身体中に、べたべたに濡れた服を着ているような気持ちの悪い感覚がある。それは皮膚というものへの強烈な違和感だ。
(……気持ち悪い)
 しばらくの間木製のテーブルに突っ伏していた十代は、やがてのろのろと顔を上げた。テーブルの上にはボイル・チキンにじゃがいもとオニオンのソテー、キャベツのスープがひとつのプレートの上に行儀良く並んでいた。DC付属病院の病院食だ。アカデミア時代よりもかなり上等な晩飯だ。食後にメロンまで付いてくる。
(腹減ったぁ。すげー美味そう。でも、食う前に)
 十代は焦点の曖昧な目を、プレート横のバスケットへ向けた。僅かに海底に届く光を反射して、持ち手をテーブルナプキンに包まれた銀色のナイフとフォークがまるで魚の腹のようにぎらっと光っている。
(……『これ』を脱がないと――あああ、気持ちわりぃ)

◆◇◆

 ヨハンは十代のもとを訪れても何をする訳でもない。徹夜で資料を読み漁っていただとかで目の下に隈を作ってベッドを借りに来ることもあるし、今日のように講義をさぼって昼寝をしに来ることもある。
 「ちょうどいい暗さなんだよ」とヨハンは言う。
「でもヨハン、目は良いけどお前、何も見えないはずだ」
「それなら心配ない。そろそろ部屋のどこに何があるか、目を瞑っていてもなんとなく分かるようになってきたぜ」
「そりゃあんだけつまずいたり転んだりすりゃ嫌でも分かるようになるだろうけどさ。これってなんとなく不公平じゃないか」
「何が不公平だって?」
「オレは目を開けばヨハンがすごくはっきり見える。でもヨハンは何も見えない」
「なんだ、そんなことか。オレは気にならないぜ。ここは暗いし、空気が冷たい。目を開いても閉じてもそう変わらない闇だ。でもお前がいる。俺はここに来る時、すごく安心しているんだ。何て言えばいいのかな……お前がいる空気とか、存在感とか、匂いってやつを感じるんだ。それでまるでお前に抱き締められているみたいな感じがする。分かんないかなぁ」
「分かんねーよ。……オレ、におうのか? 風呂には割とちゃんと入ってるんだぜ。――なんかヨハンにそれ言われると、すげえ複雑な気持ちになる」
「悪い意味で言ってるんじゃない。俺は好きだぜ」
 ヨハンはあくびをしながら手探りで十代の膝を引寄せ、頭を乗せた。十代が「膝枕かよ」と呆れて言うと、「ああ」と真顔で頷く。ヨハンはこういうふうに、たまに良く分からないところがある。
 ヨハンは何故か十代の性別がはっきりしない身体を気に入ってしまったらしい。膨らんだ右胸をふにふにと触られて、「いいなこれ」と言われると、さすがに十代も言葉に詰まってしまった。羨ましがられても困る。
「ここ、時間は分かるのか?」
「奥の壁に掛け時計がある。つっても、お前見えないんだよな」
「二時前になったら起こしてくれ。二時から実習があるんだ。今日は午前中に試験が二つ重なっててさ。少し疲れた」
 言うなりヨハンは目を閉じて、ほんの一瞬後には寝息を立て始めてしまう。素晴らしく寝付きが良い。
 十代はそっと視界を覆う包帯を解き、ちぐはぐの目でヨハンの寝顔を見下ろしてしみじみ思った。
(ああやっぱり、綺麗な顔してる)
 目を閉じているヨハンはなんだかすごく綺麗でどぎまぎしてしまう。彼はたまに変な奴だが、訳も分からず悔しくなってくるくらいに美しい男なのだ。
(……親友にこういう感じ方をするって、オレはおかしいのかなー)
 まあおかしいとしても、それはそれで構わないと十代は考えている。相手はヨハンなのだ。十代は彼と一緒にいる時の心の動きを大切にしていた。共感、羨望、憧憬、好意――何であれ嫌なものだと感じることはなかった。デュエルに負けた時は悔しいが。
 膝の上のヨハンの頭をそっと撫でて髪を梳くと、宝石みたいな青緑色の髪は、癖毛で見た目よりはいくらか硬かった。相変わらず透明な白い肌と造作の整った顔立ちで、彼は生まれて十八年の歳月を経た今でこそ青年らしい兆しを手に入れてはいたが、おそらく昔は女の子のように可愛らしい子供だったろう。そのことで友人に囃し立てられて臍を曲げた事があったかもしれない。

『目を覚まして、そいつから離れてじゅうだいいいいいい……! ボクの十代がどんどんメルヘン病に感染してるうう!!』
『落ち付いて! グロー・モス、そっち腕押さえて腕!』
『わかった、任せて!』
 十代をヨハンから引き離そうと今にも飛び掛りそうなユベルを、アクア・ドルフィンをはじめとして、ヒーロー達が必死に止めに入っている。しかし最上級モンスターであるユベルを相手に、かなり劣勢を強いられているようだ。
『いいじゃないか、たまにはそっとしといてやろうよぉ〜……』
『低級モンスターがボクの邪魔をするなぁ! 離せっ!!』
 ユベルがアクア・ドルフィンとグロー・モスを振り飛ばしたところに、背後からネオスがユベルの首筋に手刀を叩き込んだ。不意をつかれたユベルがくずおれ、ネオスが腰に手を当てて満足そうに頷き、ヒーロー達が安堵の溜息を零す。
 室内はようやく静かになった。

 そう言えばヨハンの寝顔を、アカデミア時代はあまり見たことが無かった気がする。
 ヨハンは昔から面倒見の良いところがあった。彼は、くたびれたらどこででも眠り込んでしまう十代に布団を掛けたり、レッド寮まで引き摺って帰ってくれたり――ともかく何度も世話を掛けた記憶がある。まああの頃のオレは今より随分子供だったからなと十代は考えたが、ヨハンの「こら馬鹿十代、ちゃんとベッドに上がって寝ろ〜!」はつい数日前にも聞いたばかりだったから、今だってそう変わらないのかもしれない。
「んん〜……」
 ヨハンは気持ち良さそうな顔で、十代の膝に頬を摺り付けている。くすぐったい。本物の枕と勘違いしているらしい。


 いつの間にかついうとうとしてしまっていたらしく、十代がはっと気付くと、時計はすでに午後一時五十分を指していた。ここからカレッジまでは、迷わなければ歩いてちょうど十分程の距離だ。十代は膝の上のヨハンの肩を揺すってやった。
「起きろヨハン。二時から実習なんだろ」
「うう……無理、気持ち良い、もうそんなのどうでもいい、俺は寝る……」
「いいのかよ? オレは知らないぞ」
 しばらくヨハンは枕代わりの膝を抱きしめてぐずっていたが、のろのろと顔を上向けて十代を見上げ、じっと目を合わせた。エメラルド色の瞳は、まだ寝惚けている様子で、上手く焦点が合っていない。
「……消毒薬の匂いがする」
 ヨハンがぼんやりした声で言った。
「そりゃここ一応病室だからな」
「いや……お前からだ」
「オレも一応病人だからな」
「ああ、そっか」
 ヨハンはぽんと手を打ち、納得がいったという顔になる。ようやく目が覚めてきたらしく、名残惜しそうに身体を起こして大きなあくびをした。
「あー、遅刻だけど一応顔出すか……んじゃ、邪魔したな十代」
「おう。気を付けて帰れよ……って言ってるそばから!」
 ベッドから降りるなり、ヨハンはテーブルの脚に躓いている。彼が転びそうになったところを、十代は慌てて支えてやり、闇の中手を引いて扉の前まで連れて行ってやった。危なっかしい男なのだ。ヨハンは「わりー」と言いながら、悪びれたふうもなく笑っている。


「じゃ、また来るぜ。腹出して寝んなよ」
「おう。そりゃお前だって。食堂のおばちゃんによろしくな」
 ヨハンが気だるそうな足取りで仄暗い廊下へ出て行くのを見送った十代は、あの見慣れた紫色のシャツの後姿が視界から消えるなり、急に強烈な違和感を覚えた。ぞっとするものだ。
 足元から背骨を伝って頭の天辺まで、凍り付くような寒気が身体中に染み込んできた。両脚からがくんと力が抜け、気が付いたら咄嗟に掴んでいた木製の椅子ごと床に倒れ込んでいた。派手な音がした。倒れた際に肩を強く打ったように思うが、痛みは無かった。
(やばい……『あれ』が来た)
 十代の予想通り、ここ最近いつも感じている、例の腐臭を放つ毒の沼に沈んでいくようなおぞましい不快感がやってくる。痛みには慣れていたからそれなりに耐えられるが、こいつはどうもいただけない。奇妙な感覚だ。まるで縛り上げられて窮屈な牢獄に放り込まれているようだ。
「十代?」
 頭の上からヨハンの声が聞こえた。物音が気になって戻ってきたらしい。
 廊下からさっと射す薄明かりの向こうで、ヨハンは息を呑んだようだった。彼はすぐに駆け寄ってきて十代の肩を抱き上げ、険しい顔つきで叫んだ。
「おい、誰か……先生!」

◆◇◆

 瞼越しに白い光が見える。十代の両目は柔らかいガーゼの包帯で覆われていたが、光はまるでガラスの破片のように、布越しにちくちくと眼球に突き刺さってくる。
 何も見えないが、周囲は随分明るいようだ。付属病院の一郭なのだろうが、そもそもこの施設は広過ぎる上に入り組んでいるから、自分が今どの辺りにいるのかという目処を立てるのが難しい。
 ただ、手のひらをそっと握られている。じんわりとした心地良い温かさが伝わってくる。ヨハンの手だ。
 周囲は光に満ち、十代は何も見えない。ヨハンは見える。いつもとは反対だ。それで十代は少しきまりが悪くなった。
「十代……?」
 ヨハンの声は苦しげで、愕然としていた。手を握られたまま、もう片方のヨハンの手のひらが十代の腕をそっと撫でている。まるでミイラみたいに幾重にも巻かれた包帯越しに、温かいぬくもりを感じた。
「これどうしたんだ、……誰が?」
 十代の腕に、脚に、巻かれている包帯に収まりきらない程の無数の傷があるのを、ヨハンは見たのだ。光の下ではもう誤魔化しもきかない。『そいつについて』どうやって説明をするべきかなと十代は考えた。上手い表現が見つからないし、何を言っても妙な言い訳のように聞こえそうだった。困っていると入口の自動扉が開閉する音がして、硬い革の靴音、それから大徳寺の声が聞こえた。
「自分で傷付けた痕ですにゃ」
 傍でヨハンがひゅっと息を呑んだ気配がした。十代は肩を竦めて「しょうがないんだ」と零し、どうにか説明を試みた。しかし上手い説明なんてものは十代には最も縁がないものだったから、その内容はやはり漠然としていて抽象的なものだった。
「身体中すごく気持ちが悪いんだ。全身べたべたの泥になったみたいな感じがする。息が詰まって苦しいんだ。だから早く身体を覆っているものを脱がないと、窒息してしまいそうなんだ」
 そこに十代の頭の上にぽんと手が乗せられた。この感触は大徳寺のものだ。十五の頃には彼に頭を撫でられたことが何度もあったが、それから幽霊をやっていた大徳寺と過ごす時間の方が多かったから、きちんとした感触があると何となく奇妙な気分になる。
「十代くん、それはまぎれもない君自身の身体にゃ」
「分かってはいるんだけど」
 十代は溜息を吐いた。
 大徳寺は慣れた手つきで十代の左腕に点滴の針を刺し、何かあったら呼ぶようにと言い付けて、部屋を出て行ってしまった。気を利かせてくれたのか、怒ったみたいな空気を放っているヨハンの相手をしたくなかったのかは知らないが、彼がいなくなると室内にはしんとした沈黙が訪れた。
 十代は相変わらずヨハンにぎゅっと強い力で手のひらを握られている。触られていると、何となくふっと力が抜けていくような気がする。
(ああやっぱり)
 それで、十代は確信した。
(ヨハンに触ってる時だけ、気持ち良くて楽になる。……あれ、何でだ?)
 今は悪寒も違和感もない。仄かなぬくもりに溶けてしまいそうな心地良さを感じる。手のひらを握る手には強く力が込められていて、少し痛い。
「……身体を脱ぎ捨てる? 馬鹿げてる。そんなことをしたら、死んじまうじゃないか」
 ヨハンが硬い声で言った。十代があまり聞いたことのない種類の、平坦で感情の篭らない、あまりヨハンらしくない声だった。やはり彼は怒っているのだ。十代は頷き、「殻みたいなものなんだ」と言った。
「何て言えばいいのかわかんないけど……ともかくほんとのオレが身体の中にいて、この腕とか脚とか頭とか、重いのを引き摺って歩いてる感じ。このごろたまに無くても困らないんじゃないかって思う時がある。はじめのうちはオレは変なのかなって思ってたんだけど、どうもこういう感じ方をするのはオレだけじゃないらしいんだ」
「誰だよ、それ」
「『はじめのうちは』良くあることだって――ともかく、オレ、もしいつか精霊達みたいになっちゃったとしたらさ」
 十代は首を振り、痛む目を押さえて静かに言った。
「ヨハンのカードになりたいもんだな。でも宝玉獣達の中にオレが入ってると、なんか収まり悪いような気がする。多分役には立つと思うんだけど」
「……馬鹿、縁起でも無いこと言うな!」
 勢い良く両肩を掴まれて、耳の傍でヨハンの怒鳴り声がした。
「お前は俺が命を懸けることができる大事な人間だ。お前に触れなくなるなんて、俺は嫌だからな」
 ヨハンがそっと十代の手を取り、手の甲に、腕に順繰りに唇を付けた。包帯の上からでも柔らかくてあたたかい感触があった。
「俺はお前のこの身体が好きだ。もう傷付けないでくれ」
 真摯な声だった。何も見えないせいで、ヨハンの声も唇の感触も余計に強く感じられるような気がした。くすぐったかったし、嬉しくもある。どぎまぎしてしまう。
(なんでキスなんかすんだよ?)
 十代は一瞬混乱し掛けたが、ヨハンが突拍子もないのは今に始まったことじゃない。ともかく頷いて、「悪かった」と謝った。
「分かった。じゃあヨハン、オレの身体をお前にやるよ」
「……うえぇえっ!?」
 いきなりヨハンが奇声を上げる。何に驚いたのかは知らないが、十代は我ながら良い考えだと頷いて続けた。
「お前のだって思ったら、傷付けらんないもんな」
「……なんだ……びっくりした」
 心底安心したような、もしくはひどく残念そうな声が返ってきた。
 ヨハンが「やっぱりお前はお前だよな〜」と、妙に悟ったようなことを言っている。十代はもやもやとした具合の悪い気持ちになる。
(あれ……何か引っ掛かってるぞ。なんだこれ?)
 いつもの我慢ならない種類の身体の不快感ではない。十代はふっと考え込み、そして、
「……あれ? オレ、今なんかすげぇ意味に取れる事言わなかったか……?」
 気付いた。
「言ったよ。すげぇ意味に取って、すげぇびっくりしたぞ」
 ヨハンがどこか呆けたように言う。十代は誤魔化すように「うー」とか「あー」とか間の抜けた声を上げてしまったが、あまり上手くはいかないようだった。
「……わりーヨハン。引いた?」
「いや、ドキドキしてる。ほら、聞いてみろって。心臓すげぇ。多分顔も赤くなってると思う」
 そう言いながら、ヨハンが十代をぎゅうと抱き締めた。彼の胸に耳を当てると、確かに『すげぇ』心音が鳴り響いている。それを聞いていると、何だか十代も変な気分になってきた。
「あー、……なんかヨハンに触ってると、オレもソワソワしてきた」
「そわそわ?」
「ワクワクもしてる、のかな、これは……変な感じだけど。うー、上手く言えねー」
「でも、嫌な感じはしないんだ」
「全然。わかんないけど、ヨハンといるとたまにこういうことがある」
「……そっか」
 ヨハンの声は少し上擦っていた。照れ臭そうな、嬉しそうな感じだった。十代の頬にヨハンの手が添えられる。
「十代、上向け」
 声は驚くほど近くから聞こえてきた。鼻先が微かに触れ合い、呼吸の音が聞こえる。心臓がうるさく鳴っている。十代が言われた通り顔を上げると、唇を指でなぞられる感触があった。
(……ヨハン?)
 なんだか耳の辺りが熱い。包帯越しの白い視界にふっと影が差す。――そこで廊下から、カツカツとヒールが床を叩く音が聞こえてきた。


 付属病院の婦長は、やってくるなり面会時間の終わりを告げ、ヨハンにさっさと出て行くようにと伝えた。
「ええ、そんなあああ……嫌だ、俺今日はここに泊まるっ」
「学生は寮へ戻りなさい」
「ヨハンが駄々こねるのって珍しいよな〜」
 言っている間にも、「いてて、耳引っ張らないでくれ!」や「じゅうだいぃ〜!」という声が、慌しく遠ざかっていく。ヨハンは強制退去させられつつあるようだ。十代は、それにしても何か変なことになっちゃってたなと思い返し、溜息を吐いた。
(うう、まだ心臓がうるせー)
 ヨハンと関わると、嫌な感じはしないのだが、十代はたまに変になる。



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