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6
新聞配達の自転車がスタンドを跳ね上げる音で、遊戯は朝の訪れを知った。油の切れたペダル音が去っていく。
綿雲のようなあやふやな夢を見ていた。鮮明さや神秘性は、『彼』が重なり合うくらい隣にいた頃よりも遠くなって、目が覚めたときには中身をほとんど覚えていない。あとで既視感となって蘇り、遅まきながら虫の知らせに気がつくのだ。
大人の男が寝転ぶにはもう随分窮屈になってしまったベッドから、泥のように重い身体を引きはがす。全身がこわばって痛んだ。
整頓されすぎた机――青春の思い出をピースに当て嵌めたパズルは完成し、眺めて楽しむ飾りものになってしまった。額に入れて壁に飾ってある星形の人物画。幼いクレヨン文字で『ハッピー・バースデイ』と添えられている。『いつも応援しています。十代』。
影に沈み込んだ家具のふちを薄い埃が覆い、空気に舞い上がって、天窓から射し込む光の中で雪の粒のようにまたたいていた。部屋の中にあるものはすべて過ぎ去った日々の墓標だ。
最近になってようやくわかったことがある。どこへ行ってもどれだけの距離を歩き続けても、深い追憶の森のなかから抜け出せたことは一度もなかったし、それはこれから先も決して変わることはない。
玄関先に届けられたばかりの新聞を広げて、遊戯は唖然とした。
一面を顔見知りの少女の写真が占めていた――『トップアイドル神月カンナ誘拐される。神月さんは、昨夜宿泊していた童実野ホテルの部屋から何者かに連れ去られたと見られる。在籍しているデュエル・アルカディア学園に、多額の身代金を要求する犯行声明文が届けられた』。
昨夜、遊戯は本物の神月カンナに出会った。テレビの中から華やかな栄光と自尊心を振りまいている偶像とは裏腹に、彼女は警戒心が強く、本当は内気で感じやすい少女で、大人の男の前で人慣れしない猫のように毛を逆立てて怯えていた。
事件のディテールを追って新聞記事を繰っていくうちに、また見覚えのある人物の訃報が目に留まった。〈KCグランプリ二〇〇九〉開催記念のパーティー会場で遭った、肉塊のような男の顔写真が載っている。かなりの資産家らしかった。
昨日の夜、男が乗っていた車は会場を出てまもなく無人の暴走トラックに追突された。即死だったらしい。
トップアイドルの誘拐事件と、偶然起こった不幸な交通事故には何の関連性もない。しかし、今朝の新聞に登場するふたりの人物と、ほんの半日前に偶然顔を合わせていた遊戯は妙な心地になる。
日曜日の朝の道路を、黒塗りの高級車が無声映画のように音もなく走ってきた。亀のゲーム屋の正面に乗りつけ、いつものサングラスと黒服姿の磯野が降りてくる。
「折り入って頼みがあって参りました」
磯野が言った。以前会ったときよりも頬がこけている。遊戯は新聞紙を広げてみせた。
「それって、この事件が関係あるんですか」
磯野は生真面目に紙面を見つめていたが、静かに首を振った。
「いえ、まったくありません――誘拐? カンナちゃんが」
「そうですよ。あのカンナちゃんが」
「……由々しき事態ですが、本日の用件はそうではない。貴方には、今年度のKCグランプリ予選開幕の合図となるオープニング・デュエルのゲストを務めていただきたい。対戦は本日午後十八時の開始となっております」
「え。今日の夜? 急だな」
遊戯はぽっかりと口を開けた。磯野は機械的な無表情を崩さないが、彼の喉の奥に魚の小骨の形をしてつっかえている疑念が伝わってきた。
「モクバ様の一存です。サプライズ企画だそうで、今夜瀬人様が戻られるまで伏せておくようにと命じられております」
「モクバくんの頼みなのか。でも、それは、海馬くんならきっとすごく――」
「はい。そうと知れば、間違いなくお怒りになるでしょう」
モクバは長年兄の傍らに寄り添い、共に歩んできた。決闘者たちがわきまえているルールとはずれた思いつきが海馬瀬人を激怒させる結末が、彼になら誰よりもよく見通せているはずだ。
「うーん。モクバくんらしくないな。そのオープニング・デュエル、ボクは誰と闘うことになっているんですか?」
「初代KCグランプリ優勝者、レオンハルト・フォン・シュレイダーとの再戦が組まれています」
「レオンくんか。彼もこんな特別扱いは望んでいないだろうな」
レオンには、今度こそただの楽しい決闘をさせてやりたいと思っていた。誰よりも純粋に決闘を愛している人間が、なぜいつも周りの勝手な思惑に強要され、義務的な舞台の上に立たされる羽目になるのだろう。
「残念だけど、今はできない。ボク『たち』のデッキはまだデュエル・アカデミアに預けてあるし……磯野さん、モクバくんと話がしたいんだけど、いいかな」
「それはもう、ぜひ!」
磯野は珍しく感情をあらわにし、遊戯の手を強く握った。
「ぜひ、お願いします。ここだけの話ですが、どうも昨夜からモクバ様の様子がおかしいんです。部屋に誰も寄せ付けられずに、今回の唐突な対戦のほかにも奇妙な提案ばかりされて。あげくの果てにはライバル校であるアルカディアの理事長に、我が社の株を譲渡するなどと言い出されますし……」
「なんだって? どうしちゃったんだ、モクバくん」
遊戯が最後に見たモクバは、いつも通りの彼だった。誘拐されてしまった神月カンナの手を引き、会場を大股で歩き去っていく後姿。
「我々は瀬人様がお戻りになるまで何もできない。頼れるのは貴方だけなのです」
磯野が言った。
*
冬の始まりの日曜日の早朝、海馬コーポレーションビルの内部は気が抜けたように静かだ。今夜開催される〈KCグランプリ二〇〇九〉予選大会のオープニング・デュエルにおいて、決闘王武藤遊戯との対戦を控えたレオンは、執務室の海馬モクバに詰め寄っていた。
「決闘王武藤遊戯には、彼にふさわしい高みまで到達しなければ触れることも赦されない。こんな決闘者の誇りを穢すような真似をきみがするはずないって信じていたのに、いったいどういうつもりなの」
モクバは何も答えない。薄気味悪い静けさにじれったくなって彼の顔を覗き込んだレオンは、雨と埃で汚れた曇りガラスに変わり果てているモクバの瞳に愕然とした。
「……モクバ?」
肩に手を触れると、ぼさぼさ頭がずるりと崩れ落ち、机に頭蓋をぶつける鈍い音が腹の底まで響いた。ショーは終わり、役目を失って倉庫に投げ入れられた寂しいマネキン人形。
――いったい、どうしたっていうんだ?
「サプライズさ。きっとみんな、びっくりするだろう?」
スチールの扉の前に、赤毛の幼馴染が立っている。ディヴァイン。デュエル・アルカディア学園の現最高責任者であり、失われた武藤遊戯のデッキを所持していると目される男。
彼の出現はスイッチを入れたフィラメント電球の点灯のように音もなく唐突で、レオンはそこにある姿がソリッドビジョンの幻影かもしれないと疑った。
「やあ。よく来たな、レオンハルト」
「ほんとにディヴァインなの?」
「じつを言うと、今までおまえを侮っていたんだ。昔は馬鹿で正直者のお坊ちゃんだったレオンが、まさかライバル会社の副社長と示し合わせて友だちを騙そうとするなんて。モクバに種明かしを聞かせてもらうまでは、さすがに信じられなかった。月日というものは残酷だ。見直したよ」
醒めた目を細くして見つめられると、背筋を氷の杖でなぞられたような気分になる。ディヴァインは、いつからこんなにも底の知れない人でなしの顔をするようになったのだろう。
「どうしてきみが海馬コーポレーションにいるんだ。まさか、きみがモクバになにかしたのか」
ディヴァインは微笑のかたちに凍りついた表情のまま、一枚のカードをディスクに読み込ませた。闇色のカーテンがひるがえり、覚えのある圧迫感がレオンの胸を締めつける。初代KCグランプリの幕を下ろした決闘王武藤遊戯のエース・モンスター、〈ブラック・マジシャン〉が、偽りの主の召喚に応じた。
「おいレオンハルト、見ろよ。すごいじゃないか。このブラック・マジシャン・デッキは本物らしいぜ」
ディヴァインが軽く言った。
モクバの目は確かだった。彼が遊戯のデッキを盗んだのだという確信が、レオンの怒りと義心に火をつける。
「今すぐそのデッキを返すんだ。それはきみやぼくが気安く触れていいものじゃない」
「これは父の遺品さ。だから私のものだ。いったいどんなあくどい手を使ってきたのかは知らんが、決闘王の座を十年以上も守り通している怪物の剣だぜ。この最強のデッキを手にして出来心を起こさない決闘者がいるとは思えんね。レオン、おまえだって本当はこいつが欲しくて仕方がないんだろう?」
たとえ同じカードでも、マスターが違えば使役されるモンスターの性質も大きく異なっていた。ディヴァインにかしずいている青白い肌をした黒衣の魔法使いは、魂のないただの立体映像に過ぎない。気高さも凛々しさも、主人に勝利をもたらす鋼の決意も持ち合わせてはいない。
機械的な青い目が、このモンスターは義務的にとり行われるゲームの駒のひとつでしかないのだとレオンに告げている。ぜんまい仕掛けのブリキの玩具のような魔法使いの姿を見ていると、ひどく悲しい気持ちになった。
あのとき相対した遊戯の〈ブラック・マジシャン〉は、確かに主の信頼を背負ってフィールドに立っていた。そこに、きっと魂は宿っていたはずだ。
「誰もが望むデッキを、それにふさわしい決闘者が使うからこそぼくは憧れるんだ。きみはあの人を何もわかってない。決闘王はいつだって正々堂々と闘って勝ってきた。遊戯さんを侮辱すると許さないぞ」
「侮辱だって? 心外だな、褒めているんだよ。金と名誉のためにあそこまでやれる執念深さをね。しかし、なんだこれは。我々が子どもの頃とまるっきり同じ構成じゃないか。よくもこんな古臭いカードで闘えるな。宿っている力はすさまじいが、変化を諦め成長を止めた者に訪れるのは崩落だ。歳を取ったヒーローは必ずそうなる」
「きみだって子どもの頃はあの人に憧れていたじゃないか。信じられないよ。遊戯さんを悪く言うなんて」
「世界中の子どもたちに決闘が面白い娯楽だと教え込んでしまったのは、武藤遊戯の悪行だ。奴は決闘の現実を知った子どもの心が折れる音を聞いたことがないだろう。最初から日和見な誤解をしなければ、それなりの救いはあったんだ。決闘王は罪人だ。まやかしを吹いて回る詐欺師だ。あの男に盲目のきみには言ってもわからんだろうが、私は奴を嫌悪する」
ふたりの言葉はお互いの心にかすることさえなく、認識はいつまで経っても交わらない。
ならば――。
「力ずくっていうのは好きじゃないけど、ぼくはどんな手を使っても、必ずあの人のもとに大切なデッキを取り返すつもりだよ」
――決闘だ。
レオンはデュエルディスクを起動し、グリム童話のヒロイン〈シンデレラ〉を喚んだ。彼女こそハッピーエンドの体現だ。主人公の娘たちが暗くて悲しい結末を迎える童話は嫌いだった。
彼女が華奢な足を振りかぶった。リアルな破砕音がして、跳ね上げた靴を額にぶつけられたディヴァインが苦痛の声を漏らした。透明なガラスの破片が舞い、優しい朝の光の中で赤っぽいきらめきを放っている。
〈シンデレラ〉の攻撃に成功だ。モンスター効果により、装備した〈ガラスの靴〉を敵に移し変えることができる。砕け散ったガラスがひとところに集まっていき、どろりと溶け合ったかと思うと、生き物のようにうねって〈ブラック・マジシャン〉の足に絡みついた。
〈ガラスの靴〉が恩恵をもたらすのは、所有者にふさわしいたった一人の女の子だけだ。不機嫌になった靴は〈ブラック・マジシャン〉の攻撃力を大きく削ぎ、加えて相手は〈シンデレラ〉を攻撃することができなくなる。
「ぼくはこれで、ターン・エンドだ」
先制は取ったものの、さすがに決闘王のデッキと対峙する重圧は半端なものではない。
しかし、プレイヤーは別人だ。盗んだ他人の力を振りかざすのは、自身のデッキを信頼できない偽物の決闘者がやることだ。もしもこの闘いに負ければ、レオンを真の決闘者だと認めてくれた遊戯に顔向けができない。
「私のターンだ。ドロー、速攻魔法〈サイクロン〉を発動する」
ディヴァインが掲げたカードから大渦が生まれ、〈ブラック・マジシャン〉を封じていた〈ガラスの靴〉が破壊されてしまった。拘束を解かれた魔法使いが、鋼の杖を〈シンデレラ〉に向ける。
「レオンハルトに攻撃しろ、時代遅れのおんぼろ魔法使い。――〈黒・魔・導〉!」
局地的な放電現象が〈シンデレラ〉を跡形もなく吹き飛ばし、レオンを打った。
ソリッドビジョンは幻影だ。日夜闘いに明け暮れる異世界の戦士たちの手練手管を、恐ろしいほどのなまなましさで映し出すが、現実の感触を伴うことなどありえない。
それなのに、しもべが破壊された瞬間にレオンを襲ったのは、暗い雲から落ちてきた雷光が本当に全身を貫く耐えがたい痛みだった。マスターのレオンが、墓地に送られた〈シンデレラ〉と死の体感を共有したとしか思えない。
プレイヤーとモンスターの命がリンクする。そんなことが、現実にあり得るのか。
「ああそうだ、最初に伝え忘れていた」
ディヴァインが、もったいぶった調子で言った。
「私には少々不思議な力が備わっているんだ。おまえが愛するデュエルモンスターズのカードを、現実のものにすることができる」
よく見ると、ディヴァインの額にはいくつもの小さな切り傷が生まれていた。最初の〈シンデレラ〉の攻撃で、〈ガラスの靴〉の投擲が本物の質量を伴っていたとしたら――ゲームの最後にライフポイントを失った側は、いったいどうなってしまうのだ?
「死さ。敗北した者は、もちろん命を失うんだ」
とても誇らしそうにディヴァインが腕を広げた。
耳をつんざく雷鳴は録音されたサウンド・エフェクトではない。流れる血はソリッドビジョンではない。これは本物の魔法の雷撃で、本当の痛みだ。
「これが決闘だ、レオンハルト。おまえが大好きな楽しい決闘だ」
「こんなのは決闘じゃない。全然楽しくない!」
「楽しい決闘なんてものがそれこそ欺瞞なのさ。決闘はただの殺し合いだ。戦争だ」
いまだになりきり遊びを続けている幼稚な友人に向ける侮蔑と、幼稚でいることが赦される境遇の人間へのある種の羨望と嫉妬と嫌悪を交えたまなざしでレオンを見つめていたディヴァインは、グリーンのカーペットの上に倒れているモクバを顎で示した。
「海馬モクバに何をしたのか教えてやる。デュエルモンスターズの力によって、そいつは私の忠実なしもべに生まれ変わったんだ。レオンハルト、おまえにもぜひ私の力になってもらいたい――世界征服の野望を叶えるために」
「は?」
レオンは呆気にとられてディヴァインを凝視した。彼は本気で言っているのだろうか。それともまた冗談を言って、からかっているのだろうか。
「いったいどうしてしまったの。そんな非現実的なことができっこないじゃないか」
「できるさ。彼女が教えてくれた。カンナと出会って私は目が覚めたんだ。彼女のたったひと言が、私を子どもから大人に成長させてくれたんだよ」
「カンナだって? うそだ。カンナはそんなこと言わない。ぼくと同じで遊戯さんが大好きな決闘者に、悪い人はいないよ」
「……おまえが知ったふうにあの娘を語るな!」
突然、不可視の手に突き飛ばされた。背中から叩きつけられた窓一枚を隔てて、はるか眼下に、再開発を待つ童実野町の余命幾ばくもない建物群が佇んでいる。
連続窓の表面に蜘蛛の巣のような罅が入り、屋外へ向かって弾けた。高空の風は冷たく、薄い雲が敷き詰められた朝の空が視界いっぱいに広がっている。割れた窓ガラスの破片が、宝石のように輝いている。レオンは海馬コーポレーション本社ビルの高層階から投げ出され、のっぺりとした灰色の地面に向かって残酷に落下していく。
――ぼくは、死ぬのかな。
激しい未練が胸を焦がした。
――もう一度あの人に会いたい。今度は真正面から挑みたい。
「……レオン!」
レオンはそのとき、この世界で最も憧れている男の声を聞いた。彼の姿を見た。子どもの頃に一度だけ相対した、鋭い剣のまなざしと苛烈な魂を間近に感じている。
「危ないところだったな。無事でよかった」
かつての決闘の結末に掛けられたものと同じトーンの、懐かしいいたわりの声が降ってきた。
――あなたは、来てくれたんですか。またぼくを助けてくれたんですか……。
だが違った。『彼』ではない。レオンは短い白日夢から醒めた。筋肉質の片腕がレオンを軽々と抱きとめてくれている。銀色の光の巨人。
少女と見まごう美しい顔立ちが覗き込んできている。神月カンナ。顔立ちも仕草も年恰好も、憧れの人物に似たところは見当たらない。それなのにレオンには、カンナが一瞬本物の武藤遊戯その人に見えた。
「生身の〈ブラック・マジシャン〉を拝めるなんて。これが盗まれたデッキじゃなきゃ、きっとワクワクしただろうけど……」
魔術師は、誰からも忘れ去られた遺構の黄ばんだ石柱に変わり果てている。カンナは人間離れした身軽さで、割れたガラス窓の中へ飛び込んでいった。赤毛の青年へ向けた表情は諦観に翳っている。
「キミとはもしかしたら仲間になれるかもしれないって思ってた。ディヴァイン理事長。だけどモクバさんをこんな姿に変えて、オレの友だちのレオンを傷付けて、遊戯さんのカードを悪用するようなやつは赦さない。おまえをブッ倒して、そのブラック・マジシャン・デッキは何としても返してもらうぜ」
驚いたことに、彼もまたデュエルモンスターズのカードを実体化させる摩訶不思議な超能力者のようだ。整った横顔には熱くゆるぎない闘志と強者ゆえの優しさが宿っていた。
正しい心が大きな力を律しているその姿は、レオンに小気味のよい安堵と信頼を与えてくれる。健全な魂。
そんな正統派ヒーローの姿を前にしたディヴァインは、今まで鳥だと思っていた生き物が本当は毛の生えたとかげだったとでもいうような、認識の一角が脆く崩れていく絶望にも似た戸惑いを表わしていた。
「馬鹿な子どもだった私に世界征服の野望を囁きかけたきみが、なにを寝ぼけたことを言っているんだ? 神月カンナ。きみは私に特別な存在としてそうあるべき運命を示してくれた。あのときからいつでもきみの言葉を拠り所にし、共に進んできたんじゃないか」
「わけのわからないことを言ってごまかすのはやめろ。これ以上オレの憧れの人のデッキを穢させはしない」
「カンナ!」
ディヴァインが悲劇の登場人物のように胸に手を当て、心変わりをしてしまったかたくなな恋人役に切々と訴えかける悲壮さで叫んだ。
「忘れたとは言わせない。きみだけはわかってくれたはずじゃないか。力こそ正義だ。権力こそ信頼だ。選ばれし者にのみ授けられた大いなる力を弱者に振りかざす快楽を、あのとき私に教えてくれたじゃないか」
急にカンナは、昔書きなぐった幼稚な日記に唾を吐くような顔になり、情感たっぷりの茶番劇を無視してしもべに攻撃命令を下した。〈ネオス〉と〈ブラック・マジシャン〉の攻撃力は互角、相打ち覚悟の特攻だ。
カードをごく近しい友人として大切に扱う遊戯に憧れる神月カンナが、一緒に闘う仲間を使い捨てがきく道具のように扱うさまは意外だった。
しかし、それはレオンの思い違いらしかった。カンナは決してカードの価値を軽んじているわけではない。
攻撃宣言が現実の暴力となる異常な決闘において、プレイヤーとモンスターは痛覚を共用することになる。カンナは最大限の信頼を寄せる〈ネオス〉を、自らの肉体の一部として削ぎ取ったのだ。
二体のモンスターが砕け散った。おぞましい殺し合いゲームをするふたりに、平等な死の体感が訪れる。ディヴァインの上げたぞっとする苦悶の声が耳にこびりついて離れない。
カンナのほうは微動だにせず、再び〈ネオス〉を召喚した。自分自身の魂が削れていく現実に怯まない。
この男は痛みを感じないのか。レオンはカンナがすこしだけ怖くなった。
肉を持って蘇った〈ネオス〉が突き出した手刀が、赤毛に縁取られた色の白い眉間に触れそうな距離で、ぴたりと止まった。
「きみは痛みをかえりみない。素直に恐ろしいよ、カンナ」
ディヴァインが面を上げ、不敵なやせ我慢の笑みを浮かべた。
「きっと腕を取られても喉笛を噛みちぎる。脚を斬られてもどこまでも追ってくる……そんなかわいいなりをして、まるで百戦錬磨の古兵だ。まったく、やれやれ――きみ、いったいどれだけこの戦争に勝ってきたんだ」
ディヴァインは両手を突きだし、指の間にはさんだ〈ブラック・マジシャン〉のカードを今にも破り捨てようとしている。何もかもが自分の思い通りに進むのだと確信した顔だ。
「そのくせこんな骨董品にご執心ときた。まったく女というやつはわからん。さあ攻撃してこい、カンナ。できるものならね。そのときは、この紙くずみたいなモンスターを本物のごみに変えてやる――」
「そんなことをしてみろ」
カンナの声色が変わった。
人の喉から漏れ出したとは信じられないほどに機械的で、見渡す限りの凍てついた岩の荒野に吹き荒れる、悪意を運ぶ風を思わせた。
「あの人の大切なものを壊して悲しませるような存在を、オレがおめおめと生かしておくとでも思うか? そのこざかしい敵意も野望も心の闇も、すべて跡形もなく踏み砕いてやる」
ほんの一瞬の間に、彼は絶対の権力を持った無慈悲な王に変貌を遂げていた。愛嬌と快活さで人を和ませるブラウンの瞳はあらゆる感情とともに死に絶え、狂った野獣の金色の瞳が、人類が足を踏み入れたことのない呪われた大地に蔓延する異教の神聖さを帯びて、爛々と光っている。
この男は本当に、あの屈託のない憧れをレオンと共有していた神月カンナなのか。
「おまえは孤独のなかで戦う宿命を生まれ持った戦士だと期待していた。だが見込み違いだ。どうやらただの下衆な虫けらに過ぎなかったようだな」
底なしの黒い気迫は、瘴気とすら呼べるほどに澱んでいた。彼は人の心の中にある不安の種に水をやり、発芽した恐怖を急速に成長させ、全身の内側の隅々にまで絶望の根を張り巡らせて抵抗を奪ってしまう力を持っているのだ。
真正面から彼と向き合ってしまったディヴァインは、毛むくじゃらで丸太のように太い八本足を持つアトラナート蜘蛛の糸に絡め取られてしまっている。
神月カンナは人間ではない。ディヴァインと同類の、超能力を得た新人類でもない。レオンは気の合う友人への好感と信頼を越えたところで真実を理解した。人の想像の外側に生息する異生物だ。彼を表わす言葉があるとしたら――。
「――悪魔め」
ディヴァインがしゃがれ声を絞り出した。闇が彼に迫る。
「いいか、私におかしな真似をすれば、〈ブラック・マジシャン〉を破り捨てるぞ」
「そのときはおまえも同じ運命を辿ることになる」
抑揚のないカンナの声が、歴史年表を読み上げるような事務的な死の宣告を下した。
レオンはディヴァインの失策を悟った。彼はこの得体の知れない悪意の塊に歯向かうべきではなかった。不興を買うべきではなかった。ただ従順を強いられていればよかったのだ。
そうすれば、命だけは助かったかもしれない。
「……こ、この魔女を殺せ!」
轟音が鼓膜を殴りつけた。
冷えきった調度品のひとつと化していた海馬モクバがいつの間にか立ち上がり、まるで軽薄な玩具に見えるプラスチックフレームの小柄な拳銃を握っている。カンナが、砂袋が倒れるように床の上へくずれ落ちた。
彼が撃ったのだ。
ディヴァインはうつろに笑い、ぜんまいばねを連想させる癖毛をかきあげた。狼狽と恐慌の余韻に痙攣する膝で立ち上がり、じっとりと湿った恨めしさを込めて、カンナの赤い小さな穴が空いた胸を踏みつけた。
「モクバに持たせた弾は父が遺した特別製でね。意味は分かるだろう?」
カンナのチョコレート色の長いツーテールを手綱のように引きながら、ディヴァインが銀でコーティングされた九ミリ弾をひけらかした。人間らしい感情を失っていたカンナの顔に、怒りと後悔と慟哭を張り合わせた混沌とした悪意が浮かぶ。
「――それで、おまえの、親父は……あの娘たちを、捕らえたのか?」
カンナが言った。ディヴァインは地に這いつくばった死にかけの捕食者を見下し、優越感に浸っている。
「あの男の実験動物どものことを言っているのなら、どうやらそうらしいぜ。きみはあの銀の髪飾りを見たことがあるのか? そのおいしそうな髪の色にさぞ似合うだろう」
カンナは洞窟のようにぽっかりと開いた瞳で銃口を見上げ、モクバを凝視し、かすれ声で言った。
「モクバさん。目を覚ましてください」
温かい血が彼の肺を満たし、喉を逆流してきて、薄い唇を真っ赤に染め上げた。それでも金の瞳の力は揺るがない。
モクバに逡巡するところはなかった。再びトリガーを引く。オートマティックのイジェクションポートから空薬莢を弾き出し、次弾を装填。発砲。一度、二度、躊躇なくもう一度。
レオンはモクバに飛びつき、彼の耳元で静止を絶叫しながら床に押さえつけた。視線をスライドさせる。緑のカーペットが大量の血液を吸って、むらのある黒に染まっていた。動かなくなったカンナが横たわっている。
モクバがカンナを殺す。信じられない。良くない夢を見ているに違いない。
「いったいどうした、カンナ。ざまあないな。きみともあろう女が、ただの人間にやられ放題じゃないか」
ディヴァインはさも滑稽そうに笑っていた。どこかが壊れている。人にあるべき、ぬくもりを持ったなにかが欠け落ちてしまっている。
「なあ、きみはたしかに私の道しるべだった。自分自身の力のみを信じ、すべての他者を疑えと諭してくれた――それはきみだって例外なく疑えという意味だっただろう。だからこそ、神月カンナが私を裏切るという結末も勘定にいれておいたのさ。きみの負けだ、カンナ」
ひしゃげた窓枠をくぐり抜けて、筒状の金属が飛び込んできた。細身の缶ジュースにも見える。それは床にぶつかって破裂し、濃い白煙を撒き散らした。
りんの燃える臭い。発煙弾だ。映画で見たことがある。吹き込んでくる高空の強い風に乗って、あっという間に部屋中に充満する。
「くそ。何者だ!」
白いもやの向こうで、ディヴァインが毒づいている。
レオンは誰かに強く手を引っぱられた。男の固い手だ。つんのめったかと思うと、足元がぐらついて消失した。正体の分からない誰かは、レオンを道連れに高層ビルから飛び降りたのだ。正気じゃない。
風が雑な口笛を吹きながら耳朶を切り裂いていく。肝を冷やす浮遊感のあとで、一度大きく全身が跳ねた。気が付くと、コンクリート柱に撃ち込まれた金属の杭から鋼線でぶら下がっている。
レオンを宙吊りにしているのは、傭兵然とした無骨な男だ。オースチン・オブライエン、モクバに雇われた狂言誘拐犯だった。
「モクバ。カンナ!」
壊れた窓を見上げてレオンは叫んだ。血だるまで横たわる神月カンナ。影法師のように立ちつくした海馬モクバ。あのふたりをこのまま放ってはおけない。
「カンナは撃たれてるんだ、オブライエン。何度も何度も。ぐずぐずしてたらあの子が死んでしまうよ。モクバは人殺しになってしまう」
「このミッション、依頼主をひとりでも無事に救い出すのがオレの役割だ」
「昨日モクバに聞いたよ。きみはデュエル・アカデミアの卒業生でカンナとは仲間だったって。友だちなら……」
「今は無理だ、ミスター・シュレイダー。自分の心配をしていろ」
レオンがいくら食い下がっても、オブライエンが意志を曲げる気はなさそうだった。まるでぶあつい鉄板に向かって話し掛けているような気分になる。
鋼線が緩やかに降下し、レオンは自分の足で地面に降り立った。海馬コーポレーション本社ビルの正面口に、黒塗りの高級車が乗りつけている。運転席には海馬兄弟の側近の姿があった。
レオンの前に、昔よりもずっと背が高くてたくましい大人の男になった遊戯が立っている。
――だめだよモクバ。もうおしまいだ。ぼくらがやったのは、この人が悲しむのを余計に大きくしただけだよ。
後ろめたさが肺を圧迫する。彼の清潔な光は真実を照らし出し、向かい合って嘘を貫ける者はいない。
レオンは疲弊しきった顔を上げた。本社ビル上階の、飴細工のようにねじれて吹き飛んだガラス窓の向こうに、勝ち誇ったまなざしの赤毛の青年が立っている。上空を覆っていた煙幕の雲が晴れたころには、その姿は幽霊のように掻き消えていた。
7
ぬるい硫黄の雨が、折れたアーチとくすんだ緑の茂みを打ち据えている。石畳の割れ目から、つる草がほうぼうに巻きひげを伸ばしていた。親に見捨てられたとらじまの痩せた仔猫が、幼い十代の足元で死にかけている。
赤い傘を傾けて短い指を差し伸べると、仔猫は目を見開き、唸り、爪の先に噛みついた。毛むくじゃらの尻尾を魔女のほうきのように逆立てて、肢を引きずって逃げていく。
後ろから誰かが――のっぽで兎の眼をした男が、慰めるように十代の肩を抱いてくれた。
仔猫は、あの後どうなったのだろう。猫の姿はいつのまにか泥まみれの若い男の姿に変わっている。
日々のありふれた光景の断片が、ふとしたはずみで記憶の糸玉を解くことがある。彼との出会いがそうだった。薔薇園の植えこみの中から、手負いの獣の恐怖を孕んだモスグリーンの瞳が睨みつけてきたとき、十代はいつかどこかで見た人慣れしない仔猫のことを思いだしていた。
修道女の恰好をした〈神月カンナ〉は、彼に手を差し伸べてやった。噛みつかれるだろうか?
彼は唸り声を上げたが、弱った猫とは違って噛みつかなかった。
*
頭蓋の内側に直接打ちつけるような雨粒の音を聞きながら、遊城十代はひどく重いまぶたを上げた。
メダリオンつきの白い天井が見えた。知らない部屋だ。前時代的な積み煉瓦の暖炉の奥で、炎が乾いた薪を食い散らかしながらまばゆい光を放っていて、暖かくて心地が良かった。
木製の窓枠のなかを、暴風を呼んだ水っぽい雲が真っ黒に塗りつぶし、時折懐中電灯の点き方を確かめるような短い間隔で発光している。遠雷の音。
十代はベッドの上にいた。頭を起こしてシーツを蹴飛ばしたところで、自分がスリップ一枚しか身につけていないことに気がついた。ジョーゼットだ。下ばきはつけていない。
『私を飲んで』と書かれた札がくくりつけられた小瓶のように、サイドテーブルに〈ブラック・マジシャン・デッキ〉が無造作に置かれている。
拍子抜けの気分で四十枚のカードに腕を伸ばした途端、指に透明な焼きごてを押しつけられたかのような灼熱感に襲われた。焦げて黒ずんだ指を口に含んで、十代は顔をしかめた――いったいどんな性質の悪いトラップだかは知らないが、決闘王のデッキに触れることができない。
不穏な落雷の音にかぶさって、扉の蝶番が重々しく軋んだ。赤毛のミスター・ディヴァインが、初秋の遠い青空を思わせる微笑をたたえて現れた。銀のトレイに温かいミルクが入ったマグカップをふたつ載せている。
「おはようカンナ。気持ちのいい夜だ」
人を寄る辺のない気持ちにさせるさわやかな青年の声は、どこかの異空間から響いてくるように場違いだった。サイドテーブルの上から〈ブラック・マジシャン・デッキ〉を苦もなく取り上げてポケットに入れ、トレイを置いて十代の隣に座った。
思い出した。この男が海馬モクバに十代を撃たせたのだ。十代は彼との駆け引きに敗北した。
グロックが肉体のあちこちに空けた穴はすべて塞がっている。皮膚が引きつる不快感もなかった。おそらくディヴァインが、デュエルモンスターズの力を使って癒したのだ。
敵対者を生きながらえさせた理由はなんだ――決まっている、彼の頭の中にある鍵つきの金庫にしまい込まれた、とっておきのたくらみに利用するためだ。
いったい何を目論んでいる? なによりも、モクバは無事でいるのだろうか。
ディヴァインに問い詰めてやりたいことはいくつもあったが、十代は口を閉じ、つとめて平静を装った。がっつくのはうまくない。相手につけいる余地を与えることになる。
「おはよう、ミスター。理事長ってやつは、どこでも悪いことしてんのかな」
「きみの身体はすべて調べさせてもらった」
「どうだった?」
「とても素敵だよ。私がそのボビー・コークみたいな半陰陽を気味悪がるかと思ったのか? まさか」
十代はごく自然に振る舞って見えるように注意して、スリップの上に薄いシーツを巻きつけた。そしてあらためてディヴァイン青年を観察した。
沈み込んだ色をした赤毛で、前髪の右側にひどいはねがついている。排他的で高慢な瞳は、冬を前にして虫の息になった森の緑だ。それと揃いの色のベストを着ていた。
顔立ちは整っていたが、性根の曲がった悪徳教師や嗜虐癖を持ったインチキ宗教者と共通する皮肉っぽい唇の歪ませ方が、彼の印象を人を寄せつけない冷ややかなものにしていた。
「きみを見てると、僕は子どものころに背表紙が擦り切れるほど読んだジャンヌ・ダルクの伝記を思い出すよ」
ディヴァインが芝居がかった溜息を零して言った。
「十五世紀当時、百年戦争の英雄で神に愛された聖女がじつは両性具有者だという噂が、民衆の間にまことしやかに流れていた。裏切り者たちが彼女を魔女だと糾弾したからだ。中世、魔女は両性具有だと信じられていたからね。きみのように」
彼の感情の仮面の使い分け方は非常に巧みだった。気のおけない『僕』の顔、有能な『私』の顔、それからさっきまで見ていたおぼろげな夢の中にいた、傷つき怯える仔猫のような行き倒れの『おれ』の顔もどこかに隠しているはずだ。
目の前にいる貴族然とした青年と、二か月前に十代が介抱してやった泥だらけの粗野な男の容姿が、まだうまく結びつかない。
「僕の父は政治家でね、カンナ。子どものころは優しかったんだ。つまり僕がまっとうな、何の変哲もない、普通の息子だと思っていたころは。多忙で家を空けがちな父がデュエルモンスターズをお土産に買って帰ってきてくれたときは本当に嬉しかった……だけど僕の中に超能力が発現してからは、すべてが変わってしまった」
心の膜の最も薄い部分をつつくのは、悪魔が良くやる手口だ。自分がされるのはこたえるものだ。
思考は醒めていたが、染み出してくる同情心は止められなかった。目論見が成功したディヴァインは、内心上機嫌だろう。たいした役者だ。
「決闘の最中に父をカードの力で傷つけてしまってからは、あの人は僕とは顔も合わせてくれなくなった。僕は徹底的に遠ざけられ、もう家族のぬくもりも憶えていない。親に愛されない虚しさ、弱いものによってたかって排斥される屈辱。きみが長い間感じ続けてきた心の欠落が、僕には自分のことのようにわかる」
「おまえはただ同類を憐れんでいるだけさ」
十代は吐き捨てた。
「キミは、自分しか愛せない。同じ穴のむじなのオレに自己愛を投影しているだけだ」
「きみもそうだから?」
「さあな」
「きみの目は猫の目のようだな。プライドが高いくせに寂しがりだ。僕ならきみをわかってあげられる。僕だけだ。そして僕を理解できるのもきみだけだ」
理想の男性像を夢見る少女用に甘ったるく作られた声は、十代におぞましい嫌悪感しか植えつけなかった。
自分の力のみを信じ、ほかの人間をただの道具としてしか認識できない。力と正義を同一視し、盲目に信奉するディヴァインは、たしかにかつての十代と同類だった。
『あの人』が導いてくれなければ、おそらく十代はまだそんなふうな人でなしだっただろう。だからこそ、この男を決して好きになれそうにない。
「僕を信じてついてきてくれるなら、カンナ、きみに新しい世界をあげよう。そこではもう誰も僕らを傷つけないんだ。レンチを手に持って追いかけてくるやつらもいない。僕らを化け物と呼んで排除しようとした者みんなが僕らを敬い、僕らの手先となってかしずく理想郷だ。なあ、それってとても素晴らしいと思わないか」
十代は強い自己嫌悪とともに押し寄せてきた嘔吐感を、かろうじてのところで呑み込んだ。
――そんなことをしても、なんにもならなかった。
世界を自分のものにしたことがある。すべてを力でねじ伏せて、逆らうものは皆殺しにしてやった。
はじめは大切なものを救うために求めた力が、護るものはなにもない。多くの罪を覚え、罰を背負ったが、犠牲と引き換えに探し物が帰ってくることはなかった。失い続けるだけだ。無意味さが黒い螺旋を描いていた。
十代は光に満ち溢れた人の世界の土を再び踏んだとき、もう二度と無価値な力を振りかざさないと誓ったのだ。冷たい炎に焼き尽くされた世界へは戻らない。
「なにが新しい世界だ。キミがあの時のオレと同じ間違いを犯そうっていうのなら……」
「どうだっていうんだ?」
ディヴァインが、にやつきながら覗き込んできている。彼が優位を確信している理由を、十代は身を持って知った。
精霊たちの声が聴こえない。ユベルの悪魔の眼球が見通す世界は消失し、身の丈に合わない壮大な夢から醒めたばかりの朝に訪れるきまり悪さが、石油臭い工場排煙のように肺を蝕んでいる。
ベッドの正面に置かれた大型のドレッサーに、円錐形をした、見覚えのある銀細工の髪留めでツーテールを飾る十代の姿が映っていた。髪留めを外そうと上げた腕が、強烈な電流に弾かれる。
「父がサイコ・デュエリストを捕獲するために造らせた、超能力抑制装置のひとつさ」
得意そうにディヴァインが言った。
「髪留めの形をしているのは、繁殖に使える牝が必要だったから。女を縛り付けるなら、どうせなら美しい装飾品のほうがいいと考えたんだと思うぜ、おそらく」
この罰当たりな機械は、デュエル・アルカディア女学園の地下牢獄へ囚われていた元生徒たちが着けられていたものだ。無力化された異端の少女たちは、自らが普遍的人類の慰み者にされるべき家畜だという間違った認識を受け入れてしまった。
孤独な運命に絶望しながら炎に呑み込まれていったのは、十代やディヴァインと同じく人の領域からこぼれ落ちた決闘者たちだ。だからこそ、亡父の腐り果てたやり方を肯定する同類に怒りがわいた。
「きみ本来の姿はじつに恐ろしいぜ。だがカンナ、あの悪魔のような超能力は封じられた。そんなに細い腕でいったい私をどうしようっていうんだ? ぜひ知りたいな」
にやにやしながら、ディヴァインが十代の肩をヘッドボードに押しつけた。ふたりの体格はそう変わらないはずなのに、彼を押し返すことができない。
アカデミア時代に親友と喧嘩をしたときの悔しさがまざまざと蘇ってきた。言い争いが取っ組み合いにまで発展した理由はもう思い出せないが、紫色の柔らかい袖に組み敷かれて、耳の後ろから押し殺した声で一方的な言い分を聞かせられるのが腹立たしくて涙がにじんだ。
ひさしぶりに、非力な人間の気持ちを痛感する。
「そうだ、カンナ。面白いものを見せてやろう」
ディヴァインが片手を上げて、板状の端末を壁のモニターに向けた。電源が入り、画面が明滅する。
どこかのダンスホールの天井からぶら下げられた、巨大な吊りかごが映し出される。餓死用の鉄の檻だ。なかには海馬モクバが囚われている。水が枯れた井戸のように開けっ放しのうつろな灰色の瞳が、彼の精神はまだディヴァインの支配下にあることを仄めかしていた。
「きみを殺そうとした海馬モクバだよ」
「おまえがそうさせたくせに」
十代はディヴァインを睨みつけた。彼はおどけて片目を瞑った。
「私はやつがきみに抱いていた殺人衝動を遂げさせてやっただけさ。モクバはもともと、きみが生きていることが我慢ならないほど憎んでいたんだ」
十代はうつむいて唇を噛んだ。ディヴァインはそんな十代を、真摯な同情を浮かべて見つめていた。
「モクバから聞き出したよ。きみはやつの命令で我がデュエル・アルカディア校に潜入したスパイだったんだな。ここは相応の礼を尽くさねばならんところだが、美しいきみを傷つけたくはない。なにより我がディヴァイン家の花嫁となる娘なのだから」
十代は唖然として顔を上げた。ディヴァインに冗談を言っている様子はない。枯草色の瞳に熱っぽい真剣さが光っている。
「私のものになれ、カンナ。そして最強のサイコ・デュエリストを産むのだ」
「ばかか? ガキなんか産めるかよ。オレは……」
「きみは男とも女とも交わることができ、両方の子孫を残すことが可能な両性具有者だ。強く望むなら――これもモクバから聞いたんだがね、きみが異常な憧れを抱いている武藤遊戯の種を宿すことだってできる」
十代は息を呑んで、モニターに映った吊りかごを見た。いたたまれない気分になる。
「あの人は、オレなんかには見向きもしないさ」
「きみの魅力は普通の人間にはわからないんだ。価値を見分けられる者にだけ理解ができる。もしもきみが痩せっぽちの野良犬に見えるとしたら、きみのアイドルは他人よりも少しばかりカード・ゲームがうまいだけの凡人に過ぎない」
遊戯を馬鹿にされて頭に血がのぼっている十代を、満足そうに一瞥する。
「たとえばだ。あの男の好みそうな女を見繕ってこよう。彼の精液を手に入れたら、そいつできみは孕むことができる」
「そんないい加減な人じゃない」
「子どもの潔癖な憧れは破れたちり紙と同じだ。童貞処女のきみにはわからんだろうが。人にはね、何を犠牲にしても欲しいものがひとつやふたつは必ずあるんだ。私にももちろんある。なあカンナ、きみが憧れの男の子どもを孕むのがいやなら、それでいいさ。私は強い決闘者の掛け合わせなら誰の子孫だろうと構わないんだ。私が欲しいのは力を持った無知な子どもだ。私に忠実な兵士となるのなら、我が一族の血を受け継いでいる必要はない」
「あんた、いかれてるよ」
十代は唾を吐いた。淑女らしくない下品な仕草に、教育者の顔をしたディヴァインが眉をひそめる。
「お断りだ。あの人に手を出すな。それに、親に愛されない子供にいったい何の意味がある?」
「自分のことを言っているのか」
「さあな」
「私は愛してやる。きみのことも、生まれてくる子どもも心から愛そう。なぜならきみたちにはそうされるだけの価値があるからだ。これは取り引きだ、カンナ。私の望みを叶えてくれるなら、きみの願いは私が叶える。きみが私の言いなりになるなら、武藤遊戯のデッキはくれてやる。海馬モクバを解放しよう。そして今後一切彼らには関わらないと約束する」
ディヴァインは秘密めいた山師の微笑を浮かべながら、十代のあごの横へ両腕をついた。まっすぐ見つめてくる目は、好意こそちらついてはいたが、無機物を見る種類のものだった。
「答えは今すぐにとは言わない。処女のきみにはいたく重要な決断だろうからな。わかるぜ。だが急いだほうがいい。武藤遊戯もいろいろと多忙だろうからな」
海馬コーポレーションが主催する冬期グランプリのオープニング・デュエルに招かれたゲストは、レオンハルト・フォン・シュレイダーと武藤遊戯だった。
今の遊戯は丸腰だ。十代は顔色を変えた。
「そう。聡明な人間が私は好きだ、カンナ」
ディヴァインがほくそえんだ。無力な殺意を、ひどく気分が良さそうに見下していた。
「武藤遊戯がいくら最強の決闘者だと謳われていても、ありあわせのカードで闘える程レオンハルトは甘くない。なあ、遊戯は決闘を辞退するかな? 臆病者だと謗られるだろうな。王の称号を奪い取られることを怖がって戦争に赴かない腰抜けを、誰が決闘王だと認める? 彼の名誉のためにも、きみにはぜひ物わかりが良くなってほしいものだが……」
ディヴァインは十代から身体を離し、わずかに乱れた衣服を整えると、きざな仕草で淑女へ向ける一礼をした。
「じゃ、失礼するよ。私は忙しい身でね。いつまでもきみの相手をしていられないんだ。あとで一緒に決闘王の醜態をテレビで観よう」
武藤遊戯はどんな困難な状況にあっても、いつだって堂々と闘って勝ってきた。それでも絶望的な妄想が頭から消えない。
遊戯が、彼とは関わりのない誰かの謀略の手に足を掴まれ、決闘王ではなくなる。冬の冷たい海を往く船の羅針盤が指し続ける、北の空の星が地に堕ちる。誰もが光を見失い、船団は沈み、凍った海の底に呑み込まれてしまう。
そんなことがあってはならない。
「ま、待て!」
喘ぐように叫んだ。去りゆく背中を追って、ベッドから転げ落ちた。
ディヴァインは気のなさそうな顔を作って振り向いた。まだ何か用があるのか、というポーズ。色の褪せた絨毯の上に座りこみ、十代は震えながら声を絞り出した。
「なる。……おまえのものになるから、あの人には手を出さないでくれ」
ディヴァインは十代の顎をとって、悲壮な表情と潤んだ目を、収穫したばかりのりんごの具合を確かめるようにためつすがめつした。
「上出来だ。きみはじつに美しい。私の妻にこれほどふさわしい女はいないだろうよ」
肌が粟立った。今まで向けられたことがない種類の湿っぽい賞賛の囁きを、全身が拒絶している。
しかし、奇妙に満足してはいた。
これで武藤遊戯は穢されない。彼が傷つくことはない。王の栄光は守られたのだ。
ならば、それでいい。
一人きりで部屋に取り残されたあとで、十代はシーツを頭からかぶってうずくまり、自嘲で喉の奥を痙攣させた。滑稽な振る舞いしかできなくなった無能な手足に嫌気が差していた。
身ひとつで引き受ける犠牲が何よりも嫌いだったはずなのに、彼のことを考えると十代はおかしくなる。大人になったはずの心のなかに、庇護者のぬくもりを求めてさまよい歩く自分本位の子どもじみた甘えが還ってくる。
それでも世界中の決闘者たちに注目されているあのヒーローが、ブラウン管テレビの中から抜け出し、無数のファンが伸ばした腕の中からひとりの子どもの手を掴んで――親のように抱擁してくれるわけもない。
わかっている。
*
作り物の人格者の顔は、頬の筋肉がひどく凝るものだ。デュエル・アルカディア学園での日々に、ディヴァインはほとほとうんざりしていた。
馬鹿な小娘たちのご機嫌を取って、求められるのはつまらない社交辞令ばかりだ。華やかなダンスパーティーには、特別に耐えがたい吐き気をもよおしていた。
あの女どもは、自らが搾取されていることを知らないのだ。
せめてダンスを踊るのは、赤いドレスが似合う女がいい。軽薄な赤ではだめだ。青ざめた肉の袋から残らず絞り出した血のような、諦観と絶望の染み出した色でなければならない。その女が猫みたいな疑り深いつり目をしていると、もっといい。
神月カンナに似ているものがいればまだましだが、期待はしていなかった。あんなに冷ややかな死のにおいのする魔女がほかにいるものか。
ディヴァインは力のある人間が好きだった。強いくせに頭が空っぽで、耳のそばでいちいち道を示してやらなければ何もできないような、便利で役に立つクイーンのチェスピースをこの上なく好んだ。本当は臆病で愛を渇望しているくせに、口が裂けても本当の心をさらけ出せない、気むずかし屋の女。
あの女は自分の力の価値を知らない。夜空のポラリスが見えなければ何もできやしないだろう。
自分でも驚いているが、ディヴァインは神月カンナを軽蔑しているわけではなかった。彼女は御しやすく、世界一精巧で、いくつもの仕掛けを隠したきらびやかな操り人形だ。その愚かさを見下し、得体の知れない力に嫉妬し、心の欠落を撫でさすり――もしかするとそういうふうになら、気まぐれだが、自分以外の誰かを愛せるかもしれないと思ったのだ。
ディヴァインは、カンナとの約束を果たすつもりだった。自分で思っているよりも、ディヴァインは彼女を気に入っていたのだ。
遊戯の〈ブラック・マジシャン・デッキ〉はカンナにプレゼントしよう。それを彼女が自分のものにしようが、人懐っこい猫をかぶってもとの持ち主に返そうが、どちらでも構わない。
ただしそれは、夜が明けたあとだ。
明日の朝には、〈ブラック・マジシャン・デッキ〉の価値はただの紙くず同然になっているだろう。尻になじんだ玉座から蹴り出された男のデッキなど、誰がありがたがるものか。
神月カンナには、決闘王が膝を折るさまをぜひ見てもらっておきたかった。憧れの遊戯がみじめな敗退者に落ちぶれた姿を目の当たりにすれば、今はのぼせあがっている彼女も目が覚めるだろう。
熱が引いたファンの姿を見たことがある。あんなに目を潤ませて見上げていたのに、本当に見向きもしないのだ。まるでそこに誰もいないような残酷な仕打ちをする。
カンナが遊戯にあの目を向けるとなると、にわかに気分が良くなってきた。ディヴァインは、初めて自分が嫉妬深い男だったことを自覚した。
あの魔女は決闘でしか物事を計れない。決闘王の肩書きを引きはがされた哀れな遊戯には、すぐに何の興味も失くしてしまうだろう。
8
蛾の羽音に似たぶうんという低い音を立てて唸るテレビが、人工的な冷たい光を放っている。窓の外の雨脚は強まっていた。氾濫する川底の黒い泥のような雷雲から青白い矢が放たれ、轟音とともに森の木々を引き裂いている。
スピーカーから陽気なファンファーレが流れてきた。〈KCグランプリ二〇〇九〉予選大会の特設会場の座席は、この悪天候のなかにあって、詰めかけた観客たちですべて埋まっている。七色の紙吹雪が舞い、リボンつきのゴム風船が閉じたドーム天井に向かって上昇していく。
突然照明が落ち、一筋の眩いスポットライトが、ぶどう色の髪の青年の姿を浮かび上がらせた。
『さあ現れたぞ。今夜ふたたび伝説に挑む初代KCグランプリ優勝者、レオンハルト・フォン・シュレイダー! ヨーロッパ大会では惜しくも準優勝だったが、はたして前大会の雪辱は果たせるか?』
調子のいいMCにはやしたてられ、期待と賞賛の拍手の嵐に包まれたレオンは、さえない表情をしている。ヘーゼルナッツ色の瞳を迷子のようにさまよわせ、ディスクを構えた。
レオンは武藤遊戯に本気で立ち向かわなければならない。彼のもとにはディヴァインからの手紙が届いていた。すこしでも決闘に手を抜いたが最後、海馬モクバと神月カンナに面会することは二度とかなわないだろうという旨の脅迫状が。
――この警告はレオンハルトにはよく効いたようだよ。もっとも、やつは旧友の僕のことをペテンにかけようとしたがね。きみもあまり信用しないほうがいいぜ。
ディヴァインは鼻で笑って、そんな無用の忠告を十代にくれた。
「対するは――決闘王、武藤遊戯!」
歓声が膨れ上がり、湿度の高い熱気がモスケンの渦潮のようにうねっている。そこに混ざり込んだ微量の猜疑心に、観客たちは誰も気がついていない。決闘者たちだけが、無作法に損なわれた暗黙のルールに対して面白くなさそうな顔をしている。グランプリの参加者にとっては、武藤遊戯との対戦権は優勝杯よりも価値のあるものなのだから。
遊戯がテレビの前に現れた。彼は落ち着き払った穏やかな物腰で、毅然と前を向いてデュエルフィールドに立っていた。
しかし、今の決闘王は、手に馴染まない拾い物の剣を握らされた戦士だ。彼が全幅の信頼を寄せる〈ブラック・マジシャン・デッキ〉は、ディヴァインのポケットの中にある。
*
レオンと遊戯の決闘が始まった。
〈おとぎの国のレオン〉の異名のとおり、彼はヤーコプとヴィルヘルムのグリム兄弟が編纂したドイツのメルヘン集をテーマとしたカードを使う。小さな赤ずきんが黒い森をさまよい、ずる賢いオオカミが彼女をたぶらかし食らう。森の狩人が悪いオオカミを撃ち殺して赤ずきんを救う。
魔法で山男にされた鉄のハンスは、とある王国の王子をさらって鉄の騎士へと育て上げた。誰もが見惚れるシンデレラの魔法の美貌は、彼女を幸福に導く小道具たちの親切心によるものだ。
善と悪の対角線上に位置する登場人物たちが織りなす勧善懲悪の教訓を含んだ物語のなかでは、善人は取りこぼしなく幸せをつかみ、悪人は悲惨な末路を迎える。年月を経て黄ばんだ紙の一ページには、おとぎ話の主人公たちへのはっきりとした道しるべが示されていたが、彼らを操るプレイヤーは行き先を見失っていた。
死に際に長く苦しむ病気の小鳥の喉を潰して楽にしてやるような、いたましいドロー。レオンには、友人の命がかかっている決闘を笑って楽しむ余裕はなかった。大きな口の〈森のオオカミ〉を召喚し、レオンのターンは終了する。
遊戯が、デッキからカードを引いた。
頬は、なにかとても嬉しい知らせを聞いたときのようにかすかに紅潮しており、そこに諦観はない。彼は白を基調としたローブをまとった魔法使いの子どもを喚んだ。〈サイレント・マジシャン〉。レベル四の幼体だ。
遊戯が〈ミスト・ボディ〉の魔法を発動すると、その姿が白いもやに包まれていく。このカードを装備したモンスターは、戦闘では破壊されなくなる。
「〈サイレント・マジシャン〉。〈森のオオカミ〉に攻撃だ」
遊戯が幼い魔法使いに攻撃命令を下した。レオンは、困惑の表情を浮かべた。攻撃力は〈森のオオカミ〉のほうが勝っている。遊戯のしもべは魔法の力に護られて戦闘破壊をまぬがれるが、彼は差分のダメージを受けることになるのだ。
「魔法使い族の〈サイレント・マジシャン〉が攻撃宣言をしたとき――」
発動条件を満たした罠カードが開いた。〈マジシャンズ・サークル〉。攻撃力が二千を下回る魔法使い族のしもべを召喚できる。
遊戯は、攻撃力千六百ポイントの〈魔導騎士ディフェンダー〉を召喚した。
〈森のオオカミ〉の攻撃力は千八百ポイントだ。ディフェンダーではかなわない。彼はカードを伏せ、ターンを終えた。
『みなさん、驚きです。決闘王が使うのは〈ブラック・マジシャン・デッキ〉ではありません』
MCがマイクを握りしめて唾を飛ばした。熱病にかかったような観客の叫び声が加速する。
『これは来年の〈KCグランプリ二〇〇九〉本戦に先駆けて発表された、永遠の十六歳。身長百七十センチ、体重、三サイズ未公開。あの神月カンナがコマーシャル・ガールを務めるストラクチャーデッキ、〈ロード・オブ・マジシャン〉だ。特典カードはカンナの相棒〈カードエクスクルーダー〉だぞ!』
レオンのターンだ。ドローの瞬間に、遊戯の〈サイレント・マジシャン〉に魔力カウンターがひとつ乗った。このモンスターは、たしか、魔力カウンターを五つ蓄積することでレベルアップを行うはずだ。子どもから大人に成長した〈サイレント・マジシャン〉は大幅に攻撃力が強化され、加えて魔法カードを受けつけなくなる。
それでなくても、カウンターが増えるごとに五百ポイントの攻撃力が上昇する。まだ手がつけられるうちに対処しなくては、厄介なことになるだろう。
レオンは〈親指小僧〉に〈大男の修行〉の魔法をかけて、攻撃力二千六百ポイントの〈グローバーマン〉を召喚した。このモンスターなら、〈サイレント・マジシャン〉の歩みを止められる。
「ぼくは〈グローバーマン〉で、〈サイレント・マジシャン〉を攻撃です」
遊戯が〈魔導騎士ディフェンダー〉の魔力カウンターを解放した。モンスター効果によって、〈グローバーマン〉の攻撃は無効となる。
それならば、ディフェンダーを先に破壊するまでだ。レオンは〈森のオオカミ〉に攻撃の指示を出した。
遊戯が伏せていた罠カードを開いた。ひやりとしたが、レオンの攻撃を無効にする類のものではない。〈漆黒のパワーストーン〉だ。自らのターンに、望みのモンスターに魔力カウンターをひとつ与えることができる。
これで〈サイレント・マジシャン〉は、毎ターンごとに魔力カウンターを増やしていく。やはり遊戯は、魔法使いの子どもの成長をなによりも優先してきている。
〈森のオオカミ〉が大きな口を開けて、〈魔導騎士ディフェンダー〉を呑み込んだ。悪いオオカミに襲われたモンスターは、オオカミが誰かに退治されるまで胃袋の中で装備カードとして扱われる。
いずれは膨張を続ける〈サイレント・マジシャン〉の攻撃力が〈グローバーマン〉を上回ってしまう。しかし、まだ手はある。レオンのターンは終わりだ。
〈漆黒のパワーストーン〉の恩恵で、〈サイレント・マジシャン〉の攻撃力は本来の二倍にまで上昇する。
「〈サイレント・マジシャン〉で〈森のオオカミ〉に攻撃だ。そして、〈森のオオカミ〉が破壊されたことにより、食べられてしまった〈魔導騎士ディフェンダー〉がボクの場に戻ってくる」
レオンのターンだ。ドローの瞬間、〈サイレント・マジシャン〉に魔力カウンターが集う。彼女が大人に成長するまでに、何としても進化を食い止めなければならない。
「手札から魔法カード発動。〈糸つむぎの針〉!」
この針は〈いばら姫〉の童話に登場するひがみっぽい魔女の道具で、相手モンスターに三ターンの死の眠りを与える呪いがかかっている。王子が迎えにやってくるまでは、墓地へ送られた眠り姫の目を覚ますことは誰にもできない。
のけ者にされた恨みの針が〈サイレント・マジシャン〉を封印する。レオンはひとまず安堵した。三ターン後に墓地から戻ってきたときには、彼女に蓄えられていた魔力カウンターはリセットされている。
「ぼくは〈シンデレラ〉を召喚します。彼女の効果で〈かぼちゃの馬車〉を呼び、〈ガラスの靴〉を装備する。〈ガラスの靴〉の力で、遊戯さんにダイレクトアタックです!」
〈シンデレラ〉がドレスの裾をつまみあげて、ガラスのキックを遊戯にぶつけた。続いて、〈グローバーマン〉の攻撃が〈魔導騎士ディフェンダー〉を捕らえる。おそらく遊戯はディフェンダーのモンスター効果を使い、しもべの破壊を防ぐだろう。しかし、魔力カウンターにも必ず限界がある。
遊戯が、伏せていた罠カードを開いた。
〈魔法の筒〉だ。相手モンスターの一撃を無効化し、その攻撃力分のダメージを相手プレイヤーに与える凶悪なとらばさみ。強いモンスターを従えているのが仇になった。手痛いダメージだ。
やはり遊戯は簡単には勝たせてくれない。だが、〈グローバーマン〉が破壊されずに済んだのはよかった。
遊戯を護るのは、攻めを不得手とする〈魔導騎士ディフェンダー〉が一体きりだ。一見レオンのほうが有利な戦況だが、遊戯はただ一度の引きで圧倒的に不利な決闘をくつがえし、勝利をもぎ取る規格外の決闘王だ。わずかな気の緩みが敗北へ繋がっていくことを知っている。
レオンがこのターンに引いたカードは、切り札の〈ヘクサトルーネ〉だ。次のターンで〈シンデレラ〉と〈カボチャの馬車〉を生贄に、エースの彼女を召喚することができる。
遊戯のターンだ。彼は〈ブラック・マジシャン・ガール〉に酷似した、明るいオレンジ色のローブをまとった魔法使いの子どもを喚んだ。場内が大きく沸く。
『おおっと。きたぞ、〈カードエクスクルーダー〉。とくに目立った効果はないものの、その愛くるしさで過酷な決闘を和ませる魔法使い見習いの少女。神月カンナのアイドルカードだ』
エクスクルーダーは白くてもちもちした頬を膨らませて、彼女の評価に対する不満を表現している。遊戯が、小さな魔法使いに優しく声をかけた。
「キミの本当のマスターのために、力を貸してくれるね」
エクスクルーダーは、ぶかぶかのとんがり帽子をかぶりなおして頷いた。
遊戯が、〈マジシャンズ・クロス〉をかかげた。自分のフィールドに魔法使い族のしもべがふたり以上いるときに発動できる魔法カードだ。片側の魔力をもうひとりの魔法使いに注ぎこみ、攻撃力を三千ポイントにまで引き上げる。レオンのしもべは、攻撃に耐えられない。
「〈カードエクスクルーダー〉。さあ、頼んだぜ」
遊戯の攻撃宣言と同時に、レオンの二度目の敗北は確定した。魔力を増幅させた〈カードエクスクルーダー〉が、ガラスの破片でかりそめの主を傷つけた〈シンデレラ〉を吹き飛ばす。
遊戯の勝利だ。
『今回のオープニング・デュエルは、本来ならばグランプリのコマーシャル・ガールを務める神月カンナさんが行うはずでした』
決闘の終わりに、MCが粛々と告げた。草原の緑が風に撫でつけられて頭を垂れてしなるように、会場がざわめいた。観客たちの表情は憂鬱そうにかげっており、カンナの安否に関わる不安げな囁き声が揺れている。
『ご存じのとおり、カンナさんは卑劣な誘拐犯の手によって行方不明となっています。武藤遊戯さんは、決闘によって犯人の胸に何かを訴えかけることができればと、急遽カンナさんの代役を引き受けたのです――神月カンナさん誘拐事件について、情報の提供を引き続きお待ちしています』
カメラが栄えある常勝の決闘王を大写しにした。凛々しく引き締まった戦士の横顔だ。宵の空に浮かぶ美しい光を見たような、敬虔な気持ちになる。
彼のカードの扱い方は見事だった。人と精霊の区別もなく気のおけない友人たちと向き合い、共に楽しいゲームに興じるのだという姿勢が、人見知りのデッキとの信頼関係を一瞬で構築していた。
それは彼の生まれながらの才能だ。だからこそ彼は決闘王なのだ。十代は、視界を曇らせていた心配事がどれほどの的外れであったかを再確認した。
決闘のあとでマイクを向けられた遊戯が、薄い液晶パネルを通して、夕焼けのあとに訪れる不思議な空の色の瞳でこちらを見すえた。
『こんなおじさんじゃ華はないから、彼女の代理はつとまらないが。神月カンナさんが一刻も早く無事に解放されることを願っています。もし、彼女を傷付ける人がいたら――』
穏やかで静かな迫力をともなって、遊戯は宣告した。
『ボクは決して許さない』