胸倉を掴まれて締め上げられている大徳寺は、ものすごく弱りきっているようだった。元来気の弱そうな顔を更に情けなく歪ませてヨハンの腕を叩いている。
「苦しい、苦しいにゃあ! 落ち付くのにゃヨハンくん、は、話せば分かるのにゃ〜!!」
「じゃあ分かるように話を聞かせてくれ、幽霊先生。最近俺の知らない事や納得したくない事が多過ぎるんじゃないかな。俺は十代が俺の命よりも大事だから、何があっても守りたいと思ってる。その為には今あいつの身に何が降りかかってきてるのかを正しく知る必要がある。だから先生を締め上げもするし、このまま振り回してもいいかなと思ってる」
「ふ、振り回さないで欲しいにゃ〜!」
「俺が理解できるように説明してくれるよな?」
 ヨハンが手をぱっと離すと、大徳寺はよろめき、よれよれになってしまったネクタイを直しながら、涙目で何度も頷いた。
「はぁあ、君達二人はこんな非道なところまでそっくりですにゃあ……あんまり虐めないで欲しいにゃ、先生はか弱いのですにゃ。打たれ弱さにはちょっとした自信があるのにゃあ」
「心外だ、俺は十代みたいに鬼じゃない。容赦も手加減も知ってる。しないだけだ。それにしても先生、その身体はホムンクルスなんだろ? 実はすごい特殊能力が備わってたり、運動神経が良かったりはしないのか?」
「いやあ、以前使っていたものは結構出来が良かったんですが、実はこのスペアは一度失敗作として廃棄したものを引っ張り出してきたので、すぐに疲れるし非力だし、特にこれと言って長所が見当たりませんのにゃ。まあ魂を肉体に拘束されて、不自由さを楽しむのもまた良いものですにゃ。ところで、十代くんのことにゃ?」
 ヨハンは黙って頷いた。十代を病室へ担ぎ込み、婦長に追い出された後、例によって方向音痴のヨハンは施設内部をさまよっていた。そこにヨハンが極度の方向音痴だった事を思い出した十代が、大徳寺に救援を要請してくれたのだ。
 迷子のヨハンを迎えに来るなり何故か締め上げられる羽目になった大徳寺にしてみれば、理不尽な話に違いない。普通なら怒っても良さそうなものだが、あまり気にした様子はない。良くも悪くも覇王気質の十代の相手をしている間に、理不尽には慣れっこになってしまったのかもしれない。
「十代くんは、今ちょうど殻を脱ぐ時期に差し掛かっていますのにゃ」
「殻って人間の身体のことだろ。脱げる訳がないじゃないか」
「例外がありますのにゃ。前例が少な過ぎるので便宜的に精霊化症と名付けましたが、ともかく古い肉体を脱ぎ捨てて、魂が純化する現象で――ヨハンくんは精霊科専攻なので、一部の精霊の起源がある種の人間であるという事を知っていますのにゃ?」
「ああ、本で読んだことがあったと思う。ほんとかどうか知らないけど」
 うろ覚えだったが、ヨハンは頷いた。大徳寺は講義を行う教師のような口調だ。病院で顔を合わせることが多いから忘れそうになっていたが、そう言えば彼は元々はアカデミアの先生なのだ。
「手術や儀式と言ったちょっと乱暴な手段で精霊に変化する者もいれば、人間としては桁外れの異能を持ってしまったゆえに、純粋な力が人の身体を突き破ってしまう者もいますにゃ。十代くんの症状は分かりやすいくらいに後者です。先の超融合によって彼の中の『きざし』という幼虫が孵化し、蛹になり、やがては羽化して成虫になる。今の彼は蛹の段階にいますのにゃ」
「……それは、どうやったら治るんだ?」
「手を尽くせば進行を遅らせることはできますが、しかしそれは十代くんを苦しめることにしかならない上に、不自然な状態で長く留めておくと、羽化のタイミングを失った蛹は硬くなって死んでしまいますにゃ」
「どっちにしたって今のままではいられないのか……精霊になるってのは、どんな感じなのかな」
「まず普通の人には見えなくなりますにゃ。実体を失い、世界から姿を消します。いつかはカードに封印されて誰かに使役されることになるかもしれませんが、肉体を失ったことで少しずつ精神の方も変化してくはずですにゃ。かつて人だった頃の記憶を有している精霊は、かなりレアですにゃ」
「俺のことも、忘れる?」
「気持ちは残るでしょうが、おそらく」
 頭が理解することを拒否しているのか、何も考えられない。
 ただ脳裏にどうしてか、出会ったばかりの頃の十代の姿が浮かんできた。子供っぽく能天気で何も考えていない。
 誰にも見えなかったはずのルビーを指差して『これ、お前の精霊?』と言う。『なんだか不思議な気がする』と言い、宝玉獣の召喚に目をきらきら輝かせて『すげー!』と叫ぶ。
 体温が高く、触ると温かい。太陽のように明るく周囲を照らし出す、とても人間らしい少年だった。
 彼が何だってあの暖かい身体と友人達と好物のエビフライと様々な思い出を、つまりこの世界を棄てて行かなければならないのか? いくらなんでもあんまりだ。
 呆然としているヨハンに、大徳寺が銀色のシートを差し出した。透明なフィルム越しに白い錠剤が見える。何の薬だ?
「これを飲み続けている限り、君は十代くんと闇を共有できますにゃ。その代わりに光を失うことになりますが。使うも使わないも君の自由ですにゃ」
 差し出がましいかもしれないですけどと大徳寺は付け加えた。
 ヨハンは頷いた。


 翌日ヨハンが病室に顔を出した時、十代はベッドの上にカードを並べて腕を組み、デッキの構成について熟考しているようだった。彼が頭を使うのはこの段階だけで、後は閃きと本能でデュエルを楽しむ。良くも悪くも非常に原始的な動物のようだった。
 十代の目は相変わらず幾重にも巻かれた柔らかな包帯で閉ざされていたが、彼に特に気にしている様子は無かった。横についているハネクリボーが細かく助言をしているようだ。
 ヨハンが近付いていくと、十代は手を止めて顔を上げた。
「よぉヨハン。暇ならデュエルしようぜ。このままじゃ鈍っちまうし、皆もうずうずしてるんだ」
「話があるんだ。後でいいか?」
「してくれるんなら、いつでもいいぜ」
 十代が気安く頷いた。
 ヨハンはすぐに十代の腕を掴んでベッドから引っ張り降ろし、そのまま手を引いて病室を出た。
「ヨハン? おい、どこ行くんだよ」
 十代は困惑している。彼がつっかけた深緑色のスリッパが、歩く度にペタペタと心許無い音を立てている。ヨハンは足を止めないまま、「怖いか?」と短く囁いた。
「怖い?」
「外へ出ることさ」
「怖くない」
 十代が口を尖らせる。むっとしたらしい。
 二人が向かったのはデュエル・カレッジの屋上だった。ヨハンが初めて十代と出会ったアカデミア本校の屋上も、アークティック校の屋上も、学校の屋上というものはどこでも気持ちが落ち付くものなのだ。
 手摺りがなく危なっかしいコンクリートのへりを、注意深く十代の手を引いて歩きながら、ヨハンは「お前に寂しい思いはさせないぜ」と言った。
「オレが寂しい?」
 いきなりのことで、十代は不思議そうにしている。ヨハンは頷き、足を止めてコンクリートの上に腰を下ろした。街の中心であるカレッジの屋上からは、まるで冷凍ピザのような街並みと、ドームの向こうの薄青い海底が一望できた。
「今になってようやく分かったんだ。お前は寂しいんだ。皆はお前が誰の手も届かない高みへひとりきりで駆けて行ってしまったって言う。でも違うよな。そうじゃないんだ。逆だよ。皆がお前を置いてったんだ。俺達はそれぞれ夢や希望を抱いて大人になった。先生になりたい、プロになりたい、――それぞれ現実に上手く実現しようとしてる。お前の夢はとても非現実的な、『ヒーローになりたい』ってものだった。みんなが幼い頃に一度は抱いて、そして忘れて大人になってく子供の夢だ。でもお前はそいつを実現してしまった。その時世界の普通との間に、ちょっとしたずれが生まれたんだ。お前は御伽噺の英雄になった。漫画のヒーローになった。だけどお前は孤独になった。本物になってしまったお前は、『ごっこ遊び』ができなくなってしまったんだ。お前を理解してくれるのは精霊達だけになった。お前が彼らの手を取るのは必然だったんだ」
 ヨハンは包帯越しの十代の瞳をじっと見つめていた。今もおそらくちぐはぐで美しい色をしているだろう異形の目を。
「十代、お前は本物のヒーローになっちゃったんだ。永遠に歳を取らない。本を開けばいつでも会える。『特別』になってしまったヒーローは懐かしい『普通』に憧れる。でももう後戻りはできない」
 十代は座り込んでいるコンクリートの表面を爪で引っ掻いていた。僅かな時間考え込むように黙り込んだ後、ヨハンの方を向いて、「後戻りしようなんて考えたことはない」と言った。
「オレはまっすぐ前だけ見て走り続けようって決めたんだ。足を止めたらオレは死ぬんだよ。多分な。だから、多分そうなんだ」
「足を止めちゃったのが悪かったんだって?」
「多分」
「お前はほんとに昔から馬鹿だよな。立ち止まったり振り返ったりするのは、普通の人間にしてみりゃ悪いことじゃない。昔を懐かしむのも悪くない。俺は好きだ、お前との思い出をすごく大事にしてる。でもお前は元々そういう造りをしてるんだよな。古い思い出の空気の中じゃ息ができなくなっちゃうんだ」
「ヨハンは何でそんなにオレが分かるんだろうなぁ。オレがもやもやしててわけわかんないことに、ぴったり当て嵌まる言葉を見付けてくれる。だからかな。ヨハンに触ってるとすごく気持ちが良いんだ」
「俺に? ……それは嬉しいな〜」
「ああ。オレは、やっぱりヨハンの精霊がいいな。宝玉獣達が羨ましいよ。ヨハンは誰より家族を愛してる」
 十代はふと顔を伏せ、掠れた小さな声で、独り言のように呟いた。
「家族になりたい。オレも家族欲しい。……でも、きっといつかは、」
「じゃあ結婚しようぜ」
 ヨハンの突飛な提案に驚いたようで、十代が勢い良くぱっと顔を上げる。ヨハンにしてみれば本気も本気だったが、十代にはどこか呆れたような気配があったから、これは真面目に取っていないだろう。残念だ。
「そんな簡単に言うことかよ」
「気軽に言ってる訳じゃないんだけどな。お前は昔よりはかなり賢くなったけど、それでも人の心ってものが何も分かってない。いい大人なのにな」
 十代は、ヨハンの当て付けるような言葉にかちんときたらしい。目を覆う包帯を乱暴に毟り取り、相変わらず美しい宝玉のような互い違いの瞳でヨハンを強く睨んだ。
「分かってるさ。分かりたくなくても分かるんだ。……お前も、いつかは、オレのことなんか置いてくに決まってるってことが!」
 海底の街を照らす光に直に目を刺され、眼球がひどく痛むのだろう。悔しそうに吊り上がった十代の目から、すうっと涙が零れ落ちた。他に理由もあったのかもしれない。
 ヨハンは十代の頬を手のひらで拭い、落ち付いた声で、「ああ、俺は人間だからな」と言った。十代の思うところは理解出来ているつもりだった。彼はすごく単純なのだ。
「なあ遊城十代、確かに、いつか人間の俺は今より大人になって歳を取って、お前を置いて死ぬだろう。でも焼かれて灰になって、君が守るこの世界に還り、君を潤す雨になる。身体を取り巻く風になる。土に、樹木に、海になって、そして君の隣で懸命に咲く花になる」
「……はな?」
 十代が怪訝そうに眉を寄せる。
「君がこの世界を愛してくれる限り、俺はずっと君の傍にいる」
 ヨハンは少し迷ってから、十代の目尻に舌を付けて涙を舐めた。塩辛い味がした。十代は困惑はしているようだったが、嫌な顔はしなかった。
 そのことにほっとしながら、ヨハンは十代の異形の目をしっかりと見据えて、にっこり笑い掛けた。
「君のすべてを受け止めてみせる。俺は俺の存在を懸けて全力で君を愛してる」
「……ヨハンがオレをあいしてる?」
「お前はこういうの苦手だっけ?」
「いや、まあ……でもヨハンが言うとすごく普通に聞こえるのが不思議だ」
「そりゃ俺はすごく普通にお前のことが大好きだからさ」
 十代は眩しそうに眇めていた目を、痛みを忘れたように丸く見開いている。やがて思う所があったようで、悪戯を思い付いたような顔になり、にやっと笑った。彼のそんな表情を見るのは随分久し振りのことだった。
 そして十代は勢い良くヨハンに飛び付き、押し倒し、長い間蹲っていた疑問の霧がようやく晴れたような上機嫌で、コンクリートの地面に頭をぶつけて唸っているヨハンの唇にキスをした。



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