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アテムとソロモン(11)
【44 刃】
十代はコートのポケットに両手を突っこんで、毎日磨きあげていたガラス窓の残骸に目を落とした。
亀のゲーム屋は、その名のとおり亀の甲羅の形に押し潰されていた。梁が飛びだし、崩れ落ちた天井が居住空間を埋め尽くしている。泥水に浸った床に、双六が愛したレアカードがふやけてこびりついている。十代の聖地は、人の住める場所ではなくなってしまった。
仲間たちは今ごろ、童実野病院のベッドの上で目を覚ましているはずだ。電気じかけの老人たちの末路を思って、さらに暗い心地になる。
零と一に規則正しく並べ替えられた記憶のバックアップが、電子の海で再び目覚め、命の形をなぞるように見えても、彼らは肉体を失った日に死んでいる。いまはただ十代のなかに、いつ命が尽きたのかも知れない死者たちを救えなかった事実が残るだけだ。
──我々には我々の矜持がある。引っこんでいたまえ。
──同じ間違いを犯した同胞が、自分の言葉で変わっていく姿を見て気が晴れましたか。
十代が伸ばした手を振り払った五人の老人の拒絶が、耳の奥に蘇る。
──キミは似た境遇の悪人を見つけて同情し、憐れんで、自己投影する。そいつを倒すのは自殺にほかならない。そんな決闘をキミがしちゃいけない。
静かに諭す遊戯のまなざしが、今も胸に突き刺さっている。
ひどく疲れてしまった。
デッキケースを開いて、すべてをかけて守ってくれる精霊の魂に、声にはせず呼びかける。思えば幾度も半身に頼ってきた。ユベルがいるから十代は強くなれたし、弱音を吐かずに済んだ。
どうすれば、精霊のひたむきな想いに値する人間になれただろう。ユベルの本当の主はもういない。どこにもいなくなった。
「オレはずっと、おまえを騙していたのかもしれない。ここで消されても文句は言えないな。ユベルの手にかかって終われるなら、悪くはないけどさ」
『何度も言い聞かせたはずだよ。愛するキミをボクが永遠に守ってあげるってね』
冷たいのになにより温かいとかげの手が、背中から十代を抱いた。自分の腕にこの硬質のしるしが現れたときは、禍々しく醜いのに、ユベルの手はとても綺麗だ。
「なんだっていつもおまえはそうやって、愛だなんて言葉をいらないときにばかり吐いて、オレを突き放さないんだろうな」
十代は苦々しく吐きだした。「ごめんユベル」。
肥った猫が、十代のもとに帰ってきた。硬い毛にいくつも雪の玉をくっつけて、ふてぶてしい顔をしかめて鼻水を垂らしている。ぬかるんだ道路に、贅肉のついた尻をおろして口を開け、黄色い光球を吐きだした。
人間の魂は、この空飛ぶ豆電球ほどに縮んでしまうものらしい。大徳寺が人の形をとった。
猫背だが背が高く、子どものころから距離が縮んだようには感じられない。視線をあわせるたびに、とうもろこし畑に置き去りにされたかかしを思い浮かべる。
十代を見下ろすいつもの笑顔の向こうに、雪雲に抱かれて夕暮れどきを迎える童実野町の街並みが透けて見える。
「いつもよりも薄いぜ先生。やり残したことは、もう済んだのか」
十代は微笑んだ。恩師は満足したのだろうか。未練がなくなった幽霊は成仏するのだろうか。
『もうやめとこうかと、何度も思いましたにゃ。きみが成長するたびに、私の興味はどんどん増していって、いつしか普通の先生役がたまらなく楽しくなっていました。さて、先生は逃げも隠れもしませんにゃ。きみの手で消されるために、ここに残っていたのかもしれない』
十代は首をふった。湿った髪にからんだ雪のかけらが宙に散った。
「オレもう帰る場所もなにもないよ。父さんと母さんの顔が、思い出せないんだ。先生までいなくなったら寂しいし、昔のことなんてもういいんだ」
十代は右手を差しだした。その肘から先が、綿毛が風に吹かれて空に舞いあがるような軽やかさで、ちぎれて飛んだ。赤。血の結晶。
金魚鉢を優雅に泳ぐ金魚のひれを眺めているような、他人事の感覚でいた。心の闇のにおいを即座にかぎつける遊城十代が、他者からぶつけられた悪意に気づかないわけがないという、傲慢の裏返しだったかもしれない。不意をついた鋭利な刃の一薙ぎに、確実に反応が遅れた。
焼けつく痛みがやってきて、切り飛ばされた右腕が地に落ち、新しい雪をくぼませる。このころには、ぼけた頭も切り替わって、すぐ背後に迫った異様な感覚を悟っていた。
振り返りぎわに、もう一撃喰らった。今度は左の肩だ。奇妙な装飾が施された儀式刀が、肩甲部に突き立てられた。
今度もまた、大徳寺の差し金か。いや、関係ない。師の見開かれた赤い目を見ればわかる。
『十代!』
ユベルと大徳寺の呼び声が重なる。敵の姿を捉えきれないでいるうちに、両腕が封じられた背中に靴の底を叩きつけられ、顔から舗装路に激突した。目の前で火花が散る。
馬乗りになったたくましい男の手が、十代のうなじごと後ろ頭を押さえつけた。
鍛えあげた肉体を、ボディラインにぴったり沿う黒い革のスーツに押しこめている。赤いラインが入った拘束具のようなベルト。前をはだけ、首を飾る細いチョーカーが覗いている。オペラ座の地下に棲みついた、醜い怪人めいた仮面で素顔を隠している。
次元の裂け目から、突然するりと降り立ったような現れ方で、確実に人間ではない。実体化した精霊か。
その男は、長い間このときを待っていたのかと疑うほどに、動作に一切の迷いがなかった。十代の両手を念入りに潰して決闘の力を取りあげ、儀式刀で足の腱を突き刺す。
肉を裂かれる激痛をなかば忘れて、襲撃者を呆然と見あげた。これだけ傷つけられているのに、殺気がまったく感じとれないのだ。
得体の知れない感情のかけらが降り注いでくる。ユベルの力で計れない。それは、闇から生まれる意志ではないということだ。ほうぼうに伸びた青い髪の束が、うなじをくすぐる。
──この世界はキミを呪っている。
若者のようにも聞こえるし、老人のようでもある荒れた声音が首筋に吹きかけられた。
──光射す道に悪魔の救いはない。未来がキミを殺す。
わけがわからないまま、身体が浮いた。血に濡れた手に異様な優しさで抱きあげられたとき、死体めいた灰色の肌をした肩が、小刻みに震えていることに気がついた。
なぜ泣いているのだろう。
「──十代!」
その特別な声に名前を呼ばれると、決まって銀色の光で目が眩んだような心地になる。十代の自律の外で、ユベルの力が引き出され、悪魔の両目がちぐはぐな色に燃えあがった。
──同じ血が通っているものなら、自分の一部だ。思い通りに動かせるはず。
数十分前に、十代自身が言ったことだ。
〈ブラック・マジシャン〉が実体化した。黒衣の魔術師が、美しい魔法陣を宙に描いて仮面の男を呪縛する。十代の血に刻まれた異能を、迷いなく自らの手足のように扱いながら、虚構の世界から帰還した遊戯は腕のなかの十代を一瞥した。鋭い宵闇の瞳が未知の敵を射る。
「キミが何者だか知らないけど、相手をしている時間はないんだ。退いてもらうよ」
決闘王の憤激の、途方もない威圧感。その敵意が他者へ向いたものと知りながら、十代は総毛立ち、肌が粟立ち、眼球が赤く湿っていくのを自覚した。
大人に成長した遊戯の、本気の片鱗を初めて覗き見た。高校生だったころの気迫とは、段違いに強烈だ。圧倒的な力の差を思い知らされ、慄く。今のこの人には、どんな化け物だって勝てっこない──。
仮面の男の判断は早かった。不吉な黒ずくめの姿は、一瞬の間に影に溶けて消えてしまった。
遊戯は、逃げ去った襲撃者をかえりみることもなく、携帯端末をいじってモクバに通信を繋げている。
「十代。しっかりするんだ、病院の迎えがすぐに来る」
「遊戯さん。無事でよかった」
「いいわけないよ、キミが無事じゃない。もうすこしの我慢だ」
寒くて、痛みもなにも感じなくなってきた。消えた襲撃者の声をどこかで聞いた気がする。よく知っている相手だった。
誰に似ていたのかを思いだす前に、十代の意識は途切れた。
*
リノリウムの床が、人工の光を灯しはじめた童実野町を映しこんでいる。特別病棟の高層階の個室で、十代は縫合痕のついた肘を持ちあげた。パイプベッド脇の点滴台に吊るされた透明なバッグからチューブが伸び、調節された薬液が輸液ポンプに流れこんでくる。
奇妙に手になじむ儀式刀を握り、指を開く。切断された腕の先まで神経が繋がっていた。動きはにぶいが、カードはもう引ける。
担当医は、十代の人知を超えた回復能力に閉口していたが、悪魔が傷を癒すには時間がかかりすぎるくらいだ。刃先になにか小細工が施されているのだろうか。踵骨に食いこんでいた短刀を弄びながら、ためつすがめつ眺める。
黒赤色の刀身に薔薇の装飾が施されており、柄尻の部分に〈J・W〉のイニシャルが彫りこまれている。仮面で素顔を隠した、青い髪の襲撃者の名前だろうか?
街に落ちるあらゆる影を覗いても、男が現れたときと同じく、何の気配も感じられない。どこかで会ったことがあるような気がするが、出会い頭に切りかかってくる通り魔に知りあいはいない。
カード式の冷蔵庫の上で丸くなっているファラオの口が開いて、大徳寺の魂が浮かびあがってきた。
光の玉が人間の姿を形作ることはなく、十代の肩にとまって、見たこともない金属でできた短刀を眺めている。
『後援者のひとりのコレクションに、同じものを見たことがありますにゃ』
短刀の持ち主は、今から五百年ほど前に魔女狩りがさかんだったヨーロッパにいた、とある高名な錬金術師だという。
異端審問官が書いた〈魔女に与える鉄槌〉という論文を非難し、〈悪魔の偽王国〉という書物を著した彼は、魔女と恐れられて虐げられた人々を救ったとされている。
『かの先達は、女性への拷問に異様な嫌悪感を示したそうです。身近な誰かを傷つけられた経験があったのかもしれませんにゃ』
「立派な人間みたいだな。遺品が通り魔に使われたって知ったら、あの世でショックを受けるかもしれない」
五百年前のヨーロッパ。薔薇戦争が終わって、何年か経ったころだ。
あのころはどんな名前を名乗っていただろう。幾度も転生を繰り返し、別人として生きていたころのおぼろげな輪郭をたどろうとして、十代の人ならざる目は〈聖地〉のひとつに佇む遊戯の姿を見つけた。
闇に包まれた心の世界に浮遊する無数の鏡が、武藤遊戯の姿一色に塗り替えられていく。耳を隠す髪が、空気を含んで反りかえった。初々しい少女のように瞳を輝かせる。
頬を淡く染めあげた十代のつむじを見おろして、呆れかえったユベルがため息をこぼした。大徳寺は苦笑いだ。肥った猫が大あくびをする。
【45 心】
アスファルトで舗装された堤防の脇に、除けられた雪の山がいくつも盛りあがっている。河川敷の芝生は枯れて変色し、短く刈られて雪に閉じこめられている。
誰かが作ったいびつな雪だるまが、うつろな黒い小石の目を廃棄自転車の残骸に向けていた。
道路橋の上に、遊戯の姿があった。街の人間たちは、夜の気配とともに心に忍びこんでくる欲望に身を任せ、闇に融けかかって見えるのに、遊戯だけはスタジアムの照明塔のように、闇を切り払う強烈な光となって、悪魔の瞼の裏に浮かびあがる。
〈カロリーバーガー〉のざらざらした紙袋をかかえて、高架橋の手すりにもたれかかって河川敷を見下ろしていた。かつて彼が〈人形〉と闘って〈神〉の一柱を手にした、決闘の伝説が生まれた場所だ。
凍った道路を滑るように走ってきたタクシーが、遊戯の脇に停まった。黒い車体から、心配そうな顔をした杏子が降りてきた。
「十代くんが怪我して入院してるって、おばさんに聞いたわ」
遊戯が紙煙草に火をつけようとしていたのを見咎めて、杏子はパラジウムのガスライターを取りあげた。
「煙草嫌いだっけ。ごめん」
「吸うの、〈彼〉のこと考えてるときでしょう」
杏子は錆の浮いた手すりに背中を預けて、遠くへ視線をやっている。遊戯はジャケットのポケットに煙草をしまった。
「ぜんぜん、うまくやれなかったんだ。アテムなら、少なくとも十代にあんな怪我をさせなかった。顔向けできないな」
「遊戯が煙草を吸いたいのならいいけど、〈彼〉のかわりならやめて。アテムは未成年よ」
「これからもずっと」と杏子は付け加えた。遊戯ははにかんだが、いつもよりも歳を取って見えた。
「遊戯」
杏子はエナメルのバッグから、ケースに入った銀色の指輪を取りだした。
遊戯の前でふりかぶって、投げる。小さな星色のきらめきは弧を描いて落下し、遠い川面に触れると、かすかな水音をさせた。
「ごめんね遊戯。私、〈彼〉が好きなの。今でもずっと好きなの。もう子どもにはおばさんって呼ばれる歳だけど、〈彼〉のことを思いだすとき、私はあのころのままの女の子に戻っちゃうんだ。遊戯のことが大好きよ。でも、あなたが誰なのか、ときどきわからなくなる。いっしょにいると苦しいの。今までがむしゃらに頑張ってきたものが、全部つまらないものに変わっていく気がして怖いの」
遊戯は、杏子の告白を静かに聞いていた。感情表現をひとつしか知らないみたいに優しく微笑んでいたが、それでも傷ついていることは明らかだった。
「知ってたよ。ずっと気づいてた。彼にもキミにも幸せになってもらいたかったんだ。ボクはまた、アテムのかわりになろうとしていたのかもしれないな」
遊戯は、流れの緩い川面の、棄てられた指輪が沈んだあたりを一瞥した。穏やかな拒絶をも愛おしんで、去っていく杏子を追わなかった。
*
病室のベッドの上から、遊戯と杏子のやりとりを盗み見ていた十代は、真っ青になって、腕に刺さったカテーテルを引っこ抜いた。
「大変だ」
乾いた血がこびりついた包帯をむしって、患者衣のまま廊下へ飛びだしていく。
*
膝の下ほどの深さの、汚れた水をかきわけて、十代は黒い水底を睨みつけた。視力には自信がある。杏子が投げ捨てた銀色の小さな指輪の細部まで確認していたし、裏側に刻まれた名前もはっきりと覚えている。
川をさらう。投げ捨てられた空き缶や栄養剤のキャップ、ネオン光を反射するガラス片、どれも違う。背後に放り捨てる。
小さな指輪は、すでに手の届かない場所へ押し流されてしまったのだろうか。遊戯の寂しげな微笑を思いだし、十代の心はざわついた。『あの人は傷ついていたのだ』。瞳がうっすらと金の光を帯びる。
時間を忘れて絡まりあった水草の茂みと格闘している十代の頭上から、道路橋を叩く軽やかな靴音が近づいてくる。見慣れた青い頭が、手すりから乗り出した。ヨハンだ。
十代がまいってしまっているときに、駆けつけてくれるのはいつも親友のヨハンだった。どこにいても、魂が繋がった双子みたいに見つけてくれる。今はそれがすこしだけ恨めしい。
ヨハンはあからさまに顔をしかめて、堤防を滑り下りてきた。凍りかけた水の中にためらいなく飛びこんできて、ほとんどぶつかるような勢いで十代の胸ぐらをつかむ。
「病室から消えたって聞いて探してた。なにやってるんだ、おまえ大怪我してるんだぞ。汚れた水に浸かって、感染症にでもかかったらどうする」
「オレのことはほっといてくれ」
「ふざけるなよ十代」
ヨハンがすごんだ。親友のここまで低い声を聞くことは、めったにない。十代のために、本気で怒ってくれている。それでも今は譲れない。
「頼む、好きにやらせてくれ」
「じゃあ勝手にしろ」
ヨハンは突き離すように吐き捨てた。十代に背中を向け、暗い水の中に腕を突っこんだ。
「どんなだ。なに探してるんだ」
「ばか言うな。ヨハンには関係ない」
「十代って、こうなったら何を言っても聞かないんだ。さっさと探し物を見つけたほうが早い。ひとりでやりたきゃいいんだ、俺が勝手に親友のなくしものを探してるだけだからさ。これは? こっちのは違うのか」
「いや、指輪なんだ。銀色の小さいやつで……」
ヨハンが片眉を跳ねあげる。
「はぁ? そんなもん、見つかるわけないじゃないか」
「だからいいって、手伝わなくて。ヨハンに風邪なんかひかせたくないし、つけ加えると、オレはおまえが思ってるよりずっと頑丈なんだ」
「俺の国じゃ、こんなの寒いうちにも入らないぜ」
肌が真っ赤になっているくせに、平気な顔をして、川底の石をひっくり返した。ふたりはしばらく無言だった。
「ヨハンってさ、誰かを好きになったことはあるか」
ヨハンが、はじかれたように頭をあげた。
信じられないものを見る目で十代をまじまじと見つめてから、ばつが悪そうに頷いた。
魂の似姿のように感じていたヨハンが、十代よりも何歩も前を歩いている大人だったのだと思い知るのは、初めてではない。そんな時はいつも、慌てて追いかけなければうしろ姿を見失ってしまいそうな気分になって、自分自身の狭い歩幅に嫌気がさすものだった。
「どんなか訊かせてくれないか」
「そういう十代はどうなんだ。そういうのって、言いだしたほうが先に聞かせるもんじゃないのか」
「ああ。オレは……ずっと決闘しかなかったから、正直よくわからないんだ。いちばん幸せになってほしい人が、好きだって思った相手に、好きになってもらえたらいいと思うかな。いや、そうならなきゃだめなんだ」
ぶすっとしていたヨハンが、宝石にそっくりな輝き方をする瞳をまたたかせた。街灯の橙色の光を映した目の色に、一瞬ぎくりとする。
「十代って、知ってたけどいいやつなんだな」
「なんだよヨハン」
「いや、親友として誇らしいぜ」
ヨハンは、頬を紅潮させて白い息を吐いた。いらだちも忘れて、ひどく感心した様子で十代を覗きこんでくる。
「きっとどこかに十代のことばかり考えて、おまえの幸せを真剣に願って、そのためならすべてをかけられるやつがいる。いつもそばで、十代が頑張ってる姿を見てくれてると思うぜ」
「ユベルのことを言ってるのか」
「あいつじゃなくて、たぶん人間さ。あった。これじゃないか」
ぶっきらぼうに言ったヨハンが、緑色の瓶の口に引っかかっていた銀の輪をつまみあげた。裏側に、女の名前が彫られている。十代は息を呑んだ。
「ああ、これ。これだよきっと」
「きっとって、よく知らないのか」
ヨハンが呆れた。十代は顔を明るくして、子どもだったころと同じ無邪気さで、親友の腰に飛びついた。心の底から嬉しかった。頼りになる背中に腕をまわして頬を寄せる。
「ありがとう、ヨハン。これで安心だ。本当によかった」
「十代が満足したんなら、それでいいさ」
ヨハンは、出来の悪い弟を可愛がる優しい兄の顔で、濡れた手をシャツで拭って十代の髪を撫でた。芸術品のような優美な姿に似あわない大きなくしゃみをして、「早くあがろう」とぼやいた。
「おまえは病院へ戻れ。送っていくから」
「だめだ。やらなきゃいけないことがある。急がないと、間にあわないかもしれない」
「はあ? あとにしろよ。おまえは今、怪我を治す以外することなんかないんだ」
「いつもつきあってくれて感謝してる、ヨハン」
川面をざわつかせる強い風が吹き、ヨハンがほんの一瞬怯んだ間に、十代の姿は消えていた。緑色の瞳の表面に、火花の形をした憤りがちらめく。
「馬鹿野郎。頼むから、もっと自分を大切にしろ!」
珍しく感情的になったヨハンの怒声が、人気の絶えた聖地に響いた。
*
繁華街に面した時計台の広場に集った人待ち顔の男女に混じって、オレンジ色のマフラーで口元を隠した杏子が携帯端末を睨みつけている。十代が姿を現すと、杏子は驚いた顔で、端末のメール画面と見比べている。
「その恰好はどうしたの。指も傷だらけじゃない。すぐに病室に戻って。病院から十代くんがいなくなって、おばさんたちすごく心配してるわ」
「杏子さんは、遊戯さんのことを人殺しだって思っていますか」
「いきなりなに。どうしたの?」
思いがけず物騒な言葉をぶつけられた杏子は、遊戯と長いつき合いがあるだけに聡明な女性で、十代の意図をすぐに理解してくれた。
「そう。誰かに聞いたの。何千年も歩き続けて魂の安息を必要としていた〈あの人〉を、遊戯が眠らせてあげたのよ」
杏子は遊戯を非難せず、恨みつらみや憎悪もない。死に敬意をはらい、その一線に憧れている。彼女が死を連想させる言葉を結びつける糸の先には、強い光がある。珍しい反応をする人間だ。
杏子の光は遊戯を救えるだろうか。決闘王の孤独を癒せるだろうか。
「殺人者は、幸せになっちゃいけないんでしょうか。オレはずっとだめだって思ってたけど、遊戯さんがそんなのはいやなんです。あの人が諦めちまうなんて、そんなことだめだ。いやです」
十代は、杏子に銀の指輪を差しだした。青い瞳が、あるはずのないものを映して丸くなる。
「遊戯さんの心です。お願いします、どうかこんな綺麗なものを、ごみみたいに捨てるなんてことしないでください」
「わ、私は」
目に見えてうろたえはじめた杏子に、十代は更に頭を深く下げた。
「お願いです」
「私にはそんな。私は」
「お願いします」
「あなたみたいな子どもには、わからないわよ」
杏子が震える両手を差しだした。一度棄てられた指輪が彼女のもとに返る前に、男のものにしては優しい指が、十代の手首をとらえる。
遊戯だった。
「──余計なことしないでよ」
凍りついた遊戯の横顔は、死人のようだった。彼の心は読み取れない。悪魔の力でも、人の想像力でも、なにを考えているのかわからない。
遊戯が指輪を時計台のごみ箱に捨てるまでの間、時間が停まったように感じていた。
「なにも知らないくせに。ごめん、杏子」
「ま、待って。待ちなさい、遊戯」
雑踏にまぎれて消えてゆく背中を引きとめようと、ヒールを踏み出した杏子が怯えていることに気がついた。異世界で友人たちの悪意にまみれて絶望していた十代のように、遊戯が大切な仲間に怖れられている。
杏子の疑いが、悲しみと苦しみが遊戯の背中に投げつけられて、彼女はそうした自分自身を憎んで怒りを覚えている。完璧に調和がとれた女の邪心が遊戯を汚し、あの日の十代が這いつくばっていた場所まで引きずり下ろそうとしている。
胸の奥ではぜた暗い悦びを、十代は後ろめたさとともに意識の底に沈めた。何事もなかったようにごみ箱を漁って、汚れた指輪をつまみあげて上着で磨いた。
「遊戯さん!」
叫ぶ。まだ届くはずだ。
「この指輪は、あなたがまた必要とするときまで、オレが預かっていますから!」
杏子の肩が震える。とても恐ろしい怪物に相対したように、彼女の喉が鳴った。
この大人たちが、なにを怖がっているのかはわからない。十代には永遠に理解できなくなった人の心だ。赤いしるしのついた腕を振りあげた。
「大切に持ってますから!」
硬直している杏子の前で軽い敬礼をして、十代は微笑んだ。
彼女の闇は、初めて会ったときよりも濃いにおいがした。口にしたら味がきつくて、すぐに酔っぱらってしまうはずだ。きっと誰もが好むだろう、魅力的でおいしそうな人間の心の闇だ。食い意地の張った悪魔とは違う。
「すみません杏子さん。オレもずれてるんです」
「十代くん」
杏子がなにか言う前に、十代は背中を向けて足早にその場を去った。
交差点の横断歩道を渡りながら、引き結んだ唇を手の甲でぬぐい、ともにいる透明な魂たちに呼びかける。
──悪いけど十分、いや五分でいいや。頼む。
ユベルは唾を吐きそうな顔で、大徳寺は粛々と目と耳をふさぎ、仲間たちはデッキに戻った。
ひさしぶりの静寂が訪れた。十代は路地裏の壁際にうずくまって、頭をかかえた。目を強くつむって、口のなかだけで罵り声をあげた。
何が悪いのかわからない。〈あの人〉ならずっとうまくやれたのに、どうして同じようにできないのだろう。
自分自身へ向けた怒りと憎しみの嵐が心の部屋に渦巻いていたが、涙も出てこない。これが、あのころの泣き方だった。癇癪を起こした駄々っ子のように大声をはりあげる泣き方は、誰の助けも信じていない子どもにはできなかった。
声をあげると余計にみじめになってしまうことを知っていたし、なにより闇のなかの怪物が、声を聴きつけて這い寄ってくるのが怖ろしかったのだ。
*
エンジン音が、遠くから聞こえてきた。
暗い路地の入口で止まったのは、二気筒エンジンで、車高の高いアドベンチャーバイクだった。昨年マイナーチェンジしたばかりのバージョンだ。無骨でごつごつしていて、ブラック・メタリックのシルエットが〈ブラック・マジシャン〉にどこか似ている。
遊戯だった。オートバイを取りに行っていたようだ。黙ったまま、オープンフェース形のヘルメットを押しつけられた。
十代は、自己嫌悪の余韻を感じさせないように唇を噛む。遊戯が暗視のきく化け物でなくてよかった。
「怒ってるんじゃなかったんですか」
「もちろんだよ。それで大怪我をしているのに病院を抜け出して、泥だらけになったキミを置き去りにするのか。冗談だろう」
十代へ渡したものと同じ形のヘルメットのゴーグルを下げて、遊戯はスロットルをまわした。オートバイの尻を叩いて、十代へ乗るように示す。
「病院へ戻るぜ。今度はおとなしくしていてくれ」
「遊戯さんの服が汚れますけど。バイクも」
「怒るよ」
怒ってるじゃないですか、と口のなかでつぶやく。おそるおそる、遊戯のうしろにまたがった。
オートバイは、徐々にスピードを上げながら走り出す。すがる腕に力がこもる。遊戯にしがみついて、十代は囁いた。
「教えてください。いまでも杏子さんのことが好きなんですか。オレは、あなたの役に立てていますか」
「好きだよ」。風にまぎれて消えてしまうはずの遊戯の独りごとは、十代にまっすぐ届く。心臓が跳ねた。あまりに声が近くて、まるで自分に言われているようだった。
「いまでも杏子のことが好きだ。彼女と共に未来へ歩めるのが、嬉しいと思う」
むちゃくちゃに恥ずかしくなった。なぜ、自分のことだと思ってしまったのだろう?
「遊戯さんは杏子さんが好きで、杏子さんは遊戯さんのことが好きで、ふたりが求めたら同じ未来が手に入るのに、それを望んだことはないんですか」
「お互いを縛りあわなくたって、ボクらは繋がっていられるさ。十代くんも、よくわかっているはずだ。ボクは、ヒーローコミックの主人公じゃないぜ。正義のヒーローが悪を倒し、ヒロインと結ばれてハッピーエンドを迎える結末は、キミが望んでくれたってボクには似あわないよ」
遊戯の声に、穏やかに諭される。十代は声が裏返らないようにするのに必死だった。
「わかってます。でも、やっぱりあなたは、オレのヒーローなんです。いやですよ」
消え入りそうな声で、十代は「すみません」と囁いた。とても恥ずかしいことをしてしまったのだと、思い知った。
それは、武藤遊戯に実体のないヒーローでいてほしいという意味だったからだ。決闘王には、記憶の彼方に去った遊城十代の両親とは違う生き物でいてほしい。幻想世界の住人であってほしいと。
「もう杏子さんの前で、遊戯さんが困ることはしません。いい子にしてますから」
最後はすこしだけ冗談めかして、子どものふりをした。
いかめしい病院の影が見えてきたころ、十代は遊戯の背中に頭をぐりぐりと押しつけて、彼にわからないように、すこしだけ無音で泣いた。誰かに振り向いてほしくて泣くのは、これで最後にしようと思いながら。
潮風が汽笛の音を運んでくる。星の見えない冬空の下を、二人乗りのバイクが静かに滑っていく。
【46 日常へ】
海の向こうへ誘われた『神月カンナ』が、その場ででっちあげた言い訳を、杏子はなにも聞かずに受け入れてくれた。別れ際に彼女は、ニューヨーク行きの飛行機のチケットをくれた。
「もともと、あなたに渡しにきたの。そのうち旅行にでも来るといいよ。勉強になるし。おすすめのスポット、案内するわよ」
「すみません、杏子さん」
「いいよ、私のわがままなんだから」
杏子は、来週アメリカに戻るそうだ。急な仕事が入り、大会を最後まで見届けられないことを残念がっていた。タクシーを待つ間に、ふと思いついて十代は尋ねてみた。
「〈アンナ・カレーニナ〉ってどんな話です。ハッピーエンドですか」
杏子は、突然の奇妙な質問に面食らっている。
「次のお仕事の話? アンナは自由にしすぎたの。最初はみんな彼女に憧れるけど、自分勝手なアンナは、だんだんみんなに愛想をつかされてひとりぼっちになってく。最後には、いちばん大切な人の気持ちまで信じられなくなって、汽車の前に身を投げて自殺してしまうの」
「わたしが生まれる前に、ミュージカルを見た両親が、主人公の女の子の名前をつけたがっていたから、ちょっと気になってたんです。教えてくれてありがとうございます、杏子さん」
「そ、そうなんだ。なんだかごめんなさい」
杏子は引きつった笑顔を浮かべた。彼女なら、不倫の果てに破滅を迎える女の名前を、生まれてくる子どもにつけようとは考えないだろう。
壊れてしまった家族に亀裂が入ったきっかけは、十代が力に目覚めたせいばかりではなかったのかもしれない。この先に本当のところを知ることはないだろうが、すこしだけ救われた気がする。
杏子が、十代の背中を強く叩いた。
「あなたの家族のことは、スケベペンギンにすこしだけ聞いたけど、関係ないわ。それってカンナちゃん自身のことよ。あなたはアンナ・カレーニナじゃないんだから、真面目に恋愛しなさい。あなたなら、最後はきっと、好きな人と結ばれるに決まってるんだから」
「杏子さんって、遊戯さんに似てます」
「初めて言われた」
「あの人と同じ意地悪を言うんですから」
十代は微笑んだ。この女性も遊戯と同じで、遠い星に住む人間のように感じられる。大人と子どもを隔てる、十数年ぶんの距離は縮まらない。
きっとこれが、酔っぱらった杏子が言っていた、テンポがずれているということなのだ。ずれがなければ、あの人の隣で、もうすこしうまくやれていただろうか。
杏子はなにかを肌で悟った様子で、十代から離れた。
「ごめん。ふたりぶん謝るわ。私、あなたのこと好きだよ。じゃあまたね」
「はい」
杏子が乗りこんだタクシーが走り去り、女の服を鞄につめていつもの恰好に戻った十代は、夕暮れの童実野の雑踏にまぎれていく。飛行機のチケットを、魔除けの護符がわりに握りしめる。月を背に、エンパイア・ステート・ビルのてっぺんから、宝石のように輝くタイムズ・スクエアの夜景を見下ろし、本物の摩天楼を飛び交うヒーローたちに思いを馳せた。
ニューヨークにも、ワクワクすることがたくさんあるはずだ。
童実野町には二度と戻らないだろう。
気がつくと、ユベルが半透明の身体で十代を見下ろしている。その眼は鋭く、冷たく、軽蔑に満ちている。
『そうやって逃げ続けるのか』
「逃げるわけじゃない。いつだってオレは、前に進むだけさ」
『怯えきって仔ねずみのように震えているくせに、よく言えたもんだ。どこへでも行け、どこへも行けないけどね。夢を語り続けろ、何者にもなれないが。自分を偽って未来永劫滑稽に踊り続けるなんて、キミにふさわしい最悪の末路だね。その後悔が流れ着く果てまで、永遠にいっしょだ、ボクも共にゆこう』
『言いすぎですにゃあ』
大徳寺が十代を庇おうと現れたが、おまえが言うなという目で睨まれて、すごすごと引っこんだ。十代は苦笑いをした。
「おまえはほんとに容赦ないよな」
半身は、それでも共に歩んでくれる。いつもユベルに救われている。
聞き慣れたリズムの足音がした。微弱な電気が、身体の表面を流れるような緊張感。産毛が逆立つのがわかる。気がついたときには、逃げ出す暇もなく、遊戯が目の前に立っている。とても高い透明な壁が、目の前に立ちはだかった錯覚を覚える。
「ゆ、遊戯さん」
赤みを帯びた金色の日差しが、遊戯の姿を縁取り、黒い影が逆光の表情を塗りつぶしている。顔をあわせるたびに、自分のほかの誰かを崇める者を突き刺す畏れが膨れあがり、いつだって逃げ出してしまいたくなる。
そんな時は、ひとつ息を呑んで、彼我を隔てる見えない壁を砕く必要がある。正しい道を歩む決闘者になら、遊戯がそれを赦していると知っているからだ。
──そうだ、カードを返さないと。
取り返した三枚のコピーカードを遊戯に差し出した。遊戯はカードを広げ、懐かしそうな顔になる。
「いいのかい」
「あなたのものです。持ちだした人は、もう返しにくることができないから、かわりにオレが預かってきました。それから──」
──また旅に出ることにしたんです。
そう切りだす前に、遊戯はいつもの決闘王らしくない柔らかい笑い方をして、十代に話しかけてきた。作り笑いだとすぐにわかった。
「おなか減ったね。今夜は、なにを作ってくれるんだろう」
「あの」
「家が壊れて大変だし、しばらくは母さんも入院してる。ボクのせいだと怒ってるだろうな。キミには甘いから、なんとかご機嫌をとってくれないか」
「えっとですね、遊戯さん」
「これからも、力を貸してもらいたいことがたくさんある。キミがいてくれるから、すごく助けられているんだ。いつもありがとう、十代くん」
遊戯の指が、緑色の屋根の家があった方向を、ぎこちなく指差した。
「暗くなる前に帰ろうか」
「……はい。帰りましょう」
十代も、見慣れた背中の少しうしろを歩きながら、壊れた家路につく。
ずるいです、と息だけで囁いた。拗ねたかすれ声が遊戯には届いていて、喉の奥を震わせている。笑っているのだろうか。
十代には、遊戯がわからない。
*
営業を再開した亀のゲーム屋に、オブライエンがやってきた。ヨハンから、十代があいかわらず遊戯の家で世話になっていると聞いたらしい。
「また旅に出ると思っていたが、しばらくは日本にいるのか」
「ああ。今度の大会にはジムも来るって? よかったな」
「なぜよかったなんだ、オレが」
「ジムの話するときのおまえって、嬉しそうだからさぁ、オブライエン」
十代は笑いながら、最新号のデュエルマガジンの束を解いた。オブライエンの表情は変わらないが、優しい目で、素直に相棒との再会を喜んでいる。感情を滅多に表には出さないが、オブライエンほど友人を大切にする男を、十代は知らない。
「あいつも、決闘の聖地を見たがっていた。ただ残念なのは、この街は星が見えないことだ。ジムはオレに、よく星の話をした」
「じゃあ、ジムなら分かったかな」
十代は、新作カードパックの箱を開いてカウンターに並べた。今日が発売日のものは、ほかにあったっけ?
「このごろ、毎晩夢を見るんだ。夜空の星が、みんな落ちてくる。オレめがけて降り注いでくるんだ。この宇宙じゅうの星がさ、ほんとに全部落っこちてくるんだよ。こえーだろ」
荒唐無稽な夢を語って十代は笑ったが、オブライエンはにこりともしなかった。いつもの無表情とも違い、どこか怒っているようにも見えた。見た目から、彼の感情表現はよくわからない。
「もしもそのときが来たら、オレのことも呼んでくれ。興味がある」
「わかった。でも夢だけどな」
オブライエンは十代を、いやに真剣な眼差しで睨みつけてくる。
「必ずだ十代。必ず」
「ん?」
「オレを呼んでくれ」
「ああ、うん」
十代は頷いた。それはあとで嘘になったが、そのときは約束を破るつもりはなかった。
(アテムとソロモン)/おわり
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