――――がっ、あっ!」
 覚醒と同時にごぼっと生温かい塊が食道を逆流してきて、たまらずに口を開けてえづいてしまった。
 鮮やかな色の血がびしゃびしゃと零れて土に吸い込まれていく。
 胸には錆び付いたメスでじわじわと何度も刺されたような痛みが、依然こびり付いていた。
 もしかすると、とボッシュは考えた。胃が溶けたのかもしれない。
「はあっ、はあ、はっ……」
 息が上手く吸えない。激しく喘いで喉元を掻き毟り、地面に額を押し付けて、ようやく人心地がついた。
 忌々しく顔を上げて、鼻の先に転がっている丸い鈍色の塊を睨み付けた。
 こいつのせいだ。
「はあ、くそ、くそっ……食えるかもとか思ったのが、間違いだったか……」
 つるっとした表面に黒い斑点があり、びっしりと棘の生えた木の実を掴んで、握り潰した。
 黒くてべたべたする汁が零れ、地面に生えている草に触れると、じゅうっと音を立てて溶かした。
 食えないわけだ。
「くそっ、腹、減った……」
 ごろっと仰向けに寝転がると、背の高い木々の隙間から空が見えた。
 真っ青で果てのない空間である。伝説の空が、今ボッシュ=1/64の目の前にあった。








 それは、一ヶ月ほど前に遡る。








 交互に足が踏み出されているのがうっすら見えて、ああ俺は今歩いているんだと、ボッシュは気がついた。
 それまで何をしていたのか、さっぱり思い出せなかった。
 だから、ここがどこなのかも知れなかった。
 周囲には湿って何かが朽ちたような、覚えのない匂いが充満していた。
 湿気が多いことから、ボッシュはこの場所は中層区の水没商業区ではないかと見当をつけたが、どうやら外れているようだった。
 照明がないのに、明るい暗闇だ。あそこは年じゅう深い闇に覆われていて、今にも崩れそうな朽ちきったコンクリートが床と天井とを覆っているのだ。
 変だなと顔を上げて、ボッシュは言葉を失った。
 あるべきはずの天井がない。
 ずうっと上まで続いて、闇へと吸い込まれている。
 上には何の遮蔽物もなく、ちかちかと白い光点のようなものが無数に見えたが、それは層上部の灯りにしては距離が遠過ぎた。
(あー、死んだんだっけ、俺。あの野郎に殺されたんだったな。このボッシュ=1/64が、ローディごときに……)
 脳裏に相棒のサードレンジャーだったリュウの赤い目が浮かんだ。
 あの銀色の獣。「リュウ」は青い目をしていたように思うが、何故か思い出すのはあの血の色の瞳ばかりだった。
 最期の瞬間に見えたせいかもしれない。
 顔色ひとつ変えず、視線も揺らさず、揺るぎなく、リュウ=1/8192は圧倒的な力の差でもって、ボッシュを屠殺した。
(ローディだと思って手を掛けてやってりゃ、つけ上がりやがって。あの裏切り者め……)
 ここは死者の世界だろうか。リュウはいつこっちへ来るんだろうと、ボッシュはぼんやりと考えた。
(次に顔を見せたら、あいつ永遠にぶっ殺し続けてやる)
 暗い憎しみがボッシュの胸に灯った。
 その灯りのおかげで、今こうしてどことも知れない世界で歩き続けていられるのかもしれなかった。
 得体の知れない黒い柱のようなものが地面から無数に生えていて、まっすぐに上を向いていた。
 歩き続けると、ほどなくそれも途切れる時がきた。
 影から足を踏み出すと、ふいにボッシュの前に信じられない光景が広がった。
 びゅうびゅうと風鳴の音が耳のそばで唸っている。
 少し大気は肌寒いくらいだ。
 踏み締めた足の下は急な斜面になっていて、随分下へと続いている。
 頭の上には果てのない天井があった。
 その名をボッシュは知っていたが、上手く理解できず、信じられないでいた。
「空……? 馬鹿な!」
 暗い紺色をしていた。
 空は青いと昔読んだ本には書いてあったような気がするが、1000年前の伝説の世界のことだ。あまりあてにはならなかったようだ。
 遠く霞むまで世界は平らに、時折凹凸も混ぜて続いていた。
 そしてボッシュの眼下には、空の光の点をそのまま映し込んだような光景があった。
 それらは、忙しなく明滅を繰り返していた。
 ボッシュは気付いた。
 それらには、人の気配があった。街だ。
 目を凝らすと、蟻のように小さな人影が、無数に蠢いていた。
「なんだ、これは……」
 唖然としているボッシュの頭上から、突然声が聞こえてきた。







『あれは、地の底深くまで張巡らされた巣穴から這い出してきた人間どもの、新たなる巣だ』

 





――――?!」
 驚いて振り返ったボッシュの頭上に、巨大な生物が浮かび上がり、ゆっくりと滞空していた。
 影はなかった。
 そいつの身体は透き通っていて、かすかな光を透かし、そこにいたのだ。
「うあ……」
 反射的に後ずさって、崖から足を踏み外し掛けて、慌ててボッシュは体勢を立て直した。
 恐ろしい獣がいる。逃げなければ食われてしまう。
 獣は沈痛な沈黙のなか、僅かに苦笑したようだった。なりはなんにも変わっちゃいないし、別段笑ったかたちに顔が歪んだわけでもないが、ボッシュにはわかった。それには自嘲めいた感触が混ざっていた。
『我を畏れるか、リンク者よ。汝の影を。このアルター・エゴを』
「……ハア? 意味、わかんねえ……」
 口篭もって、ボッシュはふっと顔を曇らせた。思い当たるものがひとつきりあった。
「もしかしてオマエ、今まで俺の頭の中でわけわかんないことベラベラ喋ってた奴か?」
『我は、汝に力を与えた。我が宿敵と互角に戦えるだけの能力を』
 ここで、その巨大な生物は、ぼうっ、と口から炎を零した。
『だが汝は届かなかった。今や空は略奪された』
――――俺は! なんで負けたんだ!」
 ボッシュは知らず、叫んでいた。
 考え続けて、ついに答えの出なかったことだった。
 D値は絶対である。
 能力の最終到達地点であるとしても、同じ条件下で、1/64のボッシュが1/8192のリュウに負けるのはおかしい。
「あいつより俺のほうがずっと上だ……D値だって、1/100以下なんだあいつ、俺の! 家柄もない、家族もない、一生サード止まりの落ち零れレンジャー! なんでそんな奴に俺が負ける!」
『我は答える術を持たない』
「何故だ! オマエ、言ったじゃねえか! 憎めるかって、オマエが力を貸しさえすれば、あいつぶっ殺してやれるって! あの化け物からリュウを取り戻せるって言っただろ!? 全部嘘じゃねえか、なんで俺が負ける!」
『そう、それが理由だ』
「……は……」
 ボッシュは呆然と、光を透かした巨体を凝視した。
 静かに、厳かに、頭の中に直接語り掛けられる。
『汝は憎んでなどいない』
「……ハア? 俺は、憎んでるよ。あいつ裏切ったんだぜ、このボッシュを……いつもヘラヘラ笑ってたくせに、あいつ、俺をあっさり殺しやがったんだ」
『汝が憎んでいるのは、リンク者よ、我が兄弟だ。あの竜だ。汝が敵を憎んではおらぬ』
「俺の敵は……」
 ボッシュは、ぼそぼそと呟いた。リュウだ、と言おうとした。
 うっすらと透明だった黒い竜は、にわかに光の翼を広げ、青い燐光を放ちながら、ボッシュへ向かって滑空した。
 思わず身構えたボッシュに衝突し――――だがまったく衝撃はなかった。
 竜はボッシュの身体に溶けて、消えてしまった。
『我が名はチェトレ。古き竜、片割れを判定する者。リンク者ボッシュよ、汝が問いに答える術を、我は持たぬ。自らの目で見、聞き、知るがいい。汝が敵は、確かに空を手にした』
 ボッシュは、呆然と身体を見下ろした。
 時折奇妙な模様が浮かび、発光している。
 頭の中の声は沈黙してしまったが、その記録はボッシュに教えてくれた。
「俺の敵? あいつ、あそこにいるっての? 俺、死んだんじゃなかったのかよ」







――――汝は死んだ。だがプログラムはまだ稼動している。古き役割を果たすため、我が形作り、復元した。役目さえ終えれば、我らも停止する。








「それ、俺死ぬってことだろ? 役目ってなんだよ」







――――エラーの判定が、我が役目。必要があれば、実行中のプログラムを強制終了させる。






「……リュウを、殺す?」








――――それを判定する。









「殺しちゃうんだ」







――――必要があれば、そうするだろう。








 徐々ににやにやと笑いを顔中に広げて、ボッシュは笑った。
「いいね、気に入ったよチェトレ。俺、あいつを殺せるならもうなんでもいいよ」
『全てを知るがいい、真なる空の判定者よ。汝が判定するべきものを、その目で見るがいい』
「判定……」
 ボッシュは街を見下ろした。
 光は大分薄れて、やがてほとんど消えてしまった。街は、眠ってしまった。
「リュウ……」
 あの暗闇のどこかに、相棒が、仇敵が、あの裏切り者のやさしい友達がいるという。










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