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アテムとソロモン(8)
【27 古代(1)】
僕が父に捨てられたことを悟ったのは、ユーフラテス川が見えなくなったときだった。
エデンの園から流れ出すとされるかの河畔に、かつて隣国エジプトを統べたトトメス一世が、敵対するミタンニに武力を示すために置いた境界石を過ぎる。見渡す限りが赤い砂に埋もれている。穏やかな気候の故国とは、あまりにもかけ離れた厳しい環境だ。
砂と同じ色の肌をしたエジプトの船乗りたちは、裸に近い恰好をしている。さっきから彼らは、熱病に苦しんでいる僕を、汚い奴隷言葉で罵倒している。
「よう、軟弱者のアムウ。おまえの白い肌は、ナイルに認められてないようだ」
「このまま川の底に沈めちまおう。奴隷以下の田舎者がナイルの一部になれるんなら、上等だろうよ」
僕がファラオに謁見すれば、エジプト人であることを至上の誇りとする彼らは、〈アムウ〉と蔑む外国人に、それもかつて自国から脱走した奴隷の末裔である僕に頭を下げなくてはならなくなる。
矜持が傷ついた船乗りたちに服を剥ぎとられ、裸で船の上から投げ捨てられた。混濁した意識のなかで、濁った水に足を引きこまれていく。
故国イスラエルの王都、エルサレムの野原に咲いた一面の赤いアネモネや、犠牲の仔羊の死に顔、先夫を戦地で喪って以来心を病んだ美しい母の顔と、冷ややかな父の背中が、幾多の水泡に映りこんでは弾けて消えていく。
父王ダビデはもと軍人で、十二部族のうちヤコブの子ユダを始祖に持つ、南部のユダ家の主だ。もとは羊飼いの身分だった父は、ペリシテ人との戦において滅亡の危機に瀕した祖国を救い、初代国王サウルを継いで偉大な王となった。
エジプトの衰退に乗じて国を興したゲリラどもの首領として、この国の民衆には嫌われていたが、ファラオであるアクナムカノン王とは友人関係にあった。父は信頼の証として、息子を差しだしたのだ。
表向きには、そういうことになっている。
故郷の夢を見ながら水の底に横たわっていた僕を、誰かが引っぱりあげた。
「目ぇ覚めたかぼうず。まあ、すぐ死にそうだが」
川に仕掛けられていた漁師の網を勝手に引きあげたその人は、どう見ても漁師には見えなかった。目つきが鋭すぎるし、それに野生のけだもののようなにおいがする。視界の端に、火の粉を吹きあげて沈む船と、目に見えないかまいたちの刃に切り刻まれて、血だるまになった船乗りたちの姿が見えた。
「運のいいやつだ。あの船乗りどもは、オレ様の襲撃に勘付いてぼうずを逃がそうとしたわけじゃないらしい。身ぐるみ剥いでナイルに捨てようとしてやがったんだ。おい外人。エジプトが知りたいなら王都へ行ってみな。この世の終わりが見れるぜ」
盗賊の群れが、故国からの貢物を乗せた船を襲っている。僕から何もかもを奪った船乗りたちもまた、暴力と略奪に打ちのめされて終わる。秩序をなくしたこの世の終わりの光景が広がっている。視界が歪むのは、熱病に浮かされているせいだけではない。これがあの世界最大の文明国家エジプトの姿なのかと、僕はがっかりしていた。
顔に傷を持つ褐色の肌の盗賊は、どうでもよさそうに僕の尻を蹴飛ばした。
「ガキのくせにオレ様と同じ目をしてやがる。盗みと殺しの目だ。てめぇの国の男どもは、みんなそんな目をしてるのかね」
そうだ、と僕は頷いた。男は面白がって目を細めた。
「そんならてめぇは、自分の星を喰う運命だ。なんせどっちも先のない身だ、二度と会うこともねぇだろうが、ぼうずは生かしておいてやる。覚えときな、オレ様はいつかでかいことをやらかす男さ。それじゃあな」
夜の闇とともに、盗賊は姿をくらませた。光の下に起きだしてきた民衆たちが、沈んだ船の残りかすをハイエナのように奪いあった。人買いがやってきて、裸の僕をつかまえて檻に入れた。意識が、強い日差しに溶かされていく。
ナイル川の上流から、大きな船影が近づいてきた。帆をたたんだ船から、金細工をつけた若い神官が、兵士を率いて下りてきた。杖を振りかざして、民衆の群れを追い払い、僕を捕らえた人買いに部下をけしかけた。
「悪行のなかでも、人買いはもっとも許されざる行為。この者を連れて行け」
いかめしい顔をした神官は、刃物のように冷たい喋り方をした。天空の高みから僕を見下して、少しだけ憐れむような顔をした。
僕はうわ言で、繰り返し父を呼んでいた気がする。記憶のなかの父には、ぶあつい壁に隔てられているように声が届かない。ひょっとしたら聞こえていたのかもしれないが、あの人は一度も振り向かなかった。僕のかわりは、いくらでもいるのだから。
「息子を棄てた父に、まだ忠義を尽くすか。王子を王宮へ。丁重にお迎えしろ。命失うようなことがあれば、全員死罪と思え」
質のいい亜麻布の柔らかな感触が、僕の身体を包んだ。
寝台の上で目が覚めたとき、高足つきのチェストの上に飾られている赤いアネモネの花が、視界に飛び込んできた。
故郷では、雨の降る間は、王城の礼拝堂から野原に咲き乱れるアネモネが見えた。とても鮮やかな赤色の花畑だった。
雨季の終わりとともに、緑の楽園は消える。今ごろは、南東からやってくる焼けるような熱風が、次に西風が吹くまでのきっかり五十日の間、城壁に砂塵を吹きつけているはずだ。
幼い頃、母の嘆き疲れた気だるげな横顔に、あの赤い花を差しだしたときのことを思いだす。僕は少しの間、布で覆われた青いガラスの枕に瞼を押しつけていた。
部屋の中に、落ちついた乳香の残り香がまだ漂っている。エジプトの気候にやられて熱を出した僕をなぐさめるために、誰かがふるさとに咲く花を選んで摘んできてくれたのだ。知らない異国で、そんなふうに親切にしてくれる人がいることが信じられなかった。
部屋の外には、強烈な太陽の光を浴びて金色に輝く塔門と、無数に並んだスフィンクスたちが見えた。国境で人買いに攫われたことを思いだす。僕はあのあと神官に救われ、エジプトの王宮へ運ばれたのだ。
やがて、小柄でずんぐりした体つきの老人が部屋を訪れた。
「お加減はいかがですかな」
『悪くはない。あなたは?』
故国の言葉で返してから、覚えたてのエジプト語で言い直した。老人は流暢なエジプト語で、ファラオの側近を務めるシモンと名乗った。
「失礼だが、貴殿の記憶は覗かせてもらった。エジプトに叛意がないことはわかっているが、ファラオの身の安全を確実にするためゆえ。理解してくれるな」
「かまいません」
緊張にこわばった背筋を正した。シモンは目を伏せていた。
「無理をするでない。エジプトの雨季は、厳しい暑さと疫病で、この土地に足を踏み入れる者を苦しめる。ナイルの水に慣れたころには、おのずと消えるであろう。ささ、身を清めて、ふさわしい恰好に着替えるのだ」
シモンが重々しく言った。
「アクナムカノン王がお待ちである」
引っ立てられる罪人の気分で、僕の背丈の十倍はある列柱のあいだを進んでいく。パピルスを模した柱の花の部分はつぼみのままのものが大半で、咲いている柱は十二本しかなかった。この国では身のまわりにあるなにもかもが巨大で、見たことがない色づかいで美しく彩られていた。
天井の明かり採り窓から、剣の鋭さを持った陽光が回廊に突き刺さり、天地に余すところなく刻まれたいにしえのまじないを浮かびあがらせていた。いろいろな不安が浮かんでは、暑さで溶けて空中に散り散りになっていく。
およそ二千年もの長きにわたって世界の中心であり続けたエジプトは、近年の天変地異によって、その栄光にかげりが生まれはじめている。彼らの手綱が緩んだとたんに、周辺では小さな国家が次々におこった。僕の故郷イスラエルも含まれる。
神に選ばれし戦士と称えられる父王をさえ、この旧き砂漠の覇者は奴隷と呼ぶ。その屈辱に耐えて、有象無象の新興国を警戒しているエジプトに取り入ることでしか、僕らヘブライ人が生き伸びる未来はない。
腰巻をつけて槍を持った兵士団と六人の神官に睨みつけられながら、獅子を刻んだ玉座の上のファラオに相まみえたそのとき、僕は目を疑った。
岩のように強靭な肉体も、豊かな口ひげをたくわえた面差しも、目に剣の切っ先の光を宿しているところも全部、ファラオは父にうりふたつだった。だからこそ僕はそのとき、恐怖を覚えたのかもしれない。
「長旅ごくろうであった。羊の王の子よ。おもてを上げよ」
ファラオの声は、想像していたよりも優しい。僕は怯えを悟られないように顔をあげた。王者の視線に晒されるのは、身をくねらせるコブラの牙の前に喉を差しだしているのと同じだ。
玉座の傍らに、この国の王子がひかえていることに気がついた。僕よりも年上のようだが、父王の亜麻の長衣の裾を引く仕草は、珍しい動物の子どもを見かけて、あれを捕まえて抱かせてほしいとせがむようで幼かった。
──あれがエジプトの次の統治者か。
僕はつとめて無邪気な王子の姿に気がつかないふりをした。歳の近い子どもは嫌いだった。とくに男は信用できない。
「戦士の子よ、おまえの父とは旧くからよき友人であった。故郷を離れ、さぞ心細い思いであろう。このファラオを父と思い暮らすがいい」
「おそれながら、私は世界王ダビデとエリアムの娘バテシバの子です。いかにファラオといえども、父とは呼べません」
僕ははっきりと言った。思ったとおり、六人の神官が鼻白んだ。棒のような手足を金細工で飾りたてた王子も、むっとした顔をしている。
「ファラオに何と無礼な口をきくのだ、奴隷の子め」
「よい。面差しは母親に似て美しいが、気性の激しさは父親そっくりだ」
アクナムカノン王は、しもべたちの前で恥をかかされても、顔色も変えなかった。僕が僕自身に誓った、誰にも弱みを見せてはならないという決まりを、心を守る硬い殻を透かして覗かれているような気がした。脂汗が背中を冷たくする。自分が、獅子の足元で立ちすくんだねずみに思えてならない。
「王子とは歳も近い。良き友人になってほしい」
「おそれながらファラオ。蛮族の暴言、到底許せるものではありませぬ」
神官の一人が口を出した。青い衣を着て金の杖を携えたその男を、どこかで見たことがあるような気がする。
「思いあがった井の中の蛙に、覆しえない現実というものを教えてやるべきでは。この王子がエジプトにとって役に立つものかどうかを、私が決闘で試しましょう。ろくに力も持たないならば、生かしておく意味もない」
熱砂の地に生まれたものだとは信じがたい、恐ろしく冷ややかな青い眼が僕を射る。
「貴様は客人ではない。荒れ野の羊飼いの分際で王を名乗る、貴様の恥知らずの父親への人質だ。立場をわきまえるがいい」
僕のファラオへの無礼な物言いに青ざめて右往左往していたシモンが、顔を覆う布を引きあげてため息をついた。
「セトは生真面目なぶん、冗談は通用せん。この国に到着して早々、いちばん厄介な男に目をつけられてしまったな。よけいな口をきくからこうなる。自業自得とはいえ、哀れだわい」
神官セトが腕に装着した黄金の羽根飾りを目にしたとき、僕はかすかな興奮と畏れを覚えた。〈ディアディアンク〉だ。世界最強の国家エジプトが誇る、錬金術の結晶。石板を祀る神殿から、契約の魔物を召喚することができる。実物を見たのは初めてだ。
「いでよ〈ガレストゴラス〉。ものを知らない田舎者に、このエジプトの威光を刻んでやれ」
いかずちが地を打った。温度のない光の柱のなかから、乾いた肉食魚の顔をした巨大な火とかげが這いだしてきた。熱風さながらの鼻息を吹きつけて、太く長い尻尾をしならせる。石の柱が迫ってくるようだった。〈ガレストゴラス〉は、蠅を追い払うように僕を弾き飛ばした。
砂っぽい床を転がっていき、にやにやしながら観戦していた兵士の足にぶつかった。「おいこっちに来るんじゃねえよ」と罵声があがり、サンダルが腹を蹴飛ばす。
数千年の時をかけて洗練を重ねた錬金術は素晴らしいものだったが、憧れの御業を前に喜んでいる場合ではなかった。僕はエジプト最高位の技術を学びにきたのであって、それに殺されにきたわけではない。
星が飛んでいる視界を水平に、ふらつく身体を起こす。火とかげは、追い打ちこそ仕掛けてこないが、次は踏み潰してやるぞという、目に見えない殺意のつぶてを投げつけてくる。
「軍人の息子というからには、もっと骨のある男かと思ったが、父子共々山で羊を追いまわしているほうが性にあっているのではないかな。イスラエルの王子よ」
侮蔑にまみれたセトの声は、人買いに売られた僕を助けてくれた神官と同じだと思いだした。この男は、僕の命の恩人らしい。それでも父と父の治める国を侮辱することは、誰であっても赦せない。
「取り消してください。父上は強く立派な戦士です」
「そのご立派な父上は、貴殿をエジプトに売ったのだ」
「父上は、僕を立派な戦士にするためにここへ遣わしたんです」
そうではないことは、僕自身がよく知っている。自分の口は、こんなにも空虚な言葉を吐けたのだと驚いた。
「僕は、父に抱きあげてもらった記憶もない。だけどいつか強くなれば、父は僕を息子のひとりだと認め誇ってくれるでしょう。僕はばかですけど、父上はばかじゃない。母上だって」
「貴殿の母のことは聞き及んでいる。戦地で夫を失ったのち、すぐに王に色目を使った奸婦であろう。なんでも、神の怒りによって気がふれてしまったとか。産んだ赤子をその場で食い殺してしまったというが、貴殿が生きているということは、実の母に食い殺されたのは貴殿の兄か、王子よ」
周囲がざわついた。未開の土地の怖ろしい野蛮人を軽蔑する好奇の視線が、肌に突き刺さる。野の獣を見るものよりも、ひどい悪意に満ちている。
「母上は病気なんだ。あの人のせいじゃない。僕が早く一人前の錬金術師になって、治してさしあげるんだ」
火とかげの尻尾が、また僕を吹き飛ばした。前脚を振りあげる。僕はぽっかりと眼を開いて、なんだか他人事のような気持ちのまま、大きな爪を見あげていた。潰されてしまう。
「そこまでだ、セト」
よく通る子どもの声が、広間に響きわたった。
王子が僕の前に立っていた。信じられないが、玉座の高みから、属国の人間が無様に転がる地にためらいなく降り立った。
小さなサンダルだ。こんなに皮が薄くて柔らかい足が、砂の海の戦場を駆け抜ける幾万の戦士たちを、ひとまとめにして踏みつぶすのだ。
若いエジプト王子の褐色の肌は、近くで見ると磨き抜かれた鉱物を思わせた。紫水晶色の瞳は、神の代行者を名乗るおごりすらもっともだと思えるほど、神秘的な光り方をする。
王になるために生まれ、王にふさわしい運命を歩んできた自信が、まだあどけなさが残るこの王子には、すでに完璧に備わっていた。
彼は神たろうとするもので、僕は人だ。それでいい。僕らふたりが異なる生き物だと理解するには充分だ。僕自身が、みすぼらしい腕と、飢えたおおかみの目つきを恥じる必要はない。
「セトよ。おまえの強さを、こいつは身に染みて理解した。もう逆らうことはないだろう。どうだ、これからはこの者の師となり、導いてやってくれないか」
セトがぎょっとした。厄介なものを押しつけられてはかなわない、と顔に出ている。
この若い神官は、ファラオの小さな息子が苦手のようだ。努力や才能をいくら積み重ねても、血の一滴でそれを覆す規格外が相手なら無理もない。
「お言葉ですが、私めには異国の王子を扱う資格などありますまい。ここはマハードに任せては。子どものお守りには慣れておりましょう」
「セトよ。頼む」
アクナムカノン王が言葉を重ねた。これにはセトも逆らえない。
「……承知いたしました」
苦々しく頷いた。とまれ僕は、王子のとりなしで事なきを得たようだ。
子ども嫌いのセトに仕える羽目になったのは困ったことだけれど、再び生きてパピルスの列柱回廊を歩くことができただけ上等だ。永遠に開かない石のつぼみに刻まれた文字の洪水に、息がつまりそうな思いで、石板の神殿へ向かうセトを追いかけた。
「先ほどは言葉が過ぎた。詫びよう」
セトの背中が意外なことを言った。彼の後ろに伸びる青白い影の中は冷たくて、凶暴な金の日差しも届かない。
僕は歩きながら下を向いて、麻の服の布の目をちぎっていた。初対面で両親を侮辱したセトを、僕は嫌いだったけれど、思えばこちらだって彼が信じる王に無礼を働いたのだ。
きっと正しい人なのだろう。でも僕だって譲れない。
「母は悪くないんです」
母が『ああなってしまった』のは、母の美しさに目がくらんだ父が、あのひとの先夫を殺して奪ったからだ。
可哀想な方なのだ。真実を知ったあとは、僕を誰よりも憎んでいる。母は父を憎みたがったけれど、王こそ正義の体現だ。それはできない。僕は、父の代わりに償わなければならない。
「父を許すか。母を許すか」
「わかりません。いつもは考えないようにしているんです。だって、完全な赦しとは死の名前でしょう」
僕は、あのふたりを亡くすのは耐えられない。
「もうよい。ナイルの水を飲む限りはエジプトに忠誠を誓い、奴隷のように生きよ」
セトの侮蔑は相変わらずだ。でも、僕に向けられたものではない。僕の父にでも母にでもない。
この傲慢な神官は、いったい何に怒っているのかわからないけれど、僕がこのエジプトへ来て出会った人間たちのなかで、初めて見たまともな人間だった。
【28 古代(2)】
セトはいつも忙しい。彼は僕をしもべとも弟子とも認めず、ただの客人として扱った。彼や家人と顔をあわせることもほとんどないけれど、書物を読む時間はたっぷりある。
エジプトで魔術の腕を磨く日々は、あっという間に過ぎていった。なかでも故郷にいた頃から好きだった錬金術には、とくに興味を持っていた。この国は、かの神秘の術の源泉だ。学ぶことはたくさんある。
さしあたりは、僕をいたぶった火とかげが封印されていたような石板を造るのが目標だ。憑代がなければ、この国の神官たちが当たり前の顔をしてやるように、魔物を使役することもかなわない。
殺人的な日差しを避けて、いつも入り浸っている七つの神殿には、立派な石板が安置されている。これだけのものを造るには、巨石を運ぶ多くの人夫と、それを磨きあげる技術が必要だ。どちらも今の僕にはないもので、蝋を使って代替品を作った。
ある日、異国の王子が奇妙な発明品を作っているとしもべの報告を受けたセトが、珍しく僕のもとへ顔を出した。
彼は僕が〈アルマデル〉と名付けた蝋板を一瞥して、「子どものままごと遊びに過ぎん」と容赦なく切り捨てた。
「温暖な気候のおまえの国では有用かもしれぬ。だが、エジプトの熱は蝋を溶かす。火に弱く脆い。それでは精霊を御せまい。ただ、田舎者にしてはできた思いつきだ。次はもう少しましなものを作ることだな」
僕は、セトが人を褒めたところを初めて見た。
決闘でひどい目に遭わされてから、僕はセトの前に立つときは足がすくんでしまう。この神官にしりごみする必要はないのだと、僕自身の恐怖心に言い聞かせる。いくたびの戦を勝ち抜き国を統べる父のように、誰に対しても胸を張っていなければならないのだと。
「なぜセト様は、礼をかく僕を生かしておくのですか」
「エジプトは、反抗的な目をする人間を、見せしめに殺すようなことはせぬ。貴様は、なにを望んでこの国へ来た。白き肌の王子」
隣国の王族の僕が腹に一物あることを、セトはとっくに知っている。咎めるふうでもなかった。僕がどれだけの力を貪り、呑みこみ、蓄えようと、きっとこの国は歯型ひとつぶんすら傷つかない。
「ファラオに見殺しにされた国々を、見てきたのであろう」
「はい」
僕は、同じ穴の貉たちの滅びゆく光景を、何度も見てきた。
平和を望むアクナムカノン王は、属国が敵の侵略にあったとき、救いの力を求める彼らの声を黙殺した。友人たちを見殺しにしたファラオの統治は、周辺国ではエジプト最大の悪政と評判だ。
「アクナムカノン王は、理想に燃えていらっしゃる。誰もが身分の差なく、貧富の差なく、自由を得て平和に暮らす。あの方の中に戦はないものだ。過ぎた期待はするな。貴様ら蛮族が飢えても、我らは飢えぬ。エジプトに媚びを売って後ろ盾につけようなどと、考えるだけ無駄なのだ」
セトが皮肉に唇を歪めた。王宮の箱庭は、甘い菓子箱のようで、戦を知らないエジプトの王は毎日を夢のなかで過ごしている。
セトは口にこそ出さないが、不服に思っているようだ。彼は頭がよくて、王子のように甘くはない。理想に突き進むことはあっても、夢想に逃げないだろう。
神官の胸に芽吹いたファラオへの忠誠のほんのわずかなほころびは、この国では王の権力が絶対なのだと聞かされてきた僕には驚きだった。少なくともアクナムカノンは鳥や犬の頭をした化け物のような神々ではなくて、命を持った人間であるらしい。
権力にひれ伏し、王者の栄光のもとで甘い汁を吸っているくせに、個としての迷いをくすぶらせているセトを見ていると、僕の脳裏に『星を呑む』という言葉がよぎった。誰が口にしたのかも忘れてしまったが、奇妙に引っかかる言葉なのだ。
僕はいま、セトにすこしだけ敬意を抱いているが、彼もファラオと同じ生き物だ。無意味な血を浴びて、殺戮を続けてきた獣のにおいがする。そいつに挑むものは死ぬ、やりすごした者は生きる。天敵の臭気を感じ取るとき、僕は自らの身体に流れるのが、臆病者の血なのではないかと不安になる。
「でも、誰よりも強くある者は、信じてついてくる者たちを戦って守るのが義務ではないのですか」
また余計なことを言っている自覚はあった。今度こそ、とかげに丸呑みにされるかもしれない。
それでも僕は、父の背中にそう教えられたのだ。自分よりも強い者の顔色をうかがって、砂色の肌をした異国人のなかで折れてしまいたくはない。
優しいだけでは王はつとまらないことを、僕らはよく知っている。心に闇を持つ人々を統べるものなら、いずれ地獄を知る時がくる。砂糖菓子が国を導くことになれば、そう遠くない未来にエジプトは滅びる。属国の僕らもまた、周囲の国々の襲撃を怖れて過ごすことになるだろう。
この身勝手な大国は、自分の身を守る刃を握る手すら震えていて危ういのに、これまでいったいどうやって敵をはねつけてきたのだろう。戦を軽蔑するファラオが、民の血を一滴も流させないほどの強い力を持っているのはなぜなのか。
大きな望みを得るには、大きな犠牲が必要となることを、僕は錬金術から学んだ。執拗に繰り返される、飢えた異国の民の襲撃をものともしない力を顕現させるためには、どれほどの対価が必要になるのか。それはファラオともなると、些細な代償なのだろうか。
その力を、僕は暴いて喰らってみたかった。そのときようやく、あの厳しい目をした父の子だと認められる気がするのだ。
セトの表情がかげった。彼は僕から顔を逸らして、長衣をひるがえした。
「私は町へ出かけねばならぬ。留守は任せる」
「僕の問いに、答えてはくださらないのですね」
「口を塞がれたくなければ、世辞のひとつでも覚えておくのだな。エジプトは貴様の国よりも寛容だが、次はない。くれぐれもわきまえておけ」
セトが去ってまもなくして、陽の光の射さない石板の神殿に、偉そうにふんぞりかえった子どもが入ってきた。
「よう、世界王の子。相変わらずここは、湿っぽくてかびくさい場所だぜ」
目を疑う。輿もなく、守護者も連れずに、エジプトの王子がやってきた。この石板の神殿は、王宮に近いとはいえ、王族が気軽に足を運ぶ場所ではない。危険すぎる。
僕の忠告を聞いた王子は、こいつはなにを言っているんだという顔をした。
「神に守られた我がエジプトは安全だ。おまえは相当の心配性らしいが、すこしは表に出たほうがいいぜ。こんなせまい部屋に閉じこもってちゃ、つまんないだろ」
王子は僕を、珍しいけだもののように思って見に来たらしい。セトはそうと知っていて、早々に退散したのだ。これ以上、子どものお守りはかなわないと考えたのだろう。あの男こそ、媚びる方法なんていくらでも見つけられるのに、そうはしない。正直な性格の人間だ。
「でも悪い人はいるし、いくらあなたの力が大きくでも、その人たちをなかったことにはできません」
「だから私がいるんですよーだ」
言い返した僕を、王子のうしろに隠れていた見習い魔術使いの女が鼻で笑った。
「なに変な顔してるの」
「べつに」
「黙ってないで、言わないとぶつよ」
苦いものを噛んだような気持ちで、僕は白状した。
「女が笑うところを、初めて見たから」
母や姉妹たちは、戦って死んだ男たちのために涙を流しているのが常だ。僕は、女性というものは、泣いている姿しか見たことがない。魔術を覚えているとはいえ、この弱そうな女子どもに、主を守れるとも思えなかった。
王子は僕の前にずんずんやってきて、右手を差し出した。
「ファラオはおまえを気に入った。オレも父にならう。友だちにならないか、白き王子」
みずみずしい植物みたいな手を見て、僕は口を開けていた。王子の口からそんな愚かな言葉が出てくるのが、信じられなかった。
「異国人の人質にすぎない僕が、王子の手に気安く触れるなんて、我が国ならば死罪ものの無礼です」
「ならおまえは、我が国のやり方を学ばなければならない。エジプトは寛容だ」
「そうそう、ちっちゃな国の親分とは違うんだよーだ。この方は、おまえなんかよりずっと偉いんだから」
「やめろ、マナ」
王子は女魔術使いを、妹にするように叱りつけた。
「厳しくなければ生き残れなかった。かの国では、力がすべてなのだと聞く。熾烈な権力争いの渦中に置かれて、敵はすぐに殺さなければならなかった。寛容さなど育んでいたら死んだ」
「怖い国」
マナは、僕が猛獣かお化けでもあるかのように震えあがっている。
「おまえは第四王子だ。国に残れば兄弟に殺される。だからこそおまえの父上は、オレの父上を信頼して、息子をこの国へ寄越したんだ。おまえが怖れているように、捨てたわけじゃない」
「なぜそれを──いえ。買いかぶりです。父は後悔しているだけ」
僕は兄弟のなかで一番身体が小さくて、力も弱い。それにこの顔は、父には罪を、母には憎しみを思いださせる。僕の顔を見ると、母は義父を裏切ったことを思いだして苦しむ。むきだしの想像力は、見たこともない戦地へはばたき、裏切られた男の死に際を幾度も夢に見る。
両親は、よほど僕を遠ざけたかった。父は──きっと母の前の夫をそうしたように、邪魔になった僕を、遠い砂漠の果てに送り出したのだ。
「おまえ、故郷の話をするときはつらそうな顔ばかりする。よほど悲しい目にあってきたんだろう。でも、父上と母上が恋しいはずだ。親とも兄弟とも離れて、知らない国でたったひとりで暮らすなんて、オレならきっと寂しくて耐えられない」
甘ったれた子どもみたいな口をきくから、気恥ずかしくて頬のあたりがむずむずした。よくも、こんなにあけすけにものが言える。
この人は、本心を隠す必要なんてないのだ。僕のように、大きなけだものを前にして、なだめすかしてなんとか生き延びようなんて、みじめな考えを浮かべたこともないだろう。
甘えることが赦されているのは、王子ばかりではない。彼にひっついているマナという女魔術師も、いやに子どもっぽい仕草が目につく。この国の子どもは、王宮や神殿で笑ったりふざけたりしても大人にぶたれない。変な国だ。
「友だちになるのが気にくわないなら、そうだな、オレを兄のように思ってくれていい。父はおまえを、息子のように扱うと言った。オレは、おまえの本当の兄と違って、おまえを殺さない。そう言っても信じてはいまい。おまえの心は、硬い殻の向こうがわにある。いまはそれでいいさ」
エジプトの狂った暑さのなかで、あまりにも価値観の違う相手と話をしているせいか、頭がくらくらしてきた。王子は、僕の前で屈託なく笑う。
「なあ兄弟、オレには夢がある。みんなが平等に平和を分かちあい、精霊たちの遠い故郷のように、喜びのなかで生きる理想郷──いつかオレは、そんな世界を創る。そのときは、おまえも力を貸してはくれないか」
「残念ながら王子、僕は戦が好きです。略奪と隷属を繰り返して領土を増やす、強い王の力が欲しい」
僕は、王とは恐怖で民を押さえつけるものだと思う。強い独裁者がいなくなったら、民はみんなちりぢりに逃げてしまう。最後に王だけがひとり残って、誰にも必要とされず、寂しく死んでいく。それはもう国である意味もない。
「王は国家の魂となり、民を守る盾であり、敵をうち滅ぼす無敵の剣なのです」
王が凡人であっては、国は滅びる。民は歩きやすい悪の道を歩み、盗みと人殺しと嘘がはびこる。人の善の心ばかり見ていては、悪の心に足元をすくわれる。王は民に媚びず、常に羊を導く高みにいなければならない。悪をも抱え導く度量がなければ、王にはなれない。
父は覚悟したのだ。生まれて間もない小さな国の王でさえあの覚悟なら、ファラオとなればその上をいく覚悟がなければならないはずだ。
「強さを求めるか、おまえも」
王子は苦笑する。女魔術師が、小馬鹿にするように舌を出した。
「セト様と似た者同士だってこと。そのいかめしい喋り方もね」
この偉そうな女はなんなのだ。王族でもなさそうだが、ファラオの息子につきまとってふんぞりかえっている。
「王がどれほどのものだ。同じ赤い血が流れている。おまえとオレのなにが違う」
「なにもかもです。同じであるはずがない。あなたがそんなふうに考えられるのは嫌だ」
ファラオの息子が王権を否定し、放棄する。それが王子の本音なら、この男に支配者の資格はない。
平和に慣れた日和見なファラオが国を統治していられるのも、この国が強大な国家である証だ。噂に聞く闇の錬金術の力さえあれば、どんな愚物でも、凡俗でも、ファラオでいられるのだ。
「貴方が正しいなら、セト様のように決闘の力で僕を諭していただきたい」
「ああ、いいぜ」
王子は気負いなく頷いた。
「マナ。おまえのディアディアンクを貸してやれ」
「えーっ。いやですよう」
「頼む」
王子は僕を憐れむように見て、「決闘の楽しさを教えてやりたい」と言った。
──決闘が楽しいだって。
自分の心から、あらゆる感情が死んでいくのがわかる。どちらかしか生き残れない犠牲の儀式を、ゲームと呼ぶなんてありえない。
同時に、この人にだけはそれが赦されていることも理解できた。決闘はライオン狩りと同じだ。勇敢さを誇示するための、誇りもなにもない遊びにすぎない。
僕の国は、エジプトには勝てない。でも僕は、この王子には絶対に負けたくない。
そして僕は今更ながら、尊敬する数多の勇者たちが頭を垂れて膝をつかなければならないこの暴君が、大嫌いだと気がついたのだ。
先行はもらう。黄金の〈ディアディアンク〉の力を借りて、僕は〈ダーク・コーリング〉の魔法を発動した。腐った血の色をした紫煙が、二匹の力の弱い精霊の身を糧に、気の狂った鳥女の姿を形作った。
僕の使役するしもべたちは、みな僕自身の恐怖の象徴だ。甲高い奇声をあげ続ける〈インフェルノ・ウィング〉は、父の邪な企みを知ってしまった夜に、泣き叫びながら笑っていた母の壊れた姿に重なる。
僕をさいなむ怖ろしい影たちは、その強い死のイメージと圧倒的な力で、誰をも遠ざけてくれる。
具象化した僕の心に対して、エジプトの王子が呼び出したのは、人間の赤ん坊ほどの大きさの、真っ黒な毛玉だった。
「〈クリボー〉を召喚。オレは、こいつと共に闘う」
「子どもだと思って、馬鹿にしているんですね」
「そう思うか」
王子は微笑みさえ浮かべている。〈インフェルノ・ウィング〉が、黄金すら溶かす熱を宿した爪を振るった。
毛玉は、原形をとどめないくらいにばらばらになった。王子が僕を相手にしていないにしても、勝ちは勝ちだ。暗い満足に胸を痺れさせている目の前で、死んだはずの毛玉が──砕けた石板のかけらごとに無数に増殖して、僕と王子の前にうず高く小山を作っていく。
数が増えたからって、どうということはない。弱小精霊がいくら束になっても、僕の力にはかなわない。すべて焼きつくすまでだ。
王子がにやりと唇をゆがめた。罠にかかったことを僕が理解したのは、一瞬遅かった。すでに、しもべに攻撃命令を下してしまっている──。
クリボーの群れは、火の粉を撒き散らしながら、それぞれが熟しきった木の実のようにはぜた。何の役にも立たないクリボーが、圧倒的な力の差がある〈インフェルノ・ウィング〉を道連れにしたのだ。
目を回したクリボーたちが、頭の上に降ってきた。柔らかい毛玉に押し潰されて、僕は『ゲームに負けた』ことを悟る。
戦いでもない、ただの幼稚な遊びに貶められた決闘で、遊び半分の王子に、僕の誇り高きしもべが負けた。全身が冷たい汗で濡れている。
故郷での僕は、いつも自分の感情を諦めていて、誰かを本気で憎んだこともなかった。だからこんな気持ちは初めてだ。この王子にだけは、自分が夜を切り裂くかがり火にでもなったかのように、熱い怒りを感じている。
「この僕のしもべなら、やつに一矢報いて死ね。道連れだ、〈インフェルノ・ウィング〉」
無惨に死にゆく精霊に、最後の命令を下した。卑怯だとは知っている。でも、かまうものか。
焼け尽きようとしていた〈インフェルノ・ウィング〉が、最期の悲鳴をあげた。僕を非難している。もう慣れた悪意だ。火だるまになった精霊が、敵に襲いかかった。
「王子! 逃げてください!」
女魔術師が幼い悲鳴をあげた。それみろ、女なんて連れていたって何の役にも立たないじゃないか。意地悪い気持ちで舌を出す。
神殿に安置された無数の石板のひとつから、ままごとに使う玩具みたいな作り物の魔術師が飛びだしてきた。みすぼらしいなりをして、そいつは死にかけた〈インフェルノ・ウィング〉の前に立ちはだかった。
神官のひとりが神殿に駆けこんできた。アクナムカノン王に謁見したときに見た、とびきり真面目そうな顔だ。
「来てくれたんですね、お師匠サマ!」
神官が呪文を唱えて、木偶人形みたいな精霊に力を与えてけしかける。僕の精霊は今度こそ灰になった。
その男は大きな手で、セトの比じゃないくらいに容赦なく、僕をひっぱたいた。何度も床を転がりながら、回る天井を見あげてマナの歓声を聞いた。
「王子。お怪我は」
「ない。が、なかなか根性のあるやつだろう。あまりいじめてやるなよ、マハード」
マハードは王子の無事を確認したあと、主人に敵対するものへ向ける厳しい目で僕を睨んだ。
「エジプトの王子を傷つけることが、どれほど罪深いか。幼さが理由にならぬことも、そなたはわかっているはずだ」
「そうだそうだ! やっちゃってください、こんな生意気な奴。王子が怪我するところだったんですよ」
「それを見ていてなぜ止めなかった!」
マナの頭に、僕へのものよりも強烈な拳骨が落ちた。半泣きで頭をさすりながら、マナが口をとがらせて僕を指差す。
「変です、お師匠サマ。シモン様はこいつの心を覗いたんでしょう。悪いものがひそんでいるなら、絶対に見つけられたはずなのに」
「この者が、精霊に自分自身の憎悪を重ねた瞬間、初めて気がついた。鏡のような心だ。生まれついてか、そうでないのかはわからぬし、当人とて己の心の形など知るまい。おそらくシモン様が見たものは、あの方自身のファラオへの忠誠心だったのだろう」
マハードが、僕を殴った手をかざした。全身から力が抜けていく。
「向けてはならぬものに刃を向ける、未熟な戦士よ。そなたは分をわきまえるまで、宿した力に触れてはならぬ」
砂色の首からぶら下げている黄金の首飾りが、警告を発するような、耳に痛い高音をはなち、やがて沈黙した。ことが終わったとき、僕からは精霊を操る力が失われていた。愕然とする。
「罰はそれで充分だろう」
王子が僕を庇った。でも、彼に借りをつくるなんて死んだってごめんだ。
「こんなまどろっこしいことをしなくたって、僕を裁けばいいではないですか。戦争が嫌いだなんて言うくせに、死にゆく戦士たちに頭を下げさせるあなたなんか認めない。戦場には、あなたより強くて誇り高い男たちがたくさんいるのに」
「頭に血がのぼりやすいところも、セト様にそっくりだ」
「マナ」
面白がってからかうマナを叱責して、王子は僕に顔をあげさせた。
白い毛玉が頬にぶつかってきた。ふかふかで羽が生えている精霊が、やわらかい全身をこすりつけてくる。なんだこいつは?
「護るものがいないのは心細いだろう。そいつが、今日からおまえのしもべだ」
マハードが、目に見えてうろたえはじめた。
「王子、それは──」
「なにも言うなよ、マハード。その白き精霊は、おまえを必ず守ってくれるだろう。じゃあまたな、強き世界王の子よ」
王子が魔術師師弟を引き連れて、石板の神殿を去っていく。僕は白いクリボーを見た。いかにも弱っちそうだ。鋭い牙も大きな腕もなく、武器さえ持っていない。
こんな弱小モンスターを使って、いったい僕にどうしろというんだ。
【29 古代(3)】
よそ者がエジプトの王子に歯向かい、決闘を挑んだという話は、またたく間に王宮じゅうに広まった。僕はマナが言いふらしたせいだと疑っていたのだけれど、あとでマハードとシモンの話を盗み聞きしていた侍女のお喋りがものの始まりだったのだと知った。
昼間、セトの留守を狙って、石板の神殿にこもっている僕のところに兵士がやってきた。
「あの方も頭が痛かろう」と、彼らのうちのひとりが言った。そう言うわりに同情してはいなさそうだ。ふだんのセトの暴虐ぶりを見ていると、内心すっとしているといったところか。
「エジプトに叛意のある者など、今すぐに殺してしまうべきだ」
「国に災いをもたらす、白い肌の外国人め」
束になって突きあげられた槍の先が、強烈な太陽の輝きを照り返して、ぎらりと光った。
精霊をマハードに封印されている僕は、彼らの私刑を受けるはめになった。槍の柄で殴られる僕の横で、白いクリボーだけは、新しい主を守ろうと出しゃばって、王宮の兵士たちに例の触り心地の良い頭突きをくらわせていた。こいつはこんなに小さいくせに、なぜ僕を守れると考えているのだろう。
「よせ。さがっていろ」
精霊が傷つく姿は、あまり好きじゃない。
もとより抗う気もなかった。エジプトの民の怒りは、彼らを束ねるあの王子の意向だ。統治者の息子の機嫌を損ねた僕に、死をもって償えと命じたのだ。
この国の王子は能天気なお坊ちゃんだが、神官は利口だ。歯向かえば、僕の国を攻める口実を与えることになる。
世界の覇者エジプトが、有象無象の新興国と本気で同盟など結ぶわけがない。人質として手元に置いた属国の王子をエジプトの色に染め、手駒のひとつにするつもりなのは目に見えている。
王子の不興を買った僕が死ねば、彼らは納得するはずだ。僕の死で故国への咎めが免れるなら、それでいい。
棒を振りあげた男たちの憤りを受け入れ、僕はそっと目を閉じた。
「──そこまでだ」
兵士たちが直立した。時間が停まったように、誰も動かなくなった。
あの褐色の肌の王子が、例によってまともなしもべも連れずに、神殿の入口に立っている。
彼は、この国では呪われているとされる僕の白い腕をためらいなく引いて、立ちあがらせてくれた。
「この者は我がエジプトの同盟国、イスラエルの誇り高き王子だ。同盟国の王子は、我が兄弟も同然。オレの弟に、汚い手で触れることは許さない。ファラオへの敬意があるのなら、同じものをこの者にも向けよ」
王子が、よく通るみずみずしい声で、僕をもみくちゃにしていた男たちを鋭く叱責した。前に会ったときのような、庶民の子どものような気安さは、今はどこにも見えなかった。
「あなたは、なんと畏れ多いことを言うのです。僕に死ねと命じられたのではなかったのですか」
戦を知らない柔らかい手が、僕の頬を張った。この国に来てから、沢山の人間に殴られている。
「ハネクリボーは、死すべき者を守ったりしない。クリボーはもともと、王家の人間を守る精霊だ」
「それをなぜ、僕のような……」
「田舎の王子に、か。自分の国を恥じるな。おまえの父は、オレの父が友と認めるほどに高潔な王と聞いている」
本心を見透かされて、恥ずかしくて顔が熱くなった。王子の僕が、誇るべき自分の国を、エジプトと比べると取るに足らない小国だと考えていたのだ。
エジプトの人質となって故国を守るという妄想に酔っていた僕は、自分が死ぬところまでしか考えていなかった。父は馬鹿な息子の非礼を頭を下げて詫び、多くの貢物とともに、次の人質をエジプトへ送らなければならない。それは歴史のない故国の、生まれたての自尊心を打ち砕くことになる。
「羽根の生えたクリボーなんて、珍しいだろ。どういうわけか、こいつ一匹だけそうなんだ。兄弟たちは、みんなこいつのことが好きだ」
クリボーたちの異端児を抱き寄せて、王子が言った。
「なんだか、おまえのようだなと思ったんだ。お前の肌は、オレたちエジプト人と違って白い。この国の誰にも似ていない」
丸腰で、筋肉もろくについていない少年を前にして、僕は逃げだしたい気持ちでいた。死ぬのなんか、怖いと思ったこともないのに、父を前にしたときとも違う威圧感に押しつぶされてしまいそうだ。
こんな気持ちは初めてだ。僕は、この王子を怖れているのだろうか。
そういえば一度だけ、似たような感情を抱いたことがあった。母がまだ正気だったころに、礼拝堂に射していた金の光に包まれて、祈り方を教えてもらったときだ。
「子どもが大人に寄ってたかって殴られたんだ。泣いたっていい。それとも、泣き方を知らないのか」
「泣くなんて、弱い者のすることです」
「憐れな」
王子は、不思議な色の目を細めた。
「オレは、おまえのことが気に入ったぜ。エジプトを治めるアクナムカノン王に向かって、あんな啖呵をきれるやつはそういない。ハネクリボーはもともと、オレの姉上を守る役を担っていた精霊だ。おまえのもとへ行きたいと言い出したそうだ。オレたちからの贈り物だ」
彼からは確かに王の威光が放たれていて、僕は気おされて動けなかった。この人は、セトが語ったような、戦が嫌いな愚か者であるはずがない。
──僕は一瞬だけ、王子を信じそうになった。
対等の存在として扱ってくれたこの人に、初めて生きた人間として認められたような気がしていたのだ。
それは、気の迷いに決まっている。見殺しにされた国々の亡霊が、彼は救いを求める者に手を伸べない偽善者なのだと囁く。
決して信じてはならない相手に心を赦しそうになってしまったせいで、父や兄弟や、僕の国の民たちへの後ろめたさが胸を刺した。でも、彼らは僕を棄てた。何にすがればいいのか、わからなかった。
その夜、ひとりで眠るとき、瞼を塞いだ暗闇に父の背中は出てこなかった。母の泣き顔とアネモネの花畑も、東から吹きつける砂嵐の、乾いた息苦しい熱風も。
【30 古代(4)】
石板の神殿には守護者がいる。アクナディンという、生きたままミイラになったかのような、むちゃくちゃに干乾びた赤い肌をした老人だ。セトを導いた師のような人らしく、あのセトが彼には逆らわない。
彼の眼球は片方が模造品で、布の影が落ちる顔は異様だ。それを恥じるかのように、全身を長い布で包んで隠している。
怖ろしげな風貌とは裏腹に、残された一つ目は優しく、深い知性を感じさせる。多くの荷物を背負ってよたよた歩き、悲しげな鳴き声をあげるロバに似ていると思ったが、また殴られるのは目に見えているから口にしたことはない。
アクナディンの物腰は丁寧だけれど、外国人の僕を軽んじているのが、言葉や仕草の端々から感じ取れた。老人の軽蔑は、エジプトへの絶対的な愛国心とファラオへの忠誠から生まれたものだ。
彼は僕のことを見下してはいるが、同時に憐れんでいるようだった。情がないわけではない。そんなものは、猫の子どもにだってかけられる。
「隣人よ、アクナムカノン王の悪政の話は聞き及んでおろう」
老神官が言った。僕の国の言葉だ。すこし驚いた。
神殿を照らすかがり火は、夜の闇を追い払うには小さすぎる。壁画に刻まれた影が揺れている。セトが、師を咎めるように顎を動かした。
「アクナディン様」
「よい。彼の者の聡明さは、おまえも認めたのだろう。セトよ。この者は闇を知っている」
神官たちは、同盟国の人間が本心ではエジプトをどう思っているのかを知っている。彼らが崇めるのは神ではなく、エジプトの絶対的な権力だ。夢想家のファラオよりも、こちらのほうが話が通じそうで、僕にとっては好ましく感じた。
「平和を願い、対話を重んじたファラオは、敵に力を振りかざさなかった。やつらの増長を赦しました。もしもファラオがセト様のように厳しい方だったなら、仲間は誰も死なずに済んだでしょう」
平和だなんだと口にしても、力を持った者はそれを振るわずにはいられない。平和主義者の王だって、自国を滅亡の危機に追いこまれたときには、結局力をふるったのだ。彼がはじめから同盟を結んだ国々と共に戦ってくれていれば、どれだけの命が救えたことか。
まぶたにあの王子の姿がちらついた。戦士として闘って死ぬならまだしも、膝を折って頭を垂れてしまいそうになった屈辱を、僕はこの先二度と忘れることはできない。憎くて、怖ろしくもあった。セトが、冷ややかな目で僕を射た。
「愚か者はお前だ。口をつつしめ。蛮族の王子」
「僕は、見聞きした事実を述べているだけです。民のなかにもファラオに不満を抱き、盗人に堕ちる者が後を絶ちません」
「泣き言であるうちは見逃すが、長じてこの国の王権崩壊の一片となるようなら、私はその瞬間に貴様を殺す」
「心得ております」
心のなかで舌を出す。セトは、形だけの忠誠にとらわれている。彼こそ、王のことなんかどうでもいいと思っているくせに。
「王子には、兄君がおられる」
アクナディンのしわがれ声は、さっきよりも優しくなっていた。僕には大人の気持ちなんてわからないけれど、目をかけているセトこそがファラオのようだと喩えられたことが、嬉しかったのかもしれない。
マハードとマナのほうは、げんこつと怒鳴り声ばかりだけれど、この師弟は怖い顔をしているくせに、ずいぶん仲が良いらしい。
「男児であったが、生涯ハレムで生きることを条件に助命された。女ばかりの浮世離れした暮らしに慣れ、血を流して国を守る男の戦争を、野蛮な行為だと軽蔑しておられる。王子にも、いらぬことを吹きこまれているようだ。王も民も身分の差なく暮らせる国を作って欲しいと、女の愚かな理想をな」
「身分の平等などあるものですか。王がいるから、民は秩序を保つのです。強い戒めがなければ、俗人どもは罪を罪とも思わない。職人は怠け、作物は放り出され、国は泥水に溢れる。罪人と裁く者は、同じではないでしょう」
「わめくな。生まれながらの負け犬の戯言に過ぎぬ」
セトがつまらなさそうに言った。
「気がかりではある。身の上のみじめさを嘆いての訴えとは見せかけで、王位継承者をはめるための罠かもしれぬとな。騙された弟君が世迷言を放てば、それは未来のファラオの言葉となる。民衆は、王権への不満をつのらせるであろう。無能なファラオを殺したのちに、誰がかつぎあげられるか──」
「王家の勝手の犠牲となった兄君か、それとも大きな力を持った神官様ですね」
セトもアクナディンも、後ろ半分は聞こえないふりをした。
「敵国の脅威は、いまだ去ったわけではない。我が国の力が弱まれば、すぐにでもまた攻めこんでくるだろう。みながおまえのように、従順な奴隷であればよいのだが。王子」
この国の王子の、奇妙な物言いを思いだす。人はすべて平等なのだという王者らしからぬ物言いは、彼の兄の入れ知恵らしい。
──兄弟か。
たしか、あの王子は妙ちきりんなことを言って、兄貴風を吹かせていたっけ。わけがわからないけれど──でも僕の兄さんが、あんなふうに優しい人ならよかったのにな。
馬鹿な思いつきだ。気の迷いを怒りで埋めていく。
あの王子も、僕と同じ身の上らしい。兄が突きつけた刃に怯えて生きている。
「我が身かわいさに王子をたぶらかして争いを呼ぶ者など、いくらファラオの血を引いている者といえども、僕には許せない。エジプトの混迷は、我が国にとっても災い。そのもの、生かしておくことはできぬやもしれません」
闇のなかで、ふたりの神官がかすかに笑ったようだった。彼らが僕になにを望んでいるのかは、すぐにわかった。
「誰もが平等な国がひとつある、王子よ。死者の国だ」
セトは人を嘲る喋り方をするとき、いつもよりも雄弁になる。
【31 古代(5)】
夜の闇が訪れるころ、僕はファラオの血筋の女や、王宮に仕える女官たちが暮らすハレムに忍び込んだ。
収納室や台所の先に、警備の兵士が見張りに立っている地区がある。囲いがされたそこには、人工の水路が引かれていて、砂漠では見られないはずのあらゆる植物が茂っている。
常にどこかで誰かが歌い、踊り、美しい音楽が絶えない。王を楽しませるための音楽団でもあるハレムの女たちは、髪を整え、化粧をして、亜麻の織物を織っている。
ハレムの見張りの兵士は、魔術の心得を持たないただの人間で、軽い暗示をかけただけで眠りこんでしまった。精霊の力を借りなくたって、僕にもこのくらいはできる。
ハネクリボーは、パンの焼ける匂いや濃密な香辛料の香りに浮かれたように、ふわふわと飛んでいる。そういえばこの小さな精霊は、元々の主人だったこの国の王女と共に、ハレムで暮らしていたのだ。
「ハネクリボー、おまえはアクナディンが話していたエジプトの第一王子を知ってるだろ。生まれてすぐにハレムに押しこめられたっていう。どんな男だ。どこに住んでいる?」
ハネクリボーは、僕になにも答えてはくれない。仮にもエジプト王家を守る精霊だ。必要があれば、王子のひとりを消してしまおうと考えている異国の人間に、だんまりを通すのは無理もないかもしれない。邪魔をしないだけまだましだ。
幾人ものハレムの女たちが、装飾品のしゃらしゃらと擦れあう音をさせて、月の光に照らされた泉の周りに集まってきた。
僕はとっさに壺に飛びこんで、身を隠した。手足を縮めて外の様子をうかがう。
赤や黄色、黒と、様々な肌の色をした異国の女たちだ。故国にいたころに見た顔も混じっている。みな、エジプトに負けた国から攫われてきた奴隷だ。
ほどなく、大きな荷物をロバに乗せた旅の行商人がやってきて、鳥の絵が描かれた壁の前に陣取った。織物の上に、服や金や銀の装身具を広げる。女たちから歓声があがった。この狭い囲いの中が世界のすべてで、おそらく二度と外へ出ることがかなわない彼女らは、王の気をひくための化粧品や新しい楽器の奪いあいをはじめた。
騒がしくなるのは好都合だ。誰も、壺の中の僕に気がつかない。
日焼けをして痩せ細った行商人の顔を、僕は一度だけ見たことがあった。
今はもうなくなってしまった、西アジアの小さな国の主だ。エジプトを憎み、イスラエルが立てばみな従うと同盟を持ちかけてきたその男を、父は友を裏切るような真似はできないと怒ってはねつけていたっけ。
エジプトに逆らって国を滅ぼされたあの男が、ファラオを恨んでいないはずがない。必ず復讐を企んでいるはずだ。
行商人が、僕が隠れている壺の隣に立った。奴隷女たちが周囲に注意深く目を配っているなかで、封をされている香油瓶を若い女に渡した。
「砂漠のサソリを入れてある。王宮の寝室へ運びこんでおけ。明日の夜がくれば這い出してきて、憎きファラオを一突きだ。あの男は、さぞ苦しんで死ぬだろう」
「仰せのとおりにしますわ、父上」
滅びた国の王女が囁くのを、僕は首を縮めて盗み聞きをしていた。集まってきた奴隷女たちも全員グルだ。他人ごとではないけれど、厄介な現場に出くわしてしまった。
僕だって王の長子とやらが邪魔になるのなら消してやろうと考えていたわけだけれど、父との結びつきが強いアクナムカノンを暗殺されるのは、僕の国にとっては痛手でしかない。
行商人がその場を離れた。
神殿に戻ってセトに知らせるべきだ。音を立てないように壺から出たところで、行商人が素早く振り向いた。
「そこにいるのは誰だ!」
いやに勘が鋭い。僕は舌打ちを零し、水路に飛び降りて駆けだした。ばれた以上は隠れても仕方がない。
肩に火のような熱が生まれ、一瞬で全身に広がった。後ろから投げつけられたナイフが、僕の右肩に突き刺さっている。
引き抜いた刃は、血と毒で濡れている。奴隷女たちが、装飾品で飾りたてた姿形に見あわない身のこなしで追ってきた。誰もが戦地に慣れた目をしている。
「子どもです。白い肌をしている。おそらく、噂に聞いているイスラエル国の王子です」
「ふん、あの腰抜け王の息子か。顔を見られたうえに計画を知られた以上、生かしてはおけん。絶対に捕らえろ」
足がふらつき、ずるりと滑った。水路を繋ぐ橋の上から、人工池にまっさかさまに落下していく。大きな水柱があがった。
水から頭を出すと、甲高い小さな悲鳴がした。蓮の池に足をつけて鳥たちと戯れていたハレムの女が、目をまるく見開いて僕を見ている。
──見られた。
ファラオの暗殺を企てる追手も、王子を殺そうとしている僕も、どちらも侵入がばれたら罪に問われる立場だ。殺してしまうか。多少は騒ぎになるが、奴らのせいにしてしまえばいい。
自分の血液がべったりと付着したナイフを逆手に握って女に飛びつき、喉元に刃の切っ先を突きつける。
「誰?」
「静かにしてろ」
「怪我をしているの」
女は悲鳴をあげるでもなく、すこしずれたことを言う。咲いたばかりの花の匂いがした。
「いたか?」
「逃がすな。絶対に殺せ」
追手の暗殺者たちの声が近づいてくる。強烈な耳鳴りが、思考を溶かしていく。視界が焼ける。思った以上の速さで、毒が身体を侵していく。
意識が途切れかけたとき、背中に細い腕がまわった気がした。
「目が覚めた?」
女の顔が見える。神殿つきの巫女が、僕の胸に手をかざして、祈りの魔術を施してくれていた。息苦しさが和らいでいく。
「サソリの毒にやられたみたい。もう少し遅かったら危なかったんだよ」
「大丈夫。毒には少しは慣れている」
「キミって無茶をする子だね」
弟を叱るように言って、冷たい水にひたした手を額に当ててくれた。
この娘は誰だろう。
「ボクの服だからちょっと大きいけど、ごめんね」
その人は、いたずらっぽく微笑んだ。
僕は、女の服を着せられていた。暗殺者まがいの恰好よりはハレムに溶けこめるだろうが、この僕がこんなものを着るはめになるとは情けなかった。面白くないが、生きているだけましだ。
僕は、傷の手当てをしてくれている女にナイフを突きつけたことと、追手の暗殺者の存在を思いだして飛び起きた。
「──そうだ、寝てる場合じゃない。ファラオのお命を狙うものがいる! 早くお知らせしないと、あの方が危ない」
「落ち着いて。キミ、隣の国の王子様でしょ。マナによく話を聞いてるよ」
「良い話ではないと思うが」
「生意気な男の子が来たって。ボクはそう思わないけどね」
「男のような話し方をするんだな」
その人は、僕がいきなり刃物を向けた理由を何も聞かずに、無邪気に笑っていた。僕がさっきの出来事を、都合の悪いところは端折って話してしまうと、ハネクリボーを呼びつけた。
「宮殿へ行って、王の命が危ないとみんなに知らせて。頼むよ」
ハネクリボーはもう僕の精霊であるはずなのに、主に命じられたかのように頷き、闇夜に消えた。クリボーは、王家の人間を守る精霊だと聞かされたことを思いだす。
「キミはいったい……」
僕の問いは、騒がしくて甲高い声にかき消された。
「あーっ! ヘンタイ! 女の恰好してハレムにもぐりこむなんて」
最悪のタイミングで、マナがやってきた。
「えへへ、修行が済んだから姫に会いにきたんです」
「姫?」
マナは、自分こそが女王ででもあるみたいに、ふんぞりかえって僕に指をつきつけた。
「頭が高いわよ。ひかえなさい。あんたの目の前のお方は、このエジプトで一番高貴なお姫様なんだから」
呆けている僕の手を、マナが乱暴に引っぱった。
「ほら、はいつくばりなよ。王子にはそうしてるじゃない」
「マナ、この子をからかわないで。同盟国の王子は兄弟も同然。あの子がそう言っていたのを忘れたの?」
「姫、そいつの味方するんですか? ノゾキのヘンタイなんかに!」
女が──姫が困惑と羞恥で熱くなった僕をかばって、マナをとりなしてくれた。
「マナ。この子は、ファラオを狙う暗殺者の計画を知らせに来てくれたんだ。彼がいなければ、父上は死んでいたかもしれない」
「そんなことあるわけないです、お師匠様が守ってるんだから」
足音が聞こえた。マナの顔色が変わる。
「やば。あいつだ」
「あいつ?」
マナが急に僕を椅子みたいに折りたたんで、背中の上に乗っかってきた。姫が立って、僕らの姿を隠した。
「誰かいるんですか、姫」
やってきたのは、マハードの〈幻想の魔術師〉と並ぶ強さを持った〈沈黙の魔術師〉を使う、神官候補だと噂されている銀髪の女魔術使いだった。
「なんでもない。ひとりごとだよ。うるさかったかな」
姫が言った。マナは自分の口をおさえて縮こまっている。
マナは女だから、ハレムに立ちいっても問題はないように思えたが、小汚い恰好をした子どもなんかはつまみ出されてしまうのか、それとも魔術の修行が済んだというのは嘘だったのかもしれない。おそらく後者だろう。ハレムにさぼりに来たことがばれて、マハードのお目玉を食らうのが怖いのだ。
あのくそ真面目な神官も、根気強い男だと呆れた。頭の血管が切れる前に、さっさと放りだせばいいのに。
「今夜は街がさわがしい。お早目にお休みください」
「うん、おやすみ」
女魔術使いが去ったあと、僕はほっとして回廊を覗いた。意外だが、あちこちに男性が立っていることに気がつく。ハレムに囲われているのは、女ばかりだと考えていたのだ。
「男もいるのか?」
マナが僕の耳元で、粘っこい声で囁く。
「あいつは宦官。ハレムの守護者よ。女の人たちを守るには、体力がある男の方がいいわけ。雑用にも役に立つし。でも血迷って王女や女官たちに手を出さないように、子どものうちに親に売られてちょん切られちゃうの」
「ちょんぎるって」
下腹のあたりが、妙にひやりとした。
「ナニをよ。あんたの大事な部分をよ。あんたもちょんぎってあげようか?」
「マナ。やめて。そういう話」
姫が顔を赤くして言った。
「その子を部屋まで送ってあげて。マナなら、みんなに見つからずに王宮に戻ることができるでしょ」
「はい、姫のお願いなら」
マナに引きずられるようにしてハレムから戻る間のことを、僕はほとんど覚えていない。
ただ、あの美しい姫の優しく微笑む横顔ばかりが浮かんで、サソリの毒は消えたはずなのに、熱で浮かされたように息ができなかった。
【32 古代(6)】
ファラオの暗殺を企てた一派は、昨夜のうちに捕まった。王宮で開かれた裁判では、結果は目に見えていたが、全員の死罪が決まったそうだ。あの亡国の王は、ファラオの命を狙う逆賊として、娘ともども殺される。もしも失われた王家の血を引くものが生き残っても、エジプトに叛意を持っていると疑われることを恐れて、誰も助けないだろう。
僕が王のハレムにもぐりこんだことは、石板守の神官たちにとっくにばれていた。
「ファラオのお命救った功により、貴殿の罪は不問とする。子どもゆえの無知がいつまでも通用すると思うな。これに懲りたら、見知らぬ庭をうろつく真似はせぬことだな」
セトは、以前僕を半殺しにしたときの言い分と真逆のことを、すっとぼけて言った。
僕は試されていたのではないかと勘繰りたくなる。運が悪ければ、異国人の暗殺者たちとまとめて処刑されていたかもしれない。
しばらくは覗き魔呼ばわりされるだろう屈辱にも、甘んじていよう。ふたりの神官に、僕の価値が認められたかどうかは微妙なところだが、それなりに便利な駒を手に入れたと彼らは考えている。今はそれでいい。
「して、ハレムにおられる第一王子にはお会いしたのか」
「いいえ、アクナディン様。王子にそっくりな姫にはお会いしましたが」
「気が付かぬのも無理はない。そのお方こそ、ファラオの長子であらせられる」
「え?」
僕は耳を疑った。あの美しい姫が本当は男性で、それも王者の血を引きながら選ばれなかったはずれ者だと告げる老神官は、いつもながらに生真面目な顔つきだ。冗談を言っている様子はない。
「驚いたであろう。呪わしい定めだが、王家に双子の男児生まれしとき、生き残るのはどちらかひとり。アクナムカノン王は、先に生まれた泣かない王子をハレムへ送り、女として、一生かごの外へ出られぬ鳥として育てることで生かされたのだ」
アクナディンは、遠い昔を懐かしむような目をして語った。
僕には、夜のハレムで出会った姫の、夜明けのころの薄青い空気に満ちた静けさを思わせる色の瞳も、仄かに輝くような砂色の肌も、男のものだとはどうしても信じられない。
話に聞いて思い描いていたようなファラオの第一王子とは──弟によからぬことを吹きこんで、この王国に混迷を招こうと考えている悪人とは違う。あの清らかな人が、権力争いに破れた腹いせに王子をたぶらかす負け犬であるはずがない。
女ばかりの囲いのなかにいて、女の仕草が板についていた。男の話を聞いて羞恥に頬を染める姿を思いだすと、生まれて初めて他人を、嘲りからでなく、心から憐れに思った。あの人は、自分が本当は男であることすら知らない。悲しい気持ちになった。
「分不相応な情を抱くでないぞ」
「そんなものはありません。僕には……」
僕は打ちのめされていた。今後は、自分が見たものしか信じない。他人の口から出た言葉を、真に受けるのはよそう。
「これはファラオと、我ら王家を支える一部の者のみの間で語られること。王子の取り巻きどもも知らぬ、王子すら存じぬかもしれぬ」
「わかっています、神官様」
第一王子にまつわる出来事を、決して他人へ口外しないように厳重に言い含められて、僕への処罰はそれで済んだ。
砂の王国の朝、すでに厳しい日差しのなかへ、久しぶりに出かけた。魔術の修練場には、すでにマナが来ていた。精根尽き果てた顔でひっくりかえって、空を横切る鳩を眺めていた。
なにかの魔術に失敗したようで、煤だらけになっているマナに、僕は精一杯の勇気を出して声を掛けた。
「なに。修行中。見てわかるでしょ。忙しいの」
マナはぶっきらぼうに返事をした。目を逸らしたのは、僕が嫌いだからというのもあるだろうし、魔術を失敗した恰好悪い姿を見られてばつが悪いのかもしれない。
「マナ。姫と仲が良いようだが、あの方のことを教えてくれないか」
マナは素早く起きあがった。目を丸くして、僕の顔をまじまじと見つめる。
「あんたまさか、姫に一目惚れしたとか」
「そ、そんな畏れ多い。僕は何も持たない人質にすぎない。エジプトの姫君と釣りあうわけがないことは、誰よりもわかってる。あの人は、優しかったころの母上にすこし似ているから、どういう人か気になっただけだ」
強烈な日光に焼かれた砂の大地よりも、自分の顔のほうが熱い気がした。
「そう、たしかにあんたみたいな野蛮人なんか、鼻もひっかけないに決まってる。姫は王子と結婚するって決まってるんだから」
「ばかな。おふたりはご兄弟だし、それに……」
「エジプトでは、王族の近親婚は当たり前のことよ。そっちの国ではどうか知らないけど」
「死罪だよ」
「やっぱり。私、あんたの国にだけは住みたくない」
マナが、小猿みたいに顔を顰めた。
「姫は王子のことが好きで、王子は姫のことが好きで、ふたりは婚約者なんだ。子どもの頃に、婚儀の儀式を私とお師匠様でやってあげたの。まだ小さかったから、そのときの神官たちは、ぜんぜん認めてくれなかったからね」
「それは」
──ふたりが、同性だからだろう。
「あんたは、あの人のことを知ってどうしたいわけ。私たちの仲間に入りたいの?」
マナや王子の言う仲良しごっこを、とても恥ずかしいもののように感じていた僕は、口の端を引き結んだ。
戦場で敵を殺したり、羊の喉をかききるようなことしか知らない今の僕は、姫に命を助けてもらったお礼をする方法すらわからない。女の喜ばせ方なんて知らない──やはり僕はどうしても、あの人を同性の男として見ることができない。
「いいけど、王子や姫のそばにいたいなら、そんなお葬式みたいな顔はやめて、いつも笑っていなきゃ」
「僕に道化になれというのか」
かっとなって言い返そうとして、思い直す。
「難しいな。努力はしてみよう」
「考え方が違うだけで相手を否定すると、戦いしかなくなっちゃうって王子は言ってた。私の言うことが聞けるなら、あんたも友だちに入れてあげていいよ」
「友だち……」
「故郷ではいなかったの」
「考えたこともなかったな。王に連なる者は孤高であるべきだ。でも父は、エジプトで多くを学べと言われた。それは、こういうことなのかもしれないな」
「あんた、お父さんのこと大好きだよね」
マナが呆れながら、どこか羨ましそうに言った。
「言い忘れてたんだけど、あんたがエジプトへ来てすぐのころ、部屋に花が飾ってあったでしょう」
「ああ、赤いアネモネが」
「あれ、姫様がわざわざ摘んできてくださったのよね。故郷の花を見れば、ひとりぼっちのあんたが慰められるだろうって……。どうしたの。顔、真っ赤」
マナがにやにや笑いながら言った。
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