とん、と無造作にリュウが床を蹴った。 まるで階段を昇りきり、最後の段差に足を引っ掛けるような、ひょいっとした気楽さだった。 ボッシュに分かったのはそれだけだった。 次の瞬間には、視界が逆さまになっていた。 目の前には、錆び付いた瓦礫の残骸があった。 音と衝撃は少し遅れてやってきた。 気が付くと、ぶっ飛ばされて、壁を突き破っていた。 じんじんするひどい脳震盪は、轟音だか、それともリュウにぶたれただかのせいだ。 ボッシュは理解が追い付くまで呆然と寝転がっていたが、ふっと我に返って、慌てて起き上がった。 攻撃を受けたことにさえ、気付けなかった。 ボッシュはぞっとしてリュウを見た。 幸いにして、追撃はなかった――――リュウはちょっと首を傾げていた。おかしいな、というふう。 できればこのまま帰ってくれないかなという微かな希望すら、その顔には見て取れた。 「兄さま!」 ボッシュはリュウを呼んだ。その声は、焦りと哀願を含んだ情けないものだった。 自覚はあったが、混乱のほうが大きかったのだ。 目をぱちぱちとしているリュウに、ボッシュは必死で叫んだ。 「兄さま、俺ぁボッシュだよ! わかんないの?!」 「変な冗談やめてよ」 リュウはぷうっと頬を膨らませて、もう、と言った。 「きみは竜だ」 「俺、強くしてもらったんだよ! 俺の兄さま、強くなっちゃって、だけど俺が止めてやんなきゃなんないだろ?」 ボッシュは項垂れ、呟いた。 「もう、たったふたりっきりの家族なんだからさ」 リュウは良くわかっていないようだった。 その目には、いつもの穏やかな優しさはなかった。あのおどおどした色も。 ただ血と炎を混ぜこぜにしたような真紅の光があった。 透き通った青い瞳は姿を潜めていた。 「家族……」 リュウはぼおっと呟いて、俯き、何事か思案していた。 「もう父ちゃん、死んじゃった……」 「兄さま?」 「兄弟も……おれ一番上だけど、きみで最後だっけ。まだいたっけ? いっぱいいたから、良く覚えてないや……」 「に、兄さまっ!」 リュウがぱっと顔を上げた。 その目は奇妙な色合いを帯びていた。 すべてがしっくりいかないとでも言うように、訝しく眇められている。 リュウは変だなと呟いて、ボッシュをじっと見つめた。 「あれ? おれ、兄弟はボッシュっきりじゃなかったっけ……じゃ、これ、おれって誰?」 リュウは上手く自分を見付けられないでいるようだった。 頭を押さえて、おかしいなあと繰り返している。 「まあいいや」 だが、あまり深く考えることはしないようだった。 リュウは昔から少し、そういうことが苦手なのだった――――難しい事柄を頭の中で組み立てたり、ようするに頭を使うこと全般が。 ボッシュがレクチャーしなければ、まだきっと字だって読めなかったのだ。 「ごめんね、おれあんまり喧嘩とか好きじゃないんだけど……空は開くし、きみが邪魔をするならやっつけることにする」 「ほんとに、わかんないの……?」 ボッシュは絶望的に呟いて、リュウを見た。 その表情は、昔見たものに良く似ていた。 他人行儀なリュウの顔。 ぎこちなく無理に笑って、ボッシュ様、と少し気後れしたように呼ぶ。 「あんたのこと、俺がわかんないまま、殺してやんなきゃならないわけ?」 竜同士の共鳴が、強く響く。 身体がもとのかたちに戻ってから、どんどん自分が希薄になっていくのがわかっていた。 自分がどこの誰なのか、どうしてここで生きているのか、何を望んでいたかを急速に見失っていく。 自分を見失っていく。 そうして他の誰かになっていく。 それは恐ろしい感触だった。 手のひらから掬った水がぽつぽつと零れ落ちていくように、自分というものが零れていくのだ。 ボッシュが「そう」なってから、まだ間もなかった。 なのに既にこんなに恐怖を覚えている。 随分先に竜に浸蝕されてしまったリュウは、もう飲み込まれて消えてしまったのだろうか? 「兄さま……」 ボッシュの声は届いていないのだろうか? ここにいるのはリュウではなく、もうリュウのかたちをしているだけの、別のものなのだろうか? だがリュウはちょっとばかり焦った顔をして、言った。 「早くしなきゃ、ボッシュが来ちゃう。あの子、こんな危ないとこに来させちゃいけない。おれの弟なんだから、おれが守ってあげなきゃ……空を見せてあげるんだ!」 それがとても大事なことのように、リュウが叫んだ。 ごうと炎の翼が瞬き、赤い鍵爪が閃いた。 突き出した手で、それを掴む――――ボッシュの姿はいつのまにか、またあの怪物めいた姿へと変わっていた。 「リュウ兄さま!」 リュウを捕らえ、その表情のない顔に向かって必死に呼び掛ける。 だが、リュウはまだ、ボッシュを見ない。 ここにいるのにわからないのだ。 記憶が混乱しているのだ。 他の誰かと混ざり合ってしまっているのだ。 リュウは愛すべき、ヒトである弟を探していた。 だが、見つからない。 当たり前だった。 そんなものは、世界のどこを探したってもういない。 ボッシュは今や竜だった。リュウと同じもの。世界でたったふたりきりのドラゴンで、兄弟で、家族だ。 「ヒトは空を手にするんだ。その資格があるんだよ、チェトレ!」 「俺は空なんかいらない!」 ボッシュはリュウに叫び返した。 もどかしかった。 何故リュウはわかってくれないのだろう。 見付けてくれないのだろうか。 何故声が届かないのだ。 理不尽な怒りさえ浮かんできた。 それは、リュウの身体に浸蝕する竜への殺意だった。 「そんなもの開けたって、そこには俺の欲しいものなんかなんにもない! なんでわかんねえんだよ! 俺が欲しいの、あんただけなんだよ! それ以外、なんにもいりゃしないんだ!」 リュウの炎の爪を弾き、肘を蹴り上げた。 そのまま硬化した爪を振り下ろしたが、リュウは身体を捻って逃れ、後ろへ跳ねた。 そのまま中空に浮かんで、ゆっくりと両腕を前に突き出した。 何の動作なのかは分からない。 だが急に心臓が凍りそうになるくらいの緊張が、ボッシュを襲った。 「な、なんだ?!」 頭の中で、誰かの声ががんがん響いた。離れろとうるさく喚いている。 本能的な恐怖が、ボッシュに訪れた。 まるで「それ」がボッシュを殺すということを身を持って知っているような、リアルな恐ろしさだった。 赤い光が、リュウの手のひらに収束していく―――― NEXT>>> |