実際には1/64というD値は大したものじゃない。
 地下に降りれば稀少なハイディだ、エリートだともてはやされたが、ここ、世界の頂点中央省庁区においては、そんなものはまったくの役立たずだった。
 そこはボッシュのホームではなかった。自由に出入りできる場所は、ほんの僅かだった。
 見慣れた書庫も父の部屋も、ボッシュが知っているのはほんの一部分に過ぎない。
 丸い天井のホールを抜けてその先へ進むと、ひどく寒い回廊へ出た。
 どこもボッシュが見たことのない部屋だった。
 いや、一度だけ、ここまで来たことがあった。
 その時は確か、巨大な墓場があったきりで、空へ続く道なんてどこにもなかったのだ、確か。


◇◆◇◆◇


 天井からびゅうびゅうと、ディクの唸り声みたいな風の鳴る音が聞こえる。怖かった。
 にいさまとぼくとで、中央省庁区の探検であちこち回っていたら、気がついたらこんな見たことないところに来ていた。
 帰り道はわからない。
 とうさまを呼ぼうと思ったけど、きっと勝手にうろうろしてすごく怒られると思ったから、ぼくは黙ってにいさまの手をぎゅうっと握った。
 にいさまはぼくの手をぎゅっと握り返してくれて、だいじょうぶだよと笑ってくれた。帰り道、おれ覚えてる。だいじょうぶ。
 それでぼくはほっとして、あらためてその大きなお墓を見上げた。
 誰を埋葬しているんだろう? ゾンビみたいに起きてこないだろうか?
「おっきなお墓……」
 それは、あんまりにも古いものに見えた。ヒカリゴケがびっしり生えて、ぽうっと光っていた。
 ずいぶんと、手入れをされていないみたいだった。
 誰も会いにきてくれないお墓なんて、ここにある意味、あるんだろうか。
 にいさまもぼくと同じ考えのようで、だあれも来てくれないんだね、とちょっと寂しそうに言った。
「かわいそうだね」
 にいさまはちっちゃい手で、ぺたぺた墓石を叩いて、なにかぽそぽそと囁いた――――何を言ったのか、ぼくには聞こえなかった。
 それより、ぼくは慌ててにいさまを止めた。
「に、にいさまっ、お墓叩いたらだめだよ。怒ってお化けが出てくるかもしれないよ」
「う、そ、そう? じゃ、やめるね」
 にいさまもびくっとして、手をきゅっと引っ込めた。
 恐る恐る、ぼくらは上を見上げた。
 ぼくらの背よりずっと高い、天井まで続くお墓を。
「こ、こわくないけどね。ぼくぜんぜん、こわくないよ」
「……うん。こわくないね」
 ぼくのは強がりだったけど、にいさまはなにか考え事をしているみたいだった。
 すごく難しいことを深く考えてる顔をして、きっとこのお墓に埋められてるの、すごく大きい人だったね、と言った。
「だってこんなに大きいんだもん。ね、また会いにきてあげるね。今度はお墓も掃除してあげるよ。誰も来ないの、寂しいでしょ」
「に、にいさまっ、なにいってんの?! お墓なんてやだよ、もう来たくない……」
「だって、おれも、きっと誰も来てくれないもん」
 にいさまは寂しそうな顔をして、ね、とお墓の中の人に訊くみたいに、首を傾げてみせた。
「おれのお墓も、こんな、なるかなあ?」
「な、ならないよ! にいさまのお墓は、ぼくが毎日ちゃんと会いにいって、お掃除してあげ……」
 ぼくは言い掛けて、はっと気付いた。
 それって、にいさまがぼくより先に死んじゃって、ぼくがひとりぼっちになっちゃうってことじゃないか!
「や、やだあ! にいさまっ、ぼくより先に死んじゃやだあ! い、いなくなっちゃ、やだよう……」
「い、いなくならないよ! だいじょぶ! ご、ごめんね!」
 にいさまは慌てて、泣き出したぼくを慰めてくれた。
 だいじょうぶ、いなくならない、と言ってくれた。
「おれ、ボッシュを寂しくしないようにいるんだもの。いなくならないよ。ずーっといっしょにいてあげる。大人になったらレンジャーになって、強くなってボッシュを守ってあげる」
「に、にいさまより、ぼくのが強いもん……」
「う、た、たしかにそうだけど……うー」
 にいさまは困ってしまって、でもちょっと顔を上げて、もう一度お墓を見た。
「……にいさま? どしたの? だれか、知ってる人なの?」
 お墓の中の人、にいさまの知ってる人なのだろうか?
 なんだかずっと昔一緒にいた友達を見るみたいな顔をしている。
 でも首を振って、わかんない、と言った。
 ぼくはそろそろ我慢できなくなってきたので、にいさまの服を掴んで、ね、かえろ、と言った。
「お、お墓、いやだよ。怖いよお……」
「あ、うん……帰ろうか」
 にいさまはぼくの頭を撫でて、空、なかったね、と言った。
「きっと道を間違えたんだよ、にいさま」
「うん、そうだね。今度は見つけようね」
「うん」
 ぼくらは手を繋いで、元来た道を引き返した。
 にいさまは一度振りかえって、なにか言った。
 でもその声はあんまりにも小さ過ぎて、ぼくにはにいさまが何を言ったのか、良く聞こえなかった。



◇◆◇◆◇


 子供の頃一度見た光景は、今やどこにもなかった。
 鈍い緑色をした壁は割れ、開かれていた。
 厚い壁の向こうに続く、細い通路があった。その先には、空っぽの闇が広がっている。
 何年も何年も、もしかすると空が閉じられてから今までずうっと、誰も侵入したことがない道が広がっていた。
 人工的な照明は薄く、こんなところでも生きている燐虫が飛び交う、そのぽうっとした明かりのほうが、いくらか明るかった。
 中央に開けた円形の床があった。
 その錆びた鉄柵に凭れかかって、誰かいた。
「兄さまっ……?」
 ボッシュは慌てて駆け寄った――――銀髪に赤い目、同じ色の角、驚くほど良く似ていたが、しかしそれはリュウではなかった。
 リュウと決定的に違っていたのは、そこには老成した落ち付きがあるということだった。
 子供の時分から何度か見掛けた、見覚えのある男だった。最高統治者。オリジンのエリュオン=1/1。
 彼は飛びまわる燐虫をぼうっとした目で眺めていたが、ボッシュに気付くとのろのろと顔を上げた。
 床に、血溜まりができている。深い傷を負っているようだった。
「ヴェクサシオンの……息子か」
 そして少し自嘲気味に笑った。
「兄さまは?」
 おそらくその男を打ち負かして、上へ上がっていったろう。
 オリジンはふっと上を見上げた。まるでそこにリュウがいるみたいな顔で、また少し笑った。そこには自嘲はなかった。
「あれを……止めるのか、チェトレ」
「ボッシュだよ。俺が、止める。兄さまを、これ以上怖い目に遭わせやしない」
「無駄だ。空はじきに……開かれる。あれは私とは、違う。迷いはない……」
 そこには奇妙な誇らしさがあった。
 ボッシュは怪訝に眉を顰めた。
 この男は、昔からそうだった。
 ローディと蔑まれていたリュウを、オリジンという世界最高位にあるこの男が気を向け、手を掛けている。
 リュウは彼を先生と呼び、慕っていた。書士の先生と。オリジンなんてものが目の前にいるってことを、ずっとリュウは知らずにいた。
 オリジンは目を閉じ、静かに告白した。
「私は、届かなかった。開けなかった。だが、我が血に連なるものが、空を開く――――後悔は、ない」
 その男は、あまりにもリュウに似過ぎていた。
 ああそう、とボッシュは思った。
 そういうことだったんだ。
 いつかメベトの言っていた言葉の意味が、急速にボッシュに染み込んできた。
 二人共父親に、彼らの若い頃にそっくりだ。
「……あんたは、兄さまの……」
 何の事はない、統治者たちは知っていたのだ。
 知らなかったのは、ボッシュとリュウだけだ。
 だが、そんなものはどうだって良かった。
「……でもあの人、俺の兄さまなんだ。悪いけど」
 ボッシュはそう言って、背中を向けて、歩き出した。
 それから立ち止まり、振りかえらないまま、ひとつだけ訊いた。
「兄さま、このことは?」
「いや」
 オリジンは首を揺らして、否定した。
「なにも、知らない……その必要は、ない」
 あっそ、そうだねとボッシュは頷き、また歩き始めた。
 今度は立ち止まらなかった。







NEXT>>>