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『おかえりなさい』
玄関をくぐって寝室を覗くと、声にならない声で、にこにこしながらユージンが言った。フォルテッシモは仏頂面で、おう、と応えた。
ユージンはベッドに横たわった状態のままで、まだ上手く動くことはできないようだった。フォルテッシモが手を貸してやらなければ、一人で起き上がることすらできないのだ。
今まで、どうしてこういう状態になったのかということを、ユージンは何度も思い出そうと試みていたが、それらは無駄に終わっている。自分が何者でどうしてここにいるのか、ということも良く解らないようだった。
フォルテッシモはそうしたことは何度彼に聞かれても、決して教えてやらなかった。腹が立つし、自力でなんとかしなければしょうがないことなのだ。
『お仕事、終わったんですか』
「まあな」
『面白くなかった?』
「何故そう思う」
『そんな顔をしてますよ。嫌なら辞めたほうがいいんじゃないかな。あなたなら他にいくらだってあるでしょう』
何も覚えていないとは言え、ユージンの口からおおよそ彼らしくないことを聞いて、フォルテッシモはふいを突かれてきょとんとした。ユージンはその反応にばつの悪そうな顔をして、すまなそうに頭を下げた。
『ごめん、余計なこと言って』
「いや……おまえがそういうことを言うから、ちょっと驚いただけだ。仕事一筋、って感じだったおまえが……」
『あ、もしかして、ぼくと舞阪さんは同じ会社の人間だった、とか?』
フォルテッシモが口を滑らせるようにしてそう言うと、ユージンはすぐに反応した。彼はどうも自分のことがさっぱり解らない、ということがひどく不安なようで、このマンションで目を覚まして以来、ずっと焦っているようだった。
『そうなんですか?』
真剣な目で聞いてくるユージンに、フォルテッシモは「まあこのくらいならいいか」と思いながら、軽く頷いてやった。会社、という表現が、割かし面白いものだったからだ。
「そうだ。世界一大きな会社だぞ。どんな辺境でも支社がないところはないし、最先端の技術、世界最高水準のスタッフ、国籍も年齢も全く関係なく、能力で全部判断される理想の会社だ。ただ、本社がどこにあるのかさっぱりわからねーんだよな」
『うーん、想像もできないなあ。部署が同じだったとか……あ、もしかして、舞阪さんがぼくの上司だったりしたら、ぼくは今まですごく失礼なことをしてたってことになるんじゃ』
「今更何を言ってんだ。おまえが無礼なのは、今に始まったことじゃない。今みたいな礼儀正しいおまえってのが、滅茶苦茶に気色悪いくらいだ」
『……ぼくってどういう人だったんです?』
何度目かの同じ質問を、フォルテッシモはそっけなく流した。
「自分で思い出せ。これ以上は教えない」
『そうですか……』
「余計なことは考えるな。ほれ、起きろ」
憂鬱な表情で溜息をつくユージンの傍らに、フォルテッシモは屈み込んで、彼の身体を抱えて起き上がらせてやった。
ユージンの身体は、驚くほど軽い。人間ならそれらしい重さってものがあるのだが、同じ体格のフォルテッシモと比べても彼は軽過ぎた。フォルテッシモ自身痩せぎすであまり体重はないのだが、ユージンの身体はどうも生存が可能なぎりぎりのところまで痩せてしまっているようだった。
野ざらしで補給の底をついて、まだまともに食事も取れず、ようやく点滴を外して栄養タブレットを受け付けるようになったところなのだから仕方がないと言えばそうなる。だが彼の身体の冷たさも相俟って、なんだか中身が空洞のマネキンを抱き上げているようで、あまり気分が良いものではなかった。
「包帯を巻いてやる」
『あ……ごめん』
「謝るならさっさと回復して、自分でできるようになるんだな」
フォルテッシモはそっけなく言って、ユージンの身体にぐるぐると包帯を巻きに掛かった。
「…………」
『…………』
「くそっ、うざったいな」
『あの……』
「なんだ、俺は今忙しい」
『あの、無理ならぼくは別に』
「うるせえ。無理とか言うな」
フォルテッシモが噛み付きそうな顔で凄むと、ユージンはびくっと震えて、黙り込んでしまった。
「仕方ねーだろ。他人の包帯を巻いてやるなんて、初めてなんだよ」
ちょっと力加減を間違うとユージンは痛いと訴えるし、緩めれば解けて台無しだ。フォルテッシモは悪戦苦闘していた。彼にとって、それは初めての苦戦だった。
「誰かの世話なんか、したことがないからな」
言い訳がちにぼやいて、フォルテッシモは半分やけになって包帯を固結びした。
ユージンが首が締まると訴えたが、フォルテッシモはそれはもう無視することにした。
フォルテッシモにとって、それらは初めてのことだらけだった。人の世話だとか何だとかで一人の人間に特別に構ってやることや、ベッドが占領されているのでソファで眠るはめになったりとか、勝ち負けなしに誰かのことを考えてやったりなど。
そういうことは今まで全くフォルテッシモとは関係ないところにあったはずだった。だが予期せず転がり込んできたその事態は、面倒臭くて厄介であんまりにもフォルテッシモらしくなくてうんざりするのは確かだが、不思議と我慢ならないという種類のものではなかった。
ユージンはいまだに上手く声ひとつ出せないでいた。しかしそれは唇の動きを読んでやれば問題なく伝わったし、おとなしくベッドの上で眠っている分にはまったく問題なかった。
何故こういうふうに、行動に支障をきたすくらい衰弱しきった合成人間を見限ったり処分に回したりせずに、わざわざ面倒を見てやっているのかということをフォルテッシモは自問してみたが、どうもはっきりとした答えは出そうになかった。
(まあ、あいつ本人ならコンマ1秒単位も悩まずにすっぱり切り捨てたんだろうがな)
多少の皮肉を交えて、そう考えた。冷酷非常、計算高い、情もなにもあったもんじゃないユージン。
(そう、俺は、そんなおまえが好きだったんだよ)
その「好き」という形容が、どうも良くわからないのだ。戦闘が好き、ピーチコンボが好き、ユージン、彼のことが好き――それらはどれもが違う意味を持っていて、しかし纏めてひとつの言葉にしてしまえばどれも同じだった。フォルテッシモには区別がつかない。
強い人間が好きだ。ユージンは強い。だが目の前で、自分自身を見失って、フォルテッシモのことも統和機構のことも自分の能力さえも忘れ果ててしまって、ただのまっさらな赤ん坊と同じ状態に退行しているユージンのことも、戦闘能力なんていうものはまったく期待できないような身体になってしまっているのに、それでも好きだと言ってやっても良いのだ。
(なんなんだかなあ)
『甘酸っぱい青春の悩みって奴だな。うんうん、喧嘩番長もようやく脳味噌と下半身に春を迎えたって訳だ』
軽薄な声が頭の中に響いた。フォルテッシモは「てめーか」とぼやきながら、うんざりした顔をした。
(そりゃあどういう喩えだ? てめーの言う事はどうも波長にノイズでも混じってるのか、俺にはさっぱりわからん時がある)
『そりゃ、あれだろーよ。おまえも今度生まれ変わったら最強なんて不健康な定職につかずに、一回大真面目に学生なんかやってみろ』
(は? 大体なんで頭と下半身に春が来るんだ。そりゃ季語かなにかか)
『ううん、どーやらてめーにゃまだ難し過ぎたよーだな。初恋は幼稚園の先生で、小学校に上がってからは隣の席のミヨちゃんが気になってるんだが素直になれなくて、ついスカート捲ったり消しゴムのカスをブラウスの中に入れちゃう。そーやって泣かせてみせると妙に興奮する。とか言う淡いアレな感じか。そーいう悩みは、良くオレも相談されたもんだ』
(いつどこで誰にだ。いい加減なこと言ってんじゃねーよ)
あまり気を入れて相手をしないまま、フォルテッシモはユージンの寝顔をじいっと見つめた。彼は警戒も緊張もなく、安心しきった寝顔を晒している。
過去何度も彼の寝顔というものは見たことがあったが、そのどれもがただ単純に目を閉じているだけという、いつだって目を覚ませるほどに簡単なものだった。少なくとも、だらしなく口を半分開けたままで、たまに寝言なんて言ったりはしなかった。
『そんなに堂々と見惚れるなよ。こっちが恥かしい』
(いや……。ただ綺麗な顔をしてやがるなと思っただけだ)
『そーいうのを見惚れるってんだ、この中学生日記ヤロー』
(わかんねー)
投げやりにアンクを弄んでいると、ふと気がついたようにエンブリオが言った。
『良く見てみりゃあ、おい、こいつだ。おまえの天使様』
(あん?)
『こいつだっつってんだろ、あのいつもおまえの夢に出てくる……雰囲気も口調もなにもかも全然違うが、顔だけはこいつと一緒。いつか言っただろ、羽根付き天使だ。ありがたい天使様、おい、賽銭とか用意しろ』
(してどうすんだよ)
『せっかくだから願い事のひとつくらい叶えてもらおーじゃねーか。ああ天使様、どーかこのアホな最強を生贄にでもなんでもして、オレを人間にして下さい』
(ロクでもねー願掛けをするなッ!)
『ひひひひひ』
たちの悪い声で笑うところからして、どうやら悪趣味な冗談のようだった。
(それにしても……)
フォルテッシモはうんざりした。
(こいつが天使か。まったく俺も妙な夢を見るもんだな)
『夢には願望が反映されるって言うよな』
(どーいう願望があるんだ、俺は)
『ひひひ』
はあっ、とひとつ溜息をついて、フォルテッシモは気の抜けた寝顔を見せているユージンのほっぺたを抓った。
「まったく気持ち良さそうに寝やがって、おまえはどーいう夢を見てるんだか」
答えは返ってこなかった。ユージン特有の浅い人工的な眠りではない、本当の睡眠だ。
*
「ううん、俺はどうやらまた夢を見ているようだな」
「ぼくもどうやらそうみたいだな。身体はどこも痛くないし。さて、それで何の話だったっけ?」
「なんだったかな……ああ、そうだ」
「あ」
少しずつ頭に掛かったもやが晴れてくるにつれて、彼らは二人して顔を赤らめた。
また瓦礫の山だ。
世界の果てみたいな廃墟がずうっと続いている。
「すまないな。まさかもう一度おまえに会えるなんて思わなかったから、ちょっと混乱してたみたいだ」
「別に構いやしねーよ」
照れ隠しも含めたそっけない遣り取りをしてから、フォルテッシモはユージンの顔をじいっと見た。ユージンは目元がまだ赤く染まっているのを見られたくないのだろう、具合が悪そうに目線をふらふらとさせたが、それでもいつものようにさっと視線を逸らしたりすることはなかった。
「なに?」
「いや、おまえの顔だなって思ってな」
「当たり前だろう、何を馬鹿なことを言ってるんだ」
「そうは言っても、このやる気のなさそうなすかした面を見るのも久し振りなんだ。おい、何年振りだ?」
「さあ」
「少しは話に乗れよ。だんまりなんて辛気臭いのは、性に合わねーんだよ」
「おまえはちょっとは黙ったほうがいい」
「うるせえ。……おまえがす、好きだなんて言うから、どーいう顔すりゃいいのかわかんねーよ」
「こっちこそ」
「おまえはいつもの能面だろうがよ」
「そうでもない」
「なにがそうでもないんだ」
「ど、どうだっていいだろう。少なくとも、ぼくはおまえみたいに感情が直接顔に反映されるみたいな器用なんだか不器用なんだかわからないような男とは違うんだ。こういう時にどういう顔をすればいいのかなんて、さっぱりデータにないんだよ」
彼らが黙り込んだので、滅んだ後の世界からは何の音もなくなった。それは気まずいが、だが嫌な感じはしない沈黙だった。フォルテッシモはなるべくユージンの方を見ないようにしながら、その手をぎゅっと掴んで握った。
「な、なんだよ」
「うるせー。このままでいろ」
「手なんか、なんで」
「黙れっつってんだろ。俺がそうしたいんだから、おとなしく触らせろって言ってるんだよ」
「別にいいけど。なんだか、すごく気恥ずかしいな……」
「ふん」
「でもこういうふうに、おまえにまともに触ってるんだなあってことを意識したのは初めてだ」
「感想は?」
「ああ、うん。おまえ、ぼくよりずうっと体温が高いんだな。温かいよ」
ユージンはそうして、半分目を閉じて、気持ち良いのか複雑なのかわからないふうに、困ったように目を細めて言った。
「ああ、これ、人間の体温だよ……」
その声にはかさかさに乾いていた花に水をやったような、切実な安堵が混ざっていた。
*
「それで、結局どっちを選ぶのかな?」
ただ目の前で鮮やかな映像が、様々に移り変わっている。静かにそれに見入っていたところで、男が横手から口を挟んできた。ユージンは、そちらを振り向きもせずにそっけなくぼそっと言った。
「どっちって、なにが」
「もう君は知ってるはずだ」
その口調は世間話でもするようにごく軽かった。まるで古くなった家の壁を塗るペンキの色を白にするかグレーにするかとか、明日出掛ける際に着ていくのはセーターにするかジャケットにするかというふうに。
それでもユージンは、彼が言いたいようなことはなんとなく理解してきた。だがどっちつかずだったので、さあ、どうしようか、と曖昧にごまかした。
*
まともな声が出せるようになるまで二日掛かった。ベッドから上半身を起き上がらせられるようになるまで、四日掛かった。
そうして彼、天色優がこのリィ舞阪のいる部屋で目を覚ましてから一週間が過ぎた。ここはどうやらマンションの上層階のようで、窓から見える景色がとても良い。
川べりに建っているので、眼下には広く水の澄んだ川が流れていて、時折小さく魚の鱗に日の光が反射してきらきら光るのが見て取れた。天気が良く、空気の綺麗な日なんかには、遠くの山々の木々がはっきりと見えた。
どうやら自分の目は相当良いらしい、と優は思った。彼にとって、そういうひとつひとつの細かいことが新しい発見だった。なにせ、自分のことが何一つわからない状態だったのだ。
この部屋の主らしい人間、確かリィ舞阪とかいう奇妙な男は割合仕事で毎日忙しいらしく、朝から晩まで丸一日帰って来ないこともあった。そうしてそれとは反対に、二日ほどずうっと部屋の中で退屈そうにテレビを見ながらごろごろとしていることもあった。
どうも彼のついている職業には斑があるようだった。聞くところによると同じ会社勤めだったらしい優にしてみれば、そうやって舞阪がまともに仕事に就いている間、こうやって寝たきりで窓から外の風景を眺めているだけなので、前後不覚から脱出できる頃にはきっと間違いなく社長あたりに首を切られているだろうなあと考えて、妙に焦ったりする。
(それにしても、ぼくも彼もいくつくらいなんだろう? 見た感じ学生くらいかな。だとすると、新入社員ってやつなのかな? ああ、もう駄目だ。絶対クビだ、ぼく)
ぼんやりとそんなことを考えながら、優はごろんと寝転んだ。身体の方はもうほぼ回復していた。まだ立ち上がることができないのだが、筋肉が衰弱しているだけだ。
もうあの大きな傷もないし(どんな大事故に遭ったというのだろう?)腫れていた腕だって治ってちゃんと動く。
(もう少ししたら、舞阪さんに一緒に仕事に連れてってもらえるようにお願いしようかなあ。同僚でおなじ職場にいれば、何かいろいろ思い出せるかもしれないし)
頭の中はクリアだ。ただ本当にまっさらで、何も出て来ないのだ。
舞阪は今また野暮用だと言い置いて出て行ってしまって、優は部屋の中でひとりきりだった。そういう時は優は決まっていろいろな考えを巡らせて、時間を過ごしていた。
(彼と一緒に仕事って、全然なんにも想像がつかないや。あの人、なんかちょっと怖そうだしなあ。なんたって最強だもの)
ぼおっとそんなことを考えながら、時折出て来る単語にも、優は反応しない。ただ彼にとってごく当たり前で、意識することなくすぐそこにある感覚なので、そういうのが知りたい今の優にしてみれば皮肉なことだが、彼はどうしてもそれらを気に留めることができなかった。
(でもなんか、「統和機構」……うーん、「MPLS」……なんだっけ、これ……)
細切れのワードが眠気と一緒に押し寄せてきて、優は目を擦りながら欠伸をした。
(良くわからないけど、ぼくはなんだか、確か――)
それらの言葉に、彼は奇妙な後ろめたさを感じた。だがそれが何なのかを考える前に、優はあっさりと睡魔に意識を手渡して、眠り込んでしまった。
ドアノブを回す音で、優は目を覚ました。舞阪が帰ってきたようだ。
優はのろのろと重いまどろみを引き摺りながら、ここ数日でようやく動くようになった身体を起こした。まだぎしぎし軋んで、少し背中を曲げるだけでも痛かった。
「おかえりなさい」
しかし、優は顔を上げてぎくしゃくと微笑みながら舞阪に言った。この言葉は、役立たずの文無し居候の優にとってみれば、これだけはせめてやらなきゃならないだろう、という種類の義務なのだ。
「大分身体が動かせるようになりましたよ、お陰様で」
「そりゃあ良かったな」
「ええ」
舞阪は優の言うことに、いつものようにぶっきらぼうに、どうでも良さそうに頷いた。だが沈黙は気まずいので、何か喋っていないと落ち付かないのだ。
優はいろいろと、思いつくことを片っ端から一方的に舞阪に話した。その大半は質問だったが、舞阪は相変わらずそっけなくて、それには答えてくれなかった。
「それで、どう思います? この就職難にクビだなんて、やっぱりまずいと思うんです」
「だからなんだってんだ」
「あの、舞阪さんとぼくの職場って、一緒だったんですよね」
「連れていかんぞ」
「やっぱり駄目ですか?」
「当たり前だ。おまえ、身体もろくに動かせやしねーのに足手まとい以外の何者でもねー」
「な、治ったら」
「完全に治癒しても駄目だ。おまえは大体ふらっと行方不明になって、ふらっと発掘されたんだ。後ろ暗いところでもあったんだろうよ」
「そ、そうなんでしょうか……」
優は目を伏せて、溜息をついた。
舞阪に今言われたことは、確かに優自身今まで不安に思っていたことのひとつなのだ。例えば何か、まずい事件でもやらかしていたとしたら――そうしたらどうなるだろう?
刑務所行き、実はヒットマンに命を狙われていた。痴情のもつれか何かで殺人歴あり、など。
しかし、優がもしそういう犯罪を抱えていたとして、匿っているということになる舞阪はどうなるのだろう。やはり、とばっちりのひとつも受けるのだろうか?
優がそう言うと、舞阪は馬鹿にしたように鼻で笑った。
「安心しろ。誰も俺を断罪できる奴なんていやしない」
「……?」
「しかし、おまえとこういう「フツー」の話をする日が来るとはなあ」
「フ、フツーですか、これ」
「ああ。とびきり一般人みたいな会話だ」
「ええっと……。以前は、じゃあどーいう話をしてたんですか? 例えば分析サンプル10026が未提出だとか、投与された実験体の定時観察報告とか……」
「おまえ、実は記憶が戻ってないか?」
「え?」
「いや、なんでもない」
舞阪は、馬鹿馬鹿しい、と言いたげに頭を振って、ぼそっと呟いた。
「なんにも。おまえ、なんにも言わなかった。まともに俺と会話する気がなかったんだろーな、腹が立つが」
「…………」
優は居心地が悪くなった。舞阪はこんなに優に良くしてくれているのに、自分はどうやら彼に死ぬ程失礼な態度を取っていたようだ。
「ごめんなさい」
俯いて小さな声で謝ると、舞阪に「謝るな」と頭を小突かれた。
それでも優は情けなかった。半分泣きそうになっていると、舞阪はやれやれ、と肩を落として、優の頭を触った。
「泣くなよ、俺はそっちの方が反応に困る。おまえが泣くなんて、そりゃあ怖……いや、まあ、笑われるのも難儀なんだが」
「……?」
「まあなんだ。俺はおまえに言わせると悪趣味だそうだからな。そういう冷たいところが好きなんだよ」
舞阪はごく当たり前だという顔をして、そう言った。
「え、ええっと」
あまりそういうことを面と向かって言われるとは思わなかったので、優は面食らって黙り込んだ。しかし舞阪は、優のそんな細かい反応はどうでも良いようだった。彼は優の顔を見もせずに、さっさと話題を変えた。
「それで、おまえはどうなんだ」
「え?」
「俺と喋っていて楽しいのか?」
「そりゃあ、もちろん」
「おまえ、「楽しい」って意味わかってるか?」
「ええ」
優は何故か疑わしそうな舞阪に、にっこり笑って言った。
「どんな時でも、ぼくは楽しいですから」
「…………」
「舞阪さん?」
「ああ、いや、ちょっと眩暈がしただけだ。気にするな」
「はあ。あの、具合が悪いんですか?」
「そーいうんじゃねえ。……ったく」
舞阪が、はあっ、と溜息をついた。
彼は優と話していると、妙に疲れたような溜息ばかりつくのだ。
「付き合ってられるか」
「あ、えーと、その、……ごめんなさい?」
「そんなふうに適当に謝るな。どーでもいいが、ああ、おまえ傷痕はもう消えたのか」
「ええ。ちょっとまだ痕が残ってるんですけど……ほら」
優は数日前まで青黒い痣があった脇腹を、シーツを捲って見せた。まるで半分抉って、その後で薬品か何かで焼いて塞いだようなひどい傷だったが(まさかそんなことはないだろうが。そんな傷で生きていられる訳がないのだから)そこにはもう目立った傷痕はない。
舞阪は感心したような顔をして、ふーん、と頷いた。
「さすがだな。治癒能力に掛けては、俺とは比べものにならない程だ」
「普通じゃないんですか?」
「「普通」は一週間であの「普通」じゃくたばってるような傷が全快なんかしねーんだよ、馬鹿」
舞阪はそう言って、また優を小突いた。
もちろん本気で殴られている訳でもなく、加減はされている。そんなことが、優には妙に不思議なものに感じられた。
なにかこのリィ舞阪という男が、力の加減をするっていうことなんかが、ひどく物珍しいことのような――そんな気がするのだ。
何故かはわからないが、取り立てて話題に上らせるようなことでもないので、優は黙っていた。また余計なことを言って小突かれるかもしれないからだ。
「まあいいだろう。せっかくの綺麗な身体に、傷でも残ったら大変だからな」
「えっと……」
舞阪は、また優が反応に困るようなことを普通に言った。どうも彼の言う事は、なにかにつけて本気なのか冗談なのかわからない。
「ん? なにを変な顔をしているんだ?」
「あ、い、いえ」
優は慌てて手を振った。
「すみません、なんでもないんです」
「なんでもないってことはないだろう。言え」
「あ、えっと、その……」
まさか「綺麗だなんて言われて照れていました」なんてことは言えないだろう。優は女じゃないし、ましてや綺麗なんかじゃない。
「あれ?」
女じゃない、の辺りで優は妙な気分になった。女じゃない。男でもないようだ。
では、優は一体何なのだ?
「あの、舞阪さん?」
「なんだ」
「ぼくの身体って、あの、身体って……」
優は困惑しながら、首を傾げた。
「変じゃないですか?」
「なにがだ」
「ぼくは男なんですか? 女なんですか? こういう身体の人間て、おかしくないですか?」
「ああ、おかしい」
「あ、あの、これは何かの病気なんでしょうか。それとも変な感じで生まれてきたとか……」
「ああ、変な感じで生まれてきたみたいだな」
「ど、どうしよう……」
優は慌てた。
五体満足だ。だけれど、男なのか女なのかどっちなのかさっぱりわからない。
胸はない。しかし下半身もぺったりとして、なにもない。これでは風呂屋に行った時なんかにとても困るだろう。
水着はどっちのを着れば良いのだろう?
駅前の映画館のレディース割引は適応されるのかそうでないのか、そもそも下着からなにから服装はどうすれば良いのだ。
優がわたわたとしながらそれらを述べると、舞阪はとても呆れた顔をした。
「なあ、ずうっと思ってたんだが、なんでおまえ、そーいう変に庶民くさい物言いをするようになったんだ?」
「え? 何を言ってるんですか? だってぼくたちはずうっと普通で……」
優はますます混乱した。
自分が言っていることが何を指すのかすら、さっぱりわからない。まるで何人も優の中に誰かいて、そいつらが交互に喋っている具合なのだ。
「いや、ていうかぼくだけは普通じゃなくて、そう、「おまえ」も同じだ。いやでもやっぱり違ってたような」
「言いたいことは纏めて喋れ。さっぱり訳がわからん」
「だからおまえはMPLSじゃないか、ぼくとは違うんだよ!」
ほとんど怒鳴るようにして言ってから、優ははっと我に返って、舞阪に質問した。
「それで、MPLSって何ですか?」
「ああ、くそ、疲れるな……」
舞阪ががっくりと肩を落とした。
「だが、まあもう少しってところだな」
「……?」
「さっさと元のおまえに戻れ」
彼は優の肩を掴んで、しょーがねーからヒントでもくれてやる、と言った。
「おまえは世界征服を企む悪の秘密組織の戦闘員だった」
「それって「仮面ライダー」のショッカーみたいなものですか?」
「どういうものなのか良くわからないが、それでおまえは、俺のパートナーだった」
「えっ?」
「おまえは実は人間じゃない」
「ええっ?」
「身体の中に血の代わりに劇薬が流れている怪人だ」
「えええっ?」
「変身できる上に、一度負けると巨大化する」
「えええっ! そ、そんな……本当なんですか?」
「嘘に決まってるだろバーカ」
「…………」
「信じるなよ馬鹿。ああ、なんだかすっきりするな。おまえはいつもいつも、俺のことをさんざ馬鹿にしたような目で見やがって、ああ、ざまあみろこの大馬鹿野郎」
「…………」
「うわっ、泣くなよ、これくらいのことで!」
「だって、酷いじゃないですか!」
ぼろぼろと泣きながら、優は反論した。
大体このなんにも解らない優に冗談なんか通用すると、この男は思っているのだろうか?
こんな馬鹿な話を丸のみに信じてしまった自分の馬鹿さ加減にも、優は嫌になってしまっていた。人間じゃないとか、悪の秘密結社とか、そんなものがまさかあるはずはないだろう。
そもそも優と舞阪はまだ高校生ほどの年齢に見えた。いいところ中卒で就職した新人社員だ。
「だが、パートナーってのは本当だ」
「嘘つき。もう信じません。そんなパートナーだなんて、大体舞阪さんとぼくは苗字も違うし、こんな男だか女だかわからないような身体をしてる奴なんて、気持ち悪くって結婚なんてしたくないでしょう」
「は? 結婚って、おまえ」
「え?」
優が半分ふてくされながらいると、舞阪はかあっと顔を赤くした。
「だ、誰が誰とだ! そーいうんじゃねえ!」
「だ、だって、パートナーって」
「一組で仕事についてたってだけだ、この馬鹿! 変な誤解をするんじゃねえ!」
「あ、あ……」
優はおかしな取り違えをしてしまったことが恥かしくなって、舞阪と同じように、顔を真っ赤にした。
「ご、ごめんなさい!」
「馬鹿め」
「で、でも、そういえば元はといえば、舞阪さんが変なことを言うからじゃないですか」
「俺のせいかよ!」
「そうですよ」
むくれてそっぽを向くと、舞阪はまたいつもの溜息をついた。しばらくして、ぼそっと言った。
「ひとつだけ訂正しておく」
「なんですか」
「俺はおまえの身体が気持ち悪いとか、そういうことは思ったことはない」
「…………」
「俺はおまえが好きだ」
「…………」
「でなきゃ、わざわざこの俺が他人に干渉してやるものか」
「それは冗談じゃないんですか」
「ない」
舞阪は仏頂面で「疑うんじゃねえよ、この馬鹿」と言いながら、また優を小突いた。
「痛いですよ」
「黙れバカ。なんでおまえがそんなふうだと、こういうことひとつ言うにしてもこれだけ恥かしいんだ」
「知りませんよ、そんなの。いたた、あんまり叩かないで下さい、もう」
優はまだ顔は赤いままで、舞阪の手を控えめに押し退けた。
「ぼくだって十分恥かしいですよ」
「無礼、恥知らず、口が悪い、これだけ揃ってるおまえがなんでそう恥かしいとか口にできるんだ?」
「と、とにかく、あんまり触らないで下さいってば」
優は俯いて、少々口篭もりがちにぼそぼそ言った。
「好きとか、そういうの……ぼくは言われる価値なんてないですよ」
「そういうことを言うんじゃねえ。俺はおまえのそういう物言いは昔から大嫌いなんだよ」
「わかりません。こんなののどこがいいんです?」
優はちょっと強い口調で言って、舞阪を見上げた。
「す、好きだとか……大体、なんでぼくなんかここに置いてくれるんですか? 今のぼくはほんとになんにもできないのに」
「見返りは、身体と頭の中身が全快したら全力で戦闘だ。それでいい」
「嫌ですよ、そんなまた痛いのは。せっかく治ったのに、また怪我なんかしてどうするんですか」
優が不満を顔中いっぱいに広げると、舞阪はふいを突かれたような、びっくりした顔をした。
「なんです?」
「いや、おまえがまさか、痛いのが嫌いだとか言うとは思わなくてな」
「好きなら変態じゃないですか」
「いや、確かにまあそりゃあそうなんだがな」
「できれば、もうちょっと別のものにしてくれませんか? ぼく、何でもしますよ。舞阪さんのためなら」
「…………」
優が真面目な顔に戻って、そう告げると、舞阪は複雑そうな顔をした。
「何でもなんて、できもしないくせに気安く言うな。ならなんだ。おまえの身体が欲しい、なんて言ったらくれるのかよ」
「いいですよ」
間髪入れずに優が頷いたものだから、舞阪は拍子抜けしたらしい。しばらくぽかんとした顔をして、彼は念押ししてきた。
「掃除だとか洗濯だとか、風呂焚きだとか、そういうんじゃないぞ」
「わかってますよ」
「毎食飯を作るんでもない」
「わ、わかってますよ」
優はあんまりにも舞阪が信用していないらしいので、つっけんどんに頷いた。顔を真っ赤にして、だからわかってますってば、ともう一度言った。
「ぼくなんかの身体でいいんなら、好きにしてくれて構いません。中途半端でどう使えば良いのかわからないようなのですけど、それでいいなら」
「…………」
「で、でもあんまり触っても、気持ち良くないと思いますよ……いや、これはほんと、絶対。ど、どっちかって言うと駄目なほうかも……。ああ、あの、やっぱりぼくなんて美味しくないですよ。ううん。残念ですが。いや舞阪さんがそれでも構わないんなら、あ、あの、もしかしてまた冗談とかじゃ……」
「うざってえなあ」
「わ」
とん、と胸を突かれて、優はベッドの上で突き倒された。目を白黒させているうちに、舞阪が上に乗ってきた。
押し倒された格好で、そういう状況になっているのだ、ということをはっきりと頭が認識すると、優は顔を、ぐあっ、と真っ赤に染めた。
「う、うわわ……」
それからじたばたとして、ぎゅっと目を閉じた。まるで予防接種を受ける幼児みたいな風体である。
舞阪が優の身体にぐるぐる巻いてある包帯を解くと、その身体はもう綺麗なものであったが、ただ脇腹と片方の肩に痣のようになった傷痕の痕跡があった。
舞阪は屈んで、その痕に口を付けた。
「いや、な、舐めるんですか?」
「嫌か」
「いえ……」
どうとでもしろと言った手前、嫌だとは言えずに優は口の中だけでもごもごと言った。
「何も、問題ありません」
「なんだ、おまえらしい物言いができるんじゃないか」
舞阪はそう言って、ちょっと笑った。彼は興味深そうに深い傷痕のあった場所を見て、僅かに色が変わっているその部分を指で突付いた。
「これ、誰がつけたんだ」
「覚えてません……」
「言っておくが、俺は面白くない」
「え?」
「おまえに傷を付けたり、それも完全に冬眠に入っちまうくらいに深く、おまえと死闘なんか、なあ」
舞阪は意地悪く言って、優の目をしっかりと覗き込んだ。
「俺がそういうのは先なんだ。なんだ、おまえは俺とは勝負しないとか言っておきながら、どこの誰とこんなになるまで戦闘しやがったんだ。抜け駆けだ」
「はあ」
「もう一度言う。俺は面白くない。むしろ、腹が立って仕方がない」
舞阪は唸った。だが、言うほどそんなに怒っているふうでもなかった。
優が目を覚ましてからすぐそこにいた彼が良く見せる、あのふてくされたような顔だ。
「おまえは虐めない。俺が気が済むまで無茶苦茶に泣かせて土下座でもさせてやりたいのは、あの冷たくてそっけなくてたちの悪い、ずる賢い本来の奴だ」
「あ、あの」
優はもう半分以上舞阪の言う事を聞いていなかった。いや、聞いていられなかった。全裸で身体中舞阪に触られて、軽いパニックに陥っていたのだ。
「ずっと昔からそうだったんだ、大馬鹿野郎」
「いや、う、うっ……」
女にするように胸なんか揉まれた。そこは平坦で硬かったが、舞阪はそんなことは全然どうでも良いみたいだった。
「いや……」
優は顔を真っ赤にして、まぶたをぎゅっと押さえた。舞阪の声はぞくぞくするくらいに響いて聞こえたが、なんだか頭が熱くなってしまって、その中身は上手く理解できなかった。
「何とか言い返してみろよ、ユージン」
*
「本当に、妙なことになっているようだねえ」
「本当。悪趣味だ」
呆れ果てた、というふうに肩を竦めて頭を振って、ユージンは溜息をついた。
「まさかこんな使い物にならない身体なんか。触ったってなんにもならないだろうに」
「嫌だとは言わないんだね?」
「別に、ぼくはそんなのはどうでもいい」
できるだけ感情を排して、事務的に呟くと、その目の前の男は低くくすくすと笑った。
「なにがおかしい?」
「いや……君の方も満更じゃない顔をしているから」
「そんな顔をしているか」
ユージンは具合が悪くなって、顔を顰めた。まるで心の中を見透かされているようで、少し後ろめたい。
「冗談にもならない。ぼくが人を好きになんて、なる資格はないんだ」
「ニセモノにその権利はないとでも?」
からかうように言われて、何か反論でもしようと口を開いたところで、ふとユージンは目の前の男もまた合成人間であることに気がついた。
そして、不思議に思った。
「おまえは、そう言えばどうなんだ? 妙に交配実験には熱を入れていたじゃないか」
「ふむ、恋をしたことがあるか、ということだな。まさか君にそういうことを聞かれるとは思わなかった、ユージン」
「そんなんじゃ……」
「いいさ、なんだって構わんだろう。まあ、そうだな。それなりにね」
「それなりじゃわからない」
ユージンは冷たく言った。
「本気になるっていうのが、どういうことなのか解らないんだ。ぼくが聞きたいのはそういうことだ」
「まあ、そうだな。ないこともないが」
「あるのか?」
「ないが、君には教えてやらない」
「何故」
「人に言うようなことじゃないからさ」
男は目を閉じて、涼しい顔をして言った。ユージンは、もちろんそんなものでは納得がいかなかった。
「そんなことは知らない。ぼくはちゃんと聞きたいんだ」
「さて。君はそんなに我侭な性質だったかなあ。もうちょっと聞き分けが良い感じがしたが」
「その子供に言うみたいな言い方はよせ。それでどうなんだ、中枢には絶対に知られちゃいけないとか、自分のことよりもずーっと相手の方が大事だとか。そんなのは、本気のうちに入るのか」
「まあ、器用に立ち回ればそんなものはどうとでもなるものさ」
男はずっと笑っている。ユージンは馬鹿にされているようでそれが気に入らなかったが、それよりもまず頭いっぱいの疑問の方が重要だった。
どうも人と接触しない任務にばかりついていたので、そういう人らしい感情だとか、そういうものを観察する機会がなかったので、「ニセモノ」であることを自覚しながらも、じゃあ本物というのはどういうものなのかということも良くわからない。どうすればこのニセモノらしい違和感が消えてくれるのか、わからないのだ。
「例えば、これはぼくが本当にこんなことを考えているわけじゃないが、あんまりにも独りぼっちの奴がいて、そいつはどうしようもない馬鹿で不器用者で、なんとかしてやったっていい、なんて思うのも、これもニセモノなんだろうか。データ通りに?」
ユージンはそんなことを聞いているということが変に気恥ずかしくなって、目をよそへ向けて言った。
「『なんとか』ってのは、具体的にはどういうことだい?」
「それがわからないから、困ってるんだ」
「考えてはみたのかい?」
「…………」
ユージンは考え込んで、慎重に言葉を選びながら、例えば、と挙げていった。
「そばにいてやると嬉しいだろうか。ぼくは誰かがぼくのそばで楽しそうにしてくれていると、本当に幸福な気分になれたんだが、あいつはどうなのか知らない」
「ふむ」
「喧嘩ばっかりだから……いっそのこと、本当に決着をつけてやったり……ああ、駄目だ。ぼくは死んで、また一人になる、あいつ」
「ああ」
「ちゃんとした人間なら、それであいつみたいに強かったらそばにいられたんだろうか。――あ、あんな感じで性行為なんかしたら、人間らしく子供ができたり……するんだろうか」
ユージンは、そこでかあっと頬が染まったのを自覚した。何故そんな反応が出て来るのかは解らないが、確かこういう時は羞恥を感じているんだった、と冷静に判断した。
「そうだ、人間のくせにそんなもの知ったこっちゃないみたいな顔をして、ぼくは腹が立ってるんだ……。ぼくがこんなに欲しがってるものなのに、あいつはそんなのはどうでもいい、っていう感じなんだ」
「嫉妬かい?」
「ああ。いや、それだけかな。どうだろう……まあいいが、どうでも」
「すぐ投げ出すのは良くない癖だよ、ユージン」
諭されて、ユージンは変な気分がして、顔を上げた。
「なんだかおまえの言う事は、いちいち人間の父親みたいだ」
「そのくらいの設定年齢差があるからね。それらしくしてみたつもりだ」
「ふん。擬装が下手なくせに、よく言う」
ユージンは、確かその男が嘆いていたところを突いて、ささやかな仕返しをしてやった。どうも言葉の端々で、虐められていたからだ。
「もう見るな」
ユージンはそっけない顔で手を伸ばして、ざらざらと映像を流し続けるテレビのスイッチを切った。途端に部屋からは音という音が消えてしまって、最初あったような静寂が訪れた。
男はなんだか残念そうに(そんなものを見たって面白いところはなにひとつないだろうに、何がそんなに残念なんだろうか?)して、肩を竦めた。
「お終いかい」
「ああ、これ以上は、なんだ――」
ユージンはなるだけ冷たく聞こえるように注意しながら、ぼそっと言ってやった。
「人に見せるものじゃないのさ」
「それはさっきの仕返しかい」
「知るか。見るな」
不機嫌な顔でユージンがそう言うと、男はまた笑った。
「君はおかしなところで可愛いなあ……」
何か言い返せば更に立場がまずくなりそうだったので、ユージンはもう何も言わずに黙っておいた。大体、この人間と関わって、人の集団を指揮し、経済なんて馬鹿でかいものをたったひとりで動かすような能力を持った男に、口で敵う訳はないのだということは知れていたからだ。
そう、この男は『あいつ』のように馬鹿じゃない。
「それでもう決まったのかい」
「ふん」
ユージンは目を逸らして、男に背中を向けた。
「今のぼくにどっちか選べなんて、本当に意地の悪い質問をするものだな、おまえも」
それはどうも身体の右と左に別々の自分がいて、どちらもが身体を思いっきり引っ張り合っているような、痛みを伴う選択だった。
*
半泣きでぎゅっと目を瞑って唇を引き結んでいた優は、ふいに身体に乗り掛かってきている重さが消えて、恐る恐る目を開いた。
「…………?」
見るとリィ舞阪はベッドのへりに座って、もう優から関心を外してしまっていた。彼はさっさと着衣の乱れを整えて、おまえもさっさとシーツでもなんでも被って、もう寝ろ、とだけ言った。
「し、しないんですか?」
「ああ、俺は弱っちい奴に無理矢理ことを仕掛けるようなガキじゃあないんだよ」
「い、嫌なんかじゃないんです!」
優は慌てて舞阪の服を掴んだ。
「たっ、ただ舞阪さんは気に入らないんじゃないかって思っただけで、ぼくはこんなだし、ぼくはあなたになら何されたって……」
「何故そう思うんだ?」
「だって、あなたはぼくを救ってくれたでしょう?」
優は目を伏せて、言った。本当に舞阪には感謝をしていた。だから彼になら、彼がそうしたいのなら何をされたっていいと思ったのだ。
「ぼくをここに置いてくれました。面倒を見てくれて、あなたに放り出されたら、ぼくはもうどうしていいか……」
「…………」
舞阪はしばらく無言でいた。
そして具合の悪そうな顔でちょっと乱暴に優の胸を押して、ベッドに押し付けた。
「寝ろよ。心配しなくても、身体まで寄越さなくてもおまえを放り出したりなんかしねーよ」
「あ、そ、そんなことを言いたかったんじゃ……」
「そして、さっさと思い出せ、全部。俺はそんなに弱いおまえは見たくないんだ」
「あ、あの」
「俺がいなくなったらどうしようもない、なんて途方に暮れてるようなのは、おまえの柄じゃねえんだよ」
「ご、ごめんなさい」
「謝るんじゃない。まったくらしくない」
舞阪は溜息を吐いた。
「そんなおまえもたまに見られるのは殊勝で可愛いが、ずうっとそんなんじゃ、俺は……」
舞阪は俯いた。
「俺はそんなんじゃ嫌だからな」
そして、きっぱり言った。
「もう寝る。なんだか疲れた」
「あ、は、はい。あの、じゃあ」
優は舞阪の服を掴んだままで、おずおずと自信が無さそうに訊いてみた。
「一緒に寝ても良いですか……?」
舞阪は何も答えなかったが、拒否はしなかった。
*
どれだけ歩いたのか、もう解らなかった。あてもなかった。一所に留まっていたって、気味の悪い静寂だけが耳に突き刺さってくるだけだ。
ユージンはぼろぼろに朽ちて横倒しになっている背の高いビルの残骸の、錆びた窓枠の上をとん、とん、と跳ねていって、大きな罅割れを飛び越えた。
ふいに微かに消え入りそうな口笛が響いた。辺りに見える街の残骸の中で一際高い瓦礫の塔のてっぺんに、真っ黒なからすみたいな影が、薄っぺらい闇色のマントをはためかせてそこにいた。
そいつはマイぺースに、ユージンのことなんか知ったこっちゃない、という感じで目を閉じて、ずうっと唇を僅かに尖らせて口笛を吹いていたが、やがて唐突にぴたっとそいつを止めてしまって、左と右とが半分ずつちぐはぐな変な顔で振り向いた。
「やあ、君か。……ええと、誰だったかな」
「誰だかわからないのに、気安く呼ぶな。この妙な世界に閉じ込められっぱなしっていうのは、もしかしておまえのせいなのか?」
ユージンは肩を竦めた。
「生きても死んでもいないなんて、どうにかしてもらいたいものだ。大体おまえがぼくの目に映ったあたりから、ろくでもないことばかり降りかかってくるんだ。疫病神なんじゃないのか?」
「まあそう言うなよ。誤解だ、ぼくのせいじゃない。それに、君にはまだ用があったのさ」
そいつは顔の半分だけで奇妙に笑って、男だか女だかわからない口調で言って、真っ黒なマントの中に手を突っ込んだ。彼が取り出したのは、ぼろぼろになって端々が破けたスケッチブックだった。
「渡しておいたのに、置き去りにしてしまっていたようだからね。うん? 君には必要ないものだったかな」
とぼけたようにそう言って、黒い筒みたいなシルエットのそいつは、スケッチブックの角を手のひらに当てて、器用にくるくると回した。
まるで影絵の寸劇みたいな調子でぱらぱらと紙が捲れ上がって、どこかのトンネルらしきものや左右非対称の奇妙な怪人、予知とは関係ない走書きのようなもの、それから天使みたいに美しく描かれたユージン自身の姿が、次々と現れた。
「どうする? 死人に必要ないものかな。それとも、冥土の土産かなにかに持って行くかい? まあそういうのは君の自由なわけだが。ぼくはいらないしね」
「…………」
ユージンはしばらく黙って、黒帽子の怪人の手の上で回転し続けるスケッチブックを見ていたが、やがてゆるゆると首を揺らした。
「いらないのかい? それじゃしょうがないな。ぼくが持ってたって仕方ないものだから、捨ててしまおうか……」
「いや、そいつは彼女に返してやったほうがいい。元々ぼくのものじゃないし、ぼくが持ってる資格もない」
ユージンは肩を竦めて、黒帽子に注文した。
「悪いが、そのスケッチブックは辻さんに返しておいてくれないか? 彼女もいらないって言えばそれまでだが、そもそもぼくは彼女がどこにいるかなんて知らないからな。多分もう会えないだろうし……」
「人遣いが荒いねえ。こう見えて忙しいんだぜ」
「こっちはおまえの仕事を手伝って死にぞこなってるんだ。それくらい大目に見ろ」
「ああ、ひとつ言い忘れていたがね」
「……?」
「どうやら君はまだ死んではいないらしい」
「まあ、おまえとこうして喋ってるしな」
「表では妙なことになってるようだ。さっさと目を覚ましてやらないと、あの厄介物押し付けられ係は泣いちゃうかもしれないぜ……と、押し付けられ物その1の卵君が言っていたよ」
「誰のことだ、それは?」
「さあね。じゃあぼくはそろそろこの辺で御暇しようかな」
「あ、お、おい……」
「言ったろう、忙しいんだ。来月は簿記試験と英検があるんでね」
「それはなにかの冗談なのか?」
半分呆れながらユージンが顔を上げると、もう筒のようなシルエットは世界のどこにもなかった。
暗いトンネルの中を歩いていた。
そう言えば、こういう真っ暗な穴倉の中を歩いていくっていうことは今までに何度も何度もあって、ユージンは奇妙な既視感を感じた。日の当たらないもぐらみたいな世界が一番彼にはお似合いだった。
何度も任務のための待機時間をこんなところで過ごして、あとは――あとは、そう、あの5人のMPLSとだ。ユージンが例の「友達」と探検ごっこなんかをした、『血の匂い』がするあの場所だ。
ふと横を見ると、左と右、両隣にふたり、背の高い男が並んで一緒に歩いていた。彼らは時折なんでもない世間話をした。ユージンはちょっと遅れて、二人の男についていった。
何故だかこうしていると、こうやってこの暗がりの中で顔の見えない二人の男たちと一緒に歩いていると、ひどく安堵した。ただ、ちょっとばかりの後ろめたいものが、ずうっとちくちくと胸を刺していた。
二人の男は、時折ユージンにも声を掛けてきたが、彼らが何を言っているのか、ユージンには良くわからなかった。
「ひどい道だな。大丈夫か、天色。足元には気をつけろよ」
「ひー、腹減ったあ。なんか甘いもんでも食いたいなあ」
「また例のフルーツパフェか? あれには散々な目に遭ったな」
「なんだよ、あれ、美味いじゃないか。なのにおまえらときたらよ、おれが折角御馳走してやったってのに、美味そうに食ってたのって七音と天色くらいだったじゃねーか」
「甘い物はあんまり好きじゃないんだよ、僕は」
右隣の男が、やれやれと肩をすくめた。左隣の男はずうっと笑っている。笑いながら、ふと気付いて、彼は後ろの優の方を見た。
「ん? 大分ひどい顔してるぞ。大丈夫か」
「え?」
優は急に話掛けられてきょとんとしたが、すぐににっこりと笑って、大丈夫だよ、と言った。そう、優はいつも笑っていなければならなかった。
「そう言えばこないださ……」
男は後ろでずうっとだんまりだった優に気を遣ってくれたようで、話題を変えて、話を振ってきた。先日見た映画の話や、最近見付けて気に入ったCDの話題、面白かった本、優はそれらにずうっとにこにこして、黙って頷いていた。
「そう言えば、おまえってずうっとそうだったんだよなあ」
「?」
「自分からはなあんにも喋らないんだよな……。いや、悪いって言ってるんじゃねえけど」
「三都雄、なにも無理に喋れってのはないだろう」
「いや、そうなんだけど……ああ、悪かったな」
「いえ」
優は笑って首を振った。
「ごめんなさい」
「いや、あ、謝らなくても」
「変なことを言うからだ」
横から窘められて急にわたわたと謝る男を見て、優はくすくす笑いながらちょっと考えて、言ってみた。こんな暗がりでなら、ちょっとくらい構わないかもしれない。トンネルを抜ければそれは冗談にしてしまえばいい。
そう、怪談なんかと一緒の種類のそんなものだ。
「実はですね……」
優はできるだけ冗談半分に聞こえるように、明るく言った。
「ぼくは人間じゃないんですよ」
優は話した。
世界の裏で世界を操っているつもりでいる大きな組織の人造人間であることや、生まれた時からこの姿のままであること、非力だがどこもぎくしゃくしていない本物の人間が羨ましいと思うこと、友達なんて誰もいなかったこと、どれだけ彼らに救われたか。
優が人造人間で、能力者を監視していたことも話した。
それからずうっと彼らに訊きたかったこと――こんな天色優でも本当に彼らは友達と呼んでくれるのかということ。あとは、そう――今一番頭を悩ませている「選択」のことだ。
「どう思います?」
「でも、おまえの中ではもうどっちか決まってんだろ?」
「え?」
優は顔を上げた。
気が付くと、周りには誰もいなかった。また真っ暗なトンネルを、ひとりで歩いていた。
どうやら白昼夢でも見ていたようだった。どこから夢でどこからそうでないのか、もしかしたら場面が切り替わって次の夢の中にいるのかということはよくわからなかったが、優はひとりで歩きながら、ああ、選んじゃったなあ、と口の中だけでぽつりと言った。
「ごめんなさい」
優は重たい足を無理矢理引き摺るようにして、のろのろと進んだ。うっすらと微笑みながら、そしてもう一度、ごめんなさい、と呟いた。
頬がいつのまにか湿っていた。偶にあるように、優はその時、気がつかないうちに自分が泣いていたことに気が付いた。
彼はまたずうっと歩き続けながら、小さな声で呟いた。
「やっぱりぼくはまだ、一緒に行けないや」
そこはまた、世界の果てだった。いつからここにいるのか、どれだけ時間が過ぎたのかも、もうそんなことはどうでも良くなってしまうくらいに辺りはしいんとして、廃墟だった。
「やあ、おはよう」
そんな死んだ世界で、ユージンはどうやら目を覚ましたらしいフォルテッシモに僅かに首を傾げてもう一度、おはよう、と言った。
「良く寝てたみたいだな」
「なぜ俺はまたこんなわけのわからん世界の果てで、おまえに膝枕なんかしてもらって、気持ちの良い目覚めを迎えたりしているんだ」
「さあ」
もうちょっと首に傾斜をつけて、ユージンは無表情のままで、そんなこと知らないよ、と言った。
「おまえ、ユージン、なあ、ここで何をしてるんだ?」
「さあ。おまえが目を覚ますまでは、知り合いと話をしていたんだ」
「誰だよ」
「もう死んだ人だよ。そんな人間がいろいろだ」
「おまえも?」
「さあな……」
ユージンは自分でもなんだかよくわからないふうに、肩を竦めた。
「そんなことはどうでもいいんだ。生きてたって死んでたって、ぼくが無価値であることに変わりはないよ」
「そういうことを言うと俺が機嫌を損ねるって、おまえはそろそろ学習しないのか? それとも、わざとやってるのか」
「半分ずつというところだな」
「馬鹿にしてんのかよ、てめー」
フォルテッシモは粗暴な動作で身体を起こして、ユージンの隣に座った。
「まったく可愛くない」
「おまえに可愛いなんて言われたら、ぼくは気持ちが悪くてそれこそ死んでしまいそうだ」
「そうだよ、そーいう口の訊き方だけしてりゃあいいんだ、おまえは。しかし可愛くないな。むかつくぞ」
フォルテッシモはくるっと猫背のままで首を巡らせて、面白くなさそうにユージンの顔を覗き込んできた。
ユージンはそこで、間近に近付いたフォルテッシモの唇に、軽く口を付けてやった。彼の反応はユージンの予想通りだった。
一瞬呆けて、なにか具合の悪い事故でも起こったのかと疑うような素振りを見せた後、顔を真っ赤にして素早い動作でユージンから距離を取った。
「な、ななな、なななな、なにすんだ! 分析か?! 分析だな!! おいおまえはもう、その破廉恥な能力は使うのはやめろって何度も……」
「そんなんじゃないよ」
ユージンはそっけなく肩を竦めた。
どうやらフォルテッシモはユージンが冷たくてつれなくてそっけなくて、好きだって言ってやっても何の反応も返さない置物みたいなものだと思っているようだった。あまり間違いはないが、ユージンはほんの少しそれが面白くなかった。
それは、彼はやはりユージンを人として見ていないのだ、ということだろうからだ。
「キスってやつだ。人間が好きな相手に良くやってるだろう?」
「はああ?!」
泡を食っているフォルテッシモに、ユージンはそっけなく、できるだけいつもの調子で――狼狽なんか微塵もなく見えるように、本当に好意を持っているなんてことを悟らせない顔で、涼しく宣言した。
「いろいろ迷ったんだが、おまえを好きになってやるよ。おまえみたいな乱暴で単純で危なっかしい人間兵器を愛する物好きなんて、そういないぞ。大事にしてくれ」
「……なんでそんなにエラソーなんだ、テメー」
「知るか」
ここでユージンは、ちょっと顔を赤くした。擬装の限界が近いのだ。つまり、いつものポーカーフェイスを保っていることが難しくなってきたのだ。
「こんな、は、恥かしいこと、人間ってやつは良く堂々と言えるものだな。ああ、くそっ。なんだか無性に死にたくなってきた」
「恥かしいって柄かよ」
「うるさいな。いらないならぼくはほんとにもうおまえなんか知るか。好きだとか言ったくせにどこまで本気なんだかさっぱり知れない。なあ、フォルテッシモ」
「な、なんだよ」
「そういうの、返ってくるのはどうだ? つまり、好きだって言った奴が冷たくてつれなくて可愛くなくて、一生自分のことなんか好きにならないって解ってるから言えるってことはないだろうか。うん、人に好かれるってことはぼくは怖くて仕方がないんだ。おまえはどうなんだろう」
「知るか」
「そう言わずに考えてみてくれ。大体、おまえの好きってどんなものなんだ? ぼくのはなんだか、友達だけじゃない気がするんだ。おまえは違うのか。ピーチコンボが好きとか、喧嘩が好きとか、そんなものなのか。大体、ぼくはこんな中途半端な生き物なのに、おまえはこんなで本当にいいのか。「あれは軽い冗談だった」で済ませるなら、ぼくはもう本当に知らないからな」
ユージンは次第に焦燥と羞恥と、あと雑多な感情の渦を少しずつ制御できなくなってきた。あまりにも情報量が多過ぎる。零れたって仕方ない。
「おまえがぼくなんかに何を求めてるのかは知らないが、もう一度だけ言ってくれないか。じゃなきゃ、ぼくはまたどこへも行けないんだ」
ユージンはついいつもの癖で目を逸らしてしまって、それから多大な努力を払って、フォルテッシモへと視線を戻した。焦点が、こういう余り慣れない恥かしい事態を直視することを避けてふらふらとしたが、それでもユージンには精一杯だった。
「別にいらないなら……ぼくはおまえなんかみたいな気まぐれで波乱まみれな奴に付き合ってやることもないんだ。やっていられるか、くそっ……我ながら、なんでこんな酔狂なんか。おとなしく幸せな夢なんか見てる方がずうっとぼくは……」
「ユージン」
「な、なんだ」
この頃になると、ユージンはもうぎくしゃくとした、あの天色優を半分混ぜこぜにしたような赤い顔で、涙目だった。珍しいものを見るようなフォルテッシモが、強く乱暴に肩を掴んだ。
ユージンはなるだけいつも通りに見えるように振るまった。いつも通り、最強フォルテッシモの気まぐれに「しょうがないな、この馬鹿は」なんてふうに彼よりずうっと頭が切れて、冷静沈着、策士で冷酷。そんなパートナーのユージン。
「ほんっとに俺が好きって言ったら、おまえは俺のそばにいるのか?」
「だからそう言って」
「嘘なんかつかねーだろうな。信用ならねー、おまえはいつもそうなんだ。俺が好きだ好きだって言ってんのに全然信用しやがらねえし、すぐどこかに姿を晦ますし、おまえは俺のパートナーで俺の友達で、俺のものだ。その辺ちゃんとわかってんのか?」
「だから……」
「好きだ、馬鹿野郎。何回も言ってんだろ。大好きだ。冷たかろうがつれなかろうが、合成人間だろうが、男だろうが中途半端な無性別だろうが女だろうが、おまえは強いし頭がいいし、顔がいいし、俺はおまえになんでか知らんが惚れてるんだよ。なんでだよ」
「それはこっちが聞きた」
「大好きだっつってんだろ。そんなに聞きたきゃ何度でも言ってやろう、好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ!」
「や、やめないか、馬鹿じゃないのか? なんでおまえはそういう恥かしいことをいつもいつも真顔で言うんだ!」
「おまえが言えって言ったんだろうが!」
「そうだが一回でいいんだ、この馬鹿ガキ!」
「うるせえガキ扱いすんなつっただろ! もうおまえとは背丈も同じでいい歳だ。そのうちおまえみたいな合成人間なんかすぐに追い抜いてやるんだからな」
「やってみろ、単細胞」
「うわ、ほんともう可愛くねえ」
二人共が犬みたいに牙を剥き出しにして睨み合っていたが、やがてフォルテッシモがどうやらなにか馬鹿らしくなってきたようで吹き出して、笑い出して、それにつられるようにして、ユージンもくすくすと笑いはじめた。
フォルテッシモはおかしそうにけらけらと笑いながら、本当に嘘なんかこれっぽっちも欠片もない、という顔で、なあ、と切り出した。
「おまえのことが好きなんだ」
「そ、そう。まあ、なんだ……」
ユージンはそれからちょっと困った顔をして、首を傾げた。
「それで、おまえは何がしたいんだ? 好きだって言うだけで満足なのか」
「いや、それだけでも構わないが、手に入るものならなんでも欲しい」
フォルテッシモはあっさりと言った。
「身体も欲しい」
「ぼくは女じゃないんだけど」
「構わない」
「性別なんかないから、なんだろう、かなり特殊な交配になるように予測する」
「構わない」
「い、今か?」
「今」
地面に倒れた壁の残骸の上にゆっくりと押し倒されて、ユージンは少々引き攣った声で、まあいいんだが、と言った。
「ぼ、ぼくの身体なんか触ってもなにも面白いところなんかない」
「やってみなきゃあわからんだろう」
「ふ、普通の女みたいなのを期待してると、まったくの的外れの期待外れになるぞ。それでやっぱりいらないなんてことになるかもしれないな、うん、そうだ」
「綺麗な身体をしてるから、問題ないんじゃないか。気持ち良さそうだ」
「き、気持ち良く……できるか自信がないんだ。データにない。待て、実戦の前に個人演習を――」
「一人でやるなら俺としろ」
「…………」
「降参か」
「……まあ、そうだ」
「なんだかおまえとは、どこかでこういうやりとりをしたように思うんだが、記憶にないな」
フォルテッシモは呆れたように言って、ユージンの服を捲った。
「綺麗だと思うぞ。俺は、ずうっとおまえとは寝たいと思ってた」
「は、初耳だ」
「せいぜいその可愛くない口を叩いてくれ。どこまで保つか見ててやる」
「悪趣味な男だな」
ユージンは恨みがましげにフォルテッシモを睨んで、唸った。それからちょっと自信がなさそうにあっちこっちに目線をふらふらとさせて、焦点を合わせないまま、消えそうに震える声でぼそぼそ言った。
「あ、あまり痛くしないでくれ」
フォルテッシモは変な顔できょとんとした。
「なんだ、痛いのなんて慣れっこだろうに」
「そ、そういうことじゃない」
ユージンは顔を背けて(自分でも変なことを言ってしまったという自覚はあった)ゆるゆる首を振った。
「痛みのスイッチが、その、入ると、身体が勘違いしてしまうんだ」
ユージンはまだ変な顔をしているフォルテッシモに、だからそういう意味じゃない、と言い置いて、焦ったように言った。
「か、勝手に戦闘体勢に切り替わって、リキッドが零れてしまうんだ」
「うわー、怖え」
「その、一滴でも取り込んでしまえば、中から爆発してしまうんだが。や、やっぱり止めたほうがいい。こんな身体の奴となんか、気持ち悪くてできないだろう?」
ちょっとの手違いで死ぬかもしれないんだ、とユージンは目を伏せた。
「ぼくならそんなものに触るのは止しておくな」
「別に俺なら問題ない」
「だから危険だと言ってるだろう。おまえがいくら最強だって、河豚毒に当たったら死ぬし、毒性のあるキノコだって駄目だし、そんなふうに強くたって食中毒は起こすだろう。そういう問題なんだ。あんまり悪趣味なことは」
「どういう喩えだよ。ならどうしろってんだ。俺はおまえとしたいつってんだろ」
「う」
ユージンは言葉に詰まった。フォルテッシモはもう「やっぱり止めた」という取消しなんかは絶対に無さそうだった。半分意地になっている感じだ。
長年の付合いから見ると、彼を懐柔できる地点はとうに過ぎてしまっていた。いつもなら、あとは彼のしたいままにさせるしかない、と諦めているところだ。
「だから、あまり痛くはするな。無茶苦茶もなしだ。気を付けて触れ、危ない」
「了解」
フォルテッシモは、やっとうるさいのが黙った、と言いたそうににやにやとした。ユージンは正直複雑だった。「本当にこいつは解っているのか」とうさんくさく、面白くない気分だった。だがこうなった以上、それはもう仕方ない。
「できるだけ自制する」
「心配ない。あんまり手に余ったら、俺もそれなりの防御ってものはさせてもらうがな」
「それもあるが、ぼくはぼくなりにそうやって自律できてないところをおまえの前で見せるのが、無茶苦茶に情けないんだ」
「それはひょっとして、恥かしいってやつか?」
「おまえ、絶対あとで散々からかうだろう」
「そっちかよ」
「あ、あまり変な格好をしてるところだって、見られて気持ちの良いものじゃないし」
「なにを初々しいことを言ってるんだ。おまえはこういうこと、慣れてるんだろ」
「だ、誰が」
ユージンは顔を真っ赤にして、フォルテッシモを睨んだ。
「誰がこんなこと。言っておくが、ぼくをこんなふうに使おうとする悪趣味な奴なんて今までになかったんだ。あまり触られることだって好きじゃない」
「そうなのか? 分析なんかで破廉恥な行為は当たり前、そんな綺麗な顔してるし、上から言われりゃあ何だってする。おまえはそんな奴だろう。そういうところが俺は面白くないんだ」
「だから中枢だって、ぼくの身体が使い物にならないことくらい知ってるんだ。そんな任務、降りやしない」
「ならなんでそんな綺麗な顔をしてるんだよ」
「し、知るか!」
ユージンは乱暴に否定して、弱々しく首を振った。
「ぼくは綺麗なんかじゃない」
「俺の美的感覚を否定するのか」
「おまえは悪趣味だし、それだってぼくをからかってるんだろう? 腐っても人間だし、ぼくみたいな使い捨ての合成人間なんて、ニセモノっぽいし身体も冷たいし、何考えてるかわからない、それも合成人間だからなんて思ってるに違いないんだ。どうせぼくは合成人間だよ。そんなことを言うおまえの方だって十分人間っぽくないじゃないか。さっぱりわけがわからないんだ。なんだ、いつも薄紫のそんな変な格好して」
「おまえってそんなにひがみっぽい奴だったか」
死ぬ程失礼なことを言われて、ユージンの言動の中で一番彼が嫌いなはずの自分を貶める発言を聞いても、それが行き過ぎていると、フォルテッシモはなんだかもう怒ることも忘れて呆れかえってしまったようだった。
「まあいい、もう黙れ。あんまりうるさいと殴るぞ」
「おまえに殴られたって痛くも痒くもない。体力ゼロのくせに。いつだったか任務の時だって、目的地まで走る途中でへばってぼくが背負って走る羽目に……」
「2、3箇所くらいなら、切り裂いてやったっていいんだぞ」
「黙るよ」
ユージンが口を噤むと、辺りは急にしんとした。
あるのは衣擦れの音と、お互いの少しばかり浅い呼吸の音だけだ。
「…………」
「……おい」
「な、なんだ」
「なんか喋れよ」
「黙れと言ったくせに」
「いいから喋れ。おまえといる時にこうやって黙りっぱなしだと、なんだかいつもみたいにシカトでもされてんじゃねーのか、とか思っちまうだろう」
「おまえ、もしかしてぼくよりずうっと寂しがりなんじゃないのか?」
「うるせえな。おまえが「寂しい」なんて言葉を使うな、気色悪い」
また喧嘩腰の遣り取りをしながら、ユージンはこっそりと溜息をついた。こういう時くらいは素直な口でも叩いてやったほうが良いのだろうが、妙に気恥ずかしいものを感じて、結局はこういう感じで軽口の叩き合いみたいなことになってしまうのだ。
フォルテッシモは目ざとくユージンの気だるげな仕草を見付けて絡んできた。
「なんだ、つまらなさそうな顔をしやがって」
「つまらないというか、まあ理由は別のことだ」
「なんだ、そりゃあ」
「言わない」
「言えよ」
「言わないと言ってる」
「言えと言っている。腕を一本ほど落としてやろうか?」
「だからおまえはそういう物騒な能力をこういう時にまで使うな。……言えないよ、そんなもの」
「そうか」
フォルテッシモはすうっと指をユージンの鼻先に突き付けて、揺らした。その動作にユージンはびくっとして、本気か、この馬鹿、と呆れかえった。
「だから止めろと言ってるのに」
「なら言えよ」
「笑わないか?」
「ああ」
フォルテッシモがあまり気を入れずに頷いた。あまり信用ならないが、こんなことで無駄な大怪我なんかさせられるよりはずうっとました。ユージンは目を逸らしながら、白状した。
「その、フォルテッシモ。ぼくの言動は、やっぱり可愛くないのだろうか?」
「は?」
「こういう時くらいはそれらしい反応をした方が、触っていて面白いだろう。しかし困ったことに、ぼくにはそういうレパートリーがないんだ。過去のデータにもないし、刷り込まれてもいない。もし最後までずうっとこんな感じでおまえとつまらないことばっかり言い合っているようだったりしたら、ぼくはほんとに使い道のない身体をしているってことになるんだろうな」
「まあ、確かに最後までその能面ヅラでいられると萎えるかもな」
「そうだろう?」
「しかし、おまえはその無表情で結構可愛いことを考えてたんだな。さっぱりわからない」
「う、うるさいな」
「なあ、ユージン」
フォルテッシモは真面目くさって、真剣な顔で訊いてきた。
「おまえって、もしかして本当はめちゃくちゃに可愛い奴なんじゃないか、と今思ったんだが、どうなんだろうな」
「否定する」
「まあそいつはおいおい教えてもらうとしよう」
うんうんと頷きながら、フォルテッシモはユージンの身体に引っ掛かっていた服を引っぺがして投げ捨てた。
ありふれた服は脱がし易いのか、さっさと裸にされた。ユージンは、背中が朽ちたコンクリートに触ってざらざらするので顔を顰めた。
素肌に触れるにしては冷たい空気や、地面が硬いこと、自分の呼吸音など、いつもなら気にも留めないそんなものたちが、今は殊更に気になってしまう。フォルテッシモは大雑把な扱いでユージンを下敷きにしてしまうと、脚を開け、と命令した。
「おまえは急だな」
「おまえが呑気なんだ。俺はさっきからずうっとおまえのお喋りに付き合ってる間、おあずけを食らってたんだからな」
あれを「おあずけ」というのか、とユージンはなんとなく学習しながら、言われるままに脚を開いた。そして、きっとフォルテッシモが見せるだろう途方に暮れた顔を待ち受けていた。
普通に欲情されたって、ユージンの身体は結局どっちの性別の人間も満たすことができないふうにできているのだった。
「ふうん」
だが意外なことに、フォルテッシモは納得したような顔をして、ユージンが大きく開いた股の間につっと指で触れた。
「う」
「確かに特殊な構造だ。俺の方はできないってことはないが、おまえはどうなんだ。ここを犯されて気持ち良いのか?」
「珍しいな。おまえがぼくを気遣うなんて」
「別にそういうことを心配してやってる訳じゃない。俺はおまえを抱き人形みたいに使う気はないんだ」
なあ、とフォルテッシモはユージンの耳元で囁いた。
「いいかげん解れ」
「し、知るか。ぼくだってこんなことに使ったことがないんだから」
「ふうん」
またひとつ納得したような声を出して、フォルテッシモは何度か頷いた。そしてのっぺりとして平坦で、なにもないつるつるとした股の辺りを指で弄りだした。
「……わ。な、なにをするんだ」
「調べてやってるんだ。おまえにも気持ちいいとか、感じる場所があるかもしれねーだろう」
「なんだか実験みたいだ、こんなの」
ユージンはぼやいた。