ソロー [ 002 ]
白い服は、埃と泥で汚れてしまっていた。裾もほつけて糸が垂れ下がっていたし、あちこち破れていた。足も手も泥だらけで、顔には煤がついていた。 だが、それらも「それ」の魅力を何も損なえはしなかった。 「ただいま」 ボッシュは後ろ手に借りた部屋の扉を閉めて、そう呼び掛けてみた。反応は緩慢だったが、「それ」は顔を上げた。 「今日はご苦労だったね。わざわざ掃除までしてくれちゃってさ。 でももう少し気を遣いなよ。サードの女の子が、オマエのことをちらっと見ちゃったみたい。 来る時はちゃんと俺に伝えるんだ。方法は前に試したろ。わかった?」 返事もせずに、椅子に腰掛けてぼおっとしている「それ」の頭をくしゃくしゃと乱暴に撫でて、ボッシュはにっと笑い、でも嬉しいよと言った。 「オマエが俺の為に、何かを自発的にしてくれるってのが嬉しいよ。 だってそれって、オマエがまだそこにいるってことなんだものな」 後ろからぎゅっと抱き締めて、ボッシュはにやっと笑い、後で身体洗ってやるよと言った。 「汚れちゃってる。またへまやったろ? バケツひっくり返したり、転んだりさ。 せっかくキレイなんだから、ちゃんと清潔にしときなよ。どうせ言っても聞きやしないんだろうけど」 目を閉じ、ボッシュは静かに「それ」に呼び掛けた。 「なあ、俺ほんとに今が一番幸せなのかもしれない。 オマエがずうっとそばにいるんだ」 「それ」は初めて出会った頃のように、サイズが大き過ぎてだぼっとしたシャツを羽織って、裸足でいた。簡素な格好だったが、ボッシュにはそれでも「それ」が誰よりも綺麗に見えた。 もちろん、綺麗に着飾った格好が似合わないって訳じゃない。でも、ごちゃごちゃと飾り付けるより、ボッシュは「それ」がシンプルな格好でいることを好んでいた。似合ってるんだ、と思っていた。 「……そういえば、今日商業区であの変なおっさんに遭ったよ。まあいつもみたいに面白くないこといろいろ言われたけどさ、オマエについて、なんか。誰が渡すかっての。大体そういう約束だってのに、今更うるさく言うのって気に食わないよ」 「それ」の頬を両手で包んで、ボッシュは、その輪郭の薄いブルーの瞳をじっと見つめながら、言い聞かせた。それから溜息を吐いて、まあオマエに話すことでもないんだけどね、と言い訳がましく言った。 「オマエの顔を見たら、なんだかどうでも良くなってきた。うん、なあ、どうする?」 ボッシュはちょっと甘えるように、「それ」の綺麗な色の長い髪に唇を付けて、首を傾げ、掠れ声で囁いた。 「ベッド、行く?」 薄い肩を引いて、抱くと、「それ」のひやっとした冷たさがボッシュに伝わってきた。 「ほんとに体温低いね」とボッシュは笑いながら言った。 「……うん?」 アラームに起こされて目を覚ますと、外から射し込んでくる光はもう弱まり、薄い藍色が室内を染めていた。目を擦りながら手を伸ばし、サイドテーブルに置いてある電子音をひっきりなく鳴らしている端末の画面を開くと、発信源は中央省庁区とあった。どうやらまた呼び付けだ。面倒臭いが、顔を出さない訳にはいかないだろう。 「おい、起きてるか? オマエもだって、一緒に」 隣で背中を丸めて寝そべっている「それ」の肩をぽんぽんと叩いて、眠りの余韻が抜けきらないまま起き上がった。 「……用意してくれ。俺、あともう五分だけ、寝てる」 またベッドの中に戻って、目を閉じる。まどろみが心地良かった。隣でベッドを抜け出す音がして、後はクローゼットを開ける音、湯を沸かす音、誰かが忙しなく動き回る音がして、それからきっちり五分後に、ボッシュの額にひやっと冷たい手のひらが乗っけられた。 「うん、もうあと五分……」 「…………」 「…………」 「…………」 「……ああ、わかってるって」 ボッシュはぎゅうっと目を閉じ、開けて、覚悟を決めてがばっと起き上がり、おはよう、と言った。 「……おはようのキスは」 「…………」 「それ」はしばらくじっとボッシュを見つめていたが、のろのろと手を伸ばして、ボッシュの頬に唇を付けた。 「よし」 ボッシュは機嫌よく笑い、「それ」を抱き込んで、オマエほんとかわいいなあと言った。 「ボッシュ=1/64、リュウ=1/8192、以上ニ名参りました」 中央省庁区の会議室に転移し、ボッシュは額に手を当てて敬礼した。 中央には見慣れた白いスーツの男が突っ立っていた。メベト。トリニティの主で、現在の世界最高権力者のひとりだ。彼は頷き、良く来てくれた、と言った。 「変わりはないかね」 「ええ、問題ありません」 ボッシュは努めて事務的に言って、一礼した。 会議室には、もう幾人かの統治者が顔を揃えていた。昼間に会ったジェズイットはいなかった。ラスタを膝に乗せたクピト、その隣にオルテンシア。それから、ボッシュはちらっと目線だけを上げてその男を見た。剣聖ヴェクサシオン。ボッシュの父親だ。 彼は何を考えているのか、席につき、じっと目を閉じたまま腕を組んでいる。相変わらずボッシュの方を見ようともしなかった。ボッシュは父から目を逸らし、メべトに向直った。 「何かご用でも? 昼間におっさ……ジェズイット様にお会いしましたが、急に呼び付けられるとは思いませんでした」 「リュウ君を貸してもらいたい」 メベトが唐突に言った。 「『オリジンエリュオン』の言葉が欲しい。空が開いてから、少しばかりオリジンの沈黙が過ぎた。ただ顔を見せるだけで良い。音声はこちらで何とかする」 「お断りします」 「……ボッシュ君、君には拒否する権限はありません。現段階で、この世界で最も決定力を持っているのは、メベトです。君は今はただのサード・レンジャーに過ぎない」 「お言葉ですがクピト様、ここにあるリュウ=1/8192へ干渉する権利は、このボッシュ以外にはありません。そう決定されたのは、他ならないオリジンだったかと」 「クピト、いい。これは命令ではない。ただの取り引きだ。ボッシュ君、なにもただ貸してくれというのではない。君には相応の見返りを与えると約束する」 「リュウ=1/8192には干渉しないという約束を取り消した上で? 失礼ですが、全く信用なりませんね」 ふてぶてしく言い放ったが、メベトに堪えた様子はまるでなく、静かに「彼の件でだ」と答えた。 「プロテクトを少し弄って、リュウ君に声帯と、簡単な意思を与えることを約束しよう。もちろん、君への忠誠を最優先した上でだ。以前のようなことがないようにね。何か命令を与えるには、その方が便利じゃあないかと思うがね」 「…………」 ボッシュは沈黙し、ちらっと「それ」を見遣った。 「それ」は静かに佇んでいた。だが、意志の輝きはその目に宿っていなかった。暗い目だった。静かに目を閉じ、ボッシュは言った。 「……ヴェクサシオン様は、どう思われますか」 ヴェクサシオンは相変わらずの格好で、目を閉じ、微動だにしなかった。しばらく黙した後、彼はようやく口を開いた。 「――好きにするがいい。それはお前のものだと決まっている。我々が口を出すことではない」 「……そうですか」 少し考えさせて下さい、とボッシュは言った。メベトは頷き、良い返事を期待している、と言った。 「彼は次期オリジン直属のネガティブだ。口は利けたほうが良いだろうな」 「……任務があります。戻ります。リュウ、行くぞ」 ボッシュは返事をしないまま「それ」を呼び、背中を向け、会議室を後にした。 ◇◆◇◆◇ 「気難しい子だな。父親、どう思う」 メベトが水を向けると、ヴェクサシオンは相変わらず表情ひとつ変えず、わからん、と言った。 「わからないって、親子でしょう。もう少し何か声を掛けてあげれば良いのに。そういうところはオリジンみたいです。言葉が足りないんですよ」 クピトがラスタの頭を撫でながら、はあっと溜息を吐いた。 「あれが何を考えているかなど、わからん。剣に言葉は不用だ。ただ強くなった。それでいい」 「ボッシュ君が怖いんですのね」 オルテンシアが口元を抑えて、首を傾げ、貴方にも怖いものがありますのね、と言った。ヴェクサシオンは答えなかった。 「親子というのも、解らんものだな。血の繋がりがあるにしても、ないにしても」 メベトは目を閉じて苦笑し、まあ良かったじゃないか、と言った。 「少なくとも、与えた人形を気に入ってくれているようだ。気の利いたプレゼントだったと思うよ」 「少々悪趣味ですけどね」 頬杖をついて、クピトがちょっと困ったふうに口を挟んだ。 ◇◆◇◆◇ 空が開いた時に、ボッシュ=1/64はそれまでがんじがらめに縛りつけられていたしがらみを棄てた。 正しくは、棄てる羽目になった。 幼い頃から父親に認めてもらいたい一心で剣の訓練に励んできたが、世界で一番強くなったって、彼はボッシュが欲しい言葉を掛けてくれることはなかった。子供の頃から訓練用のディクを殺した時に掛けられたものと同じだった。 背中を向けたまま、父は言った。 「良くやった、ボッシュ」 そして去っていく。 「空はお前のものだ」 いつものことだ。死に物狂いで空を開けたって何も変わりはしない。ボッシュはそれきり剣の訓練をぱったり止めてしまった。手柄に固執することもなくなった。 どうせきっと同じことだからだ。もしもボッシュが彼と同位の統治者になったって、それよりも上のオリジンになったって、同じことだ。彼は腕を組み、背中を向け、去り際にこう言うだけだ。良くやった。それだけ。 強くならなければ誰も見てくれないからボッシュはここまで来た。だがそれは間違っていた。 強くなったってボッシュを見てくれる者はどこにもいなかった。 『お前は良くやっている、ボッシュ。 正直、お前がここまで優秀だとは思わなかった。……少し、驚いている。お前は誇りだ、我が血に連なる者よ。この父を超え、更なる高みを目指すがいい』 『ボッシュ! すごい! 空だよ、ね、見える? ほんとにあったんだ。キレイな青だね。ボッシュならきっと開くって信じてた。おれ、知ってたもん。ボッシュみたいなすごい人がおれの相棒なんて、なんだか信じられないや……』 そんなことを言って認めてくれる者は、どこにもいやしない。 空が開いた時、ボッシュはそれに関して、何の感慨も抱けずにいた。 ぼおっと放心したまま、薄く唇を開け、目を閉じ、ただ上を向いていた。少し笑っていたかもしれない。 全身が生温かい粘液でぬるぬるしていたが、それを不快に思うことはなかった。むしろ、心地良いくらいだった。粘度を増した血も、感触も、その匂いも。 辺りには今や肉の塊に成り果ててしまったものがいくつか転がっていた。さっきジオエレベータ・ターミナルで殺した男は青い光になって消えてしまったが、それらはただ動かなくなり、重くなり、ただの物へと変わっていった。 「彼」にはまだ微かに息があった。喉が血で塞がれているようで、首のあたりで、小さなごぼごぼという音が鳴っていた。明るいブルーの目は焦点を無くしかけていたが、そこからは止めどなく透明な涙が零れていた。何か悲しいことがあったのだろうが、だがその顔にもう表情は無かった。 先ほどまでの激しい抵抗は、もうなりを顰めていた。静かな、死に向かう静寂があった。 ボッシュはふと我に返り、「彼」のそばへ寄って、耳打ちするみたいに耳もとに顔を近付け、うなじに唇を付けた。 「彼」は一瞬びくっと震えたが、もう声を漏らす力も残っていないようだった。ボッシュは「彼」の柔らかい皮膚に、ゆっくりと、鋭く尖った牙を沈み込ませた。血の味が口の中いっぱいに広がった。独特の苦味を感じたが、それは不快なものではなかった。 喉を食んでしばらく経った頃、「彼」の目は完全に焦点を失い、その特徴的な鮮やかな空色が濁り始めた。もうぴくりとも動かなかった。痙攣もなしだ。 ボッシュは「彼」の、歯型に穴の開いたプロテクタをむしり取って、アンダーシャツを破り、次に痩せた胸と、柔らかい腹に牙を立てた。どこを噛んでも、「彼」の身体は柔らかかった。その肉も骨も。ベルトを引き千切って、スーツを裂き、太腿や二の腕にも同じふうにした。 「彼」の身体に噛み傷を付ける度に、ボッシュは言い様のない幸福を感じていた。何か得体の知れない満足が訪れた。 「彼」はもう動かなくなっていたが、抱いた感触はまだ温かくて、生きているみたいだった。従順な友人だったあの頃のように。 やがてジオフロントは騒がしくなった。 『……ひどいものですね、これは……』 『成程、残ったのは「あちら」の方か。ヴェクサシオンの一人勝ちというところだな。クピト、他のメンバーは?』 『再生処理班の回収が進んでいます。ただ、オリジンがどこにも……』 『……あれはいい、もう寿命だ。眠らせてやれ。それより、一人息がある。これも回収を』 声が聞こえる。 ボッシュは陶然とした顔つきのまま、ほんの少しだけボッシュよりも小さな身体をぎゅうっと抱き締めて、蹲っていた。小さな子供が、気に入りのぬいぐるみにそうするように。あるいは、とても仲の良い友人同士がじゃれ合い、抱き合うように。あの頃のように。 なにも考えられなかった。その細い身体の感触しか覚えていない。少し震えていたことを覚えている。 次にまともな意識を取り戻した時には知らない部屋にいた。 がらんとしていて、もの寂しい、人のぬくもりというものが排除された部屋だった。だが調度品はどれも値の張る品物ばかりだったし、張り詰めたような空気に覚えがあった。 中央省庁区だ。そのどこかだ。 まず、ボッシュは自分の身体の状態のひどさに顔を顰めた。血だらけだ。こびり付いた血が固まって、胸が悪くなるほど生臭い。 ボッシュ自身には、傷らしい傷は無かった。確かどこか怪我をしていたようにも思うが、見当たらなかった。悪い夢だったのだろうか? レンジャーの隊服はぼろぼろだった。おまけにゴーグルとプロテクタ、ブーツまでそのままだ。舌打ちをしてベッドから飛び降りようとしたところで、ボッシュは「それ」に気がついた。 冷たい感触が手のひらに触れていた。相棒の死骸だった。その顔と髪は比較的綺麗なままだったが、身体は無残に損なわれていた。食い荒らされた痕があちこちに見て取れる。そのどれもに覚えがあった。ボッシュが食った痕跡だ。 「目が覚めたんですね」 小さな物音がして、振り向くと、開いた扉の前に誰かが佇んでいた。見知った顔だった。薄いピンク色の頭をした、中性的な子供だった。なよなよして頼り無さそうな目つきをしているが、確かD値はボッシュよりも大分上だった。そのことが随分気に入らなかったことを覚えている。 名前は確かクピトとか言った。統治者のひとりだ。 「あなた、彼の手を離そうとしないものだから、随分運ぶのに苦労しました。こんにちは、ボッシュ=1/64」 「…………」 ボッシュが黙ったまま睨み付けていると、クピトは少し困ったように俯き、呼んでいます、と言った。 「あなたのお父上が呼んでいます。ヴェクサシオンが、目が覚めたら会議室へ来るようにと」 父はボッシュを見ても何も言わず、ただ黙って目を閉じ、腕を組んで円卓に着いていた。 ボッシュは拍子抜けしてしまった。薄汚い血まみれの格好でいることを咎めるでもなし――これは幼い頃からそうだった――D検体の浸蝕した腕を移植したことや、オールド・ディープと精神融合したこと、そして敵を殺したことについては何も触れず、ボッシュの方を見ようともしなかった。 これも、いつものことだ。 ボッシュはあまり父の顔というものをまともに見た覚えがない。ともすると、記憶が曖昧になる。どんな顔をしていたかなと思い出せないことがある。鮮やかな思い出は、彼の背中だけだった。ボッシュを置き去りにして去っていく時の、あの。 「良く来てくれた。疲れているところ、ご苦労」 円卓に腰掛けて腕を組んでいる男が、ボッシュを労うように言った。 見ると、驚いたことに、トリニティの男だ。犯罪者のボスだ。メベト=1/4。第一級のお尋ね者である。メベトはボッシュの反応を気にも留めずに、言った。 「さて、君は空を開けた。ライバルに打ち勝った。 今君が抱いている少年、リュウ=1/8192にだ。 ドラゴンと精神融合を果たした適格者は、そこでプログラムが終了する――らしい――私も良くは知らんが。だが君は生きている。それが何故なのかは解らないが、今となっては答えてくれる人間もいない。 そうだろう。最高統治者エリュオンを殺したのは君かね」 「…………」 ボッシュは黙って頷いた。犯罪組織のリーダーと会話している割には、何だか妙な話ばかりだ。奇妙に思ったが、メベトはそれをボッシュに説明するつもりもないらしく、父も黙ったままだった。 「開いた空は新しいオリジンを必要とするだろう。君のような英雄を。用件はこうだ、君が空を手に入れた。最高統治者を倒し、自動的にその名が継承される」 「……は?」 「これから君がオリジンと呼ばれることになる、ボッシュ君」 ボッシュは眉を顰めてメベトを見た。 彼は頭がおかしいんじゃあないのだろうか? 何の冗談だというのだ? 「冗談ではない」 今度は、重苦しい声で、ヴェクサシオンが言った。彼はようやっと目を開け、ボッシュを見て、憂鬱そうにボッシュが抱えているぼろきれのようなものを見た。 「お前は敵を殺し、光を手に入れる、ボッシュよ。栄光を。それについて語るところはない。全て、決まっていたことだ」 「……父さま」 声が喉に詰まったようになって、息苦しい。それでも何とか絞り出して、ボッシュはヴェクサシオンに訊いた。 「父さまは、全て知っておられたのですか。 こうなることを、相棒に裏切られることも、化け物を身体の中に飼う事も? 全て貴方の考えのうちなのですか」 「知っていた。そう言ったはずだ」 父と対峙した時に、昔から感じるあの怯えに似た焦燥に混じって、頭の中が赤く染まるような憤りを覚え、ボッシュは唇を噛み締めた。そして、何故ですか、と言った。 「俺は、貴方に認められたってことですか? 貴方は俺に何を期待していたんです? 何にも、そんな事は一言も聞いた記憶がありません。 いつだってどうだって良いって顔をしてる。 俺は貴方に、貴方の息子に相応しいものになれと言って聞かされました。 でも、今回ばっかりは貴方の栄光の為じゃない!」 ボッシュは叫んで、あかあかと燃えている燭台の蝋燭を振り払った。乾いた音を立てて、長い年月を経て溶けた蝋がこびりついた燭台が床に叩き付けられた。ヴェクサシオンは眉ひとつ動かさなかった。 「ただの俺の私怨の為です! 裏切り者の男に復讐をした! 俺の意志です、貴方にだって口を挟まれるいわれはない!!」 「言ったはずだ。全ては決定されていたことだ。利口なら、理解出来るはずだ、ボッシュよ」 ボッシュは息を飲み、凍り付いたように立ち尽くした。そしてちらっと抱いている死骸を見た。もう死んだ相棒。あの見慣れない怒りを映していた目は、今は閉じられ、もう見る事はできない。 そもそも、何だってリュウはあんなに怒っていたのだ? あの積荷の輸送任務を下したのは誰だ? そして、強奪のための襲撃を命令したのは誰だ? どちらも、目の前にいる人間たちじゃあないのか? 統治者とトリニティのリーダー、彼らは共謀していたのか? 何故何も知らないローディのリュウが、1/8192なんて適性値でもって、ドラゴンとリンクし得たのだ? 本当に、通達にあった通り、ただの事故なのか? ――事故では、ないのか? はじめから全て取り決められていたのだろうか? 全てがひどい茶番で、ボッシュはその中でただ足掻いていただけだったのだろうか? 「恩賞は与えられるべきだ。じきに全てを手に入れるとはいえ、お前は今はまだ、サード・レンジャーだ。しかるべき賞与がある」 ヴェクサシオンが、何の感慨もない声で言った。まるで上手くディクを殺すことが出来た息子に、褒美になんでも買ってやろう、とでもいうような、簡単さがあった。 ボッシュはまだ唇を噛み締めていた。全てが薄寒かった。世界は嘘ばっかりでできている。 昔は、もうちょっとましなものだと思っていられたのだ。同じ年頃の仲間たちと、つたない正義感でもって、下層の街を護っていた時分のことだ。馬鹿馬鹿しいと自嘲しながらもヒーローを演じていられた。優秀過ぎるともてはやされた。まるでボッシュが世界の中心にいるようだった。 だが、全ては薄汚いルーチンの中に浮かんでいたに過ぎない。怒りに耐えきれず、ボッシュは円卓を殴り付けた。 「恩賞なんかいらない! 俺は統治者になんかならない。D値なんてもううんざりだ。 あんたの道具でいることにもうんざりだ! 俺はボッシュだ! 欲しいものは全部自分で手に入れる。俺の為に、あんたの為なんかじゃない! 俺がどんなに死にそうになってもあんたは見てるだけだ。助けてくれない、認めてもくれない、見てもくれない! ディクに襲われても、ドラゴンに俺を全部持ってかれちまいそうになってもだ!」 悔しくてしょうがなかった。涙で目が霞むくらいにだ。ボッシュは怒りに震えながら、押し殺した声で、もううんざりだ、と言った。 「……あんたから貰うものなんて、何にもいらない。恩賞なんていらない。かわりに、コイツをもらいます。俺が自分で手に入れたものだ。誰にも渡しやしません」 ヴェクサシオンは沈黙を保っていた。かわりにメベトが頷き、わかった、望むように取り計ろう、と言った。 ボッシュはリュウの死骸を抱えて、ヴェクサシオンに背中を向けて歩き出した。父は結局何も言わなかった。 転移が完了し、目の前の景色が切り換わり、一人きリになった後、ボッシュは中央省庁区の螺旋階段の陰に座り込んで、リュウのもう動かない身体を抱えて少し泣いた。 ◇◆◇◆◇ 終焉はそれまでの過程から考えてみれば、あっけないものだった。 「ニーナ!」 リュウが悲鳴を上げた。昔、初めてのディク掃討任務に二人で就いたあの時のように。 彼はボッシュが殺した小さな子供を抱えて蹲ってしまった。殺し合いの最中にとんでもないへまをやらかしてしまった。その時点で、彼の戦意は失われていた。彼の仲間が彼を叱責する声も聞こえたが、もうどうにもならなかった。全て終わらせるのに、そう労力も時間も掛からなかった。 ボッシュは今でも覚えている。リュウを鉄柵に押し付けた時の、彼の弛緩しきった身体を。赤い目からは涙が零れていた。彼は泣いていた。だが表情はなかった。呆然とボッシュを見つめ返しているだけだった。彼は静かに、何か呟いた。唇の動きを読んでやると、こんなふうな感じだった。 『殺してやる、ボッシュ』 彼の中には憎悪が生まれていた。やるべきことを成す為に腹を決めた決意と、昔の仲間が前に立ち塞がった時、それらを払い除けなければならないことへの困惑は消えていた。 彼は理由を失った。 彼が手を引いてここまで連れてきた少女はもういなかった。リュウはゆっくり手を伸ばし、ボッシュへ向けた。彼の手のひらにぽうっと赤い輝きが灯った。だがリュウのドラゴンブレスが放たれる前に、ボッシュの爪が彼の喉を破いていた。最下層区の駅構内でボッシュがそうしてやったようにだ。リュウの光は消えて、ジオフロントに静寂が還ってきた。 驚いたことに、首を掻き切られてもリュウにはまだ息があった。ドラゴンとのリンクは、彼を強靭な存在に変えていた。上手く死ねなくなってしまったのだ。 首の次に胸を裂いて肺を潰すと、リュウの喉から逆流した血液がごぼごぼ零れた。だがまだ死なない。表情というものがなかった赤い目が、徐々にいつものブルーへと変化していき、感情の色を取り戻すと、そこには純粋な怒りがあった。 いや、怒りなんてものではなかった。リュウの世界への怒りはもう失われていた。彼は個人として、ボッシュを憎んでいた。彼はもう一度、『殺してやる』と言った。口の中は血でいっぱいになっていたから、相変わらず声は出ないようだった。リュウの憎悪は、ボッシュにぞわっとするような心地良さを与えてくれた。オマエやっと俺を見たねと言おうとしたが、止めておいた。代わりに心臓を握り潰すと、リュウの目からはやっと光が消えた。 死顔の表情は氷のように冷たかった。そういう顔をしていると、彼はリュウのくせに、なんだかすごく綺麗に見えた。 空洞の中は甘い血の匂いで満たされていた。その匂いは、ボッシュに、長い間忘れていた食欲と空腹を思い出させてくれた。 「あなたは無理ばかり言いますね」 ドクターは途方に暮れた顔で溜息を吐き、手元のカルテとボッシュを見比べて、また溜息を吐いた。 「もう私には何がなんだか……手術後の経過は良好という話ですらない。過去例がない。最もD値が高かった最初の適格者でさえ、こんなことはありえなかった。オールド・ディープが消えてしまうなんて」 「消えたわけじゃない」 ボッシュは額をとんとんと叩いた。 「ここにいるよ」 「はあ。数値もすべて正常でした。正常と言うよりも……一般人と何ら変わりありません。 ただ失礼ながら、検査時にD値の再診を行いました。 どうやらリンクによって変動――」 「したわけじゃあないだろ? 上じゃ大した数値じゃない1/64の俺が選ばれた。問題だったんだよな。俺が一番適合率の高い適格者じゃないとまずいよな。きっとこの後で、統治者だかオリジンだかの仕事が回ってくるんだろ? 俺のD値を世界にバラさない為にさ。そのD値の話、統治者入りの手続きが済むまでの繋ぎってやつじゃないの」 「…………」 「いいよ、構わない。書類上のデータなんて好きに弄れよ。俺知らない。それにあんたを苛めに来たわけでもない。他に用があるんだ。言ったろ」 「……またブースト手術の依頼ですか? アンデッドの操作能力の付加なんて、そんなものは今のあなたには、まるで役に立たないものだと思われますが……」 「オマエの意見なんて聞いてない。ブレイクハートどもにできて、俺にできないって理由はないだろう? 簡単だよ、ゾンビを使えるようにしてくれればいいだけ。一体でいいんだ。で、どうすんの? また腕? それとも他のところ? 何でもいいよ、問題なんてない」 「まあ問題は無いようですし、前回も規定外の手術料金をいただきましたので、うちの所長もノーとは言わないでしょう。ですが……」 ドクターは、言いにくそうに口篭もった。しばらく迷うような素振りを見せた後、デスクの引き出しから別のカルテを引っ張り出し、先日こんなことがあったんですけどね、と言った。 「あなたのお父上から、公社に命令が下されたんです。世界で最も美しい死体を造れということで、死骸が搬入されました。どうやらディクに食い荒らされたようで、ひどい状態でしたが、現在はかなり復旧しています。何か関係が?」 「…………」 ボッシュは予想しなかったことに口篭もった。誰かが勝手にリュウの死骸を持ち出したということよりも、それを父親が行ったということに驚いたのだ。 確かにあのまま放っておけば、朽ちて腐っていくだけだったろう。だがそれでも、そこにあるものがリュウなら、腐肉の塊でも、いや、骨だけだって構わなかったのだ。 しかし、何故父親が、彼がこんなことに干渉するのだろう? 「……まあ、そうだね。関係あるんじゃない」 ボッシュが頷くと、ドクターはどうやら今回の依頼は上の命令だと取ったらしく、非礼を詫びて、了解しました、と言った。 「左手にしましょう。前回の手術で、移植体から伸びた神経が脳まで繋がっています。接合しやすい。大きな手術は必要ないでしょう」 「ふうん。で、どうすんの」 ドクターはカルテのページを捲りながら、ブレイクハートですね、と言った。 「核を移植するだけです。なに、小石みたいなものですし、比較的簡単なブースト手術ですよ。失敗もありませんが、ただこのブーストの副作用として、今までの被験体はほぼ全例、死亡後自分が核石に寄生され操られてしまう羽目になりました。典型的な例がカロンですね。あれには困っています。まああなたの場合は本体が死亡した時点でオールド・ディープの完全支配を受けるという、前回の手術の副作用が残っていますから、おそらくそちらが優先されるでしょう」 「どっちもろくでもないね。それより、そんなこと聞いた覚えがないけど」 「ご説明しましたよ。あなたは聞いても下さりませんでしたが……」 ドクターはカルテをデスクに置き、書類棚から書類を引っ張り出してきて、記入をお願いします、と言った。 「契約書です。それに、誓約書です。もしこの手術が失敗したり、ブースト化によって何らかの不利益が生じたとしても、我々バイオ公社は……」 「責任を負わない。オッケー、了解。さっさとやってくれよ」 ボッシュは淡々と言った。 「早く会いたいんだ」 確かに良い仕事をしているなとボッシュは考えた。透明なガラスケースの中のリュウの遺骸は、まるで生きているみたいに綺麗だった。損壊した痕はもうどこにもなかった。 ――いや、特に念入りに破壊した首元に少し、まだ痣が残っていた。ボッシュが付けた傷。 「さて、相棒」 ボッシュはこんこんとケースを叩き、今しがた巻かれたばかりの左手の包帯を解いた。手のひらには、小指の先ほどの小さな赤い石が埋まっていた。光沢があり、透明で、宝石のように輝いている。ただ、石と違う点は、心音に合わせて脈を打つところだった。良く見てみると、赤い表面に透けて、細い血管が通っているのが見える。 ケースを開き、リュウの頬に触ると、信じられないくらいに冷たかった。無理もない、死骸だ。生きていた頃の、あの少し冷たい体温はもうどこにもなかった。ボッシュは死んだリュウと額を触れ合わせて、彼を呼んだ。 「相棒、朝が来たよ。目を開けろ」 はたして、すうっとリュウの目が開いた。 彼の目は、相変わらず美しい空色をしていた。感情の光は失われていたが、そこには死者特有の濁りは見て取れなかった。ほんとに良い仕事するね、とボッシュはひとりごちた。 それから思い付いて、にやっと笑いながら、リュウの頭を撫でてやって、起きろよ、と言った。 「起きて、俺におはようのキスは?」 リュウは緩慢な動作でゆっくり上体を起こし、手を伸ばしてボッシュに触れた。 「ほっぺたに、とかはなし。ちゃんと口にするんだ。目はちゃんと閉じろよ」 笑いながら言ってやると、リュウは従順に顔を近付けて、目を閉じ、ボッシュに口付けた。 彼の髪に触り、よくできたね、と誉めてやって、ボッシュは彼の肩を抱いて、耳のそばで囁いてやった。 「おかえり、リュウ。やっと戻ってきた」 ◇◆◇◆◇ モモが見ている限り、ボッシュは朝から不機嫌だった。最近なりを顰めていた例の不機嫌な顔で、一日ずっとむすっとしている。 理由は――彼がそこまでわかりやすい理由で仏頂面をしていると考えてみると不思議でもあったが――最近配属された男に関してのことだろう。 ボッシュは何故か妙にその男を嫌っているようで、廊下で出くわそうものならあからさまに嫌な顔をして逃げてしまう。逃げ出すなんて、あんまりに彼らしくない。昼時の食堂でモモはそのことについてさりげなく聞いてみた。 「ねえ、そんなに仲悪いの?」 「……べつに、全然知らないし、関係ないし、関わりたくない。悪いけど、この話題には答える気になれないね」 「そう」 ボッシュは珍しく、なんだか子供っぽい不貞腐れ顔でぼやいた。 「……俺、昼終わったら帰るわ。教官にそう言っといてくれねえかな。なんだか頭が痛いんだ。風邪かも」 完全に気疲れしたふうに、ボッシュが言った。モモは何とも言えず、うん、と頷いた。 「わかった……お大事……にね?」 「そうする」 シチューの皿を掻き混ぜながら、ボッシュが肩を竦めた。彼は大分参っているようだった。傲慢だが、基本的に彼は繊細だった――昔からそうなのだ。地下にいた時分も、他人との共同生活や、上層区と下層区の生活水準の違いに馴染むことに、大分長い時間が掛かっていた。 彼の場合、彼の常識と現実の食違いは、度々偏頭痛というかたちで現れるようだった。彼が起こす発作めいたそれは、実際には半分弱はサボタージュの理由にもなっていたろうが、ともかく、ボッシュという人間はあまり頑丈な性質ではない。彼はローディではないのだ。身体の造りからして、モモたちとは違うのだ。 仮病のように振舞ってはいるが、実際には顔色はあまり良くないし、目の下に隈ができていた。誰かに弱みというものを見せることを、彼は極端に嫌うようだった。何となく言い出し難くて、それについての話題は避けておいた。 「そう言えばボッシュ、あなたのも、支給申請してた薬が届いてたわよ。応急セット。メディカル・ルーム、寄っとくと良いんじゃない?」 「ああ……――」 頷き、顔を上げると、にわかにボッシュの表情が奇妙なものに変わった。灰色がかったグリーンの目をすっと眇め、眩しいものでも見るような目つきをして、ただそこに表情を読みとることはできなかった。 だが無表情ってわけじゃない。何かきまりの悪い話題を振ろうとして、やっぱり良いや、と言葉を飲み込んでしまう。そう言った類の顔つきだった。 モモは首を傾げて、彼の視線の先を追ったが、そこには何も無かった。彼の興味を引くようなものは何も無い。いつもある、変わらない光景だ。雑談しながらスープ皿を掻き混ぜている同僚、無言で、すごい勢いでプレートを征服に掛かっている先輩、ランチメニューを見つめて真剣な顔で悩んでいる教官。 腰くらいまでの高さの鉢植え。昼時の食堂はすごい勢いで回転している。人も多い。 洗い場で食器が擦れる音。大音量のテレビ。銀髪の寡黙そうな男が何か言っているが、奇妙な仮面に隠れて、口の動きは見えない。表情も見えない。良くは知らないが、見知っていた。確かすごく偉い人だ。 「……オリジン。珍しいね、テレビに出てる」 「意外そうだね。そんなに珍しい?」 「うん。一時期、メべトに暗殺されたんじゃないかって噂になってたよ。……って、アビーがまた触れまわってたことだから、あてになりゃしないけど」 「ふうん。相棒と仲良いんだね」 ボッシュはそう言って、驚いたことに、ちょっと笑った。 「良いことだよ」 彼の笑顔なんて見たのはすごく久し振りな気がした。モモは自然、赤くなってしまった。ボッシュはほとんど反則みたいな綺麗な顔をしているのだ。いきなりそういうのは、できれば止めていただきたい。 テレビはまだ続いていた。いつものニュース番組だった。モモは半分照れ隠しを含めて、ちょっと上擦った声で言った。 「たまには食堂でくらい、もうちょっとくだけたのを流せば良いのに」 「そうだね。例えばどういうふうな?」 「そうねえ。昨日のドキュメンタリー番組とか。「秘境・ココン・ホレ、決死の探索」っていうの、わりと良かったな。結局何にも見つからなかったんだけど」 「渋い趣味してんだね、意外……」 テレビからは、オリジンが何かの病を患って療養していること、そのせいで頻繁には姿を現すことができないこと、それからメベトの声明などが流れた後、いくつかの小さな事件を取り扱い始めた。 中層区が陥没し、下層区まで巻き込む大きな崩落が起きたこと、あと少し空が開くのが遅ければ、今もしかすると人類の半分が死に絶えていたかもしれないこと、それからダルやマカの取り引きの話題に移り、画面にはいくつも良く解らない数字が現れたので、モモはすぐに興味を無くしてしまった。 「ダルとかマカとか、良くわかんない。ゼニーとは違うの?」 「あんなの、ギャンブルみたいなものだよ。簡単。俺の友達がさ、そういうの得意なんだ。頭悪いけど、買い付けリスト持って行くと、いつもぴたっと当ててくれる。直感だけは馬鹿みたいにすごいんだ。……まあ、それでちょっと助かってるとこもあるんだけどさ、生活費とか」 「ふうん」 モモは相槌を打って、ボッシュって一人暮しなんだよね、と言った。 「いろいろ大変でしょ。寮に住んでると、何でも揃ってるから割と楽だけどな」 「まあ。でも気楽だよ」 昔のボッシュなら、こうやって気軽に友達同士の話なんてできなかったように思う。彼はなんだか、自分以外の世界全部を疑って掛かっているようなところがあった。みんな馬鹿ばっかりだ、なんて言うふうに。始末が悪いことに、それを口に出すこともあった。 モモはちらっとボッシュを見た。なんだか別人みたいだ。ボッシュが変わったっていうわけじゃない。相変わらず綺麗な顔をしているし、意地の悪いところはそのままだった。 だがまるで、誰か、昔良く知っていた知り合いと話しているような気がする。そんなふうな気安さがあった。確か、昔こういう人間がいたのだ。すごく身近にいたのだ。誰だったか――。 「……? なに、俺の顔になんかついてるの」 「え? あ、ああ、ううん、なんでもないの」 モモは慌てて「気にしないで」と言った。 「それよりもボッシュ、来週空いてる日、あるかな? 探索隊が帰ってきたくらいに、みんなでパーティーやろうって話が出てるのよ。新入隊員の歓迎と、地下に降りちゃう子たちのお別れ会を兼ねて」 「へえ、時間が合えばね。じゃ、後よろしく」 「うん、お大事に。引き止めてごめんなさい」 モモは手を振って、ボッシュを見送って、ふうっと溜息を吐いた。 「あの顔見て話すのって、正直ちょっとつっかれちゃうなあ……」 「あー、わかるわかるそれ。いいなあモモ、ボッシュとお喋り? すごく羨ましかったよ」 居合わせていた友達が横から顔を出して、ちょっと口を尖らせて、「良いなあ」と言った。 「なんか格好良いってだけじゃなくって、大人って感じがするよね。達観しちゃってるっていうか、世界観が違うっていうか……エリートってそうなのかな」 「でもすぐ家に帰っちゃうよね。仕事の後呑みに誘っても、あんまり来てくれないし……彼女とかいるのかなあ」 「んー、なんかいるみたいな口振り」 「嘘、それホント?」 それから友達の女の子たちとテーブルを囲んで、何でもないお喋りをした。 「そう言えばモモ、アビー見ないね。あいつがいないと静かでいいね。ちょっとなんていうか……」 「やらしいよね。感じがさ」 「そうそれ」 モモはくすくす笑いながら、「あいつなら探索隊に駆り出されてったよ」、と言った。 「階段で転んで怪我した子のかわりに組み分けられたんだって。文句ばっかり言ってたわ」 ◇◆◇◆◇ アビーは怪物に追われていた。重量はヒトの何倍もあるくせに、そいつの足取りは軽やかだった。足音も軽い。だが馬鹿みたいに身体がでかくて、凶悪な顔つきをしていた。どう好意的に見ても、草食には見えない。 「ち、ち、ちくしょー! 隊長! 返事してくださいよ!」 さっきから何度も無線に向かって怒鳴っているのに、無線機からはざあざあという掠れたノイズしか聞こえない。電波が届かないのか、もしくは無線が繋がらない何がしかの状況下にあるのかは解らない。アビーは半泣きで通信ボタンを連打したが、相変わらず無線はざあざあ鳴っているだけだった。 背後から執拗に追い掛けてくる獣は、ディクに良く似ていた――黒い巨大な身体、少し邪公に似ている。背中には翼があったが、退化しているようで、空を飛ぶ役割は果たさないようだった。もっとも、ただでさえ状況は悪いのに、空まで飛ばれたら最悪だ。どうしようもない。 アビーは先日、地上探索隊に助っ人として組み込まれた。隊員に欠員があったせいだ。何でも街の外れで正体不明の空飛ぶ怪物の目撃情報が相次いでいるらしく、警邏を兼ねた調査だった。 目撃した男の話によると、そいつはおそろしく巨大で――彼は真顔で「まるでビルみたいだった」、と語った――全身が透き通っており、地上から夜空が透けて見えたという。赤い、スマートな流線型のフォルムで、背中には光る翼があったそうだ。 その通報に、どういう訳か上層部はひどく過敏に反応した。単なる警邏に隊一つの戦力を割いたのだ。とは言っても、それが分裂してばらばらになってしまった今となっては、もうまともに「隊」なんて言えない。巨大なディクの襲撃のせいで、みんな離れ離れになってしまった。 背後でディクが吼えて、地面を蹴る音がした。アビーは振り返って、目を剥いた。ディクが大きな口を開けて、飛びかかってきているのだ! 「う、うわああっ!」 「アビー!!」 木々の茂みからざっと太い手が伸びてきて、アビーの襟を掴んで、引っ張り込んだ。 相手は見慣れた顔だった。太っちょのヒュー。先週やっと空に配属されたばかりの、アビーの幼馴染のサード・レンジャーだ。 「った、助かった! おい、隊長は?!」 「みんな、いなくなっちゃった……無事だといいけど」 がつっと鈍くて大きな音がして、アビ―とヒュ―は揃って顔を上げた。さっきの黒いディクが、狭い木々の間に頭を突っ込んで、大きな牙で幹を齧っている。茂みの木々は今にも折れそうだった。長く持ちそうにない。 「は、話込んでる場合じゃない……! に、逃げないと」 「アビ―、こっちは行き止まりだよ。崖が……」 「ええええ?! こ、こんなところで死ぬのは嫌だぞ俺、もうすぐやっとセカンドなのに!!」 鈍い音を立てて木が折れた。低く、腹に来る咆哮が、森をざわめかせた。アビーは涙目でそいつを見上げ、そして見た。小さな黒い塊のようなものが、ディクの頭の上にふっと現れたのを。 そして、赤い光を放つ奇妙な「それ」が、巨大なディクを綺麗に分断してしまったのを。 一瞬の出来事だったが、一拍置いて、ディクの身体から血が吹き出し、雨のようになってアビーたちに降り注いだ。 「うわわわわ」 アビ―とヒュ―は抱き合ってがたがた震えていた。 「それ」はどうやら、人間のかたちをしていた。 華奢な体格の少年のようだった。ぴったりしたスーツを着込んでいて、髪は長かった。アビーはその色をどこかで見たように思った。 そしてその少年の顔を見て、度肝を抜かれた。 「お、お、お、おまえっ、おまえっ……!」 「ひっ、ひええええっ! で、出たっ、お、お化けええ!!」 アビ―は目を見開いて、「それ」を指差した。 ヒュ―はアビ―に抱き付いたまま、泡を吹いて失神してしまった。 「それ」は静かな表情で、アビ―たちを見返してきていた。まるで値踏みするような感触だった。 彼からは表情というものが抜け落ちていたが、確かにその顔は、アビ―が良く知っていた幼馴染の少年の―― |
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