ソロー [ 003 ]
「馬鹿でかい化け物?」 退屈そうに講義を聴きながら、ボッシュが疑わしげな顔で聞き返してきた。モモは頷き、そう、と言った。 「ジオフロントの周りに、最近出没してるって話。目撃者がもうすぐ両手の指の数じゃ足りなくなるわ」 「ふうん」 ボッシュはペンをくるくると回しながら、大変だね、とどうでも良さそうに言った。 「まあ空って何がいるかわかんないしね。奥地に行った時もさ、地下じゃありえなかった生態系の生き物がわんさかいるんだ。何食って生きてりゃあんなでかくなれるんだろうってのが」 「でかい化け物ねえ。興味深いなあ」 後ろからひょこっと顔が出てきて、考え深そうな顔でうんうんと頷いた。ボッシュの友人――仲は悪そうだったが――の男だった。確か、名前はジェズイットとか言ったはずだ。ボッシュとおんなじで、どうも得体の知れないところがあって、気配をまったく感じさせずに背後から顔を出したりするので、心臓に悪い。彼はなんだか手のひらをわきわきと蠢かせてモモの方に手を伸ばしてきて、即座にボッシュに携帯型警棒で叩かれていた。 「……職業上、最低限のモラルってのを守って欲しいね。そんなだからあのいけすかない能面女に毎朝神曲コンボを食らうんだよ」 「こら、おまえさんだって言って良いことと悪いことがある。いけすかない能面女なんかじゃない、ムチムチプリンでボインの綺麗なおねえさんと言えよ。もーあのそっけないところがいいんだなあ。尻もなあ。なあ、わかるだろ? こう、無口な子のほうがわりと一緒にいるとほっとするってのは、多分世界で一番おまえさんが知ってると思うんだけど」 「……どうだろうね」 「それよりそう、お嬢さん。その化け物がどうとかって話さ、どこから出てるの? 信憑性のある話だとまずいなあ。お兄さん怖くて地下におつかいにも行けない」 「……基地の情報端末に……あの、オフィスのね。使い方、わかる?」 「わかりませーん。あのさあ、もし良かったら今度二人っきりで秘密の授業を……」 「おっさん、『ムチムチプリンでボインの綺麗なおねえさん』に言い付けるよ」 「……知ってます、ほんとは。ごめんなさい」 「……はあ」 モモは曖昧に頷いて、ホワイトボードに目を戻した。 試験合格者のレポートを読み上げていた講師のレンジャーが、非常に困ったようにモモたちの方を見ていた。中年くらいの、気の弱そうな男性だ。彼は申し訳無さそうな顔で、何をしているんですか、と言った。 「あのう、ジェズイット大隊長……ですよね、あなた。こんなところで何をやってるんですか? また何かの任務をサボって来たんですか? 言っておきますが、わたしゃ後で怒られるのはイヤですからね。サボるなら他でやってくださいよ。お願いしますよ」 「大隊長?!」 部屋がざわめいた。だがジェズイットはいつも通りのニヤニヤした顔で、何のことかわかりません、と言った。 「もしかして講師、うちの親父と間違えてるんじゃないスか? いやあ、実は俺、親父とおんなじ名前付けられちゃったんスよね、生まれた時に。迷惑なもんで良く間違えられるんスよ」 「はあ……そうですか。それにしても良く似ている。いや、私はひよっこの頃、君のお父さんの隊にいたことがあってね。少し知っているんですが……毎晩女性レンジャーのスカートめくり隊というのに強制参加させられて大変でした。泣いて嫌がったらおまえは除隊だとこう、脅されるわけですよ。私も若かったから、もう20年は前になるかな。そうか、もうそんなになるのか……」 「…………」 「そりゃあそうですね。もう何十年も経っているのに、あの方が君くらいの年齢の訳はないか。はは、いやすいませんね、いろいろ思い出しちゃって。う……」 講師はそう言うと、急に青ざめて、静かに泣き出してしまった。どうやら様子から察する所、昔の嫌な思い出が、今になって浮かび上がってきたらしい。 「なあおっさん……」 ボッシュがいつもの白けた顔で、疑りぶかそうにぼそっと言った。 「あんた、ホントにいくつなの?」 「だから言ってるだろ、18だって。俺嘘ついたことないんだ」 ジェズイットが、いつもの顔のまま答えた。 ◇◆◇◆◇ 「この辺りで間違いは無さそうですが」 クピトは一人ごちて、俯き、杖の端で地面を引っ掻き、マーキングした。あまり森の中は慣れていない。迷えば帰れなくなる。注意しなければならない。 「反応は……ないようですね。この辺じゃあないのかな? それとも、もうどこか遠くへ行ってしまったのかな?」 首を傾げて訊いてみたが、返事はなかった。クピトは顔を上げ、『彼』を呼んでみた。 「……リュウくん? ぼくの言葉がわかりますか?」 答えは返ってこなかった。 『彼』、リュウ、いや、以前リュウ=1/8192だったものは虚ろな目で虚空を見つめながら、ぼうっと突っ立っているだけだ。彼の主と離れ過ぎたせいだろうか、うまくコントロールが効いていないようだ。意志の力はそこにはなく、まったく人形と言った風情だった。彼の感情なんていうものは、もうこの世界にはどこにも残ってはいないのだ。 「……せっかくきみを借りてきたのに、成果は無かったようです。すみません。後でメベトに謝らなきゃならないな……。ボッシュくんにばれなければいいけど」 クピトはふうっと溜息を吐いて、リュウの頬に触れ、じっと彼の顔を見つめた。彼はクピトの主に良く似ていた。感情の見えない虚ろな目も、顔つきも、何もかもが。 「……エリュオン?」 呼んでみたが、返事は無かった。当たり前かなとクピトは苦笑して、さて帰りましょうか、と言った。 「その前に……どうしようかな、これ」 足元には二人のレンジャーが目を回して転がっていた。まだ生きている。失神しているだけだ。ディクに追い掛けられていたかと思えば、助けたリュウと顔を合わせるなり卒倒してしまったのだ。 クピトは肩を竦めて杖の先端で彼らの額をこんこんと小突き、失敗したらごめんなさいね、と言った。 「ぼくらと出会った記憶を消させていただきます。他のものまで壊れちゃったらごめんなさい」 そして、なるだけ後遺症は残らないようにしますね、と付け加えた。 ◇◆◇◆◇ がんとテーブルを蹴り付け、足を乗せて、ボッシュは忌々しく顔を歪めて吐き捨てた。最近になってほとんど感じなくなっていた種類の感情が――行き場のない怒りや、焦燥、苛立ちなどだ――ボッシュを苛んでいた。 「まだなのかよ! 整備ってのは!」 「まあまあ、公社の方も頑張ってんだから。 ガキじゃないんだ、そんくらい待てるだろ? なっ?」 窓際のライティング・デスクに腰掛けているジェズイットが、子供を宥めるような言い方をした。 それが気に触った。ボッシュはブーツの踵をテーブルに打ち付け、枯れた花が生けられた花瓶ごと破壊した。けたたましい音を立ててガラス片が飛び散り、ジェズイットは疲れた顔をして「あーあ」とぼやいた。 「八つ当たりは大人げないよボッシュ君」 「うるさい! なんでオマエが俺の職場に来てんの?! 見張りだかなんだか知らないけど、不愉快だ。今すぐ帰れよ!」 「はいはい、お坊ちゃんよ、俺だって好きでやってる訳じゃないんだって。消えてこっそり覗かれてるのってヤだろ? だからせっかくレンジャーに擬装……」 「お言葉だが、統治者には統治者の仕事があるはずだ。帰れ」 「ヴェクサシオンに頼まれてんだって。おっさんあれで心配性なんだ。おまえさんが自暴自棄になりゃしないかってのを心配してだな、おまえさんとこにあの子が帰ってくるまで面倒見てやってくれとさ」 「……嘘だ。あの男はそんなこと言わない。それに、それだけじゃない。用事は他にあるんだろ」 「いや、本当だよ。おまえさんのお目付け役だ。何せ大事な大事な次期オリジンサマだからな」 「俺はオリジンなんかにはならない。そう言ったろ?」 ボッシュは唇を噛み締め、項垂れて、花瓶の欠片をジェズイットに投げ付けた。ガラス片はジェズイットにぶち当たる前に、奇妙な紋様の光の壁――彼のアブソリュ―ド・ディフェンスだ――に阻まれて、じゅうっと溶けて蒸発した。 「……リュウ、早く返せよ。あれは俺のものなんだ。もし勝手に何かしたら、俺はオマエらを許さない」 「親父さんもかい?」 「そうだよ」 奥歯を噛み締めて、ボッシュは頷いた。 『あれ』以外に、ボッシュには何も無かった。 初めて自分の力だけで手に入れたものだ。そしてきっと最後のものだ。他に欲しいものが思い浮かばないのだ。 「それにしても、きったない部屋だな。掃除しろよな。飯食ってるか? おまえさんあれだろ。一人じゃ掃除もできない、飯も作れない。何も作る奴がいなくなったら即サバイバル生活なんて不器用な真似しなくてもよお、いいのに。飯だって街まで食いに行きゃ良いじゃん。……つうか冷蔵庫のハオチー、あれ生で食うのか?」 「……リュウがいない。しょうがない」 「……はあ。いや、さっきの話さ、俺からも頼んどくよ、坊ちゃん。リュウくん早く返してやってくれってさ。このままじゃおまえさん、野生化して野良ディクになっちゃうぞ」 「…………」 ボッシュは溜息を吐き、部屋の中をぐるっと見回した。まるで家の中だけで局地的な嵐が起こったような惨状だった。コードの類はあらかた切断されていた。もう電気もつかない。テーブルは今しがた破壊した。ガラス片と飛び散った水が床を汚している。 しばらくの沈黙の後、ジェズイットが少しほっとしたように言った。 「しかし、助かった。リュウくんのことな。オリジンエリュオン役をやれるの、あいつしかいないんだ。 いや、『役』ってのも変かな。半分はおんなじものなんだしな」 「……竜の話は止めろよ。胸糞悪い」 「似てるだろう? あのドラゴナイズド・フォームなんて特によ。俺もちょっとびっくりしちゃったわ。そっくりだよなー」 「……止めろっての、聞こえないわけ」 「俺が言いたいのはな、坊ちゃん。俺以外にもそう考えてる奴がいるだろうってことだ。例えばオリジンエリュオンを愛していた人間がいたとする。そいつの前に、死んだオリジンそっくりの人間……というか、あれ人間て言って良いのかわかんねーけど……が現れたとする。どう思うだろうな?」 「……殺すよ」 ボッシュはじろっとジェズイットを睨んだ。彼は相変わらず堪えたふうもない顔をしている。両手を「降参」と言うように突き出して、悪気はないんだぜ、と言った。 「ただちょっとからかっていじめただけだって。それよりお目付け役として言わせてもらう。おまえさんはオリジンなんかヤダって言う。でもここにいる。本気で嫌なら、もっとやりようがあるはずだ。誰にも渡さないつもりなら、リュウくんと一緒にどっか遠いとこにでも行っちまいな」 「…………」 「それが嫌なら、中央へ行けよ。なんでも思い通りにしたいなら、世界は全部自分のもんだって宣言するべきだ。おまえさんには力がある。どう使うかはっきりさせるべきだ。それは義務って言ったって良い。こんなとこでレンジャーごっこやってんのは、あれだ。菓子屋に爆弾並べてるみたいなもんだ。危険なんだよ」 『彼』が帰って来たのは、ちょうど2週間目の夕刻のことだった。 レンジャー基地での勤務を終えて、家に帰ると、窓から灯りが零れているのが見えた。一瞬空き巣のトリックスターではないかと空想したが、ろくに盗るものもないだろうし、空のID管理はしっかりと行われていたから、コソ泥が街中に潜り込めるはずもない。 建付けの悪い扉を開けたところで、玄関に退屈そうにぼおっと座っていた彼と目が合った。ボッシュが一瞬固まっていると、彼は少しはにかんで微笑み、照れ臭そうに言った。 「お、おかえり、ボッシュ!」 「…………」 見たところ、外見は全く変わっていなかった。相変わらず、微塵も腐食していない。良い出来映えだ。 ただ以前とはあきらかに彼は異なっていた。はっきりと言葉を話したし、その声は記憶の中のリュウの声と寸分も違わなかった。顔も、そこにある少し気後れしたような性質もおんなじだった。 昔ボッシュが良く知っていた、あの頃のリュウが目の前にいた。 「……リュウ?」 「あ、え? うん。お疲れさま、ボッシュ。 おなかすいた? ごはんできてるよ。ナゲットのミルクシチューと、りんごのサラダを作ったんだ。温かいのがいいかなと思ってさ。家の中も今綺麗になったところ。おれが帰って来た時はすごいことになってて驚いたよ。あんなところで良く普通に暮らせてたね……」 「…………」 「……あっ、先にシャワーのほうがよかった? ごめん、気がつかなくて。 シチューは後で温め直せば良いから、着替えも用意しておくよ」 「…………」 「……ええと、そのさ。うん。……あの、気に入らなかった、かな……いろいろ、呼び方とか考えてみたんだけど、ご主人さまとかお館さまとか呼べってみんな言うんだけど、やっぱり変だし、いやボッシュがそう呼んで欲しいんなら、おれとしてもがんばらないわけには……」 衝動的に、ボッシュはリュウの肩を掴んで引寄せた。彼を抱いた。そうしない訳にはいかなかった。 リュウは驚いた表情になって――それすらもあの頃のままだった――弱りきった声で「どうしたのボッシュ」と心配そうに言った。 「泣いてるの?」 ボッシュは答えず、リュウに縋りついていた。 彼の身体は、ボッシュよりも幾分か小さかった。あの時のままだ。リュウが死んだ日。彼の目に鮮やかに灯っていた怒りと憎悪は、今はどこにも見付けられなかった。 見慣れた穏やかな青い目だ。透明に透き通って、まっすぐにボッシュを映し込んでいる。 「……嫌なことがあったの? 大丈夫だよ、おれに言ってみてよ。難しいことはちょっと自信ないけど、がんばるよ」 リュウは細い手でボッシュの頭を抱いて、どうすれば良いんだろうという顔をしている。彼にはボッシュが悲しむ――もしくは、何かを異常なくらいに怖がる――理由が解らないようだった。その不理解の顔のまま、リュウは気後れしたふうに、がんばるよ、と言った。 「きみのために働くよ。おれは「オリジンチョクゾクノネガティブ」とか言う……らしくて……いや、意味はわかんないんだけど、ボッシュのためにがんばれば大丈夫だっていうのは知ってるよ。……ねえ、おれの顔見て泣くのとか、止めてよ……」 リュウは弱りきった顔で、まるでおれがボッシュを泣かせてるみたい、と言った。 ◇◆◇◆◇ ちゃんと役割は認識していた。自分がどんな責務に就いていて――「職務」ではないのだ――何をするべきかといったこと、階級について、仕事の内容など。 リュウにとって過去の思い出というものは、あまり馴染みのないものだった。うすぼんやりとしていてうまく思い出せないが、いつもおんなじルーチンがそこにあったような気がする。きりきり回る歯車のネジだ。今がそうだから昔もそうだったのだろうし、これから先もそうなるだろう。 リュウは疑問を持たなかった。今が特別というわけじゃない。昔からそうだった。リュウは頭が悪いのだ。頭では考えない。本能や衝動に突き動かされて、信念が命じるままに振舞うのだ。 そうしなければ、頭で考え始めてしまうともう駄目になる。恐怖と不安に自分をごっそり奪われてしまう。だからいつだって、意識して自分に言い聞かせるのだ。剣を持ったら、後は何も考えるんじゃないと。 リュウはオリジン直属の暗部、ネガティブに所属している。隊員は他にまだいない。リュウだけだ。昔は他にも仲間がいたらしいが、任務中に殉職したそうだ。何が原因なのかは知らない。仕事は敵を倒すことだ。こればっかりは昔と何も変わらない。 仕事はいつも単独任務で、あの頃のようにふたりではないが―― 「……あれ?」 リュウは目をぱちぱちして、おれは今、何と何を比べたんだっけ、と自問した。昔のことを思い出すのは苦手だった。頭が霞みがかったようになっている上に、考えようとするとひどい頭痛がするのだ。 だけど、今のはもうちょっとで何かが出てきそうだった。喉元あたりまで来ていたのだ。あと少しで鍵がカチリと嵌まりそうな感じだった。 いつもリュウは仕事でひとりきりだ。でも、昔は他に誰かいたような気がする。もう一人だ。そしてそれはとても近しい人間だったような気がするのだ。液体カプセルの中でうんうん唸りながら思考に耽っていると、実験室の扉が開いて、白衣の男が入ってきた。見慣れた顔だが、近しい人間とは言っても、彼じゃあなさそうだ。 リュウはぺたっとガラスケースに手を付いて、おはようございます、と言った。 「はかせ、眠れましたか?」 「や、ああ、うん、そうですね。二時間ばかり……眠りましたよ、仮眠をですね、取りました。本当はベッドに入ってゆっくり眠りたいんですが、スケジュールが押していてそうも言っていられない」 「おれ、もう大丈夫みたいですよ。指の先までちゃんと動くし。もう少し休んだらどうです?」 「や、心配はご無用。きみだけは、ぞんざいな整備を行うと、我々の首が纏めて飛びますからね。 それにしても、君が穏やかな性質で良かったです。もう殴らないで下さいね。 実はあれから奥歯が使いものにならなくなって、食事もまともに取れないんですよ。まあ、栄養パックがあれば、食事の必要も無いんですが」 「……? おれ、殴ったりなんかしませんよ。命令もないのに」 「や、まあいいです。それよりリュウ、君の主についてですが、いくつか聞きたいんですけどね」 「はい」 「名前は? どんな方です?」 「ええ、名前はボッシュ。ちょっと意地の悪いところもあるけど……いつもおれのこと馬鹿って言うし……誰よりも強くて、すごいヒトです。どうしてそんなこと?」 「ええ、ちょっとね。もうひとつ、君が彼に対して何らかの悪意を抱くようなことがあると思いますか? 例えば、彼が君を殺そうとした時、君はどうします? 応戦しますか?」 「そんなの、あるわけない。ボッシュはいつだって正しいことをするんだ。きっと頭が良いからなんだろうと思います」 リュウはちょっと眉を顰めて、「はかせ」に言った。そんなことがある訳ない。もしもリュウがボッシュに「壊され」るようなことがあったとしても、それはリュウに何らかの落ち度があったせいだ。しょうがない。彼は正しく、無慈悲だ。でも優しい。だから、そんな空想はありえない。 博士は頷いて、結構です、と言い、ボードに何か書き込んだ。 「今回の調整も問題ありませんでした。リュウ、終わりです。帰ってよろしい。また仕事があれば通達があるでしょう。くれぐれもボッシュ様に無礼を働かないこと。いいね」 「はい」 リュウは頷いた。今更そんな当たり前のことをどうして聞くんだろうとも思ったが、まあいつものことなので仕方がない。お役所仕事というやつは融通がきかないんだと、前にボッシュも言っていた。 「……あの、はかせ。ひとつ良いですか?」 「はい、何でしょう?」 「ここの周りの部屋には、なんだか、その……カ、カロンとかがいっぱい飾ってあるのはどうしてですか?」 「飾ってあるのではありません。生成中のものや、剥製や、標本や、捕獲したものなど……」 「……あの、怖いんですけど、あれ」 「や、なにがです?」 「いやおれ、お化けとかがその、苦手で……」 「…………」 「ほんとに、駄目なんです。あの、何とかならないでしょうか……」 「……難しいことを言いますね、きみは」 帰り際に、いつものようにはかせがいくつか注意ごとをくれた。 「くれぐれもキリエには気をつけること。ホーリーハートに触れるなんてことも、もってのほかです。できれば日光も避けること。湿気にも気をつけて下さい。バイオコーティングは万能じゃありません、いいですね」 「はい、了解しました。これより任務の通達まで、主の元で待機します」 「ええ、気をつけて」 「はかせ、ありがとうございました」 リュウは頷き、手のひらを額にかざし、敬礼した。 「おかえり!」 リュウは笑って言った。帰ってくるなり玄関で、ボッシュはジャケットも脱がないままリュウをぎゅっと抱いて、ただいま、と言った。彼はいつもこうだった。リュウの身体に触って、何かを確めるような仕草を良くやった。 ボッシュの髪が鼻先に触れると、良い匂いがした。少し尖っているけど、綺麗な花のような香りだ。リュウはそれが好きだった。 「……疲れちゃったんだね」 玄関でじゃれているうちに、座り込んでボッシュに乗っかられている格好で、リュウは苦笑して、彼の背中を撫でた。 「シャワー浴びなよ。すっきりするよ」 「もうちょっと待てよ」 ボッシュは甘えるみたいに言って、リュウの髪に触った。 「命令だよ、おとなしくしてるんだ。俺の言うこと、聞けるだろう?」 「……うん、了解、わかったよ。ボッシュはもうちょっとおれに触っていたい、これでいい?」 「そうだ」 ボッシュは満足そうに頷いた。リュウが従順に言い付けを聞くことを、彼はとても気に入っているようだった。 「明日は非番なんだ。ずっとオマエと遊んでやれる。嬉しい?」 「うん、すごく嬉しい。一緒にいられるんだよね?」 「そう、一日中ね」 ボッシュはにこにこしていた。とても嬉しそうだった。だからリュウも自然に、なんだか温かい気持ちになってしまった。彼の安全だけじゃない、望みを叶えること、ボッシュという人間の幸福が、リュウの中では最優先されている。そういう設定だった。 ボッシュが必要としてくれると、自分の存在というものを強く感じた。リュウはその時生まれる例えようもない誇らしさが好きだった。だからボッシュが欲しがってくれて、使ってくれるように、リュウは頑張っているのだ。 今日も統治者の少年から下された仕事を「頑張った」。ボッシュの他に世界にあるものなんて、リュウにとっては塵みたいなものばかりだった。そういうふうな決まりごとなのだ。 夜が更けた頃には、ボッシュはお気に入りの果実酒が入って、気持ち良さそうに眠っていた。彼はあまりアルコールは呑み付けないが――弱い訳では無いが、あんまり強くない――すごく嫌なことがあった時や、反対にすごく良いことがあった時なんかには、冷蔵庫で冷やしてあるお酒に手を付ける。 ここ最近で見ると、リュウが仕事や調整から帰ってきた時にはいつも呑む。それから決まって気持ち良さそうなほろ酔い顔で、リビングのソファでまどろむ。 隊で何か面白く無いことがあった時には、不機嫌な顔で泥酔してテーブルに突っ伏して寝込んでしまう。微妙に違うが、リュウにとってはどっちも同じだった。ボッシュをベッドまで引き摺って行かなきゃならない。 「ボッシュ、まだ起きてる? ベッド行かなきゃ駄目だってば。こんなとこで寝たら風邪ひいちゃうよ」 「んん……オマエが運べよ、あとでさ」 「ボッシュったら、もー、おれがいない時とかどうすんの? こんなんじゃおれ、いつもボッシュにずーっとついてなくちゃ……」 「ずーっと、いろよ。ここに、どっか行くんじゃ、ない……」 ボッシュはリュウの手を握り、自分の頬に擦り付けた。まるで子供みたいな仕草だ。リュウは「しょうがないなあ」と溜息を吐いて、寝室のベッドからシーツを剥がしてきて、ボッシュに掛けてやった。 ボッシュの耳は真っ赤になっている。色素がひどく薄いので、酔っ払うと分かりやすいくらいに赤くなるのだ。彼の頭をゆっくり撫でて、リュウは少し微笑んだ。それから目を閉じ、じいっと耳を澄ませ、目を開いて、ボッシュを起こさないように、小さな声で囁いた。 「……ぶしつけですね、ジェズイット様」 「うっは、オルテンシアとおんなじこと言いやがる」 リュウが見ている先で、なんにもない空間がぐにゃっと歪んだ。 それはヒトのかたちになり、やがて男が現れた。見慣れた顔である。統治者のジェズイットだった。リュウは表情を変えないまま、何かご用ですか、と言った。 「監視されることは、ボッシュは好きじゃないです。というか、ジェズイット様が好きじゃないです。この間言っていました」 「ふうん、何て?」 「俺が万が一オリジンになったら、真っ先にあいつの首を刎ねてやるって」 「……怖いなあ。憎まれ役も辛いなあ。でもリュウ君、おまえさんなら解ってくれると思うが、俺も仕事なんだよね。そこの坊ちゃんのお目付け役ってやつ? そいつの親父さんから頼まれててさ」 「ボッシュはヴェクサシオン様が好きじゃないです。この間言ってました」 「あーはいはい、ったく、ゾンビってのは融通がきかねえな。かわいげねえ」 ジェズイットは、ここ座るね、と言い置いて、テーブルチェアに腰掛けて、腕を組み、感慨深そうな顔でリュウとボッシュを見た。 「おまえさんの前では、坊ちゃんはいつもそんなになつっこいのか?」 「……? 意味が解りません」 ジェズイットは溜息を吐いて、まあしょうがないなあ、と言った。 「うん、そうか。いや、そうだろうな。ゾンビだもんな。自分でものは考えらんねえよな。それにしても、おまえさんはやる奴だと思ったんだが……見込みが外れたか。俺が賭けで負けたのは初めてだよ、リュウ」 そして、おまえの目だよ、と言った。 「混じりけがないのがなんか怖いな。俺はさ、人間てのは、目を見りゃ大体解ると思うんだ。そいつがどんな人間で、何を考えてるか、信念は何か、嘘吐いているかないかとか、いろいろな。おまえさん、その目だけは初めて見たおまえのままだ。今は空っぽの人形のくせにだ。自分の見込みってやつに自信無くなっちまうんだよな」 「はい」 「いやそこ頷くところじゃないから」 ジェズイットは疲れたように肩を竦め、おまえも良くわからん、と言った。 「そこの坊ちゃんと話してる時は、無駄に人間らしいのに――さっきも一瞬、おまえさんがゾンビだってことを忘れちまってたし――他の奴だと駄目なんだな。なんでだ?」 「…………」 リュウが黙ったままでいると、ジェズイットは「べつにいいさ」と言い置いて、懐からカードを取り出した。オリジンの御印入りのものだ。見慣れたものだった。勅令の通達だ。 「さて、また一仕事だ。立派なネガティブになって、大好きな次期オリジンボッシュ様のためにキリキリ働いてくれよ」 「了解しました」 リュウは頷き、何をやれば良いですか、と聞いた。 「できれば、日帰りで終わる仕事がいいです……この間みたいに何日も家を空けると、ボッシュがお腹を空かせて死んでしまいます」 「……そいつ、何歳だっけ?」 「17です」 「はあ」 ジェズイットは溜息を吐きながら、頭を掻いて、まあおまえさん次第だよ、と言った。 「まあ簡単なもんだ。アレだ。敵を殺せ。いつものように、それだけだぜ」 リュウはふっとボッシュを見た。彼の指がぴくっと動いた。聞いてるんだろうな、と漠然と思ったが、咎める気配は無かったので、頷いた。 ◇◆◇◆◇ 奥地の探索隊に派遣されていったアビーは、同僚と一緒に基地に戻ってくるなり寝込んでしまった。レンジャールームに篭って出て来ない。どうやらひどい頭痛を起こしているようで、見舞いに行ってやってもドアを開けもしない。隊が巨大なディクに襲われてちりぢりのばらばらになったと聞いたが奇跡的に欠員はなく、皆一様にぼろぼろだったが致命傷を負っているものはいなかった。 そしていつも通りろくな収穫もなかったようだった。目撃情報が相次いでいる未確認巨大生物も、最近になって活動が活発化した反政府組織の襲撃もなかったらしい。 探索隊員たちは昼間にメディカル・ルームで検査を受けていたが、地上で良く見られる奇妙な病原菌に取り付かれているようなこともなく、いたって健康体だった。ただひどい頭痛に苛まれているだけだ。 「欠員の補充だったのよ。あいつも大概運が悪いよね……まぁいつものことだけど」 「災難だったね。大方変な毒素にでも当てられたんだよ、きっと。奥地じゃそういうの良くあるんだ」 「地上は怖いねえ」 モモはナンバーがばらばらに振られている書類をきちんと並べ直しながら、缶入りのシロップ漬けフルーツをぱくついているボッシュに言った。作業デスクの脇に置かれている、おんなじ缶詰が詰まっている箱に『寄贈、レンジャーさん達へ』と書かれた紙が貼り付けてあったので、近隣住民の差し入れだろう。それにしてもボッシュは本当に甘いものが好きだ。 「……すごく良く食べるのに全然太らないねボッシュ。いいなあ」 「微妙に反応しにくいな。それで相棒の話さ、なんか見つかったって?」 「ううんなんにも。ただ……」 「?」 「アビーのやつ、帰ってきてから青いものに過剰反応するのよね。空、水やりじょうろ、青いレンジャースーツ着た人とかね。見るだけで大騒ぎで大変だったよ。なんでかは本人もわかんないみたいだったけど」 「……ふうん。たぶんすっごく怖いものでも見たんだろうね。幽霊とかさ」 「あはは、そう言えばあいつゾンビとかカロンとか昔から死ぬ程苦手だったわ」 「ゾンビねぇ。何見たんだか」 ボッシュはそこで昔みたいなちょっと意地の悪い笑いかたをした。モモが「どうしたの」と聞いても答えない。彼はひらひら手を振って、「じゃ、お邪魔。続き頑張って」とだけ言ってレンジャールームを出て行った。 ◇◆◇◆◇ 「お勤めご苦労だね。頭痛いって?」 ひどい頭痛に苦しんでいると頭の上から声を掛けられて、アビーは緩慢に顔を上げた。ちょっとばかり恨めしい目を向けてしまったかもしれない。デスクの横にいつのまにかボッシュがいつもの退屈そうな白けた顔で、手持ち無沙汰そうに突っ立っていた。 「……いつからそこにいたんだよ」 「今だよ。それよりオマエに用事があってさ」 「……家柄だけエリート様が? 後にしてくれよ、今ほんとに死にそうなんだよ……」 アビーは哀れっぽい声を出して、デスクに突っ伏した。こんな時にいけすかないボッシュの相手なんかしたくはなかった。まさか気遣って様子を見に来た訳もないだろうし、またいつもの変な気まぐれだろうか? ボッシュはアビーの容態に構い付けもせず、まるで果物の熟れ具合でも確めるように何度か叩いて、何事か思案するみたいに腕を組んで顎に手を当てた。 「この感触から行くとあのガキの仕業だね。おいオマエ、ピンクのガキ見なかった?」 「はぁ? 知るかよ、何にも見てねぇよ……」 「あっそ。ならいいんだ」 ボッシュはそこで忌々しげな顔つきになり――なんだか彼の感情を含んだ表情なんて久し振りに見た――すっと目を閉じ、やれやれと頭を振ってさっさと背中を向けて行ってしまった。 「何なんだよ……」 相変わらずボッシュは何を考えているのか解らない男だ。だが、彼を見ているとなんとなくふっと思い浮かぶものがあって、アビーは顔を顰めた。そう、確か彼の回りに良くあるものだったのだ。確か青い、青い―― ◆◇◆◇◆ 「ただいま」 家に帰ると、当たり前のようにリュウが玄関に座り込んでいた。彼は「おかえり」と言って笑った。ボッシュはちょっとした疑問を覚えてリュウに訊いてみた。 「お前、いつからそうしてた?」 「朝からだけど。ずうっとボッシュを待ってた」 「……本当に犬みたいだね。ご苦労さん、忠犬」 ちょっと呆れて言うと、にわかにリュウは困ったように眉を顰めた。そして俯き、「変かな」と言った。 「だ、駄目だった? そうだよね、ボッシュちゃんとレンジャーやってる間おれこんなとこでぼけっとして――」 「そういうことじゃない。仕事は貰ってんだろ」 「うん。昨日は仕事で人間と獣人をひとりずつ殺したよ。さっきテレビに出てた」 「…………」 「あ、でも今日はなんにもなかったんだ。だからここで……ええとやることがないわけじゃないんだけどね、掃除とかまだ――」 リュウはあんまりに軽い調子で言った。ボッシュは少々予想が外れて、訝しげにリュウの顔をじっと見た。 彼の目は相変わらず死体だとは信じられないくらいに澄んでいた。嘘もごまかしもない。生前のリュウのままだ。 「……口止めされてんじゃないの? オマエ、俺に黙って勝手に……」 「クピト様が探し物があるっていうから、護衛をしてたんだよ。命令されたから二人消したんだ。あ、反政府なんとかとか言う人ね。ボッシュが知りたいなら何でも言うよ。ほんとは言っちゃ駄目だって言われてるけど、おれボッシュの言うことが一番大事なんだって言われてるから、別にいいんじゃないかなあ」 「……あいつらの誤算はオマエの頭が紙きれより軽いってことだな。もういいよ。そうやってちゃんと俺に言えよ。隠し事なんかしたら抓るよ」 「うんボッシュ」 リュウは素直に頷いた。それから急に思い出したふうにポケットから白い封書を引っ張り出した。 「あのこれ。ボッシュに渡すようにって」 「誰から?」 「さあ。言付けを頼まれたのはジェズイット様だけど、あの人もおつかいだって」 封書をひっくり返して見ても署名もなかった。乱暴に蝋を剥がして中身を引き出して目を通して、ボッシュは思いっきり顔を顰めた。そこには広い紙面にぽつんとこれだけ書かれてあった。 『出頭を命ずる』 |
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