おれの名前はリュウ。
 ほんとは他にちゃんとした名前があるんだけど、長くて覚えにくいから、みんなリュウって呼ぶ。
 おれが住んでるのは、すごく大きな空洞の中だった。
 なんにもない、いつかもっとちゃんとした綺麗なところへ行くんだってみんなは言うけど、おれはこの穴ぐらが好きだった。
 静かだし、なによりおれは知らないヒトと話すのが苦手だった。ここにいるのはおれと、おれのじいちゃんと、「みんな」だけだ。


 


 おれは大分小さいころ、坑道でじいちゃんに拾われた。らしい。
 小さい頃の記憶はある一点で途切れていて、その前のことはなんにも覚えちゃあいなかった。
 目が覚めて、起きあがる。そこには暗い空洞と、アルコールの匂いと、小さな水晶灯の明かりがあった。それだけだった。
 それがおれの「はじまり」だった。
 まだねボケてるおれの前に、しわくちゃの顔をして、尻尾の生えたおじいさん――――今の、おれのじいちゃんだ――――が現れた。
 じいちゃんが言うには、おれはその時、急にこの穴倉にふわっと現れたのだそうだ。
 その時のおれは何にも覚えちゃいない、言葉も話せない、どうしようもない状態で、D値で身元を判別しようにも全身すごい大火傷で、ヒトがD値を刻印されるきまりになっている箇所、首筋も二の腕も見れたもんじゃなかったっていう。
 D値ってのは、世界で一番重要な「きまり」のようなもので、それがないとまともな人間としては扱ってもらえないのだそうだ。
 でも、「D値なんか大したものじゃあない」というのが、おれのじいちゃんの口癖だった。
 じいちゃんは、「ローディ」って言うんだそうだ。あったってなくたって、偉いヒトにひどいことされるのは変わらないし、じいちゃんの趣味ってものは、そんなD値なんかまるで関係がなかったのだ。
 じいちゃんは絵を描くのが好きだった。
 アルコールの匂いがするペンキを、岩穴の壁っていう壁に塗りたくっていく。
 おれには何をやってるのかさっぱりわからなかったけど、じいちゃんはそうやってる時はそれは楽しそうだったので、おれはじいちゃんが絵を描くところを見ているのが好きだった。
 たまにじいちゃんは、おれに絵描きの手伝いをさせた。
 ペンキを混ぜたり、色の材料になる石を拾って来させたり、色々だ。
 気が乗ると、じいちゃんはおれに色バケツとはけを持たせて、やってみろ、と言った。
 おれはその作業が好きだった。
 いつもじいちゃんの背中をじいっと見ながら、バトンが回ってくるのを待っていた。
 暗い空洞の中では色なんてものは何でも濁った灰色にしか見えなかったけど、何か、誰かと一緒に作業をするってことが、おれは好きだったのかもしれない。




 今日も「みんな」と一緒に、岩壁にペンキを塗りたくるじいちゃんの背中を見ていた。
 じいちゃんはおれの方をちょっと見て、そういえば初めのほうはほんとにびっくりした、と言った。
「なにが?」
「おまえの友達のことだ、リュウ。わしも長い間生きてきたが、こんなふうなことは今まで無かったな」
 それからじいちゃんはお客がいっぱいで照れるなあって言いながら、大きな口を開けて笑った。
 おれも笑った。
 おれの友達のみんなも、楽しそうに、できかけのじいちゃんの絵を見ている。
 おれを背中に乗っけてるブィークのトトは興奮したみたいに頭の角で何度も宙を突き(そのせいでおれは地面に転げ落ちる羽目になった)、ワーカーアントのシュマロは触角をぱちぱちと鳴らしていた。拍手をしてるんだ。
 おれはトトの背中によじ登りながら、いつもの質問をじいちゃんに投げ掛けた。
「ね、じいちゃん。絵って、なに描いてるの?」
「わしがくたばる前には教えてやるよ、リュウ。この絵を描き終わったらな、ここの地面に沢山ヒカリゴケを植えるんだ。燐虫も放してやろう。綺麗に光って、天井まで良く見えるようになるよ」
 良くわからない言葉があったので、おれはじいちゃんに訊き返した。
「「くたばる」ってなに? それ、おいしいの?」
「……さあな。美味くはないじゃろうな。死んじまうってことだ、わかるか?」
「……「死ぬ」ってなに? おいしいの?」
「わしにはもう何も感じるところはないが、悲しくて怖いものじゃよ」
「……「悲しい」ってなに? トト、知ってる?」
 おれはじいちゃんの言ってることが難しくてよく解らなかったので、トトに訊いた。
 トトもよく解らないらしい。鼻っ面を地面に擦り付けて、力なくため息をついた。
 じいちゃんは、ちょっと途方に暮れたみたいな変な顔をしておれの方を見た。
「リュウや、おまえは知らんで良いんかもしれんな。だあれも、ヒトの言葉をおまえにすっぽり当て嵌めちまうことはきっとできんじゃろう。友達は好きか」
「うん」
 おれはためらわずに頷いた。
「大好き」
「そうか。いつも言っておるがの、ヒトを見付けても近付いていっちゃいかんぞ。怖いからの」
「怖いってなに?」
「取って食われちまうんだよ」
 じいちゃんとおれは、それからまたいくつかとりとめのない話をした。
 静かな空洞があった。
 おれはそうやって過ごす時間が大好きだった。

 


 じいちゃんが住んでるぼろ穴のカレンダーが何度か貼りかえられた冬に、じいちゃんが動かなくなってしまった。
 まず呼んでも起きない。
 くすぐっても反応なし。息もしてなくて、水の中に沈んだ岩みたいにかちこちに固くなってしまった。
 何かの新しい遊びなのかなと思って、おれはじいちゃんの隣でごろんと寝転がって真似をしてみたけど、あんまりじいちゃんがなんにも反応をしてくれないので、やがて飽きてしまった。
「じいちゃん、今日は絵、描かないの? 疲れたの?」
 じいちゃんはなんにも答えてくれない。
 よっぽど疲れてたんだろうか、じゃあ無理に起こしちゃあ可哀想だ。
 じいちゃんはいつも早起きする性質だったけど、たまには大目に見てあげたって良いだろう、うん。
 おれはじいちゃんを寝かせてあげたままで、友達のみんなと遊ぶことにした。
 ぼろ穴を出しなに、おれはじいちゃんに振り返って、みんなと遊んでくるね、と言った。
 でもじいちゃんはなんにも言わなかった。
 その日から何日経っても口を訊いてくれることはなかった。




「ねえトト、じいちゃんまだ寝たまんまなんだ。何かの病気なのかな」
 トトはまたいつものようにおれを背中に乗せてくれて、坑道のなかをぐるぐると巡ってくれていた。
 探検ごっこだ。
 ヒトが来ると怖いので――――何せ食べられちゃうらしい――――あんまり穴ぐらからは離れない。じいちゃんとの約束だ。
「じいちゃん、もしかしておれのこと怒ってるんじゃないかな……おれ、悪いことして嫌われちゃったのかもしれない。悪い子だって」
 トトが違うよと言って、おれを慰めてくれた。
 トトは身体が大きくてごっついわりにとても優しい性質をしている。
 転んで膝を擦り剥いたり、岩穴の窪みに落ちちゃったりした時に、いつも一番におれのことを心配してくれるのもトトだ。
「……うー、ありがと。ね、トト、今日はもう帰ろうか……帰ったら今日はじいちゃん起きてるかもしれない。絵、まだ途中だって言ってたもん」
 トトは頷いて、くるっと向きを変えて、もと来た道を引き返した。







◇◆◇◆◇






 おれたちが帰ると、空洞には変なお客が来ていた。
 見たことない顔のワーカーアントだ。おれとおんなじくらいの身体の大きさで、ちょこちょこ走りまわっていた。
「こんにちは。きみだれ? どこの子?」
 おれが話し掛けると、その子はすごくびっくりしたみたいに飛びあがって、ぴゅうっと走ってどこかへ行ってしまった。
 恥ずかしがりの子なんだろうか?
「逃げちゃった……」
 顔を合わせただけで逃げられたことなんて初めてだ。
 ちょっとショックだ。
 トトと顔を見合わせて、変だねって言うと、トトは生意気なアリだって怒ってた。
 



 結局、その変なワーカーアントとは、もう一度遭うことになった。
 次の日に、奇妙なお客をたくさん連れてきたんだ。
 それはおれやじいちゃんに良く似たかたちをしていて、変な白い服を着て、顔をすっぽり覆うマスクを付けていた。



 ヒトだった。






 <<  >>