気がつくと、真っ青な光の奔流が身体中を覆っている。
 全身に奇妙な模様が――――文字とも図形とも取れるかたちが浮かび上がり、眩く輝いていた。
 今しがた喉を貫き通した剣に振り捨てられ、床にぼろくずのようになって転がっていたボッシュは、感じていた急速に体温を無くし、冷えていく感触が遠のいていくのを理解した。
 感覚が戻ってきた。
 大量の失血によって失われていた生命が、再び燃え上がりはじめた。
 傷が、塞がっていく。
 喉の致命傷の痛みが引いていく。
 今しがた、ボッシュは死んだはずだった。
 実の父ヴェクサシオンによって首を斬られたのだ。
(……なんで俺、生きてんだっけ)
 ぼんやりとそう思う。なんにも理解できなかった。
 ただ、身体中に力が漲り、傷は塞がり、消え、そして自分という存在全てが変質していくことを、ボッシュは理解が追い付かないまま感じていた。
 背中の皮膚が、ぴんと張った痛みがある。
 ほどなく、容易く薄い皮は破れ、変形した骨が突き出した。痛みはなかった。
 白い色をしていた骨の塊は変化を続け、逆さに生えた角のようなかたちになり、やがて黒くつややかな光沢に覆われた。
 それは翼だった。
 そして、変形は同じく四肢にも起こった。
 ばきばきと骨格が根本から変質していた。
 鋭い鍵爪が生えてきた。
 両耳の付け根あたりが盛り上がり、はじめは柔らかい肉の腫瘍のようだったそれは、徐々に硬度を増し、二本の角になった。
 ボッシュは、ヒトではない何かに変化し続けていた。
 なにか他のものになっていく。
 そのことに恐怖がないと言えば嘘になる。
 救いを求めるように、反射的に見上げた先のヴェクサシオンは、だが幼ない頃からそうあったように、助けてなんてくれなかった。
 腕を組み、じいっとボッシュを見つめている。
 顔色ひとつ変えず――――いや、



 少し、口の端が吊り上がったように見えた。



 笑ったように、見えた。



(……なんで……笑ってるんですか? 父さま……?)



 ボッシュは緩く頭を振った。
 ふっと、幼い頃は何度も何度も考えたことのあるそれが、僅かずつ、蘇ってきた。



――――ぼくを見てください、父さま。



――――今日こそ、ぼくは父さまが認めてくれるくらい強くなりましたか、父さま。



――――ぼくを誉めてくれますか?



――――いつに……なったら……



『父さま……』
 ヴェクサシオンに向かって絞り出した声は、まるで空洞で思いっきり叫んだ時のような、おかしな撓みを伴っていた。
 獣の四肢と翼がある。
 それはリュウが変身してしまった怪物のパーツに、あまりにも酷似していた。
 ボッシュはリュウと同じものになった。
 兄弟おんなじ化け物になったのだ。
 すうっと剣を水平に構えたヴェクサシオンと対峙して、ボッシュは父の表情に、今まで感じたことのない、息苦しく、突き刺さるような感情の揺れを感じていた。
 ヴェクサシオンの目は、今やあの観察するような種類のものではなかった。
 ひとりの武人として、父として、竜と対峙していた。
『……俺を、認めてくれるんですか、父さま……』
 ごうと青い炎が爆ぜて、ボッシュの周囲で歓喜に踊り狂った。
 熱くはなかった。
 いつもの訓練にそうあったように、父の目の前で、どうにか、たった一言だけでも誉めてもらいたい一心で戦闘用ディクに突っ込んでいくように、ボッシュは軽やかに床を蹴った。
 鋭いレイピアの代わりに、炎を纏ったドラゴンの爪があった。
 目の前には殺すべきディクではなく、越えるべき父の姿があった。
 いつも追い掛けていた背中ではない。
 真正面から向き合っていた。
 父の目にはボッシュが映っていた。
 ぼくを見てくださいと切望するボッシュがいた。
 世界で最強の武人が繰り出した剣が、ボッシュを捕らえようと鉛色に光った。
 その剣たちが抜かれたところを、ボッシュは初めて見た。
 五本の剣から呼び起こされた闘気が、激しくボッシュを打った。
 最初で、最後だった。




――――見事だ」




 無我夢中だったと言って良い。渾身の力で突き出した腕は、確かにその心臓を捉えていた。




「息子よ」




 血が腕を伝わり、肘から落ち、床に零れるまで、大分時間が掛かった。
 ぴちゃっ、と音が零れる。
 いつのまにか足元に血だまりができていて、腕から滴り落ちるたびに小さく弾け、赤い染みが広がり続けていた。
『……あ』
 腕を引き抜くと、決して大柄ではない身体が凭れ掛ってきた。
 ボッシュは慌てて、父の身体を支えた。
 竜への変化はいつのまにか解けていた。
「と、父さまっ?」
 支えようとした身体は存外重く、ボッシュは結局血塗れの床に尻をつく羽目になってしまった。
「と、父さま、俺……」
 呼び掛けても、父の応えはなかった。
 背中にひやっとしたものが伝った。
 ボッシュは恐る恐る父の顔を見上げて、喉の中で小さく悲鳴を上げた。
 父の目からは、もう強靭な意思の光が消えていた。
 鈍く灰色に濁っていた。
 一目で知れた。
 訓練で殺したディクと同じだ。あの死体の目。
 それは今や絶命し、一瞬前まで父だったものになってしまった。
 最期の声が、ずうっと撓んで、残っている。見事だ、息子よ。確かにそう言った。
 それで、最後になってしまった。
 終わりの際に、たった一言だけ、誉めてもらえた。
 嬉しかった。
 だがそれも父が永遠に失われてしまった今となっては、むしろ胸を刺す痛みだった。
 どうすれば良いのかわからないもどかしさが込み上げてきて、吐き出すと、それは結局のところ慟哭であり、嗚咽だった。
「とっ、父さま……父さまあ、おっ、起きてください……! 俺、ぼくは、まだあんたに認めてもらえるほど強くなんかないんです!」
 父だった遺骸にしがみついて、ボッシュは泣きじゃくり、懇願した。
 今まで目の前にあった背中がふっと消えてしまっていた。
 そして、今となってはもう、世界中どこを探したって見つからないのだった。
「に、にいさまだって、助けてあげられなかった。ぼくは、まだ教えてもらわなきゃならないことが、いっぱいあって……」
 縋った身体はもう冷えきっていた。
 その冷たさに、ボッシュはぞっとした。
 ヴェクサシオン、剣聖という名を戴く武人は、ボッシュの父は、もう死んでしまった。どこにもいないのだ。
 ざっと影が差した。
 ボッシュはのろのろと顔を上げた。その表情は、憔悴しきっているはずだ。
 ナラカとリケドが立っていた。
 昔から見知った顔に気が抜けてしまって、また涙が零れてきた。
「な、ナラカ……リケド。と、とうさまが、ぼく、」
 二人共が無表情で、剣を抜き、ボッシュの前でどっと床に突き立てた。
 そして跪き、頭を垂れて、誓いを上げた。
「我らは今より、死すべきその日まで、あなた様に仕えましょう」
「我らはこの魂尽きた後も、永遠にあなた様に忠誠を誓います。剣聖ボッシュ様」
 そう呼ばれた瞬間、ボッシュはびくっとなって、強張った。
「け、剣聖……ぼ、ぼく、が?」
 ボッシュはおずおずと、父の死に顔を見た。
 胸がざわざわとした。その名を継ぐ資格が、強さがあるのか?
 不安がボッシュにのしかかってきた。
 ふっと、父の唇の端が、吊り上がっているように見えた。
 さっき見せた、あの微笑だ。初めて目にしたもの。
(とうさま……ぼくを、認めてくれたんですか?)
 恐れるな、という父の声が聞こえた気がした。
 何度も何度も聞かされていたその言葉だ。
(ぼくは……)
 リュウの顔が浮かんだ。
 いつも笑っているべき兄の顔は、今は気後れしたように、自信が無さそうに、少し卑屈な困った顔を浮かべていた。
 リュウはまだ笑えないのだ。助けてあげなければならない。
(そうだ、ぼくは、にいさまを助けなきゃ)
 リュウを助けられるのは、ボッシュしかいない。
 たった二人だけの兄弟なのだ。
 ボッシュはぎゅっと目を閉じ、恐怖を振り払うように強く頭を振り、目を開いて、それから父の瞼をすっと手でなぞり、その濁った目を閉じた。
 死に顔は存外安らかだった。
「……ナラカ、リケド」
「はっ」
 双子が、二人揃って返事をした。
 ボッシュはできるだけしゃんとした動作で立ち上がり、命令した。
「父さまを頼む。ぼくは――――俺は、兄さまを、助けに行く」
 剣の墓場に突き立っている剣を、錆びた一振りを引き抜いて、ボッシュはひとつ大きな息を吸って、少し無理に笑みを作り、肩を竦めた。
 奇妙に手に馴染む剣は、折れたボッシュの剣と同じ、細身のレイピアだった。
 触れ、握ると、僅かに青い光が零れた。
 誰のものとも知れない記憶が、剣を通してボッシュに伝わってきた。
 黒い竜の、空への渇望が。殺害者への執着が。
「俺たちは、空を開く。そうすりゃ、プログラムは終わるんだろ? 兄さまも俺も、解放される。助かるんだ」
 ボッシュには解っていた。
 それは死の安堵だ。
 救済の方法はひとつきりだった。
 浸蝕され自分でない何かになっていく恐怖と破壊衝動から救われるには、最早それしかなかった。
 俺は怖くはないよ兄さま、ボッシュは天井へ、はるか高みにいるはずのリュウへ向けて、ひとりごちた。だってあんたと一緒なんだものな。
 くいっとジャケットの裾を引かれて、ボッシュは目を落とした。
「ううー、っう」
 ニーナがいた。
 何か言いたそうに、口をぱくぱくさせている。
「……あ? なんだよ」
「ううっう、ボス」
「……なきむし、ボッシュ?」
「う」
「……マジぶっ殺すぞ、この野郎」
 今になって醜態を思い出し、ボッシュは赤くなって、ニーナを乱暴に小突いた。
 ニーナは何か深く考える仕草を見せた後、背伸びをして、ボッシュの頭を撫でた。
「オイ、うっとおしい。やめろ」
「ううー! にゃっ、ルー、にゃ!」
「ハア? なに、兄さま?」
 リュウならきっとこうしてる、とでも言いたいのだろうか?
 ボッシュは仏頂面のまま、憎まれ口を叩いた。オマエにされたって、全然嬉しくないね。
「……もう、いいのかい?」
 リンが、少し気遣わしそうに見ている。
 ボッシュは振り返って、ああ、と頷いて、肩を竦めた。
「俺ぁ剣聖ボッシュだ。こんなところで止まってられない。兄さまが待ってる」
「……そうだね。リュウ、迎えに行かなきゃ」
 リンはそこで少し微笑を見せ、ボッシュを指差した。
「あんた、元に戻ってるよ、身体」
「あ」
 言われてはじめて気がついた。
 異形の浸蝕を受けていたはずの腕が、半身が、元の見慣れた姿に戻っていた。
 正直なところはもうどうだって良かったのだが、リュウを怖がらせずに済むんならそっちの方がいいな、とボッシュはぼんやり思った。
「じゃ、行くか、空」
 気安く言って、ボッシュは歩き出した。
 魔法陣の光が、青く輝いていた。
 光の図面を踏んで、一瞬だけ、ボッシュは後ろを振り返った。
 昔よりも小さく見える父の姿があった。
 ナラカとリケドが頭を垂れていた。
 ボッシュは目を閉じ、口の中だけで小さく呟いた。
(……俺ももうすぐそちらへ行きます、父さま)
 そして、転移の光に包まれた。






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