見慣れた風景だった。あれだけ毎日なにも変わりなく、平坦で、いっそ退屈を感じるほどの。
 転移魔法陣の輝きが消えたあとに目の前に現れたのは、ボッシュのホームだった。
 帰るべき場所。中央省庁区。そのエントランス。
 だが郷愁も安堵もなにもなかった。
 ただぴりぴりした緊張と圧迫感があった。心休まる家ではなかった。
 十六年間同じ空気を吸って、ここで共に生きてきたリュウがいないだけで、省庁区はこんなにもからっぽになってしまうのだ、とボッシュはぼんやり思った。
 そこはただの巨大な空洞だった。
 この十年間、リュウにまともな言葉も掛けてやれなかったのに、視界に入れることさえ煩わしかったはずなのに、ふとした拍子で奇妙な幻視がボッシュに訪れた。
 たとえば、小さな腕で古い本の山を抱えてえっちらおっちら歩いている、今よりも少し幼いリュウの姿。
 汗だくになって図書館と屋敷を往復するその背中。
 柱から急に飛び出してくる青い頭。
 肩まで伸びた髪。自分で切り揃えたものだから、不揃いで、ばらばらだ。
 前が見えないものだから、ボッシュにぶつかって、派手に転倒する。
 リュウは床にぶちまけられた本を泣きそうになりながら拾い集め、必死で謝り続ける。


――――ごっ、ごめんなさいボッシュさま! ボッシュさま、大丈夫ですか? 怪我はない?


 ボッシュに無視され、本を踏み躙られて、そのまま置き去りにされたリュウが一瞬見せる、あの寂しそうな瞳。
 そのまま黙って本を拾い続ける。
 そして、またどこかでリュウの悲鳴と誰かの怒声が聞こえる。平手が飛ぶ音。もしくは、尻尾を踏まれたディクの唸り声。
 思えばこの省庁区で、リュウが笑顔を見せたことはほとんどない。
 大体が泣いている。困った顔をして、必死で謝りながらリュウは泣いている。
 リュウが悪いわけじゃない。
 だが、世界中のいろんなことが自分の不手際でもあるみたいな顔をして、リュウは顔を真っ赤にして謝り続ける。
 あんたにそんな顔は似合わない笑えよと言ってやりたかった。
 もうリュウを困らせない。泣かせたりしない。
 ボッシュは足を踏み出した。
 静かで眩い、懐かしい空洞へと。


◇◆◇
 

 真っ白の世界に、靴の踵が床を擦る音。二人分だけ。
 腕があんまりに痛くて、気が遠くなったが、ボッシュは胸を張って、足を進めた。
 今リュウに会いに行くということは、空を目指すことだ。
 空を目指すということは、そろそろボッシュにも理解できていた。
 世界中を敵に回すことだ。
 全てが牙を向いて、襲いかかってくるということだ。
 例外はない。
 やがて、目の前に大きな扉が立ち塞がった。
 生まれて十六年間、物心ついた頃から、ボッシュは剣を携えてこの扉を叩いたものだった。
 はじめはいつだったか、ただ扉を開けてすぐに恐ろしい顔をした邪公がいて、泣き叫びながら震えていたような気がする。
 とうさまたすけてと叫んでも、父は助けてはくれなかった。
 にいさまたすけてと叫んでも、リュウは来てくれなかった。
 結局大怪我をして、メディカルセンターに入院する羽目になった。
 気を利かせて、ナラカとリケドがこっそりリュウを連れてきてくれた。
 なんでたすけてくれなかったのにいさまとリュウを詰ると、リュウは泣きながらごめんなさいごめんなさいと謝った。
 その時のリュウの言葉が、今になって鮮やかに蘇った。


――――ごめん、ボッシュ。おれ、にいちゃんなのによわっちくてごめんね。


――――おれ、つよくなるから。ぜったいぜったい、ボッシュまもってあげる。せかいでいちばんつよくなって、ずーっとボッシュのそばにいてあげるね。


――――つよくなったら、「ろーでぃ」でもボッシュといっしょにいても、おこられないでしょ。


 リュウは弱かった。誰よりも弱っちいローディで、だが庇護する人間もおらず、ひとりきりで生きていた。
 世界の全てが自分に優しいものだと思って生きてきたそれまでのボッシュとは、決定的に違っていた。
 だが、ボッシュは――――ほんの少し、リュウが妬ましかったのかもしれない。
 世界はボッシュに優しかったが、たった一人だけ、父はボッシュに優しくなかった。
 見向きもしなかった。
 なのに、世界に相手にされないリュウは、たぶん、父に特別に扱われていた。
 それを子供心ながら、ボッシュは知っていた。気付いていたのだ。
 リュウは恐ろしい訓練を強要されなかった。
 難しくて退屈な勉強もする必要がなかった。
 ただたまにボッシュの部屋にこっそり入り込んできて、ボッシュと遊べばそれで良かった。
 それ以外、リュウが何をしていたのか、ボッシュは知らない。
 ボッシュは兄弟なのに、リュウのことをなんにも知らなかった。
 ただ、いつもにいさまは笑っているなあ、それだけ。
 ほんとうは父はボッシュの母を愛しておらず、ほかに好きな女の人がいて――――その人が、リュウの母親なんじゃあないだろうか?
 ボッシュは良くそう邪推し、落ち込むことがあった。
 だからボッシュよりもリュウのことが好きなんじゃあないだろうか。いや、ボッシュのことなんかほんとうはどうでも良くて、嫌いで、だからあんなに怖いディクをけしかけたりするんじゃあないだろうか。そんなふうに、思い悩んでいた。
 時々不安になった。
 だが父は、ボッシュのためにリュウをあんなに恐ろしい化け物に変えてしまった。
 あの人が何を考えているのか、俺にはどうしてもわからないんだ、そうボッシュは考えた。
 自分の知らないところで何が起こっているのか、なんにもわからなかった。
 訊きたいことがたくさんあった。
 思えば、まともに父と会話をしたことがなかった。
 こんなに疑問に思ったのも初めてだ。
 父はいつも厳格で強く、正しかった。間違うところなどなにもなかった。
 あの人のすることに、こんなに不満を持っているなんて初めてだとボッシュは思った。
 そして、扉を押して、開けた。
 重苦しく軋む音。
 天蓋からさあっと光が射して、ボッシュは目を眇めた。
 みっつ、人影があった。
 見慣れた顔。ナラカとリケドの双子。
 彼らは同じ顔で、少し強張った無表情だったが、ボッシュの姿を――――その異形の腕を見て、さすがに驚いたように目を見開いた。
 そして、父がいた。
 剣聖ヴェクサシオン、この世界で最強とボッシュが信じている剣の使い手、ドラゴン殺しの英雄。
 父はただ黙して、静かに剣を携えていた。
 そこは剣の墓場だった。
 無数の剣が床に、柱に突き刺さり、あるものは折れ、あるものはまだ鈍く輝きを放ち、そこで止まってしまった持ち主たちを静かに悼んでいた。
 ボッシュはその大きな存在に気圧されながらも、まっすぐに父を見据えた。
 対峙した父の姿は、あまりに大きかった。
――――上がったか」
 それが当然であるような口ぶりで、父が言った。
 その声には、いつものように賞賛も感嘆もなかった。
 ただ当たり前のことが成されたかのような、それだけの。
「はい」
 ボッシュは右腕に獣剣を携え、静かに頷いた。
 何か満足のいく手柄を掲示して、とうさまに誉めてもらいたいなんていう幼い顕示欲は、とうの昔に諦めていた。一生、満たされることは、きっとない。
「最後の訓練をお願いします、父さま。……俺は、兄さまに会いにいきます」
 がたがたに震えそうになりながらのボッシュの言葉に、父の返事はそっけなかった。
「よかろう」
 たった一言だけだった。
 竜殺しの剣が、その刀身が鈍く光り、ボッシュの目に焼きついた。








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