よってたかってひどい目に合わされて、目の前でリュウが泣いている。
 石はもう投げられていた。
 あの時と同じように、涙の溜まった目を呆然と見開いて、リュウだった異形の怪物が蹲ったままボッシュを見上げてきていた。
 ボッシュは、つい今しがた口走った言葉を、口の中だけで反芻した。化け物。
 忘れてしまうことは簡単だ。
 ずうっと泣いて暮らしているよりも、ずっとやりやすいに違いない。
 だが、今まで「それ」を記憶の奥底に仕舞い込んで、「なかったこと」にして、どうして今まで生きて来られたのだろう?
 不思議だった。
 理不尽だった。
 身体の周りの世界が、そのことを思い出すだけで、何もかも変わってしまったように思えた。
「……にい、さ……」
 ボッシュが彼を呼ぶ名前なんてひとつきりしかなかった。
 だが、何年も何年も口にしていなかったその名を呼ぶのは苦しくて、なかなか声が出てこない。
「……りゅ……リュウ、にい、さま……」
 その名を口にした途端、リュウの目からぼろぼろと涙が溢れた。
 止めどなく、それは変質してしまった顔を、異様な模様の浮かび上がっている頬を濡らして流れ落ちた。
 ディクみたいななりをしているが、そいつはまぎれもなくリュウなのだった。
 ボッシュにとって、彼のかわりになる人間なんて地下世界中どこを探したって存在しない、親愛なる肉親だった。
 血を分けた兄弟だった。
 D値もなにも関係なかった。
 彼はまぎれもなくボッシュの兄で、共に歩んでいくべき家族なのだ。
「兄さま、俺……」
 謝らなきゃならないことが死ぬ程あるんだと言おうとした。
 縋り付くように彼の肩を掴んで、ボッシュは慌てて手を離した。
 リュウが緩く首を振った。それは拒絶の仕草だった。
 彼は赦してなんてくれないだろうか。
「もう……駄目なのか?」
 ボッシュは兄であるリュウを裏切ったあの日から、彼の弟ではなくなってしまった。
 リュウは悲しそうにまたかぶりを振って、たどたどしく、空気を震わせない奇妙な音で、ボッシュに話し掛けてきた。
『さ、触っちゃだめだ。おれ、熱くなってるから、火傷しちゃう……』
「構わない」
 拒絶されたんじゃなかったなら、こんな炎の熱もどうってことはなかった。
 皮膚が焼けても、その程度の痛みなんかどうってことない。
 鱗の隙間から炎がちろちろと吹き上げている手を取った。
 真っ赤に燃えているのに、熱いのに、だが不思議と火傷はしなかった。
 その炎には、意思があった。
 これはきっと、リュウの意思だ。
「兄さま、うちに帰ろう。全部、嘘ばっかりだ。兄さまは血の繋がった、ほんとの俺の兄さまだよ。謝りたかったことが……ずっと言いたかったことが、いっぱいあるんだ」
『で、でもおれ、こんな怪物みたいになっちゃった……ロ、ローディだし』
「化け物でもいい、すぐに元に戻すよ。ローディだって構わない。だから戻ろう」
 ボッシュは、リュウをぎゅうっと抱き締めた。
 昔はリュウの方が背が高かった。
 身体が大きくて、ボッシュをぎゅっと抱き締めてくれた。
 今はボッシュのほうが、少しだけ背が高かった。
 近くで見ていて、気が付いたことだ。
『……ボッシュ、おおきくなったね』
「ああ。俺、強くなったよ、兄さま。何からだって、あんたを守ってやれる。もう誰にも、なんにもひどい目になんて遭わせやしない……」
 すうっ、と炎が引きはじめた。
 銀色の獣は、少しずつ変化しはじめた。
 翼と角が消え、徐々に全てがもとに戻っていく。
 やがて、そこにはリュウが現れた。
 泣いていたせいで赤くなっていたが、いつもの穏やかな眼差しがそこにあって、ボッシュを安心させてくれた。
 青くて癖のない髪もいつもどおりだ。
 服は焼けてしまって裸だったので、ボッシュはなんとなく、どぎまぎした。
「兄さま、立てる?」
 リュウは纏う衣服がないせいで、気恥ずかしそうに顔を赤らめて、頷いた。
「う、うん。あ、でもおれ、繋がれてるんだった」
 腰のホルダーから獣剣を抜いて、リュウの四肢を拘束する鎖を砕いた。
 見ると、縛り付けられていた手足に赤く鬱血した痕がある。暴れたせいだろう。
「さ、帰ろうぜ。その前に……」
 獣剣で肩を気軽く叩きながら、ボッシュはこんこんとガラスを叩いた。
「ここ、開けてくれない?」
 ドアのロックが外れて開いて、次の瞬間、ボッシュはドクターを蹴り飛ばしていた。


 あんな奴らの服なんかをリュウに着せるのは気が進まなかったが、ずうっと裸でいさせるわけにはいかない。
 目のやり場に困るし、リュウだって恥ずかしそうにしていた。
 裸に白衣っていう無茶苦茶な格好だけど、なんにも着てないよりましだ。
「ボ、ボッシュ、あのねっ、あんまり乱暴、良くないよ」
「兄さま、あんなひどいことされたのにあいつらを庇うのか? わからないよ、あんな奴ら殺しても良かったんだ」
 ボッシュは吐き棄てた。
「でも兄さま、きっと泣くから」
 走る。公社のリフトポートまでもうすぐだ。
 何に追い掛けられているわけでもないけれど、こんな場所にリュウを置いておきたくなかった。
「リフトに乗れば、すぐにうちへ帰れるよ。帰ったら話したいことがいっぱいあるんだ、兄さま。俺……」
 リフトの発着音が聞こえて、ボッシュは口をつぐんだ。
 駅に駆け込むと、視界がぱあっと光でいっぱいになり、目が眩んだ。
「……?! なんだ……?」
 リフトポートには、大勢の武装レンジャーがいた。
 見ると、今しがたリフトが到着したばかりの線路が、封鎖されたところだった。
 異様な気配を感じて、ボッシュはリュウの手を握ったまま、背中に隠した。


「全員、構え!」


 隊を率いるファーストレンジャーが、ボッシュに銃を向けた。
 続いて、無数の銃口が向けられた。
 ボッシュはざわざわと背中が寒くなったが、努めて平静に、何のつもりだ、と言った。
「……この剣聖に連なるボッシュ=1/64、そしてリュウ=1/8192に、何て無礼だ? 貴様ら、覚悟はできているのか」
「そのヴェクサシオン様直々のご命令である。バイオ公社に侵入したボッシュ様の名を騙るこそ泥を始末しろとな」
「……ハア?」
 ボッシュは、上擦った声で訊き返した。
 自分の声が震えていることを自覚しながら、ぎゅうっとリュウの手を握った。
 大丈夫、怖くないよ、兄さま。そう言おうとした。
 そして、それはボッシュが自分自身に掛ける言葉でもあった。
 レンジャー隊は、依然ボッシュとリュウに銃を向けたままである。
「ボッシュ=1/64様、並びにリュウ=1/8192様は、現在中央省庁区にいらっしゃる。こんな地下にわざわざ降りて来られるわけがない。既に省庁区に確認済みだ。さあ、どうする。バイオ公社製の実験体を置いて投降すれば良し、さもなくば」
 がちん、と鉄の擦れ合う音がした。
 ボッシュは理解した。
 殺される。
 投降してもしなくても同じだ。ここで殺される。
 きっとリュウも一緒に処分される。
 いや、死ななくても、またあの実験室でモルモットにされるだろう。
 死ぬより辛い目に遭わされるだろう。
 リュウは焦燥した目でボッシュを、レンジャー隊を見ていたが、やがてボッシュの前に出て、両手を広げた。
 ボッシュを庇ったのだ。
「……おれ、ここに……残ります。だから殺さないで、ボッシュだけは」
「兄さま!」
 ボッシュは叫んで、離されたリュウの腕を取った。
 きつく握って、彼に懇願した。
「頼む、手を……離さないで、兄さま……」
 リュウはどうすれば良いのかわからない顔をしていたが、小さく震えているボッシュの手を取って、言った。
「ボッシュ、……借りるね」
 リュウはボッシュの腰のホルダーから銃を抜き取って、銃口を自分の頭に押し当てた。
「に、兄さまっ?」
 ボッシュは驚いて止めようとしたが、リュウは、だいじょうぶ、とボッシュにだけ聞こえる小さな声で言った。
「……お、おれはバイオ公社の、最重要機密……って言うらしい、です。多分すごく大事なもの……壊れると、きっとすごく、困るよ。怒られるよ」
 リュウはがちがちと震えていた。
 何かの拍子でトリガーが引かれないだろうか。
 ボッシュは心配で仕方がなかったが、リュウがその危険な真似をやめる気配はない。
「この子を撃ったら、おれは死にます。ほ、本当だよ。嘘じゃないから。おれ、嘘つかないし。だからその、えっと……」
 レンジャー隊はしいんとなってしまった。
 隊長らしい男は考えあぐねるような顔をしていたが、しばらくして、手を上げた。
 それが何を示すのか、ボッシュは理解していた。
 銃撃命令だ。実験体の破損はやむなしと判断したのだろう。
 銃声、それから煙が溢れ――――
 その煙を吸うと、途端に呼吸が苦しくなった。
 咳込んで、涙が止まらない。催涙弾だろうか。
 そんな中、リュウが守るように、ぎゅうっとボッシュを抱き締めてくれている。
「……にい、さまっ、平気か?」
 間近でリュウが口を開けた。
 多分、だいじょうぶ、と言おうとしたのだろう。
 そんな時、唐突にがくんと身体が揺れた。
 手を引かれたのだ。
「……こっちだよ!」
 小さな囁きが耳元で零れ、顔を上げるとあのトリニティの女の顔が見えた。


「リフトに乗るんだ。早く!」
「てめえ、どのツラ下げて出てきやがった! 大体オマエのせいで……」
「文句は後! 乗るの、乗らないの? リュウ、こっちだ。へタレは好きにしな。ここで射撃の的になりたきゃそうすれば」
「チッ……」
 言い争いをしている場合ではないことは、良くわかっていた。
 煙が目が染みて、涙がぼろぼろと零れる。
 喉もやられたかもしれない。口を抑えて、ボッシュはリュウの手を引いた。
「兄さまっ……立てるか?」
「う、うー」
 リフトが動き出した。
 急がなければ、置いて行かれる。
 軽いリュウの身体をなかば抱えるようにして、ボッシュはリフトに飛び移った。
「ま、待て!」
 追いすがってきたレンジャーに、パイプに掴まったまま足蹴りを食らわせてやる。
 リュウをリフトに押し上げて、後に続いた。
 リンが線路を封鎖している障害物を、リフトに装備されたマシンガンで破壊した。
 ごうという音がした。リフトが地下の暗闇の中に吸い込まれていく時の、あの音だ。
 すぐに広い空間に出た。
 リフトは、安定したまま線路の上を走っていく。
「へタレ! あんた、前を見てな! 射撃の腕は信用ならない、私がやるよ」
「冗談、トリニティよりは上だね」
 すぐにレンジャー隊は追い縋ってきた。
 ボッシュは冷静に、迫り来る後方車両の前輪を狙い、撃った。
 正確に撃ち抜いた。
 車軸が潰れ、レンジャーの乗ったリフトはべしゃっと崩れ落ち、線路を塞いだ。
 これ以上は追って来ないはずだ。
「やりゃあできるじゃないか、坊ちゃん」
「フン、無礼な女だ。この程度、当然だ。……兄さま?」
 ボッシュはリュウの手を取って、顔を覗き込んだ。
「平気か? 怪我、ないか? 苦しくないか?」
「ん……おれはぜんぜん、だいじょうぶ。ボッシュは?」
「平気だよ。兄さまが無事で、良かった」
 リュウには特に傷らしい傷も見当たらなかった。
 ボッシュは安堵して、ぎゅうっとリュウを抱き締めた。
「……あんた、いつからそんな甘えん坊になっちゃったの?」
 心底不思議そうなリンの声がしたが、無視する。トリニティなんかどうでも良いのだ。
 リュウが無事なら、それでいい。
 ただ不安はひとつきりあった。
「……兄さま……どうしよう、俺ら、父さまに見捨てられたよ」
 父ヴェクサシオンの命令で、レンジャー隊はボッシュらを始末しようとしたらしい。
 ボッシュは不安だった。リュウに抱き付いて、少し震えていることを自覚しながら、ぽつぽつと零した。
「……父さまは、俺たちのことなんてどうでも良くなっちゃったの? 俺は父さまが期待してくれる人間には、なれなかったのかな……」
「ボッシュ……」
 リュウはボッシュの背中を撫でながら、だいじょうぶだよ、と静かに言った。
「お義父さんは、ボッシュを守るためにおれを造ったんだよ。きっとおれがボッシュを好きなのとおんなじくらい、ボッシュのことが大好きだ」
「……造った、とか言わないでくれよ、兄さま」
 ボッシュは泣きそうになりながら、リュウにしがみついた。
 少しでも手を離せば、リュウはどこかへ行ってしまいそうだった。
 あの異形の姿になって、ボッシュの目の前から消えてしまいそうだった。
「……兄さまは、俺のほんとの兄さまだよ。血の繋がった、ふたりきりの兄弟だ。兄さまは、ディクなんかじゃない……」
「……そだね、ボッシュ……ごめんね」
 リュウは困ったように笑って、ボッシュの頭を撫でてくれた。
「おれがボッシュを守ってあげる。まだ「あれ」の使い方がよくわからないんだけど、おれはボッシュを守るためにここにいるんだから」
「……あんな化け物みたいなのに、兄さまがなることない。すぐに治してあげるよ、上に上がって……」
「……うん」
 リュウは静かに目を閉じて、黙ってしまった。
 化け物と言ったので傷付いてしまったのかもしれないとボッシュは心配したが、リュウはうっすらと微笑んでいた。
「……うれしい。ボッシュにまた兄ちゃんって呼んでもらえて」
「に、にいさま……俺、そうだ、謝らなきゃ」
 今までリュウにしてきたひどいことばかりを思い出して、ボッシュは慌てて、青くなった。
 こんなに優しくて、大事な兄に何を言ったろう……ローディ、家畜、屋敷のほかの人間と同じように蔑んで、疎んじた。
 リュウはもうボッシュのことを、嫌いになってやしないだろうか。
「……ボッシュ」
 リュウは、ぽんぽん、とボッシュの背中を叩いて、いいんだ、と言った。
「謝らないで、偉い人は謝っちゃ、お義父さんが怒るだろう? ごめんなさいって言うのは、ほんとにひどいことした時だけにしなきゃ」
「……でも俺、ほんとに、兄さまにひどいことしたよ」
「全然ひどくない、だいじょうぶ。おれはボッシュが大好きだから、何されたって悪いことじゃないよ」
「に、兄さまっ、俺のこと嫌いじゃないのか?!」
 せっついて訊くと、リュウはおかしそうに笑った。
「なんで? こんなにかわいい弟なのに、おれがボッシュを嫌いになるなんてぜったいないよ。ボッシュがおれのこと嫌いになっちゃっても、おれはボッシュが大好きだ」
「お、俺だって、嫌いになんかなりゃしないよ!」
 慌てて、ボッシュは誓った。
「約束する。俺は絶対もう、あんたにひどいことなんてしない。もう逃げたりしない。石を投げない。あんたを、守る――――
 がたん、とリフトが跳ねた。
 ふいに何か白っぽいものがころころと転がってきて、ごつん、とリュウに当たった。
「わ、わわわっ!」
「に、兄さまっ?」
「にゃー?」
 カタマリは起き上がった。ヒトガタである。
 しかも、見覚えのある姿をしていた。
「ニーナ?!」
 リュウがびっくりして、そいつを支えた。
「にゃー、にゃっ、るー?」
「君も一緒だったんだ……リン?」
 上で周囲を警戒しているリンを見遣ると、彼女は軽く手を上げて、そーいうこと、と言った。
「あんなとこに置いておけないだろ」
「そうだね……わ、あはは、くすぐったいよお、ニーナ」
 ニーナは嬉しそうにリュウにぎゅっと抱き付いて、わしわしとリュウの髪を掻き混ぜている。
 どうやらとても懐かれているようだ。
 非常に微笑ましい光景だが、ボッシュには面白くない。
「オイ! オマエ、ヒトの兄貴に気安く触ってんじゃねえよ!」
「うー? うっうー、うるるる」
「ハア? 何言ってんのかぜんっぜんわかんねえよ」
「「え? ボッシュ、いじわる」って言ってるよ」
「なんでそれで通じてんの、兄さま?!」
 リフトの上はにわかに騒がしくなってしまった。
 

(この……クソガキ!)
 心の中でいくら罵ったって、リュウにべったりくっついているニーナに通じるはずもなく、ただ悪意だけは伝わったらしく、彼女はリュウの膝に乗ったまま、時折ボッシュにべえ、と舌を出してきた。
(俺でもまだ兄さまにそんなにべたべた触ったことなんてないってのに……!)
 リュウはといえば、嫌な顔なんてせずににこにことニーナの頭を撫でてやっている。
 そんなディク女に笑い掛けないでくれと言いたかったが、あまりに大人げない。言えない。
 今すぐリュウからニーナを引っぺがして地底に棄ててやりたいが、多分そんなことをしたらリュウは泣く。怒る。
 もどかしく見ているうちに、二ーナは飼いディクが飼主にする親愛の仕草に良くあるように、リュウの頬をぺろっと舐めた。
「あー!」
 叫んだってもう遅い。
「ううー」
「あはは、ニーナったら、くすぐったいよお」
 ニーナは甘えるように、リュウの長い髪をかぷかぷ噛んでいる。
 ボッシュは顔を真っ青にして、ニーナの背中の羽根を掴んで、リュウから引き剥がした。
「てっ、てっ、てめ、今なにしやがったッ?! このガキッ、ぶっ殺してやる!!」
「ボ、ボッシュ?」
 リュウがびっくりして、慌ててニーナを庇うようにぎゅっと抱き締めた。
「い、いじめちゃ駄目だよ……」
「にゃーっ」
 そうそう、といいたげにニーナが頷いた。まったくもって腹の立つガキである。
「だって兄さま! コイツ今、に、兄さまに……そのっ」
「ボッシュもしてほしかったの?」
「断じて、いらない!」
「にゃー!」
 ニーナも、ボッシュとおんなじような調子で首を力強く振った。
 ぜったいいやだ、と言っているようだ。
 リュウはそのさまを見て、くすくす笑った。
「ふたりとも、お兄ちゃんと妹みたいだよ」
「冗談! 俺の兄弟は兄さまだけだ! こんな変なディクなんか、妹にいらないよ!」
「にゃーっ、にゃ、るー!」
 ニーナもボッシュにそこだけは同調したふうに、こくこくと頷いた。
 くすくすとリュウは笑っている。リンも堪えきれずに吹き出したようだった。
「……なんだよ」
 不貞腐れて、ボッシュはぷいっと顔を背けた。
 ニーナも同じようにした。頬を膨らませて、向こうを向いてしまっている。
「ボッシュ、怒った?」
「……知らない」
 リュウは困ったようにちょっと首を傾げて、いきなり、さっきニーナが彼にそうしたように、ボッシュの頬をぺろっと舐めた。
「…………なっ」
「ごめんね、怒らないでね、ボッシュ……」
「なっ、え、あっ……え? ……うん」
 あたふたと狼狽しながら、顔を真っ赤にして、ボッシュは頷いた。
 心臓が止まるかと思った。
「う、にゃ、るー?」
「え、ニーナも? うん」
「ちょっと待て! 絶対だめだ!」
 ボッシュは慌ててリュウを引っ掴んで、抱えた。
「他の奴にそんなことするなよ、兄さま!」
「にゃーっ」
 ニーナが不満そうに唸ったが、答えず、かわりにデコピンをお見舞いしてやる。
「オマエな、兄さまは俺の兄さまなんだから、気安く触るんじゃねえよ」
「うー、うう」
「ハア? うるせえよ。駄目だったら駄目だ」
 ぷう、とニーナが頬を膨らませたが、知ったことではない。
「大体――――
 生意気なんだと言おうとしたところで、リフトががたんと跳ねた。
 はっとして、そう言えばこんなことをしている状況じゃあなかった、と思い当たり、慌てて周囲を警戒する。
 遠くの方に、ぽつぽつ赤い光点が見えた。
「下層区はもう包囲されていると思ったほうがいいね」
「どうするんだよ」
「強行突破」
「いや、無理だろ」
「無理じゃあないさ。いつもそうしてる」
 リンが姿勢を低くして、ランチャーを構えた。
 遠くから撃ち上げられた照明弾が、頭の上でぱあっと輝いた。
「ニーナ、こっちに来てな。ボッシュ、あんた兄ちゃんを守れ。怪我させんじゃないよ」
「当然」
 トリガーに指を掛けて、リュウを抱き寄せる。
 リュウは不安そうにボッシュを見上げている。
「ボッシュ……無茶しないでね、大丈夫、いざとなったらおれが……」
「兄さまはなんにもしなくていいよ。大丈夫」
 ボッシュは静かに、リュウに言った。
「俺が守るよ」
 かすかに伝わってきていたリュウの震えが、止まった。


 暗い空洞に無数の光点が見える。
 そのひとつひとつが、レンジャーと見て間違いはないだろう。
 向こうには隠れるつもりもないようだ。
 圧迫感を感じる。周りは完全に包囲されていると見たほうが良い。
 しかし、こうなってくると本当に重犯罪者にでもなってしまったような気がする。
「まったく、なんだってんだ……俺なんにもしてないのに」
「おれもたぶん、なんにも悪いことしてないと思う……」
「にゃー」
「私だって」
「いやオマエトリニティだから」
 自覚なく不満げな顔をしているリンに指摘してから、そばにいるリュウを抱き寄せて、囁いた。
「兄さま、ちゃんと掴まってなよ。危ないから」
「ん、ん」
 リュウが緊張した面持ちで、ボッシュの服の裾を掴んで、ぎゅっと握り締めた。
 ほぼ密着している近距離にリュウの顔があって、なんとなくどきどきする……が、今は状況が悪い。
 そんなことをしている場合ではない。
 リフトはスピードを緩めることなく走っていく。
 赤い光の筋が、向かってきた。暗闇の中をぎゅんぎゅん飛び交っている。
 レンジャーの警戒ラインを超えたらしい。
「良いマトじゃん、これって……」
「無駄口叩かずにさっさと撃ちな」
 高速で移動しているリフトを撃つのは難しいのか、銃弾が直撃することはまだない……が、車輪に着弾して足を止められようものならあとは蜂の巣だろう。
 あまり想像したくはない。さっさと狭い地下トンネルに逃げ込めることを祈る。
 がんがん、と鉄板を叩く音が聞こえて見やると、いよいよ側面を撃たれて穴が開いている。
 レンジャーたちの待ち伏せ地点に近付いて、射程距離が短くなってきたのだ。
「ボッシュ!」
 リュウの声がして、思いっきり引っ張られた。
「兄さ……」
 どうしたんだと訊こうとしたところで、今までボッシュが構えていたマシンガンに光弾が直撃して、燃え上がった。
 あと一瞬遅ければ、ボッシュもいっしょくたに火に巻かれて、溶けていたことだろう。背筋を冷たい汗が伝った。
「だいじょうぶ? ボッシュに向かって飛んできたから、びっくりして……」
「ちょっ、兄さま、見えるのか?」
 ボッシュは驚いて、リュウに確認した。
 まさか高速で飛んでくる弾を視認して、ボッシュを救ったというのだろうか?
「え、うん……おれ、目、いいし」
 目が良くてできる芸当じゃない。
 ともかく、唯一装備されていた武器は今や沈黙してしまった。
 残っているものは、近距離戦闘以外役に立たない獣剣と、ホルダーに入っているパビエーダと、リンのアフタマートだけだ。
 ――――いや、


 もうひとつ、ある。


 「使え」ば、このレンジャーの大規模な包囲網すら、もしかしたら、抜け出せるかもしれないものがある。


 ボッシュはぎゅっとリュウを抱きすくめた。
 だが使ってはならない。
 もう二度とリュウを、あの炎の化け物などにしてはならない。
 しかしリュウはそれを知っているふうに、ボッシュの腕の中でちょっと困ったように首を傾げて、おずおずと口を開いた。
「ボッシュ、おれが……」
「兄さまは黙ってなよ! あんたはなんにもすることない……!」
 ボッシュはリュウを離さないまま、リフトの進行方向を睨み付けた。絶望的だ。このまま上へ行けるとはどうしても思えない。
 線路を外れれば、暗く深い奈落だ。生きてはいられない。
(どうする……)
 ボッシュは必死で、パニックを起こさないように自制した。
 一度混乱してしまえば、頭の中から冷静な部分がごっそり抜け落ちてしまうことを知っていた。
(このままじゃ、近いうちにリフトはぶっ壊れる。レンジャー隊にとっ捕まって、俺と巨乳とディクは銃殺刑かなんかで、兄さまは……)
 またあの銀色の獣が頭に浮かんだ。
 リュウはモルモットのように扱われ、あの化け物の姿で一生捕われて過ごすことになる。
 きっと死ぬよりもひどい目に遭う。
 ボッシュはそれが我慢ならなかった。
 いっそのこと、リュウを殺してしまおうか?
 ここで死んだほうがいくらもましだろう。楽にしてやったほうが、リュウを苦しめずに済むかもしれない。
「……ボッシュ……」
 だが、不安そうな眼差しでボッシュを見上げてくるリュウを、手に掛けられる自信がなかった。
 何より、ボッシュ自身まだ死にたくない。
 未来にあるのは栄光だけのはずだ。こんなところで死んでたまるものか。
「くそっ! あいつら、あんなもんまで出してきたの?!」
 リンの声にふっと顔を上げると、鉛色の巨体が見える――――確か下層区に新しく配備されることになった戦闘用のアシモフだ。
 上層区の払い下げではあったが、その機能が脅威であることに何ら変わりはない。
「構え……撃て!」
 隊長らしい女の号令で、アシモフの主砲が発射された。
「……! にいさま……!」
 とっさにリュウを抱き締めて庇った。
 光が迫り、線路に着弾し、そしてリフトごと爆ぜた。
 リンとニーナの悲鳴が聞こえたような気がする。
 身体がふわっと空中に投げ出される感覚があった。
(ああ……また、落ちる、わけ……?)
 心許無い落下の感触、どんどんその速度が上がっていく。
 目の前には、ただ口を開けた奈落があった。






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