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1
まっくらだ。夜目は効くほうなのに、ほんの少し先がまったく見えない。
昼なのか夜なのか、ここはさっきまで滞在していたはずの日本国なのか、それとも世界のどこかなのか、夢の中なのかそうでないのか、なにもわからない。気がついたら足が動いていて、前に進んでいた、という感じなのだ。
彼は思い付く限りの情報を並べてみた。まず名前だ。名前は天色優。それとも別の名前があったか?
どうしてこんなに真っ暗なのか。ここは暗過ぎる。月の明かりもなく、閉塞された空気が篭っていて、とても息苦しい。出口の明かりも届かない、深い地下トンネルの中にでもいるのだろうか。
しばらく、彼はそうやっていろいろなことを思案しながら進んだ。歩かなければ、立ち止まってもここには何もないのだ。
それにしても、心地良くて温かい闇だ。こんな暗がりに溶けていると、誰もきっと自分のことになんて気付かないだろう、と彼は安心した。仕事がやりやすい、とも思った。仕事ってなんだっけ、と考えて、しばらくしてから、ああ、人殺しだと思い当たった。
ふと顔を上げると、そこはもう真っ暗がりの長いトンネル道ではなかった。彼は繊細な彫刻の施された椅子に行儀良く座っていた。
細長いテーブルに、ティーポットと焼き菓子が並んでいた。目の前には穏やかな顔をした男がいた。
初老の――いや、それは擬装で、本当のところは30代の中半くらいの外見をしている。メイクが下手で、いつも若く見られるのだと嘆いていたことを知っていた。ただ、特に誰なのかということは思い当たらなかった。男には確か名前なんて無かったのだ。
名無し。そして、それは彼も同じだ。
「夢でも見ていたのかい」
それがひどくおかしいことのように笑いながら言われて、彼はなんだか面白くないものを感じながら、そうみたいだな、と頷いた。
「暗いところを歩いていたんだ。その前は何をやっていたのか、うまく思い出せない」
「まあ無理して思い出すこともないさ。どうせ、夢だ」
どこか投げやりさを含みながら、男はユージンに、あまりなにも考えない方がいい、と言った。
「どうせ君が見た夢なんて、救いようのないくらいお先真っ暗なものに決まっているからな、ユージン」
「ユージン……」
からかい半分に言ってくる男にそう呼ばれて、靄がひとつ晴れたような気分になった。そう、名前はユージンと言ったのだ。他にもいろんな名前があったけれど、そう呼ばれた時間が一番長かった。
それはまったく呼ばれて心地良いと感じる代物ではなかったが、彼はそれが一番自分にはしっくりくると思った。
「どうしたんだい?」
「えっ?」
「お茶が冷めてしまうよ、ユージン」
「あ、ああ。そうだな。……ありがとう」
何時の間にか琥珀色の液体がなみなみと注がれて、湯気を立てている。ユージンは促されるままにカップの端に口をつけた。目だけ上向けて、ユージンは男を盗み見た。相手はなんだか変なものを見たような顔をしていた。
(何か、おかしなことをやらかしただろうか?)
何も失敗は無いはずだ。彼とはまだそう会話も交わしていないし、会って間もない――いや、見知らぬ男という訳でもない。
(どこかで見たことがあったんだが……どこだったかな)
ユージンはぼんやりと考えながら、二口目の紅茶を啜った。とても香りが良く、特徴のある味がする。この味も初めてではなかった。
どこで飲んだんだっけ、とユージンは記憶を辿ってみたが、それも曖昧なのだ。なんだか頭が漠然としていた。
「砂糖とミルクは?」
「え?」
「ストレートがお好きかな?」
「あ、ああ。そうだな……」
ユージンはテーブルの上の砂糖壷からキューブをいくつか掬い出して、ばらばらとカップの中に投下した。 角砂糖はすぐに溶けて見えなくなった。ミルク壷を傾けると、カップの底から花が咲くように、液体は乳白色に染まった。
ユージンはあまり頓着せずに、三口目を口にした。甘くて、柔らかい味が口の中に広がった。これもどこかで飲んだことがある。
紅茶なんて滅多に飲みつけないのに、どこで口にしたのか、ユージンはどうしても思い出せなかった。思い出せない記録がどんどん積もっていって、それは彼に気持ちの悪い疑念をもたらした。
(何故こんなに、すべてが曖昧なんだろう?)
くつくつと笑い声が聞こえた。男がおかしくてしょうがないふうに、口元を押さえて肩をぶるぶると震わせていた。
「何がおかしい?」
「いや、君が、なんというか――最後に会った時よりも、随分と、物凄く、とても――可愛くなっているものだから、すまないな」
「いいさ、別に」
目を閉じて、ユージンはそっけなく横を向いて残りの紅茶をあおった。それから音を立ててテーブルに空のカップを叩き付け、肘を立てて両手を組み、男を真正面からきつく見据えた。
「おまえは誰だ?」
「忘れてしまったのかい?」
「いや……知っている。けど、思い出せない」
「それはきっと、君にとって僕がどうでもいい記録だったからだよ」
男が寂しそうに笑った。その顔も、どこかで見たことがあった。ユージンは口を噤んで、可能な限り記憶を探った。やがて、やっとその欠片の一端を引っ掛けることに成功した。
「ああ、おまえか」
ユージンはなんとなくきまりが悪くなって、渋い顔をした。
「殺しておいて忘れるんだから、ぼくは随分と人でなしだな」
「まあいいさ。君らしい」
男はさっきからずっと笑っている。ふたりがいるのは、薄暗い、広い部屋だ。何もないところから生まれて、なにひとつ骨の欠片も残らず消え去った男が、最期を迎えた部屋だ。
そしてその空間を嵌め込むようにして内包しているのは、ムーンテンプルという、窓もない階段もない高い塔だ。この建物は男が最後に遺したものだ。完成したのか、そうだとして今もまだあるのか、それとも管理者がいなくなってしまったので取り壊されたのかは、ユージンは良く知らない。この塔の完成した姿を、彼は見ていない。
蛍光灯は明かりを落とされて、蝋燭の火だけがぼうっと揺れている。これも見たことがある。思い出せないが。どうやらこの空間は、彼らの中にあるいろんな記憶をごちゃまぜに組み合せたような具合だった。
見覚えがあるものばかりだが、全体として見てみると、まるで知らない部屋だ。ユージンは溜息をついた。
「おまえと話してるってことは、ぼくはやはり死んだんだな。確かにさっきから現実味がないと思っていたんだ。まったくくたばりたてに遭うのがおまえだなんて、ついていないな」
「不満のようだね」
「遭わなければいけない人は他にいるんだ」
ユージンは力無くうめいた。
「謝らなきゃ」
「なにを?」
「ぼくが中途半端で、無能で、役立たずだったことをさ」
「もしかして、君が監視していたMPLSかい? あれを守りたかった、と言いたいんだな」
男は笑っている。ユージンはそれが気に入らなかった彼に笑われるところなどなにもないはずだ。ユージンは、ぬくもりを教えてくれた大事な友人を守って、命の限り戦い抜いたのだ。
果たせなかったことを詰られるのはいい。だが、それを笑われるのは許せなかった。この無感動で何も感じないはずの、ぬくもりは与えられるだけで上手く返すことができないユージンがだ。
「何がおかしいんだ」
「いや、おかしいとも。君は人を守ることなんてできやしない。自分も愛さない。自惚れるな、ユージン。誰も、それが欠片でもプライドを持った人間ならば、誰かに守られて生き抜こうなんて思いやしないんだ。君は守ってやった見返りに、愛されることを期待していただけだよ」
「…………」
「元々が他人に干渉できるように造られていないだろう。単式戦闘タイプ。暗殺型。君はひとりじゃないといけない。孤独こそ君の能力を最大限に生かすことができる環境だった」
「……いいさ、もう。死んだら終わりだ」
ユージンはお手上げの仕草をした。
「勘弁してくれ」
「あまり意地悪をされるのは苦手かな」
ユージンは頷いた。特に悔しくもなかった。まだ良くわからないのだ。
「そうみたいだ」
『おやおや、これは綺麗な子が来たものだな』
『無駄口はいい。さっさと指令を寄越せ』
『僕の方が、年上なんだがね?』
『知ったことか』
『お茶でもどうだい。君は面白いなあ』
古びたテレビ画面はモノクロで、音も途切れ途切れだった。映し出されるテーブル、ティーカップの位置、テーブルクロスの柄――すべてが、今このどことも知れない場所で彼らがついているものとまったく同じだった。
妙な懐かしさすら覚える。確かにそれは昔、おそらく十数年前のユージンの目の前に一度存在したものだった。
そこに映し出される彼らは、現在ある姿と全く変わっていなかった。ふたりは合成人間だ。年もとらず、いつか消える日まで何ひとつ変わらない姿で偏在する。
「これが初めて君と交わした会話だ。覚えているかね?」
「さあな。忘れた。知らないな」
「君はきついなあ」
男は苦笑した。ユージンが目にする彼は、いつだって笑っていた。笑顔というものはとても便利な擬態なのだと、ユージンは彼から学んだ。
「人の記録を引っ張り出して見世物にして、何が面白いんだ」
「まあ見たまえよ、次はチャンネルを変えてみよう。何も考えずに選択するのは、さすがに納得いかないだろう?」
「何のことだ?」
男は答えずに手回し式のスイッチをぐるぐると回した。トーキーから静止画像、砂嵐、またモノクロ映像――画面は次々と変わっていき、やがて真っ暗になり、何も映らなくなった。
「おい……」
「しっ。……静かに。始まるよ」
男は無邪気な子供のような顔をして言った。
「君のとっておきの記録だ」
2
その子供はただ一言も口をきかなかった。背の高い椅子に座って靴のつま先をこつこつと合わせ、まるで王様みたいにして彼の方を見た。
「ナンバーはいくつだ、MPLS」
ユージンは子供を見下ろして聞いたが、答えは何も返ってこなかった。
「名称は」
「…………」
「おまえは生存することを許された。今後統和機構の意向に従い、構成員として、また実験サンプルとして存在することになる。今まで使っていた個人名称は破棄だ。コードネームの通達があったはずだ」
「…………」
「おまえの能力名は?」
「…………」
「口がきけないのか」
ユージンは抑揚が無い声で、冷たく吐き捨てた。
(それは多分違う)
テレビ画面の中の自分に、彼は自分で呆れてしまった。
(そいつは、そんな難しい言葉の意味なんて理解できていないよ。ただでさえ馬鹿なんだ)
相手が子供だからと言って、油断することはなかった。小さくたって、人格さえ上手く形成されていなくたって、彼を殺せる能力を持ったものは存在するのだ。画面に映っている子供が良い例だった。
彼は危険である。だが、あまり頭は良くない。
(良くもまあ、小さかったとはいえ、あの男にそーいう事を言うものだ)
ユージンは、テレビの中の自分がいつ殺されるものだか冷や冷やとしていた。実際には今まで生存してきたのだから、そんなことがあるわけはないのだが、怪物がいつ飛び出してくるのかと神経を張詰めてホラー映画を見ている気分だった。
結局その子供はユージンの監視下に置かれることになった。後にフォルテッシモ、最強などと呼ばれることになる少年である。
(まったく、どうかしているな。戦闘タイプのこのぼくが子供のお守だと?)
ユージンは口の中だけで、音にはせずに呟いた。その理由を、彼はそのうち嫌になるくらい知ることになる。
子供は非常に強大な能力を有していたから、戦闘タイプでもないと任務の続行が難しかったのだ。得体の知れないMPLSを押し付けられた合成人間ユージンは、さっきから黙り込んだままの子供を観察した。
背丈はユージンの腰くらいまでしかない。年齢は大体5歳か6歳くらいだろうと見当をつけた。
目がとても鋭い。尖っている。刃物のようだ。目付きが悪いというものではなかった。彼の目そのものが、鋭利な刃物のようにぎらぎらと光っているのだ。
(……この目、苦手だ)
薄っぺらな自分のものとあまりにも違う。やっぱり人間は、合成人間と違って自己意識ってものが非常に強いんだろうな、とユージンは思った。実の所その子供のような目をした人間とやらにはそれ以降出会うことはなく、そのうちユージンも彼が特別なのだと気付くことになるのだが、それは大分経ってからだ。
少し見ていればすぐにわかりそうなことなのだが、これもしょうがない。ユージンだって、この少年に出会うほんの少し前に生まれたばかりの、赤ん坊と同じような状態だったのだから。
ブラウン管の画像はどんどん変化していく。モノクロから質の悪いカラーへ、鮮やかに変わっていく。その中で不自然に浮いているのは、早送りで再生されている映像の中でも、僅かばかりも変わらない合成人間ユージンの姿だ。相変わらずのグレースケールだ。色がない。
だんまりを決め込んでいた子供がようやく第一声を発すると、彼こそがまるで舞台の主役でもあるみたいに、そのぎらぎらとした顔つきがいっそう鮮やかに映えた。人生というものがあるとすればその主役はユージンであるはずなのに、彼は灰色がかった印象の脇役のひとりだった。
場面はあんまりにも彼が気難しい顔をしているから、ユージンが子供の気に入りそうなものを見繕って、そいつに渡してやったあたりだった。大きな熊のぬいぐるみに、子供は「ユージン」なんて悪趣味な名前を付けた。
彼に出会ってから3日と18時間経過して、その時初めて声を聞いたのだ。まったく、頑固で融通のきかない奴だ。
――横で同じようにテレビを見ていた男が、耐えきれずに吹き出した。ユージンはじろりと彼を睨み付けた。
『悪いね、どうも君が、自分を棚に上げているようだから』
『なんのことだ』
『いやいや。邪魔をしたな。続きを見よう』
そして、ふたりしてまた画面に目を戻した。
単独行動が主である彼の元に監視対象のMPLSが転がり込んできて数ヶ月経った。今まで他の人間や合成人間と会話らしい会話を交わした事がないユージンにしてみれば、それは戸惑いを多く含む任務だった。
まず人間は、それも特に子供は、合成人間のユージンと違って、3、4日何も口にしなければほぼ行動不能に近い状態になること、あまり多くの情報を一度に処理できないこと、統和機構に絶対の忠誠を誓うなんてありえない程奔放で自分勝手で自己意識が強いこと、甲高い声がひどくうるさいこと――いろいろだ。
きっと子供ってものは動物と同じで、こっちの言うことなんか半分も理解してやしないんだ、とユージンはほとんど諦め混じりに思った。意思の疎通がひどく難しい生き物だった。特に、彼は。
「どこに行ったんだ……」
口の中だけで呟いて、ユージンは彼らが潜伏しているマンションの近くの、街を一望できる丘の展望台の上で、柵から身を乗り出して目を凝らした。例のMPLS、コードネームフォルテッシモはどうやらこの展望台がお気に入りの場所のようで、隙を見せるとすぐに監視下から飛び出して、良くここに来ているようだった。
いつも彼を回収――迎えに行ってやるのが、ユージンの仕事だ。だが今日はどういう訳か、いつも通りに潜伏先を飛び出して行ったフォルテッシモの姿が見えなかった。
「早いところ回収しなければ、通常人に被害を及ぼす恐れがあるな」
それが普通の人間ならば、発見された時点で消えてもらわなければならない。統和機構なんてものが世界に存在していることを、一般の人間が知ってはいけないのだ。
そのあたりのことをまだあのMPLSの少年は良く理解していないようなので、ユージンは苛々と気を急かしながら、木々で埋れた斜面を滑り降りた。フォルテッシモ特有の気配である、あのぴりぴりする威圧感のような寒気を感じないことから、この近くに彼はいないのだろう。
「どこに――」
辺りを見回しながら柵で封鎖された歩道を歩いているうちに、ユージンは先の方に見慣れた小さな塊が寝転んでいるのを見付けた。
「フォルテッシモ?」
ユージンは呼び掛けたが、返事はなかった。どうやら道の真ん中で眠気に襲われて、倒れてそのまま寝込んでしまったようだった。
「何をやっているんだ。馬鹿か、おまえは」
乱暴に彼の小さな肩を掴んで、ユージンは眉を顰めた。フォルテッシモの首筋には、うっすらと赤い痕があった。鋭利な刃物で切り付けられたような傷だ。
しかしこのMPLSは何者も寄せ付けないくらいの能力を持っていたので、野犬も通り魔の仕業とも考えられない。ぐったりとしたフォルテッシモを背負ってマンションに辿り付いて、ユージンはじっと彼を観察した。
どれだけ強い能力を持っていたとしてもまだ体力のない子供だ。生命力があまり強くない。これで彼が原因不明のまま命を落とそうものなら、監視者のユージンが処罰を受けるのは確実だ。
MPLSの死因は、身体を解剖して徹底的に調べられるだろう。それがユージンと無関係のものであると結論付けられる可能性は低い。
しばらくすると、フォルテッシモが目を覚ました。
「起きたか」
ユージンは無感動に呟いて、フォルテッシモの額を撫でた。
「おまえ、その傷はどうした」
「しらない」
フォルテッシモはそっけなく横を向いてしまった。
その様子から意地を張っているようにも見えるが、どうやら彼本人もその原因は良く解っていないようだった。時折ちらっとユージンの顔を、どういうことだろう、と言いたそうに見上げるのだ。
「痛むか」
「…………」
「何度も言っているだろう。痛みを訴えることは、弱みを見せることじゃない」
「べつに、ぜんぜんイタくなんかねぇ」
「そうか」
フォルテッシモはとても意地っ張りだった。彼は階段につまずいてこけたり、足を滑らせて転倒し、頭を打ったりした時も、普通子供がそうであるように泣き喚いたりはしなかった。
どうやら、彼は子供の癖に尊大なプライドでもって、強くあろうとしているようだった。それは尊敬に値するくらいだった。
「フォルテッシモ、口を開けろ」
「イヤだ」
「分析が必要だ。おまえの言う事はまるで信用ならないからな」
「イヤだっていってるだろ、あんなヘンなの」
「変?」
「わかってねーのかよバーカ」
フォルテッシモはなぜか赤い顔をして、ユージンを心底馬鹿にするみたいに言った。
「はずかしいヤツ」
「……?」
何が「わかってない」のか、「恥かしい」のか、ユージンにはさっぱり解らない。人にある常識や羞恥というものが欠けていたのだ。
「ともかく、ぜったいにイヤだからな!」
「あっ、おい」
フォルテッシモはユージンの手をすり抜けると、ばたばたと走って子供部屋に戻ってしまった。
「まったく」
ユージンは溜息をついて、聞き分けのない子供のお守も大変だ、とひとりごちた。
(まあいい。どのみち、転んで擦りむいたりしたんだろう)
あのくらいの小さな傷ならば、すぐに自然治癒するだろう。特に問題もないだろうと判断して、ユージンはそれはもう放っておくことにした。
しかし、それは結局後々大きな問題になった。
(傷が大きくなっている……)
次の日の夜、夕食が済んだ後にフォルテッシモを寝かし付けようとして、ユージンはそれに気がついた。昨日までほんの小さな擦り傷程度だったのに、その傷が指一本分ほどの大きさまで広がっているのだ。
それに、大きくなってるだけじゃない。良く見てみればフォルテッシモの身体には、ぽつぽつと切り付けられたような傷が同じように見つかった。
「傷には触っていないな」
「うるせーな」
「痛みはないのか」
「おまえにはカンケーないだろ」
「痛いんだな」
「だから、カンケーねぇだろったら!」
地団太を踏んで、フォルテッシモはユージンの手を振り払った。
「さわんな!」
いつにも増して強情にそっぽを向いたフォルテッシモを観察しながら、ユージンはあることに思い至った。
(もしかして、例のMPLSに特有の症状の一種だろうか?)
能力が不安定な時期に、監視対象のMPLSが揃って身体の痛みを訴えるというケースが報告されていた。種類はその能力、個体差によってまちまちだったが、彼らは能力が発現してから固定されるまでの一定期間、その原因不明の「成長痛」に悩まされるらしいのだ。
(だとすると、こいつはまだ固定されていないということか? まだ強くなる、と……)
正直、ユージンはぞっとした。ただでさえこのMPLSの能力は子供ながら強力なもので、これ以上成長なんてしたらどうなるんだろう。
ユージンなんかまるで敵わない、最強で、完全無敵みたいな化物にでもなるんじゃないだろうか。今のうちに殺しておいたほうが良いか。
睨んでくる少年の方は見ずに、ユージンは考えた。もしかしたらこの時彼は、初めて先に見える漠然とした恐怖に、不安らしいものを覚えていたのかもしれない。
中枢からの通達は、引き続き監視を続行せよとのことだった。ユージンはその通りにした。命令さえあれば、彼には何の迷いもなかった。
ただこの日からしばらくの間、監視対象のMPLSフォルテッシモは、度々全身に浮きあがる無数の傷の痛みを訴えるようになった。その傷はどれひとつとして自然治癒しない厄介な代物だった。
まるで身体の中から傷が浮かび上がってくるように、それはうっすらと浮き出して、徐々に周囲の皮膚を浸蝕していった。キリスト信仰にある聖痕を連想させるその症状は「スティグマ」と名付けられ、これはMPLSとしての能力が完全に開花し固定するまでの1年半もの長い間、フォルテッシモ少年を蝕み続けた。
3
男は心の中で罵り声を上げて、足元の小石を蹴った。口には出すなんて恐ろしい真似ができる訳もない。
男は沿岸の高度開発予定地の地下の、無数のパイプラインのひとつの中を、明かりもなしに歩いている。彼はある巨大なシステムの構成員で、上から命令を受けて、この真っ暗がりの洞窟のような場所を調査していた。
ここは数年前の原因不明の薬品汚染者たちの暴走の終焉場所である。どこかの組織の人間が特殊な薬物を運んでいる途中に襲われて死亡、薬品を奪われ、襲撃した少年グループは薬品の危険性も知らない普通人で、どこにでもある麻薬だと勘違いして使用、結果あの事件が起きたのだ、というところまでは調査が進んでいた。
しかしその後のことがわからない。何故この場所に逃げ込んだのか?
どうやら入口付近で大破していたライトバンを追っていたようだが、中には誰が乗っていたのか。鋭利な刃物で切断されたような傷はなんなのか。誰がそれをつけたのか。そして、目撃された数と死骸の数が合わないのは何故か――肉片を繋ぎ合わせてみても、どうしても数が足りないのだ。
まるで数十体分の死体が、忽然と消えたような――ともかく、奇妙な事件だった。
調査は何度も行われ、それ自体は何年も前に打ち切られている。男が今更この場所を訪れたことには理由があった。工事の途中で放り出されていた地下開発が、どうやら再開されるらしい。
おおやけにされてはまずいような証拠を残らず抹消してこい、というのが今回中枢から男に通達された仕事だった。合成人間ではあるが、ほとんど役にも立たない能力しか持っていない、さえない構成員である。それを自分で自覚していたから、こんなつまらない仕事を回されて余計に腹が立つのである。
(もう二時間は歩き詰めだぞ。現場の骨拾いやら土壌の薬物除去やら、そんなもんは端末がやる仕事だろうがよ)
男ははなから何も問題はないものだとたかをくくりきっていた。何度も調査が行われた場所だ。今更専用の能力もない男が見回ったって、大きな発見があるわけもない。
男にも野心とか、野望とか、そういったものは人並みにある。何か大きな、それも彼の能力に見合う仕事さえ回ってくれば、こんなふうに靴のかかとをすり減らして歩きまわることもないのだ。
例えばMPLSを発見するとか、裏切り者の合成人間を見付けるとか――クラスが低くてもしょうがないが、手に負えるくらいのものだ。死闘後でほとんど余力も残っていないような高位合成人間。死んでいては手柄にならないので半死半生がベストだ。
(そうしたら大手柄だ、研究所勤めがいいな。経済流通型もいい。とびきり可愛い人間の彼女なんかも欲しいなあ。相手が合成人間だと、どんな能力を持ってるか知れねえからおっかないしな。俺はあてもなくMPLSなんか探してるよりもそういうのの方が向いてる)
男は成功後の自分の明るい未来を想像しながら、暗い穴倉の中を進んでいった。未来なんかない、とかそんなことを考えているのはやりきれないのだ。
破れたパイプの穴を潜って抜けると、平坦な通路に出た。ところどころの壁に、擦って千切れたような、血液らしいもので変色した赤茶けた布きれのようなものが引っ掛かっていたが、男は気にも留めなかった。彼には今の所、現実よりあるかないかも解らない未来の方が重要だった。
(しかしこれから先、そーいうのに出くわすことってあるのかね。誰か裏切り者が弱っててくれねーかなあ。俺の前で)
どんどん空気が冷えてきて、彼は身震いをした。
(冷却水でも漏れてんのかな? しかし、開発は何年も前から中断されっぱなしだったはずだ)
やがて彼の周りに、じっとりした湿気が纏わりつくようになった。錆びた血のような匂いに、男は眉を顰めた。
(いや、この匂いは海水か。土台に浸蝕でもしてるのか。そーいえば、ここは埋立地だったな。まいったな。いきなり崩壊なんてせんでくれよ、本当に)
さっさと見切りを付けて、帰った方が良さそうだ。どうせもうこの場所には調査団が何度も入り込んでいて、何もないのだから――。
「………?」
ふいに視界の端っこに映ったものを見て、男は足を止めた。何か黒っぽいもので、はじめ男はそれを土くれの塊だと思った。
それにしては変だ。
「な、なんだ?」
近付いてみて、男はひどく驚いた。それは人のかたちをしていた。
まるで何百年、何千年も前からそこにあったように、朽ちて、ただ形を保っているだけ、という。男はミイラでも発掘したのかと思ったが、どうやらそうではないようだ。
それは時折微かに震える。空気を取り込んでいるのだ。呼吸している。生きているのだ。
「……な、なんだってんだ、こいつは……」
男はかがみ込んで、恐る恐る表面に付着している苔と泥を拭った。干乾びた地肌が露出した。だが、思ったよりもそれは暗がりに映えた。白い。
もしもこいつを博物館で見て、何千年も前の古代エジプト王朝のお姫様、なんて金属板に書かれていたら、俺はそれを信じるだろう、と男は思った。
(ともかく、発見は発見だ。まあ、薬物汚染者のなれの果てか何かだろうが……。まさか死闘の末死に掛けて冬眠に入ってる、俺でも捕獲できる裏切り者の高位合成人間なんてことは、万が一にも、絶対にある訳――)
震える指でそれの頭部と思しきあたりを拭い、顔を露出させて、男は呆然としながら呟いた。
「あった」
何かの冗談だろうと思った。悪ふざけ、それとも夢だ。彼はその干乾びた人間の顔を、一度だけ見た事があった。
そいつは氷みたいな無表情で、そこには未来も希望も先への不安も恐怖もなにもなかった。戦場でまっすぐ立ち尽くしている彼は、まるで氷でできた彫像みたいな印象だった。
美しかった。男は他の合成人間と一緒に遠巻きにそいつの方を覗いて見て、多分くたばった後にお迎えに来る天使様ってのは、きっとこんなふうに冷たくて何もかも見透かしたような目をして、慈悲なんてものも何もなく、地獄行きを宣言してくれるんだろうな、と考えた。
それは彼の美しさを褒め称えている訳ではなく、ある種の畏怖と嫌悪を含んでいた。容赦が無さ過ぎるこいつにだけは殺されたくないと思ったのだ。もう随分と前のことだが。
――その相手が今自分の前で死に掛けているのだ。奇妙な感じがした。どうしても現実だとは思えなかった。
おそらくその原因は、その干乾びた彼がおおよそ場違いな微笑を湛えていたからというのもあっただろう。薄汚れて乾燥し、あの研ぎ澄まされた冷たい美しさはなかったが、その表情は確かに美しかった。
(ちゅ、中枢に報告しないと……!)
男は慌てて懐を探ったが、そこにあったはずの携帯端末がどこにも見当たらなかった。
(くそっ、どこかで落としたのか! よりによってこんな時に!)
こんな重大な発見をした時に限って、なんだってこうついてないんだと男は思った。
(街に降りて、直に端末に接触するしかない。こうしてる間に誰かが手柄を掻っ攫っていったりしたらどうするんだ。そもそも、こいつがいつ目を覚まして逃げ出さないものか――)
そこまで考えて彼は、いや大丈夫だ、と思い直した。誰かにつけられていた気配もないし、この干物もどきは深い冬眠状態で、何らかの供給が無い限りきっと目を覚ます事はない。
考えられるのは目を離している隙に、この男がくたばってしまうことだ。体の状態から何から、ほぼぎりぎりのところで生きているだけ、という感じなのだ。
(ともかく、街だ! 端末に――)
大慌てで男は駆け出した。死に掛けた裏切り者の高位合成人間の発見、それが後々自分の身にどういう形で降りかかってくるかなど、彼はこの時まったく考えもしなかった。
男は苛々としながら、接触するべき末端を待っていた。人の多い駅前のモニュメント前で腕組みをして、血走った目でぎょろぎょろと辺りを見回す男の姿は一見異常だったが、彼にはそんなことはまったく気にならなかった。
重大な報告があるのだ。これさえ上に通達すれば、安全で楽な研究所勤務も夢じゃない。
(早く……)
「――や、おまたせ。あんたがさっき連絡のあった男ね」
我慢の限界を迎え掛けた辺りで、ようやく待ちわびた端末が現われた。
普通の若い女だ。綺麗な顔で、気の強そうな目をしている。
「用件は何?」
そいつはあんまりにも軽い口調で言い放った。端末のくせに合成人間に対してこの不遜な口の訊き方は確かに腹は立ったが、今はそれどころではない。
「は、発見した。例の事件後行方不明になっている、統和機構を裏切った可能性のある合成人間だ!」
「名前は?」
男はあれを発見したのが自分だという自尊心を込めて、その合成人間の名前を叫んだ。
「B7級高位ランク合成人間、単式戦闘タイプのユージンだ!」
その名前を呟いた瞬間、女の目が細められたことに、男は気がつかなかった。
「ふうん。どこに?」
「沿岸の開発地下だ。調査員を寄越してくれ。場所は案内する」
「了解したわ」
軽く頷いて、女は携帯を取り出して何処かへ連絡を入れた。
「――そう、適当な末端を二人くらいでいいわ、スクイーズ。あ、あんたは来なくっていいわよ。どうやらあれとはあんまり仲が良くないみたいだから。……ん? あれって誰って? 内緒よ。教えてあげない」
「中枢に連絡を入れているんじゃないのか?」
「いいえ、まずは医療機関に運び込む手筈よ。高位ランクの合成人間が身動きが取れないなんて、かなり損傷も激しいはず。そんな相手を拷問したって何も聞き出せやしないわ」
「そ、そうだな」
拷問という言葉に男はひどく恐ろしいものを感じたが、目の前の女は一向に気にせず、電話の向こうの誰とも知れない相手に向かっててきぱきと指示を出している。
「ところで、あの単純馬鹿は今何やってるの? そう、ちょうどこの国にいるわけ。ふーん……ああ、後であいつ、M0182の施設に呼び付けといてくれない。いつでもいいわ。ついでにあたしへの菓子折りでも請求しといて。もう、だからあんたは来なくっていいったら」
「おい、女。世間話をしてる暇は――」
「了解、じゃあね。……わかってるわよ」
そうして女は携帯を懐に仕舞い込んで、男に向直った。
「統和機構端末をやってる九連内朱巳よ。コードネームはまだないわ。ここに来て日が浅いの」
女、九連内朱巳とやらはそう言って、可笑しそうに笑った。男はまあそういうことなら、この不遜な態度も仕方ないだろう、と思った。そのうち嫌でも統和機構というところの恐ろしさは知れるだろう。
「じゃあ、行きましょうか。ところで、あんたって合成人間ってやつ? 実物は初めて見たわよ。すごいわねえ、上のお偉いエリートさんじゃない」
面白そうに興味津々といった顔をしている彼女に、嘘を言っている様子はまるでなかった。
4
フォルテッシモという男は、自分のやりたいことをやりたいようにやる。彼に干渉できる者なんて世界にはどこにもいない。
彼は誰よりも強過ぎた。最強なんて呼ばれている。だから独りだ。今まで誰一人として彼のそばには寄りつかなかったし、関わりを持たなかった。
唯一まともに付き合っていた合成人間は現在行方不明だ。これもきっと彼から離れていったもののひとつに違いない。
『まーまー、粘着質なことで』
胸のあたりから、正しくは胸の辺りに下げている取っ手のついた十字架から声が聞こえてきたが、フォルテッシモは無視した。
ともかくそんな最強で孤独で、今や戦いに楽しみを見出せる相手すら探すのが困難に――幾人かいるそんなような相手も、相応に隠れ身が上手いので、探し出すことひとつにしても苦労する――なっているフォルテッシモは、とても不機嫌だった。理由は彼が手に持っている一枚の紙だ。
『これ寄越した奴には、おまえがバカだってバレてんじゃねーのか?』
「俺は馬鹿じゃない」
『自覚してねーのか。重症だなァ』
「うるせえ。てめーはもう黙ってろ」
フォルテッシモは苦々しくペンダントに吐き捨てて、そいつを首から取っ払った。そして小さな瓶に入れて、ポケットにしまい込んだ。
「ったく、てめーとまともに話してると頭がおかしくなりそうだ」
十字架に寄生している生命体『エンブリオ』を黙らせると、フォルテッシモはもう一度紙面を見た。そこにはこうあった――ffへ。野暮用。いちごのタルト。至急。贈呈用包装付きで。
「あの女、この俺をまさかパシリか何かに使うつもりか」
彼は怒りで震えながら、紙を握り潰した。
――ともあれ、なんだかんだと言いつつも指定された場所に向かってみる気になったのは、フォルテッシモが暇を持て余していたせいだ。彼はここのところ、なにか大きなぽっかりとした空虚ばかりを感じていた。
(……何なんだかな、これは)
なにかおかしな夢ばかり見るのは、うっすらとだが自覚している。そのせいかもしれない。朝にはもう忘れてしまっているのだが、どうやらフォルテッシモが見ている夢の情景を「覗き見」できるらしいエンブリオが言うところには、「なんか変なのが出てくる」そうだ。
いわく、「羽根の生えた天使様が、瓦礫の山の上に座ってる」だとか「そいつがにこにこしておまえと喋ってる」だとか。そういう崇高な夢を見るような信仰など持ち合わせていないし、そもそもまったく覚えていない。
「それ、録画しとけ。後で起きてる時に俺に見せろ」
『無茶言うなよ、このバカ』
「バカって言うな」
フォルテッシモが通された施設の待合室のソファにどっかりと座って、エンブリオとくだらないことを言い合っていると、遠くからこつこつとヒールの足音が聞こえてきた。フォルテッシモはエンブリオを瓶の中に押し込めてしまって――「あの女」は一応彼と同じMPLSだから、こいつの声も聞こえるはずなのだ――膝上に肘をついて、入口のドアの方を睨み付けた。
ノブを回す軽い音がして、ほぼ同時に相変わらずフォルテッシモに何の敬意も払っていない、無礼極まりない声が聞こえた。
「ハロー、ねえ、まさか手ぶらで来たわけじゃあないでしょうね」
「第一声がそれか。貴様は相変わらず無礼な女だ。何の用だ、レイン」
「あら、そんな口を叩いてもいいのかしら。折角あんた向けの面白いものを見付けたものだから、こっそり知らせてやったのに」
「戦闘か」
フォルテッシモは、ぎらりと目を輝かせた。だが、女――レインは、子馬鹿にするように首を振った。あんたって本当に、喧嘩ばっかりで他の事をなんにも考えてない単細胞、とでも言いたそうな素振りだ。
フォルテッシモはいささかむっとして、じゃあなんだ、と聞いた。
「ある合成人間が発見したものを、うちの調査隊が発掘したのよ」
レインは別に大したことないんだけどともったいぶりながら、にやにやしている。
「古代エジプトのお姫様のミイラ。国宝級よ」
「帰る」
すかさず立ち上がると、レインは腹を抱えてげらげらと笑い出した。どうも彼女とフォルテッシモのジョークのセンスは合わないらしく、何が面白いのだかさっぱりわからない。
「何だってんだ、にわか考古学者でも始めたのか。墓に返してやれ」
「3階に安置してある。発見者と面会を。どうやら他に目撃者もいないようだし、そっちのことはお任せするわ」
何か言い返そうと口を開いたところで、フォルテッシモは彼女の目に何か含むものを見た。「さっさと行きなさいよ」と言いたそうな、急かしている、そんなものだ。
納得いかないままだが、フォルテッシモは彼女の不可思議な言動を聞き入れてやることにした。
「鈍いわね、単純馬鹿」
階段に消えた男の背中に向かって投げ付けてやるような心地で、レイン・オン・フライディはこっそり呟いた。
「あいつにはうちの戦力になってもらった方が便利ってところを、わざわざ連絡を寄越してやったってのに……。やっぱりうちで使うべきだったかしら? ううん、でもあいつはそう簡単にこっちの言うことなんて聞いてくれなさそうだしねえ」
そう言っておきながら、それは口先だけの思い付きであることを、彼女は自覚していた。彼女とともに母親役の合成人間がいたように、あれは彼と共にあるべきなのだろう、と彼女は思っていた。
別にお人好しな情を掛けてやっただけではない。レインが調べたデータには、彼の監視していた数名のMPLSの中に、彼女の友人の名が連なっていたのだ。その上例の事件には、彼女が唯一認める「あの女」も関わっていたらしい。
それらの情報を持ったままの「ユージン」を統和機構に発見されるのは、彼女としても避けたい事態だった。だが、まともに例の人間劇薬男を取り扱えそうなのは、あの最強くらいしか思い付かないのだ。
それはともかく、結局のところ一番大きな理由は、彼女らしいともらしくないとも言えるお人好しなものだった。彼女もあの最強とか自称しているうぬぼれ屋の馬鹿男が、どれだけあの合成人間に執着しているのかは知っているのだ。
「まったく、やんなっちゃう」
レインはぼやいた。
「なんであたしって、こんなに気まぐれなのかしら」
そこにあるものが何なのか、最初フォルテッシモには解らなかった。レインはエジプトのミイラの姫様だとか抜かしていたが、そんな訳はない。
それは、生きている人間だった――ただし、かろうじて、というレベルだが。点滴に繋がれて、骨の上に薄っぺらい皮が巻いてあるだけの、生きているのが不思議な状態である。その顔はフォルテッシモが良く知っているものだった。
記憶の中のものよりも随分と痩せこけてはいるが、顔には特に傷らしい傷もなかった。そいつは眠り続けていた。
フォルテッシモはかがんで、そいつの額に手を当てた。伝わってきた体温は、とても生き物だとは信じられないくらい冷たかった。
そうしていると後ろでドアが開く音がして、フォルテッシモに声が掛けられた。
「ああ、あんたがあの女が言ってた、例のナントカ博士とやらか」
フォルテッシモが振り向くと、そこには男が一人いた。さえない顔をしたごく普通の人間に見える。さっきレインが言っていた発見者の合成人間とやらだろう。どうやらあの女に上手い事言いくるめられているようで、フォルテッシモのことなど何も知らないようだ。
「中枢には連絡したんだよな? だからあんたが来たんだよな」
「…………」
フォルテッシモは答えずに、ベッドの上に寝かせてあるというよりは、そいつがあんまりにも生きているものには見えないのでただ置かれているだけ、という印象を受けるものを観察した。
皮膚は少々干乾びているものの、点滴に繋がれているうちに随分修復したのだろう、とりあえず人間には見える。発掘された時点では、ミイラってのもあながち冗談ではなかったかもしれない。ちょっとばかりぞっとしない。
「ここに運び込んで、点滴を付けたのが5時間ほど前だ――ちょっと触っただけでぼろぼろに崩れそうだったのに、もうこれだけ修復している。なあ、早いとこ拷問でもなんでもしておとなしくさせておかないと、もし暴れ出したりでもしたら――」
「心配ない」
「そ、そうか?」
「ああ」
フォルテッシモはめんどくさそうに頷いて、そしてつい、と軽い動作で指を一本立てた。
「何故ならこいつが暴れ出そうが逃げようが、その頃にはおまえはもう死んでるんだからな」
「え?」
まだフォルテッシモの言葉の意味を理解しないうちに、「発見者」とやらの体が、まるで蜜柑でも剥くみたいな気楽さで、真ん中からざっくりと割れた。そして、切れ目からさらさらとした黒っぽい砂となって、空気に溶けていく。
「ふん、後は任せるってのはこういう意味か。まったく、厄介なもん押し付けやがって」
フォルテッシモは忌々しそうに呟いて、ベッドの上の半死半生の合成人間「ユージン」を見た。その顔はどこかガキっぽい、ふてくされたような表情をしていた。
5
『なんだ、嬉しそうな顔なんかしやがってよォ』
「してねーよ」
『そんなにその拾い物が気に入ったのかよ』
「……まあ、しいて言うならこいつほどの合成人間を、これだけの目に合わせる存在ってものに興味を持っていないというのは嘘になるな」
『ひひひ。まあそーいうことにしといてやるか』
「……なんかむかつくな、その言い方は」
(…………?)
彼はうっすらとした闇の中で目を覚ました。遠くから声が聞こえる。
ひどく遠い昔にどこかで聞いたことがあるような、しかしそれは既視感の仕業であるのかもしれなかったから、あまりあてにはならないと見ていいだろう。単純にそれが誰のもので、どこで聞いたのかをさっぱり思い出せなかったのだ。
(いや、まだ記憶が混濁しているんだ。これは「あいつ」のものだ)
「あいつ」が誰のことを指しているのか、この時点で彼にはまだ特定できていなかった。ひどい焦燥を感じて、今すぐに目を開けなければ危険だという直感だけが、あやふやに彼を圧迫した。
(目を覚まさないと)
彼はそう思って意識を浮上させようとしたが、上手くいかない。どうやら眠りが深すぎて、上手く覚醒できないようだ。無理もない、この状態は彼の人生の中でも最も深い眠りのひとつなのだ。
言うならば卵の殻の中にいるような状態なのだ。何かしら外側からの干渉でもあれば、すぐに目を覚ませるくらいには体力が回復している。だが、表にいる人間がおとなしく彼の目覚めを待ってくれる種類の人間である可能性は低い。
(早く、目を覚まさないと……)
焦燥とは裏腹に、顔に勢い良く熱い水をぶつけられて、彼はほぼ強制的に目を覚まさせられた。
(――うわっ?!)
彼はびっくりして目を白黒させた。バスルームでシャワーを頭から浴びせられているのだ、というのを瞬時に彼は理解したが、だからと言って何故いきなりそういうことになっているのかは解らない。
(わ、ちょ、ちょっ……熱いっ!)
「暴れるな!」
(ちょっと、わ、もう、な、何?! やめてくれよ!)
「おとなしくしてろ。殺すぞ」
(え、え……?)
起き抜けの頭には、処理しきれない問題だった。何故声にならないんだ。彼はめいっぱいの大声で抗議しているつもりだったのに。何故いきなりシャワーなんか。体にはぼろぼろに擦り切れて汚れた、布きれみたいな服を着たままだ。
何故いきなり殺すぞなんて言われなきゃならないのだ。彼の前で、至近距離から容赦なくシャワーを向けている男は一体誰なのだ。
そもそも――自分は一体誰なのだ? ここは一体どこだ?
今まで、自分は一体何をやっていたのだっけか? ごく当たり前のことすら何も思い出せず、彼は愕然とした。
「そのぼろきれを脱げ。邪魔だ」
(えっ? いやっ、ちょ、ちょっと何なんですか、あなたは!)
シャワー男は、どうやら彼の言い分などまったく気にしていないようだった。そもそも声が出ないのだ。抵抗も思い浮かばないうちにさっさと服を取っ払われて、全裸に剥かれて、またシャワーの水圧を受けると思って、彼はぎゅっと目を閉じた。
「…………」
一向に熱い水は降ってこない。怪訝に思って、恐る恐る目を開けた。
「…………」
シャワー男はびっくりしたような顔をして、棒立ちになっていた。裸を凝視されて居心地悪い気分だ。彼は顔を伏せた。しばらく気まずい沈黙が降りた。
それを破ったのは、シャワー男の方だった。あっけに取られた声で、彼はぼそぼそと言った。
「せ、生殖器なし――無性別か、おまえ」
(えっと……)
「ず、ずっと男だと思っていたが――」
(あの……あなたは誰なんですか?)
「あ?」
どういうトリックだかは知れないが、何故か声にはなっていないのに、どうやら彼の言いたいことは伝わったようだった。シャワー男は、とても変な顔をした。まるで聞いたことが信じられない、という表情だ。
彼は続けて、目下最大の疑問もついでにぶつけてみた。自分よりも目の前の男に訊いた方が、納得のいく答えを期待できそうだったのだ。
(あ、その――ぼくって誰でしたっけ。さっきからずうっと考えてるんだけど、思い出せないんです)
「…………」
ノズルを持ったまま突っ立っている男は、呆然として黙り込んでしまった。
「…………」
(……えっと、あの)
「…………」
何故だかは知らないが、彼はその男の表情がひどく物珍しく奇妙に感じた。この男がまさかこういう顔をするわけがない、ということを、彼は良く知っているはずだった。
まだ思い出せないが、やっぱり彼はその男を知っているんだろう、と思った。そうじゃなきゃそもそも、目覚めていきなりバスルームで温水責めにされてる理由なんか思い付かないじゃないか。
やがてはっとした顔をした男は、きゅっと水の栓を閉めると妙にガキっぽい顔をして怒り出した。
「何の冗談だ?! おいおまえ、そんな狂言で俺に見逃してもらおうったってそうはいかないからな!!」
(え……えっと、あの、すみません)
「大体その気色の悪い喋り方は何だ! 気分が悪いぞ!」
(き、気色悪いって……)
そうは言っても、この口調は大分彼に慣れているものだった。怒鳴り付けられておどおどとしながら、彼は必死に考えた。どうすればこの状況を、目が覚めたらバスルームで湯責め、それも全然記憶になくて、自分が今までどこで何をやっていたのか、ここはどこなのか、そもそも自分が誰なのかもさっぱり知れず、それを口にすると怒鳴られるなんていうことにどれだけ混乱してるかってことを、男に理解してもらえるだろうか。
そもそもその男の正体ってものが、彼にはさっぱり掴めなかった。だが敵という訳でもないだろう。目の前の男の雰囲気にも、自分の直感からも、悪意ってものはさっぱり感じて取れないのだ。
(誰だっけ、この人)
いろいろとあやふやな記憶を探ってみたが、どうもいまひとつはっきりとしない。だが、何か思い出さなければならない。そうでないと、目の前の男は今にも噛みついてきそうな顔をしていた。
解らない数式を無理矢理答えさせられるような気分で、彼はようやく自分の中で少しだけ引っ掴んだ記録を口にした。
(えっと、あの、ぼくの名前――)
「ああ?」
(ぼくの名前……名前は……て、天色優って言います!)
その名を口にして、彼は顔を輝かせた。それは確かに彼の名前であるような気がした。彼自身その名前を口にするのがとても誇らしかった。ずっとこの名前がお気に入りだったような、人に呼んでもらうことがひどく好きだったような――そんな気分がした。
だが目の前の男は、その答えがお気に召さなかったらしい。世界の終わりみたいな顔をして、空気を淀ませた。
「どうやら、本気のようだな……」
(……え?)
「そうか、まあ、仕方ない……。まあそいつは後でなんとでもしてやるとしてだ」
(え?)
「まずはその薄汚れた体を何とかしてやらなきゃな」
(え?)
「言っておくが、俺は生まれてこの方置物なんて洗ったことがなくてな。さて、どうなることやら」
(……あ、あの)
彼、天色優は怯えて後ずさった。
目の前の男の手にはもうシャワーはない。代わりに握られている長いデッキブラシに擦られることを想像して、天色優は顔を青くした。
(うう、酷いよ)
「ふん、まさか傷ひとつつかんとはな。おまえは本当に丈夫だ」
(そんなこと言ったって、痛いものは痛いよ)
優はデッキブラシで磨き倒されて体のあちこちでひりひりするあたりを擦りながら、ちょっと涙目でそいつを睨んだ。目が鋭くて、ちょっと怖い――いや、目つきが悪いとかそういう代物ではなく、それ自体が剃刀みたいにぎらぎら光っているのだ。
いいところ自分と同じくらいの背格好から、同年代に見える。水に濡れないように捲り上げていた薄紫色のスーツの裾を直しながら、その男は優を見てぼそっと言った。
「俺の名前も忘れちまったのか」
(えっ? あ、ああ、いや……)
優はあたふたとした。もしもその男といわゆる友達の関係なんかだったりしたら、いくらなんでも相手を忘れるなんて酷いんじゃないかな、と思ったのだ。とりあえず男の顔を見ながら、優は思い当たるような名前をいくつか挙げてみた。
(か、香純くん?)
「誰がだ」
(じゃあ、三都雄くん。……神元くん?)
「何で最後だけ苗字なんだ。まあ、本当に綺麗さっぱり忘れちまってるようだな」
(……ごめん)
「しおらしい真似はやめろ、気色悪い」
男はなんだか諦めきったような顔をして、調子が狂う、と言った。
「俺のことは「リィ舞阪」とでも呼んでおけ。おまえが「天色優」ならな」
(は、はあ)
優はなんだかはっきりしない心地のまま、頷いた。リィ舞阪という名前にもやはり覚えはなかった。結局この男と自分はどういう関係だったのだろう、と優は疑問に思ったが、どうやらリィ舞阪とやらはそれに答えてくれる気はないようだった。
(まあいいか。悪い人じゃなさそうだし)
いろいろと腑に落ちないものを感じながら、優は溜息をついた。それは彼の名前じゃない、と優の中にいる誰かが囁いている。確かに変な名だが、だけれど男の顔を見て思い浮かんだ単語よりはいくらかそれらしかった。
(でもやっぱり、「フォルテッシモ」なんて名前がある訳ないしね)
どう見てもアジア系にしか見えない男の顔を覗いて、優は思った。馬鹿にしてるんじゃないかと怒られそうだったので、そのふざけた音楽記号は口にしなかった。
「それにしても、おまえは口がきけないのか」
リィ舞阪はじろっときつい目で、優を睨みながら言った。優は慌てて頷いた。
(あの、さっきから何度も喋ろうとしてるんですけど、なかなか上手く声にならなくて、な、なんでだろう……)
「まあ、あそこまで損傷してたんだ。そのくらい不思議じゃないが……しかし、それにしてもなんでおまえはあれで死なないんだ。俺にはそれが謎だ。……まあ、おまえらしいと言えばそうだがな」
(あ、あの、ま、舞阪さん?)
「…………」
(訊いてもいいですか? なんでぼく、声が出ないのに、ぼくの言いたいことがあなたに通じるんです?)
「…………」
リィ舞阪は苦い顔をして黙ったままだ。何か変なことを聞いたかな、と優が不安になってきた頃、彼は疲れきったように頭を数度振った。
「まさかおまえに舞阪さんなんて呼ばれる日が来るとはな。調子が狂うなんてものじゃない」
(は、はあ)
「ユー……いや、天色優……君。そうだな、しばらく「君」には相応の対応をしてやろう。俺ももういい大人なんだからな」
リィ舞阪は訳の解らないことを言うと、つい、と優の額を小突いた。
「しばらく世話を掛けられてやろうと言ってるんだ。礼のひとつもないのか」
(え? ……あ、い、いや。でも、その、迷惑なんじゃ……)
「黙れよ。ならなんだ。素っ裸で頭の中は空っぽのままっていう今の状態で放り出されてどうするって言うんだ? なにかあてでもあるのか? ん?」
意地悪く言われて、優はぐっと言葉に詰まった。彼の言う通りだった。今の優は、ひとりでは何もできないのだ。
(で、でも、あの、な、なら! ぼくもなにかします! ええっと、せめて生活費を)
「ん? なんだ、無一文で着の身着のままの服すらないくせに、どこからどうやってそれを絞り出すって言うんだ」
(か、体でお返しします!)
優が言い募ると、何故だかリィ舞阪は思いっきりひっくり返った。
「な、な……」
そしてすぐに勢い良く起き上がると、すごい剣幕で優を怒鳴った。
「何のつもりだ、そりゃあ!」
(だ、駄目ですか?)
「駄目も何も、俺は――」
(ぼく、頑張って働きますから! 掃除でも洗濯でも、食事だって何とか……あの、舞阪さん?)
必死で言い募っている途中から固まってしまった舞阪に気がついて、優はおずおずと目を伏せた。
(あの、お邪魔ですか? もしかして家事とかするの、好きな人ですか?)
「…………」
(あの……)
「…………」
優がおどおどとしていると、舞阪ははっとして顔を真っ赤にした。
「くそっ、か、勝手にしろ!」
(は、はい!)
優は慌てて頷いた。
(じゃあ、今から掃除でも――あ、あれ?)
優は立ち上がろうとしたが、体が上手く動かない。何度も試してみたが、筋肉が弛緩したように痺れて、指一本動かすにしても重労働だ。
「……動ける訳ねーだろ、さっきまでミイラだったんだぞ。馬鹿か」
舞阪の冷たい声が優に突き刺さった。
6
「外ではなんだか妙なことになったようだね」
面白そうにしている隣の男に、ユージンはそっけなく返した。
「別にどうってことないだろう。あの男も、今度は一体どういう気まぐれを起こしたんだかな」
「そんなことを言って、本当は嬉しいんじゃないのかい」
「何故ぼくが」
「気付いていないのかい? いや、覚えていないのかな。あんなに彼のことを気に掛けていたのに」
「知らないな。ぼくはそんなことをした覚えもないし、あの男はぼくなんかが気を揉んでやる必要なんてないだろうしな」
ユージンはあくまで冷たく、つまらなさそうに言った。
「何故そう思うんだ?」
「いやなに、ちょっと面白いものを見たせいでね」
その男は、さっきからざあざあと砂嵐がうるさいモニターの画面を指差して、ほら、と言った。
「これだよ」
もう体が動かなかった。指一本、声帯ひとつまともに機能しない。死神には置き去りにされたが、刻々と彼の体は死そのものに蝕まれはじめていた。
彼はもう痛みもなにも感じない。友達が死んでしまった悲しみと、彼らを守れなかった能なしの自分への怒り、後悔、それでも生き延びた者が数人いたことへの安堵、そんな生きた感傷も、もう彼はうまく感じることができなかった。
今の彼には、ただ空虚があった。死はいつだって彼の身近に存在していたが、こんなに全身いたるところまで深く潜り込んできたことは初めてだった。
今まではどんなに死にそうな目に遭っても奇蹟的にどうにかなっていたものだが、今回ばっかりはもう駄目みたいだな、と彼は思った。これで終わると思うと、とてもすがすがしいような気持ちだった。やっとがんじがらめのニセモノの人生に幕が降りるのだ。
しかし同時に、それでもまだなにか自分はやらなければならないことがあったような、奇妙な焦燥も感じた。それが何なのか、もう彼は上手く考えることも難しくなっていた。意識はさらさらと流れていく砂のように、形を崩していく。あるいはそれは、なけなしの自我そのものの崩壊だったかもしれない。
(ああ……なんでぼくは最後まで、こんなに中途半端だったんだろうな?)
微笑を湛えたまま――もう表情も動かせないので、さっきからずうっと固まったままなのだ――彼は思った。
(最期くらい、もうちょっとまともに終わりたかったかもな。死ぬのはぼく一人だけでいい。ぼくが死ねば彼らは統和機構の監視対象から外れる。そっちのほうがずっと良かった)
彼はちょっと寂しいような、しかしそれが一番良かったのにという、なんだか矛盾した望みを思い浮かべてみた。そう、彼らだけ――海影香純、七音恭子、神元功志、辻希美、数宮三都雄――それに気に入らないが、キトも加えてやったっていいかもしれない。彼女はどうやらあの5人に気に入られたようだから。
それで6人だ。彼らは酷い目に遭ったなとぼやきながら、あのいつかあった「血の匂い」の時と同じようにくたびれきってぼろぼろになりながらも、誰からともなく笑い出すのだ。そして彼らは日常に戻る。
普通の人間とはちょっとずれている、一風変わった、だがありふれたごく普通の日々を送る。もしその時、少しでも天色優という友人がいたことを思い出して、あんな奴いたよなあ、なんてことを言い合ってくれたとしたら、それだけで彼は嬉しい。満たされる。
(でもしんみりしちゃうかな……)
彼らはいい人だから、きっとこんなニセモノのことでもきっと本気で悲しんでくれるだろう。
天色優は嘘吐きで裏切り者の化物だ。そんな彼にだって、いなくなった時に少しでも悲しんでくれる人がいる。優は幸せを感じた。このニセモノの人生も悪くなかったな、と思えた。
(ぼくは自分の能力には割と自信があったんだが、こんなに弱かったんだな)
もっと強ければ、あの6人は天色優の理想の結末を迎えていたはずだった。
(例えば「あの男」みたいに強かったら――ああ、そうしたらぼくも死なないな。それはちょっとやりにくいな。このまま、少しでも綺麗なままで終わってしまえる方が、きっとぼくは嬉しい)
彼はそこでくすっと笑った。もちろん声にはならなかったし、表情もずうっとさっきから微かな笑みを浮かべたままで、変わらない。最後の最後で思い出すのがあの男のことだなんてと妙におかしくて、彼はさっきみたいにくすくすと声にならない声で笑った。
(そう言えばおまえはほんとに独りだったなあ……)
人のくせに、あの男は合成人間の彼よりもずっと孤独だった。任務の他のことなんて考えたこともない合成人間を、たった一人の友達と呼んだ。もしかすると寂しかったのかもしれない。
空想すると、妙におかしかった。あまりにもその男のイメージにそぐわなかったからだ。
(ぼくでさえ悲しんでくれる人はいるのに、誰からも怖がられて、結局喧嘩ばっかりで――ぼくも大概だが、きっとろくな死に方をしないに違いない。……馬鹿な奴め)
ユージンはくすくすと笑ったままだ。だがそうやっている彼の頬に、涙が一筋伝った。
なにもわからないあの男が可哀想だった。そいつは人間のくせに、自分の体にある人のぬくもりさえ知ろうともしない。
(ふん、まったくぼくに同情されるなんて、おまえも終わりだな)
そんな余力はもう残っていないはずなのに、涙は後から後から絶えず零れた。思い出した。種類こそ違うが、殺気だった執着ではあるが、確かにあの男は彼のことを認めて、友達だなんてほざいたのだ。
(ああ、まったく)
彼はほんとに最後の最後で、なんでこんなことを思うんだろう、と自分が嫌になった。
(今、むしょうにおまえに会いたいなんて、ぼくもやきが回ったものだ)
結局無駄なんだが、と天色優という名を名乗っていた合成人間ユージンは冷静に思った。彼はもう朽ち掛けている。
――これは夢だと彼は理解していた。体はふわふわと浮いているように熱っぽく、だが寒い。凍えきっている。熱くて冷たい、という妙な按配だ。
そこは廃墟のようだった。周りに広がるのはぼろぼろに風化しかけた建物の残骸だ。だが、廃墟ならば終わりがあるはずだ。生きている世界との境界というものが、どこかにあるはずだった。
しかし彼が見たところ、どこまでもどこまでもその終わりの風景は続き、果てが見えなかった。まるで滅びた後の世界に一人で立ち尽くしているようだった。
(なんだ、ここは?)
彼はひどい孤独と焦燥を感じた。誰もいなかった。世界には、彼一人しかいなかった。
(人間が言うところのあの世という奴か? いや、ぼくは人間じゃないから――もしかすると、そのせいでこんな中途半端なところに送られたっていう訳か)
もしもユージンが例の冬眠の後で目を覚ませないまま朽ち果ててしまったとしたら、同じ時間、場所で死亡した友達の三都雄や神元、辻たちに会えるかもしれないとほんの少し希望を持ったが、彼はそれをすぐに否定した。
(馬鹿な。彼らとぼくじゃ、行く場所がまるで違うじゃないか……)
死後の世界を信じてはいないが、そんなものがもしあるとしたら、ユージンは間違いなく地獄行きだ。それは自覚していた。
どうやら、地獄にすら辿りつけないようだった。こんな滅んだ後の誰もいない世界で、どうやら一人きりでこれから未来永劫存在し続けなくてはならないようだ。
(まいったな。冬眠でもするか?)
彼は途方に暮れた。もう誰にも命令はされないし、自由だ。だが独りだ。
友人たちと過ごした思い出があることだけが救いだった。冬眠機能を使えば、これからも幸福な夢だけはいつもそばにあるだろう。
「……ん?」
目を閉じ掛けたユージンは、ある種の馴染んだ気配に気が付いて顔を上げた。ぴりぴりする。「そいつ」がそこにいるだけで、絶対的な威圧感と寒気がそこにいる誰もを襲うのだ。
こんな気配を持った人間は、知り合いには一人しかいなかった。
「ああ、おまえか」
倒れ掛けた廃ビルのすぐ下に突っ立っている男に声を掛けて、ユージンは冬眠をしかけていた姿勢から立ち上がった。
そいつはまだぼんやりとしていた。まるで今までベッドの中でごろごろとまどろんでいたのに、気が付いたら何故かこんな所に突っ立っていて、それが何故だか思い出せないとでも言うふうな、そう、冬眠に入ったところまでは覚えているので、これは夢だろうかと自問しているユージンと同じような顔をしていた。
ポケットに手を突っ込んで、宙を見上げている。その男の名前はフォルテッシモと言った。ユージンと同じく、統和機構に所属しており、ただ彼は合成人間ではなく人間だ。
そのくせランク――彼にそういうものがあるのかは知らないが、組織の待遇がユージンより各段に上だ。
「やあ、フォルテッシモ。ちょうど君に会いたいと思ってたんだ」
これは夢だと自覚していたので、ユージンは微笑を浮かべてフォルテッシモに呼び掛けた。フォルテッシモは振り向いて、ユージンの予想通りに変な顔をした。そう、ユージンが笑った顔なんて、彼には馴染まないに違いなかった。
案の定フォルテッシモは、気色の悪いものを見た、という表情を浮かべた。
「これは夢だ」
「え?」
「おまえがそんな顔で、そんなふうに……いや、おまえから俺に話し掛けるなんてことがあるわけがない」
「ぼくって、やっぱりそんなふうに冷たい奴だって思われてるんだ」
ユージンはくすくす笑った。なんだかおかしくて、そして同時にほんの少し誇らしい気持ちだった。この心の底から零れてくる笑顔というものは、合成人間でお先真っ暗な上にがんじがらめだったユージンでも、変化することができたという何よりの証明だった。
「……気色悪ィ。俺もどうやらここのところ退屈続きでまいっているみたいだな」
「おまえはどうやら、相変わらず喧嘩ばっかりなんだろうな」
「まあな。しかし本当にまったく、どこに行っちまったってんだ、おまえは。ええ?」
フォルテッシモは急にユージンに絡んできた。彼はユージンのそばに寄ってきて、胸を小突くと、どっかりと地面に腰を下ろした。
「行方不明だと? ふざけるな。中途半端なままいきなり消えやがって、かと思えば夢に出て来るし、笑った顔なんてものは見せるし、冗談が過ぎる」
「勝負の決着って言わないのか? おまえはそればっかりだったのに」
「ふん、実際に遭ったらそいつに関しては白黒はっきりさせるとも。こんなところでまで、馬鹿馬鹿しい」
「へえ、ちょっとは成長したのかと思ったが、そうでもないみたいだな」
「そしてこういう時に限って、そーやって喧嘩を売ってくれるんだな。おまえはそーいう奴だ」
ふてくされたように言うフォルテッシモは、ユージンの方を見ようともしない。ユージンはかがんで彼の頭に手を置いた。彼の柔らかい猫っ毛の髪を、ぽんぽんと軽く叩いた。
「なんだ、このガキにするようなのは。気分が悪いぞ」
「そうなのか? ぼくは最近他人にこうされるとすごく安心するんだが、おまえは気に入らないようだな」
「誰にされたんだよ」
「内緒」
「自分の夢とは言え、おまえにそういう喋り方をされると死ぬ程不気味だな」
フォルテッシモはやれやれ、と言って、頭の上に置かれたままのユージンの手を払った。
「こんな夢を見るってことは、やっぱり俺にはそういう願望があるんだろうな」
「え?」
「聞き返すなよ。俺にとって、おまえはたった一人の友達なんだよ。おまえはどーだか知らんがな」
彼はそして自嘲気味な笑みを浮かべ、
「本当に冷たい奴だったからな」
「…………」
ユージンはどういう顔をすればいいのか、何を言えば良いのか解らず、ただぼんやりとフォルテッシモを見た。
「これもただの気まぐれだ。本当はそろそろ諦め掛けてきている。どうせおまえもどこかでくたばって、消えて無くなったんだろう。あと何年かすれば俺も、そーいう奴がいたなんてことは忘れる」
「…………」
「おまえが俺のそばにいたなんてことは忘れる」
「…………」
一言一言をつまらなさそうに吐き捨てるように言うが、フォルテッシモはその割に息苦しいものを感じてでもいるような、それに焦燥も交えたひどい顔をしていた。ユージンはぽつりと訊いた。
「なんで泣いてるんだ?」
彼はそれが不思議で仕方がなかった。なんでこの男は、ユージンなんてただの合成人間がひとりいなくなったからと言って、こんな顔をするのだろう。
「泣いてねえよ」
「泣いてるよ」
「見るなよ」
「やっぱり泣いてるんじゃないか」
「うるせえ。死ね」
「ひどい言い草だな」
二人して世界の果てみたいな廃墟の瓦礫の山の上に座り込んで、彼らはしばらく黙り込んでいた。長い長い沈黙の後、フォルテッシモはユージンの合成人間の聴力でようやく聞き取れるくらいの小さな声で、なあ、好きだ、と言った。
「なにが?」
「おまえだよ。おまえが好きなんだよ」
「ふーん」
「なんだ、その「ふーん」ってのは」
フォルテッシモは、ユージンがどうも信じていないような様子が気に入らないようだった。彼は最近あまり見掛けなくなったふてくされたガキっぽい顔をして、猫背気味に体を丸めて、まあいいがな、とそっけなく言った。
「どうせおまえには、人間様の感情なんてものは理解できねーんだ」
「…………」
ユージンはそう言われて、顔をくもらせた。その通りだ。人間の考えていることは、はなから理解出来ない。当たり前だ。
人間が思い描く神々の思考までは想像できないように、造られたものが造った側の気持ちなんてものが考えられるはずもない。
「な、なに傷ついたような顔してんだ。ユージンのくせに」
「なあ、フォルテッシモ。ぼくはあまり強くないぞ」
「ああ? 急に何をほざいてるんだ。おまえが弱い訳はないだろう、俺のパートナーだ」
「弱いんだ。ぼくの能力なんてものは、おまえと比べると本当に役立たずで、無力なんだ」
ユージンが静かに言うと、フォルテッシモは隠しもせずに顔を顰めた。彼はユージンが、そう言った自分を卑下する言い方をするのが、ひどく気に入らないようだった。
ユージンにしても、それは自分を貶めているような種類のものではなかった。事実だった。
「ぼくは役立たずで無能でどうしようもなくって、失敗して、大事なものも全部なくなってしまって、あるのは思い出だけだ。ずっと羨ましかった。ぼくはおまえみたいになりたい」
「何を言い出すんだ、てめーは」
「ぼくも人間で、それだけ強い力があれば、単純馬鹿だって良かった。そのくらい我慢できるよ」
「今、死ぬ程無礼な事を聞いたぞ。なんだって言うんだ? 珍しく良く喋ると思えば、変なことばかり言いやがって。むかつくな」
「なあ、フォルテッシモ」
ユージンは機嫌を損ねはじめたフォルテッシモに、静かに語り掛けた。
「好きだ好きだって言うけど、おまえは本当にぼくのことが好きなのか。べつにからかってる訳じゃない?」
問われたフォルテッシモは、あからさまにうろたえた。おそらくこういうことを大真面目に話題に上らせることに慣れていないのだろう。顔を赤くして、怒って言った。
「いきなりそんな話を振るな!」
「前にね、友達って呼んでくれただろう。そんな言葉でおまえのことばかり浮かぶんだ。みんなみたいに――ぼくが全部掛けたって構わないくらい、おまえは本当にぼくのことを好きになってくれるんだろうか」
「ユージン。何を言ってるんだ――」
ユージンは首を伸ばして、フォルテッシモの唇を噛んだ。味は解らなかった。ただ、彼は自分よりも温かかった。そのくらいしか知らない。
「友達なら、君をひとりにしたくないんだ」
ユージンはぽつりと言った。とても似合わないことをしているような気がしたが、しかしこれは夢なのだし、やりたいようにやれば良いのだ。
ユージンよりも独りのフォルテッシモに、こういうことをしてやるのも悪くないかな、という、それは死に際のくたばりぞこないのきまぐれだ。そういうことにしておけばいい。
だから視界が潤んできていることにも、ユージンは意識して気付かないようにしていた。こみ上げてくる嗚咽もどうにか押さえ込もうとした。上手くはいかなかったが、努力は十分にした。結局は失敗に終わった。
――人間のくせに、なんでそんなに独りなんだ。そういうのはぼくらだけでいいのに、なんで。
自分の身体に起こり始めた変化を、これは良くある兆候だ、とユージンは冷静に分析した。頭の中は熱い。目も、顔中もだ。泣き出す直前の状態だ。
まるで鏡の中の己の姿を見ているようなその男の独りぼっちの姿は、もう見たくないのだ。
「ひどい自己中心的な考えだな」
テレビ画面の前で、やれやれと肩を竦めながら、名もない男が言った。ユージンは緩慢に首を巡らせて、彼に向かって自信がなさそうに訊いた。
「そう思うか?」
「ああ。君は自己を救済するために、その方法を自分と似たような立場の彼に求めたんだ。まあ良くある考えだ、悪いとは言わない。ただ、押し付けられた方にしてみては重荷ではあるだろうな」
「…………」
「そんなにしょげることはない、言っただろう。人間には良くある考えだ」
「人間って、誰の?」
「以前交配実験名目で交際していた多数の女性のほとんどが、そういう感じだったんでね」
「ぼくは女々しいのかな」
「さあ。それよりも僕にしてみれば、君がそんなに寂しがりな合成人間だったってことの方が、新鮮な驚きだったよ――」