ソロー [ 001 ]
実の所、そんなに偉くなりたかった訳じゃない。 それはただの手段だった。 別段見たこともない人間たちに誉められたりかしずかれたりする為のものだったんじゃない。 そして本当はそんなに強くなりたかったんじゃない。 剣なんて、本当は見るのも嫌だった。 血の臭いなんて、まして生臭い死臭も大嫌いだった。 でも「そういうもの」があの人は好きなようだった。 ものを殺した瞬間に、後ろでちょっと笑った顔を、ちらっと盗み見るのが好きだった。 それは一瞬のよろこびを彼に与えてくれた。 ◇◆◇◆◇ ボッシュ=1/64はレンジャーだ。 下っ端のサード・レンジャーだが、食うために働いているというだけで、特別に偉くなりたいなんて野心もない。 そういうのはついこの前に懲りたところだった。 訓練には一切顔を出さず、素早く確実に実になる仕事――例えばディク狩り、それから反政府組織のテロリストの鎮圧や、最近になって入ってきた未知の種の動物の捕獲なんてものばかりやっている。 周囲の人間に言わせれば、いつも面倒臭そうな顔をしていて、自堕落で自分勝手なところはあるけれどD値を鼻にかけない大した奴だとか、綺麗だけどちょっと目つきがいやらしいとか、まあそんなふうな男であるらしい。 ある同期の女レンジャーに訊くと、こう言う。 「まあ大人になったってことでしょ。いいんじゃないかと思うなあ、うん」 また他のレンジャーに訊くと、こう言う。 「なんか気持ち悪いぜ……刺した腕分慰謝料を払ってくれるってさあ。苛々してたんだ、悪かった、なんて謝られたし。何があったんだか」 彼の素行について気になる点があるとすれば、まず何が起こってもにやっとも笑わないこと、どうやら何か副業を持っているらしい点と、時折誰もいないのにまるで目の前に誰かがいるように話していることがあるという点だ。 だがそれらも大したものじゃなく、レンジャーたちは大体においてボッシュという人間を好意的に見ていた。たぶん。 「アビー! アビーったら!」 モモは無線機越しに叫んで、椅子を蹴って立ちあがり、どんとテーブルを叩いた。 「返事なさいよ! 捕獲数ゼロはうちのチームだけよ。ちんたらしてんじゃないわよ、ちょっと!」 『……る……さ……な……!!』 ノイズ混じりで聞き取り辛いが返答があった。どうやらまだ生きているらしい。モモはほっとして、隣で計器をじっと見つめている教官のアリッサを見遣った。 彼女は少し赤味がかったブロンドで、柔らかい感触の美人だ。昔から良く的確なアドバイスをくれる、頼りになる先輩レンジャーだった。アリッサ教官はお手上げのポーズをして、困ったふうに微笑んでしまった。 「制限時間、あと三分。またチャンスはあるけど……」 「教官、今回でもう四度目なんです。今度こそ手柄を上げなきゃ、地下勤務に逆戻りだって言うんですよ!」 「手柄って、まるで昔のボッシュ君みたいな言い方ね」 「でも事実です。そう言えば、ボッシュはどうしてるんです? 彼は参加していたんじゃ?」 「ええ、奥地の討伐隊のほうへね。多分すごいのを狩ってくると思うわ。彼は優秀だから」 「……優秀で、ハイディで、家柄も良いのに、彼なんでサードのままなのかしら?」 「さあ、本人に聞いて」 アリッサは溜息を吐きながら、やれやれとでも言うふうな調子で言った。 「少なくとも私なら、昇進指令書を紙飛行機に折って飛ばさないわね」 夜になると、今日の基地には珍しく大体の見慣れた顔ぶれが集まっていた。相棒のアビーも泥と擦り傷だらけになって帰還していた。 別隊の連中の顔も見えた――「奥地」へ向かっていた調査隊だ――その中にはボッシュの顔もあった。彼の顔ってものは何かの冗談のように整っていて、育ちのせいか物腰にもどこか気品というものがあるので、すぐに他のレンジャーたちと見分けが付いた。 「おかえり、ボッシュ。成果は?」 「まあまあ」 「へへ、ボッシュよお、俺さ、来年にはセカンドに上がれるかもしれないんだぜ。お前より上司になっちゃうかもなんだぜ……」 「よかったね、オメデト」 「くうーっ、なんか白けた顔で言われるとムカツク!!」 アビーがボッシュに食って掛かっているが、相手にもされていないようだ。 モモは「馬鹿じゃないの」と言いながら、きいきいと喚いているアビーを横にのけて、「あんたもお皿取ってきなさいよ」と言った。 「食いっぱぐれるよ。ほら、ボッシュ……も……」 食事をしてるんだから、邪魔しない――そう言い掛けたモモは、ボッシュの取り皿を見てざあっと青ざめた。 ナゲット・ケーキ、アナセミタマゴのカスタード・プリン、アップルタフィー、その他にも色々、色々。 甘いものばっかりだ。見ているだけで目が回りそうだ。デザートばっかりこんな無茶な食べ方をしている人は、女の子だって見たことがない。 「ボ、ボッシュ、大丈夫なの、それ?」 「問題ないし」 「うわあ、気持ち悪い……」 「ほっといてくれ」 ボッシュはそっけなく言いながら、行儀良く、ただしすごい早さで皿を空にしていく。 モモが後ずさって顔を引き攣らせていると、食堂の入口からアリッサ教官が顔を出した。 「ボッシュ君? お客さんよ」 教官はいつものように、少しぽおっとした感じの物言いで玄関を見遣って、困ったふうに言った。 「ただ、顔を見せてくれないの……口もきけないみたい。男の子か女の子かもわからないけど、私とおんなじくらいの背丈の子よ」 「だあれ、それ?」 モモが怪訝に首を傾げていると、ボッシュが素早く立ち上がった。 「教官、悪いね、ソイツ俺の客だよ。良く知ってる」 「あ、そう。でもレンジャー基地に用があるんなら、顔くらい見せるように言ってあげて」 「悪いけどそいつは難しいね。あの子、病気なんだ。身体が腐っていっちまうっていう――無理にシーツ剥がさなくて正解だったよ、教官。あんたきっと悲鳴を上げてぶっ倒れてる」 「そ、そうなの? ご、ごめんなさい、知らなくて……」 そしてまだ残っている皿を抱えて、足早に玄関に向かっていく。 ◆◇◆◇◆ 「よう、どうしたよ」 ボッシュは基地の中ではついぞ見せなかった微笑みを浮かべて、少し屈み、入口のへりに持たれかかって、手持ち無沙汰そうにしていた「もの」に声を掛けた。 「びっくりするじゃん、言い付けてもないのにオマエが急に来るから。なに? どうやって俺を呼び付けたの」 頭から、まるで子供が幽霊ごっこでもするふうに白いシーツを被った「もの」は、すっとくしゃくしゃになった紙切れを差し出した。 そこには汚い綴りでこう書き殴られていた。ボッシュ。 「それ」はその他に特に反応らしい反応もしなかったが、ボッシュは「それ」の頭のあたりをくしゃくしゃと手のひらで掻き混ぜて、「わざわざ迎えに来てくれて嬉しいよ」と言った。 「教官! 俺今日夜勤は止めだよ! 理由は、ええと……何する? ハ? 腹痛? んじゃ、腹痛で!!」 まるで誰か目に見えない人間が目の前にいるような調子で、口裏を合わせるような素振りを見せてから、基地の内部へ向かって叫んだ。 それから被さったシーツから「それ」の腕を引っ張りだし、手を引いて早足で歩き出した。 基地から幾分離れた辺りで、ボッシュはちょっと窘めるような調子で「それ」に言った。 「まったく、オマエはそうやって任務をほったらかしてふらっとどっかに行っちまう癖、治んないの?」 「それ」は答えない。ただ押し黙っている。 「でも主人に従順なのは良いことだよ。誉めてやる」 ボッシュは微笑んで言った。 「うちに帰ろう」 ◆◇◆◇◆ 空は開いた。 いつのまにか開いてしまっていた。 長年抗争を続けてきた政府とトリニティの間に、和解のようなものがあったらしい。 今から一年と少しばかり昔に、急にテレビのニュースや新聞で報じられ始めた。 街灯で配られる号外には、政府の一番偉い人とトリニティの親玉が、ジオフロントで空を背景に握手しているモノクロ写真がばんと掲載されていた。 そのことでひどい暴動が何度も起こったが、空への移住計画が始まるとそれどころじゃなくなった。 バイオ公社の調査によって空の安全性が証明され、地上で実験的に、無作為に各階層から選ばれた人間が居住することになった。 それらは全て上の方で勝手に決まってしまったことだった。 居住権の抽選には、レンジャー基地のサードレンジャーたちは揃って落選していたが、かわりに大分馴染みの顔ぶれが、空での勤務権を手に入れた。 D値に関係なく、階層間を移動できるレンジャーの特権だった。 モモの知ってる顔ぶれと言えば、まずエリートのボッシュ、そばかすのアビー、アリッサ教官、ファーストの嫌味な小姑先輩、顔なじみの食堂のおばちゃんたち、それからモモ自身。 残りは中層区と上層区に送られた。 下層区はもう駄目になっていた。 空の絵はまだ残っているだろうが、トリニティの有毒ガス散布で居住者の大部分がやられていた。 みんなローディばかりだった。 その後原因不明の出火でレンジャー基地は焼けてしまった。 調査によると、どこかのレンジャー・ルームでぼやが起こったのが原因らしい。 空組の契約期間は半年で、良い成果を上げられなければ地下勤務に戻されることになっていた。 じきに一年になる。仲間たちは相変わらずの者ばかりだ。 ただ二人で任務に当たるのが通例のレンジャーの中で、ボッシュ=1/64がいつまでもぽつんと一人きりでいた。 そのことで彼は一人浮き上がって見えた。 ボッシュは前にも増してかたくなに相棒の選別を拒否していた。 彼はそれを誰に咎められることも無かった。 上もそれについて口を出す気配はなかった。 ボッシュはいつも一人でいたが、間違いなく二人分以上の仕事をこなしていた。 彼は異常なくらい優秀だった。 一年ほど前、基地でしばらく見掛けないと思ったら、ボッシュはちょうど空が開いた直後くらいに、空のレンジャー駐屯基地に、ひょっこり戻ってきていた。 何か重要な任務に就いていたらしいが、当たり前だが機密保持のため、彼はそのことについては何も語らない。 ボッシュが所属していたゼノ隊は全滅して、彼の相棒を含め、みんないなくなってしまった。 一時期それが、その頃基地にいたリュウというレンジャーの少年の仕業だという噂が流れたが、やがてそれも笑い話になり、徐々に忘れられていった。 リュウは1/8192というローディで、誠実で実直な男だった。 モモも良く知っている、何かの間違いでも悪いことなんてできなさそうな、生真面目な少年だった。 混乱が収まった頃に上から通達されてきたのは、彼は健康上の理由で除隊され、その後事故で死亡したということだった。 傷を負って身体が一生使いものにならなくなったり、死んだりする仲間は毎日両手が塞がるくらいいたから、いつしかそれも良くあることになってしまった。 元相棒のボッシュも、それについてどうという感慨も無さそうな顔をしていた。 彼はいつもどこか白けたような顔でいて、何か考え事をしているように、ぼおっとして塞ぎ込んでしまうこともあった。 ボッシュは少し基地を空けていた間に、大分変わってしまっていた。 彼の目は相変わらずくすんだマットな灰色のグリーンだったが、以前のような野心に溢れたぎらぎらした光は、いつのまにかふっと消え失せていた。 かわりに何とも言いようのない、どこかほっとしたような、大事な無くし物を探しまわった後やっと見つけたような感触の感情が、注意深く観察しているとそこには見て取れた。 嫌味なところは相変わらずだったが、そこから高慢は消えていた。 顔立ちは相変わらず美しかったし、時折そこに物憂げな影が加わって、彼の魅力を一層絶対的なものにしていた。 言ってみれば、険が取れてしまっていた。 そのせいで、レンジャー仲間の間での彼の評判は、おおむね良いものへと変わっていった。 ただ、手柄と出世への意欲が急に消え失せてしまって、D値こそすごいものだけれど、昇進は望めそうになかったから、甘い汁を吸う為に彼にごまをすっていた人種は、彼から段々離れていった。 だがボッシュは気にしたふうでもなく、いつもなんだか少し機嫌が良さそうな、穏やかな表情でいた。 先日先輩の土産の蒸留酒を並べてみんなで大騒ぎをやっている時に、モモはほろ酔いで饒舌になっている彼に、そのことについてこっそり尋ねてみたことがある。 「最近なんだか嬉しそうね?」 返事はこう返ってきた。 「うん、まあね。すごく嬉しいことがあったんだよ。欲しかったものを手に入れて、大好きな子が、今はずっとそばにいるんだ。俺はもうほんとになんにもいらないんだ」 モモは少し驚いたが、そう、と言って、話はそこで終わった。 モモは12の歳に候補生入りをしてから、13でサードに上がり、今までなんとかレンジャーをやっている。 お気に入りのピンクのレンジャースーツには、いくつか勲章も付けてもらった。 ぴんぴんと飛び出してくるくせっ毛はピンで留めて、長い黒髪をアップに纏めている。 ディクと取っ組み合ったりするのは苦手だが、そういうのは相棒の少年に任せて、後方支援することが主だ。 銃器は人並みに扱えるし、魔法も初歩だが使える。「パダム」と「プーカ」。 最近では一点特化型ではなく、いくつかの種類の武器やスキルを使えた方が便利だという、複合型レンジャーを育成するための講義が主流になっていて、面倒だとは思うが、いくつか単位も取らなきゃならない。 相棒の少年、そばかすのアビーは剣を振り回しての「アタック」ばっかりだ。 頭を使うのは好きじゃあないらしいが、ボッシュが何でも完璧にやるのを見て、無駄なライバル心を燃やしていたりするので、初歩の「バル」くらいは覚えてくれるかもしれない。 そう、こんなところでもボッシュは完璧だった。 スキル所得認定試験なんて何も受けていないのに、彼の剣技はレンジャーの域を越えて一種の芸術品のようだったし、銃も問題なく取り扱っていた。 おまけに、ファースト・レンジャーでさえ難しい「グレイゴル」まで修得している。 そのくせ能力測定では、たったレベル04を叩き出していた。許容量は人間離れしていた。 そして誰もにD値の絶対性を示しながら、最近の彼の口癖は、こんなものだった。 「D値なんてアテになりゃしない」。 ハイディのボッシュが言うと、それはなんだか嘘っぽく聞こえた。 アーセナルへ鑑定に行って、すぐに戻る約束のはずが、ジャジュとの世間話が長引いて、大分遅くなってしまった。 夜はルームメイトと一緒に食事を取ろうと思っていたのに、もう約束の18時を回っている。 先に食べててくれれば良いけどと考えながら、バックラーとライトスーツを抱えて、走った。 今回の未鑑定品は割と良い品物ばかりで、大分懐が潤った。 約束破りのお詫びに、今度食堂のAセットを御馳走してあげよう。 とりとめのないことを考えながら走っていると、路地の陰からふっとボッシュが現れた。 モモは驚いて、止まろうとしたが、何せ幾分勢いがついてしまっているものだから、止まれない。 思わずボッシュとぶつかってしまう羽目になった。 「きゃ! ご、ごっめん、ボッシュ! 考え事してて!」 「前見て走りな」 ボッシュは気にしたふうでもなく、モモの襟を掴んで、軽々と身体を支えてくれた。 彼はすごく細い腕をしているのに、ものすごく力持ちだ。 たまにびっくりさせられてしまう。 「あ、ありがと。て、あれ、ボッシュ?」 モモはボッシュが今しがた姿を現した路地を覗き込んで、彼を呼び止めた。 「この先、行き止まりでしょ? 何でこんなとこから……」 暗闇の中には、正体は知れないが、ぱちぱちと青白い稲妻が宙で跳ね上がっていた。 奇妙な魔法陣のようにも見えたが、やがてすうっと薄くなり、空気に溶けてしまった。 「……ボッシュ? 基地内外での魔法の使用は、訓練施設の一部を除いて禁止されてたはず。こんなとこで何してたわけ?」 「戦闘用途以外は、特に規制されていない。第18条、いかなる理由があろうとも、特定施設以外の基地内エリアでの魔法及び特殊スキルの使用を禁止する。ただし特定訓練施設に限り、教官二名の許可を得て使用を許可する」 「あきらかに無断使用だったわ」 「うるせえな。夜勤に遅れそうだったから、実家から飛んできたんだよ。転移魔法陣まで規制されてないだろ」 モモはそれを聞いて、さすがに驚いて声を上げてしまった。 「実家から転移! さ、さすがエリート様のお家は違うわね……」 「べつに、大したことじゃないだろう? この辺トランスポートもろくに整備されてねえから、どこに出るか不安だったけど、まあ壁の中とかに出なくて良かったよ」 「……そんなにアバウトでいいの?」 「さあ。ともかく、黙ってなよ、今度メシ奢ってやるからさ。ああ、時間だから俺は行くぜ。じゃあな」 「あ、そうね、がんばって。お疲れ様」 モモは手を振ってボッシュを見送って、何だか奇妙な気分になって、微妙に首を傾げた。 ボッシュは最近、なんだか前よりもとっつきやすくなった。 D値なんて本当にどうでも良いって顔をするようになった。 何だか誰かに似てるんだ、とモモは考えた。 だがそれが誰なのかというと、一向に思い当たらない。 まあ気のせいかなと思い直して、モモは時計を見やって、いけない、と叫んだ。 時刻は19時になろうとしていた。 これは後で口をきいてもらえなくなるかもしれない。覚悟しなきゃならない。 ◇◆◇◆◇ 「あんたって、変にとっつきやすいよね」 モモが言うと、その少年は照れ臭そうに俯いて、そうかなあ、と自信が無さそうに言った。 彼は穏やかで、さっきからいくらも他の子たちにひどい目に遭わされているっていうのに、怒った顔を見せたことがなかった。 彼は、生まれてきた時に怒るということを忘れてきたみたいに、物静かで心優しい男の子だった。 そういう子を見ていると、いつもはもっとちゃんとしっかりしなさいよと言いたくなるモモだったが、その少年相手には、なんだか言えなかった。 言ってはいけないような気がしたのだ。 それがすごく大事なことのような気がしたのだ。 なんでかはわからない。 「モモはいいね、誰とでもおはなし、できて……。アビーくん、おれのことキライみたい。ヒューくんもキライだって。ほかの子も。よわむしでなきむしなの、ともだちなんて、できないって、みんな、いうも……」 最後のほうは、涙声だった。また泣いている。 もしかすると、さっきまでいじめられていたのを思い出してしまったのかもしれない。 「泣かないでよ。レンジャーになるんでしょ」 「うん、おれ、ゼノねえちゃみたいな、れんじゃーに……」 男の子はぐすっと鼻をすすって、ぷるぷる震えながら、なかないも、と舌ったらずに言った。 「なんかね、気安いのよね。あんた、叩いたって全然いいんだよっていう感じがする」 「い、いや……! た、叩かないでね、モモ……」 「叩くわけないでしょ、馬鹿ね。だから泣くのやめなさいって。今ゼノさんが見まわりに来たら、あたしが泣かせたって思われるでしょ」 「ゼノねえちゃ、おもわないもん。ホントのこと、なんでも知ってるも……」 「もう、しょうがないなあ、鼻水出てきたよ」 モモはテレビ塔を眺めて、もう時間だわ、と言った。 「帰らなきゃ、ママに叱られちゃう。あんたも早く帰りなさいよ。うち、どこ?」 「ない……」 「ないわけないじゃない、どこだってば。送ってってあげるから」 「だ、だめ! ついてきちゃだめ! 見たら、モモもおれのこといじめるもん!」 「どうして? あたしいじめないよ」 「ほ、ほんと? やくそく、する? ゆびきり?」 「うん、いいよ。ねえ、あんた今度うちに遊びに来たら良いよ。ゲームさしたげる」 モモはさっきまで男の子たちとレンジャーごっこをしていた時に使っていたアンテナ――路地に落ちていたナゲットの触角を掴んだまま、ほらおいでよ、と言った。 「置いてくよ」 「うん……」 それから確か、家に帰ってこっぴどく怒られたんだった。 施設の子供なんかと遊ぶなんて、ということだ。 その男の子は、すごくローディなんだということだった。 ローディっていうのは、すごく悪い子のことなんだってママは言っていた。 でも約束だから、その子のことはいじめなかった。 ただ、遊ぶのはやめてしまった。ママに叱られるから。 次の日に、その男の子が家までやってきて――昨日モモが「いっしょにゲームしよう」って呼んであげたのだ――モモの名前を呼んでも、モモは居留守を使って、じっと黙ったままでいた。 窓から覗くと、ぼろぼろで綿が出たナゲットのぬいぐるみを抱えて、男の子は家の前でぺたっと座り込んで、地面に絵を描いていた。 大分ほったらかしていたけど、男の子は黙ってじっと待っていた。 じきにママが帰ってきて男の子を見付けると、怒鳴り付けて、どこかへやってくれるようにレンジャーに頼んでた。 ちょっと悪いことしたなと思ったけど、モモはしょうがないんだと思うことにした。 その子がローディで施設の子なのが悪かったんだと。 その後も男の子は、街で遊んでいる時なんかにちょこちょこ寄ってきて、あそんで、とか、おそらみよ、とかせがんでくることはあったけど、モモが相手にしないでいると、やがてそれも止めてしまって、また前みたいにいつも一人ぽっちでいた。 一人でふらふらしながら、良く他の男の子たちに石を投げていじめられていた。 それから何年かしてレンジャーになった頃には、男の子は昔みたいな泣き虫ではなくなっていた。 相変わらずローディって苛められていたみたいだけど、剣の腕はゼノ隊長のお墨付きをもらっていたし、穏やかな気質や、優しい性格、静かで、良く考えてからものを言うための寡黙は見ていて心地良かった。 どんなに難しい仕事を回されても音を上げないで、くじけず、諦めないで一生懸命になっている顔はちょっと格好良かった。 サードの入隊式でまた顔を会わせた時に、何度も「あの頃はごめんね」と謝りたかったけれど、当の男の子は昔のことなんか覚えてないみたいに、柔らかい笑顔ではにかんで、はじめまして、と言った。 モモもつられるようにして笑って、はじめまして、モモです、と自己紹介した。 本当は謝ってあげたかった。 それがずっと心のどこかにあって気持ちが悪かったけれど、結局その機会もないまま、何年か後男の子は事故に遭ってあっけなく死んでしまった。 ◇◆◇◆◇ 「オリジンてさ、こんなに小さかったんだな」 古いスクープ雑誌を引っ張り出してきたアビーが、疑わしげな顔でぽつりと言った。 彼の言いたいところは理解できた。 モモはオフィスの片付けを放り出して、凝った筋をぐっと伸ばした。 「そうね。昔テレビで見た時は、もっと背の高い男の人じゃなかったっけ? それより、少し休憩しようか。もうじきお昼だし」 「このトリニティのおっさんがすげえ大男なのかな……うん賛成。あーあ、俺、来年はきっとセカンドだぞ。こんなの万年サードのローディがやればいいのに」 ぶつぶつ文句を言っているアビーの手元の雑誌には、例の有名な写真が載っていた。 空が開いた時のやつだ。 オリジンとトリニティのボスが仲良く向かい合って握手をしている。 これのおかげでいくつも暴動が起きて、鎮圧のために何人も仲間が死んだ。 だが今になってみれば、まあ仕方のない選択だったのかもしれないと思えるようになった。 空ははっきりと危険だったし、人類に厳しかった。休戦は正しい選択だったろう。 テレビに顔を出す高官なんかも、揃ってそんなことばかり言っている。 モノクロ写真の右側に立っている男が、トリニティのリーダーメベト。 お尋ね者だったが、驚いたことに元統治者という経歴を持ち、オリジンとは旧くからの知り合いだったそうだ。雑誌に書いてある。 背が高く、左側に並んでいるオリジンと比べると、二人の背丈はまるで大人と子供ほどの違いがあった。 黒いぴったりしたシルエットの奇妙な格好をしている銀髪の男が、この世界のオリジンだ。 体つきはほっそりしていて、背が低く、まるでまだ少年のようだった。 二人とも空の逆光で顔立ちは良く見えない。 「ボッシュのやつ、またサボリかよ。代わりを誰がやると思ってるんだ、くそ」 アビーが頬を掻きながら、壁の当番表を睨み付けていた。 表にはアリッサ教官の綺麗な字で、本日の掃除当番、と書かれていた。 オフィス欄にはアビーとモモの名前が書かれていた。 ひとつ下の欄に、エントランスとある。 当番はボッシュだったが、彼はさっきから見掛けない。 「相棒なんかいらないなんて言うんだから、二人分をご立派にやってもらうべきだよな、こういう時もさ。都合の良い時だけ一人で何でもできるんだみたいな顔しちゃってさあ」 「陰口はいやらしいわよ、アビー。文句なら堂々と言ってきなさい。骨は拾ってあげるから。ボッシュも何か考えるところでもあるんでしょ。何も一度も相棒がいなかった訳じゃないんだから」 「ああ……へへ」 急にアビーは居心地悪そうな顔でにたにたして、きょろきょろと辺りを見回し、小さな声で「これは秘密なんだけどさ」と言った。 「ボッシュ、なんで相棒を持たないかって知ってるか?俺知ってるんだ。隊長に口止めされてるんだけどさ」 アビーはしたり顔で、実はさ、と言った。 秘密なんて言いながら、ほんとは誰かに話したくて仕方がないって顔だ。 彼は口が軽い上に、堪え性がない。悪い奴じゃないんだけどなとモモは考えた。 「あいつの相棒、ほらいただろ? さえないローディの駄目な奴さ。 あいつが裏切ったんだよ。ボッシュを――いやレンジャーを売ったのさ。 トリニティに任務の内容を密告したんだ。ルートとか、いろいろ、全部。 それで隊は全滅しちゃったんだ。ボッシュはそれが忘れられないのさ。 きっと、相棒ができたとしたら、そいつがまた裏切りやしないかって、それが怖いに違いないぜ」 「……あんたの話は、6割がたでまかせだからね」 モモは呆れて肩を竦めた。 「大体そんな大事な情報を、なんであんたなんかが知ってるのよ」 「前の教官が、俺があのエリート面したボッシュに腕をやられて入院してる時に、見舞いにきたついでに教えてくれたんだ。 その裏切り者がその後どうなったのかは知らないけど、まあトリニティに入ったか、捕まって死刑になったかのどっちかじゃないか?」 「あんた、ほんとに馬鹿ね。人を信頼するってことができない奴なのね」 モモは、自分でもちょっと強張っているとわかる声で言った。きっと顔もおんなじだろう。何か言ってやろうと口を開く前に、急にぽんと肩に手を置かれ、後ろから声が降ってきた。 「楽しそうだね。何がそんなに面白い話題なのかわかんないけど」 「ボ、ボッシュ!」 アビーがすぐさま見て取れるくらいに顔色を白くした。 いつのまにか、またボッシュがモモのすぐ後ろにひょいっと現れていた。 もちろん気配なんかない。まるでどこかからまた転移してきたみたいに、ぱっと現れたみたいだった。たまに思うのだが、最近のボッシュはちょっと得体の知れないところがある。昔よりとっつきやすくなっているので、普段気に留めることはないのだが――。 「……色々推測してくれてんの、興味深いとこもあったけど、はずれだよ。 はずれだったんだ。確かにちょっと誤解しちゃったところはあったけどさ、あいつはいい奴だったんだ。ただ事故に遭って死んじゃっただけ。死んだ奴のことをこれ以上話題にしたって仕方ないだろ?」 「い、いや、へへ、そ、そうですね……じゃない、そうだなあ、うん」 アビーが作り笑いをしながら、慌てて頷いた。 彼はボッシュが万年サード・レンジャーに留まるつもりらしいと見て取ると、昔のようにごますりや媚び売りを止めてしまって、怪我を負わされたこともあって、何かにつけて対抗心を燃やしているのだが、たまに睨まれるとこうして震え上がってしまう。 昔の癖が染み付いてしまったのかもしれない。 「そうだ、ボッシュ、エントランスの掃除は?」 モモが訊くと、どうせまた「やっといて」なんて答えが返ってくるのだろうと思ったが、意外にもボッシュは頷き「問題ない」と言った。 「多分埃一つないよ。そういうのは得意なんだ。昔から変わらない――」 「……うん?」 「うん、まあ、終わったってこと。それより昼飯まだなんだろ。 おごってやるから来なよ。昨日言ってたろ」 「え? ほんとにいいの?」 「構いやしないさ、そういう約束だし。時間はあるけど、食堂で済ませる? 外に出たって良いけど」 「あ、へへへ、お、俺もご一緒して良いですかね? ……じゃなくって、良いか? ボッシュ」 「昼時でしょ? 混んでない?」 「二人分くらいの席ならあるだろ」 「おい、俺は……」 アビーがまたボッシュに食って掛かっているが、本当に、見ている方が悲しくなるくらい相手にされていない。 モモはこっそり溜息をついて、 「……ん?」 ごしごしと目を擦った。 今なんだか、誰かが通り過ぎなかったろうか? モモとおんなじくらいの背丈の、白っぽい格好をした誰かが、ふわふわとデスクの横を通らなかったろうか? だが目を擦っても、やはり誰もいない。 オフィスの中は三人きりだった。 ドアが開いた音もないし、人の気配も他にない。 「……今誰か帰ってきた? 白っぽい服着た子」 「ハア? 何言ってんの。疲れてるんじゃない? 誰も来ないよ。 最近オマエ忙しいじゃん。たまにはゆっくりしたほうがいいよ」 「そうだぜモモ、馬鹿みたいなこと言うなよ」 アビ―が、都合の悪い話を打ち切れたことにほっとしたような顔をして、うんうんと頷いている。 本当に調子が良いわと呆れて、モモは溜息を吐いた。 「そうね、疲れてるのかもね。アビー、昼から一人でお願い。メディカル・ルームに寄って、目薬もらってくる。ボッシュ、どっかオススメの店ある?」 「おい」 「商業区に良いトコを見付けたよ。割と近く。隊員用ゲートから五分くらいかな」 「おい、ちょっと待てよ! どういうことだよ」 アビーが喚いているが、知らないふりをして、モモは「行きましょ」と言った。 「そうだね。さっさと出よう」 ボッシュについてオフィスを出る時――アビ―も文句を垂れながら勝手にくっついてきたが――モモはふと奇妙な物音を聞いた。 エントランスの方から、裸足で誰かが歩きまわる、ぺたんぺたんという小さな音が聞こえたような気がしたのだ。 「ん?」 モモは、ぱっとエントランスを見遣ったが、「なにやってんの」とボッシュに小突かれ、わけがわからなさそうな顔で見つめられてしまった。 ボッシュという人間は、ただでさえ冗談みたいな綺麗な顔をしているのだから、こうやってじっと見るなんてことは止めてもらいたい。心臓に悪い。 「あ、ああ、ボッシュ、あっち誰かいた? 物音が聞こえたから」 「そりゃ、基地は狭いんだ。どこに行ったってレンジャーだらけだよ。それより腹が減った、さっさと行こうぜ」 「そうだぞモモ、お前ちょっともたもたし過ぎだ」 モモは苦い顔をして、口の中だけでまた「調子良いんだから」と呟いた。 帰りがけに寄ってみると、エントランスは驚いたことにすごく綺麗に磨き上げられていた。 これをあのボッシュがやったのだろうか? いつものどうでも良さそうな顔で、彼が懸命に床を磨いている姿を想像すると、なんだかおかしいなとモモは思った。 ボッシュは良く外出する。 規定時間内は割と基地の中にいるけれど、それ以外はまず姿を見ない。 そもそも、彼はレンジャー基地において、部屋を与えられている訳じゃない。 だからと言って、地下の実家から通っているというわけでもない。 彼は空の街の外れに部屋を借りていた。 実家の話をすると嫌がるので、勝手に飛び出して来たのかもしれない。家出とか。 彼は仕事とプライベートを完全に分けている人間で、まず誰も家に呼び付けないし、上がらせない。 「エリート様がすごくぼろっちい所に住んでるのがきっと恥ずかしいに違いない」と基地では噂になっていたが――まあ、ボッシュの悪評を広めるのはいつものようにアビーだったようだが――レンジャー基地において、一人で空に部屋を借りて自活するなんてことは一種のステータスのようなもので、別段それがボッシュのプライドに障るようなものだとも思えない。 周りはほぼはずれていた空の住民票を、ボッシュは持っていた。 親のコネだろうとアビーは難癖を付けていたが、ボッシュは肩を竦めて、そこばっかりは前みたいに皮肉った言い方をして、前の仕事の恩賞だよと言った。 「まあ、オマケみたいなもんだけど。じめじめしてて最悪なんだ。ほっとくとすぐにアブラクイが沸くから、月に一度は丸1日掛けて駆除作業をしなきゃならない」 「うへえ、アブラクイ……」 アビーはげんなりした顔になって、すごすごと引き下がった。 彼はアブラクイやサビクイなんかがすごく苦手で、遭遇した時にはいつもぎゃあぎゃあ叫びながら逃げ回っていてまるで役に立たない。 前の仕事って何なのと聞くと、ボッシュはいつもの白けた顔で、別に大したことをした訳じゃないと言った。 「いつもやってることと変わんないよ。ディクを駆除したんだ。それだけ」 「ふうん」 話はそれで終わったが、何だか変なのとモモは思った。 ボッシュはいつも何でもつまらなさそうに話すが、それはなかなか大したものばかりじゃなかっただろうか。 ほんとにそれだけなんだろうか? 商業区のカフェテリアは、ボッシュの目にかなっただけはあって、味は今まで食べたことがないくらいに美味しかったし、プレートの彩りも綺麗だった。 別段まずいとも思わないが、基地の食堂のセットメニューとは大違いだ。 昼時なので混んでいたが、運良くテーブルは空いていた。 「いつも来るの?」 「まあね」 ボッシュはそっけなく言って、じいっと真剣にメニュー表を見つめている。 彼の最近の楽しみは、もっぱら片っ端から甘いものを食べることにあるようだった。 なんだか女の子みたいな趣味だなとモモは思ったが、さすがに口には出さないでおいた。 かわりに勝手にくっついてきたアビ―が口を出していたが。 「おいボッシュ、お前人が食事してる時に、目の前で甘い匂いさせんのやめろよな。すごく気分が悪くなるぜ。大体女々しいとか思わないのかよ」 「失礼、俺は前菜に「ミルクプリン・アップルソースがけ」をバケツサイズで三つ」 「お前、どこか悪いんじゃないのか……? 頭か胃か、どっちか」 さすがにアビーが青い顔になって、心配そうに訊いた。 彼はボッシュを嫌っているようだったが、別段憎んでいるわけじゃない。 最近は前ほど敵意ってものを見せなくなった。 これもボッシュが、昔のようにD値を鼻に掛けた態度をきっぱり止めてしまったせいだろう。 「身体が大きくなったんだ。このくらいじゃ全然足りない」 「大きくって言っても、限度があるでしょうに」 モモはちょっと笑って、ボッシュに言った。 「何もビルみたいに大きくなった訳じゃないでしょ。食べ過ぎて気持ち悪くなっちゃうよ」 「……うん、まあ、そう」 ボッシュは、何故か変な顔をして頷いた。 食事が終わると、とりとめのない話をいくつかした。 最近の講義パートのカリキュラムや、任務について、例えば空の動物に関してのことなど、それから簡単なプライベートに関して。 そのどれもにボッシュは何でも無さそうに答えてくれたが、なんだかなんとなく、はぐらかされているような感じだった。 「うげえ、俺もう駄目だ。絶対ボッシュと飯なんか食いに来ない……」 アビーは今にも吐きそうな顔をして、ボッシュのカップを見ている。 運ばれてきたコーヒーに、ポットの半分は砂糖を入れている。もう砂糖の味しかしないんじゃないだろうか? 「あんたが勝手についてきたんでしょ」 モモが呆れてアビーを小突いていると、カフェのドアが開き、男が一人入ってきた。 レンジャースーツをだらしなく着崩し、ポケットに手を突っ込んでいる、赤味がかった肌の猫背の男だった。 満席の店内に一瞬渋い顔をしたが、「おっ」という表情になって、すたすたとモモたちの席へやってきた。 「ラッキー、イッコ椅子空いてるじゃん。邪魔するぜ家出小僧」 男は気安くボッシュの頭を、子供にするみたいにぽんぽんと撫でて、にっと笑った。 ボッシュはあからさまに嫌そうな顔になって、がたっと椅子を蹴って立ち上がった。 「もう戻るから」 「ん? なに? ゆっくりしろって。まあ話でも聞けって。いやむしろ、聞いてくれ。クピトの奴がさあ、ひどいんだよ。さっきまでまたオンコット使って、俺を屋上から吊り下げてたんだ。おかげでもう二日飲まず食わずで」 「あっそ。なあ、帰るから手を離せよ。昼イチで任務が入ってるんだ」 「俺だってそうだ。別に自慢するこっちゃない」 男は気安く椅子に腰掛け、モモたちを見ると、何故かびっくりしたような顔になった。 「あれ。おいお前、まさか友達がいたのか……? 嘘だろ? 何かの冗談だと言ってくれ。でなきゃ爆笑していろいろ触れ回らなきゃならん。手間が掛かる」 「知らないよ。会計」 ボッシュは男にレシートを押し付け、じゃあねと言った。 「任せた。おいオマエら、帰るぞ。ヤな奴に遭った」 「まあお兄さんお金持ちだからこれくらい構わないけどさ。どうせおっさん持ちだし。それよっか、ちょうど用があったんだった、ボッシュ君」 「……なに」 ボッシュが、基地ではあんまり見たことがないくらい険悪な顔で、ぎろっと男を睨んだ。 綺麗な顔でやるものだから、ものすごい迫力がある。 アビーなんか完全に怖気づいてしまって、青い顔で下を向いていた。 だが、男には堪えたところはまるでない。 「おまえさんの大好きなあの子のことだよ。そろそろ調整に回してくれとよ。悪いようにはしないからさ」 「…………」 ボッシュは急に黙り込んで、目を閉じ、返事をしないまま店を出てしまった。 「あ、ボッシュ!」 慌ててモモが後を追おうと立ちあがると、男はにやにやと手を振って、まあ仲良くしてやってくれよー、と言った。 「ボッシュ! 待って! 誰あれ?」 「知らない」 彼の表情は固かった。 なんだか居心地が悪い雰囲気になってしまった。 モモは何とも言えず、黙っていた。 さっきの男は誰だろう? ボッシュの知り合いには違いないだろうが、歳格好から察する所、他の基地のレンジャーってところだろうか? ボッシュと親しい(とはあまり言い難かったが)ところを見ると、上層区の人間なのかもしれない。 それに、とモモは考えた。 大好きなあの子っていうのは、誰だろう。 『大好きな子が、今はずっとそばにいるんだ。俺はもうほんとになんにもいらないんだ』 そんな話を確か聞いたことはあった。 でも何となく、まあ変なことではないのだろうけど、ボッシュという人間が、誰かのことを好きになるなんて、まるっきり嘘っぽく聞こえてしまうのだった。失礼な話だとは思うが。 翌日、疑問は半分解決した。 朝、基地に出勤すると、どこかで見た顔がオフィスに居座っていた。 「はい、おはようございます。ジェズイットって言います。D値は聞かないでね、そんな大したもんじゃないし」 昨日の男だった。 さすがにモモは驚いてしまった。 ボッシュはこのこと、知ってるんだろうか? 男はニヤニヤしながら、続けた。 「今日からサード・レンジャーってことになるッスね。みんなの同期。何十年ぶり……いやいや、じゃなくって、不慣れなこともいろいろあると思うけど、まあ何せレンジャーなんて初めてだからさあ。歳は18。よろしくね」 なんとなくボッシュをちらっと見遣ると、彼はいつも通りのどこか白けた顔でいた。 でも彼のデスクの端から、みしっ、と木の枠が軋むような音が聞こえた。 |
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