【
目次にもどる
】
アテムとソロモン(10)
【36 名もなき者(1)】
らくだの鞍に縫いつけられた鏡が、壊れた櫛のかたちをした白い月を映して輝き、美しい黒の砂漠に小さな光の円を投げかける。無数の死者たちが埋もれていった、乾いた砂の大地。
風に削られたまばらな形の石くれは、意味もなく何千年も打ち捨てられてきた彼らの墓標だ。やしの木の影が、頭を振りまわして嘆く泣き女のように揺れる。
こんな夜は、生まれつき闇のなかを見通す目を持って生まれたことが、ソロモンには恨めしい。干乾びた死人たちの顔がよく見えた。誰もが等しく未来を奪われ、記憶を失い、生きた証さえ残らない。
命さえなければ、すべてにおいて人々は平等だ。身分も、能力も、血も、なにもかも意味がない。
『彼』が幼い頃から説き続けてきた理想は、こんな残酷な皮肉で叶えられるものではなかったはずだ。今はそれが悔しい。
ソロモンはまぶたを閉じて、死者たちを悼んだ。すべての名もなき亡骸を弔うのは難しくても、敬意をはらうことはやめない。無惨に砕け散った骨片の、どれかひとつは『彼』の一部だったのかもしれないのだから。
眠りに逃げるように輿の上でまどろんでいる間、ソロモンは、オールでこげない海を勇ましく往く死者たちの声を聞いていた。命尽きたことを忘れて皆おしゃべりだ。
炎上する宮殿に立てこもり、死霊の仲間に迎え入れられる前に自決した楽隊の演奏が響いてくる。それは、らくだの胸帯の飾り房についた貝殻とガラス玉がぶつかる音だったが、意識が肉体と魂の境目を漂っているうちは気がつかなかった。
鈴の音はやがて、金の装身具が擦れあって生まれる、神秘的な音色へ変化していく。
いつしかソロモンは、ありし日のファラオの夢を見ていた。
若き王は名を、記憶を、命を、存在した証を根こそぎ奪われてしまった。冷えた鉱泉のように静かな紫水晶色の瞳が、苦い決意をまじえて、微笑みの形に歪んでいる。
薄い亜麻のチュニック越しに、満足な筋肉もついていない、未完成の身体が透けている。今は亡き少年王は、ソロモンよりも年上だったが、まだ子どもだった。
甘い理想を説くわりに、甘えの一切を母親の胎内に捨ててきたような人だった。
「この国を、あいつを頼んだ」
かげった顔を無理にほころばせて、最期のときまで誇り高きファラオとしてあろうともがいていた。それとも幼い日に約束したように、ソロモンの立派な兄であろうとしていた。
金の耳飾りが揺れるたびに、心地の良い音が鳴った。黄金がこれほどなじむ王もいないだろう。
「許せ。お前には、いつも頼みごとばかりだ」
ソロモンは、生きて成すべきことを与えられた身をかがめて、頭を垂れた。それでも本当は、この人と共に闘って死ねたらよかったと、今でも考えている。
子どものころのように、臣下の仕草を恥と感じることは、もうなかった。
「王の誇りを貫け。オレは、いつでもお前と共にある」
「はい」
そのときのソロモンは、祈るほかの方法を知らなかった。
「■■■兄さん。必ず、生きて戻って下さい」
ファラオは約束はしなかった。かしずいたソロモンを立たせて、頬に、むずかる幼子をあやす大人の優しさで触れた。
「姉のように、マナのように、お前の花のように綻ぶ顔を見てみたかった。兄として望むのは、それくらいだ」
「わかりません。オレには──わからないんです。戦うことしか知らなくて。ごめんなさい」
「いい、謝るな。妙なことを言ったのはオレだ。オレだって、何も知らないのにな」
「きっとオレは、どこか欠けているんですね」
ソロモンは、うつろに笑顔を作った。道化師の仮面は皮膚になじんではがれない。ファラオは、憐れむように目を細めている。
「そうだな。おまえに合う欠片が、いつかきっと見つかるさ」
結局、ソロモンの祈りは神には届かなかった。ファラオは二度と戻らず、傷ついた魂は冥界へも至らずに、現世をさまよい続けている。
エジプトは、あらゆる神聖な場所に刻まれたファラオの名を削り、あまりにも多くのものを背負った少年王の存在を闇に葬った。そうすることで、かろうじて逃げ延びた暗黒時代を忘れようとしている。
呪いに奪われた彼の名前は、夢の中でさえ思いだすことができなかった。
何度かの砂嵐を過ぎて、都市の影が遠くにうっすらと見え始めたころ、砂丘の斜面に動く影が現れた。死の砂漠を越え、人の領域に再び戻ってきたことを、ソロモンは知った。
夜盗の群れだ。ぼろ布をまとい、痩せて眼ばかり異様に光っているが、金や宝石の装身具をつけて、質のいい槍や剣で武装している。戦争で死んだ王宮の兵士や、神官の亡骸からはぎ取った盗品だろう。
砂と同じ色の肌をした盗賊のひとりが、死肉を漁る動物に通じる注意深い動きで、ソロモンの隊列の先頭を進むらくだの足に矢をいかけた。
らくだが喉からしぼり出した低いいななきは、静かな砂漠で、ぎくりとするほどに近く感じた。闇に融けて、目に見えないものたちから立ちのぼる、かすかな殺意が肌を刺す。
人ではない存在が、盗賊に混じっている。石板の魔物だ。
かつては限られた者にのみ許された魔術を使う犯罪人の存在は、この国の荒廃ぶりを示している。
廃墟と化した神殿から、魔物を使役する技を盗み出したのか。それとも盗賊に堕落した神官が、群れに混じっているのかもしれない。
初めてこの国を訪れたときと同じ失望が、あの日とは異なる重みを持って胸をよぎる。
これが、エジプトか。
魔物を先頭に立てた野党たちは、金や宝石を積んだきらびやかな隊列を取り囲んで、いっせいに押し寄せてきた。
襲撃者たちの手が宝物にかかろうとしたとき、夜の闇が形を成したかのような、黒い砂嵐が吹きあがる。
色を失った砂の海から、羽根を持つ巨大な赤い蛇が浮上した。
──〈神炎皇ウリア〉。
エジプトに伝わる伝説の〈三幻神〉が、足元に引きずっている『影』とされる魔物。
〈三幻魔〉の一体だ。
〈魔〉は、低級の魔物たちを塵のように払い、空高く浮上したあと、膨大な砂煙を巻きあげながら再び砂海に沈んでいった。心の闇に引かれて悪の領域に踏みこんだ夜盗たちをすべて、禍々しいあぎとに咥えこんだまま。
砂の海は、振りまかれたいくつもの死のかたまりをすぐに消化して、一瞬後には何食わぬ顔をして眠っている。砂漠というところは、昔からそうだった。ソロモンの義父が死んだ日も、同じだっただろう。
──百の卑しい盗人が、かの大いなる〈千年アイテム〉と等価になったと聞く。
──では、百の気高き戦士の魂を捧げたなら、なにが生まれるだろう。
あの戦争の混乱のなかで、ひとつの闇の錬金術の試みがなされた。ソロモンが故国に持ち帰ったエジプト錬金術の秘技をもとに生まれた〈ウリア〉は、獲物を得た喜びも高揚もなく、ただのたうちまわるように長い体躯をひねって幾度も空に叩きつけている。
ソロモンは、とある王を呪った末に〈魔〉に身をやつしながら、結局は盗まれた妻の面影を忘れることができず、ほんの一欠片だけ残った人の心の弱さにつけいられて、仇に使役される道具に成り下がった男のことを思いだしていた。
〈ウリア〉は、ソロモンの義父のなれの果ての魔物だ。
自らを裏切った王と妻の子の手のひらの上で踊るのは、どんな気持ちだろう。尋ねてみたことがあるが、答えはなかった。力に意志はなく、魔物に心はない。主の命令に従うだけだ。
エジプトの類まれな錬金術は、歴戦の軍人が、死に際に宿した強烈な絶望さえ自由に操る。人の感情を、まるで意に介さない。気持ちがいいくらいに心を割りきった技術だと、いつも感心する。
呪いの魔術、闇の錬金術、精霊の加護──知識が増えるにつれて、人の心は、自分以外のなにかの手で思い通りになるような単純な道具にすぎないと、ソロモンは何度も思い知ってきた。
それでも、いまだに疑問を捨てられない。人知を超えた正しい設計図があるなら、なぜ人は正解に抗うのだろう。名を失ったファラオも、『彼』を求め続けるその片割れも、神に見捨てられた両親も、〈魔〉に化けた義父も、ソロモン自身も──。
人の心とはなんだろう。錬金術によって生みだされた動く道具たちと、なにが違うのだろう。
薄青い膜がかかった静かな世界を往く間じゅう、見えない無数の細い糸に巻きつかれているような不自由さを感じていた。
もうじき、壊れた砂の都につく。一年ぶりのエジプトだ。
*
かつて、世界の中心と讃えられた大国エジプトの栄華は、すでに過ぎ去っていた。王の都テーベさえ、なかば砂に埋もれた残骸になり果てている。貢物の黄金細工を積んだらくだや象、馬に引かれた銀の戦車の行列が、笛や太鼓の音楽を奏でながら進んでいく。日干し煉瓦の家から覗く、街の人々の目には生気がない。
まるで死者の都だ。
テーベには、いまだに内戦の傷跡が生々しく残っている。復興した王宮を臨む参道にさえ、隙間を異様に恐れる民たちが執拗に祈りを刻んだ塔門が横たわっていた。
ソロモンは輿を降りた。しもべの隊列を待たせて、その先へ続くスフィンクス参道をひとりで進んだ。
王宮の東の方角から、勢いのいい歓声が聞こえてくる。
闘技訓練場。
ヌビア砂岩の床石は、切り出されて間もない様子で、すべてを見通すホルスの両目が刻まれている。四方の壁に、若いファラオと天上の神々の姿がみっしりと彫りこまれていた。巨大な列柱には、上下エジプトを統べる者を礼賛する言葉が、あまりにも過密に、以前の統治者たちの痕跡を塗り潰そうとするかのように、波の輪のごとく綴られている。
この土地の古めかしい慣例は、異邦人の目には、どうしても滑稽に映る。
闘技場内では、玉座を臨んだ御前試合が行われていた。石板を使う決闘が始まったところだ。
すでに、魔物〈ガレストゴラス〉の姿が見えた。ファラオが、新たに選定した六神官に下賜したと聞いている。ソロモンは、あの火吹きトカゲにあまり良い印象がない。知らず奥歯に力が入っていた。
対する召喚獣は、筋骨隆々の〈傷だらけの戦士〉。新生六神官のエジプト人に対峙する男は、白い肌がひどく目を引く。
星の民のツィオルキン。
油断なく滑らせた青い目が、ソロモンの姿を認めた途端に、軽く見開かれた。肩にぎこちなく力が入る。
〈傷だらけの戦士〉への攻撃命令が、わずかに遅れた。
赤い竜の尾が、鞭のようにしなる。重い打撃。この国では禍の象徴とされる白い肌が、思うさまにぶっとばされていった。赤い肌の観客が湧く。
外国人を一撃で打ち据えた新顔の六神官は、民衆に向かって満足した様子で頷き、近々行う北方遠征を成功させ、外敵の脅威を排除し、先王時代に失われた国土の回復を約束した。
呪われた容姿の異国人に、侮蔑の目を一度投げかけると、亜麻の衣を翻して闘技場を去っていく。
あとに残されたぼろぼろのツィオルキンは、竜の尾の殴打にそれほど堪えた様子もなく起きあがった。ソロモンのほうへ手を振っている。苦笑して振り返してやると、子犬のような笑顔を見せて駆けてくる。
「ソロモン兄さん。見に来てくださったんですか」
青い眼が、眩しそうに細くなった。パピルスのサンダルの足元に、次々に花が咲いていく。砂漠の国では見たことのない、激しい色をした肉感的な花だ。トゥーラの植物なのだろうか。
この星の民の男は、静かに抑えられた表情のかわりに、宿した魔力が感情の花を咲かせる。力は嘘をつけない。見あげて気がついたが、少し見ない間に、また身体が大きくなっている。
出会ったばかりのころは、負ぶって歩いてやれるくらいに小さかったが、とうとう背丈を追い抜かれてしまった。
「こんな面白そうな試合なら、見に来ないわけにはいかないぜ。だけど、相手がエジプト人だからって、そこまで露骨に力を抜くのは逆に失礼だぞ」
「そういうわけではないですが」
ツィオルキンは、恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「キミなら、けっこういい線いけると思うんだけど。あがり症なのか」
「あがり症だろうね」
マナが口を出す。長衣が似合わないせいで、神官の正装が、いまだにお仕着せに見える。魔術の弟子に取ったツィオルキンの前で、威厳を見せようとしているらしく、腕を組んでふんぞりかえっている。見習い時代の凡骨ぶりを見慣れているソロモンには、威張ったガキ大将にしか見えない。
「こら。ソロモンは、ファラオにご挨拶があるんだ。ツィオルキン、あんた、修行はどうしたの」
「兄さんが今日エジプトにお着きになると聞いたので、すでに終わらせました」
「そういうとこ、優秀すぎて怖いんだけど。あたしがさぼってた年頃だよ」
マナが子猿みたいに顔をしかめて、文句を言っている。名も無き先王の意志を守って、肌の色で人の分け隔てをせず、異国人のツィオルキンに良くしてやっているようだ。その瞳が、ふと翳る。
「『あの方』は、お変わりないの」
「あいかわらずだ」
「……そう」
ソロモンは、眉を下げて微笑んだ。マナも鏡のように笑う。暗い笑顔。
『あの方』──エジプトの第一王女アテンは、片割れの双子を失った日から、心を病んでしまっていた。
*
一部だけ装飾が済んだ未完成の大列柱のあいだを抜けると、塔門を境界に突然空間が開けた。偏執狂的に神話を刻んだ極彩色の壁画が、訪れる者を圧倒する。
謁見の間。
ソロモンはひとときの間だけ、在りし日の少年王の姿を見た。顔のないファラオが、ホルスに抱かれた玉座についている。黄金の煌めきに目が眩み、まぼろしは一瞬で掻き消えた。獅子の玉座に座るのは、先の内戦の果てにエジプトの統治者の座を勝ち取った男、セトだ。
エジプトの王が誰であれ、属国の長は礼を尽くさなければならない。イスラエル王国第三代王ソロモンの立場は、なにも変わらない。
ただ、セトの頭上には、亡き母と幼いころに見た礼拝所の黄金の光は見えなかった。ソロモンは、義務的に跪いて頭を垂れた。
「面を上げよ、ソロモン。長旅よくぞ参った」
そっと視線を上げると、セトの胸の上で、いびつな形の金塊が輝いているのが見えた。
「ご無沙汰しております。セト様」
「無礼者め。ファラオと呼ばぬか、田舎者」
六神官のひとりが、禍をもたらす白肌の外国人への敵意を隠そうともせず、顔を真っ赤にして怒鳴った。
──さっき、ツィオルキンをぶっとばした奴だな。
ソロモンは冷静に相手の顔を確認し、改めてエジプト式の挨拶をしなおした。「我が主、我が神、我が太陽神」。
属国の長は、外交の絆をより強固にするための使者として、貢物の奴隷や財宝や馬とともに、しばしば息子や娘を遣わした。人質でもある王の子たちは、ファラオへの忠義を徹底的に仕込まれて育つ。大国エジプトの大君主に媚びへつらい、すべての要求に無条件に応じる奴隷へと作り変えられる。
ファラオの忠実なしもべとなった未来の王は、エジプトの傀儡として故国へ放たれる。古き覇者の国の傲慢。馴染んだ侮蔑。しかし──それがまかりとおったのは、昔の話だ。
先の内戦以降、この国は目に見えて弱体化していた。今や商人たちは、商売相手を他に見つけて去ってしまった。セトなら弱きエジプトを救えるかもしれないが、正しい者はこの国では疎まれる。見果てぬ黄金の夢を見ていたい権力者たちは、セトが突きつける現実から目を逸らしている。
「我が主、我が神、我が太陽神」。
──あんたもずいぶん大変だな。
マナ以外の六神官は、来訪者のしおらしい態度を認めて、ひとまず満足したようだ。ただ、子どものころからのつきあいになる女神官は、ソロモンの皮肉を悟って頭を抱えたいような顔をしている。
セトの反応はない。エジプトの王は、異民族に感情を動かされない。
「して、あの方はお変わりないか」
「ええ。砂漠に心を食われてしまったまま、お戻りにならない。弟と呼んで良くして下さったオレの姿すら、見えてはいません」
ソロモンは、演技からではなく顔を曇らせた。先王の双子アテンは、片割れの死骸を求めて砂の海にさまよい出ては、付きの者に連れ戻されてくる。狂ってしまった亡き母を見ているようで、心がざわつく。
「あのお方がエジプトに戻れば、王位争いの道具にされるか、はたまた邪魔者として消されるか──正気であるよりも、命果てるまで夢を見ているほうが幸せかもしれぬ」
「ファラオ」
「よもや口外するものは、この場にはおるまいな」
「……は」
六神官の顔色は、熱砂に囲まれていながら青白い。恐怖で縛りつけていられるうちは無害だ。
先の戦争のさなか、ソロモンはエジプトの許しを得てファラオの娘を娶り、ギブオンの聖所にて三幻魔を賜った。王位を得たセトが、異国の王に先王の片割れを嫁がせ、混迷を極めるエジプトから逃れるよう仕組んだのだ。
厄介払いか、亡きファラオへの最後の忠誠か。
セトは王座の強奪者ではあるけれど、口だけで何の役にも立たなかったマハードとは違って、沈黙のうちに名も無き王の悲願を現実のものにする一番の忠臣だ。
もし今セトが消えれば──エジプトは安定を欠いた国家を再び強固にするため、三幻魔の強大な力と王の血筋の『娘』の返還を迫るだろう。
その要求は呑めない。はねつければ、エジプトと戦をすることになる。
だからこそソロモンは王になった。自分の国を、イスラエルという力を手に入れた。
母を義父から盗んで以来、父は神に愛想をつかされて耄碌していた。エジプトのファラオより賜った錬金術の秘法で、死から蘇った義父の成れの果て〈幻魔皇ウリア〉を一目見て以来、床についてしまった。罪を悔い、贖いの方法を求めながら、母そっくりの顔をした息子に王位を託した。
血を分けたほかの兄弟はもちろん反発したが、老獪な国で陰湿な嘘を学んだソロモンの敵ではなく、次々に滅びていった。
故国の民は夜の闇のなかで、ソロモンを身内殺しの悪魔と囁く。誰に何と言われようが構わない。セトが死に、そのときソロモンが弱ければ、あの人の嘘が暴かれてしまう。真実を知ったエジプトは、名も無き王の片割れをファラオに祭りあげる。
花と鳥のことしか知らない『娘』が、神官どもの傀儡となる。それだけは──。
「ソロモンよ。貴様があの方を必ずお守りするのだ。それが名を奪われし先王への、我々のせめてもの償いになる」
「心得て存じます」
──我が主、我が神、我が太陽神。
属国の王は、エジプトのファラオが突きつけるすべての要求に応じなければならない。それは恐怖と痛みとともに刷り込まれたもので、本当の意志ではないのかもしれない。
だが、構うものか。
たとえ滅びかけたこの国が再び血に染まろうとも、必ずあの人を守り抜いてみせる。
*
セトへの謁見を終えて大列柱室へ戻ると、開花式パピルス柱の脇にツィオルキンの姿があった。
青い瞳の下に擦り傷ができている。御前試合でついたものだろう。精霊の加護を込めた指で、傷を一撫でしてやる。この程度の怪我なら、泥汚れを払うのと同じくらいに容易く癒してやれる。
ソロモンと同じく災いの象徴とされる色の肌に触れた瞬間、宙に鮮やかな色の花が開いた。肉厚の花びらが舞いながら地に落ちて、銀の光の粒になって消えてしまう。
何度見ても不思議な体質だ。星の民の使う魔術は、ソロモンが得意とする錬金術とは系統が違いすぎるから、術の仕組みをうまく読み解くことができない。
「あ、ありがとうございます。その、セト様とのお話はもう終わったのですか」
「ああ。お忙しい方だからな」
「では、よければ今夜は俺の部屋にいらしてくれませんか。兄さんの国の話を、たくさん聞きたいんです」
「長くなるぜ」
「……はい!」
ツィオルキンは御前試合の最中とは見違えるほどに表情を明るくして、ソロモンの手を強く握った。
「俺も、兄さんのイスラエルをこの目で見てみたい」
「いつか平和になったら招こう」と告げると、ツィオルキンの腕が、見た目とは裏腹な無邪気さでソロモンの背中に回る。高地で暮らす民の仕草は、時折獣に似ている。耳の後ろにとがった鼻先を押しつけられて、くすぐったい。笑みを含んだ吐息が降ってくる。
「兄さんは、いつもいいにおいがしますね」
──いいにおいか。
ソロモンは、何とも言えない顔になった。
【37 名もなき者(2)】
石板の神殿の内部は、日没とともに焚かれた魔除けの薫香がうっすらと香っている。
ソロモンは聖なる池に腰まで浸かって、古い鞭打ちの痕が今なお残る身を清めていた。獅子の頭の被り物をつけた神官が現れて、裸のソロモンに、至聖所にふさわしい薄衣を着せていく。
手つきに侮りと媚びが含まれていた。呪われた白肌を汚す無数の傷は、エジプトへの服従の証に他ならない。
──豚め。
白い肌の『使い方』を初めて覚えたときは、死ぬほどみじめな気持ちがした。今はなんとも思わない。獣臭い神官どもに、寝床に呼ばれた夜を数えることにも飽きてしまった。つけられる傷が外でも内側でも同じだ。
──兄さんは、いつもいいにおいがしますね。
そう言ってツィオルキンは笑っていた。弟が娼婦のにおいを知らないのなら、そのままでいい。
数多の心の闇を封じこめた石板の間に、神官の服を着た獣頭たちが集っていた。
「これはこれは、ソロモン王。近頃はずいぶんと羽振りが良いようですな。商人どもも、このエジプトを素通りしてイスラエルを客に選ぶ。ティルスのヒラム王などは、貴殿のエルサレム神殿の建設のために、貴重なレバノン杉を望むだけ与えたとか」
「ヒラム王は共同で海上交易を行っている友人です。こちらも相応の対価を用意しました。取引ですよ。エジプトのように、属国から貢物を受け取るような立場にはいませんから」
恨みごとを平然と受け流し、侮りに追従で返す。虐待の日々に、ソロモンは素晴らしい忍耐を学んだ。嘘をつくことも媚びることも覚えた。鼻息ばかり荒かった子ども時代になりたがっていた、気高い戦士にはなれなかったが、それでいい。身一つしかない戦士は王になれない。
顔を隠した先王派の神官たちは、属国の王の恭順の意志を認めて相好を崩した。
下級神官がうやうやしく黄金櫃を運んできて、神官長の合図で上蓋が開けられた。箱のなかには、ばらばらになった装飾品の一部が収められている。左右非対称で、ひとつとして同じ形のものがない。
──主を失った千年宝物、〈千年錐〉の欠片だった。
この国の先王は、悪神の手先になり果てた闇の大神官を、その聖なる名前と魂を犠牲にして千年宝物の中に封じた。砂の海じゅうに散ってしまった〈千年錐〉の砕片をより多く得た者が、真のファラオの座を手に入れる。
赤い肌の権力者たちは、血眼になって王の資格を探している。
反セト派の勢力の手に渡った先王の遺産は、〈千年錐〉の砕片だけではない。
──千年輪。千年眼。千年錫杖。
この世ならざる輝きを放つ宝物を手にした神官が、この場に三人ばかりいる。いずれも『最も偉大なる者』の称号を持つ神殿の長だ。闇の錬金術の結晶を手にして魂を焼かれなかったところを見ると、役職に恥じない程度の魔力には恵まれているらしい。
「王家に伝わる千年宝物は七つ。古き書には、手にした者の望みを必ず叶える力があると記されている。輪、眼、錫杖はここに。首飾りは旧六神官マハードの後継者の娘に、錠は御前試合の勝者へ褒美として与えられた。秤を──早急に奪わなければならぬ」
しわがれた声が、苦い響きを帯びている。
「あのマナという六神官の女、次期六神官の候補に外国人を推しているのだ」
「たしか、ツィオルキンなどという」
「そう、あの白肌よ。セトもまんざらでもないらしい……」
まわりの神官たちがどよめくなかで、ソロモンは影の中に隠した拳を握りこんだ。ツィオルキンだと?
「セトめ、千年宝物の所有者に外国人を選ぶだと。外敵に国を滅ぼされかけたことを忘れたか」
「優秀な手駒がいるからだろう。類まれな魔力を宿し、精霊を操り、生半可な奴隷よりもエジプトに忠誠を誓う、そこのヘブライ人の王がな」
鳥頭の神官が、ソロモンに向かって横柄に顎をしゃくった。
「ソロモン王、羊飼いの長よ。貴殿はどう見る? あの星の民と同じ白肌の考えを聞かせよ」
「……今のファラオは、ナイルの水を飲んだ者は皆エジプトの民だと言ってくださるけれど、現実は違う。ツィオルキンは良くも悪くも獣です。正直が過ぎるほどの純粋な男だから、あの方の理想を真に受けてしまったようですね」
ソロモンは、内心の感情の揺れを感じ取らせない穏やかな口調で答えた。
──マナは、ツィオルキンに何をさせる気だ?
他国から呼び寄せられた王子は、エジプトのしもべであると同時に間諜でもある。アクナムカノン王の時代ならまだしも、今の弱体化したエジプトに、星の民が介入する理由と余地を与えるのはまずい。
ツィオルキンはトゥーラを放逐された身だが、王の子にエジプトの秘儀が授けられたのなら、貴き王の血を赤い砂に埋もれさせておく理由はない。星竜王は、必ず子に許しを与えて手元に引き戻す。
トゥーラは血と死と犠牲を好む、恐ろしい戦士の都と伝え聞く。
星竜王が率いるは、ツィオルキンと同格の精霊使いの軍勢。しおらしく和平を望むとは信じられない。
義理の弟が、利用価値を失った弱きエジプトを喰らい、なにもかもを強奪する獣になるなら──つまりはエジプトの隣国イスラエルの害になるなら、ソロモンは自らの手であの男を殺さなければならなくなる。
──できれば避けたいかな。
ソロモンは、顔の皮に馴染んだ道化の表情を歪ませた。
「たしかに我々は兄弟のように育ちはしたけれど……この大陸の人間にとって、海の彼方にいる星の民は得体の知れない脅威です。トゥーラは謎が多すぎる。あまり増長させないほうがよろしいかと」
「ふむ、一理ある。あの獣臭い蛮族は、なにを企んでいるかわからぬからな」
老いた神官長は、しばしの間、沈黙に沈みこんだ。
「こちらで、他にふさわしい神官を推そう。なに、セトは裸の王よ。すべては神殿のさじ加減ひとつだというのが、あの若造にはまだわからんのだ」
ソロモンは、演技ではない安堵のため息をこぼした。
ツィオルキンの子犬のような笑顔が脳裏に浮かぶ。そうやって、人の醜い闇の心など知らずに生きればいい。
月明かりが石板の神殿に射しこんできて、老神官長の姿を浮かび上がらせた。幾重にもたるんだ首の皮に頭が埋もれ、亀にそっくりだ。
この男は、名も無き王へと連綿と続いてきた王の血の系譜を重んじている先王派だ。反逆者アクナディンの息子であり、能力ひとつで成りあがってきたセトを憎んでいる。
「今代のファラオは愚かだ。慣習とは古ければ古いほど尊いものだ。それをことごとく無視してくれる。偉大なるアクナムカノン王の娘にして、先王の婚約者たる第一王女アテン様を、外国人の……獣の妻にやるなど、許しがたい所業だ」
エジプトの王位継承権は、代々王の娘が持っている。ファラオは王の娘との婚姻によって──血のつながった実の兄妹であることが多かった──次期エジプト統治者の地位を確かにする。
先の内戦以降、揺らぐエジプトでは、絶対のはずの約束事が次々に破られてきた。独り身で千年錐を持たないセトが玉座についた。外国の王にエジプトの第一王女が嫁ぐのもまた、前代未聞だ。
老いた神官長は、若い神官たちがソロモンに露骨な嫉妬の視線を向けているさまを、面白そうに眺めている。
「そう殺気立つものではない。さすがにセトも、栄光あるエジプト王家の血を濁らせるわけにはいかんとわきまえておる。毛も生えていないこの羊の王は、女ひとり抱けん身よ」
老人のむくんだ指がソロモンの股ぐらを横切って、ナイフで切る仕草をした。
「これはかわいい犬だよ。獣なりに、先王に忠義立てしているつもりなのだ」
「犬には、大恩あるエジプトを穢すことなどできませんので」
涼しい顔で受け流す。先の戦争で身内こそが最大の敵だと痛感した権力者たちは、ソロモンを、純血の姫を政敵から隠す都合のいい箱だと考えている。この国の第一王女と婚姻関係にありながら敵視されず、相手にもされないまま、ソロモンはただ黙って彼らを見ていた。
『あの人』は『女』ではない。神官たちは何も知らずに、権力の奪い合いに必死だ。
乾いた砂のにおいにまじって、馴染みのない甘ったるい香りが鼻先をくすぐった。無数の石板が落とした影の中で、なにかが動いた。
ソロモンは、唇に指を当てた。
「お静かに。誰かいます」
「おおかた砂漠の獣よ。寝ぼけて人の領域に迷いこんでくることがよくある」
神官が笑う。黒く塗りつぶされた闇の奥で、小さな赤い光がふたつ瞬いた。
それは音もなく、獣頭のエジプト人たちの輪の中に押し入ってきた。豹の毛皮を身に着けた神官がひっくり返る。肩に、黒曜石のナイフが刺さっていた。
敵の襲撃。
「賊だ! 神聖な石板の神殿に足を踏み入れるとは、なんと身の程知らずな輩なのだ。出でよ、石板に封印されし魔物を召喚──」
犬頭の神官が、神殿に安置された石板から魔物を呼びだそうと呪文を唱えはじめた。
ぎらついた赤い眼光が、影から影へと鷹のように飛び移っていく。声を上げた神官が、襲撃者の次の標的になった。中身が詰まった犬の頭のかぶりものが、肉体を置き去りにして飛んでいき、低級魔物を封じた石板に激突する。
魔物を召喚する隙がない。ソロモンの背後に隠れた老神官が、悲鳴を上げた。
「な、なんとかせよ、ソロモン王」
「この場はお任せを。千年宝物を持ってお逃げ下さい」
「う、うむ」
倒けつ転びつ逃げていく老人に、影が追いすがる。ソロモンは、神官の死体から儀式用のウアス杖を取りあげた。飛びこんできた短剣を打ち払う。相手の得物は石の感触だ。
右膝を繰りだす。粘土に似た、にぶい当たりがあった。
襲撃者からたちのぼってくる、奇妙なにおいに気づいた。植物の樹液を発酵させたときに生まれる香りだ。そうして造られる酒があることを知っている。
酔っ払いにしては、ずいぶんと正確に急所を狙ってくる。
敵の短剣がまたひらめいて、ソロモンのチュニックを切り裂いた。かがり火を蹴り転がして距離を取る。こぼれた炎が床に敷かれた豹の毛皮に燃え移り、瞬く間に広がっていった。
赤い光が、襲撃者の顔を浮かび上がらせる。ソロモンは苦々しくうめいた。
「──ツィオルキン……か?」
弟は、ソロモンが呼びかけても上の空だ。表情が不自然に抜け落ちていて、濃い闇の気配を感じた。
ツィオルキンは、エジプトの地で随一といっていい清浄な魔力の持ち主だ。とち狂ったファラオに六神官候補として見出されるほどの、強力な精霊の加護を受けている。つまらない呪いごときにひっかかるとも思えない。それなら、薬でも嗅がされたか。
脂汗をうかべた老神官が、腰のうしろにすがりついてきた。
「た、助けよ。蛮族」
「くそっ……!」
足手まといを抱えながら対処できる相手ではない。身動きがとれないでいる間に、杖をはじかれた。首を鷲掴みにされて吊り上げられる。とんでもない馬鹿力だ。頚椎が軋む音を聞きながら、あえいだ。意識が白んでいく。
視界の端で、床に転がったソロモンのディアディアンクが妖しく煌めいた。敷物を焼く炎が輪になって勢いを増し、赤い竜の魔物に変化していく。
──幻魔、〈神炎皇ウリア〉。
石板に囚われた魔物たちの悲鳴が、落ちかけていたソロモンを覚醒させた。
幻魔はあらゆる存在の生命力を吸いあげ、世に滅びを撒く恐怖の体現だ。それは人の心を根源とする、石板の魔物にとっても例外ではない。
人の営みに近い場所で呼ぶような下僕ではない。まして、ここは他人の王宮だ。
主人が召喚してもいない幻魔が、なぜ勝手に枷を解き放って出てきたのか、ソロモンにはわからなかった。〈ウリア〉は意志のない道具のはずだ。これではまるで、主の生命の危機の前に、魔物が自ら望んで実体化したようではないか。
ソロモンの脳裏に、ひとりの男の影がひらめいた。
義理の父、ウリア。
顔も知らないその姿は、蜃気楼のようにひとときも同じ形をしていない。
あの男は、血の繋がらない息子を憎んでいるはずだ。魔物に心などない。そうすると〈ウリア〉は、死の予感を前にしたソロモンに芽生えた、無意識の敵意に応えたのか。
〈神炎皇ウリア〉が吼えた。黒い突風が、ツィオルキンの身体を、素焼きのウシャブティみたいに軽々と石板に叩きつける。幻魔の巨大な舌の上で、地獄の火の息が渦を巻いている。ソロモンはぞっとして、ディアディアンクを拾いあげて〈ウリア〉と義弟の間に割って入った。
「よせ、殺すな!」
ディアディアンクには、どんな魔物をも自在に操る力が宿っている。名を縛られた〈ウリア〉が、再び人形へと戻っていった。
ソロモンは、焼け跡の中心に倒れているツィオルキンに駆け寄った。息はある。ひとまずは、また兄弟を失わずに済んだ。肩を抱きあげて癒しの呪文を唱えながら、すすけた頬を親指の腹でこする。綺麗な顔に傷跡が残らなければいいが。
──『六神官候補の外国人』。
嫉妬深い権力者に恨みを買うには十分すぎる理由だ。しかも、この国に災いをもたらしたと噂される、白い肌に青い目の持ち主ときている。
ツィオルキンを王宮から排除する。ただそれだけのために術をかけて狂わせ、ファラオの民を襲わせようとした何者かがいる。
舌打ちをして、炭化した神官の死骸を一瞥する。ひとまず死人に口はない。弟が無礼を働いたのが、『まともな』エジプト人でなくてよかった。この国の民になにかしていれば、白い肌のツィオルキンはただでは済まない。
胸の内に、憐憫に似た想いが生まれる。ソロモンはエジプトのためなら、ひいては自国のためならば、ためらいなくこのツィオルキンという義弟を殺せる。世界王を継いだイスラエルの王としての自分なら、容易なことだった。
だけれど、自分の心に聞くならば──亡き先王のように、甘さをも是とする理想主義者ならば。
──弟を殺す兄なんかには、死んだってなりたくないもんだな。
薄い瞼が震え、青い目が開いた。うつろな視線がソロモンを認めた瞬間、息を止める。
「……ソロモン兄さん。俺は、一体……」
「気がついたか。よかった。具合はどうだ?」
硬い黒髪を、優しく撫でつける。無意識にとはいえ、ツィオルキンへ、幻魔を現実世界へ引きあげてくるほどに強い殺意を向けたのは事実だ。ソロモンもまた故郷の実兄たちと同じに、兄弟を殺そうとする鬼畜の血が流れている。
ひたすらに優しくツィオルキンに触れる指先は、都合の悪い真実を忘れようとするごまかしだ。
「目に見える傷は癒したが、どこか苦しいところはないか」
「いえ……」
石板の神殿は、ひどい有様だった。安置された石板の大半が割れ、解き放たれた魔物たちの焼死体の山ができている。ツィオルキンは、ソロモンの首を青黒く染める手形のあざを見とめた。口のなかで謝罪らしき言葉を小さく口にして、目を逸らす。おおよそは察したようだ。
「無事でよかったが、おまえ酒くさいぞ。そんなものどこで手に入れたんだ?」
このエジプトに、白肌が飲める酒なんてない。
「神官団の宴に呼ばれて、プルケを勧められたんです。相手が誰だったかは、よく覚えていません」
プルケとは、リュウゼツランの樹液で作った祝い酒だ。ツィオルキンの故郷、アンデスの山々で好んで飲まれている。先の公開試合の褒章として賜ったのだという。
「毒かどうかくらい気にしろ」
「ここでは、外国人の白肌が死のうが生きようが誰も気にもしない。兄さんだって、わかっているはずです」
「そうだけど」
生きるも死ぬも、大いなるエジプトの思いのままに。属国人に生死を選ぶ権利はない。
気まずい沈黙が落ちた。
*
ツィオルキンの部屋は荒れていた。杯がひっくりかえり、零れたプルケ酒が床を、壁を、精液を塗りたくったかのように白く汚していた。
ソロモンは杯の底に残った液体に指を浸し、喉の奥で呪文を唱えた。異国の酒に融けた悪意を、魔術で縛っていく。白濁した酒の表面が沸き立って、虫の卵嚢を思わせる真っ黒な塊に変化した。
ソロモンは、鼻が曲がりそうな腐敗臭を放つ黒い砂粒のようなものを、指先でつまんですり潰した。
「この酒、魔物がとりついていやがったんだ」
人の心の闇をこりかためて、誰かになすりつける類の呪いだ。瞠目しているツィオルキンの前で、転がっていた杯を床に立てなおし、親指の腹を裂いて血を一滴垂らす。
部屋中に散らばって隠れていた魔が、血のにおいを嗅ぎつけて集ってきた。小さな山の形になった闇の集合体へ、すかさず魔術の火を放つ。戦には使いものにならない程度の低級の魔物だ。塵も残さずに消え失せた。
ツィオルキンは、恥じ入った様子で奥歯を噛みしめている。
「未熟でした」
「確かに、隙を突かれるなんてキミらしくないな。心にもやがかかってる状態じゃ、見えるものも見えなくなる。悩みがあるなら兄弟に相談してくれよ」
「……神官たちから、香のにおいがしたんです」
「うん」
「ソロモン兄さんは、いつも香のいいにおいがします。でも、あいつらから、兄さんと同じにおいが……」
「オレは、この国で生き残るためなら何でもする。それだけのことさ、ツィオルキン」
美しかった母譲りの容姿を、敵を騙して殺すための武器だと考えられるようになるまで、ずいぶん時間がかかった。青い目が睨みつけてくる。許してはくれないらしい。
「あなたが姉さんを連れて故国に戻られてから、ずっとおふたりのことを考えていた」
婚姻のことを、ツィオルキンには最後まで話していなかった。アテンをいまだに『姉』と信じて慕う弟に、あの人が先王の死を境に狂ってしまったなどと、教えられるわけがない。
「兄さんは、この国でたったひとりだけの、俺の話を人の言葉として聞いてくれる人だ。あなたの声はトゥーラの雨のように清らかで、砂漠の国で死にかけた俺の心を何度も救ってくれた。でもあなたの心は、本当はとても遠いところにある。それが苦しかった」
父にも本当の兄にも愛してもらえなかった孤独な弟の前に、突然現れた理想の兄。ツィオルキンがソロモンに向けてくる目は、亡き先王へ向けるソロモンの目と同じだと気がついたのは、いつだっただろう。
「ソロモン兄さんがどれほどアテン姉さんを愛してらっしゃるかを、俺は知っている。だから、おふたりの決められたことに口を出さない。でも、兄さんが王でなければ。俺の兄でなければ、隣にいるのがアテン姉さんでなければ……俺はきっと、あなたを故郷にさらって、全身の皮を剥いで心臓をくりぬいていた」
「……それほど惨い方法で殺したいくらいに、オレが嫌いか?」
「俺の国では、勇者の誉れよりも、男女の婚姻よりも、生かしたまま切り刻んで温かい血を浴びることが、相手にはらう最上級の敬意なんです。やはり、野蛮に思われますよね」
「トゥーラは怖いとこだな」
素直につぶやいた。青い目が細くなって、自嘲の吐息がこぼれる。
「その首のあざ、我を忘れて何をしたのか想像はつく。こちらこそ殺されても文句は言えない。罰を与えてください、兄さん」
「わかった。じゃあキミは、その命を使って、この国のファラオをお護りしてくれ」
ソロモンはツィオルキンの鼻先を、子どもにするようにつついた。
「キミは光を歩む者の力になれ。キミの民のためにも、星を仰ぐ王として誇り高くあれ。オレは影を歩み、儚きものを守る。誰にでもそれぞれふさわしい役割があるのさ、ツィオルキン」
この部屋に足を踏み入れることは二度とないのだろうという予感を覚えながら、弟の部屋を出た。ツィオルキンの声が背中を追ってくる。
「なにか理由があるんですよね、ソロモン兄さん。俺たちを……セト様を殺そうとしているのは──」
ツィオルキンは敏い。白い肌の人間は、この国では知恵がなければ生き残れない。気づいていないはずがなかった。
「セト様には悪いけど、オレが跪いて見あげた主は兄さんだけなのさ。でもあの人はもういないし、今のオレは王だ。オレは、オレの国のためならキミを殺せる。キミもそうであるべきだ」
「だったらなおさらだ。もう二度と、ソロモン兄さんに汚れ役なんてさせない。エジプトの民が望んでも、あなたの民は望まない。なによりも俺たちのファラオが……亡き先王が赦さない」
「……その名前を出すのはずるいぞ、ツィオルキン」
苦笑しかけたそばに、精霊ハネクリボーがソロモンの肩にとまって耳打ちをした。
──王城で、騒ぎが起こっている。
ソロモンを盾にして逃げていった神官連中が、ファラオへの反逆罪で捕らえられたのだという。
*
千年宝物の加護がない者の動向は、千年首飾りに宿った『視る』力や精霊の目を通して、ファラオと神官団に筒抜けになっている。よほどの精霊か魔物を従える魔術師でない限り、闇の錬金術の力からは逃れられない。
神殿の先王派が、現王の監視をすり抜けられていたのは、奴らの手にある宝物の魔力のおかげだ。今になって老人たちの企みが露見したのは、何者かに千年宝物が奪われたからか。それとも、千年宝物を所持しながら迂闊すぎたか。後者のほうがあり得そうだが、理由を探るのは後まわしでいい。
捕縛された神官たちは、夜明けを待って裁判にかけられる。セトのことだから、一切の容赦をせずに首を刎ねるだろう。現存する千年宝物が、あの仮初めのファラオの手に集う。少しばかり面倒なことになりそうだ。
それに、先のツィオルキンの狂乱を見て、気になることができた。呪われた酒を使って、異国の王子に神官殺害の罪を犯させ、エジプトと星の民の間に戦争をもたらそうとした者がいる。
セトではない。あの男はまどろっこしいことを嫌う。老いぼれ神官長の敵のなかにいるのは確かだが、思い当たる顔ぶれが多すぎる。
王宮で騒動が起こっているなら好都合だ。神官長の屋敷は空き家になっている。朝がくれば、盗賊くずれのエジプトの民が押し寄せてきて、家財を根こそぎかっぱらっていくだろうが、今夜のうちはまだ静かだ。
家探しにはちょうどいい。
【38 名もなき者(3)】
王宮に拘束された先王派神官の邸宅は、召使いの家や家畜小屋を擁する庭園のなかに建っている。塀に囲まれた日干し煉瓦の屋敷を入ってすぐに客間があり、ぶどうの木が植わった中庭を隔てて、居間と寝室が造られている。
夜半過ぎ、屋敷の最奥にある執務室には、まだ明かりがついていた。主人が囚われたことを知らない書記官が、パピルスの巻物に葦の筆を走らせている。
その背後に音もなく忍び寄ったソロモンは、簡単な眠りの魔術で書記官を昏倒させると、伸びきった腕から書き物を取りあげた。主の友人の医師長に、借金の催促をする内容だ。
朝になれば職を失うことになるのに、熱心に仕事を片付けていたわけか。勤勉なエジプト人は稀少だ。無意味だけれど。ヤシの葉で編んだ絨毯の上に、書記を転がしておいた。
隣のツィオルキンと頷きあう。エジプトへ送られてきた属国の王子は、もっとも高貴な盗人でもある。
古来から大陸を支配してきたこの国へ、ある者は知恵を、ある者は術の技を、ある者は黄金の富を漁るためにやってくる。屍肉食いの本能が血に刻まれている動物のように、富を蓄えた者がどこへなにを隠しているのかがわかる。
戦士にはあるまじき、あさましい盗賊の技。ソロモンはそれを、先代六神官アクナディンの下で間諜をやっていた時分に身につけた。先王を裏切って殺したあの老いぼれには憎しみしか覚えないが、ともに影を歩んだ経験は、ときに思わぬところで役に立つ。
石板と巻物が押しこんである足の長いチェストをどけると、漆喰画が描かれたモルタルの床に継ぎ目がある。耳飾りを楔にして、こじ開けた。四角く開いた穴の中を覗くと、汚れた空気が噴き出してきて咳込んだ。埃臭い。
足元に、それほど広くはない空間がある。地下貯蔵庫だ。
エジプト人は、隙間を極度に恐れているかのような過剰装飾を好む。そのなかでも老神官長はとくに派手好みの部類に入るだろう。人の目に触れない地下室ですら、うるさいほどの彫刻が施されている。
屋敷の地下にある隠し貯蔵庫には、価値のありそうなものからあきらかながらくたまで、とにかく多くの物が積みあげられている。
ソロモンは、侵入者を喰らい殺す呪いをこめられたスカラベが這い出してきたのを、サンダルの底で踏み潰して殺した。虫けらの黒い体液が飛び散って、そばにあったチェストを汚す。
なかに収められていた巻物の束が、不気味な褐色に染まってしまった。指先でつまんで引っ張り出す。老人が金を貸した客の名簿のようだ。
「いくつか見た名前がありますね」
ツィオルキンが、壁画の裏側の隠し棚を漁る手を止めて言った。
「王宮に出入りしていた貴族だったと思います。何人かは、行方不明になった者も含まれているようだ」
借金のかたに売り飛ばされていったか、怪しげな偽錬金術の生贄にされたかというところだろう。
鏡箱の鍵穴に、ネックレスの金属棒を差しこんでこじ開ける。なかには、痺れ粉がたっぷりまぶされた扇と、柄にコブラの毒が仕込まれている短剣が収められていた。
短剣は、すぐにでも使えるように鋭く研がれている。刃で斬りつけたそばから、相手の体内へ注入される造作だ。狙われた人間は確実に死に至る。ともかく念入りに、どうあっても相手を殺したいという強い意志が感じられた。
王宮に囚われた先王派の老神官は、大神殿の長を任せられている。こうまで熱心に殺したいと望む相手となると、そう多くはない。
鏡箱の下に置かれている、金の蝶番がついた象牙の箱には、パピルスの束がつめこまれていた。ソロモンは、弟と顔を突きあわせて紙面を覗きこんだ。
──黄金の短剣と銀の椅子。壺いっぱいの宝石に一抱えの香。千枚のパン。
──瑠璃と紅玉髄の首飾り。銀の戦車とそれを引く馬。レバノン杉でできた船。
老神官と何者かの間で交わされた書簡だ。送り先は──疑わしく思えて目を擦った。ヒッタイト。エジプトと対立して久しい、最大の敵国だ。
ヒッタイト国から贈られてくる数々の宝物の対価に、老神官長は、石板の神殿に安置されている、魔物を宿した石板を差しだしている。かつては高位の神官にしか触れることの許されなかった、エジプトに古来から伝わる闇の錬金術の秘術を、セト嫌いの老神官長は、数多の財宝と引き換えに敵国に渡している。
あの男は、エジプトを売ったのだ。今ごろヒッタイトでは、エジプトを攻めるために魔物使いの軍勢が配備されているだろう。
「まあ、砂漠に出る夜盗たちが魔物を操るご時世だ。魔術を使う戦争が起こったって、不思議じゃないが……」
「前の戦よりも、犠牲者は確実に増えます」
ツィオルキンが落ち着いた声で言った。血と殺しを崇拝する男だが、あまりにも死にすぎた一年前の内乱で、戦争は懲りている。
先王派の老神官長が、セトを放逐して、新たなファラオを立てようと企んでいるのは予想していた。だが、矜持の高いエジプト人が、とくに危険視しているヒッタイトと裏で繋がっているとは。
セトの暗殺計画は、ソロモンの想像以上に進んでいた。書簡を読み進める。
──手始めに、王権崩壊の最大の障害を取り除く。
──恐るべき勢いで力をつけつつある、イスラエルのソロモン王だ。あの駄犬を暗殺し、真の王の手に千年宝物を取り戻す。権力者たちは、少なくとも玉座にセトが座るよりは納得するだろう。
──襲撃は今夜。がらくたとなって機能しない千年錘の残骸を餌に、錬金術に目がない道楽者のソロモン王をおびき寄せ殺す。
なお、セトの死後は自分を王に立ててほしい、ヒッタイトと良好な関係を築くつもりでいる──書簡はそう結ばれていた。
「つまりオレは、ツィオルキンに襲われなければ死んでいたわけか」
命を狙われるのは今に始まったことではないが、ソロモンは顔を渋くした。
「俺に呪いをかけた者は、ソロモン兄さんの命を救うつもりなんてなかったでしょう。神官長もろとも、兄さんを殺すつもりだった。この屋敷が今夜は空き家であることを知っているはずですから──俺たちと同じことを考えて、家探しに来てもおかしくはありませんね」
ツィオルキンが鏡箱の短剣を掴み、素早く背後へ投げつける。扉の影にいた何者かが、全身を覆う亜麻の布を壁に縫いとめられて悲鳴をあげた。
短剣にコブラの猛毒が仕込んであることは、ふたりで確認したから間違いない。容赦なく殺すつもりの投擲だ。ツィオルキンの表情は変わらないが、これは相当怒っている。
腰を抜かしている黒い塊に近寄って、覗きこむ。その顔を知っていた。
「ゲベルク様じゃないですか。こんなカビくさいところまで、よくお越しになられましたね」
ソロモンはまばたきをして、醜い肉塊に跪いた。ゲベルクは、セトに仕える養育係だ。拷問の専門家でもある。アクナムカノン王の時代に閉鎖されていた拷問施設が、内乱の騒動のうちに再開されたときから、地下囚人棟の管理を任されている。
ゲベルクは、家探しにきたというよりも、ソロモンとツィオルキンのあとをつけてきただけのように見える。この男の主人セトは、冷酷な策謀家の顔をしていながら、意外と直情型だ。ファラオの絶大な権力を手にし、白き龍の力を得てからは、その性質はとくに顕著になった。
最近のセトは、ゲベルクを遠ざけている。強い牙を得て、大きな獣の喉笛を仰ぎ見る必要がなくなってしまえば、こざかしいはかりごとが鼻につくようになったらしい。
属国から貢物として贈られながら、飽きられて持て余され、いつしか行方が知れなくなる異国の王女たちと似た扱いだ。ただ、この神経が通っているかも疑わしい肉塊に、そこに甘んじているようなしおらしさはない。
──呪われた白肌のくせに六神官候補に見いだされたツィオルキンを、セトのお気に入りの座から引きずり下ろしたい。
──ツィオルキンの義兄ソロモンが、なにやら良からぬことを企んでいるらしい。怪しい外国人は、セトのために殺さなければ。ツィオルキンにソロモンを殺させて、セトに愛想をつかされるように仕向けよう。
──邪魔なツィオルキンを放逐し、危険なソロモンを消す。ついでに長を殺されたイスラエルが、星の民と相打ちになって消えてくれればありがたい。生意気にも力をつけはじめた属国を滅ぼし、それでいてエジプトは他人顔でいられる。
肉塊の思考は単純だ。植物とそれほど変わらない。
「セト様に目をかけられてるうちの弟が邪魔だからって、いくらなんでも惨いことをされる。セト様は高潔な方だ。相手の肌の色がどうであれ、見苦しいはかりごとをお許しにならない。よかれと思ってやったんでしょうけど、今回のゲベルク様の立ちまわりを知られたら、さて、どうなるか──」
「ソロモン、先王の腰ぎんちゃくだったおまえが、一端の王の物言いをするようになったではないか」
ゲベルクの、たるんだ瞼の奥に隠れた小さな目に、侮蔑が宿っている。
「今でこそ王の顔をしているが、その身に刻みこまれたエジプトへの忠義の証は消せんぞ。呪われた白肌が、主人にどのような無様な媚び方をしたのかを忘れたとは言わせぬ。……宦官め」
指先が、こわばる。ソロモンの肩の後ろから、ものすごい勢いで白い腕が伸びてきた。ゲベルクの、あるのかないのかもわからない首を掴みあげ、ホルス神と睡蓮が描かれた壁に叩きつける。
ツィオルキン。無言だ。闇の中ですらわかるほどに、憤怒をあらわした表情。刃物の目をしている。彼の国とエジプトを隔てる、多くの船団を呑みこんできた魔の海のように、激情に揺れている。
ゲベルクは呼吸器から笛の音を鳴らしながら、醜悪な顔面にいびつな笑いを浮かべている。逆恨みをしているツィオルキンの動揺が気に入ったようだ。
「若造が……セ、セト様に、少しばかり目をかけられているからと、いい気になるではないぞ」
「ソロモン兄さんに、いったい何をした?」
「知らぬなら、教えてやろう。お、おまえの兄は……エジプトの王女を下賜されるほどの忠臣と噂されてはいるが、所詮はただの犬。飼い主の守護役を、言いつけられたにすぎぬ……」
「ゲベルク様」
ソロモンは短くたしなめた。ゲベルクは泡を吹きながらも、語るのをやめない。
ツィオルキンの腕の力が強くなるほど、勝利者の愉悦に酔い、あざける声が大きくなる。いったい何と戦っている気なのかは知らないが、そろそろ止めた方がいい。ツィオルキンがこの男を殺しそうだ。
「この王を名乗る犬は。き、清らかな王女を決して穢さぬよう、家畜に使うものと同じ刃で去勢されたのだ。こやつは、宦官、股ぐらの、毛も生えぬほどの醜い傷跡が、エジプトの奴隷の証よ。そこの美しい顔が、男の機能を破壊されて、激痛に歪むところを……お、弟のおまえにも、見せてやりたかった──」
肉塊の鳴き声が途切れた。小柄だが、はち切れそうに肥った体が、完全に浮きあがる。片腕でゲベルクを吊り下げたツィオルキンの横顔が、凪ぎすぎていた。
完全にキレている。
「やめろ、ツィオルキン。キミが怒ることじゃない」
ソロモンは、いまにもゲベルクを握りつぶしそうな弟の腕をとった。こわばった指を、一本ずつほどいていく。解放されたゲベルクが床に尻もちをつき、今更ながら長い悲鳴をあげた。
「貴様たちエジプト人は、ソロモン兄さんをどれだけ辱めれば気が済むんだ」
目を血走らせたツィオルキンの喉から、大型の獣が威嚇するときのうなり声が零れた。ゲベルクは、ツィオルキンを口汚く罵りながら後ずさり、距離をとっていく。
「こ、この私にしたことは、全部セト様に知らせてやるぞ。呪われた白肌どもめ!」
背中を向けて、わめきながら逃げていく。
「おかしな方だな。すべてを知られると困るのは、ご自身だろうに」
国家間の争いの火種を振りまくような者が下僕だとしたら、ソロモンならばその場で殺す。
「もう悪さはできないし、放っておこう。それよりも、この屋敷に長居するのはまずい」
夜明けが近い。朝が来れば、王宮の兵士がなだれこんでくる。鉢合わせをすると厄介だ。
「はやく戻ろう、ツィオルキン」
闇のなかで立ち尽くす、ツィオルキンの手をとった。弟は無表情で、ともすれば突然泣き出しそうにも見える。腕を引いてやると、おとなしくついてくる。
「……ソロモン兄さんは、アテン姉さんのことが、本当に好きなんですね」
ソロモンは頷いた。今更なにを言っているんだよ、と沈黙に含ませて。
老神官の邸宅を出たソロモンとツィオルキンのもとに、神官見習いの女が息をきらせて駆けてくる。
アテンの輿入りの際に、イスラエル国へついてきた侍女のひとりだ。仄白い月の下でさえ、顔色が蒼白だとわかった。
「お、王。ソロモン王。奥方が、姫様が……」
引きつった呼吸音が弱くなって、声がすぼんでいく。
「──自害……されました……」
時間が、停まったように感じた。
三体の幻魔がざわめいている。
それは、この瞬間、この国のどこかで蠢いた千年宝物が見せた、凶事のはじまりを示す妖しい輝きに呼応してのことだったが、ソロモンには知るはずもないことだった──。
闇が、動き始めた。
【39 ■■■と十代】
【キャラクターシートを確認しますか?】
>はい / いいえ
【新たに開示された情報を確認しますか?】
>はい / いいえ
*
モーターとコンプレッサーが奏でる不協和音が、腹の底まで響いてくる。雪に埋もれた閉園中の海馬ランドの一角、〈バーチャルワールド〉のバックステージで、遊城十代は複写品のように瓜二つの男と、テーブルを隔てて対峙していた。
ああそうだ──十代はふと我に返った。ゲームをしていたのだった。
鉄骨とワイヤーと配管が複雑に絡みあった壁中に、乾いた黒い塊がいくつも吊り下げられている。ホラーアトラクションの添え物として用意されたアニマトロニクスにも見えるが、それらは元々は人の形をした生物だった。
ホムンクルス。かつて、欠損した遊城十代の肉の器として創られながら、武藤遊戯に救いの手を差し伸べられなかった、何の意味もない出来損ないたちだ。本物の資格を得られなかった十代もどきたちは、死骸かと思えば、よく見ると微妙に蠕動している。
生きながら、闇のゲームの舞台装置の供給源になっているらしい。魂がなければ、どのみち死体と同じだ。
遥か過去に興り、栄えて、滅亡した古代世界が、テーブルに広げられた一冊の本の上に創りあげられている。ページを通して一面の砂の世界が見えた。旅の途中に通り過ぎた、滅びた文明の遺跡の街並みが、時間を巻き戻したような生きた姿で、赤い砂漠の上を蛇行するナイルの大河にしがみついていた。
人の皮と血で装丁された〈千年魔導書写本〉の闇の力と、海馬コーポレーションの科学技術が融合し、インクがわりに使われた血に宿る記憶が、仮想現実として再現されている。
何者かの記憶の再現映像に映りこむ人々は、生前の面影そのままで、チェスゲームの駒の自覚はなさそうだ。
【キャラクターシートを確認しますか?】
>はい / いいえ
闇の錬金術を記した写本に封印されていた、誰かの思念が騒がしい。十代は子どものころに、『それ』に触ったことがあった。魔導書を読み解き、とある死者の人生を追体験した。
思い出の底に沈めて忘却し、なかったことにしていたが、いま再び古い本に染みこんだ血文字を読み返せば、正体が知れた。十代が〈遊城十代〉ではなかった過去に、覇王だった者の邪心の残滓だ。
死者の恨み言にすぎない。人の心を喰らう怪物と化した今世の自分にとっては、単なる食餌以上の意味はない。
──キャラクターシートを確認。
十代がプレイヤーとして操るソロモン王は、今から約三千年前の古代世界を生きた人物だ。神の寵愛を受けた古代イスラエルの統治者でありながら、七十二柱の悪魔を従えた最強の錬金術師としても、歴史に名を残している。
幼少期をエジプトの人質として過ごし、長じて忠実なファラオの臣下となった。時の支配者アクナムカノン王の娘を降嫁されるほどの信頼を受けていた。国家に最大の繁栄をもたらしながら、晩年の神への裏切りと民への圧制が、古代イスラエル滅亡のきっかけになったともされる。
バックステージを這う臓物のような配管が、錬金術の技によって半ばから黄金に変質し、千年魔導書の上に二本の腕を垂らして揺れていた。黄金の天秤の真ん中には、毛色が抜けて真っ白になったハネクリボーが鎖で縛りつけられて、心配そうな顔でゲームの行く末を見守っていた。
天秤の左右で、ふたつの真っ黒な心臓が吊りあっている。左側は遊城十代の心臓で、対峙する相手のものよりもいくらか傾いていた。
「なかなか真に迫った王の演技ができるもんだぜ。共に闘う仲間に見捨てられ、大切な者を失い、邪心に流されるまま多くの人々を傷つけた孤独な王。異世界の支配者、覇王十代」
「やめてください」
十代はうめいた。
「誰になじられたっていい。ただ貴方にだけは、そんなふうに呼ばれたくない。……アテムさん」
それが大邪神ゾークに融け、三千年の時をかけて腐敗し、無念の闇から抜けだそうともがいていたこのゲームマスターの、本当の名前だ。とある島に打ち捨てられた肉の器に宿ったアテムの欠片は、十代と同じ顔に、憐れみにも似た静かな表情を浮かべている。
「ある意味では、同じ過ちを犯したお前こそが、オレの半身なのかもしれない。お前の心は、自分のことのようによくわかる。超融合のカードを使ってひとりになる選択をしながら、諦めきれずに、自分と同じ運命を持った者を探して旅を続けている。ふたりなら、まだましかもしれない──だが、どのみち世界は、闇の支配者をふたりも必要としていない。疫病神はひとりで充分だ」
「そんなことはない。あなたは、みんなを助けるヒーローじゃないですか。疫病神なんかじゃない。オレ達は、孤独なんかじゃない。この力を正しく使えば……」
「お前か、オレか。異物はふたりも赦されない。ゲームを続けるぜ」
アテムの声は冷たい。暗くて虚ろな、墓所の響き方をしている。
【40 名もなき者(4)】
時のファラオは戦で命を落とした。戻らなかった遺体は、戦士の最期はそうであるように、二目と見られぬほどに壊れていたに違いない。
先王を失ってから、第一王女アテンは心を病んでしまっていた。今夜も礼拝堂から覗く花畑に佇んで、砂漠を眺めていた。砂の海の彼方にあるエジプトの、死の国とされるナイルの対岸か。それとも、まだ亡骸が砂に埋もれたままの戦場跡をか。この人は、死をばかり見ている。
女と見まごう薄い肩に、ソロモンはショールを羽織らせた。
「お身体を冷やしますよ。アテン姉さん」
「かまわないよ。あの子は、冷たくなる身体ももうないんだ。いつもボクだけが、安全な場所でのうのうと暮らしている。こんなみっともない恰好をして、誰かのお情けで生きてきたんだ……」
王女の瞳は、大切なものが欠け落ちた人間特有の、空虚なふたつの穴だ。ソロモンの亡き母が、同じ眼をしていた。
「ボクは、■■■とは違う」
アテンは、正気に返ったほんの一瞬だけ、他の誰も意味を理解できない言葉で弟の名前を紡ぐ。ソロモンは、女そのもののやわらかい手を取った。
「名前を呼んで差しあげてください。あの方の名を憶えていられるのも、口にできるのも、あなただけです」
「キミは、強いね」
「あの方が望まれましたから」
「その強さに……弟の信頼を得て、神と対になる悪魔を授けられたキミに、ボクは、嫉妬してるのかもしれない。どうして優しくしてくれるの。■■■に似てるからかな。弟と同じ血が流れているから?」
アテンは心の底から不思議そうに、少女の仕草で首をかしげている。
「あなただからですよ。オレは──」
愛しているなんて言えない。道化の顔で微笑んでごまかした。アテンは女の敏さで、ソロモンの喉につかえているたくさんの言葉が、全部わかっているようだった。
「ごめん。キミの前でだけは、■■■みたいな良い兄さんでいたいのにな……」
アテンの表情が、笑みのように弛緩していく。一瞬の正気の光が、今夜も薄くなっていく。
ソロモン王の寵愛を一心に受ける異教徒の王女の存在は、イスラエルの民衆の不安を、日に日に高まらせている──。
*
──イスラエル王国、エルサレム神殿。月のない夜に、高い石の壁に囲まれた方形の神殿の回廊を、正気を失ったアテン王女がさまよっている。
透けるように薄い亜麻布のチュニックの裾を揺らしながら、王宮兵士の厳重な警護の間を、透明な精霊のようにすり抜けていく。遠くから女官の声が呼んでいる。沈黙の魔術師の二つ名を持つ高位の神官でさえ、アテンの姿を補足できずにいる。
潜在的な魔力の差が大きすぎるのだ。アテンは類稀な魔力を生まれ持っていた。まっとうな魔術の教育を受けていたら、どれほどの魔術師になっただろうと、女官たちはよく嘆いた。
だからこそアテンは、答えにたどりついてしまった。
魔術師として腕を磨いて王の隣にあったなら、弟のアテムは、今もまだ生きていたかもしれない。双子の兄弟を殺したのは、誇りを捨て、戦う力から逃げ、平和を愛する姫として、花ばかり見て生きてきた兄のアテンではないか。
王の血を持つものがそれを思い知るとき、狂うには十分な理由になった。
〈アテム〉。死んだ弟の名前は忘れ去られ、亡骸は乾いた砂に呑みこまれていった。夜ごとに砂の海の底から、呼び声が響いてくる。
──半身よ。オレの身が、千々に砕かれてしまった。千年錘の欠片を集めてくれ。兄弟の肉体を取り戻してくれ。砂漠の下は、暗くて寒い。
弟の苦悶の声が、エルサレム神殿の最奥へとアテンを導いていく。今夜は城内にソロモン王の姿がない。狂人の彷徨を止められる者はいない。
神殿の至聖所は、香で満たされていた。中心に設けられた宝座に、金で覆われた木棺が安置されている。四隅に脚があり、二本の棒が取りつけられていて、上部に対の天使の像が飾られたそれは、〈聖櫃〉と呼ばれている。神より賜りし金の壺、アロンの杖、十戒の石板が封じられた、イスラエルの民の至宝だ。
その神と人の契約の箱に、アテンは無造作に手をかけた。
箱のなかに、言い伝えのものはなにも入っていなかった。砕けた黄金の破片と、真新しい一冊の本が収められている。それが不完全な千年錘と、エジプト王家に古来から伝わる千年魔道書の写本であることが、狂ったアテンにわかったかどうか。
アテンの心のなかに、何者かの囁きが音もなく吹きこまれる。千年宝物は、所有者の願いをひとつだけ聞き入れるというのだ。
するとアテンは、操られるように自らの喉を短刀で突いた。犠牲の血が迸り、魔道書のかすれた文字を塗りつぶす。古ぼけた本が金色に輝き始めた。
*
夜の死から蘇った太陽が、朝の輝きを地上へ投げかけてくる。エジプト、テーベ王宮の王の間には、すでに六神官の姿が揃っている。玉座の上のセトは、奇妙な既視感を覚えていた。
かつて、ファラオの領域に、一匹の鼠が入りこんできたことがある。精霊獣を宿した盗賊王バクラの襲撃が、先代の王権崩壊のはじまりの合図だった。あの日、肌に感じた邪悪な気配が、今またセトの元へと近づいてくる。六神官たちの視線が、未来視の千年宝物を預かるマナに集まった。
「六神官マナ。千年首飾りは反応せぬのか」
「それが、井戸のなかを覗いているみたいに真っ暗で、さっきから何も見えないんです」
「落ちこぼれの役立たずめ」
「だったら、あんたがなんとかしなよ」
苛立ちをぶつけてくる同輩の神官に、マナは舌を出して応えた。
「構えよ」
セトの命とともに、六神官たちが千年宝物を掲げる。
ファラオとエジプトの繁栄への讃歌が、隙間なく刻みこまれた壁が崩れ落ちた。空いた大穴から、目視できるほどに濃い瘴気が流れこんできて、武装した王宮兵士たちの生命力を吸い取っていく。
「恐れるな。ファラオをお守りするのだ!」
千年錠を操る六神官が、しもべの魔物〈ガレストゴラス〉を召喚した。赤い火トカゲが、凶暴な咆哮をあげる。
不気味な瘴気の奔流に乗って、塔門ほどもある大きな顎が、列柱をへし折りながら伸びてきた。侵入者を待ち構えていた〈ガレストゴラス〉が、柱のような牙に喉笛を噛み切られて、あっけなく塵となってしまった。
しもべの死の深すぎる反動が、召喚者の魂を削り取っていく。あとに残ったのは、命を吸われきって干からびた、神官の亡骸だけだ。
「牙を剥くか、田舎者」
エジプト王セトの玉座に、この国を守護する〈神〉に酷似した魔物が向かいあっている。
三幻魔の一柱、〈神炎皇ウリア〉。
隣国イスラエルの王に、エジプトへの忠誠の証として下賜された〈神〉の影だ。主に大いなる力を与えながら、持つものを必ず不幸にするという呪いがかけられているという。
幻魔の主が、かつて王宮に忍びこんだ赤衣の盗賊王のように、数百のエジプト兵士を意に介さず、しもべの切り開いた道を歩んでくる。
──イスラエル国のソロモン王。
エジプト人たちは、神の化身たるファラオの王宮で魔物を連れ歩く異国人を、呆然と見ている。ソロモン王がエジプトを裏切ったのだとは、一瞬のあいだ誰も思わなかった。
ソロモンはエジプト人に殴られ、蹴られ、罵声と唾を浴びせかけられながらも道化であり続けた。恐るべき富と権力を手に入れても、驕ることなくエジプトを崇拝し続けた。羊の王と侮られたその男に牙があったのだと、その場にいた者は今更知った。
「いったい何のつもりか、ソロモン王」
六神官のひとりが、幻魔〈ウリア〉に睨まれながらも、精一杯の虚勢を張って問いかけた。ソロモンは応えず、子どもが大人になるまでかぶり続けた臣下の仮面をかなぐり捨てて、セトをやぶにらみの目で射た。
「セト様。ならびに、そのしもべの六神官たち。その手にある千年宝物を、もらい受けに来たぜ」
裏切り者の隣国の王のファラオに対する無礼に、六神官が黙っていない。各々が千年宝物の魔力を開放した。敵は神にも匹敵する幻魔だ。身に馴染まない魔物では相手にならないと悟り、魂に宿した精霊を召喚する。人間世界へ肉の身をもって現出した六体の精霊が、エジプトを守るはずの〈神〉の半身に挑みかかっていく。
しかし、秀でた魔術の才能を持ってはいても、一介の魔術師にすぎない。常ならば、選ばれしファラオのみが使役できるとされる〈神〉の影に、かなうはずもなかった。
〈幻魔〉に立ち向かった六神官たちは、その魂の似姿を一撃で粉砕された。
再建され、また破壊された王宮の床に、エジプトの守護者である六神官が伏している。闘いの巻き添えになった者は原形を留めない躯となり、王の間を血で穢していた。王宮兵士たちは、先の戦争で刻みつけられた魔物への恐怖心から凍りつき、すでに戦意を喪失している。
ソロモン王は、相手がエジプト人なら、何をされてもされるがままの奴隷だった。それがひとたび牙をむけば、最高位の神官でさえ足元にも及ばない。羊、犬と侮ってきた隣国イスラエルの男たちは、幼い者から年老いた者まですべからく、対峙した敵をことごとく殲滅し、それが異国人でも血を分けた親兄弟でも構わずに殺しきってきた。
血だまりのなかに一人で立つ、女のような優しい顔をした男が、血の犠牲を好む、恐ろしい戦士の民の長なのだと、エジプト人たちはようやく思い出した。
「よそ者め。田舎者め──なぜ今更歯向かうのだ、気でも狂ったか?」
死にかけた六神官が、血を吐きながらソロモンを罵った。ソロモンはその額に短刀を投げつけて黙らせてから、身につけている千年宝物を取りあげていく。
「あんた……いったいどういうつもり。なんで、あたしたちを裏切ったの」
千年首飾りを奪われたマナの瞳には、まだ困惑が混ざっている。
「人質と対等のつもりだったか? 力で抑えつけていたものは、たがが外れるとばらばらになってしまう。そう教えてくださったのは、他ならない先王だ」
しもべの守護を失ったセトが、ファラオの玉座から立ちあがった。冷ややかな青い目が、挑みかかる若い視線と交わる。
「やはり盗賊か」
「好きに呼んでくれ。セト様はエジプトの王になった。でもオレの王じゃない。あなたに頭は下げないよ」
「羽虫のごとき盗人が。我がエジプトの前に立ちふさがるなら、完膚なきまでに叩き潰すまで」
ファラオが自ら、黄金のディアディアンクを展開する。
──決闘だ。
【41 名もなき者(5)】
決闘だ。
ソロモンにとって、セトとの対峙は、幼いころになすすべもなく嬲られて以来になる。初めてエジプトの地を踏んで、痛みとともに敗北の屈辱を植えつけられた日と、同じ光景が再現されている。
「貴様は無力な子どものころより、あのバクラと同じ、小狡そうな盗賊の眼をしていた」
「外国人など、エジプト人にとっては、みな盗賊でしょう」
セトが語る盗賊王バクラという男を、ソロモン自身の目で見たことはない。エジプトの王権に崩壊をもたらしたというその男は、貴人の血など一滴も流れない、盗人の村の出だという。
盗賊一匹が、王をひとり滅ぼした。
バクラよりもはるかに背負うものが大きいはずのソロモンは、口惜しい思いとともに、己の正義のために与えられた力を使えたその男が、うらやましいとさえ感じている。力がなければ、誰も守れない。この弱肉強食の世界で、揺るぎない真実は力だけだ。
犬のように生きて、自分を飼殺してしまわないように、振りかざす先を間違えてはならない。召喚した〈神炎皇ウリア〉を仰いだ。
天空の竜王と呼ばれる三幻神の一柱、〈オシリスの天空竜〉と瓜二つの姿をしている。しかし、炎をくすぶらせている口蓋を開けば、歯列の奥に卑しい影の正体が覗く。
神の皮をかぶった〈ウリア〉の本当の顔は青白く、ナイルの岸辺に干された肉食魚に似ている。入れ子になった牙の内側に、死を強く連想させる青い色の舌が覗く。人とこうもりの特徴を混ぜあわせた形の腕に、天幕のように薄い翼がぶら下がっている。
〈オシリスの天空竜〉とのわずかな差異の積み重なりが、〈ウリア〉が〈神〉のまがいものだという事実を浮き彫りにする。人の闇を開放するとされる幻魔を、セトがつまらなさそうに一瞥する。
「羊の王よ。貴様が幼い日より蔑み憎悪していた父の罪を、そのままなぞるのはどんな気分だ?」
ソロモンの父ダビデは、忠実な部下ウリアを激戦区へ送り、死ぬように仕向けた。そしてウリアの妻バテシバを手に入れた。ソロモンもまた、戦へ赴く名もなき先王を、死ぬとわかっていて見送り、長いあいだ憧れていた先王の婚約者アテンを手に入れた。
夫となるはずだった者の死を境に狂ってしまった妻の姿は、ソロモンが怯え続けてきた、いびつな家族の姿の再現だ。神に見放された父と同じ過ちを犯すのが恐ろしかったからこそ、異国人に王女を穢させまいとする、エジプトの神官の仕打ちを受け入れられたのだろう。性器を切り取られる激痛にすら、すこしだけ感謝をしている。
セトが、ディアディアンクに魔力を注いだ。神を殺すとさえ謳われる最上級の竜の精霊、青い目を持つ〈白き龍〉が現れる。先王から王権を奪い、自身の父親を殺した力の象徴の〈白き龍〉は、ファラオとなったセトの守護神だ。
磨き抜かれた剣に似て、どこに触れても切り裂かれそうなのに、不思議と優しく女性的な姿かたちをしている。蛇腹の体躯が、装飾品の擦れあうような音を立てて、優雅に身をくねらせる。人の皮膚に浮かぶ血管を思わせる、無数の筋が浮いた翼を広げた。
龍の顎が開いた。帯電している青白い光の吐息が、一直線に〈ウリア〉へ伸びてきた。ソロモンのしもべが、体内で燃えさかる地獄の炎で応戦する。
エジプト王宮を守る〈神〉を模した魔物が、ファラオに牙をむいている。ファラオを守るのは、〈神〉に選ばれた先代に反逆した、エジプトに災いを呼ぶ白い体躯と青い眼を持った竜。
皮肉な激突だ。二体の力は互角。さすが、神をも超えると豪語するだけのことはある精霊だ。
「力でオレに歯向かうか、犬め」
「あなたに教えられたことだ」
「戯言を」
しもべの強さが拮抗すれば、ソロモンは分が悪い。ソロモンは、〈ディアディアンク〉の力で、魔物〈ウリア〉を自我のない人形に仕立てあげて操っている。セトは、魂に竜の精霊を宿している。精霊と魔物の在り方の差は、主としもべの魂の結びつきの強さに繋がる。
〈ウリア〉は、〈白き龍〉の攻撃をかろうじて逸らし、滅びの疾風の直撃を免れた。歪んだ光の吐息が列柱を破壊する。白龍が雷光をおさめた。尾を曲げて、崩落してくる天井から主のセトを守っている。
「ソロモン、あんた、なんでだよ。頑固者のバカなりに、うまくやってきてたじゃない」
ソロモンとセトの決闘に取り残されていたマナが、死にかけているとは信じられないくらいに大きな罵声をあげた。
「これじゃ昔と同じだ。力ばかりじゃ意味ないってこと、これからエジプトでたくさん学ぶって言ったじゃない──」
「アテン様が自害された」
ソロモンは、感情の削げ落ちた声で吐き捨てた。マナが息を呑む音が、やけに大きく響いた。
「うそだ。姫は……そんな怖いことができる人じゃない……」
「黙れ。本当の王の名前を見失ったオレたちのような不忠者に、あの方を語る資格なんかない。兄さんでないファラオなんか何の意味もない。姉さんを捨てたエジプトに、仕える価値などひとつもない。おまえたちが持つ千年宝物の、願いを叶える力。せめてオレの大切な兄弟のために、なんとしても使わせてもらう」
「バカ。いつもそうやって、ひとりで勝手に突っ走るんだ。ひと言くらい、相談しなよ……!」
力ない声でマナがうめいた。セトは、軽蔑の表情を隠しもしない。
「貴様如きハイエナが、盗賊の民の王が、エジプトに何の関わりもない外国人が……偉大なる王の血筋の眠りを妨げるだと。我がエジプトが施した教育の賜物かと、他の王子なら思うだろう。だが、ソロモンよ。貴様はそのような殊勝な男ではない。本当の目的はなんだ」
「あなたに教える必要があるかよ。政敵が冥界から戻ってくるのを、黙って見ちゃいないだろう」
「貴様はどうやら、オレを余程冷酷な男と思っているらしい」
「違うのか?」
一瞬、不自然な沈黙が落ちた。
「ふん。違いない」
セトが腕をかざすと、〈白き龍〉が再び頭をもたげた。二度目の攻撃が来る。〈ウリア〉に迎撃命令を下した。
神に匹敵する存在がぶつかりあって生まれる、途方もない衝撃。これほど大きな力の制御を行ったのは初めてだ。ディアディアンクが軋んだ。いやな音がする。腕輪から生えた、翼を模した黄金板に、罅が入った。亀裂が稲妻の形を描いて、召喚器を侵食していく。
蝋では魔物を制御できないと、幼い頃セトがソロモンに言った。黄金でも駄目だ。人の世にある金属では、人知を超えた最高位の魔物を御しえないと思い知る。
ソロモンのディアディアンクが、甲高い音を立てて砕け散った。
〈白き龍〉の攻撃こそ相殺したが、場に荒れ狂う、膨大な量の魔力の波の衝撃をもろに被ることになる。足が浮き、背中からパピルス石柱に叩きつけられた。
一瞬のあいだ、気を失っていた。我に返ると、しもべとして使役していた〈神炎皇ウリア〉が、口の中に炎をたたえてソロモンを見ている。
〈ウリア〉に施した戒めが、解けている。制御を外れた〈神の影〉は、自らの意思を取り戻している。背筋が冷たくなった。強い呪縛がなければ、幻魔は主に牙を剥く。視界の外で、セトが未熟な術師を嘲る声がした。
「貴様の義父の話は聞いている。身の程知らずを後悔し、報いを受けよ。父と同じ罪を犯した盗賊よ。〈神〉の影は、子どもの玩具ではない」
〈ウリア〉の牙のあいだに、犠牲の怒りの炎がふくれあがっていくさまを、ソロモンはなすすべなく見あげていた。
──ここまでなのか。
エジプトの地へ来て、何ひとつ変わることができないまま、生まれた日から背負ってきた呪いに押しつぶされてしまうのか。先王と王女に受けた恩を、ひとつも返せないまま終わるのか。
〈神〉のなりそこないの赤い蛇が、攻撃行動に移った。巨躯を素早く転回させ、仇の息子を背に回すと、セトに地獄の炎を吐きつけた。
「なにっ!」
セトが瞠目する。心など残っていないはずの人形が、身を挺してソロモンを守っている。すぐさま〈白き龍〉が反応した。翼を広げて主人を覆い、燃えさかる敵意から遠ざける。
ソロモンは〈ウリア〉の青白い死人の顔を、信じられない気持ちで見あげた。
「なぜだ、オレはおまえを殺した男の息子だぞ。おまえを裏切った女の息子だ。ふたりへ向けたおまえの憎しみすら利用した敵を、なぜ殺さない?」
魔物の意思を強固に縛りあげたのは、その本当の心に恨まれていると知っていたからだ。だが〈神炎皇ウリア〉は、自ら望んで、盗まれた妻と同じ顔をしたソロモンとともに闘ってくれている。
自らを犠牲にして愛する者を守るために戦う息子を、盗人の父親とは違う戦士だと思ったのか。それとも、信じた王にすべてを奪われ、恨みながらも、なおイスラエルへの忠義を捨てきれないのか。
〈ウリア〉はすでに人の言葉を話すこともできないから、どちらかはわからない。ただ、ソロモンを主人だと認めている。
〈ウリア〉が細長い体を〈白き龍〉に巻きつけ、こうもりの爪で青い眼を抉った。敵のすべらかな体皮に、〈神〉に見立てた偽の牙を突き立て、口内にたくわえた恐ろしく高温の炎で溶かしていく。
〈白き龍〉が長い首を巡らせて、〈ウリア〉の顎の裏側の肉を噛みちぎった。灼熱の体液が噴き出し、硫黄臭い水蒸気があたりを覆っていく。二体の怪物は、どちらもぼろぼろだ。このままでは同士討ちになる。
「もういい。下がれ〈ウリア〉」
ソロモンは叫んだ。
「戻れ、〈白き龍〉よ」
セトの低い声が、蒸気で白くけぶった王の間に響いた。自分の手のひらすら霞むほどに見通しが悪い。ソロモンは、僅かな魔力の残留を辿って六神官の亡骸を探り出し、死体からディアディアンクを盗んで腕にはめた。
「蛮族。オレのしもべに、傷をつけた罪は重いぞ」
ファラオのむき出しの怒りが、ソロモンへ向けられる。エジプト人なら震えあがっただろうが、あいにくとソロモンは、セトの怒りを買うことには慣れている。
強い魔力の流れが生まれた。王宮の石床がまっぷたつに割れて、場に漂う血生臭い霧が、深い亀裂の奥へと吸いこまれていく。地の底から、巨大な青い壁がせりあがってきた。
間近で見あげると全容が見えないが、人に似た形をしている。
〈オベリスクの巨神兵〉。
王宮の巨神と呼ばれる、エジプト王宮を守護する〈三幻神〉の一柱だ。
〈神〉の存在こそが何よりもファラオの証となるのだと、かつてソロモンは、シモンに聞かされたことがある。
「〈神〉の名を継承し、その力を操ることができるのは、選ばれしファラオだけだ。セト様は、兄さんが呼んだ〈オベリスク〉の名前を盗み聞きしただけ。あの方から玉座も〈神〉も盗んだあなたこそ、立派な盗賊の王じゃないか」
「黙れ、駄犬」
セトが珍しく頭に血をのぼらせている。存外真面目な人間だ。名もなき王の落とし物を必死に拾い集めている姿を、誰かに指摘されるとむきになる。この男のなかでは、まだ先王との決着がついていないのだ。
ソロモンもまた、次なる魔物を召喚した。〈オベリスク〉の足元に落ちた影が起きあがり、実体を得る。
〈幻魔皇ラビエル〉。〈オベリスクの巨神兵〉の対となる、第二の幻魔だ。
青き巨神が二体、蜃気楼に浮かんだ幻のような似姿をぶつけあった。人に似た拳を交えるたびに、脆い人間たちを切り刻む疾風が、なかば崩壊した王の間に吹きすさぶ。
〈幻魔皇ラビエル〉は、ディアディアンクによって制御された魔物だ。セトにとっての〈オベリスク〉も条件は同じになる。今度は宿した魔力の差が、勝敗を決める。
セトが、ディアディアンクに更なる魔力を注いだ。一年前に内戦が終結して以来、実戦から遠ざかっていたにしても、この先達の凶悪な魔力にまともに相対できるのは、亡き先王くらいだ。
「お涙頂戴の寸劇は、二度はない。卑しき影を踏みつぶせ、〈オベリスク〉」
〈オベリスク〉が〈ラビエル〉を押し負かすのは、時間の問題だ。
ソロモンは神と影の決闘をよそに、葦の笛に息を吹きこんだ。今さら楽師の真似事をする異国人の姿に、セトの目が怪訝そうにすがまる。
魔力を孕んだ暴風がなにもかもを巻きあげ、人や瓦礫が飛び交うなかを、笛の音に導かれた小さな毛玉が、射かけられた一本の矢のように突き進んでいった。
精霊〈ハネクリボー〉が、黒い目をとがらせてセトに体当たりをした。
セトの首にかかっていた不完全な千年錐を奪うと、反射的に伸ばされた腕をすり抜けて、主のソロモンの元へ戻ってくる。
「でかした、〈ハネクリボー〉。なかなかの手癖の悪さだ。盗賊の相棒にはふさわしいな」
『クリー!』
ソロモンはセトから奪い返した千年錘の欠片を首にかけ、〈ハネクリボー〉と握り拳を軽く突きあわせた。
「〈クリボー〉を呼ぶ笛だと。こざかしい仔犬め。また妙な発明を──」
何度もクリボー族に煮え湯を飲まされてきたセトの憤怒の顔を尻目に、ソロモンはさっさと逃げ出した。〈ラビエル〉はおとりだ。元より、セトとまともに決闘をしている暇はない。
もう一度、〈クリボーを呼ぶ笛〉を吹き鳴らす。王家を護る〈クリボー〉の精霊が、王宮のあちこちで無数に増殖し、追ってきたエジプト兵士の行く手をはばんでくれた。
「下がっていろ。精霊使いは、雑魚では相手にならん」
セトが兵士を下げているあいだに、ソロモンは王宮の城壁を飛び降り、第三の幻魔〈降雷皇ハモン〉を召喚した。
太陽の翼を持つ鷹の〈影〉が、エジプト兵士がおんぼろの盾で作った阻塞を雷で吹き飛ばす。日干し煉瓦の民家を巻き上げながら城下町を過ぎ、砂漠の彼方へと飛翔していった。
【42 名もなき者(6)】
三幻魔の一柱〈降雷皇ハモン〉が、赤い砂の海の上を滑るように飛行していく。肉の削げた鳥の翼の付け根にしがみつき、ソロモンは地上で待つ女魔術師のもとへ思念を飛ばした。
『千年宝物の奪取に成功した。ただし、派手にやったから、あとで間違いなくこじれるだろう』
『覚悟の上でしょう』
表向きにはイスラエルのソロモン王の妻とされている女が、戦場に慣れた目で言った。
かつては使役する精霊と同じ〈沈黙の魔術師〉の名で呼ばれていたが、今は異国人の王に仕えるハレムの女の立場だ。エジプトの次期六神官の資格を捨ててまで、アテン王女に付き従った忠臣だった。
『エジプト相手に戦ができるだけの兵力は整えたが、できればことを構えたくないな。死人を見るのは、もう飽きた』
背後から、セトの魔力の気配が迫ってきた。〈白き龍〉の傷は、どこかで弱き魔物を喰らってきたか、すでに癒えている。
ソロモンは自国の領土を戦地にはしたくない。しかし、迎撃している時間もない。
地上から、セトを乗せた〈白き龍〉に向かって、魔術の一撃が放たれた。
赤い砂の丘の影に、〈沈黙の魔術師〉と〈沈黙の剣士〉の姿がある。涼やかな思念が、ソロモンに飛んでくる。
『こちらは任せなさい。あなたは、一刻も早くあのお方の元へ』
『わかった』
短く答えて、先を急ぐ。
一羽の白い鳩が飛んできた。しばらくの間〈ハモン〉に並んで飛行し、ソロモンの頭上に差し掛かった途端に、別の存在に入れ替わる。
マナだった。〈魔術の冠〉を使って、〈ハモン〉の上に転移してきたのだ。ソロモンは、砂色の肌をした女に剣を向けた。マナは、見習い魔術師時代にマハードから散々絞られたときと同じしおらしい顔で、手をあげて降参の仕草をした。
「セト様ご自慢の六神官が、なにをしに来たんだ?」
「誤解しないでよ。邪魔しにきたんじゃない。止めにきたんでもないよ。セト様は、まあよくやってるとは思う。立派な神官になれたのも嬉しい。けど、あたしの本当の仕事は、王子と姫をお守りすることだ。そこ間違えちゃいけないって、いつのまにか忘れてたのも、それをあんたに教えられたのも悔しい」
マナが腰に手を当てて、ソロモンの顔を睨みつけてきた。
「あんた、王子と姫のかわりに死ぬつもりでしょ」
「べつに、犠牲になるつもりはない」
「そう言う人から死んでいくんだ。王子と姫は、バカな弟が勝手にいなくなるなんて絶対に許さないから、あんたがおふたりを悲しませそうなことしたら、あたし、ぶってでも止めるよ」
「勝手にしてくれ」
「そこは、お願いしますでしょ」
〈ハモン〉は輿を乗せたらくだとは比べ物にならない速さで、イスラエル王城を目指して飛んでいく。変わり映えのしない、死の砂漠の景色が続く。暇をもてあましたマナが話しかけてきた。
「あんたさ、姫だけじゃなくて、ハレムの女の人たち全員をお嫁さんにもらうとか、いくらなんでも無茶苦茶すぎない?」
アテンの輿入れの際に、ソロモンは、ハレムの女たちをひとり残らず妻としてイスラエル国に迎え入れた。エジプトを去るアテンの侍女たちを捨ておけば、セトに放り出されて路頭に迷う未来は見えている。主の忠臣たちへの、イスラエル国における最高の身分保障を約束した。
「沈黙のあの人までついてったのは、予想外だったけど。あんたのこと毛嫌いしてたじゃない」
「それだけ姉さんのお傍で仕えたかったんだろう。あの人はオレのことなんて、道端の石ころ程度にしか思っていないよ」
「それであんたは、姫とどこまで進んだの?」
こんなときに、いちばん聞かれたくないことを尋ねてくる。この女はやはり苦手だと再確認しながら、顔を背けた。マナは堪えずに、早口でぐいぐいと迫ってくる。
「あんた姫に一目惚れしてたじゃない。お姉さんのことが、ずっと好きだったんだ。お嫁さんにもらっちゃってどこまでなにしたのか、王子には最後の審判のときでも内緒にしといてあげるから、あたしにだけは言っちゃいなよ」
「なにもしてないよ。ただ……」
「ただ?」
「……手を、握ったかな」
「嘘でしょ。あたしでも毎日やってたようなことじゃない。あんたもしかして、ついてないの? ……ほんとに、ちょんぎっちゃったの!?」
そばできんきんした声で叫ぶから、渋い顔で耳を塞いだ。ソロモンに、そういう種類のしもべがいることを最初に教えたのは、マナだった。
*
イスラエル王国、エルサレム神殿の至聖所に安置されたアテンの遺体に、マナが目をうるませてとりすがった。
「姫。どうして? こんなにすぐにあとを追いかけていったら、王子やお師匠サマがびっくりしちゃいますよ」
「マナ。時間がない。姉さんの遺体の腐敗が進まないうちに、魂を呼び戻す」
ハレムの女魔術師たちが、死者の魂をこの場に留めておいてくれた。目には見えないけれど、アテンはまだ近くにいるはずだ。セトから奪い返した〈千年錘〉を、死んだ姉の細い首にかけた。
この黄金の欠片の中には、名もなき王の魂が封じ込められている。
ソロモンが、狂ってしまったアテンを置いて、セトを王にいただくエジプトへ向かったのは、〈千年錘〉に封印された先王の魂を取り戻すためだった。
エジプトの旧き錬金術の書には、異なる魂をひとつの肉体へ宿す方法が記されていた。半分に欠けて生まれてきた双子の魂がひとつの肉体に戻れば、完全な人間となる。
狂ってしまったアテンの肉体の中に、〈千年錘〉に封じられた弟の魂を解き放って宿す。そうすれば、片割れを取り戻した姉は正気に戻るはずだ。
まだアテンの遺体は綺麗だ。魂も綻んではいない。大丈夫だ。
ハレムの女たちが、横たわるアテンの遺体を隔てて、ソロモンと向かいあっていた。エジプトの正当なる王の血のためならば、犬の妻になっても構わないと考える、アテンの忠実なしもべたち。
「ソロモン王。我々の主を、必ずお守りするのです」
ソロモンは頷いた。アテンの胸の上に置いた不完全な千年錘に、薄い緑色の宝石をかざす。
〈賢者の石-サバティエル〉。エジプトより盗み出した魔術の秘儀によって生まれた、闇の錬金術の結晶だ。持ち主の願いに反応して、三度の奇跡を起こすことができる。
強大な力は、相応の対価を必要とする。百の盗賊の魂を犠牲にして〈千年宝物〉が生まれた。百の戦士の魂を犠牲にして〈三幻魔〉が生まれた。類稀な力を宿す百の魔術師の魂を犠牲にすれば、人の命を蘇らせることなど造作もない。
無限の力を宿した宝石は、求める力につりあう犠牲を求める。百の女魔術師たちが、黄金の光に融けて消えていった。マナは言葉を失っている。
侍女たちの命と引き換えに、ひとつの魂が呼び戻される。
アテンの、紫色の瞳が開いた。
*
イスラエル王国の市街地へ向かって、砂漠から赤い砂の濁流が押し寄せてくる。砂嵐を切り裂いて、白い龍が降ってきた。
精霊を従えたエジプトの現王が、単身隣国に侵攻してきた。現実を信じられないまま、エルサレム神殿を護る兵士が応戦するが、人の力が束になってかかっても、神殺しの〈白き龍〉を操るセトは止まらない。
「どけえい!」
白龍が放った光が、神殿に張り巡らされた高い壁を吹き飛ばす。セトが、エルサレム神殿の最奥にある至聖所に踏み入った。
神聖な小部屋に、常に焚きこめられているはずの香のにおいがしない。日の光の一筋もささない空間に、金属の擦れあう音が不気味に響いている。血の匂いが漂っていた。扉の近くに倒れている者たちの姿を認めて、セトの目つきが険しくなる。
盗人のソロモンと、神官マナ。なぜ六神官の女がここにいるのかはわからないが、ふたりともが深い傷を負っている。
至聖所の中央に安置された〈聖櫃〉が開いている。黄金の棺の前に、先王の双子の兄アテンがいた。狂人の柔らかい手は、迷いもなく、砕かれた千年錘の欠片を組み立てていく。
「それは触れてはならぬものです。あなたの弟君は、そんなところにはいない」
「■■■はいるよ。ここに」
アテンは人に理解できない言葉で先王の名を呼び、ほぼ完成形に近づいた千年錘を、セトに向かって掲げた。
先王の兄アテンは、誕生の際に泣き声が小さかったというだけの理由で、死産と偽られてハレムに隠されたという。生まれて十数年間を女として過ごし、戦を知らず、理想を語りながら生きてきた。誇りを捨てた敗北者であるはずのアテンが、戦士の目でセトを見ている。
「キミたちは■■■の名前を忘れて、何食わぬ顔で新しい歴史を作ろうとしている。ボクは、あの子をなかったことにしようとするキミたちを赦さない」
セトは黙している。心を許したアテンに不意をつかれて殺されかけたソロモンは、血だまりのなかから震え声をあげた。
「姉さん。どうしちゃったんですか」
「女の子みたいに呼ぶのはやめて。強い戦士のキミは、ボクを嗤っていたろう」
「そんなこと……」
「ごまかしは無駄だよ」
アテンの頭上に、一冊の本が踊るように浮かびあがった。ソロモンがエジプトから盗んだ闇の錬金術の奥義を記した、〈千年魔導書写本〉だ。パピルス紙の上に犠牲の血で刻まれた文字が、黄金色に輝きはじめる。
文字の放つ光に呼応して、ソロモンの瞳に、燃えあがる金の輪が現れた。さながら奴隷の焼き印のようだ。激しい痛みに、ソロモンは絶叫した。
闇が、入ってくる。
魂を囚われ、名前を剥ぎ取られていく。存在を作り変えられていく。
「その闇をかかえているうちは、存在は不滅。転生を繰り返し、世に災いを振りまくものになる。絆が深いものであるほどいいんだ。これで、ソロモンくん、ゾークはキミに続いた」
ソロモンの記憶を、何千年もかけて魔道書に蓄積され続けた、エジプト王家の邪悪な念が塗りつぶしていく。
──悪を倒すためなら、悪にでもなれ。この弱肉強食の世界では、力こそが正義。
──父を母を憎み、呪われた出生の己を憎み、エジプトを憎み故国を憎み、世界すべての破滅を願う者こそ、大邪神を継ぐ者にふさわしい。
──次代のゾークとして、古代世界を滅ぼす駒となれ。
「これでゾークが続いた。……アテムが続いた。あの子が」
ソロモンは闇を慈しむアテンの姿を見て、アテンが己のことなどどうでもよかったのだと、気がついてしまった。本当はアテンは、ソロモンを『弟』だなどと、一度も思ったことがなかった。アテンのなかには、名もなき先王しかいなかった。
アテンはソロモンの剣を拾いあげ、肩の荷が降りたとばかりに微笑んだ。見たことのない、冷たい笑みだった。
「ありがとう。これでキミもまた名もなき王になる。その命を燃やし、弟の道しるべになってほしい。せめてボクは、キミのかわりに人の王としての責務を果たすよ」
アテンの指が、瞳の装飾をされた黄金片の最後のひとかけらを〈千年錘〉にはめ込んだ。エジプトの王の証とされる千年宝物が、完成する。
──千年宝物は、主の望みをひとつ叶える。
主を得た不思議な黄金は、所有者の心にそう語りかけた。
「それなら……最後にひとつ、意地悪をしてしまおうかな」
アテンは、眼窩から溶けた黄金と血の混じった液体を零すソロモンの瞳を覗きこんだ。
「この金の目に、世界の終わりを見せよ」
願いは、呪いだ。ソロモンは、眼球を焼く痛みに苦しみながら、アテンの姿を探した。何も見えない。溶岩のように熱い涙が流れていく。
──なぜです姉さん、あなたが、なぜオレたちを見限られたのか。
アテンは、なにも聞かせてはくれない。胸の内を教えてはくれない。
「アテン様。オレは……あなたのことが──」
「ばかな子」
アテンは微笑んでいる。
「茶番はもういい。ソロモン──人としてのキミの名は、ボクがもらう。これからのキミは、名もなきただの力の具現さ。大邪神ゾークを継ぎ、世界を滅ぼす闇の覇王だ」
余裕に満ちていたアテンの口元が、ふいに震え、ゆがみ、噛みしめられる。喉からしぼりだされる声は、嘲りの表情とは裏腹に苦悶に満ちている。
「……この金の目に、世界の終わりを見せよ。ただし、何者にもなれぬこの王が、これより先に死に、生まれ変わり、十度の転生を繰り返した先で……世界は、終わるんだ」
アテンは己の願いを歪めたとたんに、千年錘を床に叩きつけた。
組み上げられ元の姿を取り戻した千年宝物が、再び砕けて飛び散っていく。アテンは、宝物の中央にはめ込まれていたウジャト眼の細工を素早く掴み、一息に呑みこんだ。
「これで、この身体があるうちは、外に出て来られないだろう」
アテンは目に見えない何者かに向かって、毅然と告げた。瞳には正気の光が宿っている。
「ソロモンくん。この場で動けるのはキミだけだ。今すぐに、ボクを殺してくれ」
一度死を迎えた魂は、二度と現世には戻れない。アテンの躯のなかに入っているのは、誰とも知れない別の存在だ。それを意志の力で抑えつけて、アテンは厳しい声で囁いた。
ソロモンの身体は動かない。死してなお片割れを求めてさまよう人格を、蘇生の錬金術の犠牲となった侍女たちの魂を利用して、一時だけ魔力でつなぎとめているだけだとしても──ソロモンはこの人を、なにを犠牲にしても蘇らせると決めた。
自らの手で二度殺すことなど、できるはずがない。
闇が、アテンの最期の意志を侵食していく。紫水晶色の瞳が、再び冷たい色に染まっていった。
「残念だったね。時間切れだ」
憐れむような囁き声を、ソロモンは絶望のなかで聞いていた。
轟音とともに、至聖所の天井が崩れた。白銀の竜が、真昼の流れ星となって、天空から落下してくる。
〈閃光竜〉を従えたツィオルキンが、アテンがひるんだ一瞬の隙に、竜の背から飛び降りてソロモンに駆け寄ってきた。
意識が闇に呑まれていくなかで、全身が浮く感覚を覚えている。
*
砂嵐のなかを、名もなき王となった■■■■と、ツィオルキンが進んでいく。■■■■は、ぼろのマントでツィオルキンを覆って、叩きつけてくる砂粒から守ってやっていた。
「いつか兄が、こうして守ってくれたんだ」
茫洋と、■■■■はつぶやいた。
「あの方たちのようにはいかないな。すまない」
「いいえ、兄さん」
ツィオルキンは■■■■が身にまとう死臭から、野の獣の鋭さですべて悟ったようだった。
──力が欲しい。
いつしか、口の中で、何度も繰り返している。
「力を、もっと強くならなければ。王の力があれば……」
果てなき砂漠は、死者たちのゆりかごだ。無数の魂が嘆き泣き叫ぶ風の中を、うわ言をこぼしながら、■■■■は歩いていく。
【43 闇のTRPG】
【ゲームを再開しますか?】
はい / >いいえ
心臓に雷が落ちたような痛みと痺れがはしって、十代は我に返った。
古代世界を模したテーブルの上で、闇のテーブルトーク・ロールプレイングゲームのシナリオが進行していく。舞台は、三千年前に地中海沿岸部に存在した、古代王国の大神殿だ。
プレイヤーキャラクター〈ソロモン王〉は、臣下の礼をとった名もなきファラオと、妻となったファラオの娘アテンの死を受け入れることができなかった。闇の錬金術を用いて死者蘇生の儀式を行うが、蘇ったものは敬愛するファラオの兄弟ではなく、邪悪な闇の神ゾークの分身だった。
すべては、ゾークの策略だったのだ。
大邪神ゾークは、時を停めて腐敗から遠ざけていたアテンの遺体を乗っ取り、儀式の対価としてソロモンの魂を得る。闇に囚われたソロモンは、次代の魔の統制者を生みだす素材と成り果ててしまった。
イスラエル王ソロモンに成り代わったゾークは、内にアテムの魂を内包したまま、空っぽのアテンの亡骸を操って、エジプトとの全面戦争に突入する。
「そこからあとは、歴史の波が登場人物を呑みこんで、消化して進んでいった。オレたちの知ったことじゃない」
不完全な目覚めを迎えてから、三千年間、形も持たずに現世をさまよってきた邪神の一部が、テーブルの上の駒をひとつ動かした。NPC〈ゾーク・アテム〉の選んだ行動は、ソロモンの抹消だ。プレイヤーである十代が操る駒の破壊が、ゲームの勝利条件となる。
勝った者が、現世で生きる不死身の肉の身を得る。命なき至聖三者か、遊城十代か。
武藤遊戯ならどちらを選ぶだろうと考えて、詮無いことだと思いなおす。アテムを自らの手で冥界に送り、自らを殺人者と呼ぶあの人に、二度と選ばせてはならない。
「本当のアテムさんは、心から信頼する仲間たちを、光のなかから見守っているんでしょう。でも、あなたには現世への未練がある。こんな形で、この世にいるべき人じゃないのに」
腐った肉に囚われて、現世に縛りつけられ、仲間たちが死んだあとも、永遠の孤独を抱いて走り続けていく。それを地獄と、真崎杏子は呼んだ。
ゾークの破片であり、アテムの残りかすであるこの男が剣を置くには、真の〈アテム〉が歩んだ道筋を辿っていくしかない。迷える戦士の魂は、剣を取りあげられなければ進めないのだ。闇が闇としての役目を終えるには、人の魂と魂の対決ではかなわない。まがいもののアテムを送る役目は、遊戯のまがいものでなければ果たせない。
〈ゾーク・アテム〉を殺すのは、遊城十代の役割だ。
NPC〈アテン〉を殺せず、敗北につながる選択肢を選んでしまった十代の心臓の重さが増した。天秤が傾いていく。ハネクリボーが甲高い声で叫んだ。慌てた様子で天秤に身体を押しつけているが、意味がない。
「諦めちまうのか。遊戯の姿をしたものに気兼ねして、ゲームをやめちまうなんて……おまえ、本当に決闘者かよ」
「ゲームを続けてください、アテムさん」
十代は、嘲る〈ゾーク・アテム〉を、まっすぐの目で射る。たしかに甘い選択だった。十代のミスだ。だが、まだ負けていない。
「オレは、とんでもない人でなしです。選ばなきゃいけないときが来たとして、仲間の手を離さないでいる勇気がない。友達も、両親も、いちばん大切なものを守るためなら、ためらいなく死なせてしまう」
十代は一度、勝つために仲間を犠牲にした。二度目はないとどうして言えるだろう。
人でなくなった身を友と呼んでくれた、大好きな仲間たちの存在に、何度も助けられてきた。その友人たちが天秤にかけられたときに、十代は『みんな』を見捨ててひとつの重りを選ぶことができてしまう。
十代を命がけで守ってくれたヨハンを救う為なら、囚われたほかの仲間を犠牲にしてしまえたときのように、いちばん大切な願いの為に、ほかの何かを切り捨ててしまうことができる。
十代の手の中に残されたカードは、名を奪われて闇の一部となった〈ソロモン王〉と、星竜王の子〈ツィオルキン〉の二枚だ。
自軍の〈ツィオルキン〉のカードへ、〈名もなき王■■■■〉のカードを使って会話を試みる。
*
【ゲームを再開しますか?】
>はい / いいえ
ぼろきれのマントで、弟のツィオルキンを砂から守りながら、ソロモンだった者は、砂嵐のなかを進んでいく。
「あのさ、ツィオルキン。いつかキミは、相手の皮を剥いで心臓をくりぬくことが、キミの国の最大級の親愛の証だって言っていたな」
「こんなときにどうしたんです。兄さん」
ツィオルキンが、怪訝そうに青い目をすがめる。■■■■は静かにその手を取った。
「キミにオレの皮を託そう。心臓と血もぜんぶやるよ。オレの血と肉で装丁しなおした〈千年魔導書〉の写本を、三体の〈魔〉とともに海の果てに封印するんだ。キミが、オレを今でも兄と思ってくれるなら。頼む」
「兄さんの望みのままに」
ツィオルキンが頷いた。
*
十代は、自軍のカード〈ツィオルキン〉に、〈千年魔導書写本〉の材料を自らの血肉に置き換えるように命令した。いま、テーブルの上で黄金の輝きを放っている千年魔導書の写しは、史実ではセトの血肉によって装丁されていた。
〈ツィオルキン〉の行動により、〈千年魔導書写本〉の素材が、プレイヤーであるソロモン自身に置き換えられる。闇のゲームがさらに歴史から乖離していく。
「これで〈千年魔導書写本〉は、オレ自身の血肉の塊となった。自分の一部なら、思い通りに動かせるはず」
「おまえを誰よりも愛している『弟』を利用するのか?」
「オレは悪魔ですから。大切な弟を利用して、尊敬するあなたを殺すくらいのことはやります」
闇のゲームの魔力の源となっている〈千年魔導書写本〉を制御下に置いた十代は、〈次代ゾーク〉へと進化した分身の特殊能力を発動させる。
〈記憶の巻き戻し〉を行う。
時間を逆行する先は、ソロモンがエルサレム神殿の至聖所で、〈アテン〉の遺体と融合した〈ゾーク・アテム〉と対面する場面だ──。
*
「ソロモンくん。この場で動けるのはキミだけだ。今すぐに、ボクを殺してくれ」
自身の死んだ体の奥にいるものを意志の力で抑えつけて、アテンは厳しい声で囁いた。次の瞬間、ソロモンの護身用の短剣がアテンの胸を貫いた。腐敗を遠ざけるために、魔術で時間を停めていたアテンの肉体は、粘土を刺したような感触だった。
「アテン姉さんが殺せというのなら、仰せのとおりにします」
弟のツィオルキンの国では、これが相手への最高の敬意の表し方なのだそうだ。アテンの、赤く染まってとても美しい唇が動いた。声はかすれて聞こえなかったけれど、ソロモンは息を呑んだ。
──自分を、民を守れるくらいに、必ず強くなれよ。
アテンの腕が、誰よりも強い戦士だった父たちのような力強さで、ソロモンの背中を押した。
〈閃光竜〉が降り落ちてきた。竜の背から降りてきたツィオルキンが、ソロモンの手を掴みあげてくれる。ふたりを乗せた星屑の竜は流星の閃撃を放ち、回廊を砕きながら瓦礫の嵐のなかを羽ばたいていき、崩壊するエルサレム神殿を脱出した。
*
これは、史実ではない。
崩れゆくエルサレム神殿に取り残された、〈ゾーク〉の残りかすにすぎないその男は、忌々しげに顔を歪めた。思い通りに動かない左手を、ソロモンが残した剣で刺す。
肉体が腐って風化すれば、呑みこまれた黄金片を取り出し、魂の大部分が封じられたままの〈千年錘〉は再び形を取り戻す。ただ、生きながら朽ちていくのは、気分の良いものではない。
「弟は、ボクが守る」
同じ声帯から、別の人物の声が漏れる。〈ゾーク・■■■〉は、かすかに身じろいだ。
「ボクたちのさ……。わかるだろ。キミには聞こえているはずだよ、兄弟。ボクたちの弟なんだよ」
「黙れ。くそっ」
「もし、本当に願いがひとつ叶うのなら。ボクも、あの子に憧れてもらえるような、キミみたいに立派な兄さんになりたかったな──」
〈ゾーク・■■■〉が、自らの腐りかけた心臓を剣で刺し貫くと、ようやく声は止んだ。
「死にぞこないが、つまらないはったりをかましやがって」
いったい何に動揺したのかもわからないまま、〈ゾーク・■■■〉は原形を留めていないセトの死体を蹴り、しぶとく息のあったマナにとどめをさした。
闇に洗脳されたイスラエル兵士たちが、〈ゾーク・アテム〉を〈ソロモン王〉と呼び、敬い、跪いた。
この時より大邪神の分身は、恐怖によって民を支配し、古代イスラエル王国に滅亡の種を撒いたのちに、闇のなかへ還っていった。
すべての分身と同期する記憶を夢に見ながら、果てしない未来に目を覚ますその時まで──。
*
これは、史実ではない。
いにしえの世界を闇に染めた、とある邪神の記憶をもとに作りだされた、架空の物語だ。
ゲームが終わったテーブルの上で、サイコロが割れていた。〈千年魔導書写本〉の、紙と見まごうほどに薄くなめされた人の皮でできたページが、風もないのに次々とめくれていく。血文字が空気に触れたところから腐食し、塵へと変わっていった。
黄金の秤に乗った皿の上の心臓を、ハネクリボーが呑みこんだ。色が抜けていた毛が、いつもの、十代の髪色そっくりの色に染まっていく。
アテムでありゾークでもあったその男は、闇のゲームに敗れた代償を支払って、肉体が急速に干からびてしぼみ、三千年の時を経た躯のように朽ちている。乾ききったミイラになっても、まだ息をしていた。死者は二度死ねない。
十代は、硬い皮膚をまとった骨の人形の前に跪いて、頭を垂れた。
「遊戯さんは、本物のあなたを冥界に送り届けると決意した。今度はあの人のまがいもののオレが、贋物のあなたをお送りします」
「おまえをここに置いていくのは、じつに心配だ」
ミイラのかすれ声が、呆れていた。
「いっしょに来るか」
「嬉しいけどまだ駄目です。あなたもオレもいなくなったら、誰が遊戯さんを守るんです」
泥を啜って生き延びるのは、十代の仕事だ。ミイラが頷いた。骨の手が、十代のツートン・カラーの髪の境目に触れた。頬を撫でてくれる手は、世界の滅びを願う邪悪な神の一部とは信じられないくらいに優しい。
「力の責任を持つおまえは、誰より強くなければならない。他の奴には手助けができない。だが、あいつもオレも、オレじゃないおまえを信じている」
「はい」
「身体をいとえよ、十代」
「……おやすみなさい。アテム兄さん」
十代が魔物の爪が生えた腕で触れたところから、乾いた躯は灰色の砂に変わっていった。虚しい砂の塊は、記憶が生んだ幻影のなかで嗅いだ、三千年前の砂漠と同じにおいがした。
【
(9)にもどる
・
目次にもどる
・
(11)へつづく
】