「わああっ!」 体重が軽く、重心がなってないリュウはあっけなく転倒した。 そればっかりは屋敷でも見慣れた光景である。 あいつコケすぎ、とボッシュはぼんやり思った。 どうやら仕分け中のディクにぶち当たったらしい。 立ち入り禁止だってのに、だから言わんこっちゃない、とボッシュは肩を竦めた。 「いたたた……だいじょうぶ、きみ?」 リュウは激突してきたディクを、床との衝突から身体を張って庇ったようだった。 見ると、ディクはヒトのようなかたちをしている。 ただ手術着のようなスモックが身体に引っ掛かっているだけ、といった具合で、背中には真っ赤な、節足動物の足を思わせる羽根がひっついていた。 ディクはふいに入ってきたヒトを警戒しているようだった。 強張った顔で、いつでも逃げ出せるような体勢で、リュウを観察している。 リュウは、そいつににっこり笑い掛けた。 「ごめんね、おれ、余所見してて……。怪我はない? 大丈夫だった?」 笑い掛けられて、ディクは不思議そうな表情になった。 こんな辛気臭いバイオプラントで、誰かに笑い掛けてもらったことなど、そいつにはなかったに違いない。 「立てるかい?」 リュウの膝の上にちょこんと乗っていたディクは、言葉を解するようで、こっくり頷いた。 そいつが頼りなげな脚で立ちあがると、リュウはにこにこしながらぽんぽんと頭を撫でてやっていた。 「きみ、どこの子? ここはなんだか迷路みたいだから、ひとりで歩いてると迷子になっちゃうよ。お父さんとお母さんは?」 「……だからディクだろう、そいつ」 ボッシュは呆れて、リュウに声を掛けた。 リュウはちょっと困った顔になって、何を言ってるのボッシュ、と言った。 「変なこと言わないでよ。この子、ヒトだよ」 「オイ、オマエ実験体だろ。気安く人間様に触るんじゃない」 「もう……気にしないでね、きみ」 ディクはぷうっと頬を膨らませて、リュウの陰に隠れてしまった。 ちらっと顔半分だけ出して、ボッシュを睨んでいる。 「可愛くねえ家畜だな、オイ」 「だいじょうぶ、怖くない……送ってってあげようか? ね、リン?」 リュウがリンに顔を向けると、彼女は非常に慌てふためいた様子で、あたふたとした。 「え? な、なんだい?」 「この子、迷子じゃないかな……」 「あ、そ、そう、だね。そうかもしれないね……」 「……? どうしたの?」 リュウが首を傾げて訊き返しても、リンはまともな返事をせず、ふうっと目を逸らしてしまった。 「……オイ。いらねーことばっかり言うくせに、なんだよ、その反応――――」 ボッシュが怪訝に顔を顰めた時だった。 があっ、と扉が開き、廊下の向こうから、何人かの警備兵を引き連れたドクターが姿を見せた。 「……や、ニーナ。探しました。まったく、調整中に逃げ出すなんて、道具の自覚がまったくありませんね、これは」 ディクの名前はニーナというらしい。 小さくなって、リュウの影に隠れている。 「こっちへ。君はまだ培養カプセルの外では、長く生きられないのですから……手間を掛けさせないでいただきたい」 「あの……なにを、言ってるんだ?」 リュウが、ニーナを庇うように背中に隠して、警備に向き合った。 面倒なことになってきた。 ボッシュはこっそり溜息をついて、さりげなく腰のホルダーに手を掛けた。 「この子、怖がってるじゃないか……小さな子に、なんでそんなこと……」 「……や、君も一緒でしたか。ちょうど良かった、ニーナと一緒にこちらへ来ていただけますか? ちょうど、データを取りたかったので。なに、時間は取らせませんよ」 「え? おれ?」 リュウが、わけがわからないという顔で首を傾げた。 ドクターは、困りましたねと言いながら、腕を組んだ。 「ああ、すでにヒトの意思が構築されている……ややこしいですね、こうなると、妙に罪悪感が沸いてくるじゃあないですか。まずデータの抹消からはじめなくてはいけないようですね」 「……? あっ、あの、おれ? おれが、なにか……」 リュウは戸惑い顔を上げた。まだニーナは庇ったままである。 ドクターはリンを見て、軽く頭を下げた。 「ドクター・リンですね? 上から通達は来ています。ご苦労様です、D検体は確かに受け取りました。さあ、君の仕事はここまでです。後はお見せするわけにはいきません」 ドクターが目配せすると、警備がリュウとニーナを取り囲んだ。 「えっ? え、ちょっ……なんだ?!」 リュウは困惑してしまって、ニーナを守るようにぎゅうっと抱きしめた。 リンはそれを居心地悪そうな顔で一瞥し、目を逸らした。 「あの、リン? これ、なに……」 「確かに引き渡した。私の仕事はここまでだ、リュウ……ごめんね」 「え? お、おれ、どこに連れてかれるの?」 「ラボですよ、D計画検体ナンバー00。まずは余計な情報を破棄しなければなりません」 「な、何言ってるか、全然わかんないよ」 リュウはふらふらと目線をさまよわせて、ニーナを、ドクターを、警備を、リンを、そしてボッシュを見た。 ドクターはそこでやっとボッシュに向かって頭を下げた。 「こんな地下までわざわざお越し下さって、大したもてなしもできませんが――――ボッシュ様。お父上から通達があります。個体識別名称「リュウ」を公社に無事搬入が済んだら、屋敷に戻るようにと」 「……ハア? 父上?」 「はい、なに、検査と処置が済めばすぐ戻しますよ。あなた様のために造られたわけですし」 理解出来ないことがどんどん積み重なっていく。 確かに父は、ボッシュに、リュウをバイオ公社に連れていけと言った。 「……そいつ、これからどうすんの? ていうか、何やってるわけ? それでもそいつ、一応仮にも、剣聖に連なるものなんだけど」 「ああ、それはもう良いのです」 ドクターは気軽く頷いて、リュウを見た。 「このプログラムをあなた様の傍で育成すれば、擬似的に兄弟として、あなた様を優先的に護るように刷り込まれるだろうと。16年前あなた様がお生まれになった日に、ヴェクサシオン様がバイオ公社から持って行かれたのです。ご生誕祝いとお聞きしませんでしたか?」 「……何言ってんの?」 ボッシュはドクターを睨みつけた。 言ってることが全く理解出来ない。 ドクターは、眼鏡を上げ、つまりですね、と言った。 「これはあなた様の栄光のために、お父上がご用意されたディクなのですよ」 ◆◇◆◇◆ そばにあたたかい感触があって、それはぼくをとても安心させてくれた。 ぼくにはにいさまがいる。 やさしくていつも笑っている。 にいさまはまだ小さなぼくを、おんなじくらい、だけどちょっとだけ大きい手のひらで、撫でてくれていた。 そうするとぼくは安心して眠ることができた。 怖い夢も見ない。 「ボッシュ、いいこ、いいこ……」 にいさまはすごく自分も眠そうだったけど、怖い夢を見て泣きながら部屋に飛び込んだぼくにいやな顔なんてひとつもせずに、ずうっと背中を撫でてくれていた。 ぼくと一緒にいるところを誰かに見つかると、にいさまはすごく怒られてしまうのに、いつも笑ってぼくを迎えてくれる。 にいさまはほんとはぼくと一緒にいるの、見つかったら怒られるからキライなんじゃないのかな、と不安になることが何度もあった。 けれどにいさまはぼくに困ったように笑って、ボッシュと一緒にいられなくなることのほうが、だれかに怒られるよりも何倍も何倍も怖いよ、と言ってくれた。 「にいさまとはなればなれになるゆめを見たの」 ぼくが泣きながら言うと、にいさまは、そう、と頷いた。 「……そんなこと、あるわけないよ。おれたち、兄弟だもの。ずうっといっしょだよ。手をはなさないよ、おれ……」 「……にいさまには、こわいものがないの? こわいゆめ、見ない?」 にいさまは強いんだ、とぼくは思った。 ぼくはさっき、昼間やっつけた邪公が生き返ってきて、にいさまがぐちゃぐちゃにされてしまう夢を見て、怖くて仕方なかった。 にいさまはぼくが殺した邪公みたいに段々動かなくなってしまって、血がいっぱい出て、冷たくなって、死んでしまうのだ。 ぼくは怖くて怖くて仕方なくて、飛び起きてすぐににいさまに会いにいった。 にいさまはいつものように、ちょっと冷たいけれど、あたたかい手をしていた。 生きていた。ぼくはほっとして、安心し過ぎて泣いてしまった。 にいさまは、そんなに怖い夢見たの、ボッシュかわいそう、と言って、ぎゅうっと抱き締めてくれた。 心臓の音が聞こえて、にいさま生きてる良かったと思って、ぼくはますます激しく泣いた。 にいさまはこんなふうに、ぼくみたいに怖い夢なんて見ないんだろうか? 「……おれも見るよお」 「どんなの?」 「うー」 にいさまはちょっと困った顔をして、思い出して悲しくなったみたいで、顔を伏せた。 「あのね、みんなといっしょに、ボッシュがおれのことキライって言う夢……。ち、近寄るなって、言われるの」 「に、にいさま、ぼく、そんなこと絶対言わないよ!」 ぼくは慌ててにいさまに約束した。 「ぼく、おっきくなって強くなったら、ずーっとにいさまをまもってあげるし、もうこけて泣いたりしなくていいように手を繋いでてあげるよ。おいしいもの、いっぱい食べさせてあげる。いろんなところに連れてってあげるし、絶対いじわるしない。それに、それに……」 ぼくが泣きそうになりながら、にいさまをきっと幸せにしてあげられる方法を考えていると、にいさまは静かにぼくの頭を撫でて、もういいんだよ、と言った。 「……ボッシュ、ごめんね。おれ、兄ちゃんなのにボッシュに心配かけて、だめだなあ……」 にいさまはまた笑って、ね、もうこわい夢見ない、とボッシュに訊いた。 「……にいさま、こわいひとにつれてかれるゆめ、見た」 「連れてかれないよお。だいじょうぶ、ほかは?」 「にいさま、ぼくをおいてどっかいっちゃうゆめ」 「いくわけない、兄弟だもの」 「にいさま、死んじゃうゆめ……」 「おれ、ボッシュよりさきには絶対死なないよ」 にいさまはぼくをぎゅうっと抱き締めて、ほっぺたをすりすりした。 にいさまのほっぺたは、やわらかくてきもちい。 「だっておれ、きっとボッシュを守るために生まれてきたんだ。さみしかったりかなしかったりして、ボッシュが泣いちゃわないように、おれ、ボッシュの兄ちゃんなんだよ」 にいさまはまた笑ってくれた。 それでぼくは、いっぱいあった不安が綺麗に消えてしまったのがわかった。 ◆◇◆◇◆ 「ハア? ……ディク? そいつが?」 ボッシュはあっけにとられて唖然としていた。 「ローディだが、D値だって、存在しているんだぞ」 「それに関しては失敗作であることは認めます……予想では、クォーターになるはずだったんですよ。悪い血が邪魔をしたのですな。ですがリンク用モルモットとしては、十分な素材ですから」 ドクターが、ぽんぽん、とリュウの頭を叩いた。 リュウは理解できていないだろう、微妙な顔をしている。 無理もない。なにせ、あの男は頭が悪いのである。 「さあ、立って下さい。通常歩行機能に障害などありません。損傷はすぐに直してさしあげますよ。ニーナの再調整もしなければならないのですから、迅速にお願いします」 リュウはしばらく呆然としていたが、立ち上がり、のろのろと口を開いた。 「……おれ……何なの?」 「言ったはずです。君はこのラボで造られ、ボッシュ=1/64の為に調整された道具です」 「おれは……ボッシュの」 リュウが顔を上げ、ボッシュを見た。 その目に、ボッシュはぎくっとした。 まじりっけのない、曇りない目だった。 「ああ……そうなんだ」 リュウはこんな馬鹿な話を頭から信じ込んでしまったようで、頷き、警備に促されるままにボッシュに背中を向けた。 「……おい! リュウ!」 名前を呼ぶと、リュウは一度だけ振り返った。 「オマエ、そんないきなり馬鹿な話、信じちゃってるわけ? そんなことあるわけないだろ。オマエみたいなローディが、何の役に立つっていうんだ。道具より使えねえって自分でわかってるだろ?!」 「……ほんとはずっと、そうじゃないかって思ってたんだ」 リュウはちょっとだけ困ったように笑って、屋敷にいた時分そうであったような、たどたどしい口調に戻ってボッシュに謝った。 「ご無礼をお許し下さい、ボッシュさま……。おれ、屋敷を出てからここまでの間、ボッシュさまとほんとの兄弟みたいだなって……夢を見れて、嬉しかったです。む、昔のこと、覚えてなかったのはちょっとさみしいけど、……やっぱりおれみたいなのが、ボッシュさまの兄ちゃんなわけ、なかったんだ」 「な……ちょっ、なんだ、それ……急に」 あの妙に馴れ馴れしい奴が、急にしおらしくなってしまった。 ボッシュは困惑してしまった。 「おれ、何ができるのかまだわからないけど、がんばって働きます。ボッシュさまに使ってもらえるならなんだって嬉しいです」 「ばっ……馬鹿じゃねえの、オマエみたいなの、何の使い道もない……」 「じゃあ……お世話かけました。先に屋敷に戻っていてください。……リン、ありがとう。お仕事、おつかれさま」 「い、いや」 リンは慌てて顔を上げ、大した事じゃないよと言って、また力なく項垂れた。 「サイクロプス、すごかったよ。速いねー。あのさ、良かったら上まで、ボッシュさま、送ってってくれないかな……?」 「あ、ああ。お安いご用さ」 「よかった」 リュウはにこっと笑って、そして行ってしまった。 ◆◇◆◇◆ 剣を抜き、突き付けても、その女は項垂れたままで、ボッシュの顔もまともに見ようとはしなかった。 ボッシュはやり場のない怒りを抱えていた。 ひとり置き去りにされて、周りだけが自分をほったらかしに過ぎ去っていくような気がした。 「……どういうことだ、ドクター・リン? なんでトリニティのオマエがバイオ公社に属している」 「所属は解かれた。今はフリーってことになってるよ」 「そんなことはどうでもいい! リュウをどうした。オマエ、何を知ってる?!」 「……剣を引っ込めてくれないか。私だって知らないよ。ピットを出て来る時は、ただリュウの治療を依頼するためだったんだ。急に無線が、入って――――」 「知ったことかよ! 俺は何も知らなかったんだぞ?! あいつ、どこにいる!」 「……訊いてどうするんだい?」 「連れ戻すに決まってるだろ。何が道具だ、気色の悪い研究員どもが好きなことを……! あいつは何の役にも立ちやしないローディの、」 ボッシュはそこで息を吸って、苦々しく吐き出した。 「俺と同じ、剣聖に連なる者だ」 「……帰るんだ。その方がいいよ。あの子にあんたの護衛、頼まれたし……」 リンはボッシュと目を合わせないままだ。 「きっと、見ない方がいい」 ほぼ反射的に、ボッシュはリンをぶん殴っていた。 「……女を殴らせるな。連れていけ、オマエは知ってる顔をしてるよ」 この女にぶつけたって仕方ない。 怒りを押し殺しながら、ボッシュは静かに言った。 「……リュウはどこへ連れていかれた」 ◆◇◆◇◆ 明かりもつけられていないラボの中には、発光する液体で満たされたカプセルが並んでいた。 いまひとつ使用目的がわからない大きな機械が並んで、太いパイプが無数に床と壁と天井を這っている。 カプセルの中には、奇妙な物体が浮いていた。 羽根の生えた身体、首から上がない。 巨大な、奇妙な模様がびっしりと浮いている大きな手。 ディクのものだろうが、奇妙にヒトのものとそっくりで、気味が悪い。 ひとつだけ液体が入っていないカプセルがあった。 見慣れた青い髪を見付けて駆け寄る。そこに蹲っているのは、思ったとおりリュウだった。 「……リュウ……」 リュウは狭いスペースに、ディクみたいに閉じ込められていた。 仮にも剣聖に連なるものにあまりの仕打ちだ。 「リュウっ、おい、聞こえるか?」 こつん、とカプセルを叩いて、リュウを呼んだ。 開閉のスイッチがどこかにあるはずだ。 「すぐに開ける――――オマエ騙されてるんだ。省庁区に戻って親父に報告するぞ……リュウ?」 リュウはぎこちなく顔を上げて、何の感情も見て取れない目でボッシュを見た。 さっきボッシュに向けられた、あの曇りない目はどこにもなかった。 『……ボッシュ=1/64……確認しました。ご主人様ですね? 個体識別名称「リュウ」です。ご命令は、何ですか?』 「……ハア?」 ボッシュは唖然としてしまった。 リュウはふざけているのだろうか? 『ご命令を、ご主人様。指令がなければ、本プログラムは通常モードで待機します』 「ちょっ……何言ってんの? わかんねえ」 ボッシュは混乱した。 リュウの目には、冗談を言っている様子なんてどこにもなかったからだ。 ◆◇◆◇◆ ぱあっと光った。 眩しくて目を眇めると、光源、無機質な光を零す廊下から、何人も人間が入り込んでくる。 携帯ライトを手に持っているのは、バイオ公社の警備兵たちだった。 「誰だ!!」 「オマエら、こいつに何をした!?」 ボッシュは叫び返した。 リュウを見る。 リュウは膝を抱えて蹲っている。 「待機状態」とやらに入っているらしい。 「剣聖に連なるものになんだ、この無礼は?!」 「ああ……貴方は」 そこで警備兵連中は気が抜けたようになった。 どうやら侵入者が不審な人間ではなかったので、ほっとしたらしい。 ボッシュは更に怒りが込み上げてきた。 「オマエらじゃ話にならない! あのクソドクターはどこだ。串刺しにしてやらなきゃ気が済まない」 がん、とカプセルを蹴って、ボッシュは怒りに任せて吐き捨てた。 「ローディの分際で……人の兄貴に、何をしやがった?!」 言い捨ててから、自分で驚いた。 今何を言ったろう。 こんな奴兄貴なんかじゃない。 だがリュウが、こんな地下のローディどもに好きにされているのは、我慢ならなかった。 「リュウ……今開ける。帰るぞ。こんな薄汚いラボなんかにいるべき身分じゃないんだ、俺たちは……」 開閉スイッチは、カプセル脇にすぐに見つかった。 ガラスが左右に開き、ボッシュはまだ蹲っているリュウの腕を掴んで立ち上がらせようとして―――― リュウに触れるはずだった手は、すうっ、と彼の身体を通りぬけた。 何の感触もない。 「……ホログラフか?」 ぱっ、と部屋に明かりがついた。 カプセル内部に映し出されていたリュウの姿はどんどん薄れていって、やがて消えてしまった。 振り向くと、あのドクターがいた。 「騒がしいと思ったら、貴方でしたか。擬似人格調整のモデルは気に入っていただけましたかな? 割合上手くできているでしょう」 「……最悪だ。あいつ、返せよ」 「せっかちですね……まあ、すぐに済みますし。そうですね、使用方法の説明もまだ何もしておりませんでしたし……」 ドクターは頷いて、こちらです、と言った。 「ご案内します。今は割と安定していますよ」 「…………」 ボッシュは黙って、後をついていった。 ◆◇◆◇◆ 彼は泣いていた。 泣き疲れてぼんやりしているようだった。 拘束具が彼の四肢を縛っていた。 ガラス張りの白い部屋に、リュウはいた。 手術台に座り込んで、ぼんやりしている。 「リュウ!」 名前を呼んでも、向こうには聞こえないようだ。 リュウには何の反応もなかった。 ガラスを叩くとようやくボッシュに気付いて、何事か喋ったようだ――――声は聞こえないので、何を言っているかはわからない。 唇の動きからして、ボッシュ、なんで、と言ったところだろうか。 「扉を開けろ!」 「危険ですから、下がっていてください。実験体は何をするかわかりませんからな」 「うるせえ! なんだ、実験体って。いいから開けろ、命令だ。死にたいのか?」 「……了解しました。ですが、危険だと判断したら、すぐに戻って下さい」 無視してドアを開けると、リュウは慌てて立ち上がろうとした……が、拘束具が邪魔をして上手くいかないようだった。 身体には、ぼろぼろの布きれが引っ掛かっているだけだった。 何故か焼け焦げている。 「ボ、ボッシュ!」 リュウはまたじわっと目を潤ませて、嗚咽を零し始めた。 「ぼっしゅ……さま……こっ、怖いよ、おれ、なにされてるの?」 「リュウ? オイ、何をされた、この馬鹿!」 詰問しても、リュウは混乱して訳のわからないことを言うばかりだ。 「あ、あつい……し、死んじゃう」 「りゅ……」 リュウの肩に触れようとして、ボッシュはようやくリュウの言っていることを理解した。 彼の身体は熱かった。 鉄板を熱したような、ひどい熱さだ。 少なくとも人間の体温ではありえない。 普通なら、とっくに死んでる。 「何をしたんだ!」 ボッシュは叫んだ。 だがドクター連中はコンソールを弄っていて、誰も返事をしない。 頭の上からノイズが聞こえてきて、ボッシュはぱっと顔を上げた。 スピーカーから声が響いてきた。 「では予定通り、最終実験を行います。ボッシュ様、危険です。少し下がっていてください」 「……何をするつもりだ! これ以上無礼な真似を働くなら……」 「いや、部屋からは出なくて結構ですよ。それの使い道は、ご説明するより実際に見たほうが早いでしょうし」 見当違いの答えが返ってきた。 どうやらこちらの声は、向こうには届かないらしい。 ぱあっ、と光った。 ボッシュは眩しくて目を眇めた。 だが、これはライトの明かりじゃない。 「……リュ、リュウ?」 リュウの身体に奇妙な模様が浮かんでいた。 リュウは怯えきって、ボッシュに縋るように、救いを求めるような目を向けた。 「あ……あっ、あっ」 細い腕の先が、壊死したように黒ずんでいく。 リュウは混乱して、強く頭を振った。 「あっ、な、なに? いやだ、おれ……」 めきっ、と骨格が変形する音がした。 リュウの背中から、奇妙なかたちをした骨が突き出してきた。 薄い膜が張って、血管が通り、鱗にびっしりと覆われた。 同様の変化が、彼の頭の上でも起こった。 耳の後ろ辺りから突起が起こって、盛りあがり、突き出たのだ。 それは、角に見えた。 この頃になると、リュウの皮膚の壊死は胸元を通り過ぎて、顔の半分まで浸蝕していた。 「……あっ、あ、いや、いやだ、あっ、ぼしゅっ、たす……み、見ないで!」 異形に変わりつつあるリュウは、鱗と爪に覆われた腕で顔を覆って、ボッシュから隠した。 聞こえてくる嗚咽の音までが、少しずつ変質しはじめる。 神経質なすすり泣きは、獣の唸り声のような音に変わってしまった。 あの青い髪が――――リュウ=1/8192という人間をいつだって見分けられる目印みたいな色が、どんどん抜け落ちていく。 もうボッシュの前にいるのは、リュウじゃなかった。 「……ばけもの……」 呆然と呟くと、それが弾かれたように顔を上げた。 その目はもう穏やかな青をしていなかった。 血走った真っ赤な目だった。 そこにいるのは、もうどうしてもヒトには見えなかった。 「転送終了。リンク、問題なく稼動しています。ボッシュ様? D検体に不具合は見あたりませんか?」 遠くの方からドクターの声が聞こえる。 ボッシュは逃げ出してしまいたかった。 こんな狭い部屋の中で、恐ろしい異形の化け物と向き合っていたくなかった。 足が竦んでしまっていた。 なんでもいいから逃げなければ、と思った。 これがリュウなら、ボッシュを襲うこともないだろうに、一体何から逃げなきゃならないのだろうか。 (……え?) ふいに既視感がボッシュを包んだ。 前に一度、この感情を経験していた。 そっくりそのまま同じことを、今もう一度目の前で再現されているような感触だ。 だがボッシュは自分の目の前でヒトが化け物に変わっていくさまなんて、今まで一度も目にしたことがなかったはずだ。 (一体……なんだ?) 一瞬、鮮明な画像が脳裏をよぎった。 リュウが泣いてる。 いや、泣いているのは……ボッシュ、だろうか。 小さなボッシュが、中央省庁区の子供部屋で、静かに泣いていた。 ◆◇◆◇◆ ぼくがにいさまに石を投げた。 にいさまをいじめてしまった。 とうさまは、剣は強いものに向けるものだって言ってた。 にいさまは弱かった。 訓練用の模造刀にちょっと触るだけで、すごく怒られていた。 にいさまは、とうさまに剣の稽古をつけてもらってるぼくより、たしかに弱かった。 でもぼくはにいさまに怪我をさせて、いじめてしまった。 怖くて仕方なかった。 とうさまがきっとすごく怒ることや、怒ってもうぼくなんか見てくれなくなることが怖かった。 にいさまに嫌われることも怖かった。 でもこれはにいさまが悪い。 にいさまがローディだから悪い。 にいさまがぼくと同じように普通のヒトだったなら、ぼくはこんなひどい目に遭う事もなかった。 にいさまはぼくのやったことを、ナラカやリケドやとうさまにきっと言い付けるだろう。 にいさまに言っちゃだめだって言いに行こうか。 でもにいさまと喋らなければならない。 今はあんまりにいさまとお話したくなかった。 にいさまはきっとぼくがひどいことをしたって泣くだろう。 ぼくは緊張してどきどきしながら部屋を出た。 ホールでにいさまがナラカとリケドに捕まっていた。 なんだか頭の怪我のことを、いろいろ聞かれているみたいだ。 ちょっと遅かったみたいだ。 ぼくは慌てて柱の影に隠れた。 にいさまのせいだ。 にいさまが言い付け口をしたせいで、ぼくはきっとすごく怒られる。 にいさまが、いつものようにごめんなさいって言う声が聞こえてきた。 「あのね、転んで石に頭、ぶつけちゃったの」 「リュウ様、もう少しお気をつけて歩かれませ。危なっかしくて我らは気が気ではありません」 「うー、ごめんなさい」 にいさまは困った顔をして、ぺこっとお辞儀をした。 にいさまが謝ることなんかなにもないはずなのに、それをやったのはぼくなのに、そうぼくは叫びたかった。 にいさまはぼくを庇って嘘をついていた。 いつも嘘なんかつかないにいさまが、ぼくのためにそんな嘘吐きになってくれていた。 ぼくは泣きそうになった。 にいさまを汚しちゃったみたいだ。 「おくすり、ありがと。おへや、もどるね」 「はい。痛くなってきたら、すぐ言ってください」 「はーい」 にいさまはぱたぱた走ってきて、 「あ……」 柱の後ろにいたぼくに気付いて、ちょっとまごついたみたいに笑った。 「ボッシュさま……どうしたの?」 なんでもないよ、「さま」なんてつけないでとボッシュは思った。 「あの、にいさま……怒ってる?」 にいさまは首を傾げて、怒ってないよーと言った。 ぼくはちょっとほっとして、にいさまにごめんなさいって言おうとした。 でも上手く言えない。 謝ると、とうさまが怒る。 ぼくは偉いから、人に謝っちゃ駄目だってとうさまが言ってた。 「……その、怪我、痛くないの、にいさま」 「うん、ぜんぜんへいき。……です、ボッシュさま」 にいさまは、でもいつもみたいにぼくの頭を撫でたり、ぎゅってしてくれなかった。 「あの、にいさま……」 「……ボッシュ、じゃなくてボッシュさま、あの」 にいさまは困ったみたいに、ぼくに言った。 「あの、おれのこと、にいさまなんて呼ぶことないよ。……ないです」 「あ……」 にいさまはやっぱり怒ってるんだろうか。 ぼくはどうしようどうしようと思って、なにか言おうとした。 でもにいさまはにっこり笑って……その顔はいつもの、ぼくが好きな笑い方じゃなかった。 ぼくだけの前で見せてくれる笑い方じゃなかった。 みんなと一緒の、ちょっと困ったみたいな変な笑い方だった。 「……いままで、ごめんなさい。その、へやにいったり、おはなししたりして。ほんとはいやだったのに、やさしくしてくれてありがとうございました」 「えっ? いや、あの、その」 にいさまはぺこんと頭を下げて、ぱたぱた走って行ってしまった。 ぼくはなんだかにいさまに「さよなら」って言われたような気がした。 胸にぽっかりと穴が開いたみたいだった。 にいさまはもうぼくのにいさまではなくなってしまった。 ぼくは弱虫だったから、にいさまの弟でいられなくなってしまった。 約束も守れなかった。 にいさまとずーっと一緒にいて、ずーっと手をつないで、ずーっと護ってあげる……そんなのも、全部嘘になってしまった。 ぼくは嘘吐きになってしまった。 ぼくがもっと強かったら良かった。 もう一回あの時に戻りたかった。 投げてみろよと言われて石を渡されたあの時に。 にいさまにキライだって言われるくらいなら、もう部屋に遊びにきてくれなくなるくらいなら、お話もできなくなってしまうなら、いじめっこたちに仲間はずれにされるほうがずっとずっとましだった。 もう一度あの時に戻れるなら、ぼくは何度もそう考えた。 にいさまをきっと護ってあげた。 ずっとふたりで一緒にいるなら、仲間はずれなんて全然怖くなかったのに。 ぼくに勇気があればよかった。 にいさまは弱虫のぼくなんて嫌いになってしまったんだ。 にいさまからぼくの部屋に遊びにきてくれることがなくなってしまうと、ほんとうににいさまと会えなくなってしまった。 たまに廊下ですれ違っても、にいさまはできるだけお行儀良く、あの変な顔で笑って、ぼくにぺこっとお辞儀するだけだった。 ぼくらは、ただの他人みたいになってしまった。 きっと誰も、ぼくらを兄弟だなんて思ってくれる人はいないだろう。 にいさまとぼくは全然似ていなかった。 もう一回あの時に戻って、ぼくはいじめっこたちからにいさまを守る空想ばかりしながら、部屋に戻って思いっきり泣いた。 毎日毎日泣いて暮らした。 でもにいさまは泣かないでって言って、ぼくの頭を撫でてくれにきたりはしてくれなかった。 ぎゅうっと抱き締められることももうなかった。 にいさまはほんとに、ほかの召使いの人達とおんなじふうになってしまった。 毎日毎日ぼくはひとりぼっちで、だんだんにいさまの顔を忘れていく。 やさしく撫でてもらったこと、ぎゅっとしてもらったことを、何を話してどんなに楽しかったかを忘れていく。 ぼくにはもうにいさまのほんとに笑った顔を思い出せない。 ぼくはこうやってどんどん、どんどんにいさまのことを忘れてくのだろうか。 怖くて怖くて仕方なくて、ぼくは泣いた。 でもにいさまは来てくれなかった。 ぼくはもうにいさまの弟じゃないから、にいさまは来てくれなかった。 にいさまがどんな声をしてたか忘れていく。 ぼくがどんなににいさまが好きだったかを忘れていく。 ぼくはにいさまを「あいしてた」し、およめさんにしてあげるって決めていた。 でもにいさまはきっともうぼくのことなんて好きじゃないに違いない。 ぼくはにいさまじゃないにいさまを、どんなふうに呼べば良いのかもわからない。 にいさまはぼくをボッシュさまと呼ぶようになって、やがてぼくは、にいさまをローディって呼ぶようになった。 ぼくらの間には決定的な溝ができてしまって、それは月日が経つほどにどんどん深くなってった。 もう手を伸ばしても届かなかった。 にいさまはあの変な笑い方すらしなくなって、いつも困った顔をして俯いていた。 ぼくはにいさまのその顔が大嫌いだった。 にいさまが笑ったらどれだけ可愛いかっていうことを良く知っていたから、でももうにいさまの笑った顔も思い出せなくて、ぼくはもどかしくて、どうすれば良いのかわからなかった。 あの時ただ石を棄てるだけで良かった。 そうすれば今でもきっとにいさまはぼくのことが好きで、やさしく頭を撫でて、抱き締めて、ぼくを愛してくれていただろう。 ぼくはもう手を離さないだろう。 でももうどうすることもできなかった。 ぼくは石を投げた。 ぼくは臆病者だ。 もしあの時、あのにいさまを裏切った場所へ戻れたなら、ぼくはもう二度と NEXT>>> |