昼過ぎから湿気がひどくなってきた。
 地下世界の空気はいつだって冷たかったが、しんと冷え込んでいる日もあれば、少し暖かい日もある。
 からからに空気が乾いている時も、今みたいにじっとり水滴が身体中に付着しそうなくらい湿った日もある。
 なにか大きな力が作用しているのだと、僕はいつかどこかで聞かされたことがある。
 誰に聞いたかは忘れたけど、確か青い髪の女の人だった。
 顔もうすらぼんやりしていて思い出せない。
 でも青い髪なんてこの街じゃあ僕のほかに見たことがなかったから、もしかしたら昔住んでいた街にいた、僕の近しい人なのかもしれない。血の繋がりのある人だとか。……僕のほんとの母さんとか。良くわからないけど。
 どうやら湿気も冷たさも、これらは全部天井から来るのだ。
 僕らの住む街の上にある中央省庁区で何かやっているのかもしれない。
 それとも、今はもうない空が何らかの作用をもたらしているのかもしれない。
 何にしろ僕にはいろんなことが込み入っているせいで、良く分からない。
 湿気と気温に関しての詳しい事情も、なんで人は死ぬのかとか、なんで誰かが死ぬとお葬式なんてやる人種がいるのかとか、そういうことは僕は知らない。
 午後一時をまわった頃、濃い霧が出てきた。
 僕らがお葬式に着いたのは、ちょうど霧で何もかもが見えなくなる前だった。
 父さんと母さんは挨拶回りに行って、僕とメベトはしばらく遊んでいなさいと言われて、連れて来られた屋敷の庭にいた。
 屋敷はとても大きかった。
 メベトと僕の家もとても大きかったけど、その比じゃあない。
 なにせ、街がひとつすっぽり入っちゃうんじゃないかってくらい大きいのだ。
 僕が上を見上げて口をぽっかり開けていると、メベトがやってきて、僕の頭を後ろから叩いた。
「何間抜けヅラ晒してるんだよ。しゃきっとしろよな。俺が恥ずかしいだろ」
 メベトはきちっと前髪を上げて、整髪剤でかためていた。真っ黒のスーツを着ていた。
 メベトの金髪は、黒い服を着るとすごく映えた。見た感じすごくきまって見えた。
 僕はと言えば、なんだか全身真っ黒で、ダークストーカかナゲットみたいだ。
 僕はあまり自分の顔と青い髪の色が好きじゃなかったので、メベトはいいなあ、と言った。
「僕も染めようかな、金色に……なんでこんなヘンな色かな?」
「そうでもない、エリュオン。オマエ血吸い鬼ハルクみたいだよ」
 血吸い鬼ハルクって言うのは、週に一度夜二十時からテレビ放映されているヒーロー番組の悪役の戦士だ。
 主人公のライバルで、全身黒くて真っ赤なぎらぎらした目をしていて、何の罪もない街の人から血を抜いていく。
 主人公のヒーローはいつもハルクを倒すんだけど、次の話になると復活している。ハルクは不死身なのだ。
 メベトは悪役に憧れていたけど、僕はどっちかというとハルクをあんまり好きにはなれなかった。
 僕はいつもヒーローを応援しているのだ。ハルクは怖いから、早くやっつけちゃってほしい。
 そんなわけで、メベトの言葉に僕は変な気分になってしまった。誉められているのかなんなのかわからない。
「僕はハルクは嫌だよ。あいつ幽霊なんでしょ。ヒーローのほうが格好良いから好きだな。レンジャーの方が……」
「レンジャーなんかよりも、ハルクが格好良いって。真っ黒で、背中には赤い翼があってさ……」
 メベトが熱っぽくヒールの悪の魅力について語り始めた。駄目だこれは、当分止まりそうにない。
 僕らがそうして真剣にヒーローとヒールについて(主にメベトが)喋っているうちに、大分地下風が強くなってきた。
 足の下の空洞にある通風孔を、行き場のない空気の流れが、すごい音を立てて駆け抜けていく。
 でも汚れた空気は、僕らの元へはやってこない。屋敷の中は、中庭も玄関口も等しく空気清浄機械が完全に作動していた。ここには綺麗な空気しか入ってこないのだ。
 すごい風の音がするのに、濃い霧はそのままで、肌寒くも暑くもない。変な感じだった。
「それで結局はやっつけられちゃうんだけど、そこには悪の美学ってものが……おいエリュオン、聞いてるの?」
 メベトがぼんやりしていた僕の頭をぶった。
 僕は少し考え事をしていたので、メベトの話を途中から聞き逃していた。
 素直にそう告げて謝ると、メベトはもう一度僕をぶって、もういい、と言った。
「オマエは俺が秘密基地を発見したって仲間に入れてやんない」
「秘密基地……? そんなのどこにあるの?」
「だから、教えないんだよ! バーカ!」
 メベトはすっかり臍を曲げてしまったようで、僕からぷいっと顔を背けて、オマエなんかそこでずうっと考え事してればいいと言った。
 僕は慌てて弁解した。こんな大人ばっかりのところで、メベトに置いて行かれるのは嫌だ。
「……空気のことを考えていたんだ。ここ、綺麗な空気しかないから……でも空調に制御されてるのに、どうして霧がこんなに濃いかな? なんだかお化けでも出そうだね、薄暗いし……」
「い、嫌なことを言うなよ!」
 メベトはぎょっとして、ばたばたと手を振り回した。
 メベト、悪役が好きだなんていうくせに、お化けが怖いのだ。ちょっと格好悪い。
「い、いるわけないだろ! 葬式だからって、まさかおじさんが帰ってきたり……」
「そう言えば、おじさんてどんな人だったの? 僕知らない……」
「う、そ、そうだな。頭カタそーでさ、気難しそうで、俺あんまり好きじゃあなかったけど……何でも、剣の達人だったらしいぜ」
「剣?」
「そ、なんとか剣技っていう……昔一回見てもらったことがあって、そん時のことは……」
 メベトはげんなりしたように項垂れて頭を振って、言った。
「……思い出したくない。俺はハルクみたいなガンナーになるんだ。鉄の棒きれで誰かひっぱたいて喜んでるのって、野蛮人のすることだよ」
「ガンナーってなに? メベトは統治者になるんじゃないの?」
「バカ、統治者ってのは強くなきゃなれないの」
「……僕、喧嘩とか、駄目だけど……父さん僕は大きくなったら統治者になるんだって」
「まあ、俺の子分ってとこが妥当だな」
「ダ、トー? ダトーってなに?」
「う、ま、まあ……そういうのがいいんじゃあないかなってこと」
「ふーん」
 メベトはいつもながら、難しい言葉を知っている。父さんの受け売りも多いけれど、それにしたってメベトの知識であることに変わりはない。
「メベト、僕は頭が悪いかな?」
「オマエ、自分が頭良いと思ってたの?」
 メベトは、すごくびっくりしたように目を見開いて、うっそお、と言った。
「バカだよ、バカバカ。俺がいつも言ってんじゃん」
「……うー」
 霧はどんどん濃さを増していく。まるでミルクの中に浸かっているみたいだ。
 やがて自分のつま先と手のひらまで見えなくなった。もちろん、メベトの姿もだ。どこにも見えない。
「メベト? いる?」
「あ、あったりまえだろ。エリュオン、手、貸せよ。ここではぐれたら遭難しかねないぞ……こんなでっかい屋敷を建てるのが悪いんだ……」
「ねえメベト、ほんとにお化け出そうだよね……」
「だから、ヤなこと言うなよって……うんそう、繋いだまま、絶対手を離すなよ。父さんたちのとこ、戻るぞ。まったく、なんなんだこの霧……」
「え?」
 僕は変だなと思って、自分の両手のひらをほっぺたに当てた。両手とも、空だ。どっちも繋がってない。
 メベトは一体誰と手を繋いでいるって言うんだろう?
 僕は濃度の濃いミルクみたいな霧の中で、ひとりきりでぽつんと立っている。誰とも繋がっていない。
「メ、メベト? 僕は手を繋いでないけれど」
 メベトの返事は帰ってこなかった。
 きっといつものように早足、いや、小走りで行ってしまったんだろう。
 僕はぞっとしてしまった。
 メベトは幽霊と手を繋いでどこかへ行っちゃったんだろうか?
 ひとりになると背中がざわざわして、急に怖くなってきた。
「う、メ、メベト? ちょっと、どこ行ったの……」
 転ばないように足元に気を配りながら、僕はふらふら中庭を出ようとした。
 はじっこまで歩けば石柱の廊下に出るはずだ。屋敷の中にお邪魔しちゃえば、もう霧も入って来られないに違いない。
「わっ」
 と思っていたら、胸元くらいまである柵にぶつかってしまった。花壇の柵だ。花を踏んじゃってないだろうかと足元を見てみたけど、どうやら心配はなさそうだった。足元には同じ大きさに粒を揃えられた砂利石が敷いてあるだけだ。
 ともかく、柵に沿って歩けば石柱にぶつかるかもしれない。
 そう思って歩き出した矢先、なんだか重たいものが歩いてくる足音が聞こえてきた。
 ざり、ざり、と等間隔の音だ。それと良く似たものを、僕は聞いたことがあった。
 テレビでハルクの登場シーンに流れるあの音に似ていた。
(ハルクが来たんだ……!)
 僕はざあっと全身の血が下がっていくのを知った。
 血吸い鬼が子供を襲いに来たんだ。メベトなら喜ぶかも……いや、メベトは格好良いハルクになりたいのであって、別に血を吸われたいわけじゃあないと思う。
 それにしてもメベトは僕が、弟分の僕が血を吸われたってハルクが好きだって言うんだろうか?
 それはちょっと人でなしだ。ひどすぎる。さっきだって誰かと僕を間違って連れてってしまったんだ。
 僕がびくびくしていると、白い霧の中からぬうっと黒い影が現れた。
「わっ、うわあ! 僕は美味しくないよ!」
 頭を抱えて悲鳴を上げると、影はびっくりしたように一歩下がった。
 なんだか僕がここにいるっていうのがすごく意外なことみたいだった。
 恐る恐る顔を上げて見ると、なんだか見慣れたシルエットがあった――――頭がみっつあって、真っ黒で、赤い模様が綺麗だ。
 ケルベロスだった。僕の家にもいるセキュリティガードディクだ。泥棒や悪い人から僕らを守ってくれるいいやつだった。
「な、なんだあ……ハルクかと思った。おまえ、びっくりさせないでよ」
 僕はふうっと息をついて、ケルベロスをぽんぽんと叩いた。
 そいつはまだ子供で、僕の腰くらいまでしか背丈はなかった。
 でも僕は知ってる、ケルベロスやトライリザードなんていう三つ首ディク(真中以外の二つの首は、実は腕なんだけど)には、大きさなんかほとんど関係ないのだ。小さくたって、大人顔負けに強いのだ。
 ケルベロスはあまり僕に構わなかった。なんだか変なやつがいるぞってことを誰かに伝えるように、真中の首をぐうっともたげて後ろを向いた。
「なんだボッシュ、どうした。誰かいるの?」
 急に子供の声がした。ケルベロスが頭を上下に揺らした。そうだって言ってる、相手は飼主の子だろうか?
 子供の声はしばらく聞こえなくなったけど、少し経って、僕の前からさっきと同じ声がした。
「……おまえ、なに?」
 僕は良くわからなかったので、正直に答えた。
「……わかんない」
「父さまの葬式に来た人間か? 少し早過ぎるし、それにぼくはおまえのような変な青い髪のやつなんか知らない」
「見えるの?」
 僕はびっくりした。この霧の中で、僕のことが見えるなんて!
 でも、子供の声にはにわかに呆れが混じった。
「ゴーグルがあるよ。なんだって見える。誰とここへ何をしにきたんだ? ぼくは当主だ、知る権利がある」
「僕エリュオン。ね、きみ、誰? トーシュってなに?」
「……D値は?」
「1/4。メベトと一緒だってメベトが言ってた」
「メベト? メベト=1/4の関係者か?」
「うん、家族」
 僕は頷いて、さっきの黒いケルベロスのほうを見て、言った。誰かが目の前にいるのはわかったけど、その顔は全然見えなかった。
「その子僕のこと嫌いかな? 全然喋ってくれないんだ。ボッシュっていうの? かわいいね」
「……ボッシュはぼく以外の人間とは遊ばない。いや、……ボッシュに話し掛ける奴なんてはじめてだ。みんなボッシュをディクって言うんだ、生まれた時からぼくと一緒にいるのに……」
 そこではっと息を呑む気配があった。それから具合の悪い沈黙。やがてぼそぼそと、言い訳するみたいな声が聞こえてきた。
「……喋り過ぎた。忘れて。ぼくはもう行くけど、おまえ、どうするの?」
「あ、そうだった」
 僕はあっと声を上げて、家族とはぐれたんだ、と言った。
「メベト僕と間違えてなんか誰か他の子連れてっちゃったみたいで……ハルクの仲間かもしれない。メベト、ヒールに憧れてたから、攫われたのかもしれない……どうしよう?」
「そんなの作り話だよ。おまえ、バカだな。そんなの信じてるの?」
「あ、ハルク知ってるの? 君も見てるんだ」
「……うるさいな。もう行くよ。ボッシュ、行こ。そんなのに構うことない」
 ケルベロスは静かに頷いて、僕に背中を向けて歩いていってしまった。
 霧はさっきからずうっと身体を取り巻いていて、薄まる気配もない。
 このままじゃほんとに遭難してしまう。
「ま、待ってよ……」
 僕は慌てて後を追った。





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