メベトは広場にいた。
 広場を円形にぐるっと囲んでいる、煉瓦造りの壁にくっついた水道で、熱心に手を洗っていた。
 霧はさっきよりは大分ましになってきていたけど、それでもなんとか立ったまま自分の靴が見えるようになったってくらいだ。そんなに見通しは良くない。
 メベトは僕に気付くと一瞬嫌そうな顔をして、また丹念に手を洗う作業に戻ってしまった。
 いくらなんでもこれはあんまりだと思う。僕はちょっと怒っていた。
 僕が怒るなんてことは、ほんとに滅多にないことなのだ。
 だからきっとこれはメベトが悪い。僕と間違えて誰かほかの子を連れてっちゃったことが。
「メベト、ちょっといい? ひどいよ」
 僕が声を掛けると、メベトはげんなりしたふうに――うっかりアブラクイなんかに遭遇しちゃった母さんの顔に良く似てる――頭を振って、ようやく水を止めて立ち上がった。
「どこに行ってたんだよ! もうオマエ信じらんない。こっちはオマエのせいで、すっごい気持ち悪かったんだからな!」
 逆に怒られてしまった。
 わけがわからなくてあっけにとられている僕の頭を、メベトがいつもみたいに小突いた。
 そしてきんきん喚いた。
「白くて冷たくてふにょふにょしてるから、絶対オマエだと思ったのに! 霧が減って気付いたら、ク、クリープストーカの口のとこ、ぎゅってつ、掴んでたんだ!」
 それでメベトはさっきからずうっと手を洗ってたんだ。
 クリープストーカは透き通ってて綺麗だけど、全身がかなりネバネバしてるので、くっついたらなかなか取れない。
 そのせいで、もっぱらいつもメベトの特製びっくり箱の材料になってる。
 ひどい目に遭うのはいつも僕だ。渡されたびっくり箱が大爆発して、べたべたのドロドロになっちゃう。
 メベトがすごくニコニコしながら僕に何かくれる時は要注意だってそろそろ分かってるんだけど、開けないと、僕が開けるまでじいっと見張ってるメベトがひどい癇癪を起こすのだ。
 メベトは通ってる幼年学校ですごく気に入らない大人がいるんだって言ってた。僕で実験してるのだ。これもひどい話だ。
「オマエがフラフラしてて頼りないからだぞ! も、オマエとは手、繋がない。迷子になっても迎えに行ってやんない!」
「ぼ、僕、悪くない! ひどいのはメベトだ。僕の手とぐちょぐちょのクリープストーカを間違うなんて、絶対ひどすぎる」
 僕はちょっと涙ぐんでいたかもしれない。
 珍しく怒り出した僕に、メベトはちょっと意外そうな顔をしたけど、どうやら僕の反撃は逆にメベトに意地を張らせてしまったようだった。
 メベトはぷいっとそっぽを向いてしまった。
「オマエが謝れよ」
 そしてぼそっと言った。
 これにはさすがに、僕もカチンときた。
 メベトは僕にひどすぎる。
 僕らは家族だって父さんが言ってた。
 でもメベトは僕に全然優しくない。
 すぐ殴るし、蹴るし、意地悪言うし、おやつだって僕の分まで食べちゃう。
 たまに僕が迷子になっちゃって迎えに来てくれた時は、いいやつなのかもしれないって思うけど、それを差し引いたってあんまりすぎる。
 いや、迎えに来たのだって、きっと父さんと母さんに言われて、仕方なくやってるんだ。
 きっとそうだ。メベトがそんな僕のために骨を折るわけがない。めんどくさがりなんだから。
「ぜ、絶対いやだ。メベトはいつもそうだ。僕のことなんか、ほんとはすごく嫌いなんだ。どうだっていいんだ。か、家族なんか、ほんとは思ってやしないんだ」
 僕も意地になってしまって、メべトに突っ掛かっていった。
 なんだか頭の中が、かあっと熱くなってきた。こんなのは初めてだ。
 僕は誰かと上手く喋ることさえ少なかったから、こんなふうに怒ることも今までになかった。これはメベトのせいだ。
 メベトは、僕をいつものように馬鹿にしたみたいにせせら笑って、すごく意地悪な調子で言った。
「……あたりまえだろ。だってオマエ、俺のほんとの家族じゃあないもん。
オマエが来る前、父さんが言ってたもん。身よりのない可哀想な子がうちに来るから、仲良くしてあげなさいって!」
 僕は一瞬何を言われたのか分からなくて、ぽかんと呆けてしまった。
 でもやがてどんどん気持ちが悪くなってきた。
 周りの空気と、僕がどんどんずれてくような違和感があった。
 ほどなく理解が追い付くと、ちょっと遅れて、頭を後ろから砂を一杯に詰めた袋でがあんと殴られたような痛みと衝撃がやってきた。
 目の前がぶれて、ぐらぐらして、何にも見えなくなって、変だなあと思ったら、なんだか変な顔をしたメベトが、僕の視界に現れた。
「え、あ、ええと……」
 メベトはすごく居心地悪そうな顔になって、誰かに助けを求めるみたいにして、目線をあっちこっちにふらふらとさせた。
 なんでそんな変な顔してるのかなと思ったら、どうやら僕のせいだった。
 僕は泣いていた。やっと気付いた頃には、もう涙を止めることができなくなっていた。
 僕は泣きそうになることはこれまで何度かあったけど、いつだって我慢することができた。涙を引っ込めてなんでもない顔をすることが。
 僕は自分が泣いてるってことに自分で驚いてしまったけど、それも少しの間だった。
 そんな違和感よりも、ずうっと悲しくて悔しい気分が、僕に訪れた。
「こら、何をやってるんだ!」
 先に拝謁に行ってた父さんが帰ってきて、喧嘩してる僕らに気付くと、慌てて駆け寄ってきた。
 メベトはまずいって顔になって、僕に向かって思いっきり舌を出した。
「バカエリュオン、オマエなんか大っ嫌いだ! 出てっちゃえ!」
「メベト!」
 父さんに咎めるように呼ばれても、メベトは答えずに、くるっと背中を向けて走って行ってしまった。
 メベトの背中は霧に紛れて、すぐに見えなくなった。
 後には泣いてる僕と、途方に暮れた顔をした父さんが残った。
 
 


◆◇◆◇◆




 何にも言わないままでいると、父さんはしょうがないなって顔をして、僕の頭をぽんぽんと叩いた。
「メべトに意地悪言われたのか?」
 僕は頭を振った。
 意地悪はされたけど、誰かに言い付け口をすることが、僕はあまり好きではなかった。
 だから何でもないと言おうとしたけど、上手く言葉が出てこなかったので、もう一度頭を振った。
 父さんは僕をあやして、抱っこしてくれた。
 それから「メベトもきっと悪気があって言ったわけじゃあないんだ」と言った。
「わかるね?」
 僕は頷いた。
「後でちゃんと仲直りするんだぞ。いいね」
 僕が俯いたままいると、父さんが言った。
「メベトは本当にエリュオンのことが大好きなんだよ。家族なんだ」
 僕はそのまま俯いていた。
 父さんはしょうがないなって顔をしていたけど、やがて遠くから鐘の音が聞こえ始めると、目を閉じなさい、と言った。
「祈ろう」




◆◇◆◇◆




 まだ僕とおんなじくらいの子供が、広場の真ん中にせり出した円形の高台の上で、すごく難しいことを喋っている。
 さっき中庭で出会った、ケルベロスの「ボッシュ」の友達の子だ。
「次期当主として、我らの1000年の仇敵を屠り、その命と代えて責務を全うした、偉大なる血脈に連なることを誇りに思う」とか……黒っぽい色のすごく大きな壁に向かって、何か言ってる。なんだか僕の知らない言葉ばっかりで、意味はわからない。
 父さんが言うには、あの壁はモノリスって言って、死んだ人を箱の中に詰めたあとで大事に仕舞っておくための引き出しのようなものらしい。僕とメベトの玩具の箱みたいなものなのかもしれない。
 僕は正直に言ってしまうと、この変な儀式が始まってしまってから、随分ときまりが悪くなってしまっていた。
 もう動かなくなってしまった人の身体に何かするのって、あんまり良くないことだ。それは知ってる。
 でもみんなは当たり前みたいな顔をして、目を閉じて胸の前で手を組んでいる。
 父さんもやってた。母さんもやってる。メベトは母さんのスカートにくっついて下を向いてる。
 あれはきっと泣いてる……ううん、いや、まだだ。あともうちょっと、ひと押しってところだ。
 メベトが顔を上げた。
 僕は慌ててぷいっと顔を背けた。
 メベトも同じふうにしたんだろう、僕が恐る恐る顔を上げると、完全にそっぽを向いてしまっていた。
 こんなの、仲直りなんてどうしたらいいだろう。
 メベトはどうやら完全に怒っちゃってるみたいで、僕の方を見てもくれない。
 僕はまたちょっと泣けてきた。
 父さんの肩にくっついて、泣き声を殺して俯いていると、広場の壇上にいるさっきの子が、ふっと僕を見た。
 なんだか不思議そうな顔をしていた。
 霧は薄くなってきていたので、ようやく僕はその子の顔を見ることができた。
 変なふうにまっすぐに切り揃えられた金髪で、黒いだぼっとした服を着てる。
 足元には、さっきのケルベロスのボッシュがいた。大人しく座ってる。
 僕の方を見て何か言いたそうな顔をしたので、僕は泣くのを我慢して、手を振ってあげた。
 その子は、訳がわからないという顔をして、首を傾げた。
 そこで父さんから「こら」と小突かれたので、僕は手を引っ込めた。
 メベトを見ると、いつのまにか僕の方をじいっと睨んでた。
 でも僕が振り向いたのを見て、またぷいっと向こうを向いてしまった。
 



◆◇◆◇◆




 死体の入った箱がモノリスに仕舞われてく。
 なんだかすごく変な光景だった。ぴったりと一分の隙間もなく沈められてく。
 父さんは人が死んだ時に他人がどうしてくれるのかってのを知りなさいと言ってたけど、正直僕はこんな儀式はごめんだった。
 死んでしまってから、あんな狭苦しい穴に収められてしまうのは、なんだかとても居心地の悪いもののように思えた。
 みんなはこんなの当たり前のことだと思ってるんだろうか。
「苦しそうだなあ……息ができなさそうだ」
 誰も聞いてないから、僕は独り言を言った。
 父さんも母さんもメベトもみんな、モノリスへ行ってしまった。
 あまり面白そうでもなかったし、メベトは口もきいてくれない。
 メベトと話さないと、僕は独り言を言うしかなくなってしまう。
 なんだか退屈になってきて、僕は溜息を吐いた。
 することもないから、一人でふらふらと屋敷の庭を探検することにした。
 いつもならメベトに引っ張り回されてしまうけど、今はそんなことはない。僕の好きなところへ行ける。
 それはすごく気分が良いことのように思えた。
 でも、なんでか僕は、胸のあたりがずしっと重くなって苦しかった。
 僕は何にも悪いことはしてないし、意地悪も言ってない。
 僕はメベトの家来じゃあないから、口答えをしちゃ駄目だってこともないはずだ。
 僕は悪くない。
 悪くないけど、こうやってメベトと口も訊けなくなるのは、なんだか嫌だ。一人で好きなところへ行けるのに、全然楽しくない。
 中庭に入ると、さっきとは随分様相が違って見えた。
 霧が薄まって、少し高くなった斜面の花壇に、綺麗な花がいっぱい咲いている。
「わあ……」
 ぽかんと口を開けて見惚れていると、花壇の隅っこのほうに、さっき会ったケルベロスのボッシュがいた。
 何にも言わずにじいっと僕の方を見てた。
 留守番してるのだろうか?
 それとも、僕とおんなじで、モノリスを見てても面白くないのかもしれない。
「きみ、ボッシュって名前なんだってね。僕エリュオン。さっきの子はどうしたの?」
 話し掛けても、ボッシュはなんにも答えちゃくれなかった。
 無口な子なのかもしれない。
 普通は、挨拶くらいは返してくれるんだけど……種類の問題なのかもしれない。
 ナゲットはお喋りだし、グミは甘えん坊だ。
 邪公は、難しいことばかり言うので、よく分からない。顔、怖いし。
 僕は懲りずに話を続けた。
「お葬式って、思ってたのと随分違うな。僕、あんまり好きじゃない……だってここに来なきゃ、メベトとひどい喧嘩することもなかったんだもの。メベト、僕のこと嫌いになっちゃったんだって」
 知らないうちに、またぼろっと涙が零れてしまった。
「ぼ、僕だって、メベトなんか嫌いだ。意地悪だしすぐ叩くし……僕のこと嫌いだって言うし……」
 僕がぶつぶつ言ってると、ボッシュは首をぐるっと巡らして、顔を上げた。
 返事してくれたのかなと思ったけど、違ったみたいだ。ボッシュが見てる先に、さっきの金髪の子がいた。
「……おまえ、こんなところで何をしてるの。あんまりボッシュに近寄らないで」
「あ、う、うん。ごめん……」
 僕は頷いて、立ち上がり、お尻の土を払った。
「その子と、お話しようと思ったんだ。でもなんにも言ってくれなかったけど……」
「……おまえ、ボッシュをディクだって言わないの?」
「ディク? どうして?」
 僕は首を傾げた。
 金髪の男の子は、僕があまり頭が良く無い性質をしていると悟ったようで、「わかってるよね、ナゲットとかグミのことだよ」と言った。
「ナゲットはね、いつもすごく面白いことを言うんだ。グミはもっとぎゅーってしてって言う」と僕は答えた。
「おまえ、ディクの言葉がわかるの?」
 金髪の男の子が、驚いたように目を見開いた。
 僕は、まずいかもしれないと思い当たった――メベトがいつか言ってたのだ。
 ディクとお話ができるなんて、みんなに気持ち悪がられるから、絶対外で言っちゃ駄目なんだって。
 僕は なんとか誤魔化そうと思ったけど、その子はなんだかすごく興味をそそられた顔で、じゃあ邪公は、と言った。
「あいつらはどんな話をしてるんだ?」
「邪公はね、なんだかれんじゃーみたいな……めいれいしたり、したっぱの子がね、言うの。サー・イエッ・サー!」
「ほ、ほんとに? じゃあ……」
 男の子は目をきらきらさせていた。僕を気味悪がってる様子はなかった。
 メベトの言ってることは嘘だったみたいだ。あれは僕への意地悪だったんだろうか?
 そうやって話を続けるうちに、僕らはなんだか楽しくなってきてしまった。
 お葬式に来てるなんて嘘みたいになってきた。
 僕が昔から好きだった石ころ蹴りゲームをやりながら、そう言えば僕はその子の名前も知らなかったことに思い当たった。
「ね、きみ、何て言うの? トーシュ? さっき言ってた変な名前?」
「ちがうよ。当主っていうのは、ここで一番偉い人がなる仕事だよ。ぼくヴェクサシオン、ここで一番偉いんだ。7日前まではぼくの父さまが一番偉かったんだけど、死んじゃったから、ぼくが一番偉くなったの」
「ふーん。あ、ね、メベトと父さんが言ってた。うちに来るの?」
「……? なんで? ぼくのおうちはここだよ。他のどこへも行かないよ」
「そ、そうなんだあ……」
 僕はちょっとがっかりした。
 しょんぼりしていると、男の子がちょっと慌てたみたいに、僕に訊いてきた。
「ね、また会えるよね? 遊びにおいでよ。今度はばあやの作ったお菓子を食べさしたげる。すごく美味しいんだ。それでまたここで石ころ蹴ろうよ」
「うん。ボッシュもまた会える?」
「会えるよ。この子、ずっとぼくと一緒にいるもん」
 ゲームを中断して話し込んでいると、遠くからまた鐘の音が聞こえてきた。
 モノリスはもうぱっくり開いていた口を閉じて、一枚の岩の壁みたいになっていた。
「……父さま、死んじゃったんだ」
 うん、と僕は頷いた。
 でも男の子の声は、あんまり悲しいってふうでもなかった。
 さっきはすごく難しい言葉を喋って大人みたいだなあと思ってたけど、遊んでるとそうでもなかった。
 僕とおんなじで、普通の子供みたいだった。
「エリュオン、父さま優しそうでいいなあ……ぼくもあんな父さまがよかった」
「うん、やさしい……けど、ほんとの僕の父さんじゃないよ」
 男の子は「変なの」と首を傾げて、どういうことと言った。
 僕がどう言えば良いのかわからずに口篭もってると、遠くから聴き慣れた足音が聞こえてきた。
 背中に、冷たい汗がじわっと沸いてきた。メベトが来る。また意地悪されるんだろうか?
 びくびくしてるうちに足音はどんどん近くなってきて、そして、
「バカ!」
 怒った声といっしょくたに拳骨が降ってきた。
 ごつん、と大きな音がして、目の前にちかちかした光が飛んだ。
「オマエ、まあた一人で勝手なことしやがって、しかも父さんに言いつけたろ。すごく怒られたじゃねえか! もう全部オマエのせいだ!」
 僕は誤解だと言おうとした。僕はなんにも言い付けてなんかない。
 でもメベトは全然聞いてない。
 どうしようかなあと思ってると、男の子が、僕とメベトの間に止めに入ってくれた。
「やめろ、何をしてるんだ」
「うるせえな、オマエに関係ないだろ。すっこんでろよ!」
「ぼくは当主だぞ! ここで一番偉いんだ、無礼な口を訊くと許さないぞ!」
 何だかほんとの喧嘩みたいになってきた。
 僕は焦って、やめなよ、と言った。
「け、喧嘩しないでよ。メベト、やめて。意地悪しないで」
「オマエ、そいつの味方すんの?」
 メベトはあからさまな不機嫌顔だ。僕が思い通りにいかないことが気に入らなくって仕方ないって顔をしてる。
「じゃあオマエ、そいつんとこに貰ってもらえば!? オマエなんか家族じゃないから!
そこの黒いディクみたいに飼ってもらえばいいじゃん!」
「ボッシュはディクじゃない!!」
「け、喧嘩しないでよ……」
 メベトとヴェクサシオンは、すごく険悪な顔で睨み合っている。
 半分……いや、三分の一くらいは原因は僕にあると思うので、なんとかしなきゃならない。
 空気がぴりぴりしてきた。僕のすごく苦手な雰囲気だ。
 僕は、何とか止めに入ろうとした。
 けど、何かが変だった。
 すごく敵意のある「ぴりぴり」が、空気の中に混ぜ込んであった。
 背中がざわざわする種類の悪寒だ。
(あれ……? なにこれ)
 僕の中で、誰かが、変だ変だと喚き立てていた。
 メベトとヴェクサシオンが喧嘩してる。
 でもそれだけじゃあない。
 僕らみたいな子供の喧嘩とは全然違う種類の悪意が、僕に少しずつ少しずつ侵食してきた。
 まるでじわじわと岩から染み出してくる地下水のように。
 霧は晴れ始めている。
 でもさっきまでびゅうびゅうごうごうすごい音をさせていた地下の通風孔からは、何の音もしなくなっていた。風の音が消え失せていた。
 異様に静かだった。
 ただ遠くで鐘が鳴る音だけが、ずしっと僕のお腹の中にまで響いた。
 メベトとヴェクサシオンはまだ喧嘩してる。
 僕は、無意識に、二人の手を取った。
 今起こりつつある異変について伝えようとした。
 でも僕はあまり頭が良くなかったので、この異様な不快感を彼らに伝える方法がなかった。
 うまく言葉を見付けることができなかった。
 二人に引っ込んでいろと怒られたけど、僕はどうしても伝えなければならなかった。
 ずうっと下の方から、僕らのほうへ、何かとてつもなく大きな怖いものが、すごいスピードでやってくるってことを。
 何も聞こえなかった通風孔からは、また風の音が流れ始めた。
 でもそれはさっきの自然風とは違う。
 何か、誰かすごく大きな生き物の息遣いだ。生温かくて、死に掛けの病人みたいに荒い。
 二人が僕の異様さに気付いた時には、もう「それ」はすぐそばまで迫ってきていた。
――逃げ……」
 逃げよう、何か大きな怖いものが来ると僕は言おうとした。
 でもそれは少しばかり遅かった。




 やがてそいつは通風孔の頑丈なパイプを食い破って現れた――――





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