もしそうなれば、三秒がいいところだった。
 父ヴェクサシオンが直々にボッシュに手解きをすることは、ほとんどなかったと言って良い。
 上級邪公にすらいまだに苦戦するボッシュを、いつも何も言わずに眺めていた。
 子供の時分から何も変わらなかった。ボッシュが、かなり骨を折って、ようやっとディクを屠ることができた後、振り返ると父の去り往く背中が見えた。
 何の言葉も掛けてはもらえなかった。
 型を覚え、獣剣技を身につけ、かたちばかり綺麗に敵を殺すことができるようになっても、ボッシュにはどうも、訓練の実感というものがなかったと言って良い――――自分は本当に強くなっているのか?
 稀に父と剣を合わせることはあった。
 それが、三秒だった。
 ボッシュがまっすぐに立っていられる時間。
 気がつけば自室のベッドだった。
 包帯でぐるぐる巻きになって、ボッシュは自分のベッドに横になっているのだった。
 目が覚めた時には、ありえないくらいに時間が経過していた――――三日、四日はいいところ、一週間なんてのもざらだ。
 生死ぎりぎりのところをさまよって、目を開けると、双子が泣きそうな安堵の表情でいた。
 危ない所でした、と彼らは言う。
 今回ばかりは肝を冷やしましたと言う。
 そして一人は残り、一人はどこかへ行ってしまう。
 どこ行くんだと訊くと、残った方が決まって言う。お父上のところですよと。ヴェクサシオン様がとても心配しておりますので。
 嘘だ、とボッシュが言うと、ナラカかリケド、残った方が困ったように笑って、さあ包帯を変えますかなと言う。
 上手くはぐらかされた感じだ。
「なあ、そう言えばさあ」
 ボッシュが声を掛けると、なんですかな、と返事が返ってくる。
 手持ち無沙汰に温かい感触の残っている手のひらを振って、ボッシュは何でもないやと肩を竦めた。
 本当は、今までずっとそばにいたの誰、と訊こうとしたのだった。
 ずうっと手を握ってたのは誰。細く、小さい、剣に触ったこともないような柔らかな、少し冷たい手。
 もどかしいくらい懐かしい感触。
 それをボッシュは良く知っているはずだったが、どうしても思い出せないでいた。


 最近になってようやっとわかったこと。
 ふらふら、危なっかしく歩く兄の手を取った時に、ボッシュはふっとそんなことを思い出していた。
 ああ、これだ、と。
 あれは兄さまの手のひらだったんだ。
 ずうっと手を繋いでくれていたんだと。


 今度ばっかりは、そんな昔の記憶は微塵も適用されなさそうだった。
 斬り倒されれば、いつものようにベッドで目を覚ますこともないだろう。
 手を握っていてくれるリュウも、もういなくなってしまった。
 父ヴェクサシオンは、剣を合わせれば、世界で一番強い人間だった。
 だから剣聖なんて名前で呼ばれている。
 対峙すれば、まばたきの暇もなかった。
 ヴェクサシオンが無造作に剣の切っ先をボッシュへと向けた瞬間には、もう既に懐まで踏み込まれていた。
 一閃の光がボッシュを薙いでいた。
――――うわ……!」
 咄嗟に構えた剣は、根元から折れてしまった。
 だがそれでも、向かってくる切っ先の勢いを緩めることさえできなかった。
 ぐん、と肩口から腕を引っ張られるような感触があった。
 移植した黒い腕が勝手に動いたのだ。
 振り下ろされた剣の腹を横殴りにして、軌道を逸らした。
 反動で、ボッシュは弾かれ、後ろへ飛ばされた。
「くそっ……!」
 じくっとした痛み。見ると、異形の手の甲がぱっくりと割れている。
 どんな武器でさえ傷ひとつ付けられないはずのドラゴンの腕が、一文字に切り裂かれていた。
 ボッシュは改めて、父を恐ろしいと思った。
(ていうか……やっぱり俺が父さまに勝てるわけないよ、兄さま……!)
 ヴェクサシオンは静かに剣を引き、ボッシュを見ていた。
 はっとなって、慌てて立ちあがると、いつものように静かな声が降ってきた。
「恐れるな、ボッシュよ。常に冷静でいろ。そう、お前には教えたはずだ」
 まるで普段どおりの訓練の風景だ。
 いつもと何も変わらない、ルーチンの中の一日のような。
 ヴェクサシオンはボッシュの半身を目にしても、驚いた素振りも見せなかった。
 眉ひとつ動かさなかった。
 ボッシュの身に起こったありとあらゆることが、予測できた、単調な事象だとでもいうような感じだった。
「お前は既に恐怖に囚われ、敵を見誤っている。……その腕、邪悪な竜の力に取り込まれ、魅入られたか。
お前が竜を宿す必要は無かった――――竜の半身は、既に与えていたはずだ。何故あれを使わなかった」
 そこで、初めて少し咎めるような響きが、父の声に混ざった。
 ボッシュは反射的に勢い良く顔を上げ、叫んだ。
「それは……兄さまのことですか!」
 まるで与えた玩具を子供が気に入らなかったのだとでも言うような落胆が見えた。
 それは、ボッシュに初めて父への怒りをもたらした。
 今まで一度たりとも無かったことだ。
 ヴェクサシオンに対し、ボッシュが激昂することなど、一度も。
「なんで兄さまを……あんな、化け物にしたんですか、と……さま……。
兄さまは何にも知らないんですよ。剣の振り方も、人殺しの仕方も、そんなの知らなくて良い人なんです。弱いから、俺が守ってやらなきゃならない人なんです。
だって俺たちは、二人だけの、ふたりっきりの兄弟なんだから」
「あれはお前に与えられた道具だ、ボッシュよ。あれさえあれば、お前は容易に空を開いたはずだ。ここで倒れることもなかった」
 ヴェクサシオンは剣の切っ先を再びボッシュに向けた。
 ボッシュは顔を伏せ、ぼそぼそと呟いた。
「兄さまは……道具なんかじゃ、ない……」
 ドラゴンの腕の制御が、上手くいかない。感覚が薄くなってきた。
 ボッシュはヴェクサシオンの前で、あまりに無力だった。
 定着が不完全だったのか、上手く適合しなかったのか、ボッシュが選ばれなかったのか、竜の腕はボッシュの意思の他のところで、勝手に蠢いていた。
 ボッシュに浸蝕し続けていた。既に顔半分まで食われていた。
「俺は……空なんかいらない……!」
 腕に引き摺られるようにして立ち上がり、駆け、あまりにも大きく立ち塞がる父の姿を見上げ、また剣の鈍い灰色が目に映り、喉に熱い感触があった。
 柔らかい皮膚を突き破り、硬質の剣先がボッシュの首を貫いていた。
――――残念だ、息子よ」
 初めて父の目に、あからさまな落胆が見えた。
 ボッシュは何か言おうとした。
 父に懇願しようとした。
 ぼくのことを見てくださいと言おうとしたのか、ぼくに兄さまを返してくださいと言おうとしたのか、どちらなのか、そのどちらでもないのか。
 なんにしろ、最期に深く理解することができたのは、やっぱり俺が父さまにかなうわけなんかなかったんだ、ということだった。
「坊ちゃん!」
 あれはリケドの声か、それともナラカか、切羽詰まった必死の叫び――――ああ、リンの呼び声と二ーナの舌ったらずな悲鳴も混じっている。
 傍観者たちの姿が、ぼんやりとぼやけて見えた。
 その手前にはっきりと映っている影がある。
 ただ黙って、じっとボッシュを見ている人がいる。
 青い髪は地下世界では珍しい。
 少し気後れしたような瞳。
 言いたいことがあるけれど、どうしても言えないのだというもどかしい色を映している。
(……兄さま?)
 いつものリュウの姿だ。腕を背中で組んで、じっとボッシュを見ている。
 その目に見つめられると、ボッシュからは恐怖が抜け落ちていった。
 そして後ろめたさと後悔が追い掛けてきて、ボッシュを絡め取った。
(ごめん、兄さま……俺、死んじゃったみたいだ。あんたを殺さなきゃならないのに)
 リュウは、じっとボッシュを見ている。
 少し首を傾げて、見上げている。そう言えば、ボッシュの方が幾分か背が高かったのだ。
 リュウはふと誰かに呼ばれたように、ふいっと後ろを向いて、またボッシュを一度振り返り、名残惜しそうに背中を向けて歩いて行ってしまった。
(……! 兄さま! 行かないで……に……さま……)
 ボッシュが声にならない声で必死に呼ぶと、リュウはくるっと振り向いて、いつものふわっとした微笑を見せた。



――――待ってるよ。




 声は聞こえなかった。
 ただ、唇のかたちがそう動いたのが見えた。
 リュウは消えて、ボッシュの意識は一瞬のうちにブラックアウトした。
 真っ暗な空洞に、落ちて行った。



◇◆◇



 暗い、闇がある。
 時折赤く脈打つ線が光って見えた。血管を透かすような。
 ぱっ、ぱっ、と断続的に、視界は一瞬真っ赤に染まり、また暗く落ちた。
 誰かの鼓動が、すぐそばで脈打っていた。
 ぐるぐると反響して、呼び声が聞こえる。
 開ける目も、聴く耳もなにもない。ただそこにいるっていうことが理解できた。それだけだ。


――――殺せるか?



 声が聞こえた。
 ボッシュははっきりとした自我も持たないまま漂っていたが、すぐに返事をした。
 相手はどうやらその答えが気に入ったようだった。


――――いいだろう、お前を選んでやる。


 ぱあっと青い光が弾けた。
 まるで祝福するように、ボッシュに光が降り注いだ。
 それと同時にいくつもの得体の知れないイメージが、ボッシュに注ぎ込まれた。
 割れる魔法陣。誰かの爪が心臓に食い込む感触。
 兄の変化した化け物に良く似た竜が、その無表情の真っ赤な瞳を燃やし、黒い竜の心臓を握り潰しているイメージ。
 その背後にいる赤い竜。バイオ公社で朽ちていたあの竜に良く似ているが、こいつは生きていた。
 封印の檻。眠り。そして、呼び声。
 青い髪、小さな背中。歩いていく。追い掛けて追い掛けて追い掛けて――――


(そうだ……俺、兄さまを殺さなきゃ……)


 こんなところで立ち止まっている暇はない。
 リュウを殺さなければならない。
 いつまでもあんな化け物の姿で苦しませちゃいけない。
 リュウは自分で死ぬこともできないのだ。
 ボッシュがこの手で心臓を止めてやらなければならない。



 早く目を覚まさなければ、眠っている暇なんてない。
 一刻も早く、会いに行かなければ。ずうっと待ってる。上へ上へ上って、空の下できっと待っている。


 早くリュウを殺さなければ――――







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