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視界は黄色くけぶっていた。何の匂いもしない。硝煙の匂いも、ものが焼ける匂いもない。ここは戦場ではない。それでも土は焦げ、森は消滅して、清潔で圧倒的な破壊の痕跡が生まれていた。蒸気が上がって明け方の空を歪めている。
焼け跡に、少年が一人で佇んでいた。身体のどこにも傷らしい傷はない。得体の知れない大きな怪獣の翼が、少年を包み込んで、モーメントがもたらした死の光から守ってくれたのだ。
夜色の翼は破れてぼろぼろになっている。やがてこの世界の中では存在を保つことすらできなくなって、透けて消えていった。
その途端に少年は咳込んだ。熱された空気を直に吸い込んで喉が焼け、上手く呼吸ができなくなる。
『―― ……』
震えて、かすれて、途切れ途切れの声が、誰かの名前を呼んだ。
少年は、ふと声のする方向へ目を向けて、息を呑んだ。乾ききった大地の上に、肘のあたりでぶつ切れになった腕が落ちていた。それが五本の指を脚の替わりに使って、蜘蛛のようにゆっくりとにじり寄ってくる。
腕は、腕だけでかろうじて生きていた。生物の範疇を超えて存在していた。少年は悲鳴を上げようとしたが、恐怖が酸のように皮膚に染み込んで喉を絞め付けてくる。声が出ない。
生きた腕の表面には爬虫類めいた鱗がびっしりと生えていて、濁った黄土色の分厚い爪が指先を飾っている。その腕が、空気を震わせることなく、少年の頭の中へ直接語り掛けてくる。
『……生きてるか。怪我はないか?』
「……え?」
『無事か? よかった……』
少年は呆然としていた。信じられない気持ちだ。音を伴わない声はとても優しくて、人のぬくもりに満ちていた。少年は、美しい容姿をした悪魔が薄い胸に手を当てて、安堵の溜息を零している幻を見た気がした。
『本当によかったぜ……。〈ヨハン〉にまたなんかあったら、オレ』
「ち、違う」
少年は、急に言い様のない罪悪感に襲われた。思わず身を乗り出して、千切れた腕を掴もうとした。だが、できなかった。恐ろしくて、神々しくて、それに触れることさえ躊躇われた。
「違うんだ。そうじゃないんだ。俺は、そんな名前じゃないんだ」
ただ頭を振ることしかできない。
『お前は、オレが守ってやる……』
腕は少年を〈誰か〉と人違いをしたまま、
『ヨハン・アンデルセン……オレのいとしい人――』
敬虔な神の使徒が、たったひとりの主に祈りを捧げるように囁いた。
それは、少年が生まれてから今までで、一度も聞いたことのない種類の声音だった。世界中を探し回っても、本当にあるのかどうかすら疑わしい、御伽噺のようなものだった。
もう何万年も前に滅びた動物を間近で眺めているような気持ちになり、あるいは、まだ誰も見た事がない新しい命のかたちを、世界の秘密を、見せ付けられているような心地になった。
「愛して、くれるのか。俺を愛してくれるのか?」
少年は、死に掛けた悪魔に恐る恐る尋ねた。
「誰にも省みられない俺みたいな『もの』を、君は愛してくれるっていうのか。抱き締めてくれるっていうのか。もしも俺が〈ヨハン〉なら、君は俺のことを好きになってくれるのか」
『ヨハン?』
幼子のような、少し不安そうな声だった。
『どこにいるんだ。何も見えない。感じない。助けてくれよ。ヨハン。……ヨハン?』
心に響いてくる声の中に、少年自身もとても良く知っている種類の感情があけすけに覗いていた。父親に愛されたがっている寂しがりの子供の渇望だ。少年自身は、もうとっくの昔に諦めて棄ててしまったものだった。
『お願いだ。名前を呼んでくれ、十代って。いつもみたいにオレのことを抱き締めて、それから、――』
少年はもう畏れなかった。迷わなかった。後悔はしなかった。
朽ち掛けた悪魔の腕を取って、魂を売り、その人の名前を呼んだ。
「十代」
―― 俺はヨハンだ。
少年は自分に言い聞かせた。
この怪物が愛してくれるもの、〈姉さん〉の弟だ。ヨハン・アンデルセンだ。
〈ヨハン〉は、悪魔に向かって頷いた。
「俺が助ける。たとえ世界を敵に回しても、お前を守る。……絶対に」
元々薄っぺらだった自我が、融けて壊れて消えていく。そして優しい闇の中で、いびつな形で再生されてゆく。
* * * * *
夜空に月はなく、深い森の奥までは人の営みの光も届かない。真夜中のデュエル・アカデミア本島、湖に程近い森の中で、デュエルの決着を知らせるブザーが鳴った。
オベリスク・ブルーのロングコートを羽織った少年が、ゆっくりとくずおれて、地面に膝をついた。対峙しているヨハンには、少年の顔に見覚えがあった。先月、社会見学で本土のモーメント施設へ出掛けた時に、アカデミア所有の軽飛行機内でちょうどヨハンの前の席に着いていた生徒だ。
施設を占拠した武装集団に人質にされていた彼らを救ったのは、〈レアル・ジェネクス・クロキシアン〉、遊城十代が使うジェネクス・モンスターだった。―― それならば、彼らが救われた命をヒーローの為に使うことに、何の間違いがあるだろう?
特殊なフィールドを形成していた装置が、ライフ・ポイントを失った生徒から多量のデュエル・エナジーを吸い上げた。皮膚は乾き、目は落ち窪んで、髪が白く染まる。一瞬で干乾びた相手は、砂の山が崩れるような脆さで倒れ込んだ。もう動かない。
「あと少し、もうすぐだ――」
デュエル・エナジー採取装置の湾曲したガラスに守られたメーターを眺めて、ヨハンは呟いた。
「待ってろよ十代。俺がお前を救ってやる」
たとえ一目でもいい、あの人の瞳に自分が映った姿を見たいと思った。
―― 四月十五日、午後六時。
ヨハンは壁の掛け時計を見上げ、生徒手帳に収められたモーメントのデータのチェックを一区切りして、ビデオ・ルームを出た。廊下で顔見知りの生徒が、電子掲示板に映し出されている成績表を見上げていた。挨拶をして歩いていく。相手はすれ違い際にヨハンの隣へ目をやって、物足りないような顔になった。
「よう留学生。十代は一緒じゃないのか。珍しいな」
「ああ、ちょっとな……」
もう何年も昔に、数々の伝説を残して本校を卒業していった十代の存在に、誰も違和感を覚えない。この世界とは相容れないものにとっては、世界の死角に蹲り、人に認識されないことは簡単だ。本来あるはずのないものが、あるはずのないものとして『認識される』―― この人間界ではそちらの方が余程自然な形だった。少しだけ寒気がした。
ヨハンはオベリスク・ブルー寮に宛がわれた自室に戻った。ベッドの上には、ヨハンが夕方に出掛けた時と同じ恰好で十代が横たわっている。
「……いいにおいがする」
十代はヨハンの気配を感じると、夢うつつで言った。寝言みたいな声だ。ヨハンはベッドの端に腰掛けて、サイドテーブルの上に二人分のドローパンが入った茶色い紙袋を置いた。
「ドローパンのことか? それとも」
購買からの帰り道に森で摘んだりんどうの花を、十代の繊細な手に抱かせる。かすかな花の香りが鼻先をくすぐった。
「どっちも」
十代は、目を閉じたまま微笑んだ。
ほんの数日前までは、ぶつ切れになった腕だった。それが肘から肩が、肩から胸と腹が、四肢が頭が、馬鹿に生命力の強い植物のように生えて、ようやく人に見える姿へと再生した。その瞼の上から、そっと指で触れる。眼球はまだ元あった形には戻っておらず、薄い肉の膜の裏には空洞の感触があった。
「喜んでくれると思ったぜ。十代って花が好きだったから」
「べつにオレが好きなんじゃなくて。ヨハンが綺麗だって言って笑ったらオレは嬉しくなる。それだけさ。だから、花なんか」
十代は照れ隠しに拗ねたふりをして唇を曲げて、
「……なんだか龍可みたいな喋り方だな」
そう言ってから背中を丸めて、少女のように笑った。ヨハンは黙って微笑みながら、十代の髪を撫で付けた。
昔、衛星から撮影したネオ童実野シティの映像にあった、空の上の庭園を見たことがある。あんなに綺麗な花園を育てていたこの人の心はきっと、とても、とても綺麗なのだ。もちろん心だけじゃない。顔も、髪も、身体も、感じやすい指も、十代は全部が綺麗だ。
十代の眠気を含んだ微笑みがしゃっくりに変わり、やがて嗚咽に変わる。
「どうして泣くんだ?」
「わかんない。けど、きっと嬉しいんだ。オレは嬉しいといつもこうなる。変なんだ、たぶん」
泣いている肩を抱いて慰めてやりながら、ヨハンは十代が子供みたいだと思った。大人なのに、幼くて弱い心がちぐはぐだ。そう考えて、すぐに否定する。強さも弱さも関係ない。これは、傷付いてぼろぼろになって、もう修復も取り替えもきかないくらいに壊れてしまった、昔は誰よりも強かった人の心の残骸だ。脆さですらない。崩れようもないほどにばらばらで、傷口は生々しかった。
「お前が泣いてる姿を見ると、俺はむしょうに悲しい気持ちになる」
ヨハンは十代の隣に寝転んで、胸の中に頭を抱いてやり、「だから、笑ってくれよ」と祈った。十代の引き裂かれた心のパーツをひとつずつ組み直してやりたいと思った。繋ぎ合わせたら、昔みたいに太陽の暖かさで笑ってくれるだろうか。
ヨハン・アンデルセンは他の〈アンデルセンの子供達〉と同じく、世界の為に生まれて世界の為に死んでいく。それが疑いようもない存在理由なのだと思っていた。
だけれどヨハンは十代に出会って人の心を知った。人の頭でものを考えた。世界の犠牲なんて冗談じゃない。温度もわからなくて、形もない、愛もない寂しいまぼろしなんかの為に命を捧げたくはない。今のヨハンの心は、ヨハンの想いのままに感じ、魂を捧げる相手を選ぶことすらできる。
遊城十代。この冷たい指を暖めてやって、隣で息をして、最期の時は優しい腕に抱かれて眠りたいと思った。
安らかな寝息が聞こえてきた。十代はまた眠り込んでしまったようだ。腕一本を残して光に蒸発させられた肉体を再構築する為には、ヨハンには予想もつかない程のエネルギーが必要なのだろう。
廊下に人の気配が生まれた。部屋のドアが二度ノックされる。ヨハンは目を鋭く眇めて、「誰だ?」と返事をした。
内側から鍵を掛けていたはずだったドアが静かに開いていく。廊下に立っているのは、二十代中頃の男だ。大人はこの学生の島ではとても目立つ。アカデミアの制服姿じゃない。黒いビジネス・スーツを着て、ネクタイを左右対称に締め、サングラスを掛けている。襟には金色の社章が留まっていた。海馬コーポレーションの社員の証だ。嫌な感じがした。
相手はヨハンを見ると、少し驚いたように眉を上げた。
「うわぁ、本当にそっくりだ。びっくりしたなぁ」
「……だから、誰だよ」
ヨハンはベッドから立ち上がって、相手を睨み付けた。男はヨハンの部屋を見渡し、ベッドの上で毛布に包まって眠っている十代に視線をとめると、結末を知っているサスペンスドラマを見ているような顔になった。
「大災害の爆心地にいて、これで二度目の生還ですね。なんで死なないんだろう。十代先輩の頑丈さは、いつも僕の予想の遥かに上をいく」
「十代は渡さないぜ。誰にも利用なんか赦さない。これ以上お前達ネオ童実野シティの人間に、思い通りにさせるものか」
ヨハンは言った。男は微笑を絶やさないまま、ヨハンに名刺を差し出してきた。長方形の紙面には、蝙蝠の翼と目玉をあしらったデザインのロゴと、〈ナイトメアエクステント〉の空野大悟と印刷されている。
空野が、顎をしゃくって廊下を示した。
「外で話しませんか。ここでは十代先輩の安眠妨害だ」
ヨハンは十代を振り返った。安らかな寝顔をしている。空野に頷いた。
「島の生徒達の間で広まっている噂を聞きましたか? 最近この辺りで通り魔が出るそうですよ」
オベリスク・ブルー寮近くの湖のほとりで、男子寮を懐かしそうに眺めていた空野が口を開いた。
「草木も眠る丑三つ時、ブルーの男子生徒を狙ってデュエルを挑んでくるんです。負けた相手はミイラになって発見される。こういったケースは、残念ながらということになるんでしょうが、この島では特に珍しいことでもない。ちょっと悪戯者の精霊か、それとも特別な機械の仕組みを理解した人間なら、デュエルを行った相手から致死量のデュエル・エナジーを奪うことなんて造作もない」
すべらかな顎に人差し指で触って、少し予想が外れたという顔で月を見上げる。
「最初はてっきり、十代先輩がこのアカデミア本島に潜伏して、例の事故で傷付いた身体を癒すために、デュエルが強いブルー寮の生徒を襲っているんだと思っていたんです。だから迎えに来た。実験体の回収も〈NEX〉の仕事ですから」
「……どうしてここが分かった」
「膨大なデュエル・エナジー反応があった。ばればれですよ。隠れているつもりだったんですか?」
空野は肩を竦めて、どこか浮ついた喋り方から一転して、生真面目な声を上げた。
「君の姿はあの人を危うくする」
口調は先程までよりも自然で、こちらの方がこの男の素顔なのだと知れる。ヨハンは眉を顰めて、まばたきをした。
「俺が十代を?」
「あの人の心は、もう壊れてしまっている。ヨハン・アンデルセンという一本の揺るがない糸が、飛び散ったあの人の心のパーツを危ういところで繋いでいる。その拠り所のおかげで、あの人はかろうじて廃人ではなく狂人でいられる。
ヨハン・アンデルセンの顔をしたものを見ると、あの人は『戻って』しまう。君はまるで癒しの秘術を刻み込んだ魔法の護符のような存在なんだ。今正気に返ってはいけない。あの人はずっとまぼろしを追い求めていなければならないんだ。そうでなければ、本当に冥界のヨハン・アンデルセンを神から取り戻してしまったら、その瞬間に遊城十代は死ぬんだ。走り出せなくなってしまうんだ。他人の夢に踏み砕かれ、みじめに脚を斬られてしまうだろう。僕は気高いあの人のそんな姿は見たくない」
「何を言っているのか分からないが、俺はヨハンだ」
空野は頭を振った。
「そうじゃない。君は名もない実験体だ。番号とあだ名は振られていたけれど―― 旧い童話、〈大クラウスと小クラウス〉に登場する主人公になぞらえて、少し前まで君は〈クラウス〉という名前で呼ばれていた。君には同じ名前の兄弟がいて、二人は兄の方が〈大クラウス〉、弟の方は〈小クラウス〉と呼ばれていた。どちらがどちらなのかは部外者の僕は知らないし、もしかすると君達自身も理解していなかったのかもしれない。君達は徹底的に軽んじられ、自我を存在しないものとして扱われ、愛を知らず、どちらも名前なんて何だって良かった。そんな薄っぺらな生き方をしてきた君の顔を見て、あの人は親愛を込めて〈ヨハン〉と呼んだ。微笑み掛けたはずだ。その時、きっと君の中に初めて自我が生まれたんだ。君は君の中に、あの人が……君にとっての〈大枡に一杯の銀貨〉、最愛の妹の〈カーレン〉が愛する〈ヨハン〉を作り上げた。だけれどそれはただの白昼夢だ。人は誰かにはなれない。同じ顔をしていても、同じ声をしていても、あの人は決して君を受け入れない」
「俺はヨハンだ」
ヨハンは繰り返した。迷いもなかった。
「俺を〈モノ〉扱いする親父も、他の兄弟達も、ホームも、何もかも知ったことか。俺には十代がいる。あいつが隣にいてくれるなら、俺にはもう怖いものなんかないんだ。俺は俺の証を、存在を証明して、居場所を勝ち取ってみせる」
ヨハンは左腕に装着したデュエル・ディスクを起動させた。デッキがオートシャッフルされ、カードをドローする。〈手札抹殺〉の魔法カードを発動し、手札を全て捨て、捨てた枚数分だけデッキからカードを補充する。そして新しい手札から、長い尾を持った蜥蜴の戦士、レベル四の爬虫類族モンスター〈ガガギゴ〉を召喚して先行ターンを終了する。
空野はレベル四の〈ホルスの黒炎竜〉を喚んだ。〈レベルアップ!〉のカードが、竜のレベルを六まで引き上げる。鋼鉄のブロイラーは成鳥になり、攻撃力が〈ガガギゴ〉よりも四百五十ポイント上回る。
「バトル!」
攻撃宣言が下される。光輪を背負った鋼鉄の怪鳥が〈ガガギゴ〉を引き裂いた。敵を倒して経験値を得たホルスは、エンドフェイズに自身の効果でレベルを八まで引き上げる。
厄介なモンスターを使う。筋道を立てて整然としていて、まるで料理番組みたいなデュエルだ。そう考えながら、ヨハンは爬虫類デッキからカードをドローした。十代は守り抜いてみせる。
命を懸けるほど真剣に誰かとの約束を守ろうとしているのは初めてだ。それもヨハンが勝手に取り付けて、一方的に果たされる約束だ。今のヨハンはまるで『モノ』ではなくて、血肉が通っていて心を持った、どこにでもいるありふれた人間みたいだった。遊城十代という人は、存在ひとつでそれをヨハンに思い知らせてくれたのだ。
ヨハンは胸の中で繰り返した―― 俺は十代を守る、救う。俺にはそれができる。
引いたカードは、モンスター・カードだ。表面を翻して名を呼ぶ。〈邪龍アナンタ〉。このモンスターは、墓地に存在する爬虫類族モンスターを全て除外することで特殊召喚できる。攻撃力と守備力は除外したモンスターの数だけ上昇する。墓地にいる〈ガガギゴ〉と三体のレプティレス・モンスターを除外し、攻撃力は二千四百に上昇する。空野の〈ホルスの黒炎竜
レベル八〉の攻撃力は三千。届かない。
相手モンスターの戦闘破壊はできないが、この〈アナンタ〉はエンドフェイズにフィールド上のカードを破壊することができる。対象はもちろん〈ホルスの黒炎竜〉だ。
〈アナンタ〉の効果の発動宣言をしようと口を開いたところで、ふと、心地の良い声が響いた。
「―― ヨハン」
振り向く。黒い森の中で、夕立ちで湿った木の幹に体重を預けて、目を閉じたままのその人が立ち尽くしている。草葉に引っ掛かれて、手も顔も擦り傷だらけになっている。
「十代!」
ヨハンは叫んだ。十代はヨハンの声を聞くと、赤いブーツで地面を蹴った。盲目の闇の中にあって、ようやく親を見付けた迷子の子供のように。頼りのない足取りで、湖畔の砂利石に躓き、顔から湖の中へ突っ込んだ。大きな水飛沫が上がる。
「先輩!」
「十代!」
空野を睨んで牽制して、ヨハンは湖へ駆け寄った。黒い水の中へ手を突っ込んで十代を引き上げてやると、赤いジャケットの肩を掴んだヨハンの腕を震える指が触った。そして、強い力で首を抱き締められた。水が肺に入ってしまったようで、細い腰を折り曲げて激しく咳込んでいる。びしょ濡れの身体は冷えきっていた。転んだ時に作ったものだろう、額の痣が痛々しい。
「ばか。何をやってる。お前の身体は普通じゃないんだ」
十代はデュエル・エナジーに酩酊していて、意識が朦朧としている。幼い仕草で頭を振った。
「俺はお前を置き去りになんてしないさ。だからそんなに脅えるな。無茶はしないでくれ」
ターンの経過と共に、今この時もヨハンの中からエナジーが吸い取られていく。ライフが零になった瞬間に、敗者は全ての生命力を吸い取られてしまう―― デスクロージャー・デュエル特有の虚脱感が全身を苛んだ。 だが、その人が目に見えて癒されてゆくさまを見ていられるのなら、犠牲も、自らの命を捧げることさえ、ほんの些細なことだった。真珠のように輝く細胞が組み直されて、美しい肢体が再生されていく。女神のように美しい顔が復元されていく。そのことに、目が眩みそうになる幸福を感じていた。
十代の瞼が弱々しく震えた。ヨハンは驚いて、その人の肩を強く掴んだ。
「十代。お前、目が……」
十代の瞳がうっすらと開かれた。虹彩が左右でちぐはぐな色を帯びた、どこか人工的な煌きを放つ瞳が、本来の形を取り戻して眼窩の中で光っていた。人であらざる者の象徴である悪魔の瞳は、この世界でもっとも美しい一対の宝石のようだ。
「ヨハン」
「目が治ったのか。……俺の顔が見えるか? 俺のことが分かるか?」
「ヨハン?」
虹彩異色症の瞳がヨハンの顔を映し込んでいる。生まれて初めて鏡を見た人間のような気分だった。
エメラルド色の猫っ毛の髪と、それと同じ色のまるい瞳。意志の強そうな眉。頬の輪郭は柔らかく、口許は凛々しく引き締まっている。
そこにいるのは、まぎれもなく、ヨハン・アンデルセンだった。
「十代」
十代の瞳は眠たげで、白痴のように虚ろだった。薄い唇が開く。鋭い牙が覗いた。赤い舌が炎のように踊っていた。
そして、言った。
「―― 誰だ、お前?」
ヨハンはきょとんとして、まばたきをした。十代の口が大きく開いた。地下深くまで穿たれた空洞の闇のようだった。そして何が起こったのかも分からないうちに、怪物のあぎとに喉笛を噛み千切られて絶命した。
* * * * *
十代は、自分よりも少しだけ背の高い少年の死骸のそばにかがみこんで、不思議そうな死に顔をしている首を両手で掲げた。ためつすがめつした後で、腹に抱き締め、赤ん坊をあやすように髪を梳きながら尋ねた。
「なぁお前、死んだのか?」
無邪気に首を傾げている。返事はなかった。耳に良く馴染んで心地良い声は聞こえず、暖かい手が親のように頭を撫でてくれることもない。落胆して、溜息をつく。
「脆いな。ほんとに脆いな……」
十代は、紫色のシャツを着てブルーのベストを羽織った身体を抱き上げた。柔らかいフリルに飾られた腕を腹の上で組ませ、胸の上に頭を置いた。御伽噺の王子様が眠り続けるお姫様を抱くように、危なげもなく立ち上がる。空野に振り向いて言った。
「購買の冷凍車って、今借りれるかな。トメさんには悪いけど、十二個しかない貴重な素材だ。腐らないうちに処置をしたい」
「了解です」
空野が革靴を踏み出し掛けて、ふと振り向いて十代の顔をまじまじと見つめた。十代は子狐のように首を傾げた。
「ん」
「いつもの顔に戻りましたね。安心しました」
十代は不思議そうに頭を傾けて、「かお」と繰り返した。
* * * * *
海馬コーポレーション、〈NEX〉部室内の受付テーブルに飾ってあるりんどうの花を見ると、「『悲しむお前の姿が好きだ』、か」、ミスター・ジェリー・ビーンズマンがぽつりと言った。十代は意味が分からず、瞳孔を縮めていた。ふと悪魔の視線に気付いたジェリーは、どうしてか急に頬を引き攣らせて、勢い良くそっぽを向いた。その肩の上に小さな豆の精霊が現れて、十代の耳元で囁く。
『むみみ。むみみみ〜』
「花言葉? ああ、そう言えばおっさん、今は見る影もないけど、昔はそういうメルヘンな世界で生きてたんだっけ」
「うるせぇ!」
「なんていうか、最高の嫌味って感じだな」
「昔も昔だ! もう忘れた。恐竜が火を吹いて、原始人がマンモス狩りをやってたくらい昔の話だ!」
「恐竜さんは純粋なパワー・ファイターですよ。火なんか吹きません。剣山が怒りますよ」
「うるせぇ! うるせぇ!!」
十代はりんどうの花の前に椅子を引いて、珍しく自分でコンピュータのアプリケーションを立ち上げ、中空に投影されたパネルを弄くっている。不思議そうにして見つめてくる部下達に向かって女神のようににっこりと微笑んで、上機嫌で言った。
「さて、休暇申請を受け付けてやる」
「僕がいなくてここが稼働しますか? 心配だ」
空野が言った。何とも頼りのない、信頼もない最高責任者だ。十代は緩く首を振って、タッチパネルを突付いている。
「心配いらない。何故ならオレも有休の続きをもらうからだ」
委員会に怒られるのが恐い、逃げる、と続ける。
「熱海とかいいって聞いたんだけどな」
「温泉なら、九州もいいとこらしいですよ。近くに良い釣り場があるそうで」
話題は自然に温泉旅行の話になっている。ビジネスに関してはシビアな性格のジェリーが、三白眼を眇めて、「サラリーマンなんざクソくらえだ」とぼやいた。
「いいか。世の中にはなぁ、貧乏でチョコレート・バーも食えねぇガキが……」
そう言い掛けた所に、十代の靴の底が飛んできた。ジェリーは顔面にくっきりとした足型を付けられて、額に血管を浮き上がらせて怒鳴った。
「なんで蹴る! 俺のがどう考えてもまともなこと言ってるぞ!」
「お前が言うとむかつくんだよ」
小気味良くパネルを叩いてスケジュール表を作り終えると、十代は上機嫌で赤い靴の踵を返した。ショールのように羽織った白衣が翻る。壁に嵌め込まれたガラス板の仕切りの向こうには、ビニール・パックに詰められた赤い液体が銀色のトレイに並び、丁寧に選り分けられた内臓が冷凍保存されている。
水族館の大水槽を前にした子供のようにうっとりとして、ガラスに手を付いて冷凍室を見つめている十代を見て、ジェリーはまたこの世の理に嫌気が差したような表情をして、腕を組み、かつてはヒーローだった悪魔に尋ねた。
「魂を選ぶ権利なんて、貴様にあるのか」
魂は唯一だ。他のどんな存在にも、たとえ神ですら擬態も模倣もできない。十代はそう嘯き、『偽物』を壊すことに何の躊躇いもない。最愛の夫の顔をしたものを食い殺すことに、性的な、あるいは精神的な絶頂の恍惚すら覚えているようにも見える。
「親になるのってさ、他の何を犠牲にしても大切なものを選ぶことができる生物に生まれ変わるってことだったんだ……これは最近知ったんだけど。だってオレの両親は家族も愛も知らない化物で、そんなの教えてくんなかったんだ。でも、そうなんだよ」
十代は慈愛に満ちた優しい笑顔で、自分の心に問い掛けながら、たどたどしく言った。狂人とは信じられない程に、あるいは誰よりも狂人らしく、純粋な表情だった。
「ヨハン・アンデルセンは、たったひとりだけだ」
悪魔が答えた。
「オレの神様は、かわりなんかいない」
それは、〈赤い悪魔〉が独りぼっちになってしまってから何度目か巡ってきた、ひとつの春の物語だ。
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