街は半分寝こけているような感じだった。 飲食街の一角だけがネオンを撒き散らし、アルコールを取り扱うバーが店先に看板を並べている。 閉店した店のガラス戸に映った自分の姿に、ボッシュはしばし愕然とした。 薄汚れ、髪は乱れ、身体に引っ掛かっているだけといった風情のぼろぼろのジャケットは、おびただしい量の血でべったりと汚れていた。 目ばかりぎらぎら光っていて、まるで野良ディクのようだ。 歩いていく先の未来には、栄光しかあるはずもないと思っていられた昔の自分とは、決定的に何かが違っていた。 今やボッシュ=1/64は敗北者だった。負け犬だった。 「リュウは……」 ボッシュはうわ言のように呟いた。 「リュウは、どこにいる……」 声は、少しばかり震えていた。 ボッシュは怯えていたかもしれない。 敗北し、だが死にきれず、略奪された空の片隅であまりにも無様な姿を晒している。 家紋を背負う資格すら見出せなかった。 父はボッシュが剣の墓場に辿り付いた時には、すでに事切れていた。 剣聖に連なるもの――――いや、今や剣聖を継ぐものであるボッシュが、父を殺しボッシュの誇りを、空を奪った仇敵を今だ生かしていることが怖かった。 叱責する父はもはや亡く、常に「こうあるべきである」とボッシュを苛む自尊心も粉々に砕け散ってしまっていた。 だがそれでもリュウを殺さなければならなかった。 リュウを殺さなければ、おそらくボッシュの得体の知れない恐怖心は消えないだろう。 街の中心から懐かしい気配を感じる。 天高く、武骨な鉄柱が組まれただけの、そっけない建物が目の前に見えていた。 そこにリュウがいる。 何故だか知らないが、わかるのだ。 急に背中がじいんと疼いて、ずきずきとひどい痛みがボッシュを襲った。 「――――ッ!!」 がくっと膝をついて、ボッシュは歯を食い縛った。 身体が引き裂かれてばらばらになってしまいそうな激痛だった。 「……ぐっ……くそっ、な、なんだ……」 息も絶え絶えに壁に寄りかかると、頭の中でさっきの声が聞こえてきた。 『まだかたちが定着しておらぬ。共鳴には耐えぬ。無駄に動けばばらばらに崩れるぞ』 「はっ、早く……言いやがれ! くそっ、こんなんじゃ、あいつとまともに殺り合えやしねーじゃねえか……!」 『息を潜めよ、弱きヒトよ。今汝の存在が敵に知れれば、次こそ我らは停止するだろう』 「じゃあ、こんな街なんかに来ることなかったんじゃねえか」 『汝が知るべきことが、ここにはある』 「ハア?」 『来る』 チェトレの声が響き、すぐにふっとその竜の気配がなくなってしまった。 訝しんでいると、建物の中からふたつの人影が現れた。 ボッシュは反射的に、少し離れた広場のモニュメントの影に身を潜めた。 どうやら一組の男女のようだった。 両方、見知った顔だった。 ボッシュは息を呑んで、二人の人間を凝視した――――それはボッシュの相棒だったリュウと、あの積み荷の女だった。 仲良く手を繋いで歩いてくる。 その姿は、ボッシュには仲睦まじい恋人同士のように見えた。 ◇◆◇◆◇ 「だいじょうぶ、ニーナ? まだ苦しい?」 「んん……へい、き。 すこし、らくになった。りゅ、いるから……」 「うん、大丈夫だよ、すぐに治るからね」 「ごめ、ね? わたし、りゅ、おこして」 「何言ってるんだよ。ニーナはもっとわがまま言ってくれていいんだから」 何やら話しながら、リュウはニーナの背中をさすった。 「もうどのくらいになるっけ……ごめんね、おれこーいうの、全然わかってなくて……もっと勉強しなきゃ、オリジンなのに」 「りゅ、いいの。いそがし……」 「そんなのぜんぜん、どってことない。ニーナの身体のほうが、ずうっと大事なんだからね」 ボッシュは混乱していた。 何の話をしているのだろうか。 オリジン――――まさか世界最高統治者の座に、あの落ち零れの万年サードレンジャーのリュウが就いたとでもいうのだろうか。 面白い冗談だ。全く笑えない。 ふうっとすぐに傍を通り過ぎるリュウの横顔が、一瞬目に映った。 最初は、別人だと思った。 なにせ、髪が短い。 顔はボッシュの記憶の中にいる、いつも情けない顔をしていたリュウと比べて、随分精悍になっている。 背も伸びていた。 深い紺色のロングコートを羽織っていて、オリジンの御印が目に入った。 リュウは穏やかに、少し心配そうにニーナの頬を撫でて、大丈夫、と訊いた。 ニーナは笑って頷く。そこには誰の入り込む余地もなかった。 「わたし……このこ、だいじにする。だいじな……」 口の中がからからに乾いていた。 つまるところ、こういうことらしい――――ボッシュは聞こえてくる微かな声を拾って、組み立てた。 リュウはボッシュを殺して空に出て、世界最高統治者の地位を手に入れ、命懸けで守り抜いた女と結婚、子供がデキちゃったのだそうだ。 きっと人生で一番幸せな時期にいるのだろう。 それに比べて―――― ボッシュは無言で、その場を後にした。 これ以上聞いていても腹が立つだけだ。 ◇◆◇◆◇ がさっ、と植え込みが揺れて、リュウはふと顔を上げた。 「あれ……ナゲットでもいたかなあ?」 「りゅ?」 「ああ、うん……ね、ニーナ。羽根、辛いならほんとにもう、取っちゃってもいいんだよ」 何度目かになる言葉を、リュウは口にした。 ニーナは依然植え付けられた赤い羽根を切除しようとはしない。 人工肺を移植する大掛かりな手術が必要らしいが、ここのセンターには世界最高水準のスタッフが揃っている。 汚れた地下の空気に汚染された羽根は、空の大気に浄化されていた。もう肺パーツの「交換」も可能なんだという――――センター付きのドクターからその言葉を聞いた時には、思わずぶん殴ってしまったのだが――――きっと無事に元の身体に戻れるだろう。 だけどニーナはかたくなに翼にこだわって、手術を拒むのだ。 「わたし、このこ、すき。りゅ、おそろい。あかいはね」 「う、うーん、そう……だねえ」 言われてみれば確かに竜の翼も赤いが、リュウはなんだか困ってしまって、へにゃ、と力なく微笑んだ。 「りゅ、はね、きらい?」 「き、嫌いじゃないよ! 嫌いなわけないだろ」 「じゃ、いい。わがまま?」 「わ、わがままっていうか……」 リュウはぐっと詰まってしまった。それから苦笑して、ニーナの頭を撫でた。 「ニーナの好きにしたらいいよ。でも、薬合わないのかなあ……もう大分なるのに、あんまり慣れないな。まだ気持ち悪い?」 「へいき……」 ニーナに与えられた薬は、人工肺への身体の拒絶反応を抑制する薬である。 空に出て、汚れた肺の翼はもとの淡い真っ白な輝きを取り戻すほどに浄化されたが、まだ彼女は本当の自由を知らない。 「わたし、ぜんぜん、だいじょぶ……リュウは? だいじょうぶ?」 「おれ? おれは全然平気さ。丈夫なだけが取り柄だからね」 リュウはニーナににっこり笑ってみせた。 同じだった。 リュウもまた、本当の自由は知らない。 ◇◆◇◆◇ 『惨めだな、我がリンク者よ』 「うるせーな。ていうか俺、バカみたいじゃんか。格下の相棒にぶっ殺されて、もう何にも残ってやしない。リュウはオシアワセなんだろ? 俺は……」 ボッシュは何を言うべきか迷った。 ひどく動揺していた。胸がざわざわする。 あのリュウが、いつだってボッシュの後ろをついて回っていたリュウが、いつのまにか本当に遠いところへ行ってしまった。 『憎めるか』 「…………」 『汝が座るべき椅子に座り、汝を出し抜いたあの男を憎めるか』 「うるせえな」 『汝を忘れたあの男を憎めるか』 「……あいつ、ホントに忘れてんの、もう? 終わってるね、殺し合いまでした相棒だぜ。忘れっぽすぎんだよ、やっぱさあ、ローディだからさあ、頭の容量とかさ、ぜんぜん、足りてねえんだ……」 喉から絞ったように出る声が、湿っていることに、ボッシュは苛々した。 わざとなんでもないふうに両手を広げて、やれやれと息を吐いた。 「ちょっとは悲しんだり、しろよな。あのバカ野郎……」 チェトレは何も言わなかった。 |
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