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3
行き倒れの少女から聞き出した話の断片を組み立てて、フォルテッシモは大体の状況を理解した。
「ったく、あの馬鹿は部屋を散らかしたまま何をやってるんだ」
『散らかしたのはおまえだろーが。もうちょっとマシな演技はできなかったのか、リィくんよ。あの娘の目、まるっきり変質者を見るやつだ、あれ』
「おまえまでその名前で呼ぶな。「礼儀正しく」「紳士に」対応しただけだ。俺はユージンみたいに初対面の相手に無愛想な対応はできんからな」
『ひひひ、良く言いやがる。ちゃんと心配してやってるじゃねーか』
「あいつは強いから、なにか考えがあってのことだろう。そうじゃなきゃ、俺と対等である資格なんかない」
エンブリオは答えずに、ひひひ、と意地悪く笑うだけだった。
「考えられるのは、ダイアモンズのパールか。あれだけ脅し付けられて懲りていないというのも面白い奴だな」
『今頃おまえに変化して、あの子を口説いてやがったりしてな』
「その冗談は面白くねーぞ。ユージンのやつもわからん。あいつがそう易々と捕まるはずがない。追手を皆殺しに出来たはずだ」
『その一。やっぱりおまえに愛想をつかした』
「貴様な」
『まあ聞けよ。その二、食っちゃ寝してたせいで体がなまっちまってる。その三、あのガキを守ろうとしたが、そういうのが死ぬ程苦手なのでへまをやらかした。あとふたつはあんまり面白くねーが。その四、ちょうど「調整」の為に、どこでもいいから組織の力が必要だった。最後は、まあおまえにゃ酷な話だが』
「なんだ」
『おじょうちゃんは、そろそろ寿命』
「は?」
『体にがたが来てる』
フォルテッシモには意味がわからない。
「それは、どういうことだ」
『あいつら年食わねーから、実際の年齢が全く解らんのな。若作りにも程があるって思わねーか』
「ふざけたことを言うな。上がわざわざ止めない限り、あいつらは動いているだろう」
『そりゃ「調整」されてるんだろうよ。ところであのおじょうちゃんはいくつだ。おまえがガキの頃にはもう生まれてたみてーだな。ああ、確かに本人だが、うわっ、今と全然違うな。おっかねー』
「俺の記憶を読むのはやめろと言ってるだろうが!」
フォルテッシモは血の気が引いた顔で、胸元の十字架を首から引っぺがした。
『成長したって言ってくれよ』
「まったく、変な技ばっかり身につけやがって。……続けろ」
『我侭な野郎だなァ。あー、合成人間てのは体内で劇薬を製造したり、並外れた筋力があったり、まあ自分の体にかなり無茶な扱いをしてるだろう。どうせ中枢にとっちゃ使い捨ての駒なんだからよ、長生きする無能よりも短期間でいい、少しでも使える奴が欲しい訳だ。だからすげー能力を持ってる奴、ランクの高い合成人間ほど体に負担が掛かる。ユージンはB7級だったかなァ。探索型や経済流通型なんかはほっといてもいつまでも生きてやがるだろうが、戦闘型、それも自分の肉体そのものを武器にしてる奴なんかは、定期的に調整してやらないと体内でバランスが狂っちまう。テメーみてーに、生まれながらのもんじゃねーからな。そのまま生きて、まあ――二十年か三十年くれーじゃねーの。そのくらい経てば、いくら新型で有能だったとしても、もう旧式扱いだろーがなァ』
「…………」
『統和機構でそんだけ生きられる合成人間なんて、ほとんどいねーだろうな。大体は任務中の死亡か最悪そこまで生き延びた有能な奴は、反逆者の烙印を押されて抹消だ』
「どこでそんな話を聞いたんだ、貴様」
エンブリオはいつものようにひひひと笑い出した。
『いつか俺を統和機構から持ち出した合成人間がいてなァ。そいつのよた話だったんだが、オレらはこの先どうなるんだろうってな、いろいろとご高尚な推論を聞かせてもらった』
「つまりただの妄想なのか?」
『当事者にとっては寿命問題は深刻なもんだぜ。しっかし、話聞いてる時のおまえの顔ったらよ! いや、聞かされてる時は正直めんどくせえと思ってたんだが、今になってこんなにウケるとは思わなかったぜ。サイドワインダーの野郎も今頃あの世で大笑い間違いなしだ』
意地の悪い笑い声が、頭の中で嫌になる位に反響する。フォルテッシモは氷みたいな無表情になって黙したまま、カラージェルとグリッターが入ったネイルアートキットを取り出して、十字架をテーブルに置いた。
『ん? おいテメー、何やってんだ?』
「こんなこともあろうかと用意していたが、やっと役に立つ日が来たな」
フォルテッシモはエジプト十字架にベースのカラーを容赦なく塗りたくり、地の赤銅色を完全に隠蔽してしまってから、きらきらしたストーンをちりばめていった。
『ああっ、テメー、よせ! オレを女子みたいに可愛らしく飾りつけるのはやめろ!』
「よし」
『「よし」じゃねー! ああくそ、無性に死にてェ……』
喚きちらす十字架に侮蔑の視線を送ったフォルテッシモのところに、キトが気後れした様子でやってきた。
ふくらはぎに巻かれている包帯には、もう血は滲んでいない。フォルテッシモは穏やかな顔を作って、少女に微笑み掛けた。
「もう怪我は良いのかい、キトさん」
キトは無言で、首を縦に振った。
「そうか、良かった」
「あの、あの人、今頃ひどいことをされてるかも……」
「それは心配ない。そろそろ迎えに行こうと思ってたところだよ」
フォルテッシモがそう言うと、キトはきょとんとした。
「どこにいるのか解るの?」
「君のお陰だ、ありがとう」
「わ、私が行く。私が行って捕まえてもらえば、多分あの人、帰って来られるから」
「ありがたい申し出だが、君を危険に晒す訳にはいかない。天色君は君を庇って捕まったんだろう。君になにかあったら、彼の涙ぐましい努力は泡になってしまう」
フォルテッシモは生来のきつい眼光を隠したまま、キトに頷いた。
「それにそんなに事は簡単じゃない。君ほどではないが、彼だって誰もが欲しがるブランド品なんだ」
「また私、何もできないままなの」
「いや、是非やってもらいたい仕事がある」
フォルテッシモは、天色優とよく似た目をした少女に言い含めた。
「君には天色君のかわりに、この家の中を塵一つないくらい綺麗に片付けておいてほしいんだ。……すぐに戻る」
『大人げねーなァ。おじょうちゃんを一人占めしたいんだかなんだか知らんが、ガキ相手に見苦しい嫉妬してんじゃねーよ』
「それ以上喋ると、3Dアートに進化する羽目になるぞ」
『…………』
エンブリオを黙らせて、フォルテッシモは路地裏で塵片になった人間の塊を、軽く足の爪先で蹴っ飛ばした。さらさらと黒っぽい砂に変わっていく、人だったものには目もくれない。
『目処はついたのか?』
エンブリオは、これ以上の改造はさすがに堪えるのだろう、ふざけもせずにフォルテッシモに訊いた。
「面白い情報を得た。まったく手間を掛けさせる。帰って来たら、あいつにも何かの嫌がらせを考えておいた方が良いな」
『…………』
細かく刻まれた黒い灰は、空気に溶けるようにして跡形も無くなった。
彼は暗い床に横たわっていた。夜が来たのか、それとも窓も明かりも無い部屋に放り込まれたのか、区別がつかなかった。
体が地面に沈みそうなくらい重く感じられるのに、奇妙に浮遊した感覚に苛まれている。まるで魂だけが抜け出して、昏睡状態に陥っている自分の体を観察しているみたいだ。目を閉じているのだから解る筈がないのに、妙にはっきりとした色彩を感知した。
そばに、まだ少年と呼んでも良いくらいの男が一人いた。彼はぼんやりと、その鋭い眼光の男を見つめた。思うところはなにも無い。その「なにも感じない」ところに違和感を覚える。
「少し投与量が多すぎたんじゃないのか?」
男の背後から、誰かの咎めるような声がした。
「このくらいじゃないと心許無いだろう。もしこいつが暴れ出したりしてみろ。我々の誰ひとりとして生き残るものはいないぞ」
目付きの悪い薄紫色のスーツを着た男は、しゃがみ込んで、ほとんど死体みたいな彼に手を伸ばした。
「初期化されてしまえば、もう余計なことを考えなくて済む。良かったな、ユージン」
ある種羨ましそうな、憐れみの混じった無表情の声。彼は指一本動かすことができない。自分の名前すら認識できなかったが、それを妙に思うことすらない。
かち、かち、と規則正しく揺れる時計の針と、断続的に瞬く光と、それから鼻の奥が痛くなるくらいの、消毒液、アルコールの匂い。
暗い部屋のなかを、引き摺るような靴の音が満たしている。染みがついた壁と床にそぐわない清潔なアルコールの匂いの元は、自分自身であることに彼は気が付いた。殺菌された痕跡だ。
――ここはどこだ。目が覚める前は、何をしてたんだったか。
ひとつ思い浮かべるごとに、答えは溶けて消えていく。
彼の覚醒を知ってか、いくつかの影がゆらゆらと身じろぎをする。そばにいた一人の人間が――姿形は良く見えないが、うっすらと映るシルエットがひどく懐かしい――髪に触れた。
「B7級ユージン。統和機構製生体ユニット、単式戦闘タイプ。見てのとおり女性型だが生殖器は付属していない。なにか質問は?」
身動きする暗がりに向かって、男はよく通る声で言った。
『本物か。そうだとして使い物になるのか。失礼だが、一介の地下組織に捕縛されるような』
『合成人間が落札者に従順に従うなど、本当にあり得るのか』
『統和機構には感付かれていないだろうな』
『容姿は。暗くて良く見えないが、鑑賞に堪えるほどの美しさはあるのか』
『カラダヲチギッテクッツケテモ、オカシナフクサヨウトカデナイダロウネエ?』
遠くからいくつもの声が耳に飛び込んできて、それが頭の中でわんわんと反響するものだから、うるさくてかなわない。
「問題は無い。脳から全ての情報を抹消して、初期化は完了済みだ。容姿と名称は好きにして貰って構わない。統和機構のデータでは、彼――彼女は、行方不明ということになっているそうだ。そして問題なく美しい。副作用は――解らないな、試してないから」
薄紫色のスーツの男は、微笑を浮かべてそれらに答えた。
「この合成人間は、良い餌のおかげでほぼ無抵抗で捉えることができたから、傷は付けていない。いや、能力は保証する。おそらくこの中では、私が一番それを知っているよ」
『さっき仰っていたような「記録の初期化」、そんなことが統和機構の合成人間相手に本当に可能なのかね?』
おそらくこの中で一番若いだろうと思われる客が、声を上げた。薄紫色の服の少年は、淀みなく答える。
「可能だ。既に数人の統和機構端末で実験済みだ。合成人間相手には初めてだが、同じような反応が出た。間違いなく成功している。他には?」
『彼女に触っても?』
「ああ、構わない」
バイヤーの少年が言い終わる前に、微動だにしなかった男たちが押し寄せてきた。
『これは確かに美しい――』
『なるほど、解った。これは使えそうだ。彼女は言い値で買おう。ダイアモンズのパール』
「だからそれをこれから決めようって言うんだ」
少年は苦笑し、言い出した青年、今のパールの姿である少年よりは歳を取った男に、優雅に手を広げて声を掛けた。
「貴方は触れはしないのか?」
彼は不快な手のひらに身じろぎしながら、目の端にその男をとらえた。どこかで見たことがある黒いロングコートと丸いサングラス。表情は解らない。彼は無言でユージンに近付いてきた。
群がるものを押し退けて、ゆっくりと額に触れた。彼はただ、死体みたいに濁った目で男を見上げるだけだ。
『ユージン』
静かに呼び掛けられて、「ユージン」は微かに口を開けた。なにかを言おうとした。誰かの名前だったかもしれない。咽元まで出かかっているのに、それは曖昧過ぎてかたちにはならない。
そばでその遣り取りを見ていたパールは、訝しそうに首をかしげた。
「失礼だが、どこかで遭ったことがないか」
『反統和機構組織の人間なら、どこで遭遇したっておかしくないはずだと思いますが?』
「そうなんだが、違う、確かに――ああ、思い出せないな。やはり遭った記憶はない。能力柄、完璧に化けられるように、一度会った人間は忘れないように出来ているんだ。たとえば――このフォルテッシモのようにな」
パールはフォルテッシモに変化した自分を指差して言った。男たちは、感嘆の声を上げた。
『貴方は、あのフォルテッシモを見たことがあるのですか。都市伝説のようなものだと思っていました』
「随分昔のことだが、殺されかけたことがある。もう二度とあいつとは関わり合いになりたくないな。貴方はその合成人間が、ずいぶんお気に入りのようだが」
『確かに美しい。そして強いともなればこれは本当に私の好みです。競売なんてとんでもない、彼女は誰にも渡しはしない』
男は道化のような早口でそう言った。まわりで低く失笑が起こった。男はそれに調子付いたみたいに、ユージンの顔を覗き込んだ。
『性質は無口で少しばかり口煩い。何を考えているか解らない無表情で、だがそれだって面白い』
ユージンはうっとおしくなってきて、馴れ馴れしく語り掛ける男に、まるで知らない相手に対するものと同じ視線を向けた。それに、男はちょっと悲しそうな顔をした。
『不覚にも完全に惚れてしまっているみたいだ。そうだろう。本当に忘れたのか』
声のトーンががらりと変わる。胡散臭い軽薄な響きは消え去った。急にしゃんとした動作でパールを指差し、また軽い調子に戻って、小さく笑いながら言った。
『時にそれ、フォルテッシモにはあんまり似ていませんよ。ダイアモンズのパール』
何も言えないでいるうちに、密閉された部屋が膨張するような、そんな感覚に襲われたパールは、はっとして壁際に走った。なにがなんだかわからないが、まずい、という気がした。
フォルテッシモに化けているその手で建物を引き裂いて、会場となっていた朽ち掛けた建物の上階から身を躍らせる。ほぼ同時に漏れ出したガスが引火して起こった大爆発が、古ぼけた建造物を消し飛ばした。
建物はほとんど元の形を止めていなかった。爆発によって溶けてしまったコンクリートと芯材も、すぐに火に焼かれ始めた。
千切れた肉片が散らばっているが、それもすぐに炎に炙られて、黒っぽい炭と化していく。その中で傷一つなく立っている男は、少女みたいな格好をした合成人間を抱き上げて、無表情で囁いた。
「帰るぞ。世話掛けんな、優」
伊達眼鏡を指先で弾き飛ばすと、それはすぐさま塵になって、跡形もなく掻き消えてしまった。そうして彼、リィ舞阪は、赤く熱されている瓦礫を踏みつけて歩き始めた。
体が揺れる。真っ黒な背中が目の前にある。
柔らかい猫毛が頬をくすぐった。ユージンは身じろいだ。目が覚めたことに気付いたのだろう、そっけない声がぶつけられた。
「アホ」
「…………」
「弱え」
ユージンは彼を観察した。
「おまえ、誰?」
ユージンは思いきり地面に叩き付けられた。取り落とした彼は硬直している。ぶつけた後ろ頭をさすりながら、ユージンは体を起こし、ばつが悪そうな顔になった。
「冗談だよ。いい歳して泣きそうな顔をするな」
「全然、面白くねえし。そんな顔してねえし」
彼は怒りのせいか、肩をぶるぶると震わせていた。
「違ったか。人間の感情表現はいまだに良く解らなくて。いったい何故おまえがここにいるんだ、「フォルテッシモ」。監視任務は終了した。スケアクロウに引き渡しておいたはずだろう」
「あいつはもう、十年程は前に処理されただろう」
ひどい頭痛がする。身体が、抜き取られた記憶データを恐るべき速度で再生していた。造られてからずっと続いていた記録のすべてが、現在のものとしてユージンに押し寄せてきている。処理が追い付かない。
「そのコート、どこから引っ張り出してきたのか知らないが、スケアクロウのものだろう」
「ああ」
「君は誰だ? フォルテッシモには、そんなの全然サイズが合わないよ。あの子はまだとても小さいんだ……」
「おい、ユージン?」
フォルテッシモの顔に、彼らしくない焦燥が浮かんでいる。初めて遭ったときの幼かった彼、長い間隣で見ていた少年、ユージンよりも背の高い男。どれが本物だ?
「記憶が混乱している。すまない、少し手伝ってくれ」
「おまえ、さっきから何を言ってるんだ――」
ユージンはフォルテッシモの唇に噛み付いた。彼の口腔に舌を突っ込んで蠢かせて、味を知る。直接のデータとして実感する。
フォルテッシモ。ユージンの贋物の人生の中で、多分、共有した時間が一番多い人間だ。
質の悪い『初期化』のおかげで濁った白さで上書きされていた脳は、塗り込められて固まったペンキを剥がすようにして、本来の彼の記録を露出させ始めた。
唇を離して、ユージンは女の服の袖で、顎を伝い落ちる唾液を拭った。フォルテッシモは赤い顔をして固まっている。
「少し寝る、フォルテッシモ……「最強」? 次目が覚めるまでには、整理が済んでると思う――」
「ユ、ユージン。ちょっと待て、おまえ、急になんてことしやがるんだ、おい!」
記憶の激しい損傷を修復する為に、ユージンの体は勝手に冬眠モードに入った。フォルテッシモのうるさい声すら気にならないほどの眠気に押し潰されて、ユージンは瞬時に意識を手放した。
人間の子供をじっくりと見たのは、彼が初めてだった。
合成人間の中でも小さな姿をしている者は少なくなかったが、それらは正しく賢かった。自らが置かれている状況というものを正確に理解していたし、幼稚な癇癪を起こしたりはしなかった。
子供の扱いなんか知らない合成人間ユージンは、監視の続行を通達されて犬猫みたいに預けられた少年に手を焼いていた。戦闘教官としての仕事ならまだ良い。相手はそんなものまったく知ったこっちゃないという性格だし、実際にユージンなんか気に入らなければすぐにぶち壊してしまえるだけの力を持っていた。
彼は子供のころから強かった。そして今も、誰よりも鮮やかに生きていた。
冷たい感触が天色優の額に触れた。熱くて痛くてしょうがない頭にはとても気持ちが良かった。時折床に水をぶちまける音も交えて、足音が聞こえる。
この気持ちの良い小さな手は誰のものだろう。
「リィ……?」
優は頭痛に顔を顰めながら、重い瞼をあげた。目を覚ました優の前で、呆然とした顔のキトが口をぱくぱくとさせている。
「あれ。キト? なんで君がここにいるのかな」
自分の声のひとつひとつにさえ、鼓膜を突き破って脳味噌に棘を突き刺すみたいな激痛が起こる。キトはいきなり後ろを向いて、慌てて部屋を出て行った。扉の閉まる音、水を汲んであった手桶をひっくり返す音が頭を直撃して、優はしばらく涙目になって、ベッドにうずくまっていた。
(パールめ)
少年時代のフォルテッシモに変化していた、パールの嘲笑が浮かんだ。あの裏切り者のせいでひどい目にあった。
体の情報を次々と頭に浮かべていく。混乱は収まっている。一度リセットされていた記憶は、多分問題ない。どうしてここにいるのか、今まで何をしてきたのか、友達のことも、既に復元されている。
(詰めが甘いのか、最初から消去する気なんかなかったのか。ともかく、覚えていろ)
優が恨みをこめて舌打ちをしたところで、ドアノブを回す音がした。彼と、目が合う。
リィ舞阪は仏頂面だった。面倒嫌いの彼の手を煩わせたのだ。殺されたって文句は言えない。優はばつが悪くなって、目を伏せた。
「ただいま」
「…………」
リィは何も言わないまま、乱暴にドアを閉めて出て行ってしまった。廊下を踏み鳴らす乱暴な足音が遠ざかっていく。彼を呼びに行っていたキトが、おろおろとして部屋の入口で立ち尽くしていた。
「それで、なんで君がここにいるんだ、キト」
キトは、言いたいことが多すぎて、彼女のなかで上手く纏められないような感じだった。優が静かに待っていると、やっと落ち付いた彼女は、ぼそぼそと訊いてきた。
「なんともないの」
「さあな。訊いているのはぼくだ」
「あの男の人、あなたの友達だって言ってた人が、私を助けてここに連れてきてくれたの」
「あいつが?」
あのフォルテッシモが、まさか親切心を起こして彼女を救ったとでも言うのか。意外すぎる。ありえない。
「あなたを連れ戻しに行くって言ってくれた。私はその間、家をちゃんと綺麗にしてたの」
「保護者に連絡は」
「してないわ」
キトは首を振った。優は、今度は別の意味で頭が痛くなってきた。
「ぼくはどのくらい寝てた?」
「二日と半分」
「そうか」
沈痛に頷いて、優は体を起こした。キトに再会した時に一緒にいた男の顔を思い浮かべた。キトが何日も誰にも連絡もせず、行方不明になっているのは、間違いなく優のせいということになっているだろう。
ひとりでは彼女を守りきれなかったうえに、これ以上の落ち度はごめんだ。一刻も早く家に送っていかなければならない。
優はふらふらと立ち上がった。
「ど、どこに行くの?」
「クローゼットにぼくの服がいくつかあるはずだ。この前「買って」きたばっかりだから、もうこの際なんでもいい……」
自分の声が頭に響いて、優は頭を抑えた。たちの悪い二日酔いみたいだ。
「だ、大丈夫なの?」
「合成人間を舐めるな。なんともない。送っていく、キト。今頃おまえのことを、まわりの人間が必死で探しまわっているだろうからね」
「私は大丈夫。もう兵器じゃないから、何があったって怖くないわ」
「そういうことじゃない。ああ、多分すごく怒られるんだろうな、ぼくは……」
リィ舞阪はキッチンのテーブルに突っ伏して眠っていた。任務終了から立て続けにごたごたと込み入っていたのだ。強化された体ではないから、さすがに疲れているだろう。
優はさっきまで眠っていたぬくもりの残っている毛布をベッドから持ってきて彼にかけてやり、すぐに戻るよ、と耳元で囁いた。
優は、いろいろと言いたい事があるのだが、言い辛くて何も言えないのだという顔をしているキトを連れて家を出た。
ふらふらしたバランスの悪い歩き方をしていたキトが、とうとうこけて、アスファルトの地面で鼻を擦り剥いた。優は無言で彼女を待った。
日はもう落ちていて、住宅街の明かりと、古びた街灯の光が真っ黒な夜を照らしている。星は見えない。
キトは無言で立ち上がった。撃たれた足が痛むのだろう、また危なっかしい足取りで、彼女は優の後ろを歩き始めた。
「なんともないわ」
優の真似をしたみたいな口調で、キトは言った。改良を加えられたとは言え、人間とほとんど変わらない失敗作だ。優のように、すぐに怪我を癒してしまうことなんかできない。
彼女に対して、同類の合成人間たちと同じ道具のように冷たく接するのは、八つ当たりにすぎないのだと自覚をしている。初めてできた友達が死んでしまって、仲間たちがばらばらになってしまったきっかけはキトにあったが、彼女のせいではない。悪いのは優の弱さだ。
優は立ち止まった。
「おぶってやる、キト。その方がずっと早い」
「いらない」
「黙れ。また誰に追い回されることになるか解らないんだ。それにきみに優しくしておかないと、みんなに叱られそうなんでね」
キトはしばらく黙り込んでいたが、小さく頷いた。天色優が人を上手く気遣うことが出来ない性質を理解したようだった。
「あなた、なんでそんなに強いの?」
キトは優にぽつりと聞いた。
「強くないと友達のそばにいられないんだ。今回は少し失敗だったな。嫌われてしまったかもしれない。言いたいことがあるなら、今のうちに言っておくといい。ぼくはみんなみたいに予知ができる訳じゃないから、多分もう遭う事もない」
「あ、会えないの?」
「なにか不都合があるのか」
「…………」
キトは少しの間黙りこんだが、すぐに口を開いた
「私、あなたももう死んじゃったんだと思ってたわ」
「あの男が拾わなければ、今頃まだ穴ぐらの中で死体と一緒に眠っていただろう」
「あなたの友達の女の人と男の人は。一緒じゃないの」
「ああ」
「会いたくならないの」
「会えたらいいな」
「あの薄紫色の服の男の人は、爆発させないって本当?」
「だから爆発はもういい。あいつは爆発はさせないけど、ぼくとは比べものにならないくらい強いよ」
「あなたより?」
「ああ、ずっと。なにせ最強だ。馬鹿だけどな」
「なんでいつも一人で喋ってるの?」
「なんだかあいつにしか聞こえない声がするらしいんだ。昔はあんなじゃなかったんだが、最近疲れてるのかもな」
「あなたの友達だって」
「そうらしいけど、なんだか違うような気もする」
「違うの?」
「それだけじゃなんだか物足りないような、変な感じなんだ。少なくともみんなと一緒にいた時に感じてたのとは、全然違うものだと思う。よくわからないよ」
「そう。えっと、あと……月見そばが好きなの?」
「うん、美味しいと思う。けど別に好物っていう訳じゃない」
「好きな食べ物ってあるの」
「ピーチコンボ」
「それなに?」
「いや、なんでもない。嘘だ」
キトは矢継ぎ早に優にいろんな質問をしてきた。優は自分でも良く解らないような答えを返したが、キトはそれに不満は無いようで、興味深そうにいちいち頷いていた。
友達と六人でいた頃の話、どうでも良さそうな天色優の嗜好の話や我侭なリィ舞阪のこと、優はそういうことを人と話すのは初めてだった。
人家の明かりが見えた。キトから聞いた通りの一軒家だ。表札はキトが名乗っている姓とは別のもので、「谷口」となっている。彼女らは外国を転々としていたようだから、客人扱いでもされているのかもしれない。
「ここで間違いないな、キト」
キトは頷いた。片足で地面に降りて、不器用に歩きはじめた。家の中から騒がしい物音が響いてきている。玄関の呼び鈴を鳴らすなり、肩くらいまでの髪の少女がひどく慌てふためいた様子で飛び出してきた。
「キトちゃん!?」
「ただいま」
「よかった、ずっとみんなで探してたの!」
心底ほっとした顔をした彼女に天色優は見覚えがあったが、知らないふりを決め込んで頭を下げた。
「連絡もしないままですみません。ぼくがいたらないばかりに、キトさんを危険に晒してしまった」
「あ、あなたは……」
彼女、カミールは高位合成人間のユージンを知りもしないので、困惑した顔でキトと優の顔を交互に見た。
「あの、もしかしてあなたがキトちゃんを守ってくれたんですか?」
キトが何度も頷いた。カミールは慌てて優に頭を下げた。
「あ、ありがとうございます! ごめんなさい、今みんな出ちゃってて、もうすぐ帰って来ると思うんですけど、良かったらお茶でも、あ、織機綺って言います、私」
織機綺は取り乱したまま続けた。ここから先は優に言ったのではなく、キトに向けてのものだろう。
「キトちゃんのお父さんたちは今出掛けてるの。最近事務所を荒らされたこともあって、盗まれたものは凪が大事に取ってた男物の服が何着かと、なんでか変装用の眼鏡だけみたいだったみたいだけど、キトちゃんが何かに巻き込まれたのかもしれないってすごく心配で。正樹はこの間の爆発事件の時に誰かに鼻の骨を折られて寝込んだままだし、ええと、あれ?」
綺は顔を上げて、優に目を向けた。
「あの、どこかでお会いしたことありませんでした?」
「いや、ありません」
優はにっこりと微笑んで言った。
「そ、そうですか。私ったら……あっ、駄目よスリム・シェイプ」
階段を駆け下りてくる小さな足音が聞こえて、綺は振り向いた。小柄な猫が、物欲しげな顔をして彼女を見上げている。
「今忙しいから、もう少しだけごはんは待ってね。すみません、猫、大丈夫ですか?」
「あ、はい」
真っ白で綺麗な猫は短く鳴いて、優の足にじゃれついてきた。
「ごめんなさい、お腹が空くとそうやって誰にでも催促しに来るんです。凪が、公園で途方に暮れてる子がいたからって、代わりに拾ってきた子なんです」
「へえ、そうですか……」
優が頭を撫でてやると、白猫は気持ちが良さそうに咽を鳴らしてくれた。
優は静かに微笑みながら、そろそろ帰ります、と言った。
「えっ、もう帰っちゃうんですか?」
「すみません。今頃きっとお腹を空かしている人間が一人、家にいるものですから。本当は、迷惑をかけてしまった人たちにちゃんと謝らないといけないと思ってたんですけど。じゃあね、キト。またね」
「ま、またね!」
キトは優の顔を見上げて、必死な様子で反芻した。
天色優は、懐に隠しておいた金色のヘアバンドに気がついた。
リィ舞阪のエジプト十字のように趣味が良くないが、キトが大事にしていたものだ。今すぐ返しに行くべきか悩んだが、また懐にしまって、帰り道を辿り始めた。
次に会った時でいいだろう。たぶん。
「キト! 今までどこに行ってたんだ!」
霧間凪に怒鳴られて、キトは体を縮こまらせた。義父が取り成すと、凪は溜息を吐いて、キトを抱いてくれた。
「あんまり心配掛けるんじゃない。おまえの友達も心配してたんだぞ」
「ごめんなさい」
キトは素直に謝った。
足の怪我のことは、凪は何も言わなかった。その代わり、あまり無茶はしないようにと言い含められた。
「おまえが帰国する日を聞いて、海影と七音さんに連絡を入れておいたんだ。なのに帰って来るなり消えちまうし」
「あ、あの人たちに会えるの?」
「ん? ああ、今こっちに向かってるって。すぐに会えるよ」
顔を輝かせているキトに、凪は怒る気も失せたらしい。苦笑している。
キトは玄関に座り込んで、胸をおどらせながらふたりを待っていた。彼らがきっと喜んでくれるあの人の話を、早く聞かせたい。
車のライトが玄関を照らした。
それは数日前に遡る。
「似合わないわねえ」
「海影くんにも言われたわ、それ」
助手席の七音恭子にくすくす笑われながら、辻希美は免許証を差し出した。
「ほら、ひどい写り」
「可愛いわよ、すごく」
「こーいうの、苦手なのよ。教習所に通って何ヶ月も掛かったわ」
肩を竦めて、希美は言った。
「そういえば海影くんは?」
「電車。この前、車がぶっ壊れちゃったんだって」
「何やってたんだか」
笑いながら、希美はぽつりと言った。
「久し振りね」
「そうねえ」
七音恭子は頷いて、ポーチに突っ込んである手帳から写真を一枚抜き取った。若い少年と少女が六人、仲良く並んで笑っている。今が一番楽しくて幸せなのだと主張している、先が見えなかった過去の写真だ。
そのうちの二人、いや三人かもしれない。彼らはもういない。
「そう言えばこの写真、街で偶然遭った中学の同級生の九連内って奴が見るなり、爆笑しやがったのよ」
「なにか面白いところでもあるの、これ」
「さあ? 解らないけど、天色くんを指差して笑ってるのよ、あの女。あいつがあれだけうけてるところを見たの初めてだわ」
「なんで?」
「それが教えてくれないのよ。それだけは言えないって」
「天色くん、懐かしいわね。……元気だといいね」
「そうね……」
希美は数年前と同じに、クールに頷いた。彼の生死は解らない。もし生きていても、どこで何をしているのか、彼女らには知りようがない。
「キトちゃん、大きくなってるんでしょうね」
「きっとすごい美人になってるわよ、絶対」
とりとめのない話は続いた。
キトの帰国は今日の朝のはずだ。数年振りに仲間に再会することを想って、彼女らは小さく微笑み合った。
たぶん、もうすぐ会える。
音を立てないように玄関を開けて、優は静かにドアの隙間に体を滑り込ませた。そこで、ちょうど扉を開けようとしていたリィと目が合った。
彼は相変わらずひどい仏頂面で、元より鋭い目つきを更に凶悪にしていた。
「ただいま」
優がそう言っても、これはいつものことなのだが、彼はなにも返事をしなかった。いきなり腕を掴まれて、閉じたドアに押し付けられた。優は困惑する。
「キトを送って行ってた。すまない。そんなに腹が減っていたとは知らなくて――」
「そうじゃねーだろ!」
リィは大声で優を怒鳴り付けた。
「あのガキはなんだ? 随分と仲が良さそうだったが、おまえに妹がいたなんて話は初耳だ」
優が目を丸くしていると、彼はまたいつもこのタイミングで良くあるように、顔を真っ赤にして胸元のペンダントを摘み上げた。
「違う。誰が嫉妬なんかするか。俺はただ、こいつが」
「ぼくが?」
リィは苦々しげに顔を顰めていたが、優の肩から手を離した。
「まあ、おまえには色々と聞かせて貰わなきゃならんことがある。ただそれだけだ」
「ああそうか。わかった。おまえはぼくに彼女と性的交渉を持ったか、そういうことが聞きたかったんだろう」
あっさりとした優の言葉に、リィは動揺して、変に可愛らしくなってしまっている十字架のペンダントを取り落とした。
「それに関しては、答えは否定だ。リィ? どうした?」
リィ舞阪はどうも、優の口からそう言った単語が出ることについては、いつまで経っても慣れないみたいだった。
「おまえ、そういうふうなことを口にすんなって、今まで何回も言っただろうが」
「聞きたかったんじゃないのか。ぼくの体がそういうことにどれだけ役立たずかは、おまえが一番良く知ってるはずだろう」
優は自嘲気味に微笑んだ。まだ違和感のある首輪に触れながら、リィの顔を見上げた。
「先に食事にしよう」
リィは何か言いたそうだったが、空腹なのは確かなのだろう、その先は何も言わなかった。ありえないが、彼なりに気を遣ってくれたのかもしれない。本当にありえない話だが。
食事を缶詰のシチューでに済ませてしまってから、人心地ついたらしいリィは優をじろりと睨みつけた。
「なにやってるんだ、おまえは」
リィ舞阪は、彼の手を煩わせたことを言っているのではないだろう。彼は対等の存在になれるかもしれない天色優が、彼らしくもない、しかも致命的な失態を犯してしまったことが納得がいかないだけだ。
「失望したか」
「そういうことを言ってるんじゃねえ。おまえが強いのは良く知ってる。どうすれば対抗組織で競売に掛けられるなんて笑えるくらい阿呆なことになったのか、そんなことはどうでもいい。俺が聞きたいのはあの女をそこまでして守る理由だ」
「世界を救うためだ」
優は正直に答えた。リィはもう、何も言えないみたいだった。テーブルに突っ伏してしまって、大真面目な顔でそんな突拍子もないことを言う優に、呆れてものを言えないみたいだった。
「本当の話だ。今はもう普通人とあまり変わらないみたいだが、それにしたってまだこの都市がウィルスに汚染されるくらいの危険性はある」
「何故そんなものを野放しにしとるんだ、おまえ」
「ぼくは正義の味方じゃないんだ。なんでもかんでも首を突っこむようなことはしないよ。あとは彼女を守ろうとした人たちの意思だ。もうぼくの役目はとうに終わっていたみたいだけど」
優はリィの目をまっすぐに見た。
「リィ、ぼくは弱い。子供ひとり守れない。確かにぼくはひとりで生きていくためにできてるんだ。でもそんなことは関係ない。ぼくは、おまえを満足させられる力も体も持っていない。おまえと一緒にいてもいいのか?」
リィ舞阪は、強い人間以外に興味を全く示さない。弱さとは彼にとっては近くにあるだけでさえ、目障りで我慢ならない存在なのだ。強さがすべてなのならば、優は永遠に彼に追い付くことはできない。
天色優はリィ舞阪のことが好きだ。惹かれて、焦がれている。
もう飽きた。弱い合成人間なんて必要ない。おまえには失望した――好きになったものに必要とされなくなるのが怖ろしい。今の優はリィにだけは殺されたくないと思うし、また最後に殺されるときには、息を止めるのはリィの手であってほしかった。
「背中に溝の痕が残っちまってたんだっけ」
「は?」
リィはわけのわからないことを言った。優はきょとんとしたが、何の話をしているのかを唐突に理解して、顔を真っ赤にした。リィが初めて優を抱いた時のことだ。
「足腰が立たなくなったもんだから、結局おぶってやって帰ったんだ。ふん、その様子だと本当に奴らの初期化とやらは無駄だったらしいな。まあ、なんだ……俺はおまえの、いや、ちょっと待て」
リィ舞阪は作ったものであることがすぐにわかる不機嫌な顔で、首から外したペンダントをブリキの空き缶に突っ込んで蓋をした。優にはその行為の意味がさっぱり解らないが、リィは少しすっきりとした顔になった。
「おまえの体の造り、なかなか具合が――」
リィは咳払いをした。
「俺は全然嫌いじゃない」
「嘘だ」
「なにが嘘だ」
「だって、全然抱いてくれない」
リィがブリキの缶を床に落とした。優は、なんだか惨めな気分になってきた。
「ぼくの体は、きみには気持ち良くないんじゃないかって考えていたんだ。ああもうリィ、なんてことを言ってるんだ、ぼくは」
「お、俺が知るか馬鹿」
「生殖器がないんだから、性欲があるはずもないだろう。でもきみが欲しくなる。どういうことなのかぼくには解らないよ」
「そんなもん、俺だって、おまえ以外のやつを抱きたいなんて思ったこともないしな」
「きみのほうは人間なんだから、それはそれで不健康だと思うけど」
優は恥ずかしさで死にそうになりながら、震え声で言った。
「おまえは本当に酷いな。前だってこうやって、ぼくが言うまでなにも……」
「な、なんだ」
リィは本当に残酷だ。昔はあんなにも好きだと言っていたくせに、天色優がリィのことがどうしようもないくらいに好きになってしまった頃には、彼はもう大人びて、そんなことを口にはしなくなってしまった。
人間のくせに、昔は好きだなんて言ってくれたくせに、リィは優に触ろうとしない。
「さ、触って、欲しい、って、思うって……変かな」
「い、今かよ」
「うん。こんな体その、面白いことなんかなにもないかもしれないが」
不完全で、骨ばかりが目立つ、本当に使えないばかりの体だ。胸がざわめいて苦しい。優は、消え入りそうな自分の声を恥じながら、最後のそれを口にした。
「セックスしたい、リィ。きみに抱かれて気持ち良くなりたい」
リィ舞阪は、天色優からそんな言葉が出るなんて、まるっきり信じられないという顔だ。慌てふためいたリィは、顔を真っ赤にして、急に怒りだした。
「な、なんなんだ。昔から訳がわかんねーんだ、いつも。いきなり真顔でらしくねーこと言いやがって。恥を知れこの野郎」
「それもそうだね。ぼくはどうしてしまったんだろうか」
優は項垂れた。
「い、いや。そうじゃねえって、ああもう、くそっ。なんでおまえってやつは、何かひとつくらい、俺の思い通りにならねーんだ?」
リィ舞阪は、なんでこんなにすべてが上手くいかないのかと腹を立てている様子だった。罵声をあげながら、困惑している優の体を抱え上げた。
「おい。痛いんだけど、リィ」
「黙れ!」
リィは怒鳴って、優の身体を寝室のベッドの上に乱暴に放り投げた。
「天色優」
リィは優を見つめて、大真面目に言った。
「――好きだ」
優は目を丸くして、呆けてしまった。リィに好きだなんて言われたのは、ものすごく久しぶりな気がした。
「でも最近のおまえはぼくといる時はいつも面白くなさそうな顔をしていただろう」
「あれは横からいちいち口を挟む奴がいるからだ。くそ、あいつ今度こそ絶対壊してやる」
「リ、リィ? ぼくは――」
こんな体だから、と言おうとした優は、着ていたシャツを手早くはだけられた。骨が浮いた胸があらわになる。
優は息を呑んだ。ジーンズのジッパーが弾けて、何もない下腹部が露になった。天色優にとっては耐え難いまでに不完全な、男でも女でもない人工の身体だ。
「いやだ。見るな、リィ」
優は顔を覆って震えた。知らないうちに、劣等感や自己嫌悪が積もりに積もって澱のようになってしまっていた。こんなはずじゃなかった。肌を重ね合うセックス以前の問題だ。
見るにたえない身体がリィの前に晒されていることに気がついて、優は震えた。
「綺麗だ」
リィが言った。
「すっげー可愛い、優」
「馬鹿。もういい。そんなこと言うな。見るな。や、やめてくれ……」
声が揺れる。顔が熱い。今にも泣きだしてしまいそうだった。
そんな弱っちい優の姿が目の前にあるのに、弱いものが大嫌いなはずのリィは、何故だか全然構わないみたいだった。