手。びっしりと鱗が生えている。 鈍い鉄色の鍵爪は、今はあかあかと燃えていた。 それきりしか目に入らなかった。 あとは胸の中にそれが吸い込まれていって、そしてなんにも見えなくなった。 なんで暗いんだろうなあと、それがとても不思議だった。 不思議と今まで全身を苛んでいた寒さは消えていた。 なんにも感じなく、なった。 「ボッシュ!」 ぴたぴたと頬を叩かれて目を開けると、青い髪の色をした子供がいた。 首を傾げて、もう一度名前を呼んだ。 「ボッシュ! だいじょうぶ? 急に倒れちゃって、びっくりした。 どこかいたいの?」 「ルー?」 のろのろと起き上がってぐるうりと頭を巡らせると、かびかびした臭いがつんと鼻を突付いた。 辺りは薄暗くて、時折ちかちか光る電灯のほかはなんにも明るいものがない。いつも眩いくらいに光っている屋敷とは大違いだ。 とりあえず、見覚えのない場所だ。ボッシュ=1/64は立ちあがって、ともだちのルーに訊いた。 「ここどこ?」 「リフト。どうしたの、母ちゃんに会いに行くんでしょ?」 「あ、うん……」 そう言われてみれば、そんな気もする。 ふとボッシュは変だなと思って、首を傾げた。 ルーに名前は教えてない。人に名前を教えると、父さまに叱られるからだ。 なんでボッシュの名前を知ってたんだろう。 「ね、ルー? なんでぼくのおなまえ……」 「はやくいこ、ボッシュ。ディクくるよ、こわいよ」 「あ、う、うん!」 慌ててボッシュは、手を引いて駆け出したルーについて走り出した。 怖いディクには、見つかったらきっと頭から丸呑みにされて食べられてしまう。 「ルー、こわいよ……」 「だいじょうぶ、おれがいるよ。おれ、レンジャーになるんだもん。強いんだから」 「ほんとう?」 「ほんとう」 ルーはにこっと笑って、ぎゅうっとボッシュの手を握ってくれた。 「ずうっといっしょだよ。おれたち、ともだちだもん!」 「う、うん!」 ボッシュもルーにつられて笑った。 屋敷でこんなふうに笑ったりしたことは、母さまがいなくなってから一度もなかった。 いつも訓練で剣を持って振ってディクを殺すだけで、面白いことなんかなんにもなかった。 父さまは嫌いじゃないけど怖かった。 「ぼ、ぼくたち、ともだちだよね? ねっルー?」 「うん、そーだよー」 ルーはまた可愛い顔で笑ってくれた。 なんだか胸の奥のほうでぽっとあったかさが灯るような、そんな笑顔だった。 ちょっと照れ臭くて、ボッシュは下を向いて小さなコンクリートの欠片を蹴りながら、ルーの手をきゅっと握り返した。 「あ、あのね……母さまに、教えてあげるんだ。ぼく、ルーっていうおともだちができたよって。そんで、ルーをぼくの、おっ、お嫁さんにするって!」 「お嫁さん?」 「う、うん! ずっといっしょにいるんだ。ぼくルー、す、すきだから」 ボッシュが真っ赤になって言うと、ルーはまた嬉しそうにふにゃっと微笑んでくれた。 「おれもボッシュ、だいすき。ともだちで、およめさんだね!」 くすくす笑い合いながら、二人でリフトを駆けていく。 怖いものなんかもうなんにもなかった。 暗闇も、ディクも、その何もかもからボッシュはルーを守らなきゃならなかった。 そう決まっているのだ。 ルーの手を引いたまま、きっと一生、こうして一緒に歩いていくに違いないのだ―――― ルーがぴたっと立ち止まったので、ボッシュはちいさなその背中にぶつかってしまった。 「いたた……なに、ルー? びっくりしたよ。急に止まらないでよ……」 ルーの頭にごちんとぶつけた鼻を擦りながら顔を上げて、ボッシュは小さな悲鳴を上げて息を呑んだ。 人間の大人くらいの大きなディクがいる。 鱗に覆われた翼や腕や鋭い角、爪、背中では火がめらめらと燃えている。 幸いなことに、そいつはまだボッシュとルーに気付いていなかった。 何か食っている。ぴちゃぴちゃと、血を滴らせて肉を食む音がした。 ディク同士が喧嘩でもしたのかもしれない。 「ル、ルー……! いまのうちににげよう……!」 小声でルーを突っついて、ボッシュは恐る恐る、そおっとディクのいる暗がりを覗いた。 「あ……」 そして真っ青になって、がちがち震えた。足が竦んでしまった。 ぺたっと尻餅をついて、そのまま動けなくなってしまった。 そのディクが食っていたのは、人間だった。 ヒトを食っていたのだ。 まだ若いレンジャーの男の人だった。 破れた緑色のジャケットから、金色の頭と、骨が食み出した腕が覗いていた。 床に壊れたライトと、折れたレイピアが転がっていた。 「ひ、あ、うわ……」 そのままお尻をずって逃げようと思ったら、ふうっとディクがボッシュのほうを見た。 「わ」 あんまりにも怖い顔で、ボッシュは泣き出しそうになった。 銀色のディクだった。身体中赤い鱗で覆われていた。 背中の翼では、血の色をした炎がちろちろと踊っていた。 その顔の目があるはずの窪みには、なんにもなかった。 ただ真っ暗で、奥のほうでちかちかと赤い光が瞬いているだけだ。 「と、と、とうさまっ、とうさま、たすけて……」 ボッシュは父ヴェクサシオンを呼び、助けを求めた。 だが、今まで一度だって父さまがボッシュを救ってくれたことはなかった。 いつも腕を組んでボッシュを見ているだけで、こう一言言うだけだ。怖れるな、ボッシュ。これだけ。 ディクはゆっくりとボッシュのそばまで近付いてきて、驚いたことに人の言葉を喋った。 『誰かと思えば、哀れな我がリンク者か。理解出来ない、何故あの忌々しき仇敵を形作る?』 ディクはルーを見て、手を伸ばし、その小さな身体を簡単に持ち上げてしまった。 「ル、ルー! るう……っ!!」 ルーはボッシュとおんなじで、あまりの怖さで声も出ないようだった。 かたかた震えて、涙で目が潤んでいる。 「ル、ル、ルーをはなして! た、たべないで、やめて、ぼ、ぼくのともだちだも……」 動けないので腕を伸ばして、ボッシュは懇願した。 ディクはちょっとの間不思議そうな顔をしたように見えたが、すぐにルーの首を掴んで、宙ぶらりんにしてしまった。 ルーが苦しそうにもがいた。足がじたばたした。 「や、やめて!! ル、ルーにさわらないでっ!」 ボッシュの声などお構いなしに、ディクはルーのお腹に、さっきのヒトにしたみたいに鍵爪を突き立てた。 ルーは一瞬強くびくっと痙攣して、手足と頭から力が抜けて、だらんとなってしまった。 「ルー!!」 ボッシュは悲鳴みたいな声でルーを呼んだ。 ルーはもう返事もしてくれなくて、ぼろぼろの白い服に真っ赤な染みができて、ぼたぼたと地面に血が零れ、吸い込まれていった。 いつも訓練で殺したディクみたいになってしまった。 「やだあ! やだやだやだ、ルー、ルー……!!」 ボッシュは泣き喚きながらディクに突っかかっていって、ルーを取り返そうとした。 するとおかしなことにディクはぱっと手を離して、簡単にボッシュにルーを返してくれた。 どさっ、と落ちてきたルーの身体は、存外重かった。死体の、「もの」の重さだ。 「ル、ルー……」 ルーはボッシュの腕の中に帰ってきた時に一瞬痙攣したけれど、もう動かなかった。 目は開きっぱなしになっていて、焦点の合っていない空色の瞳がボッシュに向いていた。 『食いたければそうするがいい。汝の餌だ。我の預かり知るところではない……』 「え、えさ? ぼくの?」 ボッシュは震えながらディクを睨みつけて、怒鳴った。 「ぼくはルーを食べたいんじゃない! いっしょにあそびたいんだ、ずーっとルーといっしょにいるんだ! ぼくは、ルー、たべたりしない……」 ルーはもう笑ってくれない。ボッシュと繋いだ手ももう冷たくなりはじめていて、あの気持ち良いあったかさが失われていた。 ルーはどこにもいなくなってしまった。 あるのは身体だけだ。 ディクは笑ったみたいだった。ボッシュを馬鹿にした笑い方をした。 『だが、そいつは汝を食った』 「え?」 ぞっとして顔を上げると、そこにディクはいなくなっていた。 かわりにいたのは、 「……え? 父さま?」 ディクのかわりにそこにいたのは、父さまだった。 いつものように、怖い顔をしたままボッシュを見下ろしていた。 「何を恐れる、ボッシュよ」 「あ、と、父さま。ぼ、ぼくのともだちが……ルーが、死んじゃったんです……ど、どうしよ」 まだあったかいルーの身体を抱きすくめてぐずぐずと鼻を鳴らしていると、父さまはとても落胆したように、緩く頭を振った。 「何を悲しむ必要がある。おまえの敵が死んだのだ。誇れ。立て。泣くな」 「と……父さま、ルーはぼくの敵じゃないです! ともだちなんです、は、はじめて、ぼくの……」 「だがそれにとって、おまえは間違いなく敵だった、息子よ」 ボッシュはルーを見た。 青い綺麗な髪は、血で固まって真っ黒になっていた。 その顔からはもう血の気がなくなっていて、灰色をしていた。 ボッシュは項垂れた。 「父さま……ルーは、ぼくをうらぎったんでしょうか?」 父さまはいつだって正しい人だった。 間違うことなんてあるわけない。 とても悲しくて、胸が痛い。だけど、悲しいばかりじゃなかった。 ボッシュはひどい絶望と怒りを覚えていた。 「ルー、うそついてたんでしょうか? ぼくにわらってくれたのも、ともだちだって言ってくれたのも、手をつないでくれたのも、これからずーっとずーっと、大人になって、それからもずっといっしょにいようって、およめさんになってくれるって、うそだったんでしょうか?」 ぼろぼろと涙が溢れた。 悲しいからじゃない、ボッシュは悔しいから泣いている。 ルーなんて信じなきゃ良かったと思っている。 悔しいのは、騙されて、それでもまだルーのことが嫌いになれないせいだ。 「ぼくはどうすればいいんでしょう父さま」 父さまは一言だけ教えてくれた。 「倒せ」 段々父さまの姿は変わっていく。 またディクの姿へと変わっていく。 さっきとはちょっと違う。 真っ黒の翼を持った、恐ろしい姿をしている。 『我がリンク者よ、空の略奪者どもに1000年の絶望を与えよう。絶対なる判定の力を、おまえに与えよう。我らが、真に空を手にする時が来た』 ルーの目は、灰色に濁りはじめた。きっとすぐに死骸が腐食してしまう。 ボッシュはルーの身体を抱き上げ、その細い頬に、喉に、手のひらに口付けを落とすように食んだ。このままにはしておけなかった。誰かに取られるかもしれない。 ルーはボッシュの中で生きればいい。 そしたらもう裏切らせないし、ボッシュだけのともだちだ。 「今度こそ、ぼくのおよめさんにしてあげるからね、ルー」 柔らかい肉を破って、ルーを解体していく。 呑み込んでいく。 そうしてルーはボッシュのものになる。 略奪者、あの竜から、ルーと空を取り返しに行くのだ。 ボッシュは上を見上げた。 先に広がっているのは、暗いリフトの穴倉だった。 空は、遠かった。 |