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実体化した〈サイコ・ソード〉がモニターに吸い込まれていったとき、十代はケイビング用のロープで両手首を縛り上げられ、ベッドの前脚の一本に買い手を待つアラビアの女奴隷のように繋がれていた。暴れ疲れたせいでぐったりとしていたが、赤毛の後ろ頭を嗤ってやった。
煙を吹いて沈黙したテレビを蹴って、ディヴァインが忌々しげに歯をむき出した。
「なんだ。このくだらない茶番は?」
マットの端に腰掛けたディヴァインが振り向き、八つ当たりの手が十代の頬を張った。笑いものにされたのがよほど気に障ったらしい。
「約束破るあんたが悪いよ、ディヴァイン」
罵声と呪詛で枯れきった喉でそう言って、十代はにやりとした。
「約束は守らなきゃ」
「黙れ。頭が空っぽの化け猫ふぜいが、優しくしてやっていたらつけあがりやがって」
「そっちこそ化けの皮が剥がれているぜ。ミスター」
「おまえは、どうやら痛い目を見ないとわからんようだな」
低く絞られた野獣の唸り声と、腰に伸びてくる腕。これから何をされるのかはわかっているつもりだった。深い怒りに彼なりの折り合いをつける行為だ。とてもおぞましいことだ。
嫌悪感から反射的に肩をひねると、皮膚にロープが深く食い込んでできた、這いずりまわる黒い蛇を思わせる痣があらわになった。臍のあたりをまさぐりはじめた手のひらの不快さに奥歯を噛んで耐えながら、脳裏にちらつくイメージがある。デュエル・アルカディア学園の焼け落ちたディヴァイン邸で見た体感幻覚の風景だ。
かぶと虫の幼生のように白くむっくりと肥った人間が、背骨を曲げて横たわっている。腹はまるく膨らんでおり、妊娠していることはあきらかだ。死んだ同類の女の忠告と、まぼろしの登場人物のチョコレート色の髪を思い出して、諦めに似た推測が降りてくる。
あれは遊城十代自身の未来の姿だったのだろうか。
――もしそうだとしても、どうってことあるもんか。
一度は幾多の嘆きを吸った土の上に這いつくばり、手をぬかるんだ血で汚して人と精霊を殺し、肉を食らって生きながらえた外道の身の、これ以上何が貶められるというのだ。武藤遊戯の平安には比ぶべくもない。今は敗北の対価を支払い、耐えるだけだ。反撃の機会はいずれ巡ってくる。
しかし、太腿の間に指を差し入れられ、女の部分に触られて総毛立った。
「……っ、遊戯さんっ――」
思ってもいなかった声が漏れた。
「なんだ。かわいいところがあるじゃないか?」
愕然とする十代を見下ろすディヴァインの嘲笑は、苛立ちを含んで神経質に甲高かった。
童実野郊外の思いがけない数の星を隠した積乱雲が、体内をせわしく駆け巡る氷の粒にヒステリックな悲鳴を上げながら放電した。窓の外は昼間のような眩い光に包まれた。
一瞬、四角いフレームいっぱいに迫った黒い影が浮かび上がる。それはサバンナに野営するテントを訪れた象の成獣のようにも見えた。
ほどなく屋敷の女使用人が控えめに扉を叩いた。ディヴァインが十代の腰の上で、不機嫌な顔つきで応じる。
「何の用だ。私は今忙しい」
「申し訳ありません、お坊ちゃま。お客様がいらしております」
「こんな夜更けに訪ねてくるような礼儀知らずは追い返してやれ」
「それが、相手はあの決闘王の武藤遊戯でございまして」
分厚い板チョコレートに似た木製の扉越しに、女の困惑の気配が伝わってくる。
「無下に追い払うわけにもまいりませんし……」
ディヴァインは果ての知れない地割れの底まで投げ込むような深いため息を吐くと、上半身を起こし、しかめ面で上着を羽織った。
「やれやれ、わかった。私が出よう。カンナ、おまえの王子様がここへやってきたみたいだ。その奇形を憧れの男の前に晒したいならわめくなり騒ぐなりすればいい。どうぞお好きに、お姫様」
ディヴァインは、なつかない猫をなだめるような媚びと愚弄を十代に向けてきた。
透けたスリップの下にあるのは、完全な男ではなくなり、女にもなりきれなかった肉体だ。十代がこの性質を恥じたことは今までに一度もない。魂の半分と共有する実体を誇らしくさえ思っていた。
しかし、遊戯はこの身体を見てどう思うだろう。
ディヴァインの言葉の棘の先に仕掛けられていた心の闇の種が、栄養たっぷりの悪意の水を振りかけられて、十代の胸のなかの柔らかい場所へ徐々に根を張りはじめている。同じ穴のむじなの前で、わずかでも弱さをさらけ出してしまった愚を後悔した。
学究らしいほっそりした惰弱な指が十代の顎をとらえた。モスグリーンの残忍な瞳に映った遊城十代の顔は、やがて恐怖に移行するであろう焦燥と動揺をうまく隠せてはいない。
「おまえは思っていたよりも馬鹿だったから、わかりやすく教えてやる。遊戯がおまえのような怪物と結ばれる未来は存在しない。あの男には栄光と名誉がある。やつは必ずおまえの半端な肉体を軽蔑するぜ。ましてやその人間未満が自分に牝臭い劣情を抱いていると知ったら、気持ち悪いとさえ思うんじゃないかな」
ウィーク・ポイントは徹底的に攻め立てるべきだというディヴァインの信条は、じつに効果的に機能していた。十代には彼の次の手を読むこともできる。
まずは言語に変換されない不定形の衝動の海を進み、自我の大空の真ん中で輝いている宝石をわしづかみにする。拠り所や勇気や誇りとも呼ばれるそれを冷えきった岩山に打ちつけ、足蹴にしてやるのだ。
誰かの魂を完璧に粉砕してやろうと企んだとき、十代ならそうしてきた。手順や必要な前準備をわきまえているからこそ、汚泥が堆積した絶望の沼によけいに深く沈み込んでいく。荷物が重すぎるのだ。相手の思うつぼだ。
「たとえばだ、カンナ。もしも何かの気の迷いで遊戯がおまえを選んだとする。世間は低俗なタブロイドを見てびっくりだ。かの伝説の決闘王の変態嗜好が面白おかしく書き立てられ、やつはいい笑いものになる。現実を知れよ。鏡を見るんだ。おまえはそのいかがわしい正体を、武藤遊戯の前に、本当に晒すことができるのか」
ディヴァインの口から語られるまでもなく、子どものころから知っていた。武藤遊戯の心に十代の指が触れることは生涯ないはずだ。遊戯のまわりには、甘い果実が、飢える心配もないほどにたくさん実っているからだ。
花もつけない毒の草を、誰がかえりみるものか。
「言ったはずだ。おまえの言うとおりにする。オレはあの人が無事ならそれでいい」
汚れ役でも、大切な恩人のためになるのは悪くなかった。
ディヴァインがわざとらしく感嘆の溜息をついた。芝居がかってはいたが、どこか狼狽を後ろ手に隠し、意識して演じているようにも見える。
「魔女だと思っていたら、とんだ聖女だ。白状すると、おまえに一目惚れをしたんだ。現代のジャンヌ・ダルク」
「馬鹿にするのもいいかげんにしろ」
「本当さ。僕は嫉妬しているんだよ。かわいい男だろう?」
にやついた頬に唾を吐いてやった。ディヴァインは詐欺師の微笑を消し、十代を床に引き倒した。馬乗りの恰好になり、青筋を浮かべた二本の腕で首を掴んだ。怒りにまかせて頚椎が折れそうなほどに力を込める。
圧迫感で涙が滲み、息苦しさから舌を突き出した。十代を絞殺しようとしている今、ディヴァインは先ほど女の性器に触れたときよりも興奮しているのがわかった。
女使用人の金切り声を引きずって、「お待ちください、いくら何でも無礼が過ぎます!」、古い廊下を大股で歩く乱暴な足音が近づいてくる。扉がはじけ飛びそうな勢いで開かれた。
「――十代くん!」
まるでテレビから抜け出してきたかのような、オープニング・デュエルのステージに立っていた衣装のままの遊戯が、部屋の入口に立っていた。美しい光。二匹のクリボー族が彼の周りで輪を描いて浮遊している。十代は呆然とした。
――遊戯さん。
尻尾を左右に揺らしながら、旅人のあとをどこまでもついてくる懐っこい野良犬のように思っていただろう青年が、半裸でベッドに縛りつけられている光景を目の当たりにしたとき、遊戯はまず綺麗な顔に正当な怒りを浮かべて、女の仮装をした十代にのしかかっているディヴァインをねめつけた。
ディヴァインはほんの一瞬の怯みを見せたが、すぐにふてぶてしさを取り戻すと、くせの強い前髪を気取った仕草で撫でつけた。
「いくら決闘王でも、ぶしつけな訪問は迷惑ですよ。遊戯さん」
「十代くんを、なんて姿に」
「彼女はもう私のものだ。私の妻になると誓ってくれた。そうだね、カンナ」
十代は遊戯を直視できなかった。横を向いたまま黙ってうなづく。
「いったい、彼になにをしたんだ」
厳しいまなざしが、詰問を上に乗せて覗きこんでくる。こんなに険しい遊戯の声を間近で聞くのは久しぶりだ。十代はもどかしく肩をよじり、教会で頭を垂れるような恰好で懇願した。
「オレ、ここに残ります……その、変なところ見せちまってすみません。それより会場に戻って下さい。みんなが遊戯さんを待ってます」
遊戯は彼にふさわしい居場所へ戻らなければならない。今すぐだ。吐瀉物を思わせる下劣な企みで覆い尽くされた埃っぽい小部屋に、サフィールのクリームをつけてよく磨かれた靴を踏み入れるべきではない。
武藤遊戯はすべての決闘者の憧れで、たくさんの子どもに夢を与えられる人だった。昔の十代のような孤独だった幼児にも、テレビのなかから平等に微笑みかけ、決闘を楽しむ心があれば真の孤立は訪れないのだと説いてくれた。
顔と名前を黒く塗りつぶされた異物の前で、無数の憧れと期待を背負った決闘王が足を止めてはいけない。
「オレは大丈夫ですよ。だから、はやく……」
「キミは今楽しいのか?」
遊戯が静かに言った。
「ワクワクしている?」
十代は頷いた。遊戯は困った様子で、すこし笑ったようだった。
「嘘つきだね」
「嘘なんかじゃ」
「悪いけど、そんな男にキミをやれない」
ディヴァインが肩をすくめ、上着の中に差し入れた手で軽薄なプラスチックフレームの拳銃を抜いた。十代は色を失う。モクバに握らせていたグロックだ。
「やめろ! おまえ、約束したじゃないか。遊戯さんには手を出さないって」
溺れている人間がもがきながら救いを求めて両手を差し出すときのように、思いきり身体を伸ばす。手首と片足を拘束されているせいで無様に横倒しになったが、ディヴァインの腕に深い歯形をつけてやった。
相手は舌打ちを零し、袖に隠れるほど小さな端末装置のスイッチを押した。上映会のホールに集まった何十人もの小等生がてんでばらばらに手のひらを打ち鳴らすような、心もとなくて耳障りな音を立てて銀の髪飾りが弾けた。神経を侵す電流が、脊髄を伝って全身を駆け抜ける。
「十代!」
数秒の間気絶していた十代の意識が、遊戯の呼び声を拾い上げた。たしか、以前にも、同じ体験をした。急に何も見えなくなって、遊戯の叫び声が聴こえるのだ。『十代』――普段の『十代くん』ではなく。
球体の裏側へ反転した視界に、前後不覚が作り出した偽りの思い出が浮かんでいる。
――『■■■■』と小さな十代が聞き慣れない言葉で呼ぶと、学生服を着た遊戯が振り向いた。宵の空の色の優しい目がこっちを向いているのが嬉しくて、ふわふわした頬が上につり上がって目が細くなった。
花束をたずさえて『ハッピー・バースデイ』の歌を口ずさもうとしたところに、横から中型のキャブオーバートラックが滑り込んできた。遊戯の凍りついた笑顔。
この光景はただのまぼろしだ。十代は今ここにまぎれもなく生きていて、粘り気のあるゴムタイヤの下で轢死した子どもではないのだから。
「言っておくが自業自得だよ。おまえが邪魔をするからだ」
小馬鹿にするディヴァインの声が、おぼつかない無感覚の波間を漂っていた十代を現実に引き戻した。うつぶせになって床に倒れていることに気がついたのは、すこし後だった。
髪を犬のリードがわりに引かれて持ち上げられ、人を殺す道具にしてはなかなかに軽すぎる感触のひやりとした銃口が、顎の骨に打ちつけるのがわかった。
「おまえは黙って優秀な兵士を孕んでいればいい。『おれ』がおまえに必要としているのは、類稀な潜在能力とけちな子宮だけだ。せめて従順にしてろ。それがうまくできれば、みっともない身体もいやしい心も可愛がってやるよ」
「おまえの愛なんかいらない。鏡に向かって話してるほうがまだましだ」
「いい余興を思いついた。カンナ、このわからずやの遊戯おじさんが祝福してくれるように、彼の前で僕を愛していると宣言してくれ」
ディヴァインが十代のうなじを捕らえて遊戯のほうへ向け、嗜虐癖を備えた陽気な料理人が、生きた獲物のとっておきのいたぶり方を見つけたときに唄う歌に似た口調で命じた。十代は、耳の後ろにある冷血漢のにやけ面を心の底から軽蔑した。
「は? ふざけるな。なんなんだよ、それ」
「言えなければ遊戯が死ぬぜ」
十代の顎をえぐっていた銃口が引かれ、遊戯の眉間にぴたりと照準が合う。
「い、言う! 言うから」
十代は上ずった声で叫んだ。
「やめてくれ! その人を傷つけないでくれ。何でもするから、遊戯さんだけは……」
クランプで固定された丸型フラスコのような窮屈な姿勢のせいで、言葉を失っている遊戯の、焦点の合わない瞳から視線を逸らすことができない。
今のディヴァイン青年は、手綱のない野生のけだものだ。ほかの誰にも、彼自身にさえ、まったく制御がきいていない。
この場は望みどおりに振舞うしかない。
「オレは、おまえを」
「ディヴァイン様だろう、カスが」
「ディヴァインさま……を。あ、あい……あいして……」
遊戯がゆっくりと首を振った。
「十代くん。嘘はだめだ」
生真面目にいさめる声。十代は嗚咽に変わりかけの湿った喉で、「だって」と言い訳をした。
「あなたを護りたいんです。こんな形でしか、役に立てないんです」
「役に立つとか立たないとか、ボクはそんなことを言ってるんじゃない。キミはボクの大切な仲間なんだよ」
彼の振舞いに十代への軽蔑はなかったし、低俗な喜劇を見せつけられて逆上した観客の野次もない。ディヴァインは遊戯の淡々とした態度を鼻で笑い、十代を哀れんだ。
「残念だったなカンナ。仲間だとさ。決闘王もおまえの親と同じだ。おまえのことなんか何も考えちゃいないんだ。残酷だ、おまえは心からその男を愛し、尽くしてきたっていうのに……私の腕に抱かれたおまえが、遊戯の名前を呼んで助けを求める姿はすこぶる刺激的だったよ」
「やめろ。この人の前でそんな薄汚い言葉を口にするな」
ディヴァインはチーズのように濃厚な狼狽を味わいながら、さらなる恐慌の風味を引きずり出そうと図っている。
「遊戯にそうされたいと願ったんだろう。私がおまえにしたように、犯されて、よがって、子どもを孕みたいと考えたんだ。人間未満の奇形のくせに、かわいいところがあるじゃないか」
「嘘だ。嘘だッ!」
十代は悲鳴じみた絶叫を上げた。
悲しい目が十代を見つめてくる。取り返しのつかないプレイング・ミスがもたらす後悔にさいなまれた。遊戯には、彼が住む世界の裏側にある、人の心の闇が凝り固まってできたなまぐさい掃きだめを覗いて欲しくなかった。
「十代くん」
「軽蔑してください。オレ、あなたの前で女みたいに、ガキみたいにこんな……」
「泣かなくていい。キミの強さをボクは知っている。ディヴァイン、その子はキミのことも気遣っているんだ。優しい人間だから。人を傷つけないように、羊の皮をかぶって屈辱に耐えている」
「わかったような口をきくが、的外れもいいところだ。こいつは私と同類だ」
ディヴァインが細い顎をしゃくって十代を示してみせた。
「十代くんはキミが思っているような人間じゃない。彼は力を持つことの責任を自覚している。キミとは違う」
遊戯が言った。
背後から十代のうなじの薄い皮を針のように刺していた愚弄の気配が、ふいに消える。それと入れ替わりに、もしもそんなものが深い自意識の湖に溺れきったディヴァイン青年に残っていればだが、義憤の揺らぎのようなものが生まれた。
「そうか、おまえか。この女を壊したのは」
かねてからの仇敵を見つけたように、憎々しげに囁いた。
「手にした運命が、尊い暴力が、さも間違った解答のように思いこませたのか」
ディヴァインは、この世に悪が無限に生まれ落ちてくる意味を理解しかけていた。悪魔たちが思いつく限りの汚物を使って穢すべく宿命づけられた存在の一端に遭遇した彼は、眼をふさがれた十代には知りようもない、拒絶をまじえた高揚を覚えていた。
「どうやらあなたはこの神月カンナがよほど大切なようだ。もし、あなたが旧世紀の夢にすがりつく臆病者の王さまでなければ、決闘といかないか。そっちが勝てば、我らがいとしのカンナはすぐに返してやる」
遊戯を挑発して、十代の耳の上部のカーブを、覆いかぶさったチョコレート色の髪ごと唇で食んだ。ぞっとする触感。唾液に濡れた跡をひややかな空気が撫でていく。
「私の決闘はあんたのデモンストレーションと違って多少痛むが、安心しろ。負けても死なない程度には手加減してやる。せいぜい身体機能に障害が残る程度だ。殺してしまっては意味がないのでね。あんたが地面に膝をついたときは――この女が孕むまで豚のように犯せ」
十代は愕然としてディヴァインを見上げた。
「よりによって、この野郎、遊戯さんになんてことを言うんだ」
「一度道具として使われてみればいい。悟り澄ました顔の遊戯もまた下衆な男のひとりにすぎんとわかる。決闘王と規格外の掛け合わせなら、最強の兵士ができあがるだろうぜ」
「おまえとは絶対に同類なんかじゃない。遊戯さん! これはオレの甘さが招いた問題。あなたが決闘を受けることはないんです!」
「それはボクが決めるよ」
遊戯が冷静に言った。彼は下劣な条件を提示されても、それほど堪えた様子はなかった。
「ボクは大切なキミを助けたい」
「た、たいせつな、って」
瞬時に頬が熱を持つ。ディヴァインが不機嫌に鼻を鳴らした。
「むかつくんだよ。自分よりも弱いやつらに迫害される屈辱も知らないくせに、わかったふうな口をきく。あんたは私に触れることさえできないのに、言葉の力でこの女をがんじがらめに縛りつけて操っている。無力な人間ふぜいが、何様のつもりだ」
十代は喉の奥で、首輪をつけられた猛獣が発するような、苛立ちのうなり声を上げた。
「遊戯さんは間違ってない。遊戯さんは、どんな時だってこの人の光がオレを導いてくれる」
ディヴァインには十代の怒りの根源がわからないだろう。孤立のうちに留め置かれている者に、人に焦がれる異物の気持ちはわからない。十代は遊戯の名前を繰り返す。うわごとのように祈りを口走る。
「この人はオレに正義を教えてくれた。かけがえのない仲間をくれた。友情の大切さを教えてくれた。誰かのために闘うことの尊さを教えてくれた。なにより決闘の楽しさを思い出させてくれたんだ」
「人間にはそれぞれの役割がある。搾取されるものも略奪するものも、生まれたときから運命が決定している。闇に向かって光り輝けなどと、地を這うとかげに飛べというのも同じだ。崖の上から飛び降りて潰れて死ねと。おまえは空を覆い尽くすだけの闇を持ちながら、なぜ遊戯の足跡をたどる影なんかに甘んじているんだ?」
「黙れ。オレをひとりぼっちの闇の中から救い出してくれた遊戯さんを否定するやつは赦さない」
ディヴァインはあきらかに面食らっている。十代の思慕が、彼の痣だらけの骨折した信念とはあまりにもかけ離れているせいだろう。
「ボクは優しい十代くんが好きだ」と遊戯が言った。
「たとえ何度闇が彼の心を呑み込もうとしたって、ヒーローになりたいと願う、みんなを護ってくれる十代くんは必ず戻ってくる。それを信じているんだ」
諦めの雲間から射す幾筋もの光の柱を十代は見た。遊戯の口から聞かされる信頼は、なによりも心強い芯になる。
「ひとりぼっちなんかじゃない。正しくあるから、優しいから、みんなはこの子の強さを頼るんだ」
力ない言葉は無力だと身に染みている。遊戯の言葉が決してうつろな空洞ではないという事実もまた知っている。彼には語る正義を現実にする力がある。
しかし、本当の畏れを知らない者の胸には、正しい言葉が偽善極まりないひとりよがりなお仕着せにしか響かない。
「最低だ」
ディヴァインが吐き捨てた。
「カンナ。目を覚ませ。武藤遊戯は私以上に傲慢なエゴイストだ。おまえに馴染まない光を期待する。人には誰しも生まれ持った使命があると僕に言ったのはおまえじゃないか。その意志を折ってまで遊戯に媚びるのか。おまえはただ利用されているだけだ。そんなに力があるのに、そんなに知恵があるのに、考えろ、なぜわからないんだ!」
「わかるさ。遊戯さんは正しい。遊戯さんの言うとおりだ」
「カンナ!」
ディヴァインは癇癪を起こし、十代を突き飛ばしてデュエルディスクを装着した。
「それならやつをおまえの目の前で八つ裂きにして正気に戻してやる。力こそ正義だ。権力こそ信頼だ。選ばれた者の使命を思い出させてやる」
遊戯の手にあるべき〈ブラック・マジシャン・デッキ〉からカードを引き、実体をともなった〈翻弄するエルフの剣士〉を召喚した。星四つの、遊戯のデッキの斬り込み役だ。
ソリッドビジョンが触感を持っただけの魂のないオブジェが構築され、プレイヤーの隣で無気力に立ちつくしている。エルフの剣士が本来纏っているはずの決闘王のしもべとしての風格は、カードの彼方に取り残されていた。
ディヴァインが最上級の自尊心をもって語るサイコ・デュエリストとは、デュエルモンスターズの絵柄を現実世界に投影し、ガラス繊維入りのプラスチックでできたマネキンを造りだす人形職人を指すのだろうか。
十代は、もしかするとディヴァインの枯れた森の眼には、精霊の魂が見えていないのではないだろうかと訝った。精霊たちが仲間を鼓舞して上げる鬨の声が、あるいは墓穴の底へ落下していく戦士の無念の叫びが、はたして彼には届いているのだろうか。
彼は目と耳をふさいで、精霊たちの呼びかけを自ら絶ってしまっているように見える。
人と精霊がお互いに心を通わせようと努力する姿を嘲笑し、強力な外殻の形を盗んで都合の良い力に変える――それは、絆で結ばれた仲間たちとの共闘ではなく、ひとりぼっちの戦争だ。
そんなものがディヴァインのスタイルなら、彼は決闘者として武藤遊戯に対峙することすら許されない。
「〈翻弄するエルフの剣士〉、遊戯をやれ!」
ディヴァインが叫んだ。十代の想像のとおり、剣士はマッチ棒のように身じろぎもしない。
「なぜだ。なぜモンスターが私の命令に従わないんだ?」
ディヴァインがカードのテキストを睨みつけた。彼はカードに何らかの不具合が発生していると踏んだのだろう。
そうではない。選ばれしマスター以外の者がデッキからモンスターを召喚し、真実の忠誠を誓った武藤遊戯に矛を向けるよう命じたとき、遊戯とカードたちとの間に存在する絆を凌駕して攻撃を強制し、主君殺しを実現させるだけの力が、ディヴァインには存在しないのだ。
「このクズカードどもが不良品なだけだ。私の本当の力を見せてやる」
人とカードの間に存在する目に見えない絆に、自負する超能力を寄せつけないほどの厚みが存在することを、ディヴァインは認められないようだった。〈ブラック・マジシャン・デッキ〉のカードを恨めしげにばらまいて、自らが所持していた〈ファイヤー・ボール〉の魔法カードを発動した。
武藤遊戯に、はっきりとした生命の危険が迫っている。囚われの大型動物が、頑丈な鉄の檻が壊れるまで何度も全身をぶつけてついには脱走を図るように、十代の深淵から漏れ出した力が、銀の封印装置を内部から破裂させた。
十代は金の双眸を光らせ、手足を拘束するロープを引きむしって遊戯を突きのけた。わずかの間隔の差で攻撃対象を逸れた火球が、ションガウアーの版画がかかった漆喰の壁を直撃する。
聖アントニウスを誘惑する飢えた竜に似たみすぼらしい悪魔たちが、赤い輝きを放つ光の触手に呑まれていく。天井に燃え移った火の粉が柱を食い散らしはじめ、あたりは一瞬のうちに炎に包まれた。
*
ディヴァイン家は代々護国卿に連なる貴族の名家と名高く、おおくの偏屈者ぞろいの政治家を輩出してきた。ディヴァイン青年の気性の苛烈さと自意識の高さは、元来の国民性に加えて、近親姦を繰り返してきた血縁異常にも原因があったかもしれない。
ヒースの荒野に屋敷を構えており、ディヴァインは子どもの頃、やまない雨と凍てついた高地の風になぶられて、ティーカップのなかで溶けかけている角砂糖のような形になった廃墟でよく遊んだ。
両親に化け物扱いされ、友人に恵まれず、孤独は賞賛を渇望する敵意に変わった。傷つけることでしか他人と関われない。特殊能力を持たない者たちへの残酷な侮蔑は、数と言論の暴力を秘めた、死に至るほどの大きな黒い波に攫われた彼の恐怖心から発生したものだ。
囚われの超能力者たちが父に搾取されている無惨な姿を見たとき、彼は自分の胸のなかから棄て去ったつもりでいた弱者の嘆きを感じ、激しい同類嫌悪に陥った。
それからは、ただの人間にもそれ以外の者にも平等に壁をつくり、誰彼かまわず噛みついていた。
神月カンナに出会っていなければ、彼女の神託が下らなければ――彼は父の領土にそびえる古城に幽閉されたまま、狂犬として一生を終えていたかもしれない。
ディヴァインはまず、神月カンナの、親に拒絶された境遇に共感した。彼女の中にとてつもなく濃い闇を見て、初めて人を畏れると同時に、子どもがロボット番組の新作のおもちゃを欲しがるような純粋さで手に入れたくなった。
顔も声も指の優美さも、無駄な肉のついていない身体の半陰陽の特徴も、うまそうな色の眼球と嘘つきの唇も、綺麗に色が分かれたくせ毛も、すべてが。
同類への憐れみまじりの奇妙な優しさと、ぬるい馴れ合いと生理的な反発と、相手ごと自律に含めるその境界線の曖昧さと、偶像として頂点に立つ名声、そういうもので構成された神月カンナを愛している。
彼女には赤が一番似合う。汚れた血と慈悲の炎の色。ディヴァインがカンナに感じる好意は、まぎれもない自己愛だった。
ディヴァインという男がもしも女なら、神月カンナになるはずだと信じた。彼は鮮やかな蝶に自己投影をすることで陶酔を得る、土の色をした夜蛾だった。
彼女を隣にはべらせていれば、比喩ではなくこの世界を征服できる。そのためのツールとして、彼の中ではカンナと世界は等価だ。
この世のすべてを手に入れるには、ディヴァイン個人の運命はあまりにも非力だった。たとえ世界の支配者の玉座を得たとしても、神月カンナの大いなる力が手元になければ、人類の数の脅威に怯えて暮らすみじめな末路が待っている。
彼はまぎれもなく虎の威を借る狐だ。上っ面こそは孤独な魔女をつつみこむ度量のある男を演じていたが、実のところは少女の薄くて柔らかい肩に依存しきっており、手を触れていなければ発狂しそうなほどの不安に襲われてしまう。
ディヴァイン青年は、そんな愚かな男だった。
「十代くん! ディヴァイン!」
遊戯の呼び声が倒れた材木の向こうから聞こえた。部屋は炎に包まれている。
アルコーブの書庫から立ちのぼるしけった木と古い紙が焼けるにおいを媒体に、子どもの頃の情景が断片的に呼び覚まされた。ひとりで繰り広げる決闘ごっこの背後で燃えていた、薪ストーブの慰めるような熱。ディヴァインの決闘の思い出は、すべてが痛みと孤独の記憶にかたく結びついている。
父親との決闘のさなかに、幼いディヴァインの〈ファイヤー・ボール〉のカードが実体化しなければ、まだ少しは救いがあっただろうか。空から災厄が次々と降り注いでくる絵柄を覗き込んで、無意味な自問を打ち消した。
あのとき父親は息子を化け物と呼び、ディヴァインは決闘を憎む大人に成長した。今更、詮無いことだ。
炎に照らし出されたディヴァインの足元から伸びる影が、角柱の残骸でふさがれた木の床に落ちている。それは水棲の生き物のようにぬるりと動くと、ツーテールの若い少女の姿になった。神月カンナだ。
カンナは微笑を浮かべている。ディヴァインが柔弱な迷子だった幼少期の無力感を思い出したとき、彼女は決まって訪れ、共感と信頼を示してくれる。決闘を憎み、人を軽んじ、より歩きやすい道を指差してディヴァインをそそのかす悪魔だ。異端の宣教師めいたとりすました口ぶりもあるが、男のように言葉を荒げたりはしない。
「カンナ、なぜだ。なぜあんな男をかばう」
ディヴァインは、自分の影から現れたカンナに向かって叫んだ。
「遊戯はきみの天敵だぞ。おれの言うことを聞いていればきみはもっと輝けるのに、なぜ自ら蝋燭の芯をすり減らすような真似をするんだ。答えろ、カンナ」
くずれ落ちてきた天井板を突き破って、白い指が伸びてきた。カンナの長い髪をとらえて、馬の手綱のように引く。
カンナの背後から現れた人間は、ディヴァインの白昼夢に現れる薄笑いを浮かべた不可侵の少女とは似ても似つかないが、彼女もまた神月カンナだった。藪にひそんで小鹿を狙う肉食獣の金の瞳が、能面の中央で冷たく輝いている。
カンナがカンナの後頭部を掴んで吊り上げる。まっすぐに肘を伸ばした彼女の腕のかたちを見て、ディヴァインは喉の奥で空気を圧縮するような無音の悲鳴を上げていた。うろこだ。赤黒いうろこがびっしりと彼女の腕にはりついている。
カンナは自分と同じ姿の少女の僧帽筋のあたりに、ぶあつくて錐のように尖っている黄ばんだ爪を突き立てた。柔らかい果実の皮を剥くかのように、無造作に人体をこじ開けていく。
女が解体されていく工程を目の当たりにしたディヴァインは、こみあげてきた酸い胃液を黒こげのラグの上に吐き出していた。
血は一滴も零れない。ディヴァインの影から現れたほうの神月カンナは、肢体が一枚の表皮で構成された張りぼてだ。内側は空洞になっており、醜悪な矮人がおさまっていた。
異様に大きい頭部を守る、電球をいくつもつけた鋼鉄製のヘルメットの下から、もじゃもじゃの白髪がこぼれている。灰色の死人の肌につぶらなガラス玉の目がはまっていて、耳まで裂けた口のまわりに道化めいた厚ぼったい紅をのせている。
金の瞳をしたカンナは、汚物に触れるときの仕草で幼児と老人のコラージュをつまみあげ、「おまえ、知ってるぞ」と言った。
「昔、オレに取り入ろうと城の前をうろちょろしていたやつだ――〈カバリスト〉。星ひとつの雑魚モンスターだったな」
神月カンナの蔑みは、不要なカードなど存在しないと語る遊戯の信念と相反する。それが彼女の怒りの深さを暗示しているのか、それとも星の数による絶対階級制の肯定こそが本来の彼女の価値観なのかは知れない。
『邪魔な小娘だ。もうすこしで、このディヴァイン家の恥さらしをおまえの姿で籠絡してやれたものを』
〈カバリスト〉と呼ばれた年老いた小人は、甲高い声できいきいとわめき続けている。
『薄汚い手を離せ、売女。実体化したモンスターの軍勢を率いて、この世界を私が支配するのだ』
「笑わせるな、星ひとつが」
『だまれ』と老人がカンナを睨んだ、『人間のくせに』。
『惰弱な人間の肉体から抜けだし、私は力の権化たる精霊に生まれ変わったのだ』
金属質の耳障りな声は、ヒースの屋敷の使用人頭を呼びつけてわめきちらす亡父の声にそっくりだ。
夜毎に得体の知れない錬金術の実験を繰り返し、不老不死の在り処を追い求めた男の妄執は、いつしか人知れず報われていたのだ。そこにあるのは、人としての死によって肉体を失い、見せかけの慎みと礼儀正しささえも忘れ果て、底なしに堕落したディヴァインの父親の精神の具現化だった。
ディヴァインは呆然としていたが、きいきい声で叫ぶピエロの人形を見ていると、だんだんと怒りが湧いてきた。
――おれは、こんな雑魚にいいように踊らされてきたのか?
その男が多くの犠牲を払いながら目指した、人間の世界と精霊の世界をふたつの姿で行き来する究極の生命体の姿は、あまりにもみっともなくしぼみきっている。『おまえのせいだ』と老人がディヴァインに向かって唾を飛ばした。
『こんな馬鹿な女をのうのうとさせておくからだ。今すぐに超能力を使え。カードの効果で洗脳してしまえ。手足に鉄の枷をはめて牢屋に入れろ。豚のように孕ませて、膨らんだ腹を蹴飛ばしてやれ』
「おまえに訊きたいことがふたつある」
汚い言葉を吐き続ける老人を片腕に吊り下げ、カンナが、武藤遊戯に似た正しくて残酷な口調で言った。
「道具のように人を利用して、胸が痛んだことがあったか?」
『まさか。やつらは粘土の塊と同じだ。誰かがこねまわして形を造ってやらなければならん。価値を与えてやった私に感謝しているだろうさ』
「そこにいるディヴァイン家の息子を一度でも愛したことはあるか?」
『愛だと!』
老人は、この世でもっとも卑しい言葉を耳にしたとばかりにふんぞりかえった。
『神にも等しい創造主を殺したごみを、くずを、どうして愛せるものか。言うことを聞かん失敗作は必要ない。奴の犬のような脳味噌をほじくり出して、私が若い人間の肉体を利用してやるとしよう』
カンナは老人を黙って見つめている。赤ん坊のように小さな肉体を通して、誰かのまぼろしを見出しているようだ――彼女もまた、親のぬくもりを知らない女だった。
老人はカンナを侮りきっていたが、ガラス玉の瞳を上げて、ふと不安そうに表情を曇らせた。
『いやな眼だ。おまえの金色の瞳はどこかで見たことがあるぞ』
突飛な動作でいびつな頭をもたげ、『もしや。いやまさか』、顔色をどす黒く染めた。
『闇の世界の征服者、覇王十代様は、反乱軍どもに首級を取られたはずだ――』
「嘘でも頷いていれば、命は助けてやったんだぜ」
カンナがそっけなく言った。
老人は、自らが精霊たちの間で語り継がれているもっとも呪われた時代の体現を前にしているのだと理解した。目に見えて態度が軟化し、かつて人間だったころの名残りか、極度の緊張がもたらす喘ぐような呼吸を繰り返している。
『お、お許しを。まさか生きておられたとは知らなかったのです!』
老人は金切り声を上げて命乞いをしたが、カンナに一切の慈悲はなかった。金属製のヘルメットごと、不恰好な頭を握り潰した。首から下の白衣に包まれた部分が薄っぺらい音を立てて床に落ちると、裸足のつま先を舐めていた炎が、待ち構えていたように醜い死骸を呑み込んで灰にした。
ディヴァインは恐々とカンナを覗き込んだ。彼女が怖ろしかった。人間を棄てた性悪の老人を心の底から怯えさせる〈覇王〉とは、いったい何者なのだ。
「利用されているのでもいい」
カンナが囁いた。武藤遊戯のことを言っているのだと気がつくまで、すこし時間がかかった。
「知ってたなら、なんでわからないふりなんかしていたんだ」
「あの人は正しい。本当のオレの姿を許さない。嫌われるのは平気さ。だってオレは本当に悪い奴なんだもんな。でもあの人に、みんなみたいに目を逸らされるくらいなら、消えてしまったほうがましだ――」
邪悪な精霊をくびり殺した悪鬼が、遊戯を語り始めると気弱な少女のためらいを見せる。ディヴァインは呆れ果てた。何もかもがちぐはぐだ。不安定で、この女を見ていると胸がざわつく。
「これだから、女は馬鹿なんだ」
「そうだな。オレは馬鹿だよ。馬鹿でいい。もっと馬鹿になりたい。あの人はいつもどこか寂しそうだ。だから、遊戯さんが心から嗤ってくれるような道化になりたい」
「そんなに言うなら、私も今度試してみるよ。おまえみたいに馬鹿な女を見つけて、そいつに武藤遊戯の手口を実験してやろう」
「残念だが、そんなことはできない。おまえの使命はこれでおしまいだ」
「うそだよ。猫みたいな疑り深い目をしていて、孤独で、砕けて散ったガラスのように脆くて強い、赤い服が似合う愚か者の女――そんな女、この先現れっこない。いるもんか」
カンナは意外そうに金の目を見開いて、軽く首をかしげている。
「キミってもしかして、本当にオレに惚れてるのか?」
頬が染まった。しかし、赤い炎の照り返しにまぎれてしまっただろう。
「おまえなんか大嫌いだよ」
ディヴァインはぶっきらぼうに答えた。彼女はディヴァインの心を悪魔の力で強奪していっただけだ。
本当は、神月カンナなんて好きじゃない。
「カンナ。厚意で忠告しておくが、おまえ、これ以上遊戯に関わると死ぬぞ。いつか間違いなく、あいつのせいでむごい死に方をする」
カンナは当たり前のように頷いた。たいした狂信者だ。
ディヴァインが知る同年代の少女たちは、悪い大人に利用され続け、燃えっぱなしの蝋燭のようにすり減っていくことを悲しんで毎日涙に暮れていた。
神月カンナは違う。誰かに奪われながら、こんなに嬉しそうな顔を浮かべる女を知らない。
武藤遊戯は、世界一の詐欺師だ。
「死ぬなよ。たとえみにくい半陰陽でも、お前はこの僕の初恋の人なんだからな」
ディヴァインは〈サイコ・ソード〉を実体化し、脆くなった床に突き立てた。崩落がもたらす心もとない落下の感触を拭い去ったころ、頭上からカンナの声が降ってきた。
「バイバイ、ミスター・ディヴァイン」
気だるく返事をする。「バイバイ」。今は退いてやる。さよならだ、神月カンナ。
*
灰色の積乱雲は猛烈な雨水で地表を磨き上げると、わめき疲れて静かに眠り込んでしまった。雨足は徐々に弱くなり、引き裂かれた森の木々の上に月の光の筋が細く投げ掛けられていた。
現実世界に飛び出してきた魔法の炎は木造の洋館の一棟を焼き、いまだにいがらっぽい煙を噴き上げている。柱のなれの果てのわきにうずくまっている十代を、昏睡したモクバを抱えた遊戯が迎えにやってきた。
十代は拾い集めた四十枚のカードを差し出した。すすで汚れてしまっているが、表面に目立った傷はない。
「ありがとう、十代くん」
「なにも聞かないんですね」
「なんのことかな」
とぼけたふりをしているのだろうか。それとも、デュエル・アカデミアが預かる〈ブラック・マジシャン・デッキ〉が帰還する未来を疑いすらしなかったのだろうか。
遊戯のもとには、たしかにデッキが戻ってきたのだ。
「怪我はないか?」
「それより、オレのことより、モクバさんは。あなただって」
「彼は眠っているだけだ。予選大会のほうも心配はいらない。海馬くんがいる……お兄さんのほうが。ボクの出る幕はもうないぜ」
すみに丸く焼けた痕跡があるシーツが、スリップの上から十代の肩を覆った。
まるで軟体の生き物に魂が乗り移っているかのように、四肢が痺れて感覚が薄い。おそらくはあの工具めいた無骨な形の髪飾り――封印装置を力に任せて破壊したペナルティだろう。
遊戯が、女性に向ける柔らかいやり方で、空いた手を差し伸べてくれた。自身の姿をかえりみて、十代は苦笑いをするしかない。
「変ですよね」
「そんなことはないさ。よく似合ってる」
「いえ、あの。そうじゃないんです。あなたには、女の子の扱いをされてもぜんぜん嫌じゃないのが、その。あいつにされたときはすげぇ嫌だったのに」
妙なことを口走ってしまった後悔が、十代の首をゆっくりと絞めあげた。驚いたことに遊戯の失笑の気配はない。吐息の温かさが感じられるほど近くに彼の顔があった。
風の音が消える。胸の内側がさざめいていた。言葉にならない衝動のままに、瞼を閉ざす。
群れからはぐれた象を連想させる黒いヘリのローター音が、中庭の方角から響いてきた。
十代は瞬時に正気を取り戻した。顔を真っ赤にして、胡乱な予想を打ち消す――キスされるかと思った。
大柄なヘリの外装には、海馬コーポレーションのロゴが見て取れる。拉致された海馬モクバと神月カンナを救うために、グランプリの特設会場から飛んできた機体だ。遊戯の横顔をそっと覗くと、どこか照れくさそうに見えた。
「よかった。キミを取り戻せて」
シーツ越しに大きな手が肩を支えてくれている。温かい力が伝わってきた。
10
「きみの国の料理だろう」と男は微笑んだ。突然おにぎりを渡された少女は、困惑しているようだった。
「食べなさい。口に合うかはわからないが、そんなに腹が減っているのなら悪くはないだろう」
「おかしな男。おまえは私が魔女だと知って、どうしてつきまとう」
「私はきみには及ばないが、我々は少し似てるんだ。その力は、きみがなすべき使命を果たすために与えられた力。きみは選ばれたんだ」
男が言った。
「今のきみは怯えているだけだ。自分の力を理解しようとしない親に、力無きやつらみんなに、この世界じゅうにね。きみは孤独で、だけど孤独を貫ける程にきみ自身を信じてもいない。手にした力の来し方行く末を怖がっているきみが振るう拳は、本来ならきみ自身へ向けられるはずだった苛立ちに他ならない。誰のためのものでもない。八つ当たりさ。
きみの痛みはきみ自身に向けられるものではない。そんなもの、どこかにぶつけてやればいいんだ。その自傷行為を早くなんとかしないと、そいつはいつかきみ自身の肉体も魂さえも食らい尽くしてしまう」
少女は、けだもののようにすごんだ。
「そんな御託はどうでもいいの。私は壊したいだけ。全部ぜんぶ、何もかも!」
男は呆れたようだった。
「おばかさん」
「なんですって!?」
「きみの才能はたしかに素晴らしいが、きみ自身が使い方を知らないのでは無意味なんだ。これからきみは、もう他人に怯えなくていい。私が立って、小さなきみを心ない目から隠してあげよう。もう道に迷うことはない。私が正しい行き先を示してみせてやるから。頭の中に自分や他人を責める言葉しか思い浮かばないなら、もう考えるのはやめたまえ。そうしたって私はきみの父親のように叱らないし、デュエル・アカデミアの同級生たちのように迫害もしない。彼らの代わりに信じ、導いて、おまえのことを絶対に守ってあげるよ」
少女は驚いて、壊れた音響機器のように、「あなたが、私を守る?」――男の言葉を繰り返す。
*
〈ブラック・マジシャン・デッキ〉の盗難騒ぎからしばらく経ったあと、昨日病院から退院したばかりの海馬モクバが、商談用のスーツ姿で武藤家の居間の硬いソファについていた。
「もう平気なんですか?」
「ああ」
十代から温かいココアを受け取ると、両手でマグカップを包み込んで吹いて冷ましている。
彼は、いかがわしいカードの魔力に精神を蝕まれていた間の出来事を何も憶えていないらしい。
操り人形に貶められていたとはいえ、もしも人の形をした生き物に向かってトリガーを引く感覚が指に残っていたなら、生々しい罪の意識が彼を打ちのめしていただろう。モクバに多くの引け目を感じている十代は、彼の生白い両腕に重い荷物を預けずに済んだことに安堵した。
今朝の新聞には、シュレイダー社によるデュエル・アルカディア学園の買収に関する記事が小さく掲載されていた。レオンが学園理事会の老人と握手を交わしているモノクロ写真には、短いキャプションが添えられている。『〈デュエル・アルカディア〉、気高き決闘淑女を育む薔薇と純潔の園』。
「レオンには、友だちを騙すような真似をさせて悪かったと思ってるけど」
モクバは、ばつがわるそうに言った。
「あいつ、ディヴァインの助けになりたいってのも本心だったんだろうと思う。口先だけの嘘じゃなくてさ。本気でデュエル・アルカディアの後ろ盾になるつもりでオレたちに協力してくれたんだ。相手には伝わらなかったようだけど」
郊外の屋敷の焼け跡から姿を消したディヴァインは、学園には戻らなかった。彼の行方はわからないままだ。
「見つけたらぶん殴ってやりたいぜい」とモクバが言った。まだ熱いココアを諦めて、安物のチョコレートスナックを皿の上にあけている。
「じーさんは、なんで遊戯さんのデッキを盗んだりなんかしたんでしょうか」
「あのデッキには、闘いに明け暮れる戦士の魂を鎮める力が宿ってるって噂されてるからな。まあ、実際、そんなこともあったんだけど。ディヴァイン老人を擁護するつもりはまったくないが、あの男が手掛けていたサイコ・デュエリストとやらの研究は、もともとは息子から変な力を切除して普通の人間に戻すために始めたようだ。それが、やがて大きく脱線していった」
わけのわからない超常現象の正体を追い求めるうちに、デュエルモンスターズが孕む美しいまでの強さに魅せられ、力の誘惑に呑み込まれてしまった。
人の心を失くした男は、何よりも大切だったはずの息子を疎んじるようになったが、最初の目的を忘れてはいなかった。手段が目的にすり替わってしまったのだ。悪いものがあの男のなかに入りこんだのかもしれない。
「力で傷つけてしまった父さんが、それでも助けようとしてくれてたことがあったなんて、息子のほうは知らなかったろうな。あいつ、自分はずっとひとりぼっちだって思いこんでたから。昔のオレにちょっと似てたんです」
人知を超えた力を宿した人間に出会うと、孤立していた過去の自分の姿を重ね合わせてしまう。血を流しながら宿命の重石をかかげる彼らに手を貸してやりたくなってしまう。十代は悪い癖を自覚して顎を引いた。
デュエル・アカデミアを卒業をしてから、人と精霊の架け橋になりたいと願って世界中を飛び回っている。役割を果たせたことはまだ少なかった。
モクバが、十代をじっと見つめている。
「なんか、オレの顔についてます?」
彼はまごつく十代に、赤いラッピングフィルムで包まれた箱を荒っぽく押しつけてよこした。『メリー・クリスマス』と刺繍が入った緑色のリボンが巻かれている。
「おまえにはいろいろと世話をかけた。じゃあな。十代」
しかめ面をそらして、ぬるくなったココアをあおり、慌ただしく去っていく。彼は大企業の副社長のポストにあり、秒刻みのスケジュール表に従う多忙な人間なのだ。
『下っ端』ではなく名前で呼ばれたことに驚きながら、十代はプレゼントの包みをほどいた。箱のなかから、以前モクバにカタログをせがんだノートパソコンが現れた。本体のカラーリングは赤だ。
むずかゆい心地良さがやってきた。ゆるんだ顔で蓋のシートを軽くひっかいていると、キッチンから遊戯が出てきた。彼は空っぽのマグカップとソファを交互に見て、呆れたような感心したような顔つきになる。
「相変わらず忙しい子だな。あ、それ、パソコン」
「はい。モクバさんからです」
「恰好良い。よかったな。ちゃんとお礼を言っておくんだぜ」
十代は頷いた。遊戯が淹れてくれたコーヒーは、熱くてかすかな苦みがあっておいしかった。
「キミはパパとママに顔を見せに帰らないのか?」
「母にはもう新しい家庭があるし……父も今度再婚するみたいなんです。ふたりとも新しい生活を始めています。オレの帰る家はもうありません」
失われた家族の話を遊戯にするべきではなかった。退屈な身の上話は居心地の悪い思いをさせるだけだ。曖昧な微笑みを浮かべて、頭を振ってごまかした。それは遊戯がよくやる仕草だ。
なくそうと努力している癖のひとつで、無意識に相手の話し方や身振りを真似ていることがある。
「精霊と人間の架け橋役をやりながら、また気の向くまま旅を続けます――逃げてるわけじゃ、ないですけど」
「そうか。おじさんもおばさんも大変そうだ」
遊戯は年長者の穏やかな理解を示して頷いてくれた。息を吹きかけるたびに揺れるカップのなかの水面を見つめながら、十代は引っかかるものを覚える。
「遊戯さん、オレの両親のこと知ってるんですか?」
「そうだ、うちに来るといい。じーちゃんも助かるし、母はイケメンが大好きだ。キミだって新しい生活を始めればいいんだ」
「そんな。そこまで遊戯さんに甘えられません」
十代は驚いて、「子どもじゃないんだから」と言った。
「遊戯。帰ってるの?」
住居側の玄関口から、年配の女性の声が聴こえてきた。遊戯の母親だろう。
居間に現れた彼女は、緊張でこわばっている十代を見ると軽く口を覆い、予想外の反応を見せた。ごく近しい人間へ向ける種類の笑顔を浮かべたのだ。
「十代ちゃん。久しぶり。本当にイケメンになって。遊戯『お兄ちゃん』の言うとおりね」
「え?」
「憶えてないの? 小さかったものねえ。最後に会ったのは十年以上前になるのかしら」
遊戯の母親は、手に提げていた買い物袋をコーヒーテーブルの上にひとまとめにして置くと、困惑している十代の前にかがみこんだ。どこか懐かしい感触の手で、まるで小さな子どもにするように頭のつむじを撫でてくれた。
「家にはずいぶん帰ってないんでしょ? お母さんがとっても心配してたわよ。そう、連絡。神月のお家に電話を入れないと」
遊戯の母親は見知らぬ番号にダイヤルを回した。受話器から零れてくる、数年ぶりに聞く、もう二度と耳にすることはないだろうと思っていた懐かしい声の主と親しげに会話を始めている。
十代は戸惑いながら遊戯を仰いだ。
「ゆ、遊戯さん」
「うん。知ってた」
ここで遊戯は十代が知らない顔を見せた。そのときの彼は、とりとめのない手品の種をそっと明かそうとするにわか手品師であり、ずっと前に教えた不正確な教訓を苦笑まじりに取り消す気のおけない友人だった。
「あの頃はボクもびっくりした。まさかあの未来から来た背が高くて恰好良い大人の十代くんが――ボクのいとこの、まだ七つの小さな男の子だったなんて。ずっと心配していたんだ。キミが知らない未来の話をして、変な奴だって思われたらどうしようって怖かった」
「そ、そんなこと、絶対にありませんから!」
「うん」
遊戯は人懐っこそうな笑顔になって、大きな手を十代の頭の上に置いた。優しげだがどこか醒めたふうだった印象が薄れていく。穏やかな厳しさがなりを潜めると、彼はいつもよりもずっと若く見えた。
「キミはボクにとって特別なんだ。とても大切に思っている。あの頃のこと、初めて出会った頃のこと、キミは『とても小さかったから』、よく憶えていないかもしれないけど――ううん、いいや。これからもよろしくね。遊城十代くん。あと、それと」
母親が長電話のサインを仄めかしてキッチンへ向かうのを見計らって、遊戯は長方形の紙箱を十代の手に握らせた。パッケージには体温計に似た細長いスティックの写真が印刷され、〈妊娠検査薬〉と表記されている。
「か、買ってきたんだけど。大丈夫なのか。わかるかな、使い方とか」
「な、何もされてませんってば!」
十代は後ろ髪を逆立てて叫んだ。
「やっぱり、オレ、いやです。い、い、いちばん好きな人じゃないと、そういうのは――」
心の部屋の片隅で埃をかぶっている、幼稚なまま留め置かれていた部分を、十代はやりきれない気持ちで直視する羽目になった。遊戯の前では、彼と肩を並べる者にふさわしい振る舞いをするべきだ。今は形だけでもいい。憧れの偶像に未熟な子どもだと思われたくはなかった。
しかし焦る気持ちが延々とスライドしていくばかりで、うまい取り繕い方も忘れてしまった。これでは、ようやくままごとを卒業したばかりの初心な少女だ。ディヴァインに笑われるのも無理はない。
「いいから使って」
遊戯は聞かなかった。
「遊戯さん!」
「頼むから安心させてくれ。女の子の恰好をしたキミがあんまり可愛かったから、心配でしょうがないんだ。あんな男に奪われるくらいなら……ボクが、その、ちょっと考えちゃったぐらい、なんて――ごめん。や、やだよね。ボクみたいなおじさんなんて」
照れかくしに頬を緩める遊戯の心を、十代はなにひとつ読み取ることができなかった。彼は身の丈に馴染まない女の扱いを受けて傷つけられた十代を、慰めようとしてくれているのだろうか。大人びた冗談を言って、屈辱に耐えて涙をこぼした記憶を、おかしみのある笑い話に転化しようとしてくれているのだろうか。
それとも、そこには僅かばかりでも真実が含まれているのだろうか。
彼とごく間近で向かい合っていると、あの夜の濃密に感じられた空気と、彼が焼け落ちた洋館で十代に手を差し出してくれた瞬間に早く短くなった心音が蘇ってくる。
あのとき遊戯は十代に、本当にキスをするつもりだったのだろうか。もしそうなら、なぜそうしようとしたのだろう。ひとまわりも年下の遊城十代を、ヒーロー・デッキを、半陰陽の肉体を、武藤遊戯はいったいどう思っているのだろう。
口にすることをためらう問いかけが、胸のうちに次々と浮かんできて苦しかった。迷宮の形をした感情の渦の底で溺れてしまいそうだ。
「遊戯さんなら。いえ、遊戯さんに、オレ。だって、ずっと、ずっとオレはあなたのことが……」
整った鼻梁と薄くて柔らかそうな唇に見惚れながら、夢でも見ているような気分で十代は言った。
遊戯は困惑していたが、それは悪いものではないと伝わってくる。ふわふわした緊張と、甘いにおいのする戸惑いと、わきまえのない期待で微動もできなかった――武藤家のドアチャイムが、けたたましい音を立てて鳴るまで。
よく磨かれた床をせっかちそうに踏み鳴らし、レアカードばかりのショーケースの間を抜け、眼鏡をかけた金髪の女性が居間に飛び込んできた。二十代の半ばほどに見える。彼女は十代には目もくれず、若い大型犬の無邪気さで遊戯の胸へ突撃していった。
「ダーリン! 会いたかったよ。えへ、来ちゃった。今度という今度はワタシのこと好きって言って、プロポーズしてくんなきゃ、アメリカには帰らないんだから」
押し倒した遊戯の腹の上にまたがり、うっすらとそばかすの残った頬をよせて、ごく当たり前のように顔じゅうにキスの雨を降らせる。
十代は、子どものころ、テレビの画面越しに彼女を見た覚えがある。非公式の試合において武藤遊戯に黒星をつけたという伝説さえ存在する決闘者、レベッカ・ホプキンス。海馬コーポレーションに所属する今となっては公の場に姿を見せなくなったが、かつては無敵を誇った元全米チャンピオンだ。
ここでようやくぽかんとしている十代を見返って、鈍感な観客を軽蔑するかのように鼻を鳴らした。
「だあれ? このみすぼらしい男の子!」
遊戯は肘で這うようにしてレベッカの下から抜けだすと、人間の顔面を舐めまわしたくて仕方がない犬を相手にするように、迫ってくる肩を押さえて彼女の突進を受け止めた。子どものご機嫌を取る大人の表情は、十代へ向けるものともよく似ている。
「レベッカ。久しぶり。教授は元気?」
「うん、おじいちゃんぴんぴんしてる! また研究で、今回は中東のほうに出掛けてるのよ。あ、そうだ。そこで会ったの」
レベッカが、カードショップへ続いている開け放しの入口へ向かって叫んだ。
「杏子! ダーリン帰ってきてるよ!」
遊戯が、あからさまに動揺する。
決闘王でもうろたえることがあるのだと十代は驚いた。無人の博物館を訪れ、すでに死に絶えてしまった種の獣の巨大な肋骨のアーチの下から、からっぽの頭骨を見上げるような気分になった。
ほどなく、気まずそうな顔をしたひとりの女性が部屋に入ってくる。
つややかな黒髪を肩のあたりで切りそろえ、よく身体を動かしているしるしに、長い四肢は山岳地帯に生息するひそやかな草食獣のように引き締まっている。非の打ちどころのない容姿をしていたが、大きな瞳は正しい道を探し疲れた迷子のように揺らいでいた。
「……久しぶり。遊戯」
「うん。あれ以来だっけ」
「ここは、変わらないね」
「そうでもないよ」
ぎくしゃくしたやりとりだ。ふたりは、一目見ただけでよそ行きの作りものだとわかる、柔和な微笑を浮かべていた。どちらも嘘をつけない性格をしているらしく、顔面の筋肉がこわばりきっている。
この女性は何者なのだろう。決闘者のにおいはしないが、彼女は姿を見せただけで、武藤遊戯を気おくれする哀しげな虚弱児に変えてしまった。
「私、しばらくこっちにいるんだ。また遊びに来ちゃうから。昔みたいに」
「また会えて嬉しいよ、杏子」
遊戯と杏子は同時に右手を差し出し、ぎこちない握手を交わしあった。
【 (5)にもどる ・ 目次にもどる ・ 「アテムとソロモン」へつづく 】