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 ―― 四月一日、午後六時を回った頃。

 白い湯気が形を変えながら立ち昇ってゆくさまは、薄っぺらな綿菓子のようで、遠くから単調に鳴り響いてくる祭囃子の音色とともに、どこか懐かしいもののように思えた。見晴らしのいい高台に湧き出した露天風呂からは、深い山の中を蛇行する川を挟んで、急傾斜の屋根を持った前時代的な様式の家屋が建ち並び、集落を形作っている景色が望める。
 灰色をした不揃いの岩が組み合わされた床から、湯船の底まで銀色の手すりが取り付けられている。木造の雨避け屋根の端から水滴が降ってきて、透き通った琥珀色の湯面をまるく揺らした。仕切り板の向こうには桜が植えられていて、その後ろには、日が沈んで黒ずんだ色に染まった山が見える。木々が風に揺さ振られる音に混じって、鳥の寝言が聞こえてきた。
 湯煙が仄かに浮かび上がる中、脱衣所の床を乱暴に踏み鳴らして足音が近付いてくる。横開きのガラス戸がスライドして、禿げ頭の中年の男性が、スリッパ履きのまま温泉浴場に踏み込んでくる。
「遊城!」
 叫んだ。眼鏡は湯気で白く曇っていた。
 ガラス戸の前に控えていた二人組の黒服が、不躾な闖入者の両側から二の腕を取って押さえる。十代は飾り岩の上に肘をついて、桜の花びらが浮いている湯船の中から顔を上げた。ひんやりとした岩の冷たさが心地良かった。黒服のサングラスの奥に向かって、構わない、と裸の肩を竦めて示す。
「いつもお世話になっております、〈NEX〉遊城十代です。そちらも休暇中ですか? こんな所で遭うなんて奇遇ですね」
 相手の男は、取引先のネオ童実野シティ治安維持局に所属している。十代は実直な部下の喋り口調を真似して、礼儀正しく、リスペクトを重んじた極上の応対をした。そのはずだったが、相手は赤らんだ頭に更に血を上らせて赤くなる。怒鳴った。
「奇遇なわけがあるか! どれだけ探したと思っている! お前今度は一体何を企んでいる!?」
「何のことです?」
「とぼけるな! 本宮モーメントの件だ!」
「ああ、それ……」
 気だるく吐き出して、顎まで湯につかる。今朝読んだ新聞の記事を思い返しながら、声を上げた。
「事件発生は……確か三月二十九日のことだから、今日でもう三日になりますか。北の本宮高地に新設された、シティ外では初めてのモーメント施設が、稼働直前にテロリストによって占拠された。犯人グループの正体は掴めず、要求もなく依然無言のまま。―― じゃなかったでしたっけ? あれから何か進展したんですか? ま、なんでもいいんですけどね。オレ関係ないしー」
「……奴らの要求は占拠当初から一貫している。〈赤い悪魔〉の身柄と引き換えに、モーメント施設を解放する。お前を名指しでだ。生体でも死体でも構わない、五体満足で、それとわかる姿で」
 相手は腕組みをして唸った。
 石造りの壁面に橙色の丸型ライトが掛けられて、うすぼんやりと光っていたが、今夜は月のほうが明るかった。月光に照らされて、桜の花が頭の上で狂ったように咲き誇っている。
「遊城、お前、不自然なまでに都合の良いタイミングで姿を消したな。初めから、自分が奴らとの交渉条件だってことを、本当は知ってたんじゃあないのか」
「やだなーごく普通の有休休暇中のサラリーマンがそんなわけないじゃないですか」
 息継ぎをせずに、十代はたたみ掛けるように明るい声を上げた。
「オレは無知にして無能なただの人間なんですよ」
「このことは倫理委員会に報告するぞ。いいな!」
 曇った眼鏡をネクタイで拭いながら、踵を返して捨て台詞を叫ぶ。十代はピンで後ろ髪をまとめた頭を傾けた。
「わっかんねぇ……じゃなくて、わからないなあ。その倫理委員会から連絡があったんですよ。三日前に、温泉にでも行って羽根を伸ばして来たらどうだって」
 言葉通り背中に生えた翼を伸ばしてみせると、相手は振り向いた途端にぎょっとした顔になって、スリッパを引きずって後ずさった。
「……化物め!」
「〈ソリッド・ビジョン〉です。当然」
 大きな蝙蝠の翼が折り畳まれて、湯気に融けて掻き消える。手のひらで湯を掬ってもてあそんでいると、鼻先に冷えた水滴が落ちてきた。
「それよりも、局の上層部から通達はなかったですか? 『遊城十代を見付けてはならない』。聞きませんでした?」
「それは……」
 相手は口篭もった。心の闇の色が、怒りから困惑に変化していく。単純に八つ当たりの相手が欲しかっただけだろう。慣れない口真似にも飽きてきて、十代は立ち上がった。
「ま、なんにしろ、見つかっちゃしょうがない」
 湯面を波立たせながら、温泉から上がる。
「本社に出向する。上司に怒られたらあんたのせいだからな」
 木製の看板の前を通り過ぎていく。表面には墨文字で、この温泉は腰痛と美肌と疲労回復に効能があると記されている。まだ文句を言い足りない顔でいる取引相手の頭に木の桶を被せて、虹彩異色症の瞳を半分眇めて言い放った。
「スケベ親父」
「遊城!!」
 脱衣所と温泉を仕切るガラス戸を、後ろ手に閉めた。後ろから怒鳴り声が追い掛けてくる。
「……この、女狐!!」
 かんかんだ。

 * * * * *

 ―― 四月十五日、午後三時過ぎ。

 デュエル・アカデミア本校のデュエル場は、下へ降りるにつれて狭くなっていく擂鉢状になっていて、古代の円形劇場を思わせる。中央部のデュエル・リングでは、シンクロ・モンスターを使った実技の授業が行われている。
 入口近くの座席についてぼんやりしていたヨハンは、隣の席を盗み見た。ツートン・カラーのチョコレート色の頭に、赤いジャケットを羽織った少年が、手作りのお面をかぶって寝息を立てている。ボタン付きの袖がよだれで汚れていた。
「汚いやつだなぁ……」
 ヨハンは溜息をついて、ポケットからレースのハンカチを引っ張り出して、十代の顎と袖を拭ってやった。反対隣の席に着いているラー・イエローの生徒が、変な顔でヨハンと十代を見つめてきていた。
「起こしてやれよ」
 少年は壇上のクロノスと十代を見比べて、ヨハンに耳打ちをくれた。
「クロノス先生、十代のことめちゃめちゃ睨んでるぞ」
 言われた通りに、少し離れてはいるが、クロノスの恨みがましげな視線が居眠りをする十代に突き刺さっている。ヨハンは肩を竦め、十代の代わりに言い訳をしてやった。
「十代は本調子じゃないんだ。昨日の夜も明け方まで眠れなかったみたいでさ。よくうなされるんだ」
 黄色いジャケットの少年は、どうしたのか、目をむいた。傍で聞き耳を立てていたオベリスク・ブルーの少年も口を開けている。
「い、一緒に寝てるのか?」
「そりゃ、こいつは俺がついててやらなきゃなんないし。授業に出たいって言い張るから連れてきてやったんだけど、やっぱり寝かしつけといた方が良かったな」
「あのさ、前から思ってたけど、お前と十代は親密過ぎるよ」
「仲が良いのって、それって変なことかな?」
「それは変じゃないけど。……いや、変じゃないのか?」
 少年は、自分でも何を言っているのか良く分からないような顔になって、
「お前達二人って、付き合ってるのか。男同士で」
 とんでもないことを言った。今度はヨハンの方が目を丸くする。
「えぇ〜? まさか。そんなじゃない。あるもんか」
「あ、ああ。違うのか?」
「当たり前だ。十代はそんなのよりずっと俺の大切な、大切な、大切な存在なんだぜ。まるで、神様みたいに」
「か、神様?」
 授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。十代は知らん顔で、気がついた様子もない。眠り続けている。またクロノスの顔が渋くなった。
「やっぱり留年なんてさせなければ良かったノーネ。迷惑極まりないノーネ。他の生徒達にーも、示しがつかないーノ」
 辺りはにわかに騒がしくなった。鞄を抱えて教室を飛び出す者がいて、席に残って談笑を始める者もいる。十代は起き上がる気がないらしいから、しょうがなくヨハンは彼を背負って立ち上がった。身体は鳥の羽根のように軽く、冷えきっていた。教室の扉をくぐりしなに、前の廊下を通り過ぎていった女子生徒の噂話が耳に入ってきた。
「聞いた? 通り魔の話」
 不穏な噂を軽やかな声が紡いでいく。まるで流行りの歌を口ずさむようにとりとめがない。
「あれ、普通の通り魔事件じゃなくて。襲われた人、かさかさのミイラになってるんだって」
「まだ生きてるの?」
「死んじゃったでしょ。そりゃ。ミイラなんだもん」
 ヨハンが廊下の角を曲がった辺りで、背後から凛とした声が聞こえてきた。
「みんな、授業が済んだら今日は早く寮に帰ること」
「はあい、明日香先生!」
 少女達が、声を揃えて返事をした。


 アカデミア本島の南端、島の半分を占める原生林に覆い隠されて、その打ち棄てられた研究所跡は存在する。外観は四角い弁当箱のようで、錆びて赤茶け、あちこちが崩れて廃墟然としている。建物の中へ入ると、地熱で温められた空気が外へ逃げずに篭っている。湿気が多く、むっとしていて、青い猫っ毛がいくらか重くなった。
 まだかろうじて機能しているコントロール・ルームのコンソールを弄って電源を入れ、パネルに表示された数字を確認して、ヨハンは頷いた。
「結構、集まったな。……十代?」
 背負った十代を床に横にして呼び掛ける。返事はない。目を醒まさない。
 無理もない。まだ本調子ではないのだ。身体が上手く動かないのかもしれない。医務室から借りてきた薬品の蓋を片手で開けて、十代の頭を抱いて唇に含ませた。
「すぐに元気になるさ。いつものお前みたいに」
 柔らかい唇が震えて、かすかな声が「ヨハン」と呼んだ。ヨハンはすぐに応える。
「ん。なんだ?」
 十代は、ふらふらと頼りなく手を伸ばした。ヨハンを探している。
 瞼はまだ開かない。目が見えないのだ。
「どうした。俺はここにいる」
 十代の耳の傍で囁いて、優しい手を握った。二人が触れ合ったところから、仄かな光の粒が立ち上った。ヨハンが自分でも気が付かない間に、密林の尖った植物で切ってしまっていた手の傷が塞がってゆく。
 血の匂いを嗅ぎ付けたのだろうか。十代はひどく敏い。白い肌にはしっていた赤い線は、すぐに跡形もなく癒えた。
「ほんのかすり傷でも―― きれいなヨハンに傷がついてるのは、オレは……」
 うわごとを言うような、ぼんやりとした声が零れた。夜中に恐ろしい夢を見た子供が、揺り起こしてくれた親に縋る声だ。
「イヤなんだ」
 この人がこんなにも衰弱してしまっているのは、ひとえに『それ』が理由だった。まぎれもなく。ヨハンは口の端に力を込めて、焦燥と執着が混ぜこぜになった奇妙な心地の中で、十代の頬に壊れ物のように触った。
「何かして欲しいことがあるか? お前の為になんでもするから、俺になんでも言ってくれ」
 この人の為に、なんでもいい、何かをしたかった。こんなに生真面目で、純粋で、混ざり物のない気持ちになっていることに、自分でも少し驚いていた。
 十代は、消え入りそうな声で囁いた。
「手。握って」
「いくらでも。待ってろ十代。もう少しだ。俺がお前を絶対に助けてやるからな」
 ヨハンは言った。

 * * * * *

 ―― 四月二日、午前六時。

 海馬コーポレーション〈NEX〉部署内で、据え置き型の電話が鳴った。空野が受話器を取ると、相手は随分頭に血が上っている様子だった。語気が荒い。あの『上司』は雲隠れに失敗したなと悟る。あの人のことだから、また良からぬことでも企んでいるのだろう。
「はい、はい。何も問題はありませんよ」
 空野は壁掛け時計の秒針を眺めながら、取引先の治安維持局員へ明るく応対した。
「半日程お時間をいただければ、モーメント施設の占拠なんて犯罪をやらかしている悪者の『排除』は完了しますとも。犠牲者の有無はともかく―― 我が〈NEX〉が誇る最新鋭最新型、最強の実験体は強靭にして無敵かつ最強です」
 受話器の向こうの声は、幾分か落ち付きを取り戻したようだった。
『そいつが三時間後に稼働するのに、いくら掛かる』
「そうですねぇ」
 空野は顎に指を当てて、宙を見上げた。
『いくらでも、金なら好きに使って構わん』
 相手は渋る振りもない。
『このネオ童実野シティの絶対階級制度も特権も、一歩街の外へ出れば何の役にも立たない―― 外の奴らにままごと都市と呼ばれて笑われているんだ。こんな侮辱があるか? 何が何でも施設から敵を排除しろ。設計図の流出を防げ。職員や人質に犠牲が出ても、後でどうとでも処理をする』
「仰せの通りに――
 空野は実直に頭を下げて受話器を置いた。そこへ中空にパネルが開く。〈NEX〉の最高責任者にして最強の実験体、レベル十の悪魔族モンスター、遊城十代が不機嫌な顔をして、虹彩異色症の眼を眇めていた。
『空野と同じ喋り方したのに』
 十代は憮然として不平を言った。
『なんでオレだけ怒られるんだ? 不公平だ』
「そりゃ、もちろん日頃の行いの違いでしょう」
 空野は上司に平然と返事をして、片手で社内規格の請求書の作成アプリケーションを呼び出した。〈最新鋭の絶対兵器〉の利用書を打ち込み始める。学生をやっていた頃には見た事もなかった桁の数字を入力していく。
「ついでですから、先輩の経費申請書も一緒に作っておきますけど」
『二百八十円』
「用途は?」
『交通費』
「本宮でしょう。白川郷からだと、かなり距離があるじゃないですか?」
『近くまで飛んできた。さすがに疲れて、今国鉄に乗ってる。経費削減も大変だ』
「僕の地元じゃこれ、ネコババって言うんですけどね」
 経費の空白は、先月のホムンクルス試作実験の為に掛かった莫大な費用の補充に回される。
 次元融合開発部。この世界と別の次元に存在する世界を繋ぎ合わせる架け橋となり、〈永遠〉の可能性を追い求め、世界最高水準の技術力を振り翳して人々に災厄と混乱を撒き与える通称〈NEX〉の真の存在理由は、冥界に旅立った三人の人間を、この世界に蘇生させることだ。
 たったそれだけのことに、世界の存続すら脅かす程の大仰なからくりが必要だった。ものを壊すのは簡単だが、創り出すのはひどく難しいということを実感する。原初の頃に宇宙を創世し、今なお生命を育み続ける優しい闇の原形質―― 神の力は偉大だ。泥酔した上司の壮大なうわ言を思い出しながら、空野は思った。
 酒の席の冗談が、笑い話で済まないのだ。その人は。
 溜息をつく。
『現地に着いた。じゃ、ちょっと行ってくるわ』
 十代が軽い口調で言って、空野の目の前でソリッド・ビジョンのパネルが閉じた。電話の受話器を上げてボタンを回す。ベルが二度鳴った後に、依頼主へ回線が繋がった。
「実験体を投入しました」
 空野は、落ち付いた声で報告を入れた。新しいパネルでコンピュータ・ゲームを立ち上げる。ドット絵で描かれた、簡単で単純なゲームだ。画面上で目も鼻もないボールのような自機が、青と黒で構成されたダンジョンの中を、ぱくぱくと口を動かしながら進んでいく。動作は十代の首に取り付けられたセンサーと連動している。ボールは、四角い箱に角が生えたグラフィックの敵を倒し、ハート・マークで示された餌を食っている。
「施設内部への侵入に成功。バリケードを無効化。見張りを殺害、二人、三人……」
 〈NEX〉部署の奥、衝立で仕切られた会議スペースで、影丸の首が金魚鉢に入れられたまま、悪趣味な置物然として、テレビのニュースを見ていた。目付きの悪いミスター・ジェリー・ビーンズマンが、また土足のまま来客用のソファの上で手足を伸ばしている。社内は土足厳禁だと言っても一向に聞かない。注意をするのも面倒臭くなってきたので、後で十代に言い付けてやろうと、告げ口用のノートにメモを取っておいた。
 このミスターはかつて〈精霊狩りのギース〉と呼ばれていて、十代が向けられたことのない貴重な〈ヨハン・アンデルセンの悪意〉を一身に受けたことがある。そのことで空野の上司はこの男に複雑極まりない嫉妬心を抱いていて、最近では彼の粗探しが趣味のようになりつつある。きっと喜んでくれるはずだ。
 テレビの中から、銀色のフニテルの前に立った女性リポーターが、マイクを手に沈痛な声で画面に向かって語り掛けてきていた。
『本宮高地モーメント施設占拠事件、発生開始から四日が経過しました。犯人グループは依然不気味な沈黙を保っており、政治的・金銭的な要求もありません』
 リポーターはカメラの外から差し出されたイラスト・ボードを受け取って、テレビの前に掲げてみせた。山中に穿たれた大きな穴と、地下に造られたモーメント施設の絵が描かれていた。
『本宮高地はネオ童実野シティから北へ、車でおおよそ二時間の位置にあります。そこに、シティ外では国内初となるモーメント施設が造られることになりました。この本宮モーメントは昨日四月一日に正式に稼働を開始する予定でした。しかし先月三月二十九日、始動前に行われた公開稼働実験の最中に、正体不明の武装集団によって施設が襲撃されたのです――
 ミスターが、それ程興味もなさそうにテレビを流し見しながら、どこか腑に落ちないといった顔でぼやいた。
「女狐の身体目当てじゃなかったのか」
「先輩の名はいかがわし過ぎて放送禁止用語ですから。お茶の間には流せないでしょう」
「それで今回は何がどうして、あの他人の不幸と災難と、あがいた末の絶望が大の好物というか主食の性悪が、わざわざ重たい尻を上げたってんだ」
「馬鹿を言わないで下さい。重くないですよ。そのせいであの人が龍亜くんと龍可ちゃんの出産の時に、どれだけ苦労をしたと思っているんです」
『施設の中では職員の皆さんと、社会見学にやってきていた高校生のグループがいまだに人質になっており、ふもとに待機している警官隊の皆さんも容易に近付けない様子です』
「ああ、ほら、今テレビで言ってるじゃないですか。これですよ。前途有望な高校生がテロリストに人質にされている。罪のない子供達の未来が、ろくでもない大人に奪われるなんてことはあっちゃならない」
「……はぁ?」
「らしいですよ。十代先輩によると」
「他のどんな偽善者がほざくよりも、本物の悪魔にだけは赦されない台詞だろう、それは」
 ミスターが半眼になった。テレビの画面が切り替わり、現在安否が気遣われているデュエル・アカデミア高校の生徒の顔写真が名前入りで映し出された。ミスターは、その中のひとりの顔に注目して、
「ああ。なるほど」
 ようやく納得がいった様子で、ぽんと手を打った。

 * * * * *

 本宮高地モーメント施設は、地下深くまで穿たれた巨大な立坑の底に存在する。中枢部は、丸みを帯びた鉄色の壁に囲われて、縦に長い筒状の空間が広がっている。永遠に回転を続ける永久機関を中心として、手摺り付きの細長い鉄板通路が壁際まで伸びている。手摺り越しに通路の下を覗くと、冷却水が満ちて、夜の海のように黒く濁りながらたゆたっている。
 モーメントの前に、人質となった職員と学生達を囲んで、武装した集団が立っている。彼らによって完全に制圧されたはずの施設は、ふもとでおあずけを食らっている警官隊をよそに、得体の知れない敵の襲撃を受けていた。
 武装集団のリーダー格の男が、無線機を口の傍へ寄せて落ち付いた声を上げた。
「全兵士に告ぐ。装備を徹底せよ。レベル一は巡回後、すみやかに帰還せよ」
『こちらレベル一。見張りが倒れている。通風孔から毒を流されたな。〈A・ジェネクス・ケミストリ〉を確認。肉体がある。こいつが薬を撒き散らした元凶らしい。今から交戦に入る』
 男は通信を切って、仲間に向かって頷いた。
「モンスターを実体化させている。このやり口は間違いない。〈NEX〉の〈カーレン〉だ」
 その名を呼ぶ声に恐怖はなかった。今更恐怖など入り込む隙間もないような表情をしている。死を行軍の予定地のひとつとして定めている兵士の顔だった。彼らはテロリストというには統制が取れ過ぎていたし、軍人というには青臭過ぎた。
 人質の学生達は脅えと疲労で憔悴しきっていて、見兼ねたモーメント施設の職員が、もう何度目かになる交渉を試みている。
「人質なら私達がここにいます。それで充分でしょう。子供達だけでも解放してはくれませんか。彼らには何の罪もない」
「残念だが、それはできない」
 リーダーの男が、実直に告げた。
「こちらの要求が満たされれば、我々はすぐにでもこの施設を放棄して撤収する。だが再三の通告にも関わらず、外部からの応答はない。我々としても、このままでは君達をただで済ませるわけにはいかない」
 男は無感情な声で、「見せしめだ」と言った。
「君達は今やネオ童実野シティに完全に見捨てられている」
「そんな……」
 職員の顔が青くなる。学生のひとりが、「僕達、死ぬんだ」と呟いたのが聞こえた。落胆がさざなみのように広がっていく。
 その中で、無言でじっと蹲っている少年がいる。


 少年は紫色のシャツを着て、ブルーの襟付きベストを羽織っていた。この国の人間ではない。デュエル・アカデミアに留学生として迎え入れられている外国人だ。
 施設を占拠している武装集団も、全員が外国人で構成されている。少年には、少しばかり見覚えのある顔も混じっている。デュエル・アカデミアの生徒名簿で見た事がある顔だ。ウエスト校お抱えの在学傭兵部隊だ。あそこでは命懸けのデュエルの訓練をしていると聞いた覚えがある。
 生死に関わる授業―― 兵役のある国ではそれ程珍しいことでもない。国益が絡んだことなら、大抵が命懸けになる。少年にも覚えがあったから、彼らの心情を察することはできた。
 銀のピアスが、少年の柔らかい耳たぶを貫いている。そこからかすかなノイズが聞こえた。極小の受信機だ。やがて、落ち付いた老人の声がすべらかに流れてくる。
『〈ホーム〉より〈八号〉へ。これ以上〈十号〉に玩具を与えて喜ばせるな』
 通信相手は少年の父親だった。少年と父親は血と肉を分け合ってはいたが、それは形式上のことで、普通の人間達のように家族の絆の存在はなかった。少年は人間ですらなかった。人の扱いを受けたことはなかった。
『そこにあるモーメントは、〈ゼロ・リバース〉で計測されたエネルギー値を元に逆回転を行うべくして造られたものだ。政府に対して仕掛けられた時限爆弾だ。ただ冥界の門を抉じ開ける為の、人の世の理を嘲笑う冒涜的な玩具だ。そんなものは、あの子の美しい魂には相応しくない』
 父の声は、少年へ向けられるものよりも柔らかくなって、そんなことを言った。年少の〈十号〉を気に掛けている。世界を敵に回した〈赤い悪魔〉のことを、あの人はいまだに心配していた。
 こういうのを何て言うんだったかな、と少年は他人事のように思考した。愛情、親愛、親心、家族愛。言葉は思い付いたが、実体がなく、少年には何も分からなかった。ともかくそんなものを、〈十号〉の他には、兄弟の誰ももらったことはなかった。
 不思議に胸の中がざわめく心地がした。もう何の感情も覚えないはずなのに、あの日本人のことを考えると、いつもこんなふうに正体の知れない心の揺らめきが意識の表層を揺さぶるのだ。
 モーメントの前で、占拠グループのリーダーの男のもとへ、また新たに無線が入った。
『レベル三よりレベル五へ。モーメントの構成情報の所得に成功』
「よし。レベル四が入手した設計図と共に、司令部へ送信を開始しろ」
『了解』
 銀色のピアスの向こうから、少年へ、父親の冷静な指示が下る。
『ウエストが所得したモーメント情報を回収せよ。 無理なら、施設ごと自爆しろ』
―― ja」
 いくらでも取り替えがきく歯車は、口の中だけで呟いた。


 乾いた音を立ててブレーカーが落ちた。巨大な空間が闇に覆われる。
「な、なんだ。急に」
 暗がりの中に、誰のものとも知れない戸惑いの声が響いた。
「停電か? まさか。そんな馬鹿なことがあるわけがない。永久機関だぞ?」
 施設の非常用電源が入って、不気味な色の照明が灯る。薄明るい空間に奇妙なものが浮かんでいた。リモコンを持った銀色のマスコット・ロボット。まるい頭を傾けている。そのすぐ後ろの手摺りの上に、ブリキの玩具のような鉄の鳥が停まっていた。
 〈A・ジェネクス・リモート〉に、〈A・ジェネクス・バードマン〉。ジェネクス・シリーズのモンスターだ。
「なんだ、これは」
 占拠グループのひとりが、訳の分からないような顔をして、ガン・ディスクでリモートの頭を小突いた。確かな冷たい鉄の感触があった。二体のロボットは軽んじられていることを悟って、頭から湯気を噴き出した。
 腹の奥に響く揺れが施設を襲った。天井を破って、エレベータの空洞の闇の向こう側から、漆黒の巨大ロボットが顔を覗かせている。
 シンクロ・モンスター、〈レアル・ジェネクス・クロキシアン〉。
 こちらも実体化している。誰かの、呆けたような吐息が零れる。
 唐突にジェネクス・モンスターの進撃が始まった。〈ジェネクス・ヒート〉が激しい炎で鋼鉄の壁を溶かして現れ、〈ソーラー・ジェネクス〉が翼を広げて、鱗粉のような光の粒を振り撒きながら滑空する。放たれた熱線が人の身体に触れると、嫌な臭いを放ちながら蒸発させた。冷却水槽の黒い水面から〈ジェネクス・ウンディーネ〉のかぼそい腕が不気味に突き出して、手摺りの際にいた傭兵を水中へ引きずり込んでいった。
 モンスター達は人を認識すると、誰彼の区別もなくその力を振り翳した。悲鳴が上がる。怒声が響く。罵声が投げ掛けられる。
 何が起こっているのか理解はできなかったが、混乱に乗じて動き出せるのは都合がいい。少年は速やかに行動を開始した。鋭く投げ付けたカードが、ホールの入口に立っていた男の動脈を切断する。その間にも、実体を持ったモンスター群が続々とモーメントへ押し寄せてくる。このロボット達は三原則を知らないのか、人を殺すことに何の躊躇もない。狂っている。構ってはいられない。廊下へ出た。
 薄緑色の明かりが、打ちっぱなしのコンクリート壁に挟まれた通路を照らしている。一本道を進んでいくと、突き当たった角から不意にジェネクスが飛び出してきた。〈A・ジェネクス・リバイバー〉、滞空しながら近付いてくる。
 少年は身体を強張らせ、デッキを構えた。相手の攻撃力は二千二百。
 だが、こちらの緊張に構いもせず、リバイバーは少年のすぐ横をすり抜けると、知らん顔で通り過ぎて行く。少年は不思議に思った。何故かモンスターは、自分だけを攻撃しないのだ。
 疑問に思いながらも、コントロール・ルームに辿り付いた。モニター群に取り囲まれたコンソールを弄って、デュエル・アカデミアの電子生徒手帳に擬装した記録装置へデータの吸出しを行う。画面の左から右へゲージが動いていく。九十三パーセント。処理の完了までもうすぐだ。
 ふと空気が動いた。振り向く。
 視線を巡らせた先には、赤い服を着た美しいひとがいた。
 チョコレート・ブラウンの髪は珍しいツートン・カラーで、ピントの合わない虹彩異色症の瞳がぼんやりと発光している。体つきはとても痩せていて、綺麗な赤い靴を履いていた。扉を開け放ち、爪先立ちで足を踏み出し、まるで踊るような恰好だった。
 少年は、その人に一瞬眼を奪われた。
 その人は幸せな夢を見るような眼差しで、少年を見つめ返してきていた。
 すべての音が消え失せる。世界が沈黙して頭を垂れていた。ただ、艶のある不思議な瞳と視線を交わらせているだけで、その他の事象がまるで取るに足らないことのように思えた。色褪せた世界にあって、初めて〈赤〉という鮮烈な色を見た気がした。
 少年に、一瞬の空白があった。
 その人に、一瞬の空白があった。
 時は二人を取り残して、少しだけ先へ動き出していた。
 右頬に熱を感じる。この施設を占拠しているグループの人間だろう、知らない顔の男が部屋の中へ乱入してきて、モニターに表示されているゲージを見ると血相を変え、少年を短く罵りながら殴り付けたのだ。
 脚が浮いて、全身がコンソールに叩き付けられた。口の中を切って、鉄臭い味が舌の上に広がった。倒れた少年は素早く目を上げた。打算する。相手は三人。少し手間取るかもしれない。
 少年の目の前で赤い靴が踊った。ドレスのような服の裾が翻る。焦点が曖昧だった瞳孔が、昼間の猫のように縮まる。ゆったりとした袖を振り上げ、『手のひら』が優美に振り下ろされた。
 鋼鉄よりも硬い鱗に覆われた腕が、一人目の男の首を飛ばした。
 あらゆる生物を蹂躙するために進化した分厚い爪が、二人目の、少年を殴り飛ばした男の胸を真ん中から真っ二つに引き裂いた。二人の人間は何をされたのかも分からないうちに、血袋へと変貌していた。
「その顔をした『もの』を傷付けていいのは――
 その人が謳う。悪魔の声と、悪鬼の表情で。
「オレだけだ」
 人類への憎しみを込めて、ひとつきりしか持っていない玩具を横取りされた子供のように、苛立ちを顕にして宣言した。
 少年はその人を知っていた。物心ついた頃からずっと見てきた。記録映像の中のその人の姿を、ビデオテープが擦り切れる程に何度も繰り返して眺めていた。気が弱く、泣虫で、怖がりの子供の姿をしていた兄弟を。
 今、目の前にいる本物のその人は、古い映像に登場したかよわい子供とはあまり似ていなかった。
 カーレン・アンデルセン。
 それがその人の名前だ。少年よりも番号が二つ下の弟で、あるいは妹だった。
 気がつくとカーレンは、倒れた少年の胴を、長い両足でまたぐようにして立っている。見下ろしてくる顔は怖いほどに整っている。神を模して造られた冒涜的な偶像のようで、畏怖し、魅了され動けず、言葉も上げられない。
 突然、施設内部にサイレンが鳴り響いた。モニターは真っ赤に染まり、黄色と黒のラインに縁取られた警告のテロップが流れてゆく。視線を素早くスライドさせると、三人目の男が、コンソール上の透明なプラスチック板で覆われたスイッチを叩き潰している。
 緊急事態用に設えられた、永久機関の逆回転スイッチだ。強化ガラス越しに覗くモーメントが、緩やかに回転の速度を落とし始めた。完全に停止する。そして、逆回転を始める。
 モーメントは発生したエネルギーを純粋な破滅の光に変換する。大気が帯電を始めた。皮膚が粟立つ。かつてネオ童実野シティを消し飛ばした第一号機の暴走事故、〈ゼロ・リバース〉が再現されていく。装置が虹色に強く輝き、視界が白一色に染まった。
 何も見えない。―― いや、マッチ売りの少女が、小さなマッチの炎の向こうに暖かいまぼろしを見たように、少年は実体のない風景を見た。一面の白、壊れた家、光の柱、大きな火、滅びた都市。
 〈ゼロ・リバース〉発生当時、爆心地にあって生き残った人間が、街中でたった二人きりいた。
 一人はモーメントを提唱した〈MIDS〉の最高責任者の息子、まだ赤ん坊だった不動遊星。彼は現在サテライトの孤児院に収容されている。
 そしてもう一人は、不死身の肉体を持ち、精霊の力を宿したカーレン・アンデルセン。憐れなその人は、死の光を浴びて狂ってしまった。
 瓦礫の山、焼け爛れた手、黒ずんだ三つの死骸。死に至る程に深く巨大な悪意を感じた。呪いはすべての生命と非生命へ注がれていた。その人がかつて体験した〈ゼロ・リバース〉の記憶が死の光に暴き出され、触れるほど傍にいる少年が共感をしているのだ。思い出と対になっている絶望の感情が流れ込んでくる。甘く、切なく腐り落ちた心の闇が。
 喉元まで胃液が込み上げてくる。普通の人間にはまともに受け取ることすら耐え難いものだった。
 その人は震えていた。
 ―― 怖いのか。
 少年は手を伸ばして、カーレンの美しい横顔を柔らかく包み込んだ。それが、年少の妹が、それとも弟が脅えている姿を見た時の、少年自身の本能的な反応だった。
 白い柱が天へ向かって立ち昇った。滅びの日と同じ色をした光が空に満ちていく。破滅の光の中で、少年は半狂乱の金切り声を聞いた。狂った未来を拒絶する悲鳴だ。悲痛な慟哭だ。背中を竜の腕で抱き込まれた。闇の翼で包まれる。
 そこからは、何も見えなくなった。自分の手のひらも、その人の姿も。

 * * * * *

 本宮高地モーメント施設占拠事件を報道していたテレビのニュース番組は途切れ、画面は白一色に染まっている。強烈な電磁波が通信機器を麻痺させていた。
 全く同じ現象が、数年前のネオ童実野シティでも発生していた。第一号モーメントの稼働実験の日。〈ゼロ・リバース〉と呼ばれた破滅の日が繰り返されているようだ。
「先輩!」
 空野は繋がらない通信パネルに向かって怒鳴った。
「十代先輩、返事をして下さい!」
 上司からの応答はない。



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−「P.W.E」…<
arcen>安住裕吏 09.04.08−