0 0 1 : 赤 い


 またいつものように泣いている。
 どうりでうるさいと思った。
 リフトの暗闇の中で控えめな嗚咽だけが、ただそれはほんの微かな空気の震動に過ぎなかったのだけれど、確かに彼の耳に届いたのだった。
 小さな泣き声は、暗がりの中で殊更に敏感になっている彼の耳には、わんわんとした耳鳴りのように大きく、確かに聞こえた。
 ずうっとぐるぐると頭の中を巡っていて、聞こえないふりもできやしない。
「うるせえよバカ」
 声を掛けると、止まった。
 いや、嗚咽は止んだが、時折ひくっと喉を引き攣らせて、しゃっくりみたいな声を出している。
 どうやら余程長い間泣いていたらしい。
 涙の気配が、余韻が、まだ生々しく伝わってくる。
 彼は顔を顰めた。
「なんで泣いてんの? オマエ、だから言ったろ。手を離すなって。はぐれたって知らねえからな」
 背中を向けて、膝を抱え、顔を埋めて蹲っている少年は、リュウと言った。
 彼、ボッシュは、肩を叩いてやろうとした。
 そうして、「さっさと帰るぞローディ」といつものように一声掛けて、基地に引き摺って帰ってやろうとした。
 だが、リュウは急に静かになってしまった。
 しん、とリフトの闇に静寂がおちた。
 なんか変だな、とボッシュは思った。
 リフトはこんなに静かだったか。
 時折通る輸送車両の音は?
 ディクの鳴き声は?
 ここはなんにも聞こえない、ただリュウがいるだけだ。
 訝しみながらもボッシュはリュウの肩に気軽に触れ、口を開いた。
 リュウが、







 振り返った。







――――うっ?!」







 ボッシュは息を飲んで、口元を押さえた。
 ひどい吐き気が込み上げてきた。
 リュウの顔は、ひどく変形してしまっていた。
 皮膚は、何らかの得体の知れない、生物らしく脈動するものに浸蝕を受けていた。
 例えば、別の生物の血管を薄い皮膚と筋肉の間に埋め込んだような。
 落ち付いた深い青色の瞳。
 いつもは穏やかさを宿した優しげな目が嵌っているはずの眼窩には、代わりに真っ赤に燃える炎が瞬いて、ちろちろと舐めるように踊っていた。
 周りの皮膚は焼け爛れ、壊死し、そして恐ろしい速度で再生していた。
 再生し、なにか別のものに取って代わっていた。
「ボ、ボッシュう……」
 まだ無事と言える顔半分は、リュウに見えた。
 リュウである部位は顔色を無くして、まだ無事な片方の目からは、大きな涙の粒がまた零れ出した。
 リュウはあからさまに恐怖に捕われていた。
 彼は救いを求めるべく、ボッシュの名を呼んだ。
「ボ、ぼ、しゅ、なに? なにこれ、おれおかし、だれかっ、なかに、いるんだ」
 リュウは混乱してしまっていて、ボッシュに縋ろうと手を伸ばしてきた。
 ボッシュは反射的に後ずさって、叫んだ。
「よ、寄るな、化け物!」
「……ぼっ……」
「あっちに行けよ! 来るな!」
 それは悲鳴に近い叫びだった。
 あからさまな拒絶を受けて、化け物、いやリュウは、目を大きく開いた。
 片方のリュウの青い目から、また大きな涙の粒が零れた。
「おれっ……その、て、つないで、ほしくて……」
「誰がオマエみたいな化け物なんかと!」
 ボッシュは恐ろしくて、足が竦んでしまっていた。
 精一杯の虚勢であっちへ行けと怒鳴ったが、もう腰も抜けてしまっていた。
 這って逃げるしかない。
 だが、それすらも恐ろしくてできやしない。
「ボッシュ、おれだよ、リュウだ。おれ、化け物じゃない」
「うるさい! あのローディに何ができるっていうんだ。オマエはリュウなんかじゃない、こっちに来るな、化け物!」
「おれ……」
 リュウは呆然と目を見開いて、伸ばした手を力なく落として、項垂れた。
「おれ、もう、名前も呼んでもらえないんだ……」
 そうしている間にもどんどん彼の身体の浸蝕は進んでいく。
 リュウは苦しそうに身を捩った。
 もう青い目も見えなくなってしまった。
 耳の付け根のあたりに、尖った骨らしいものが盛り上がって見えた。
 サードのレンジャージャケットの、リュウが誇りにしている星型のマークが突然引き裂かれて、硬質の「なにか」が現れた。
 やがて炎を生みはじめた大きなそれは、どうやら翼のように見えた。
 頭には鋭い角が生えていた。
 あの珍しい青い髪はもう見えなかった。
 色は全て抜け落ちてしまっていた。
『ぼしゅっ、いた、いたいっ、たすけ――――
 リュウが悲鳴を上げて、ボッシュに助けを求めた。
 ボッシュは逃げることも、どうすることもできずにただそれを見ていた。
 リュウがディクに変わりゆく様を見ていた。
 リュウの嗚咽はやがて聞こえなくなり、ヒトの声は奇妙な反響を帯びて、獣の唸り声のように聞こえた。
 そして、彼は本当にディクになってしまった。
 リュウ――――リュウ=1/8192というローディのサードレンジャー、そんな人間は、今やもうどこにもいなくなってしまった。
 ボッシュはやっと気が付いた。
 そうだ、リュウがいない。
 あいつは放っておくとすぐにくたばってしまうくらい弱っちいので、背中に回して守ってやらなきゃならない。
 何より、ボッシュは耐えられなかったのだ。
 こんな得体の知れない化け物を前に、一人きりで対峙していることが。
 ここには父ヴェクサシオンもリケドもナラカもあのいけすかない隊長ゼノも他のレンジャーも誰もいないのだ。
 なら相棒の、ボッシュと常に行動を共にしている、共にあるべきであるリュウ=1/8192はどこにいるのだろう。
「リュウ……リュウ――――ッ!!」
 ボッシュは叫んで、リュウを呼んだ。
 誰か、何でもいい、庇護するものが必要だった。
 あるいは、縋るべきものが必要だった。
 ボッシュを救ってくれる存在が必要だった。
 それは誰だって良かった。
 あの役立たずのローディのリュウでさえ、もう何だって良かったのだ。
「どこだ、リュウ――――ッ!!」
 返事は、すぐに返ってきた。
『ボッシュ……』
 目の前の美しい銀色の獣は、圧倒的な威圧感を持ってそこにいた。
 さながら全ての生物の王者であった。
 生態系の頂点に君臨し、ほんの気まぐれでもって他者を蹂躙することが赦される存在だった。
 ボッシュがそうありたいと夢見る存在だった。
 だがその化け物は、化け物のくせに、声色だけは優しいリュウのもので、言うのだった。
 静かに、あの穏やかな口調でもって。
『ごめんね、ボッシュ。いたく、しないからね……』
 『リュウ』は微笑んですらいた。
 次の瞬間全身を貫いた激痛に、ボッシュは絶叫していた。
「っあ……あああああっ!!」
 肩口から下が、無くなっていた。
 『リュウ』はボッシュを貪っていた。
 アーマーごと咀嚼し、飲み込み、だがその目には何の感情も見て取れなかった。
 血は零れなかった。
 何故なら、燃え盛る炎が傷口を舐め、瞬く間に焼いてしまうからだ。
 生きたまま貪り食われる感触が、あまりにもリアルにボッシュに訪れた。
 『リュウ』は何の感慨もないふうに、ぽつりと呟いた。
『つまらぬ人間だ……だがおまえが共にあると、きっとリュウが喜ぶ』
「うあああっ、ああああ!」
『価値なきヒトよ、我らが糧となるがいい』
 多分、助けて、とかもうやめてくれ、なんて事が言いたかったんだと思う。
 だがもう言葉は声にならず、最期に首筋に深々と突き立てられた獣の牙が、ボッシュを確実に絶命させた。
 命が消えていく感覚が、緩慢にボッシュに訪れた。
 ただ燃え盛る炎だけが視界にあった。
 全身を包み、身体の奥まで焼き尽くし、リュウの悲しそうな顔がうっすらと見えて、







 死の静寂が訪れた。









◆◇◆◇◆








 小さな悲鳴を上げて目を開けると、真っ白な光が視界に入った。
 一瞬前まで嫌な夢を見ていたような気がするが、思い出せない。
 自分がどこにいて、何をしていたのか訝しんだが、彼はすぐに答えを見付けた。
 ボッシュ=1/64は、メディカルルームのベッドに横たえられ、治療を受けていたらしい。
 点滴の管が、腕と手の甲に何本も刺さっていた。
(……何故だ? この俺が、メディカルルームに……?)
 今まで一度も世話になったことのないメディカルルームだ。
 ボッシュは違和感を覚えたが、ふっと目を上げた。
 リュウがいなかった。
「……リュウ?」
 このボッシュ=1/64が治療を受けるほどの任務で、リュウ=1/8192が無傷でいられるわけがない。
 まさか、とボッシュは考えた。
 今回ばかりは、リュウは本当に死んでしまったのだろうか。
 ボッシュが目を覚ましたことに気付いて、常駐しているドクターが、デスクの書類を隅に寄せて振り向いた。
「目が覚めましたか、ボッシュ=1/64」
「……リュウはどうした?」
 ボッシュは顔を上げて、まだ若い女のドクターに聞いた。
 彼女は確か、頻繁にメディカルルームに担ぎ込まれる羽目になるリュウとは顔馴染みであったはずだ。
 ドクターは顔を強張らせ、首を緩く振った。
「リュウは――――
「あいつ、どこだ? まさか……」
 死んだのか、とボッシュは聞こうとした。
 何故だか、さっきからひどい寒気がする。
 リュウが死んだからだろうか?
 それとも――――もっとひどいことがあったのだろうか。
 少しずつ、記憶が蘇りはじめる。
 リュウは――――リュウは、どうなったのだろう?
「落ち付いて聞いてください、ボッシュ」
 強張った声で、ドクターが言った。
――――リュウ=1/8192は、今日付けでサードレンジャーを除隊になりました」






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