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1
夕暮れ時、からからに乾いていた青空は真っ赤に染まって、少し強くなってきた風が川沿いの道を歩く天色優の体を撫でた。薄茶色の買い物袋をゆらゆらと揺らしながら、優は対岸の岸に目をやった。
強化された目が顔見知りの姿を見つけたような気がしたのだ。それはすぐに建物の影と同化して見えなくなってしまった。目を擦る。
(レイン?)
口の中だけでその名前を呼んで、足を早めた。
ドアの横に取り付けられたインターホンを鳴らすと、ものすごく不機嫌に顔を歪めた男が出て来た。
レイン・オン・フライディはそんな彼、喧嘩馬鹿のフォルテッシモに対して機嫌を損ねることなく、この数年で身につけた、年相応の女性らしい優雅さでにっこりと微笑んだ。
「ユージンいる?」
「なんのことだ」
フォルテッシモは全く容赦のない声で、刺すような冷たさを孕んだ声を上げた。向けられただけで竦み上がってしまいそうな視線には一向に頓着しないで、レインは首を傾げた。
「三行半でも突き付けられた? それとも、顔を出せないような理由でもあるのかしら」
「下世話な女だな、貴様は」
疲れた様子で、仕方なくフォルテッシモは殺気をしまい、めんどくさそうに言った。
「あいつに何の用だ。場合によっては消すぞ」
「急ぎの野暮用よ。なに、オンナノコの秘密のお話、ってやつ?」
真面目に会話すること自体が無理だと悟ったフォルテッシモは、玄関のドアを閉じようとした。レインが靴の先をドアの隙間に挟み込む。フォルテッシモは扉の取っ手を引いて抵抗する。子供の意地の張り合いみたいなことを始めたころ、買い物から帰って来たユージンの呆れた声が響いた。
「何をやってるんだ……」
この数年で成長したMPLSたちを見上げて、ユージンは溜息を吐いた。
――本当にこいつらは、いつまでも子供気が抜けないと見える。
「あ、久し振りね」
女はユージンの方を振り返って、フォルテッシモに向けたものと同じ得体の知れない微笑を浮かべた。彼女はユージンの平らな胸を、まるで塗りたての壁を触るみたいな動作で撫でた。
「あんたは本当に、何年経っても変わらないのね」
「ぼくは合成人間だからね」
「おい、気安くそいつの身体に触るな」
フォルテッシモが文句をつけたが、レインは今度は当てつけるようにユージンの背中から手を回して胸を掴んだ。
「怖いわね。オンナノコにはもっと優しくしなさい」
「やめろ気色悪い。大体「オンナノコ」って歳じゃねーだろう」
「失礼な男ね。今日はあんたなんかには何の用も無いのよ」
「なら用事とやらを済ませてさっさと帰れ。まったく、俺でもそんなふうにそいつに――」
途中まで言い掛けて、もう自分が何を言っているのかも解らなくなってきたのだろう。機嫌を損ねた誇り高き最強は、硬いドアを大きな音を立てて閉めてしまった。
ユージンは怪訝な顔をして、のっぺりとした平坦な上半身を確かめるように手のひらでなぞる。
「レイン、人間の成長は胸を触ったら解るのか。基準が解らないな。この計り方はぼくの、足音で身体情報がおおまかに解ったりするのと同じなのかな」
本当に不思議そうに、なんでそんなに生真面目な目を向けるのか。レイン・オン・フライディは肩を竦めた。昔から全然成長していない。無知なのではなくて、ありえないくらいに実直過ぎるのだ。
「まあいいか。あんたに用があるのよ」
「すぐに終るのか。あいつ、お腹が空くと、物凄く不機嫌になるんだ」
ユージンの声は、知らない間になんだか柔らかい感触の響きに変わってしまっていて、レイン・オン・フライディは少しばかり困惑した。
――どうしたの、そんな優しくなっちゃって。
夕飯の味は悪く無かったが、少し甘すぎる。
「ユージン。あんたいっつもこんなお菓子みたいなものばっかり作ってるの?」
「嫌なら食うな。帰れ帰れ」
フォルテッシモが皿から顔を上げてレインを睨んだ。そう言えば、この男は甘党だった。レインは納得した。
「ハードね」
「大体なんでおまえが、招待もしてやってねえのに俺んちで飯を食ってるんだ」
「されたわよ」
「リィ。ぼくがした」
ふたりはほぼ口を揃えて言った。レインは怪訝な顔になる。
「リィ、ですって?」
「フォルテッシモ」
すぐにユージンは言い直した。レインは珍獣でも見るみたいにじっとユージンを凝視していたが、ほどなくデザートに手を付けながら、ぽつりと呟いた。
「……ハードね」
まるでそこに居ることが、ほんのちょっと苦痛になってきたみたいに、彼女はそれから食事が済んでしまうまでは何も言わなかった。
「あのディスク、どうした?」
身に降り掛からない話題には元々興味を示さなかったフォルテッシモが、さっさと部屋に引っ込んでしまったあとで、レインはさりげなく言った。
「あの男の遺産か。もうとっくに処理した」
「まったくあんたたちって、後に残らないように塵にするとか焼き切るとか、人がくれてやったものくらい大事に取っとくって選択はないの」
「おまえが寄越すものは、持ってるだけでまずいものがほとんどだろう。バックアップは取ってなかったのか?」
「あたしには本当にいらないものだったんだもの。気付いた? あのディスクの中、あの男からあんた宛の熱い愛のメッセージが刻まれてたの」
「知ってたら使わなかったよ」
物凄く嫌そうな顔をしたユージンに吹き出して、レインは嘘よ、と手のひらをひらひらとさせた。
「まあ冗談なんかどうでもいいんだけど、あれね、あの男があんたが殺しに来るって気付いて、急いで作ったものだったみたいなのよ」
黙り込んだユージンは察したのだろう、しかしレインは目を閉じて、緩慢に頭を揺らした。
「問題ない、統和機構への隠蔽工作は完璧だったわ。さすがとしか言いようが無いくらい。それでも急ごしらえの代物に変わりは無い。統和機構から遠ざかれば遠ざかる程、逆に別の角度からなら目に付くこともある――」
統和機構から逃れて離れていけば、やがて空気穴みたいな暗い隙間に辿り着く。闇を這いずり回ってやっと生き延びたもの、棲みついて巨大な明かりを伺うもの、そんなものの格好の生息地だ。
レインはご愁傷様、といった顔で頬杖をついて、ユージンにあっけらかんと通告した。
「あんたのこと、地下組織の奴らにリークされちゃったみたい」
リィ舞阪は、まだ面白く無さそうだ。ブリキの灰皿を引き寄せて、煙草に火をつけていた。
「いったい何の用だったんだあの女」
忌々しそうに煙を吐き出して灰を落とすリィに、本当になんでも無かった、つまらないことだった、と優は言った。
「「オンナノコの秘密のお話」だ」
「そろそろおまえのその突拍子のない口の訊き方にも、慣れなければな、と思ってはいるんだがなァ」
リィはなぜか椅子から転げ落ちそうになっている。
「――リィ、そろそろぼくは寝るよ」
優は手のひらで目を擦った。あの女と話していたら、なんだかとても疲れてしまった。
「一緒に寝てもいいかな。ベッドが狭いなら床で寝るが」
「おまえを床に寝かしてやると、不気味なオブジェが増えたみたいで俺が気に入らない。なんで家の中でまで座ったまま寝るんだ」
「その方が慣れてるんだ。まあ、ベッドで寝たって朝には蹴落とされて床にいるんだけど」
「構わんが、あまり俺の方に近寄んなよ」
「仕方ないだろう。狭いんだから」
二人で同じように溜息を吐いて、そうしてユージンはリィに背中を向けて、寝室へ消えていった。
◆
『あいかわらず素直じゃねーなァ』
リィの首からぶら下がったエジプト十字架の中にいる、得体の知れない存在がぼやいた。
『「あまり俺の方に近寄んなよ」? 良く言うぜ、甲斐性無し』
リィは無言だ。その指先には不自然なくらい力が篭って、硬性の十字架がみしみしと音を立てて軋んでいる。
『あのおじょうちゃんもツッコミ所がいっぱいなんだが、オレの声が聞こえねーみてーだからすっげーやるせねーな』
「あいつは「おじょうちゃん」じゃねーって言ってんだろうが」
『「仕方ないだろう、狭いんだから」……どっかの喧嘩馬鹿と同じくらい素直じゃねーな、あれは』
「どういう意味だ」
『この馬鹿も大概鈍いしよ、なんか可哀想になってくるよなァ』
この訳の解らない存在に実体があれば、間違いなく肩を竦めて、やれやれと溜息を吐いていたんだろう。
ほんの少しの同情(ただしエンブリオ流にたちの悪いものだ)を含ませた声が、十字架からリィの頭の中に流れ込んだ。
『ようするに、あのおじょうちゃんはおまえとヤリてーんだよ』
数分の間、リィの思考は停止した。
◆
リィが優を抱いたのはたった一度きりだった。一度でも抱いたことがある、と言うべきなのかもしれないけれど、こんなに近くにいて、それも数年も前のことだ。
身体をくっつけあっていることはままあった。気恥ずかしい話だが、手を重ねて無言で顔も合わせられないまま、まるで子供同士の純朴で真剣な恋愛でもしているみたいに、ふたりでそうしていることすらあった。
しかし大体はひとつしかないベッドでお互い、本当にしょうがないからと言った調子を演じながら、背中をくっつけ合って眠ることが大体の彼らの一番近付いた習慣だった。
――リィのことが好きみたいだ。
それを口にすることだって精一杯の優が、彼に向かって顔を突き合わせて「抱いてくれ」なんて絶対に、口が裂けたって言える訳がない。
優は交配を想定して創造された合成人間ではなかった。性器も満足に付属していない。胸には乳房がなくまるで男みたいで、股はなめらかで女のようだ。どっちつかずで不完全で、人間を気持ち良くできる自信がない。
リィは優が好きだと言ってはくれるけれど、優を抱くことは一度しかしなかった。気持ち良くなかったのかもしれない。そう考えると、背筋が粟立ってしまう。
いつの間にか眠ってしまっていたようだ。ふと目を覚ますと優の周りは静まり返っていて、小さな呼吸音だけが響いていた。背中が温かい。優は、うしろにリィを感じて目を細めた。
リィのほうは、優と違って人の体温が好きではないらしい。意識してしまうのは、優ばかりが余計に彼を好きになってしまったみたいで、なんとなく癪だった。
ベッドの上で座り込んで、優はリィの寝顔をじっと眺めた。幼い子どもだった頃に比べて随分成長した横顔は、とても綺麗に整っていた。
彼は昔からあどけなさの欠片もない目をしていた。鋭い剃刀だ。敵意ではなく、ただ殺意と好戦的な眼差しでまっすぐに優を見つめてきた目を忘れない。
今では優よりも背が伸びた。振り向く度に目線が交わったあの頃よりはましだが、見下ろされるのも居心地が悪い。彼の目に触れるということは、優にとっては強烈だ。
あまり、見ないで欲しい。
節がいやにはっきりした手は大きくなって、優を易々と抱えられるようになってしまった。だが、抱くことはない。
(おまえは、ぼくにまともに触ろうとしないんだな)
優は、小さなリィが背伸びをして袖を掴んでいたあの日から全く変わらない体を観察した。
節くれだった関節。肉が薄くて、満足に骨格をカバーしきれていない。あばらの浮いた胸。腰骨。浮き出ていて触ると少し痛い。脚は筋が浮いていて硬い。
優の機能的な合成の身体は、全体的に硬い。
(こんな身体だからか。すまないな)
優はリィの頬骨に唇を押し付けた。彼の体温は優よりも高い。温かい。
せめて性欲を満たしてやれる身体ならよかった。いつか初めて友達と呼んでくれたリィ舞阪を喜ばせるために、優自身の全部を使うことができたら、ここにいる意味は見つけられた――。
悪い癖が出ている、優は溜息を吐いた。
誰かのために生きたいだなんて、口ばっかりだ。自分が無力だったせいで、失ってしまったものたちへの未練を引きずっているだけだ。もう一度、あの温かい人間のぬくもりを感じたいだけだ。それをたった一人だけ、どこまでもそばにいてくれる男に押し付けようとしている。
昔みたいに上手くものを考えられない。喧嘩馬鹿で救いようがないフォルテッシモよりも、もしかすると手におえないかもしれない。
過去のユージンにとっては死ぬことも生きる事も等価値で、単純明快にただの駒のひとつだった。自己意思が芽生えたって、それは辛いことだらけだ。しかし外の世界は、同時にとても優しいものだった。
どこかの遠い雪解けがもたらしたような感情の波が溢れてきて、優は泣いた。冷たい身体のどこから溢れてきたのか不思議なくらい、涙は熱かった。人の温もりを知った時から、その衝動は止まらない。
人を好きになってしまった優は弱い。ユージンにはもう戻れない。純度の高い透明過ぎる水は、今はいろいろなもので濁ってしまった。再び全部凍らせてしまうには、失ったものが多すぎた。
(なんでひとりはもう嫌だとか思うんだろう)
頬を伝う水が微かな嗚咽を呼び寄せた頃、優は強制的に意識のスイッチを切ってしまって、考えるのを止めた。冬眠機能は、こんな時には何よりもありがたかった。
◆
ベッドの半分を占拠してしまっている優を見下ろして、リィはさっきからずっと余計な言葉を浴びせ掛けてくるエンブリオを爪で弾いた。
(そろそろ限界じゃねーのか、いろんな意味で。「あーすっげー可愛い。めちゃめちゃに犯してえ。デキねーもんも孕むくらい中出ししてー」――)
(ンな下品な事考えてねえし。どう見積もってみても半分くらいだし)
リィは赤く染まった顔を渋くして、優のとなりに潜り込んだ。
(無茶すんなよ)
(貴様はもう黙れ)
硬質の趣味の悪いエジプト十字を取っ払って、リィはやっと人心地がついた。背中合わせに触れる体温に、顔を更に赤くする。
(ユージン)
天色優なんかいう名前よりも、リィは彼をユージンと呼んだ時間の方が長かったし、その名前がなによりも気に入っていた。
触りたくて、全身がうずうずした。悦ばせてやるものが何もない身体だったが、なんだって良かった。
しかし、相手はあのユージンだ。意地だけはそう簡単には取っ払えない。本当に本気で余計に好きになっているのはリィばかりみたいで、それがどうしても気に食わなかった。
ユージンは好きだと言ってくれるようになったが、リィの身体を求めたことは無かった。抱いたのはたった一度だけだ。
ただ優に触れているだけだと言うのに、下腹部が熱くなってくる。気に入らない。こうして肌が触れ合っているのに、優は呼吸のひとつも乱さない。綺麗な顔で、微かな寝息を立てて、小さな身体を縮こまらせている。
(くそ、面白くねえ)
憎々しげに天井を見上げる彼の横で、優は艶っぽい吐息を零して寝返りを打って、リィの背中にほっぺたを貼り付けた。
――わざとじゃないのか。
彼の眠りはほとんどが半覚醒状態だ。規則正しい機械みたいに身体が造られているから、外からの感触には敏感だ。すぐに目を覚ます。
しばらくして、優が身体を起こす気配がした。そしてあろうことか、リィの頬に柔らかい唇を押し付けたのだ。冷たい、柔らかい、僅かな弾力のある、心地の良い感触だった。
――こいつはしょうこりもなく、また分析なんかしやがるのか。
優はそれ以上なにもしようとはしなかった。ただじっとリィを見つめていて、ふいに頬に熱いものが降り掛かった。温かくて、湿っている。
ここが戦場なら血だと思っただろう。それはまずありえないものだったが、優の嗚咽が聞こえる。
ほんの微かなものだった。優は泣いているのだ。理由なんて知らない。幼児のように、怖い夢でも見たというのか? 何の冗談だ? あのユージンが。
リィには優がなにひとつ解らない。こんなに好きなものもないのに、何も解らない。
毎日、こうして飽きもせずに、リィはわけのわからない優が好きになっていく。身体に触りたいし、セックスもしたい。
対等の強者と戦う事だけが望みだったリィは、不器用に硬直した手で眠りこんだ優の髪を撫でた。戦闘の天才と呼ばれる宿敵で、唯一の友達だったそいつのことを考えると、頭がぼおっとして息ができなくなる。胸が苦しい。
リィは最強だが、優のように惚れた人間の前でもいつもクールな能面でいられるほど器用な人間ではない。
◆
往々にして最強の住居は変わった。ある時はホテルの最上階のスイートだったり、シンプルなウィークリーマンションだったりした。
そのどれもに監視がついていたが、リィ舞阪はまったく気にしていないようだった。毎回違う顔ぶれの末端が、数百メートルの向こうから覗き見たって、本当になんでもない顔をしていた。
その傍らでは、脱ぎっぱなしの薄紫色の上着とタオルを抱えて、優が呆れた顔をしていた。
「また脅し付けたんだな」
「ほんの一言二言喋っただけだ。余計なことを騒ぎ立てる奴は嫌いだ、そんなふうにな」
優は何も言わず、散らばっていた靴下にも手を伸ばした。
「おまえはもう、一人で生活させるとどんなふうになるんだろうとか、一回見てみたくなってきたよ……」
リィほどではないが、優は家事が苦手だ。いつも独りでやっていく分には、掃除も洗濯も、食事もほとんど必要がなくて、数日、あるいは数週間の冬眠を終えた頃、ふらりと街に出て食物を摂取する、そんな生活をしていた時期もある。
その優が見ても、一人にしておくとリィの生活はひどいものだ。まず好きなものしか食べない。人間のくせに必要な栄養なんてちっとも考えていない。
そして掃除なんかしない。洗濯も、もちろんしない。誰か端末が入れば別だが、気に入らなければ消してしまうので誰も寄り付かない。
優がほとんどテレビや雑誌の見よう見まねで始めた家事まがいの仕事は、リィにとってはひどく新鮮に映るようだった。
目が覚めたら部屋が綺麗で、昨日まで着ていたシャツがベランダの陽光の下で風になびいていて、しかもそれはホテルのように事務的なものではない。読み掛けの雑誌は何時の間にか行方不明になり、電池が切れたまま埃を被っていたテレビのリモコンは、何を勘違いしたのかMDコンボの上に乗っけられていたこともあった。
優は決して何でも出来る訳ではない。それでもリィは、優の作った料理を美味そうに食う。
彼は「手料理」と言うもの、誰か見知った人間が食事を作ってくれるところを、今まで見たことが無かったらしい。
(ぼくだってないよ、そんなの)
優は思うが、それでも料理雑誌を凝視しながら作り上げたものを、本当に美味しそうにがっつかれるのは嫌じゃなかった。くすぐったくて変な気分だ。悪くない。
目が覚めると、優はベッドの中で一人ぼっちで丸くなっていた。背中のぬくもりはまだ残っていたが、リィはもういなかった。
リィ舞阪は何も言わないまま姿を消すことがあった。また任務だろう。優も承知していて、彼の一日はその時期は大体静かに終った。
(最近は家事ばかりしている気がするが、ぼくはそう言えば単式戦闘タイプだった気がするな……)
優はまどろみに潤んだ目を左手で擦って、時計は見ないまま、ぜんまいが切れた玩具みたいに倒れて、再び眠りの中に侵入しようと試みた。
するべきこともない。手のかかる家主がいないなら、料理とか掃除とか洗濯とか、いわゆる家事とか、ゴミを出したり、あとは最強の相手とかすることはないからだ。
リィ舞阪専用の家事ロボットみたいだ―ーゴシュジンサマオショクジデス、オユカゲンハイカガデスカ、アマリランボウハナサイマセンヨウ。
一度からかってやるのも良いかもしれない。リィは怒るだろう。優の思いついた冗談は、どうやらリィには受けないらしい。
優は、ベッドの中で膝を抱えてくすくす笑った。
(いつからだ、こんなの)
疑問が記憶を辿っていくにつれて、優の顔は引き攣り、歪んでいった。過ぎ去った温かい日々を思いだした―ー。
その日は朝から具合の悪い空模様で、ぐずついた雲の厚い空からは、時折生温い雨水が零れてきた。
「うっとおしい天気ねえ」
言うほど空気に混ざった緑色の、どろっとした藻みたいな、初夏の日の雨の匂いに気分を害した様子もなく、七音恭子という少女は額の汗を拭った。
上にはろくに雨宿りにもならないコンクリートの柱に支えられた天井、これは隙間だらけで、格子状に木の枠が嵌められているといった粗末なものだったが、そんな作り掛けのアーケードの下で、彼ら六人の少年少女はああでもないこうでもないと言いながら、ぐるぐると歩き回っていた。
「本当にここなの?」
「うん、たぶん間違いないな」
「数宮くんの「たぶん」って、正直あてにならないわよ」
「きっついな、辻」
ところどころ支柱から露出している剥き出しの鉄筋は、白い石の壁には不釣合いに錆が浮いていた。作り掛けられて、工事に入って頓挫してしまったのだろう、今はそこここに青い雑草が茂っていて、特有の芳香を雨水に混ぜて、大気に拡散させている。
拳くらいの大きさの、こげ茶色の石が地面に敷き詰められていて、不揃いなその上を歩いていくのは難儀な仕事だった。それでも彼らは、そんなことは全く気にしていなかった。
このメンバーで顔を合わせている事が何よりも楽しくて仕方ない、そんなふうだったのだ。
先頭を歩いていた、顎に薄い髭を生やしたシャープな顔立ちの青年が振り返った。彼は少し視線を下げて、一番しんがりを歩いている少年に声を掛けた。最近、彼らの『予知』によって遭遇した天色優だ。
「疲れてないか、天色」
「は、はい、大丈夫です、神元さん」
「そんなにがちがちの、他人行儀な呼び方じゃなくたって良いんだが」
「功志に「がちがち」なんて言われちゃったらお終いよ、天色くん」
辻希美が茶化した。神元功志は苦い顔をした。天色優は顔を赤くしながら、くすくすと笑った。
「すみません、ええと……神元くん。あの、まだ慣れなくて」
「無理しねぇでいいんじゃねえの。よくわかんねぇけど」
出会った時よりはいくらかましだが、おどおどとしている天色優に、海影香純がクールに言った。その隣で七音が吹き出して「香純くんやっさしい」と茶化したせいで、彼の顔は不機嫌なものになってしまった。
優は穏やかな顔で、大丈夫です、と言った。
雨はいつの間にか本格的に降り始めていた。早朝の天気予報によると降水確率は70%、彼らの予知によると『もー、さっきからたまんねーよな、ずぶ濡れだ』――ベィビィトーク、数宮三都雄の声で確実だった。
掲げた傘には時折、天井から零れてきた纏まった雨水が、蛇口から水道水が噴出すくらいに勢い良く降り注いだ。狭い通路の中を行き場の無い生温い水がざらざらと流れて、跳ね返った飛沫と相俟って、彼らの足を膝辺りまで濡らしていた。
「きゃっ」
七音恭子の悲鳴がして、続いて傘が跳ねてコンクリートにぶつかる音、小さな舌打ちが聞こえた。
「どうしたんだよ」
「ちょっと、傘」
彼女の視線の先には、何度か地面を転がって泥塗れになった赤い傘があった。
「結構気に入ってたんだけどね」
「飛ばされたのか?」
「うん、ああ、柄が折れちゃってるわ。駄目ね、もう」
七音は溜息をついた。天井の空気穴から勢い良く零れてくる雨水が、彼女の頭を叩いた。
「あっ、痛。傘入れてくれないかなぁ、香純くん」
「辻に入れてもらえ」
「もう、つれないんだから」
冷たいことを言いながらも海影香純が優しいことを知っている七音は、彼が差し出してくれた真っ黒な傘をにやにやと笑いながら押し退けて、小柄な辻希美にくっつくようにして雨をしのいで、口先だけは恨みがましげに文句を言った。
「勝手にしろよ」
呆れて憮然として、香純は頭を振った。そして彼は急に気がついた。
ひとり少ない。
「なあ、天色は?」
天色優の姿は、いつの間にかどこにも見えなくなっていた。
MPLSが五体、各個体の能力はまだ不明。能力の有無も、不明。
危険度は極めて低いが、少しでも有害と見られる行動があれば、殺さなければならない。リキッドで、あるいは事故に見せ掛けて、方法なんか彼にはいくらでもあった。
(駄目だ)
ユージンは顔を上げた。虚ろな彼の顔を、容赦なく雨粒が打った。
雨はひどくなっていた。彼ら、あの五人のMPLSを殺して中枢に報告している自分を想像すると、背中から胸に突き抜ける激痛と、酷い悪寒と吐き気がユージンを襲った。
駄目だ。
何度も繰り返して脳味噌に刻みこんでいるその言葉は、彼らを殺さなければ駄目だ、それとも殺しては駄目だ、そのどちらなのか、ユージンには解らなかった。
(どうしてしまったっていうんだ)
彼は空を、今は厚い雲で覆われて、黒い灰色の空を見上げた。雨の粒が、幾筋も頬を伝った。
生温い雨だった。どろっとしていて、微かに腐った植物のような匂いがした。淀んだものが、血や腐臭よりもしつこく全身に纏わりついてきた。
ユージンは虚ろな眼差しを上向けた。
遠くであの五人のMPLS、もしくは彼の初めてできた友達が、天色優を呼ぶ声が微かに聞こえた。
そういえばこうやって自分のことで悩むなんて初めてだな、とユージンは思った。
「天色くん!」
置いてけぼりになり掛けていた天色優に最初に声を掛けたのは、七音恭子と辻希美だった。彼女らは、天色優を見付けると悲鳴を上げた。
「駄目じゃない、びしょ濡れよあなた!」
「えっ、え?」
「恭子、天色くんが怯えてるわよ。でも大丈夫? 傘は?」
「あっ、あの」
目を丸くしている天色に、彼女達は急き込んで言った。天色はぎこちなく顔を上げて、両脇から腕を掴んで引っ張っている少女たちに、ひどく申し訳無さそうな顔をした。
「あの、濡れますから。その、触ったら」
「何言ってるのよ!」
「あ、すっ、すみませんっ」
七音恭子に当然のようにして怒鳴られて、天色はびくっと身体を縮こまらせてしまった。
「風邪でもひいたら、天色くんは繊細なんだから、こじらせちゃって肺炎にでもなったらどうするのよ」
「す、すみません……」
「天色くん、謝らなくていいのよ」
辻希美が、小さくなってしまっている天色にクールに言った。彼女達は本当に正反対だったが、同じ位に天色優のことを心配しているようだ。
「おまえら、なに天色いじめてんだよ」
追い付いた数宮三都雄は、彼にしては珍しい渋い顔をしている。二人の少女は天色の腕を抱いて、心外といったふうに口を尖らせた。優を女友達かなにかのように勘違いしているのかもしれない。
「失礼ね。あんまりよ、三都雄くんは」
「数宮くんにはデリカシーってもんがないのね」
「おいおい」
三都雄は攻撃を一身に受けて戸惑ったようだったが、すぐに濡れ鼠になってしまっている天色に気がついて、慌てて傘を差し出した。
「うわっ、なんだよびしょ濡れじゃんかよ天色!」
「あ、あの」
天色優は、人に心配されることに全く慣れていない。目をぱちぱちとさせていた。
「おまえは身体弱そうなんだから、もーちょっと気をつけろよな」
「ご、ごめん、数宮くん」
「謝らなくていいって!」
今しがた七音と辻が言った同じことをそのまま大真面目な顔で口にした数宮に、彼女らは耐えきれずにくすくす笑いはじめた。
「な、なんだよ。なんかおかしいこと言ったっけ、おれ」
数宮は、いきなり笑われて唖然としている。
「もう、おかしいわよ、三都雄くんてば」
くすくす笑いにつられるようにして、傘を押し付けられて戸惑っていた天色優も小さく吹き出した。
「て、天色、おまえまで」
「ふふ、ご、ごめん、数宮くん」
「三都雄でいいって」
数宮三都雄はしばらく憮然としていたが、やがて彼も流されるみたいにして、へへっ、と笑った。
「なんだ、何の話だ?」
「みんなしてにやにや笑いやがって、なんなんだよ」
「へっへー、顔が暗い香純くんには関係無いことよ」
「功志もね」
「悪かったな、暗くて」
「…………」
やっぱりユージンには彼らを殺せない。
笑い掛けられること、人に心配され、気遣われて、怒られること。友達に囲まれて笑うとはなんて幸せなことなんだろう。初めて知ったことばかりだ。世界は明るくて、空気は澄んでいた。
五人には何も知らないままでいてほしいと願った。初めての我侭だ。
もう少しの間、いまだに冷たいことしか知らない同類だったものに心臓を握り潰されてしまう日まで、それが今日かも明日かもしれないけれど、それまでは――このあたたかなぬくもりを必ず守ると決めた。
天色優の元には、そのぬくもりは何も残らなかった。
逃走中に数宮三都雄が死亡。これは優の目の前で、予測はついたことだったのに、最悪の不手際だった。
辻希美、神元功志。共に天色優の戦闘中に死亡。直接確認こそしていないが、もう駄目だったろう。生身の人間が、あの被投与体を相手にできるわけがない。
七音恭子と海影香純は生きているだろう。あの天色優と同類の少女を守りきった。彼らはやるべきことをやったのだ。
最後の最後でどうにもならなかった優は、複雑な気分だった。どうしてここにいるのが、数宮三都雄や辻希美、そして神元功志ではないのだろう。
生き残ってしまった優は、より人間であることに固執した。それはあるいは、もしかしたら彼らにあった未来をそのままになぞる行為だ。優にはそんなことでしか、彼らを留めておくことができない。
2
日は真上から落ちて、傾きはじめていた。ベランダに干した洗濯物が複雑な影を作って、室内にかげろうのようなかたちを映していた。
いつの間にか流れていた涙が、優の顔をべたべたに汚していた。湿って気持ちが悪い頬を拭う。
「ぼくはまた寝てたのか」
優は口の中だけで呟く。一人きりになった時の癖だった。胃が空っぽで、気持ち悪くなるくらい腹が減っている。そう言えば昨日からほとんど何も食べていなかった。
午後を少し回ってから、近場の幾度か通ったことがある小さな食堂に入るなり、年配の女性店員に「今日はお兄さんは一緒じゃないの」と残念そうに言われてしまった。優は複雑な気分になって曖昧に微笑んだ。
もう三時になるのに、店内はこんでいた。注文した月見蕎麦が目の前に到着したころ、店の入口が開いて奇妙な二人連れが現れた。
「ここにするかァ」
「……?」
「ああ。そーいえばまだ日本に帰ってきてから、和食を食わせてやったことはなかったか」
壮年の男性と歳若い少女だった。変に隙というものがない二人だ。父娘か、それとも祖父と孫のように見える彼らは、優の隣のカウンター席に腰を下ろした。
優は彼らの、その娘の方に見覚えがあったが、何も言わなかった。ただ黙って蕎麦をすすった。
「シーチキンのおにぎり、ないの」
「朝食ったじゃねーか、コンビニのやつ。あんなもんばっかり食ってると、上手いこといろんなところが成長しねーぞ」
「いろんなところって、どこ?」
「まだキトちゃんは知らなくていーとこだ。ああ、おばちゃん、こっちのにーちゃんが食ってるやつ、あー、月見蕎麦か。それときつねうどんを一つずつ。どっちか好きな方食っていーから、な?」
「……!」
連れの男に指差された隣の少年、天色優はなんでもない顔で、半分だけ固まった卵を、溶け出さないようにしながら箸で潰す作業にとりかかっていた。なんとはなしに視線を向けたキトは、目を見開いてかたかたと震え出した。
わなわなと唇をわななかせて、少女はどうしても言えない言葉を吐き出すみたいにしていた。
隣で保護者の榊原弦が怪訝に目を光らせて、鋭く天色優を睨んだ。値踏みするみたいな、警戒の目だった。
「わ、私……私」
キトは震えながら、掠れた声で必死に何度も詰まりながら言った。
「私あの、すごく、その月見そ、ええと、それが食べたいわ……」
それを聞いて弦は目を丸くした。そして、そうか、そんなに蕎麦が気に入ったか、と言って豪快に笑った。
熱い麺に口を付け、必死で掻き込んで(優が数年前見た子供の彼女も、こういうふうにして一生懸命シーチキンのおにぎりを食べていたものだ。何故いつもそんなに飢えているふうなのだろうか?)絶対兵器のキトは露骨に優を覗う様子を見せた。
ちらちらとした視線が、なんだか痛い。
優はそれでも眉一つ動かさずに食事を済ませてしまうと、立ち上がって出て行こうとした。しかし、上着に引っ掛かった細い手に引き止められてしまう。
「なんなんだ」
優はあからさまに顔を渋くした。少女の手を振り払ってやろうと、軽く身体を捻った。キトは優を離さない。
何を言うでもなく、ただ本当に膨大な言葉の群をどこから片付けてやろうかという困惑と、憧憬で潤んだ目を、じっと逸らさずに優に向けていた。
「…………」
優は根負けした。
ひとつ離れた向こうの席から、彼女を連れていた男が興味深そうにその遣り取りを覗き込んでいる。あの穴倉で優が眠り込んだ後のことは知らないが、今は彼がキトを守る役目を担っているらしい。
統和機構の関係者でもなさそうだ。敵じゃない。
キトは食器を空にして、それからまた優をじっと見て、やっと意味のある言葉を吐いた。
「あなた、なんでそのままなの」
「そういう身体だからだ」
そっけなく言った優に、キトはまだ不思議そうにしていた。
「いっぱい弄られたけど、私は成長してるのに。生理だってきたのよ」
「そうか。良かった。世界は守られたね」
キトの隣でちびりちびりとうどんを啜っていた男が、動揺してどんぶりをひっくり返した。優は相変わらずの平坦な顔で、ぼくは最初からこうなんだ、と言った。冷えきった静かな眼差しでキトを見据えた。
「おまえが言いたいのは、そんなことじゃないんだろう?」
キトは震えた。また黙り込んでしまった。優は、彼女の言葉を我慢強く待った。
「…………」
しばらく黙り込んでいた少女は、やっと唇をわななかせて口を開いた。しかしそこから漏れてくる声は、音にはならなかった。
「――ご……」
唇の動き、そんなもので優には彼女の言いたいことは大体解っていた。
――ごめんなさい。
絶対兵器。
でも今は違う。ウィルスはまだ完全に分解されていないだろうけれど、少なくとも今の彼女は世界にとっての危険じゃない。
キトは可哀想なくらいに顔を真っ赤にして、今にも泣き出しそうだった。その隣で、零した汁を拭き取っていた男が、わざとらしく咳込んだ。
「あー、なんか、お邪魔みたいだしよ、ちょっくら先に挨拶回りに行ってくるわ」
「あ……」
「ゆっくりな」
キトはなにか言おうとした。しかし、素早く勘定を済ませて、男は本当にさっさと店を出て行ってしまった。
「…………」
「…………」
険悪でもないが柔らかくもない、居心地の悪い空気に包まれていた。先に口を開いたのはキトだった。優は何も言わない。
「殺さないの」
「何故?」
「わ、私のせいで、あなたの友達が何人もその、死んじゃって、すごく嫌われてると思うから」
「なら、どうすればいいんだ」
「昔みたいに爆発とかさせても、私はもう「絶対兵器」じゃなくなったから――」
「つまらない提案だ。危機なんて関係なく、君には生きていてもらわなければ困るな」
優の切り裂かれるようなそっけなさには、淀んだものが堆積していた。キトは、目を見開いたまま、下を向いて震えていた。
「彼らが命を掛けて守ったんだ。少なくともぼくなんかよりはずっと、最後まで生き伸びなければ許されない」
「わ、私は」
ばっ、と顔を上げた少女は、なにか必死に言い募ろうとしていた。それを一瞥してから、優は目を細めて口元に水を運んだ。
「少し黙れ」
優はグラスに映り込んだ風景を見つめながら、研ぎ澄まされた氷の感覚を全身、指先にまで張り巡らせた。
――来た。
泣きべそをかいているキトの首根っこを乱暴に掴み上げて、優は思いきりテーブルを蹴って跳んだ。窓際まで一気に転がり込んだ。
ほぼ同時に、大型のクール便トラックが、脆い灰緑色の壁を突き破って、轟音と震動を撒き散らしながら突っ込んでくる。優とキトがついていた座席の辺りに衝突した。
その時には、優は既にガラス窓を蹴り破って、屋外に脱出していた。
「どういうこと……」
「ぼくだけ食い逃げということになるのかな」
「あの、私が言いたいのは、そういうのじゃなくて、どこの」
どこの人かと思って、と言い掛けたキトだったが、吊られた首が締まって声が出せなくなった。背後でオレンジと白の閃光が瞬いて、鼓膜が痛くなる位の爆発が起こった。
「相変わらず人気者みたいだね」
淡々とした優の嫌味にも、キトは声が出せなかった。ほんの一瞬で食堂街を飛び出して、優は一人分の体重を軽々と抱えて走り続けた。
「やはり追ってくるな」
やっと自分の足で体重を支えられるようになったキトが、呼吸をようやく確保して、咳き込みながら涙目を優の顔にやった。
常人離れした身体能力を有した少年は、彼女の視線に触れたその時調度、路上に女性と二人連れでいた、塞がって邪魔になった背の高い男を膝で蹴り上げて、気絶させたところだった。
キトは、今度は本当に呆然として黙り込んでしまった。
「あなたって、いつもそんなに乱暴なのね」
「非常事態だ。いつもこうじゃ、まるで――」
「まるで?」
「余計な口を叩くな」
彼らの逃走を妨げたのは、薄汚い格好をしてスポーツ新聞を抱えている中年、背広姿のごく平均的な男など、本当に人ごみに紛れる格好をしていた。そのどれもに共通していたのが、奇妙に鋭い目付きだ。
擬装の点では本当になりそこなっていて、優はほっとした。普通人ではどう見ても無さそうだったが、統和機構がらみではなさそうだ。
ふたりは路地裏に入り込んだ。細身の優やキトがやっと通れるくらいの建物の隙間だ。壁に皮膚を擦る事もなく器用に走り抜けていた優は、ぴくりと頬を動かした。
目の前には、数メートルの鉄策を天辺に備えたコンクリートの壁が立ちはだかった。行き止まりだ。
背後から、さっきの男たちが呼び合いながら、体を横にして壁の隙間を這いずって来たところだった。
『終わりだ!』
『おい、追い込んだぞ!』
日本語でない言葉で、彼らは怒鳴りあった。
「おしまい?」
慣れているのだろう、やけに落ち付いた声でキトが冷静に聞いてくる。優は速度を緩めないまま、土埃で汚れた硬い地面を蹴って跳躍した。人一人抱えて、真上に。
苦もなく壁を乗り越えて、倒れそうな廃ビルの窓を叩き割って侵入し、ふたりは追ってくる男たちの前から姿を消した。本当に、一瞬の出来事だった。
◆
瓦礫になってしまった焼け跡からは、燃えるものも残っていないのに黒い煙が止まることなく上がっていた。
半分溶けた大型トラックには誰も乗っていない。食堂だった建物に入っていた客のものだろう、皮膚のくっついた服の切れ端や靴、鞄、ぶちまけられた血糊などが散乱していた。
それらを冷たく観察していた人間達、日本人にも見えるが国籍は特定できない、少女を追っていた男たちは、一様に強張った面持ちをしていた。
彼らは怯えていた。人を殺すことなど何とも思わないのに、恐怖のせいで冷汗を顔面中に張り付けていた。
小さな端末を口元にくっつけたリーダー格の男が、緊張のあまり唾を何度も飲み込みながら声を震わせた。
「失敗です、パール。少女に逃げられました」
通信機の奥からぼそぼそと囁く声がした。それを聞いた男は、完全に血の気を無くしてしまった。
男達が石くれと化した建造物の周りから消えたころ、火柱と轟音に惹かれて、次第に人が集まってきた。警官が現場に辿り付いた頃には、辺りにはただの野次馬と、爆発と余波で何らかの被害を被った被害者以外誰もいなかった。
彼らはみな同じように、何が起こったのか訳が解らない、と呟くだけだった。
◆
地下組織の構成員たちが血眼で絶対兵器を探し回っているころ、天色優はそれを連れて、爆発事故の現場から二つほど離れた駅のカフェにいた。
時刻は午後五時過ぎ、客の入りが良く店内はざわめいていて、見た目だけはごく普通の中高生の男女カップルのように見える優とキトの会話を耳に入れる人間はいない。
優と同じミルクティーを注文したキトが、物珍しそうに金メッキのスプーンでカップの中身をくるくると掻き混ぜている。
「どうして爆発させなかったの?」
「あまり目立ちたくなかったからな。能力を使うと、すぐに身元が割れてしまう」
砂糖とミルクを放り込んで攪拌しながら、優は言った。
「何故ぼくがいつもいつも何でもかんでも爆発させなければいけないんだ」
「してたもの」
「必要ないときは、別にしない。疲れるしな」
優は紅茶のカップに口を付けた。甘くて苦い。
キトも同じように口元に紅茶を運んで、具合が悪そうに優を上目遣いで覗き見た。
「あなたも自分の力が嫌いなの」
覚えのないことを言われて、優は目をぱちぱちとした。
「嫌い? ぼくがか」
「違うの」
「足りないとは思ったことはあるけど」
「爆発するのに?」
「絶対兵器だった君には何も言われたくないな。それと、爆発はもういい」
複雑な顔を浮かべた優の顔を見て、キトは何か変なことを言ったのかもしれないと思ったのだろう、同じように複雑な顔をした。それは同族、同類の彼女にほんの少しだけでも共通するところがある血縁の、年長者の行動を模倣する小さな子供に似ていた。
◆
――キトにとって天色優は、周りにいる誰よりも近しい存在に思えた。
彼の顔つきで解った。それは人間が身近な、血縁のある、親や兄弟に感じるものに似ていた。
古びた、安っぽいメッキのヘアバンドを無意識に撫でて、目の前のすごく綺麗な顔をした男の子を見た。彼女にはどうしても、優を同年代の少年のように感じることができなかった。
彼女の保護者と同じ感触がしたが、ある意味ではそれは完全に違っている。
キトは大人に優しくされることが辛い。友達は死んだ。みんないなくなった。手を差し伸べた鼠も、一匹残らず口から泡を吐いて、死んでしまった。
キトがそこにいただけで、みんな死んでいった。この天色優(そういう名前らしい)の友達も死んだ。
いままではキトが死ぬとみんなが死んでしまった。でももう違う。大丈夫だ。
悪い人が刑務所に入れられて死刑にされるみたいに、天色優はキトを殺してくれるだろうと思った。怖れながらも期待していたが、優はそれで許してくれない。
そのことに、キトはほんの少しだけ安堵していた。まだ生きて辛いことに苦しんで行ける。痛みとともにある幸せを感じることができるのだ。
キトはまだ死ねない。
掛け時計が六時を指した。
優は始終何が言いたいのか解らない顔をしていた。キトも同じだ。追加注文した砂糖まみれのフルーツのタルトをフォークでつつく。
「甘い物好きなの」
「好きでも嫌いでもないけど、甘い物が好きな人間は嫌いじゃないな」
「どういうこと?」
「べつに、関係ない」
「そんなに食べて、苦しくないの」
「食べないと胸が成長しないと言われたから」
「胸が成長? それ、なに。私も良く言われるけど、解らないの」
「実はぼくも解らないんだ。心臓が肥大するのかもしれない」
「それって良いことなの」
「良く無いことだな」
「それなのに、大きくなった方が良いのかしら」
「そうらしい。ぼくには理解出来かねるが」
真面目な顔をして優が深刻に言ったから、キトも真剣に頷いた。そうして自分も皿に半分だけ残っているケーキを、半ば無理矢理に口の中に押し込んで、苦しかったけれど飲み下した。
直立していた時計の針が僅かに傾斜をつけ始めたころ、優が穏やかに言った。
「そろそろ行こうか」
「…………」
キトは緊張にこわばって、店の外を見つめた。優が彼女だけに聞こえるくらいの小声で、ぼそぼそと言った。
「距離二百メートルほど。地上だ。聞き覚えのある足音がする」
優は信じられないくらいに耳が良い。キトのまわりにも強い人はいっぱいいるが、この天色優ほど人間離れした者はいない。
「さっきの人達がまた来たの」
「ああ。身体能力は通常の人間とほとんど変わらない。ただの地下組織の構成員だろう」
「あなたはもう帰ってもいいと思う。追い掛けられてるのは私だから……」
「なめるな」
微笑すら浮かべて優は言った。
「君を守らないとあの三人に申し訳ができないからね。保護者の元に送り届けたあとは、頼まれなくてもすぐに消えるさ」
「ごめんなさい。私がいるせいで、いつもあなたをつらい目にあわせてしまう」
「昔のことなら、ぼくの弱さのせいだ。別に君のせいじゃないし、何の関係もないことだよ」
優は突き離すような言い方をした。仲間を死なせた自分自身を決して許さないのだと、キトにはわかった。彼をなじる優しい死人の幻が見える気がした。
この天色優は、まだあの冷たくて優しくない世界で、キトと同じで自分を苛め続けている。
◆
地下街は蟻の巣みたいになっていた。人でごった返していて、彼ら組織の人間が見逃した十代の男女をその中から見つけることなど、海面に浮かんだコルク栓を見付けるに等しい作業だ。
あの年代の人間の顔も、背格好も、彼らには全く同じものに見えたが、だからと言ってそこに見える学生らを全部纏めて捕まえる訳にもいかない。
救いは、目標はかなり目立つ格好をしていたことだ。長い髪の女は、ほぼ剥げた金メッキの、流行らないヘアバンドなんてしていた。
男の方は良く解らない。どこかで見たような気もするが、思い出せない。どちらにしろ、一緒に連れて来いと命じられた訳でも無かったし、邪魔になるようなら殺せば良い。
彼らは、よりによってその少年が、天敵である統和機構の元エリートの合成人間、それも単式戦闘型、人間なんか逆立ちしたってかなわないBクラスのユニットなんかだとは夢にも思わない。
男たちの頭にあるのは、絶対兵器キトの回収だけだ。戦闘能力が未知数な「それ」を安全に捕獲する為に、人間の彼らにはしかるべき道具と方法が与えられていた。
任務の失敗には、組織の制裁が待っている。
携帯が鳴って、目標の現在位置を告げた。距離五十メートル。近い。
彼らは静かに人に紛れ始めた。
一組の男女からは反撃もない。彼らはただがむしゃらに逃げているだけだ。ほとんど戦闘能力がないと見て間違いないだろう。
女の黒くて長い髪の上に、安い金メッキのヘアバンドが飾られている。間違いない。
男の方は、不安そうに走りながらおどおどと辺りを伺っている。その顔はまるで女みたいに綺麗だった。
「ど、どうするの?」
男が居心地が悪そうに言った。絶対兵器――女のほうはこともなげに答えた。
「君はそのまま帰れば良い。連中も一般人に手を出すほど暇じゃないだろうからな」
「あなたは?」
「心配は無用だということは、おまえも良く知っているはずだ」
絶対兵器は男のような喋り方をした。後ろを振り返らず走り続けている彼女は、こんな事態でも冷静に見えた。慣れているらしい。
彼らは小型の拳銃をスーツの内ポケットから取り出し、あてずっぽうで撃った。単なる威嚇射撃だ。弾は地下の照明にぶち当たったり、そのうちの幾つかが無関係の人間にめり込んだ。
思わずと言った様子で、短髪の男が速度を緩めた。
「何をしている!」
絶対兵器が男を叱責した。その一瞬のうちに、拳銃が男の足に向けて放たれた。硬い鉛の弾丸が、彼のベージュのパンツに血の染みを付けた。
「止めろ!」
絶対兵器は怒鳴って、信じられない速度で発砲した男の元に迫って殴り倒した。人間の力では無い。きりきりと引き絞られる雑巾みたいに、構成員の一人が潰れて床に倒れた。
あたりに人だかりができはじめた。絶対兵器は鋭く舌打ちした。目立ってしまうことを、とても嫌っているようだ。
絶対兵器が駆け寄るよりも早く、通路から飛び出してきた数人の男が、倒れている男の襟を掴んで拳銃を突き付けた。
「…………」
絶対兵器は無言だった。状況を理解したのだろう、静かに目を閉じた。落胆して、疲れているように見えた。
「すまないな。人を守ることだけは本当に苦手なんだ」
背後から近付いた男が、抵抗をやめた絶対兵器の首筋に高圧の改造スタンガンを押し当てた。女は悲鳴ひとつ上げずに床に崩れ落ちた。
男のほうは脂汗を流しながら、小さな唇を震わせて、声にならない声をどうにかして発しようとしていたが――そんなものはどうでも良かった。
「任務完了だ。引き上げるぞ、その小僧はもう放っておけ」
リーダー格の男はそう命令して、ぐったりとしてしまっている長い髪の少女にちらりと目をやった。強くていい女だ。『絶対兵器』の名がふさわしい。
彼らは素早く、ばらばらに散っていった。あとには呆然と震える少男だけが残された。
◆
遠くサイレンの音が聞こえる。
キトと優は店からかっぱらったウィッグをつけ、入れ替わったまま逃げていた。あの強い人は、一人なら問題なく逃げきれただろうに、キトが足を引っ張ったせいで捕まってしまった。
あの人はまた、手首をナイフで切り刻み続けているみたいな目をしていた。強いのに人を守れない自分が許せないみたいだった。
キトは立ちあがって「その人は絶対兵器じゃない」と言おうとしたが、口が震えて動かない。銃撃された体が、ショック状態に陥り掛けていた。
血が吹き出す痛みはどうということもない。それよりも、こういう時にはてんで役に立たない自分自身に、無性に腹が立つ。どうしていつも誰かに守られていることしかできないのか?
意識が薄れていく。近付いてくるサイレンの音だけが、段々大きくなっていった。