ひとつの扉が目の前にある。
 特に装飾がなされているわけでもない。
 表面が湿気に浸蝕されているふうに錆び付いている。
「……ここが?」
「ああ、そうさ。言っとくけどリーダーに無礼な真似をしたら、即座に撃ち殺すよ、腰抜け」
「フン……」
 リンはホルスターに手を掛けたままだ。
 丸腰のボッシュは、彼女がその気になりさえすれば、すぐに撃ち殺されるだろう。
「入りな。……メベト。リンです」
 ドアが、開いた。


 部屋の中には男がふたり、長身の男のほうが痩せた男に合図して、退室を促した。
「ボッシュ=1/64……そして、リュウ=1/8192。久し振りだ。覚えているかね」
 メベト=1/4だろう男は、意外に穏やかな声で、ボッシュたちを出迎えた。
「……ハア? 犯罪者のボスなんか、面識があるわけ……」
 ボッシュが面食らっていると、すぐ横に並んでいるリュウが、困惑したようにぺこりと頭を下げた。
「は、はい。えっとあの、メベトさん。お久し振りです」
「ハ? なんでオマエ、こいつの顔知ってんの? おとなしい顔してトリニティと繋がりなんかあったわけ?」
 リュウを肘で小突くと、微妙な顔をして、覚えてないの、とこそこそ訊いてきた。
「メベトさん、昔たまに屋敷にきてたよ……おれたちが子供のころ。遊んでもらったの、覚えてない?」
「ハアア?」
 まったく覚えがない。
 メベトはボッシュの混乱などまったく気に止めず、リンに命じた。
「リン、しばらく彼らと話がしたい」
「……はい」
 リンは、おそらくボッシュが暴れ出さないものだか警戒しているのだろう、しばらくものいいたげな顔をしていたが、おとなしく部屋を出た。
 あとにはボッシュとリュウ、そして反政府組織を束ねる反逆者、メベトだけが残される。
「覚えていないのも無理はない……君らが物心ついたころには、もう統治者を抜けていたからな」
「統治者……?!」
 ボッシュは驚いて、メベトに訊き返した。
「嘘つくなよ、統治者が、トリニティのリーダーなんかになるもんか……」
「意見の不一致というやつだな。大人には色々あるんだ。それにしても二人共、父親に良く似ている。彼らの若い頃にそっくりだ」
「彼ら……?」
 ボッシュはメベトの言葉を聞きとがめたが、その男はそれ以上語るつもりはないらしく、ただ少し黙って、ボッシュとリュウを見た。
「あの……」
 今までずっと黙り込んでいたリュウが、おずおずと顔を上げて、口を開いた。
「どうしておれを……?」
「リュウ君、我々の目的を、どこかで聞いたことがあるかね?」
 リュウは、ふるふると首を振った。
 リュウが知るわけがない、トリニティの存在すら知らなかったのだ。
 彼はローディであるので、教育を受ける必要はなく、無知だった。
 メベトは、ゆっくりとリュウに言い聞かせる口調で言った。
「我々は、空を開く」
「そ、そら?」
 リュウは目をまんまるくして、戸惑ったように首を傾げた。
「そら……って、あの? レンジャーたちの基地がある下層区にあるっていう、青い天井……」
「遥か昔、人々はこの大深度地下都市に移り住む前には、空で生きていた。知っているかね?」
「あ……えっと、絵本で読んだことがあります」
「おとぎばなしだ。空なんて、ほんとにあるわけない」
 ボッシュは鼻で笑ったが、メベトは大真面目な顔のままだ。
「最高統治者が再び閉じてしまった空を、我々が開くのだ。そのために、リュウ君――――君の力を貸して欲しい」
「え?」
 リュウはきょとんとしている。
 ボッシュにも、何が何だかわからない。
 このトリニティのリーダーは、トリニティらしく、ちょっと頭がおかしいんじゃないだろうか?
「君が空への鍵になる」
 メベトは真剣そのもので言った。


◇◆◇◆◇


 今日は泊まっていくといいと言われたって、そもそも次にいつ帰れるものだか知れたものじゃない。
 トリニティのアジトは、いつ崩落して地下水が流れ込んでくるものだかわからない粗末なもので、悪くなった水の甘ったるい嫌な臭いが、時折鼻についた。
「ボッシュ、先帰ってていいよ……ほら、お義父さんには、おれが残るって言ってたって……」
「あの親父がそれで納得するとでも? ともかく、オマエを連れ戻すか下層区に放り込むか……つったって次いつトリニティに攫われるもんだかわかったもんじゃないから、オマエきっとしばらく省庁区に監禁だな」
「ええっ?! おれ、レンジャー登録、もう済ませてるのに……明日が入隊式だったんだよー」
 リュウは落ち込んだように項垂れた。
 ボッシュはちっと舌打ちした。
 リュウの気楽さ加減が、少々気に触ったので。
「オマエさあ。立場わかってる? ローディとは言え、うちの家紋を背負ってるんだぜ。仮にも剣聖の血に連なるものが、サード止まりの落ち零れレンジャーで終わったなんて、俺までいい笑い者だ」
「……誰も信じてないよ。おれが、お義父さんのほんとの子だなんてさ」
 リュウは自嘲気味に、力なく笑った。
「ボッシュもそう思うだろ?」
「フン……」
 答えず、後ろを向いて、リュウから目を逸らした。
 今更そんなことを聞かれたって、しょうがない。
「事実なんか、誰も見てやしないさ。下層区のローディどもにとっちゃ、上から来たってだけでエリートなんだ。オマエ、剣聖に連なる名を背負ってるって自覚があるのか?」
 ボッシュはそうして、リュウの胸を小突いた。
「ローディどもに「剣聖の息子はこの程度だ」「じゃあ剣聖なんてたかが知れてる」そんなふうに言われるのは目に見えてるだろ、オマエ無教養で、弱虫なんだから。下層に降りたら絶対家紋を穢すよ。上でおとなしくしてりゃいいのに」
「え……だって、ボッシュ、おれと目が合ったりすると、すごく嫌そうな顔してるじゃないか……」
「ハア?」
「さっさと出てけって、言ったり……おれ、上にいてもいいの?」
「……親父は出てけなんて一言も言ってなかった。ならわざわざ出てくこともないだろ」
「お、おれのこと、嫌いなんじゃ」
「嫌いだとか考えたことないけど」
 ボッシュは首を傾げた。
 何故こういうことを、ボッシュにお伺いを立てる必要があるのだろうか?
 そもそも、何故ボッシュに好き嫌いなんて聞くのだろう?
 あまりまともに話したこともなかったはずだ。
 リュウは屋敷の人間に、ボッシュから隔離されていた。
 それは徹底していた。
 顔を合わせるとしたら、部屋に忍び込んでくるくらいしか方法はなかったはずだ。
 そして、リュウにはわざわざそんなにまでしてボッシュに会いにくる理由がない。
「き、嫌いじゃないの……?」
 だがリュウはあからさまにほっとした顔をして、よかったあ、なんて安堵の溜息をついた。
「あ、ねえ、ボッシュ。あのさ……」
 リュウは顔を上げ、どうしようかな、という顔をした。
「おれがその、レンジャーになったらさ」
「なに。まだレンジャーになるなんて言ってるの?」
 ボッシュは呆れてしまった。
 リュウは、今の話を聞いていなかったのだろうか?
「うん、約束だから……。えと、おれがレンジャーになって、下層区に住むことになったら、あの……一回くらい、遊びに来てくれる?」
「ハア? なんで?」
 ていうか約束ってなんだとボッシュは思った。
 誰とそんなバカな約束をしたというんだろう。
 怪訝にリュウを見ると、ちょっと照れたように笑って、言った。
「おれ、ボッシュに空を見せてあげたいんだ。下層区には青い空があるんだって、昔教えてくれたろ」
「……いらねーよ、そんなもん」
「え、えっ?! い、いらないの?!」
「……ていうか、空気悪いし、そんなに見たきゃ映像があるだろ」
「で、でも、やっぱりほら、ちゃんと見たくない? 自分で」
「別にいらないし、オマエも見たきゃリフトで一本だろ、下層区なんて。なんでわざわざレンジャーになる必要があんの? わけわかんねえ」
「う……そ、か……」
 リュウはひどく落ち込んだようにしょげてしまった。
 だが、そうだ。空の話題で思い出した。
 さっきのメベトの話だ。
「そういやさっきの話、それにしたってわけわかんないな。オマエが空への鍵って、何の冗談、それ」
「あ、そうだった。ね、なんでだろうね。おれとボッシュを間違えてるんじゃないかなあ」
「……なんで俺」
「だってボッシュ、すごい人になるんだろ? 空くらい開けて、見に行きそうなんだもの。……あ、そうなっちゃうなら、わざわざ下層区の空なんて見せてあげたって、あんまり面白くないな……おれ、バカみたいだ……」
 はー、とリュウが溜息をついて、項垂れてしまった。
「俺だって空なんか知ったことじゃないよ。つか、あるのかないのかもわかんねーのに、トリニティってバカの集団じゃないのか?」
「ボッシュ、人の家でそういう言いかたは良くないと思うよ……」
 監視役のトリニティが無言で睨んできたので、リュウは居心地悪そうに俯いている。
「大体オマエが下層区に降りるにしてもうちに帰るにしても、ここから出られなきゃ話になんないんだよな」
「ずーっと、ここにいなきゃならないのかな?」
「まさか、政府が黙ってないだろ。俺たちは剣聖に連なる――――って、何嬉しそうに笑ってんの。何がおかしい?」
「あ、いや、その」
 リュウはわたわたと手を振って、おかしいとかじゃないんだ、と言った。
「ボッシュ今、おれのこと、兄ちゃんって言ってくれたみたいでさ。嬉しかったんだ」
「ハア?」
「おれたちは剣聖に連なる――――ってさ。なんか昔みたいだ」
 バカじゃないのか、という顔をしているボッシュに、リュウはなんだか昔みたいだとしみじみ言った。
「それさっきから何な訳? 俺、オマエとそんなに仲良し兄弟した覚え、全然ないんだけど」
「……うん。あのさ、ボッシュ」
 リュウはちょっと寂しそうだったが、笑って言った。
「頑張るよ、ボッシュにちゃんと兄ちゃんって認めてもらえるように、おれ」
「ハア? そんなの、一生あるわけないだろ。D値が上がるわけでもなし」
「あっ、そうだ! おれ、頑張ってD値を上げればいいんだ。わあ、ね、そうだろ、ボッシュ?」
「……ホンモノのバカ?」


 この日二人は、トリニティのアジトの汚れた染みだらけの二段ベッドを宛がわれ、そこで寝ることになった。
 いろんなことがありすぎて疲れきった身体は、安っぽいぼろぼろのベッドでも構い付けずに、すぐに眠りに落ちた。


◆◇◆◇◆


 悲鳴が聞こえて目が覚めた。
 のろのろと上半身だけ起こして、ボッシュはがしがしと頭を掻いた。
(なんだ……?)
 二段ベッドの上段から身を乗り出して、下を覗く。
「オイ?」
 リュウは、いなかった。
「くそっ……!」
 舌打ちして慌てて起き上がり、手早くジャケットを身に付け、ベッドから飛び降りた。
 そう、ここは反政府組織のアジト、トリニティ・ピットなのである。
 予想外に穏やかな物腰の対応と、日和見なリュウのせいで失念していたが、無法者の巣なのである。
 何が起こったって不思議じゃない。
 遠くからかすかに聞こえた悲鳴はリュウのものだった。
 仮にも兄弟だ、不満ではあるが、間違う訳はない。
 ボッシュはいつのまにか監視もいなくなっている部屋を飛び出して――――ふっと気付いた。
 剣も持たずに飛び出してどうするつもりだ。
(俺の剣……! どこだ、あの女!)
 まずリンを捕まえて、獣剣を取り返すべきだ。
 身を守る剣が手元にないと、途端に心細かった。
「っわ……!」
 だが、リュウの声とガラスの割れる大きな物音が予想外に近くから聞こえて、ボッシュは身体を強張らせた。
 暗がりから飛び出してきたリュウは、ピットの壁にどんと背中を押し付けた。
 武装した二人の男が、際にリュウを追い詰めた。
「あ、あの……な、何ですか……?!」
 少し震えながら、リュウは男たちを見上げた――――奇妙だった。
 二人の男の格好は、政府暗部の隊服であったからだ。
「おい! 何をやってる!」
 トリニティ・ピットに剣聖の息子たちを救出に来た父の部下だろうと見当をつけ、ボッシュは声を掛けた。
 リュウはいまひとつ上層区民に見えない風貌をしていたので、トリニティの構成員と間違われているのかもしれない。
「そいつはリュウ=1/8192――――剣聖に連なるものだ。父ヴェクサシオンの配下の者か?」
「ええ、そうです、ボッシュ様」
 男の一人が頷いて、だが剣を引くことはなく、切っ先をリュウに向けたままである。
「何をしている! オマエら、俺たちを助けにきたんじゃないのか?!」
「残念ですが、ボッシュ様……お父上のご命令は、あなたがたの救出ではありません」
「ハア?!」
 ボッシュは驚き、自分に向けられた銃口に唖然とした。
 父の手先らしい男は、静かに言った。
「トリニティの手に「これ」が渡るようであれば、奴らの仕業に見せ掛け、処分するようにとのこと。誰にも知られてはならない――――貴方様も、例外ではありません」
 男が、セーフティを外した。
 赤い光点が、ボッシュの額にぴったりと定まっている。
「もし目撃されるようであれば、ボッシュ=1/64の殺処分も許可されております」
「な……」
 ボッシュは、嘘だ、と叫ぼうとした。
 だが声が出ない。
 父はこんなにもあっさりと、ボッシュを見捨てるのか?


『栄光のものよ――――今におまえは世界を手にする』


 父ヴェクサシオンは、栄光のものとボッシュを呼んだ。
 選ばれしものであると。
 まさか、こんな使い捨ての塵のような扱いをするはずがない。
 苛烈な訓練に耐えたボッシュを見捨てるはずがない。
 だが、向けられた殺意も銃も現実であり、男たちの着ている隊服は紛れもなく政府に所属するものの証である。
「ボッシュ!」
 リュウの悲鳴が聞こえた。
 剣を向けられて竦んでいたリュウが、その恐怖すらすっかり忘れたような焦燥の表情で、銃を持った男とボッシュの間に割って入り――――


 銃声が響いた。


 頬に熱い飛沫が掛かった。
 普段見慣れたものである、ただ、それはディクの体液であって、こんなふうに――――人間が傷付き流した血など、ボッシュは今まで自分のもの以外にほとんど見たことがなかった。
 ボッシュを狙ったはずの暗部の兵士の銃弾は、割って入ったリュウの肩を貫いた。
 リュウは悲鳴も上げず、その場にくずおれた。
 ボッシュは戸惑い、力なく垂れたリュウの腕を掴んだ。
「お、おい……」
 大丈夫かとでも聞こうとしたのだろうか。
 だがなんにも言うべき言葉は浮かんでこなかった。
 そして、ボッシュはふと、この兄ということになっているローディを、今この場でどう呼べば良いものだかもわからないと気付いた。
 オマエ、だろうか。
 いつものように、ローディ、家畜、そんなふうに?
 蹲ってしまったリュウに気を取られているうちに、もう一発銃声が響いた。
 ああ、とボッシュは思った。
 今度は自分が撃たれたのかもしれない。
 もう一発響いた。
 それと一緒くたに割り込んできた声で、ボッシュはどうやら自分が生きてはいるらしいと認識した。
――――そこっ! なにやってんだい?!」
 銃声はリンのものだった。
 彼女は二人で蹲っているボッシュとリュウの元へ駆けてきて、何かボッシュに放って寄越した――――獣剣である、奪われていた。
「仕留めな! 逃がすんじゃないよ!!」
「って、ちょっと待て……コイツが!」
 血塗れのリュウを抱えて、ボッシュは叫んだ。
「撃たれた! 血が、こんなに……おい、」
 リンに撃たれた暗部のレンジャーの片方は、正確に足を射撃され動けないもう片方を抱え、ボッシュが動けないでいるうちに、三人の前から離脱した。
 暗がりの中に、消えてしまった。
 がつっと頭を固いもので殴られて、ボッシュはまともに顔から床に倒れ込んだ。
 リンに、アフタマートのグリップで殴られたのである。
「っこのへタレ! 何ぼさっとしてんだい! 逃げられちまったじゃないか!」
「うるせえ、そんな場合じゃ……コイツが撃たれたんだぜ?!」
 リンはボッシュの傍らに座り込み、抱えられているリュウの傷を見た。
 そして、馬鹿にしきったように言ったのだった。
「このくらいじゃ死にやしないよ。ここじゃ良くある怪我さ。ぼっちゃん、そのくらい見りゃすぐわかるだろ?」
「本当に死なないのか?!」
「当たり前だろ!?」
 ボッシュはなんだか、気が抜けてしまった。
 それと同時に、無性に腹立たしい気分になってきた。
「オイ……この馬鹿! なんで前に出るんだっ!」
 リュウはぐったりと目を閉じている。
 気を失っているようだ。
 ボッシュは奥歯を噛み締めて、リュウを罵った。
「オマエなんかに庇ってもらわなくても、俺はなんとでもなるんだよ、馬鹿。ローディのくせに、家畜のくせに、俺を守ったつもりか? オイ……何とか言えよ!」
 胸倉を掴んで上半身を引き上げると、慌ててリンが止めた。
「動かすんじゃないよ! それにしても、ひどい出血だ。すぐに処置だ。ぼっちゃん、兄ちゃんをこっち、ついてきな」
「こんな奴、兄貴なもんか! こんなローディ、誰が……」
 ボッシュは袖を赤く染めている血液に舌打ちして、のろのろとリュウを抱え上げた。
 癪だが、トリニティの言うとおりにするしかない。
「……くそっ、俺は、オマエを何て呼びやいいのかもわからないんだ……」
 ボッシュは吐き棄て、顔を歪めた。
 リンは焦燥しながらも、もう呆れきったようにボッシュを見ていたが、肩を竦めて携帯の止血帯で、リュウの肩をぎゅっと強く縛った。
「どうでもいいからさっさと来な。兄ちゃん死んじゃったらもう喧嘩もできないんだ。その子細っこくて、あんまり体力なさそうだから、場合によっちゃやばいかもしれない」
「さっき死なないって言ったろうが」
「あんたがぼやぼやしてなきゃね」
 被弾のショック症状だろうか、リュウは少し震えている。
「あいつら……嘘ばっか言いやがって、親父がそんな……」
 ボッシュは呆然と呟いたが、だがこれは紛れもない現実なのだ。
 ボッシュの代わりに撃たれたリュウの血の熱さが、べったりとこびりついてくる感触が、そして血の匂いが、それをボッシュに嫌でも教えてくれた。
 父はボッシュを見捨てたのだ。


◆◇◆◇◆


「……あ、っ?」
 寝惚けた声を上げて、リュウが目を覚ました。
 壁に凭れかかって、じいっとリュウを観察していたボッシュは慌てて目を逸らした。
 リュウはボッシュに気付くと、焦った顔で、慌てて起きあがった。
「ボ、ボッシュ! 怪我は?! だいじょうぶ……っいたたたた!!」
「バカ、オマエだよ、怪我なんかしてんの。まったく、世話の焼ける……俺はオマエみたいな盾なんかなくたって、全然問題ないんだけど」
「う……だって、つい」
「いいけど、これからはあんな真似するなよ。ありがた迷惑ってやつ?」
「う、ご、ごめん……ボッシュ」
 リュウはしゅんとして項垂れ、また顔を顰めて肩を抱いた。
「いた……あ、ボッシュが助けてくれたんだ……ありがとう、おれ、いきなり襲われて……」
「知ってる」
「ね、あの人たち、お義父さんの部下の人なんだって……」
「そうみたいだな」
「で、でも、おれとボッシュを殺すって言ってたよ? おれはともかく、ボッシュは嘘だ……きっと、勝手にお義父さんの名前、使ってたんだよ。おれ、あの人たちの顔、見た事ないし」
「そうだといいな」
 ボッシュは肩を竦めて、皮肉に言った。
「いいな、お気楽で」
「……ボッシュ、あの人たちの話、信じてるの?」
「まさか」
 リュウの不安げな表情を、鼻で笑ってやる。
「そんなこと、あるわけないだろ」
「うん……」
 だがボッシュは、おそらくリュウよりも不安でいる。
 ただ、このローディの前で無様な姿など見せてたまるものか、と強がっているだけだ。
(親父……)
 ヴェクサシオンがボッシュを見限ったからと言って、まさか絶対にそんなことはありえない、と言いきってしまうことができなかった。
 父は厳格で、能力絶対主義者であったので、もしボッシュに力がなければ、彼はボッシュをまともに見ることもなかった。
 何故かこの弱っちいローディが、なんにも、剣の振り方すら知らないくせに、息子のひとりであると認められているのは不思議だったが。
(何故だ、親父……。この俺に、あんたを認めさせるだけの力が、まだ無いというのか……?)
 ぎりっと奥歯を噛み締める。
 何故リュウの処分にそんなにこだわるのだ?
 そして、見てしまったボッシュも一緒に殺処分などと――――リュウが、このローディが、一体なんだというのだ?
 堂々巡りの考えをぐるぐると回していると、ドアが開く音がして、リンが顔を見せた。
「怪我はどうだい、リュウ」
「あ、リン……も、血は止まったみたい」
「悪いね、ろくな設備がなくってさ。薬もほとんど残ってないんだ。消毒用の酒があるくらいで――――
「ハア? そりゃ薬って言わねえよ。そんなでこの怪我が治る訳ないだろ」
「要は気合いさ。……けど、その子には、ちょっと酷かな」
「い、いや、だいじょうぶ! たぶん……おれ、怪我、慣れてるし」
「オマエ、良くコケて傷だらけになってるよな。バランス悪いんじゃないの?」
「う、うん、そうかも。あはは」
 リュウが無理していると一目でわかる顔で、笑ってみせた。
 リンは痛ましくリュウを見て、眉を顰めた。
「こんなヘタレ、庇うことはなかったんだ」
「……誰がヘタレだ、オイオマエ、さっきから無礼にも程があるぞ」
「ボッシュは、強いけど……武器もなくちゃ、どうにもならないだろ? その間だけでも、おれが守ってあげなきゃ……」
「……守るって何。必要ない」
「うん……ごめんね」
 リュウは力なく笑って、項垂れた。
 その顔は、なんだか熱っぽいように見える。
「リュウ? あんた、熱が出てきたんじゃないのかい?」
 リンが心配そうに――――彼女はリュウに関しては、ボッシュへの対応と違い、非常に過保護だった――――リュウの額に触れた。
「……思ったとおりだ。化膿してきたかな……。解熱剤なんか、置いてない……ここはあんまり衛生も良くないし」
「どうしろってんだよ。家には、もう……」
「ボッシュ……だからあれ、何かの間違いだよ。お義父さんは、ボッシュを見捨てたりしない……」
「オマエに何がわかるよ!」
 ボッシュは声を荒げて、リュウに突っかかった。
「ローディのくせに、わかったふうなことを言うな! いいか、あの人は、力を認めなきゃ、息子だって塵屑みたいに棄てちまえる男なんだよ」
「でもおれ、今まで棄てられなかったよ……弱いけど」
「オマエは……なんでだ?」
 リュウはこんなにちっぽけで弱く、価値のないローディなのに、父はリュウを今まで生かしておいた。
 リュウは力なく微笑んで、だいじょうぶだよボッシュ、と言った。
「ヴェクサシオン様は、血の繋がってないおれを見捨てないでここまで生かしてくださった、優しい方だよ。ほんとの子供のボッシュを棄てることなんて、あるわけ、ない……」
「オマエ……」
 ボッシュは静かなリュウの微笑を見て、なんとなく感付いてしまった。
 リュウは何か、知っている。ボッシュの知らない事実をだ。
「ね?」
 顔を蒼白にしながら、だが微笑のかたちを保ったままでリュウが言った。
 ボッシュは気圧されて、素直に頷いてしまった。
「そ、そうだな」
 リュウはボッシュの不安が消えたことにほっとしたように目を閉じ、ごめん、ちょっと寝るね、と言った。
「お、おい」
 リンが、ぽん、とボッシュの肩を叩いて、言った。
「あんた、兄ちゃんを看てな。メべトに外出許可を取ってくるよ」
「ハア?」
「その子をバイオ公社に連れてく。治療が必要だろう?」
「あ、ああ」
 リンが出て行ってしまうと、リュウと二人きりで残された。
 ボッシュはなんとなく居心地が悪く、こっそりとリュウの顔を覗き込んで、ふと気付いた。
(コイツ、笑ってた、よな……)
 省庁区を出てからこっち、リュウの笑顔を見るようになった。
 あの陰気なリュウが笑っている。
 意外なことだったが、何故かボッシュは、奇妙な懐かしさを覚えていた。
 それはボッシュに、安堵と後ろめたさをないまぜにした感情をもたらしてくれた。
(俺は……オマエの笑った顔なんて、今まで見た事もなかったはずなんだけど)
 リュウの髪に恐る恐る触れた。
 存外手触りは良く、地下世界では珍しい青い色だ。
(なんで……知ってる?)
 ずうっと昔に見たことがあるような気がする。
 ずうっと昔、いつのことだ?
 子供の頃のリュウなんて知らない。そのはずだ。
「……なあ、何を知ってる、オマエ」
 別に嫌いって訳じゃない。
 ただあまり話した記憶もなく、ローディは蔑むものであったので、まともに関わり合いになってはならないと昔から教えられていたから、言い付け通りに避けていただけだ。
 昔のことはあまり覚えていない。
 辛い訓練ばかりだったような気がする。
 そして、なにか、とても悲しいことがあったような気がする。
 それが何なのかは思い出せずにいて、ボッシュはもどかしかった。
 自分のことなのに思い通りにならないのが、気持ち悪い。
 しばしその男を何と呼べば良いのか迷って、結局今更兄と呼べるはずもなく、呼ぶつもりもなかったので、ボッシュはただ彼を名前で呼んでやることにした。
「……リュウ?」
 あまり舌に馴染まない名前だったが、まあ、悪くはない。
 「ローディ」よりも大分呼びやすかった。
 リュウは少し苦しそうにしながら、浅い呼吸を繰り返して眠っている。

 



NEXT>>>