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アテムとソロモン(9)
【33 星の使者】
アンデスの、霧深い高地に築かれたトゥーラの都をたってから、少年は旅の途中でいくつか歳を重ねた。
熱帯雨林と魔の海を超え、一面の赤い砂に覆われた大陸の果てに辿りついた少年は、大地を南北に切り裂く緑の大河に浮かぶ船上から、蜃気楼のように現れる王城を見た。
あれこそが、世界の中心と謳われるエジプトの都だ。
街を過ぎる間に見かけたエジプト人は、砂漠の砂と同じ色の肌をしていて、ほとんど裸のような姿で暮らしている。黄や黒の肌色をした外国人を見ることはあったが、少年のような白い肌をしている者はひとりもいない。
この砂の国には、悪い蛇の神様がいるそうだ。遠い星すら飲みこむくらいに大きな蛇で、そいつは死んでも生き返り、気の遠くなるような昔から太陽の化身と闘い続けているらしい。少年が生まれ育ったアンデスの山々に伝わる神話の蛇の名を、エジプトの人々は知らない。
少年の名は、ツィオルキン。星の民の長、第二百六十代のイリアステル星護主、星竜王オメテオトルの四人の息子のひとりとして生まれた。
兄はテスカトリポカといって、乱暴者で周囲との衝突も多かったが、尊敬に足る人物だった。ただ弟のツィオルキンへは、取るに足らない小さなものへ向ける態度をとり、一度も振り向いてはくれなかった。
兄の背中は大きくて、うしろにできる影のなかへ、ツィオルキンの身体が隠れてしまうくらいだった。だから本当は怖ろしかったし、兄のほうでもそれを知っていて弟を軽んじていた。
祝祭のプルケ酒に毒を盛った罪を着せられ、都を追われるはめになったツィオルキンは、すべてが兄の策謀だったのではないかと考えていた。天空の神殿に祀られた、赤き竜の姿をした火の神〈ケツァルコアトル〉に選ばれた弟のことが邪魔になったのではないかと。
*
日に焼けた船乗りが、ツィオルキン少年が身を隠していた麻袋をひっくりかえした。
「神官様の船に密航たぁ、命知らずな野郎だな」
大きな帆の下に転がり出たツィオルキンを、屈強な男たちが取り囲んだ。エジプトにはない白い肌を認めると、ためらいなく櫂を振りあげる。
「待ちなさい。あなたがたの王は、民が幼い子どもに乱暴することをお許しにならない」
ツィオルキンとそう変わらない年頃の男が声をあげた。日よけの布と、異国ふうのゆったりした白い衣装で頭からつま先までを覆い隠していて、素顔はうかがえない。船乗りたちが、渋い顔で腕を下げる。
「厄介ごとはごめんですぜ、楽師様」
「この者は僕が預かろう。面倒はかけない」
ツィオルキンは喉の奥で獣の唸り声をあげながら、楽師と呼ばれた男に飛びかかった。頭部を守って掲げられた細い腕に噛みつく。
苦笑の気配。楽師が、顔の日よけ布を取り払った。
白い肌だ。
ツィオルキンは、エジプトに足を踏み入れて初めて、自身のほかの白肌の人間を見た。異国人だ。
幼い犬歯が皮膚に食いこむ痛みに、かすかに顔を顰めたが、反撃はしてこない。
「恐れるな。竜の仔よ」
男が静かな声で言った。ぎくりとする。なぜ知っている?
ツィオルキンの動揺にかまわず、とろりとしたカカオ色の瞳がまっすぐに見つめてくる。
「星の民の一族は、誇り高き戦士と伝え聞く。目があった異国人に噛みつくのは獣の所業だ。そなたに誇りはないか?」
王と見まがう高潔さで、朗々と言いきった。
ツィオルキンには、この楽師の男こそが、船上で一番強い人間なのだと一目でわかった。ゆったりとした袖から覗く細腕は優しげで、重い荷物を持ったこともなさそうな頼りなさだが、彼からは強い精霊の力を感じる。
故郷でも、これほど澄みきった魂を宿した戦士に会ったことはない。宿した魔力を見こまれて、神官の船に乗せられた用心棒といったところか。もっとも手ごわい男を力ずくで黙らせることができれば、荒くれ者たちの手から逃げおおせるのも、そう苦労はないだろう。
「おい。俺と決闘しろよ」
「いいとも。キミからは精霊の力を感じる。それもとびきり大きなやつを宿しているな。面白い決闘ができそうだ」
楽師の男は、あっけらかんと応えた。首筋がざわつく。誇りを簡単に口にする癖に、この男にとっての決闘の価値は、セネト遊びに誘われたくらいの軽さなのだ。殺しあいの覚悟も持たず、戦士の矜持はそこにない。
苛立ちが、身に宿した精霊の形を荒々しく削りだす。
白銀の星屑をまとった竜、〈閃珖竜スターダスト〉を召喚。
船乗りたちがざわついた。神官以外の人間が精霊を操るところを見るのは、よほど珍しいのだろう。翼を震わせる白い竜を仰ぎ見て、楽師は無邪気に手を叩いて口笛を鳴らした。
「すごいな。それでは僕もキミの精霊にふさわしい魔物を呼ぼう」
楽師が呼んだしもべは──純白色の小さな毛玉だった。〈ハネクリボー〉。つぶらな黒い目で閃珖竜を見あげて、柔らかい体躯を揺すっている。
ただの子どもだと侮って、こちらを馬鹿にしている。どこまでも頭にくる男だ。
「やれ、閃珖竜。〈流星閃撃〉!」
攻撃宣言を下すと同時に、煌めく星屑をまとった竜の喉の奥で、青く燃える星の光が膨れあがる。夜空を焼く吐息が、太陽の下で吹きつけられた。
勝利を確信した次の瞬間、ツィオルキンは仰向けに倒れて青空を見あげていた。
翼を大きく成長させた〈ハネクリボー〉が、頭上をゆったりと泳いでいる。
──この魔物、進化するのか?
「ふりかざすだけの力なんて、脆いものさ。かけるべきものもない闘いで命を落とすなんて、ずいぶんつまらないと思わないか?」
閃珖竜は、強固な外殻が焼けただれた無惨な姿だ。夢から覚めるように、日輪の輝きのなかに溶けていった。
ツィオルキンは、手を差しのべた楽師に背中を向けて拒絶を示し、血の混じった唾を吐いた。口のなかを切ったようだ。
「おまえの勝ちだ。殺すなり奴隷にするなり、好きにしろ」
「その潔さは嫌いじゃない。まだ子どもなのに、大したものだ」
自分だってそう年頃は変わらないだろうに、大人ぶった口のきき方をする。楽師がツィオルキンの手首をつかんだ。手には、銀の短剣がある。
腕を切り落とされるのか──敗者に相応しい仕打ちだが、額に脂汗が浮かぶ。怖れは、故郷の戦士たちのような強靭な意志を持たない者である証明のようで、よけいにみじめになる。
光がひらめいた。楽師はツィオルキンの手を浅く切りつけ、返した刃で自分自身の利き腕の手のひらを裂いた。
傷口をあわせる形で手を重ねる。こぼれた血が混じりあい、火を流しこまれたような不思議な熱さを感じた。痛みともたぎりともつかない、名前を知らない感覚。
「これで僕たちは、同じ血をわけた兄弟になったわけだ。これからは僕のことを、兄と呼んでくれていいよ」
楽師は、本でも読み聞かせるような穏やかな口調で、突拍子もないことを言いだした。瞳は面白そうに、きらきらと光っている。
こいつ、わけがわからない。
神官所有の船の上から見たエジプトという国は、砂と緑の色だけでできている。砂色の建造物と背の高いヤシの木がまばらに並び、ナイル川の流れにへばりつくようにして生活を営む人々の姿があった。
川べりからすこし離れるだけで、土地から水のにおいは消え、その先には生物から命を吸いとる残酷な砂漠が広がっている。
楽師がツィオルキンの隣にやってきた。少し背の高い彼の身体の影に入ると、射かけられた矢のような砂漠の陽光が一瞬遮られ、ひやりと冷たい。
「数日前に、星の民の船団が盗賊に襲われて、ナイル川に沈められた。引きあげられた船は空っぽ。乗っていたはずの人や財宝の行方を追えと、神官様が僕に命じられたんだ」
ツィオルキンはふてくされていた。楽師は、はじめから全部わかっていたのだ。
「キミがそうなんだろう。えっと……」
「ツィオルキン」
「僕はソロモン。よろしく。様子を見にきたのが僕でよかったね。セト様は僕よりもずっと強いし、容赦のないお方だ。やり方がいちいちえげつない。痛みと挫折でルールを覚えさせられるのは、いやだろう?」
ツィオルキンは、得体のしれない微笑を浮かべているソロモンを睨んだ。これだけ相手をぼろぼろにしておいてよく言う。
【34 謁見】
黄金の装身具をまとった少年が、はやぶさの頭を持つ獣頭人身の神、ホルスに抱かれた玉座についている。千年宝物を携えた六人の神官を侍らせ、かたわらに老いた宰相が控えていた。
ツィオルキンは、砂色の肌をしたファラオの姿に驚きを隠せないでいた。数多の属国を統べる世界の中心、エジプトの王は、年端も行かない少年だったのだ。
「魔の海を越えて、よく参った。面をあげよ。〈ケツァルコアトル〉の名を継ぐ星の民、ツィオルキン王子」
牛の角と太陽円盤を背に、立ちあがったファラオの声が、宣託の気高さをまとって王の間に響きわたる。朝焼け色の瞳が、列柱の影に立っているソロモンに目配せをした。
「ソロモン。おまえも、よく星竜王の子を無事に連れ帰ってくれた」
神話の化身ともされる貴人が、異国人の若い楽師を優しくねぎらう。
ソロモンは、幼い子どもの仕草で口を覆って、小猿のようにくすくす笑っている。ツィオルキンと初めて出会ったときとは、呆れるくらいに態度が違いすぎた。同一人物なのかどうかすら疑いたくなる。
「同盟国の王子がエジプトで学ぶことになるって聞いちゃ、じっとしていられなくって。だって、新しい兄弟が来るってことですからね」
「そんなに嬉しいか」
「そりゃもう。オレにとって、この国で初めての弟になるんです」
さっきまでソロモンは、厳めしいヘブライ語で自分のことを『僕』と呼んでいたくせに、今は荒っぽくて砕けているが流暢なエジプト語で『オレ』なんて言っている。抑揚はファラオにそっくりだった。
「懐かしいな。おまえが来たとき、オレも兄になるのがひどく嬉しかった。頼んだぞ。良くしてやってくれ」
「はい、アテム兄さん」
猫をかぶった猿まね男は、嬉しそうに敬礼した。
ツィオルキンは、ソロモンが口を開くたびに、背筋が凍る思いがした。エジプトのファラオに向かって、何という無作法だ。王の側近たちも、苦虫を噛みつぶしたような顔をして、目つきの悪いひとりの神官に物言いたげな視線を向けている。
あの男が、ソロモンの監督者だという神官セトか。
血筋と権力に恵まれた若き知恵者といったところだろうが、愚かなうえに怖いもの知らずの子どものお守りを押しつけられた不運に同情する。ツィオルキンは、ソロモンの間抜け面を睨みつけた。
「ファラオにむかって兄などと、無礼がすぎる。いったい何様のつもりだ」
「ファラオが許してくださっているんだ。キミもオレのことを、気軽に兄弟って呼んでくれていいんだぜ」
「俺の兄は、誇り高き星竜王の息子テスカトリポカただひとりだ。断じて、ほかの者を兄と認めはしない」
ソロモンは、憤るツィオルキンを前にしても、女のように薄い唇を歪めてにやにやしている。何がおかしいんだ?
「俺の血を嗤うつもりなら許さない。おまえのように下品な道化の親は、未開の地の蛮族か、野の獣に決まっている」
ソロモンは、なぜ笑っていられるのだ。戦士が親を侮辱されたなら、相手に決闘を申しこむべきだ。そうでなければ笑いものになる。
「ツィオルキンよ」、ファラオが玉座に肘をついて、からかい混じりのくちばしを入れた。
「おまえは知らないだろうが、そいつはここへ来たばかりの頃に、親を侮辱するのは許さないとセトに噛みついたんだ。なによりオレの父アクナムカノンが、父親代わりになってやると言ったのを一蹴したんだぜ。自分の父は気高き世界王ダビデただひとりで、いくらファラオだろうが父とは呼べないとな」
「このにやけ面の男が?」
「信じられないか? ファラオの口は真実しか言わない。おまえに昔の自分を重ねて、おかしかったんだろう」
「でも、まるで道化です」
「オレの父の死からそうなった。オレや姉上を安心させようとやっているんだろうが、聡明な人間が無理をしてエジプトに笑われる道化を演じているのを見てるとつらい」
「やめてくださいよ、兄さん。オレは、こういうのが性にあってるってだけで」
ソロモンは顔を赤くして、幼い仕草で唇をとがらせている。
*
霧深い高地に生まれたツィオルキンは、エジプトほど何もかもが巨大で、完璧に創りあげられた文明国家を見たことがなかった。人が生きるのにふさわしくない過酷な環境にもかかわらず、すべてが黄金色に光り輝いていて、砂の上に浮かんだ幻のようにすら思えた。
ただ、この国の民はよそ者をあきらかに見下していて、白い肌のツィオルキンに、とんでもない田舎者を見るような目を投げかけてくる。それでも、トゥーラを追放される間際に浴びた嘲笑と失望よりは、よほどましだ。
悪意を乗せた熱風と乾いた砂よりもこたえたのは、夜空の星々が、故郷で暮らしていた頃とは様変わりしていたことだった。星の民を導く竜の星が見えない。
石板の神殿に近い日干し煉瓦の屋敷をあてがわれたツィオルキンは、いつまで経っても立ち去ろうとしない案内人にため息をついた。ソロモンが、どこかからくすねてきた香の煙にうっとりと目を細めて、楽師らしくリラを奏でている。自分の部屋でやれと言っても聞かない。
白い肌のソロモンが、エジプトの人間ではないことは一目でわかる。大陸をさまよううちにナイルに辿りついた商人か、敗戦国から連れ去られてきた奴隷というところだろうと見当をつけていたが、まさかエジプトの隣国の王子だったとは考えもつかなかった。
夜がふけると、ソロモンは椰子の葉で編んだ寝床に勝手に入りこんで、亜麻のシーツを持ちあげて手招きした。
「横で一緒に寝てくれないか、ツィオルキン。寒いんだ」
「いやだ。おまえは、眠っている間に俺が首をかききるかもしれないとは考えないのか」
「キミは誇り高い戦士なんだろう。そんなら、誰かの寝首をかくなんてしないさ」
ファラオが、この日和見な男を買いかぶっているのは間違いがないが、彼の精霊を操る力は本物だ。身を持って知っている。
悔しいが、ソロモンはツィオルキンよりも強い。
彼はなぜ、弱い者たちに媚びへつらって生きるのだろう。エジプト人には、白い肌の人間への侮りがある。ソロモンは大きな力と王に連なる者の矜持を持ちながら、戦士ですらないひ弱な外国人たちに馬鹿にされても、それを当然のこととして諦めているのか。そんな屈辱に耐えられるのか。
彼を見ていると、いらいらする。それはツィオルキン自身へ向けたいらだちだと、本当は知っている。
ソロモンは寝心地の良い椰子の葉のベッドを諦めて、星を見あげるツィオルキンの隣に座り、ふたりの身体にシーツを巻きつけた。カカオ色の瞳が、青白い彗星を映して見下ろしてくる。そこに隠されていた深い叡智を、一瞬だけ垣間見た気がした。
「エジプトに来て、初めての夜は泣きたくなった。だけどオレは、国と父王の期待を背負ってこの国の砂を踏んだ王子なんだ。そんなことはできない。ひとりでいると自分を許したくなっちまうけど、誰かがそばにいると泣けないだろ。朝になって自分の弱さに嫌気がさすよりは、邪魔な男をひとり、見張り番に置いておいたほうがよくないか」
「俺が泣いたら、ファラオに告げ口するのか」
「ああ、もちろんチクるさ。おまえの父さんにも、ばらしちゃおっかな」
「あんた、最低だ」
喉の奥を震わせて笑うソロモンの肌は、ツィオルキンと同じ色をしているのに、チリモヤの果肉のようにすべらかだ。他人と触れあうのは、久しぶりだった。幼いころ、兄について神殿に忍びこんで、供物を盗み、肩を寄せて口にしたことを思いだす。真っ赤なトゥーナの実は、とても甘かったっけ。
お節介なその男は、見張り番を買って出たくせに、ほどなく静かに寝息をたてはじめた。
*
まだ夜が明ける前の暗い時間に、ツィオルキンはソロモンに起こされた。見れば、すでに亜麻のチュニックに腰布を巻いて、身支度を完璧に整えている。
簡素なテーブルに、朝食のミルク壺とパン皿を並べながら、「お寝坊さんだな」と笑っている。とりあわないまま、冷たくなった瞼をこすった。砂漠の国の夜は寒い。
絞りたての新鮮なミルクは甘かった。聞けば、宮殿の家畜の飼育係と友人で、文字の読み書きを教えるかわりに分けてもらっているのだそうだ。この男の人脈はよくわからない。
「飯を済ませたら、出かけるから」
砂が入ったエンマー小麦の平たいパンを、ツィオルキンは顔をしかめて飲みこんだ。
王宮の朝は早い。東の空の端に太陽が姿を現わす前に、召使いたちはすでに宮殿を清め終えている。もやがかかった庭園を横切った折に、神への供物を抱えた朝の勤めの行列とすれ違った。
千年宝物を持たない、ただの神官たちだ。ソロモンがツィオルキンの腕をつかんで、回廊の端に身を寄せて道を譲った。
まるでエジプトの奴隷だ。ひざまずいて顔を伏せたソロモンに、ツィオルキンが見たくない未来の自分自身の姿が重なる。エジプトでの暮らしは、戦士から誇りを削ぎ取っていく。胸の中心で燦然と輝いている星竜王の子の矜持を、いつか失ってしまう日が来るのだろうか。
恐ろしかった。ツィオルキンは、ソロモンから顔を背けた。
列の先頭を歩いていた神官が、ふたりの外国人の姿を認めて、あからさまな侮蔑の視線を投げかけてきた。この国では、砂漠に馴染まない白い色の肌が目の敵にされている。
「ファラオにどのようなご用か。神聖な祈りの場に、異国の者が足を踏み入れてはならぬ。即刻立ち去るがいい」
足を止めた老神官は、扇で口元を隠して低い声で言った。あとに続く神官たちの悪意のこもった囁き声が、小波となって押し寄せてくる。
「おお、怖い。白い肌は災いを呼ぶ象徴。それでなくても野蛮な未開地の王子など、いつエジプトに反旗を翻すかわかりませぬ」
「──兄さんも、そう思っていらっしゃるでしょうか。粗野な属国の王子だと。田舎者だと。いつか裏切る恩知らずだと」
うなだれたソロモンが、心ともなくこぼした言葉に、猛烈な平手打ちが応えた。
老神官は、憤怒の表情で牙を向きだしている。
──白い肌のなにが悪い? 自分のほうが、猿みたいな顔をしているじゃないか。
どこの国であっても、大人が子どもに手をあげる姿は、ひどく醜い。足を踏み出しかけたツィオルキンの手首を、ソロモンが強く握った。やめろというのか。喧嘩を売ったのは相手のほうなのに。
「栄華を極めたエジプトの王を、田舎のごま粒のような小国の王子が兄だのと。鞭打ちものの発言ですぞ。ソロモン王子」
「オレが、そう呼べと言ったんだ」
感情のこもらない声が、朝もやのなかに響きわたった。神官たちがざわついている。ファラオが、列柱のひとつにもたれて、醒めた目でこちらを見ていた。
「オレの大事な弟が、なにかおまえたちの気にさわることでも言ったのか」
「エジプトのファラオが、外国人を兄弟と呼ぶなど前代未聞ですぞ。先王を悲しませるようなふるまいはお控えくだされ。ファラオとしてのわきまえをもって、ままごと遊びはほどほどにされますよう。私どもは、朝の勤めの続きがございますので、これにて」
老神官は、面倒ごとに巻きこまれては厄介だと考えたのだろう、王のご機嫌伺いもそこそこに踵を返した。
「よくしつけられていても、猿は猿。人にはなれぬ」
ソロモンと行き違い際に、呪詛をこめて低く吐き捨てる。薄青い列柱が落とす、境界のぼやけた影に包まれて、群れからはぐれた迷子の顔をした男の白い肌が、やけに浮きあがって見えた。ソロモンは、珍しく気おくれするような素振りで立ち尽くしていた。
「兄さん。……いえ、ファラオ」
「どうした。兄さんでいいさ。オレ達は兄弟のように育ったんだ。今更、変な気兼ねなんかするんじゃない」
ファラオは、仔猫を撫でるように木の実色の髪に触った。ソロモンは微笑んで、胸に手を当てて頭を垂れる。
偉ぶった神官たちが、口を出すまでもない。ファラオに向かって兄と呼びかけることに、誰よりも抵抗感を示してるのは、自らの立場を正しくわきまえているこの男なのだ。
先王の死から道化役に身をやつしているというが、ふとしたきっかけでぼろが出るところを見ていると、本質的には生真面目な男なのかもしれない。戯れが孤高のファラオの慰めになればいいと考えているのか、それとも油断を誘って、首に牙を突き立てる一瞬を待っているのか。単純に、生き延びるために必死に媚びを売っているだけか。
すこしだけソロモンに興味が湧いた。なによりも、どこの国でも神官という人種は厄介な存在なのだと再確認できたのは、大きな収穫だった。
「これから、あの方のところへ参ります。兄さんのお許しをいただこうと思って。今朝はツィオルキンもいっしょですから」
「頼んだぞ。おまえの顔を見れば、きっと喜ぶ」
ファラオが庭園に咲く睡蓮の花を手折って、ソロモンに与えた。
伏せた獣の像が一列に並ぶ参道沿いをゆきながら、ソロモンが、花を抱いた胸を押さえてため息をついた。
「キミが、神官に飛びかかっていくんじゃないかって、ひやひやした」
「あんな奴、やっつけてやればよかったんだ」
正義が軽んじられることがあってはならない。意志を曲げられない性根のせいで、故郷を追放されたのだとは、今は黙っておく。
「エジプトの民は、ファラオのものだ。ひとりたりとも傷つけるわけにはいかないさ。兄さんが悲しむ」
「その呼び方、やめてもらえないか」
──すくなくともツィオルキンの前では。
ソロモンがファラオの道楽を押しつけられているのはわかるけれど、やはり畏怖に似た悪寒で背筋がざわめく。
返事はなく、「元気がありあまってるなら、荷物を持ってくれ」とリラを押しつけられた。重い。朝から楽器なんか持って、どこへ行こうというのだ。楽師らしく誰かに演奏を聞かせにいくのか?
ソロモンに面倒をかけている身のツィオルキンは、渋々従うことにした。なにせ、他人の王宮などというものは、右も左もわからないのだ。
「これから行くところでは、くれぐれも失礼のないようにな。聖なる池で身を清めてから、ちゃんとした恰好に着替えること。そういえばキミは、着の身着のままでここへ来て、まだ服を用意してないんだっけ。オレの服を貸してやる。いいか、ほんとにおとなしくしてるんだぞ」
ソロモンが厳しい顔をして、噛んで含めるように言った。それが、奇妙に感じる。
ファラオの道化役を快く引き受けて、神官にちくちくといじめられたときにも何も言い返さないこの男が、そもそもこの国の人間たちをなんとも思っていないことが、ツィオルキンにはわかる。精霊を宿し、同じ鬱屈をエジプトに対して抱える敗北者なのだから。
*
エジプトの王宮は、いつでも薫香が漂い、どこからともなく音楽が流れてくる。
ツィオルキンは、沐浴のために設えられた溜め池に頭から叩きこまれたあと、馴染みのないにおいのする香油を塗りたくられて辟易していた。ソロモンは、生成りの亜麻布のチュニックとカト頭巾でツィオルキンの身なりを整えて、満足そうに頷いた。
スフィンクス参道と台所をすぎた先に、警備の兵士が見張りに立った小さな門が現れる。前をゆくソロモンの横顔を見あげると、薄い唇が音をあげずに動いた。
すると、やにわに兵士の身体がふらふらと揺れはじめた。いかがわしい妖術でも仕掛けたのか、日干し煉瓦の壁にもたれかかって崩れ落ちてしまう。取り落とした槍が転がっていく乾いた音が、静かな空間に響きわたった。
「エジプトの民には、傷ひとつつけないんじゃなかったのか」
「だから眠ってもらったじゃないか。さ、行こう」
何食わぬ顔をして、眠りこけた兵士をまたいでさっさと進んでいく。ツィオルキンは眉間を寄せて、渋々ソロモンに続いた。
門の奥には、過酷な熱風に晒された風土に見あわない光景が広がっていた。睡蓮が浮かぶ水路で区切られた庭園に、あらゆる土地の花々が、朝露をまとって咲き誇っている。故郷にいたころなら、乾いた砂漠で鮮やかな緑の絨毯を見かけるなんて、とても信じられなかっただろう。
ふと、ツィオルキンは鼻先をうごめかせた。知っている匂いがする。昨晩、寝室で焚かれていた香のにおいだと思い当たった。澄んだ、甘く懐かしい香り。
どこから流れてくるのだろう。
よそ見をしていたせいで、ツィオルキンは、急に立ち止まったソロモンの背中にぶつかった。
工房に面した通路の真ん中に、白いチュニックを着た女神官が立ちはだかっている。
色の抜けた長い髪に、気だるそうな目つき。ツィオルキンも見たことがある顔だ。王宮で〈沈黙の魔術師〉と呼ばれていた、高位の女神官だった。
彼女があまりソロモンをよく思っていないのは、引き結ばれた口元ですぐにわかる。エジプト人おきまりの外国人への侮蔑というよりも、単純に、うさんくさい楽師のことが好きになれないのかもしれない。
ソロモンは、女神官の悪意を平然と受け流し、懐からパピルスの包みを取りだした。あからさまな賄賂だ。女神官が、綺麗な顔を歪める。この国では珍しく、職務に忠実で、清廉潔白な人間のようだ。
「そんなもので神官を買収できると思っているのですか、恥知らず。女たちのハレムに子どもまで連れてきて、何を考えているんです」
「キミのことかな」
女神官の平手が飛んだ。袖の下を突き返されたソロモンが殴られるのは自業自得だとして、ツィオルキンは、今すぐにあらん限りの力で逃げ出したくなった。
──ハレム。ファラオの後宮。男が足を踏み入れることを禁じられた、女の園。
ソロモンは、この国で最も美しい女たちの姿を覗きにきたのか。でばがめに巻きこまれて死罪にでもなれば、ツィオルキンは故郷の家族に顔向けができない。
「このヘンタイ。女たらし」
女神官が、王宮で見かけた冷静な佇まいからは想像もつかない、理性が焼き切れる寸前といった恐ろしい顔で、ソロモンに罵声を浴びせる。
騒ぎが大きくなってきた。単調な後宮暮らしに退屈した女たちの頭が、物陰のあらゆるところから突き出してくる。いい見世物だ。
大勢の女たちに袋叩きにされる未来を覚悟したツィオルキンだったが、ソロモンの表情は純粋な期待に輝いている。シダの陰から鈴の音が聞こえたとたん、女神官の顔が怨みに歪んだ。
「汚い。騒げばあの方がお出でになると知って」
「誤解だよ」
ソロモンは言うが、確かにそれが彼の目論見だったのだろう。
喧騒に誘われて、ひとりの女が現れた。
生地が薄くなるほどに等級が吊りあがっていく亜麻布のショールは、肌が透けるほどだ。象嵌細工のハヤブサとヒエログリフをあしらった襟飾り、流行りの腕輪とアンクレット。装身具は、すべて金と宝石でできている。ひときわ尊い身分の貴人であることは、一目でわかった。
女神官と後宮の女たちが、ひざまずいて頭を垂れた。ソロモンの白い腕が、ツィオルキンの肩を抱いて、唇に指をあてる。粗相のないように、ということか。
ソロモンの犬が尻尾を振るような顔から察するに、ハレムで暮らすファラオの愛妾に横恋慕をしているらしい。ともすると、この男がエジプトにいやに忠実なのは、女がらみの理由によるものなのかもしれない。
「姉さん!」
ソロモンが、思ってもいなかった呼び方をした。顔を覆うショールをはねあげた女の顔を見て、ツィオルキンは息を呑んだ。
ファラオにうりふたつだ。
「アテン姫様だ。ファラオの双子の姉君だよ。つまり、ツィオルキンの新しい姉さんってわけだ」
「えっ」
王女の薔薇色の唇が、柔らかく弧を描いた。ファラオよりも穏やかな宵の空の色の目を、ソロモンとツィオルキンの上に交互に落とす。
「おはよう、ソロモンくん。アテムから聞いてるよ。新しい弟ができるって。キミがそうなんだね」
「はあ」
とても綺麗な人だ。思わずどぎまぎしてしまう。ソロモンに頬をつねられた。
「ちゃんとご挨拶しろ。これからきちんとしつけますんで、ご安心ください!」
「よかったね。これからはお兄さんだ」
「はい」
ソロモンは照れくさそうに首を傾けて、ファラオに授けられた白い花をアテンに渡した。彼女の耳元で、悪戯を仕掛けるようになにごとかを囁く。アテンは、鈴を鳴らすように喉の奥で笑った。女神官の機嫌が、さらに落ちこんでいく。
ソロモンがツィオルキンに目配せをした。預けられていたリラを示している。楽師の仕事をするということだろう。
まだ強くない朝の光が後宮の窓から射しこんで、踊り子を描いた装飾床の上で、楽器の弦を輝く光の線に変える。
──我が魂の愛する者よ。最も美しい者よ。どうして私は、さまよう者のように、あなたの群れのかたわらにいなければならないのですか。
穏やかな声が、異国の言葉で歌を紡ぐ。内容は男女の恋を称えたものらしく、人の心の機敏に疎いことを自覚しているツィオルキンには、さっぱり意味がわからない。
夢見がちで歯が浮く詩にはうんざりしたが、美しい音色ではあった。楽器の腕も悪くない。故国に、彼ほどの楽師はいなかったと思う。
ファラオの後宮に男は立ち入ってはならないと、厳しく定められている。官吏の目にとまれば、ただでは済まないだろうが、ハレムに閉じこめられた女たちが黙っていれば済む。彼女たち自身の手で、数少ない気晴らしを台無しにするつもりはないということか。
異国の言葉がわかる者もわからない者も、静かに目を閉じて、慰めの音色に聞き入っている。
演奏を終えると、ソロモンは苦虫を噛み潰したような顔をしている生真面目な女神官に、さっきは不発だった袖の下を無理矢理押しつけた。
包みの中身は、ツィオルキンが考えていたような金品ではない。一冊の本だった。どこかの国の錬金術師の手による、精霊にまつわる文献だ。ソロモンが、自身の国から持ってきた私物らしかった。
「もともとキミにやりたいと思っていたんだ。オレは、頭のいい子は好きでね。知恵のあるものは、知恵を磨くことが義務だ。キミにもその義務がある」
「白い蛮族が、偉そうに。まずはあなたが、マナと共に年長者への口のきき方を学ぶべきでは」
「いいじゃない。もらっておきなよ」
アテンが、神経質そうに眉をあげて皮肉を言う女神官をとりなした。ファラオが手折った白い花は、彼女の部屋のテーブルの上で、冷たい水を注がれた花瓶に生けられ、みずみずしく咲き誇っている。
昼前には、ふたりはハレムを出た。
*
ぎらつく金色の太陽が、エジプトの気候に慣れないツィオルキンを、容赦なくいたぶってくる。塔門を護るスフィンクスの群れと王の立像が一回転し、青い空が見えた。
倒れたのだと気がついたのは、白い手が伸びてきて、ヤシの木陰に運ばれてからだった。
この熱砂のなかにあって、不思議と冷たいソロモンの手が額に触れる。どこからともなく現れた冷たい水が、乾ききった唇を潤してくれる。これも魔術の力だろうか。折り重なった枯葉の山は、昨夜過ごした寝具よりも気持ちがよかった。
「いきなり連れ歩いて悪かった。外国人がエジプトの太陽に慣れるまで、けっこう時間がかかるんだって忘れてたよ。オレも、ずいぶんかかったっけ」
「こんなの平気だ」
「陰を歩いて帰ろう。屋敷に戻ったら、今日はもう休め」
ソロモンはツィオルキンを軽々と背負って、神殿に繋がる列柱廊を歩きはじめる。
それが悪かった。礼拝に訪れていた書記学校の生徒の集団が、祈りを終えて帰ろうとしているところに、正面から出くわしてしまったのだ。
「災いを呼ぶ白い肌のアムウが、なんで王宮に入りこんでるんだ?」
肌の色を見咎められ、案の定ふたりは絡まれるはめになった。
エジプトの平民は、ファラオの意向を尊重する王宮の神官たちよりも、あからさまに白い肌の人間を毛嫌いしている。加えて外国人ともなると、毒虫にも等しい存在となる。
「目ざわりだ。ここは、おまえらが入ってきていい場所じゃねえんだよ」
「駆除だ、駆除」
肩まで届くかつらをかぶった若い男が、ソロモンの腕を掴んで引っぱりあげた。
ソロモンは困った顔をして、おぶっていたツィオルキンを床のうえに下ろした。
「ツィオルキン。つらいところ悪いけど、さきに屋敷へ帰っていてくれ」
「おっと、白肌の弟もいっしょだ」
ツィオルキンとソロモンの白い肌は、夜の闇を照らして虫を集めるかがり火のように、憎悪と侮蔑で目をぎらつかせてにやにや笑うエジプト人たちを呼び寄せる。
棒をかついだ庭師や、王宮に切りだした石を届けにきた職人、年齢もまばらの痩せ細った労働者たち。一仕事を終えた足で街の酒場に向かい、昼間から強い酒でもあおろうと考えていたところに、自分たちよりもいい服を着た奴隷を見つけた──彼らにとってそれは、到底許せるものではなかったのだ。
気がつけば、まわりを取り囲まれていた。
白い肌の外国人は災いを呼ぶ。だから何をしてもかまわない。エジプトには、誰が言い出したのかも知れない、暗黙のうちの決まりごとがある。
常に身分の高い者に締めつけられ、搾り取られてばかりで、腹を減らした民たちは、魂にまでこびりついた鬱屈をぶつける相手を必要としていた。人として生まれ持ったささやかな誇りを取り落とさずにいられるのなら、はけ口にする相手の肌の色など、本当は白でも青でも一向に構わないのだろう。
尊い神々の姿を刻んだ神殿の壁の中に、粗悪な殺気が満ちていく。白い肌の人間が虐げられて殺されるのは、この国では珍しくもなんともないことなのだと、ツィオルキンは思い知った。
ふたりは、珍しい白肌が連れだって歩いているのを面白がった男たちに、城下町の広場へ引きずられてきた。
男も女も子どもも老人も、その場にいた皆で示し合わせたように罵声を投げつけてきた。石つぶてが、汚水が降り注いできた。
背中を強く突き飛ばされる。ソロモンが、ツィオルキンを壺の陰に押しこんで、悪意の石つぶてを慣れた様子で受けた。日に焼かれて亡者のように乾いた無数の手が伸びてきて、ファラオに仕える魔術師にのみ赦された、高級な亜麻布のチュニックを引き裂いていく。
ツィオルキンは息を呑んだ。目の前で、綺麗な顔には不釣合いな、みみず腫れだらけの背中があらわになる。鞭で打たれた痕。
この男は何度も何度も、数えきれないほどの私刑を甘んじて受け続けてきたのだ。常に几帳面に身なりを整えていたのは、醜い傷痕を人の目に触れさせたくなかったためか。
民衆が投げつけてくるのは、石や煉瓦だけではない。王権に抑圧された羊たちの悪意が、言葉を毒の塗られた矢じりに変える。濁った発音のエジプト語が紡いだ意味がわかるぶん、余計に堪える。
「赤子が死んだ」、「泉が枯れ果てた」。「魔物が作物を荒らした」、「親が病に苦しんでいる」、「ぜんぶ白肌の呪いだ。おまえたちが呼んだ災いだ」。「贖え」「命で詫びろ」「呪われた白肌め」、「死ね」「死ね」、「死ね」──。
これは、呪いのまじないだ。人間は、こんなにも醜くなれるのか。
故郷では、誰からも敬意と畏れをもって扱われた王の子のツィオルキンは、虐げられる者の痛みを知らなかった。だがこの国の者たちは、ツィオルキンが生きていることさえ罪だと叫ぶ。覚えのない災禍を、その責任を押しつけられる。
悪魔にでも生まれ変わったような気がする。
ソロモンは、エジプト人たちの迷信深い野卑な行ないに、言葉ひとつ返さない。彼は、ファラオの民に傷ひとつつけるわけにはいかないと言っていた。
抵抗もせずに、黙って殺されてやるつもりか。
「おまえに、戦士の誇りはないのか。いくらなんでも、こんな理不尽が赦されていいはずがない」
「オレが、エジプト人をひとり殺したとする」
ソロモンの場違いに穏やかな声が、ツィオルキンの心臓を冷ややかに撫でていく。
「そうすると、エジプトはオレの国を殺す。イスラエルが死んじまうのは、オレは困るな」
──そんなことは、ツィオルキンだってわかっている。
世界の覇者たるエジプトは、他国の王子を人質にとり、エジプトの色に染め、忠実な操り人形に作り変えようと画策している。ファラオの意志のままにふるまう、未来の傀儡の王を生みだしたがっているのだ。
星竜王の跡継ぎは、すでにいる。ツィオルキンは、死んでもしょうがないと送りだされてきた。
血の繋がるものにも、星の民たちにも、誰からも必要とされない、故国に棄てられた生贄だ。殺されるためにこの国へ来た。自身の立場なんて、誰よりもよくわかっている。
漁師が、ソロモンの頭蓋を打ち砕こうと、櫂を振り下ろした。
船着き場のあたりで、爆発するような水しぶきがあがった。悪魔的な低い笑い声に似た音が、空気を震わせる。
狂乱する人々が動きを止め、ナイル川の水面をあわだたせて近づいてくる赤い壁を目にしてざわめいた。
カバの群れが押し寄せてきた。
遠目では温和で間の抜けた姿に見えるが、タウレト女神の名で神格化されているこの獣は、恐ろしいナイルワニをも噛み殺すほどの凶暴さを持っている。エジプト国を築いた最初の王は、カバに運び去られ殺されたという逸話もあるほどだ。
なわばりの近くで騒いでいた大勢のエジプト人に向かって、赤黒い皮の巨大な獣が、葦の船を踏み砕いて憤然と突撃してきた。
見ると群れの幼獣の尻に、折れた青銅の矢が突き刺さっている。子どもを傷つけられて怒り狂った母親たちが、大きな体を振りまわすようにして、広場に集った人々を襲いはじめた。腹の底を震わせる重い咆哮が、悲鳴を押し潰す。
混乱のさなか、ソロモンがツィオルキンの手首を引いた。
「逃げるぞ、ツィオルキン」
ふたりは素早く広場を離れて、背の高い葦のやぶに飛びこんだ。
気が済むまで暴れたカバたちが、水べりに帰っていくころになると、すでに人々の姿はあたりから消えていた。ツィオルキンとソロモンは、顔を見あわせて深くため息をついた。
「よう白い肌。たいした奴隷根性だ。犬ぶりに反吐が出る」
頭の上から、すさんだ声が降ってきた。
筋骨隆々で、鋭い目つきをした砂色の肌の男が、ふたりを見下ろしている。コインでぱんぱんになった革袋を腰に下げ、肉屋からくすねてきた肉の塊にかぶりついていた。
男が息をするたびに、あきらかに盗品の装身具が、胸の上で澄んだ音を立てて踊った。私刑騒ぎで家々から人々がいなくなった隙に、まんまと空き巣に入ったというところか。
盗賊だ。まともな人種じゃない。だが、ソロモンはそう気にしていないようで、折り目正しく頭を下げた。
エジプト人には、たとえ相手が犯罪人であったとしても、傷ひとつつけてはならない。白肌には、善悪の区別をつける資格すらない。卑屈な姿に苛立ったが、さっきのような目に何度もあってきたのだと思うと、ツィオルキンにはなにも言えない。
「分をわきまえているだけです。助かりました。あの矢、あなたが射かけてくれたんですよね」
「エジプト人にお行儀よく忠誠を誓うたびに、胸んなかに楔が一本打ちこまれていくことには気づかねぇか、ぼうず」
「えっと、よくわかりませんけど」
ソロモンは、戸惑って首を傾けた。盗賊は、指輪で下品に飾りたてた指で、彼の胸の傷を叩いた。空気が動き、血の色をした外套から死臭が浮かびあがった。
「おおかた、自分の国のために、誇りなんざ棄ててエジプトに媚びへつらっているってとこだろう。大事なもんが食い尽くされたときには、覚えのある目をするようになるだろうよ。いつかおまえは、星を呑む。面白そうだから見ててやるぜ」
闇を宿した不気味な目が、細くなる。
「あの、ありがとうございました」
「いいってことよ。おまえが、おまえの役割をはたしてくれりゃな」
懐いた犬を追い散らすように、ぞんざいに腕を振る。ソロモンへ向いていた昏いまなざしが、ツィオルキンへ移った。盗賊は不快そうに鼻を鳴らした。
「侮辱を受ける同胞を、ただ眺めてるだけの臆病者なんざ、ねずみ以下だ。生きてる価値もねえ。盗賊にだって誇りはあるのによ」
──ツィオルキンは、物陰に隠れて、傷つけられるソロモンをただ呆然と見ているだけだった。
醜い顔をした群衆を前にすると、身体が動かなくなった。
握りこんだ手を開く。綺麗なものだ。傷ひとつない。ソロモンが守ってくれた。この男に戦士の誇りはないのかと、軽蔑していたソロモンが。
「えーと、名も知らないエジプトの人。オレ、あなたとどこかで会ったことが──あれ、もういない」
ソロモンが、恐怖も悲しみも映さず、くもってすらいない空っぽの瞳をあげた。盗賊は、蜃気楼のように掻き消えてしまっていた。
「精霊の加護を感じる。世界は広いな、魔術の心得がある盗賊に会ったのは、初めてだ」
ツィオルキンは、俯いたまま唇を噛みしめた。誇り高き戦士の子が、臆病を鼻で嗤われた。ツィオルキンの背中を、ソロモンが慰めるように叩いた。
「たしかにおまえは弱虫かもしれないけど、戦いに強いだけなら戦士になればいい。みんなを繋ぐ力を持て。オレたちには、それが必要だ」
「誰かに守られるだけなんて、いやだ。俺は強くなりたい。あんたなんかに助けられたくはなかった」
「嫌われたもんだ」
ソロモンは、ぼろぼろの身体を気にもとめずに、苦い顔で笑った。宿した力の一片も振るわないのに、今は見たこともないほど立派な戦士に見えた。ツィオルキンとは違う本当の戦士に。
【35 夜】
夜半過ぎ、葦の屋根を睨みつけて、ツィオルキンは何度目かもわからない寝返りをうった。採光窓から月の光が射しこんで、床を飾る不気味なタイル画を浮かびあがらせている。見知らぬ異国のにおいが、今夜はいやに気になった。
旅に出て、世界の果てまで続いていると信じていたアンデスの峰々にも、終わりがあると知った。その先に現れた見渡す限りの密林にも、一面の海にも、果てなどなかった。世界の広さを知った日の衝撃は、どこかで落っことしてきてしまったようだ。幼子のように、父や兄のところへ帰りたいとばかり願っていた。
今まで意識的に忘れていた、故郷のことばかり思い出す。生まれた国では、まわりの者は、みんなが白い肌をしていた。ツィオルキンは、自身を一人前の立派な人間だと思っていられた。
この国にいると、人の手が造りだしたなにもかもに圧倒される反面、心の脆さを思い知らされる。きらびやかな文明を築き、王権が勝ち取った平和を享受しているのに、人々はどこまで行っても自分以外の誰かを見下し、ささやかな優越感にすがって生きている。そうしなければ、自分の存在すら見失ってしまうかのように。
エジプト人は、幻のような自尊心のためなら、他人なんて笑顔で殺してしまえるのだ。
寝苦しい寝具の上に、白い手がかざされた。月明かりに照らされて、光るような肌の色が眩しい。苦い薬の実の色の瞳が、顔を覗きこんでくる。
「眠れないのか、兄弟」
ツィオルキンは、返事をせずに寝返りをうった。ソロモンと顔をあわせたい気分ではなかった。苦笑を含んだ吐息が、首筋にかかってくすぐったい。
「──僕もなんだ。すこし風に当たらないかい、ツィオルキン」
薔薇色の唇が、綺麗な発音のヘブライ語を紡ぐ。昼の間に砂嵐のように浴びせかけられた、野蛮な外国人奴隷のエジプト語でなくなると、それはどこか遠い国で生まれた立派な王子の喋り方に聞こえた。
ソロモンが厩舎から連れ出してきた馬は、何度か世話をしてくれた相手だからか、警戒もせずにふたりを背中に乗せてくれた。ただ、不思議な力を持ったソロモンなら、馬の言葉がわかるようにも思えた。
まどろんでいる街を通り抜け、月の砂漠へ突き進んでいく。うろこのような風紋が、びっしりと刻まれた砂丘を駆ける。
砂に刻まれた小さい波を風紋と呼び、大きいうねりを砂丘と呼ぶ。どちらも同じく砂の凹凸で、呼び方が違うだけだと、ソロモンが教えてくれた。砂粒は、ひと時たりともじっとしていない。空を飛び、地を転がり、風に流されていずこともなく消えていく。
昼の間じゅう、赤い砂の大地を炙っていた太陽の熱は、夜になると大気に吸いあげられて消え、あたりは恐ろしく冷えこんでいた。
いつの時代に造られたものかもわからない、古代の神殿の残骸のかたわらに、凛と立つガゼルの群れの美しいシルエットが現れた。ソロモンが馬からおりて、砂に埋もれた白い石を拾いあげた。
石の表面は、風が孕んだ小さな砂粒によって、絶えず磨かれてなめらかだ。風の吹いてくる方がへこんでいるから、方角が読み取れる。同じような景色が広がるなかで、数少ない目印となる。
砂の平原は、いつしか荒い砂利の荒野に変貌していた。エジプトを取り囲む砂漠のうちで、砂に覆われている部分は、ほんの一部分にすぎない。そのほとんどは岩と石でできていて、これから気の遠くなるような長い年月をかけて、細かい砂の粒子に変わっていく。
風化しかけた岩山の上で、馬がいななきながら足をゆるめた。岩の陰からとげねずみが顔を出し、すぐに姿を消した。
砂漠には音がない。衣擦れの音が、いやに遠くまで響く。
ツィオルキンは凍える空気を短く吸いこんだ。
天空に、星々の光がまぶされている。無数の銀色の粉が、闇を喰らうように、夜空に隙間もなく満ちている。頭上で忙しなく瞬きながら、星たちは聖なる話をしていた。
この国にも夜空はある。星がある。長い間祈りの対象だったそれらに、ツィオルキンは思わず頭を垂れていた。
「星の民は、星々とともに暮らしてたって聞く。砂漠の星を見せてやりたかったんだ。元気になってくれてよかった」
ソロモンは、不思議な感情が宿った瞳で、不毛の地の果てを指さした。先にあるのは死だけだ。砂漠は生命を拒む。砂と熱風に命を奪われたものたちは、歴史に呑まれ、石のように干乾びて、誰からも忘れ去られていく。砂に食われてしまう。
「月の昇る方角に、僕の国があるんだ。雨季がきて恵みの雨が地を潤すと、七色の花が咲いて、鳥や虫たちの声で満ちる。神に愛された美しい国だよ。でも人々は、毎日血を流して殺しあっている」
紡がれる言葉の旋律に、〈アテム〉と〈アテン〉という音が入る。彼らヘブライ人の言葉では、〈アテム〉には〈男〉という意味がある。〈アテン〉は〈女〉という意味を持つ。彼が分不相応に兄弟と呼ぶ人たちの名前は、ヘブライ語で人間そのものを表している。
「ツィオルキン。目つきの悪い星の王子様。キミは、どうしてエジプトへ来るはめになったんだい?」
ツィオルキンは、覚えのない罪を着せられて、都を追い出された顛末を語った。兄に嵌められたのかもしれないと、今でも疑っていることも。
もし今も故郷で王の子の暮らしを続けていたら、ツィオルキンは王位を狙う邪魔者と疎まれ、兄に殺されていたかもしれない。
ソロモンは、静かな微笑で応えた。彼も同じ境遇にあったのだと、あとでツィオルキンは知った。
ソロモンがエジプトへ来たのもまた、こみ入った事情があるらしかった。
「僕の父はエジプト人ではないけれど、世界で一番強いんだ」
誇らしげに胸を張る仕草を、初めて見た。ソロモンは瞳に星を映しこんで、自分の国の話をした。
現王ダビデが、バテシバという女を見初めた。王は、女の夫のウリアという臣下を、激戦区に送ってわざと死なせた。そして未亡人になった女を、何食わぬ顔をして妃とした。
ふたりの間に生まれた初子は、産声をあげる前に死んだ。
「僕の直系の兄だった。彼が命を落としたのも、母が王の罪を知って狂ってしまったのも、きっと神が父に罰を与えたんだろう」
ソロモンには腹違いの兄弟が死ぬほどいたが、いつもいがみあっていた。
たとえば、下の兄の直系の妹を、上の兄が犯して捨てた。妹は自殺した。怒った下の兄が上の兄を殺して、その勢いで父親に謀反を起こしたが、失敗して殺された。血塗られた一族が繰り広げる盗みと殺しの宮廷劇は、聞いていると頭がごちゃごちゃになる。
「セト様なら全員死罪にしてるだろうね」と、ソロモンは、なにも感じていないように肩をすくめた。流れた血の上に長く座っていると、哀しんだり、悼む想いも麻痺してしまうのだ。
イスラエルは美しいばかりの国ではなかったが、国を離れるごとに、ソロモンのなかで自分を棄てた故郷への、報われることのない愛着は増していった。
王になり損なった王子の話は、自分の物語だとツィオルキンは気がついた。ソロモンの運命は、どこまでもツィオルキンに似ている。
「ねえ、ツィオルキン。キミに兄と呼んでほしいと言ったのは、僕がファラオにその言葉をたまわったとき、とても嬉しかったからなんだ。最初は戸惑って反発もしたけれど、本当の家族とはどのようなものなのか、このエジプトで僕はあのお方に教わったんだ。──さて、つまらない話をしたな」
「いや……」
「イスラエルの次の王は、兄のアドニヤだろう。僕はエジプトで悠々自適に暮らすよ。王の血筋っていうだけで、争いの種になる。そんなのはごめんだからね」
ソロモンは、エジプトの思惑を丸ごと受け入れるつもりらしい。人懐っこく笑うくせに、ファラオがそう望めば、ためらいなくツィオルキンの首に牙を突きたてる。
ツィオルキン自身も、そうなのだ。圧倒的な軍事力と人知を超えた千年宝物の力で、苦もなく故国を踏みつぶせるエジプトの不興を買わないですむなら、ツィオルキンは迷わずにソロモンを殺せる。
今さら、星の民の総意を背負っていたのだと知った。
故国は兄のものだと信じていたし、王の座に執着はなかった。しかし今、熱砂の異国で、ツィオルキンは誰よりも王であろうとしている。たとえ目の前に一人の民もなくても、開いた両手が自分自身すら守れないくらいに弱くても、竜の星に選ばれし、誇り高き星竜王の意志を継ぐ者であろうとしている。
「ひさしぶりに同じ色の肌のものを見つけて、嬉しかった。キミと出会えたことを、神に感謝しなきゃな」
「屋敷に戻ったら、また楽器を聴かせてくれないか」
ツィオルキンは、なるだけ感情がこもらない口調でせがんだ。「いいよ」と、ソロモンがすこしだけ寂しそうに微笑む。本心は見えない。
こちらも、たとえ同じ白い肌でも、同胞ではないソロモンに本当に心を許すつもりはなかった。
あてがわれた寝室を満たした薫香が、星の民の心を癒すアンデスの聖なる木を削って焚かれたものだと知ってからも──この国では、吹けば消えてしまいそうなツィオルキンという存在を、ただひとり対等の人間だと認めてくれる男でも。
星の民のツィオルキンは、エジプトに忠誠を誓う者を、決して誰も信じない。
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(10)へつづく
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