当に可能なのだろうか――。
ほどなくデュエル・アルカディア理事会の老人たちが、フラットなモニター上へ趣味の悪い影絵のように現れた。
『お坊ちゃま、周遊旅行をお楽しみのようで何よりです。ミスター・シュレイダーとの会談はいかがでしたかな』
「彼らに不用意に取り入るのは考え物だ」
ディヴァインは言った。
「我が校をライバルに対抗できる強い学園に育てたいのは、私もきみたちと同じ思いだ。だが、シュレイダーの尻馬に乗ってアカデミアと正面からことを構えるのは、はたしてうまいやり方だろうか? 節操もなく彼らの抗争の道具に成り下がるだけではないのか」
『そんな及び腰ではアカデミアの連中に出し抜かれてしまいますぞ。今回のシュレイダーの提案は申し分のないものです。敵に食い潰される前に、我々は大きな後ろ盾を手に入れなければ。先方にはさっそく視察にお越しいただきましょう。すでに手配は済んでおります』
「私の留守中に? ばかな。そんな勝手を許した覚えはないぞ」
『ディヴァイン新理事長。貴殿はまだ若く経験が少ない。御父上ならば、シュレイダーの要求を快く応諾されたに違いありません。不服があるのでしたら、もちろん我々理事会の全員を納得させてくれる理由なのでしょうな』
ディヴァインはノートパソコンを蹴飛ばした。音声が飛び、モニターが真っ白になった。老いぼれた盲目の狸どもの侮辱は、耐えがたいものだ。
ディヴァインは、自身の指導者としての手腕が、老獪だった亡父に比べて圧倒的に脆弱だという現実を思い知っていた。父は胸の悪くなるほどの狡猾さのおかげで生き延びてきた。息子の超能力によって、学園の鐘楼台から転落死するまでは。
――あの男ならどう切り抜けるだろう。いや、父と同じやり方は決して選ぶものか。
〈彼女〉に出会って未来を知るまでは、困難から逃げることしか考えられない子どもだった。今は違う。デュエル・アルカディアは、この世界を掌中に収めるために用意された最初の武器だ。
シュレイダー・トイズと海馬コーポレーション。レオンハルト・フォン・シュレイダーと海馬モクバ、巨大な企業を身ひとつで象徴する兄を助け、影を歩むふたりの弟。相手にとって不足はない。利用し尽くして、あとはごみのように投げ捨ててやる。
カードを手にディヴァインは考えた。そうするだけの力がここにある。
ポケットから手帳を引っ張り出した。小さな写真の切れ端の中から、謎めいた少女が媚びを売るような、それとも蔑むような微笑みを向けてきている。
――上等だとも、カンナ。世界征服だ。
手帳に貼ったプリントシールに写る自分が、少女たちに囲まれて苦笑いを見せている。ふと、小さな紙片のなかから、直感に訴えかけるものがあった。
『ゴーランド先生が、またカンナ様をいじめていたんですよ』
女生徒の声が再生される。ミス・メアリー・ゴーランド。デュエル・アルカディアの新任養護教諭。通信映像で見た海馬モクバの面貌は、厚い化粧にごまかされなければ、このミス・ゴーランドに酷似している。
すぐにふたりの写真を照合した。あの海馬モクバが教師になりすまし、デュエル・アルカディアに何食わぬ顔をしてもぐり込んでいるのだと確信を抱いた。シュレイダー社が絡んだ買収騒ぎをいち早くリークし、競争相手の企てを阻止すべく、単身アルカディアに乗り込んできたのか。それにしては対応が早すぎる。
まったく、理解に苦しむ。手遊びに父が遺したデッキケースを開き、カードをつまみあげた。
〈ブラック・マジシャン〉。かの高名な決闘王武藤遊戯を象徴するカードだ。さすがに複製物に違いないが、まるで本物のごとく途方もないエネルギーを宿している。四十枚のカードの束を前にしていると、畏れにも似た感覚に陥った。
このデッキは何なのだろう。なぜ父親は、ヒーローに憧れる洟垂れ小僧でもあるまいに、決闘王のレプリカ・デッキを後生大事にしまい込んでいたのだろう。未知の黒い箱の中に封じられた父親の遺産のすべてを、ディヴァインはまだ把握しきれていない。
突然、ドアが乱暴にノックされた。
「ディヴァイン理事長! 大変です!」
廊下には緊張しきったアルカディア監視機構員の顔があった。ただならない様子だ。他の部屋に宿泊している生徒たちが、好奇心を剥き出しに、薄く開けたドアの隙間から覗いてきている。
「生徒が。神月カンナが何者かに誘拐されました!」
「――カンナだと!」
ディヴァインは顔色を変えて叫んだ。
*
テレビのニュースは世界的トップアイドル神月カンナの誘拐事件でもちきりだ。機械仕掛けの犯行声明と多額の身代金の話題を繰り返し報じていた。
今夜の海馬邸は、湿り気を含んだ鈍色の闇のなかで静かに眠り込んでいる。モクバが兄の海外出張にこれほどの安堵を覚えているのは初めてだった。
『本当になりふりかまわないって感じだね』
インカムの向こう側でレオンが言った。彼はグランプリの予選に臨むデュエル・カレッジ生たちと合流し、ホテルにあてがわれた部屋に戻っている。間近で猫の鳴き声がした。そして、缶詰が開く音。
「猫がいるのか?」
『この子、トラジマのふとっちょなんだけど、ぼくらが泊まっているホテルに迷い込んできたんだよ。部屋までついてきちゃって。どこかで飼い主のにおいでもつけてきたのかな』
世間を騒がせている当のアイドルは、閉園時間あとの海馬ランドのアトラクション施設にいる。監視カメラが、非常灯の青い光の下、〈バーチャルワールド〉のカプセルマシンにもたれて膝を抱えている十代を映している。
遊戯に恩返しをするのだと暑苦しく息巻いていたくせに、浮かない顔だ。彼のそばには、有能さと口の堅さに信頼のおける雇われ誘拐犯――浅黒い肌の傭兵が、腕を腰の後ろで組んだ恰好で直立している。
『なんか、あいつ、ちょっとかわいそうだな』
十代がもごもごと言った。
見せかけの企業闘争と大がかりな狂言誘拐は、先代の遺産を受け継いだ新任理事長と、実質的な決定権を担う理事会を懐柔するために、デュエル・アルカディアの前に垂らした大きな釣り糸だ。
彼らは攫われた神月カンナを決して見捨てない。トップアイドルという幻想には、莫大な身代金と比較しても遜色のない利用価値があるからだ。一向に進展のない警察の捜査に苛立ち、一時的な融資を求めてこちらに泣き付いてくるまでにそう時間は掛からないだろう。
『周りの大人に振り回されてるガキを騙すなんて、あんまり気分がいいもんじゃない』
「そんなことはオレが誰よりもわかってる」
モクバはつい語気を強めた。
大金持ちには遺産を狙う身内がつきものだ。家督を継いだばかりのまだ十代の子どもなど、金の亡者たちがよってたかってすぐに搾りかすにしてしまうに違いない。幼い頃のモクバは、まさにその搾りかすだった。だから大人の餌食にされる子どもの悲哀は知り尽くしている。
デュエル・アルカディア理事会はディヴァイン家の親族で固められている。理事会の老人たちは、若い理事長の独断を許さない。おそらくは仇敵を抱える海馬コーポレーションではなく、シュレイダーにアプローチを仕掛けてくるはずだ。
「敵を憐れむ前に自分の役目を思い出せ。お前はあの新米理事長と遊戯のデッキ、どっちが大事なんだよ」
例のディヴァインという青年が、失われた〈ブラック・マジシャン・デッキ〉を所持している可能性が高い。彼はまだ父親の遺産のすべてを把握してはおらず、そこにつけ入る余地が見出せた。
十代の返事は、予想通りの即答だった。
『遊戯さんです。だけど、あいつが盗んだわけじゃない。もしかしたら事情を話せばわかってくれるかもしれない。たとえ親が悪いやつだったとしても、いなくなっちまったら寂しいに決まってる。あいつはたぶんオレと同じなんです。だから、そうだ、決闘したらきっと』
「お友達にでもなりたいっていうのかよ、くそガキ」
『……いいやつだったらいいのに』
十代はモクバと一度も目を合わせようとしない。十二年前から変わらない殻にこもった子どもの姿は、むしょうに苛立たしかった。モクバはディヴァインの動向に目を光らせていたが、短い学園生活のなかに、あの男と遊城十代の接点はほぼ無かったといっていい。
「おい、下っ端。お前なにか隠してないか」
『隠すっていうか。言っても信じてもらえないだろうし』
「十代」
十代は亀が甲羅の内側へ首を引っ込めるように、ますます俯いてしまった。
雇われ誘拐魔のオースチン・オブライエンは、それを世にも不思議そうな顔をして眺めていた。カメラの前へ一歩進み出る。どこか十代を庇うようでもあった。
『ミスター・モクバ。この男からはオレが事情を聴き出しておく。いざとなればいくつかの拷問も辞さないつもりだ』
十代は慌てて顔を上げ、『えぇ?』と不満そうな声を漏らした。
「ああ、そうしてくれると助かるぜい」
『そんな。モクバさぁん……』
十代の情けない呼びかけを聞きながら、監視映像を切った。オブライエンは優秀な兵隊だ。あの遊城十代に本当の意味での仲間ができるとは信じられなかったが、少なくとも十代から聞きたいことを聞き出すだろう。
話題が肝心な部分に差し掛かるとぷっつりと黙り込んでしまう十代も、『友だち』になら隠された秘密をそっと打ち明けるのかもしれない。ふたりはデュエル・アカデミア本校において、ある特殊な一時期に学園生活を共にしている。
『らしくないね』とレオンが言った。
『モクバ、初代KCグランプリをめちゃめちゃにしてしまったぼくをひとつも責めなかったきみが、どうしてあの子にはそこまで敵意をむき出しにするのかな。きみがあんなに怖がらせるから、カンナは怯えていたじゃないか』
いまだにレオンは十代を偽の名前で呼ぶ。〈ジュウダイ〉よりも〈カンナ〉のほうが喉に馴染んだ発音のようだ。それとも、彼の母国では人類一の裏切り者を暗示する名前を口にすることに尻込みしているのかもしれない。
「怯える? あいつが? ……オレに?」
『カンナを見ていると、昔のぼくを思い出すよ。家族とうまく折り合いがつかなくて、居場所がなくて、いつもひとりぼっちだった。何でもできてみんなの期待を背負った兄さんが、途方もなく大きく見えて怖かった。あの頃のぼくは、きっと今のカンナみたいだったんだ』
まだ子どもだった頃に、モクバも同じ不安を抱いたことがある。小さな足と柔らかい手では、いつかはがむしゃらに歩み続ける兄に届かなくなるかもしれないと気が気ではなかった。優しい目と言葉を何よりも求めていた。失望を恐れるあまりわざと虚勢を張ってみせたこともあった。
『今はいい子だよ』と、どこか十代のことが誇らしそうに、遊戯は微笑んでいた。
――違う。みんなは遊城十代に騙されているだけなんだ。
同じ穴のむじなたちの悲惨な末路に取り乱す姿にも、仲間を救えなかった無力な自分を恨んでしょげかえる姿にも、ほだされてはいけない。あの男の輪郭は、すべてが嘘でできている。言葉は霧のようなものだ。本当の姿を覆い隠すための擬態にすぎない。
モクバは心から兄を尊敬し、兄のために尽くし、兄を愛している。だからこそ、ノドの地へ追放された人類最初の殺人者を憎む。今でも凍てついた金色の眼を夢に見る――眼球は濁り、死臭が鼻をつく。俊敏な蜘蛛のように不気味に跳ね、友人に這い寄る魂まで腐った小さな骸を憶えている。
モクバはまだ十代が憎かった。それにもまして、なによりも怖かった。なにしろ、遊城十代はあのとき確かに死んでいたのだ。
インカムがレオンを呼ぶ友人の声を拾った。ずいぶん機嫌の良い、人を和ませる明るいトーンだ。
『おぉい、なにぐずぐずしてるんだよ!』
ヒンジが軋む音がして、猫の間延びした鳴き声が遠ざかっていく。騒々しい物音と悲鳴が上がる――『うわぁ! なんだよ、お前、ファラオじゃないか。あいつと一緒じゃないのか。なんでこんなところにいるんだ?』。
『またあとで電話するよ、モクバ。カレッジの友だちを待たせているんだ。計画の成功を祈ってる。あとね、もう少しカンナに優しくしてあげたほうがいいよ。きみのほうがお兄さんなんだから。じゃあね』
レオンは通信の終わり際に不思議なことを言った。『お兄さん』。五つ年下のふがいない十代を相手に、慣れない兄貴風を吹かせている自覚はあったが、鼻の奥がむず痒くなる言葉だ。
ぶあつい絨毯を踏みしめる靴音が部屋の前で止まった。
モクバは訝しんだ。召使いたちはすでに下がらせておいたはずだ。
扉が開いた。穏やかなルームランプの灯りに照らし出されて、物静かな微笑をたたえた赤毛の男が立っている。欧州有数の名家の現当主、デュエル・アルカディア学園の理事長を務めるくだんのディヴァイン青年が。
「ごきげんよう、海馬モクバ。今夜は貴方に折り入って頼みがあって来たんです」
青年はあまりに静かな侵入者だった。
屋敷の警備担当者はいったい何をやっているのだ。窓の外へ目をやったモクバは、飽きて放り出された積み木の玩具のように倒れ伏している馴染みの黒服姿を認めた。背筋が凍りつく。
海馬コーポレーションが誇る屈強な守衛たちを、この痩せっぽちの優男が物音ひとつ立てずに倒してしまったというのか。
「我が校の生徒、神月カンナが誘拐されました」
ディヴァインが唐突に言った。
「神月嬢は天涯孤独で身内がいない。犯人は我が学園に莫大な身代金を要求してきましたが、なにぶん我々に支払える金額ではない。どうか貴社のご助力を。警察なんぞはもちろん頼りになりませんから」
「あ、ああ……事件のことは聞いている。ひどい話だぜい。オレたちも大切なイメージ・ガールを今ここで失うわけにはいかない。あの程度のはした金で彼女が無事に戻ってくるのなら、うちが喜んで肩代わりするさ」
相手の興味を引く話題を続けなければならない。壁に設置された非常警報ボタンに注意を向けたまま、モクバは磨かれていない鋼板のようにマットな瞳を見つめ返した。外部に連絡がつけば、大勢の警備員が迅速に海馬邸へ駆けつけ、侵入者をすみやかに排除する。ディヴァインの不意打ちは二度も通じない。
「それで、誘拐犯はいくらよこせと言ってきてるんだ?」
「すべてですよ、ミスター・モクバ。いいや、ミス・ゴーランドと呼んだほうがよろしいか? 見えすいた茶番はやめろ。拝金主義者め。カンナの誘拐は貴様が目論んだんだろうが。あの娘を私利私欲のために利用することは許さん」
平坦な声とは裏腹に、若々しい表情には残酷な憎しみが満ちている。モクバはテーブルを蹴って駆けた。飛び出したところへ、頭上から剣の形をした幾筋もの白い光が降ってきた。
乾燥標本に仕上げられた昆虫の死骸のように、眩い針が影を床に縫いとめる。身じろぎもできず、モクバは絶望的に見上げた――〈光の護封剣〉。
遊戯が愛用するカードだ。
デュエルモンスターズのテキストが現実のものとなる超常現象を、兄や仲間とともに何度も目撃してきた。亡きディヴァイン老人は、カードを実体化させる特別な力を持った決闘者を〈サイコ・デュエリスト〉と呼び、思うがままに蹂躙してきた。その男の息子が当の超能力者だとは、ずいぶんな皮肉だ。
ふと、モクバは十代の言葉を思い出した。『あいつたぶん、オレと同じなんです』。遊城十代もまた規格外の力を生まれ持った異物だ。普通人の理解の範疇を越えた共感が、超能力者同士の間で起こったのかもしれない。
違和感が頭をもたげる。脳裏に、間違った出会い方をした同類を気にかけ、これから絆を育めるかもしれないと淡い期待を抱く十代の姿が浮かんだ。あの不器用な口ぶりもまた、まやかしだったのだろうか。
真実であってほしいと願った。十二年も心の底から嫌悪してきた子どもの無害さを、モクバはいつの間にか信じはじめていた。
ディヴァインが燃えるような赤毛をかきあげ、ゆっくりと近付いてくる。海馬邸に家人の悲鳴が響きわたった。誰も聞く者はいないまま、闇に吸い込まれていく。