![]() |
「――僕は……」 僕は怖くなって、何も言えなくなる。僕が僕自身の往く先を決めるなんてことは、これまでまったくありえないことだった。考えたこともなかった。 僕は、ペルソナ使いの統率技能を持っている。咄嗟の判断力と、戦闘時の指示に関して、僕は僕自身の能力を信頼している。 僕には人間がチェス盤の駒に見える。一番適した場所へやり、最も損害を少なく抑えて、必ず勝利する。戦うことにかけては、僕は自分の能力に絶対的な自信を持っている。相手が誰でも負ける気はしない。 勝ち負けか、生死、正しいか間違いか、そういう明確な選択に関しては得意だ。常に選択肢のなかから最善の答えを素早く選び取ることができる。それが僕に期待された、僕の能力のひとつだからだ。 でも僕自身の人生とか、僕の希望とか、やりたいこととかを訊かれると、漠然としていて上手く答えられないのだ。『どうでもいい』としか言えない。 「……そんなこと訊かれても、困る。僕には綾時の傍以外、いたい場所なんてない」 綾時は僕の答えに、困ったように『あのね』と言った。 『僕、消えちゃうんだから。影時間に融けて、空気みたいになるんだ。そうなった時、君がひとりぼっちでいると考えると、僕は怖くて心配でどうしようもなくって、目の前が真っ暗になる。君が誰かと一緒に笑ってるって考えると、僕はちょっとだけ安心できるんだ。自分がほんとに情けないけどね』 「……行きたくない。僕は、またペルソナ使いになんかなりたくない。戻ったらまた戦わなきゃならない。綾時を殺すとか殺さないとか、そんなの聞きたくない。また誰かに言うことを聞かせて、怖がってる子を見つけて処分したり、怖いひとの言うことを聞かなきゃならない。またきっと綾時に嫌われるような僕になる。僕、綾時の子供のままでいたいよ。また人間に戻りたい。道具になんかなりたくない……」 『まだ『心がない』とか、そういうことを言ってるのかい?』 綾時が呆れた様子で、僕の背中を大きな指でちょんちょんと撫でた。 『君は人だ。こんなに身体が温かい。たとえどんな姿でも、僕がクラスメイトだって、父親だって、子供だって、怪物の姿をしていても、どんな立場でも恋をしてしまうくらい優しくて、綺麗な心を持ってる。君は絶対に道具なんかじゃない。心ってのはね、そう簡単に棄てたりできるもんじゃないんだ。君が棄てたと思い込んでいるのは、君自身で未来を選び取る意志なんだよ。心はそこにある。――だから君はその心で、僕のことを好きでいてくれるんだろう?』 僕の身体はかたかた震えだす。怖くて怖くてたまらなくなってくる。綾時はやさしい手で、僕の殻に簡単に罅を入れる。その隙間から僕の心といった、もう随分目にしていなかったものが覗いている。 僕は、そいつが本当に恐ろしい。 「こわいよ……りょうじ、心なんか還ってきたら、こわくて、きっと僕は死んじゃうよ。いやだよ。もう怖いのも痛いのもいやだよ」 『『怖い』っていうのも、立派な心の動きだよ。僕が今感じているものだ。心は還ってくるんじゃない。ずっと君と共にあったんだ。ほら目を開けなさい。今は僕が一緒にいる。一緒に感じて、一緒に考えてあげられる』 綾時は優し過ぎるんだと思う。だから僕は、何があっても守られているような気分になる。 僕はこれで一度失敗している。あの時余計なことを言わなければ、綾時はまだこの世界のどこかで生きていたのだ。 僕のことを『補正』で忘れ、僕とは関わりなく、幸せな人生を送っていたかもしれない。女の人が大好きな綾時のことだから、もしかしたら再婚して、僕じゃない子供ができていたかもしれない。その子供を『ちびくん』と呼んで可愛がっていたかもしれない。 僕はそれを考えるとひどく悲しくて泣きたくなる。でも綾時が幸せなら、その方がずっと良かった。綾時は僕という子供を持ったばっかりに、大分人生を捻じ曲げてしまったのだ。それも最悪の方向に。 「……僕はいいんだよ、綾時。平気だよ、強いから。僕は誰にも負けない。僕は、」 『ちびくん。いい加減にしなさい』 「――う」 綾時に怒られて、僕は咽が詰まったようになる。さっきはあんなに嬉しかったのに、今はもう怖くてたまらない。綾時に呆れられて嫌われてしまうことが、僕はすごく怖い。 『ずーっと、我慢してる言葉があるでしょ』 「……そんなのないよ」 『言いたくって仕方なくて、咽のところまで来てるのに、怖くて怖くてどうしても言えない言葉だ。君がどうしてそう感じるのか、僕は知ってる。初めてそれを僕に教えてくれるまでに、君はいろんな人に『絶対に言っちゃいけない』と口止めされてた。小さい子供に、大人が寄ってたかってね。君は言い付けを守らないとどんな怖いことが起こるのかということをぼんやりと理解していた。でもあんまり怖くて、我慢できなくて僕に助けを求めた』 「……りょうじ、やめて……」 僕はのろのろ頭を振って、「やめてよ」と言った。でも綾時は、全然聞いてくれない。悲しそうで、怒っているみたいで、謝っているみたいな声で、僕がすごく怖いことを言う。 『そして結果、僕は死んだ』 僕は綾時の声でそのことを言われるのが、何より怖かった。いつのまにか僕は、口の中で何度も「ごめんなさい」と繰り返していた。 「――僕が、綾時を殺したんだ。僕がやったんだ、全部僕のせいだ。僕が我慢したら良いだけだったんだ。綾時は今までずーっと幸せに生きてた。綾時が知らないうちに影時間に僕は死んで、綾時は僕が生まれたことを忘れて、新しい子供作って、きっとすごくすごく幸せに」 『……ちびくん、ほんとに僕を怒らせたいのかい』 今まで聞いたことがないくらいに低い、凄みのある声だった。僕はびくっとして、でも震えながら、「だって」と言い訳をした。 「だって、りょうじを不幸せにする僕なんか、世界で一番ひどい目に遭えば良かったんだ」 『僕は幸せだよ』 「だってりょうじっ、僕のせいで、死んじゃったじゃないか」 急に僕の顔に綾時の硬い仮面が勢い良くぶつかってきた。頭突きだ。綾時の仮面はかなり硬いから、僕は危なく脳震盪を起こしそうになった。 でもどうやら、それは頭突きじゃなかったみたいだ。綾時は僕にキスをしてくれたつもりだった、らしい。かなり痛かったが。仮面のちょうど口の部分を僕の唇に合わせて、そっと触れ合わせてくれている。 だから僕もそっとキスを返す。綾時の頭を両手で触って、鋭い鋼鉄の歯に口を付ける。 静かに触れ合いながら、綾時が言う。 『……大丈夫だよ。もう言葉を押し止める必要なんてない。僕はこの世界の誰からも何からも、君を守れるヒーローだ。ここにいるんだよ』 「――りょうじ、ぼくは」 『言っていいよ』 「でも……ぼく」 『いいから。大丈夫なんだよ』 「あ……」 そして僕は、あの時以来絶対に口にしなかった言葉を吐き出した。 「たす、けて」 どんなに怖くても、苦しくても、痛くても、僕はそればっかりは絶対に口にしない。どれだけ叫びたくたって、絶対に駄目なのだ。 それは綾時を殺した言葉だ。 でも僕は綾時に赦されると、そいつを吐き出してしまう。つい縋ってしまう。僕のヒーロー。僕を何でも赦してくれて、助けてくれる。甘やかされると、どんどん甘えてしまう。 押し止めているうちに、僕のその言葉は咽から吐き出せないくらいに大きな塊のようになっていて、長い間随分苦しかった。息をするのも辛いくらいだったのだってことに、吐き出してみて僕は初めて気付く。 「……りょうじ、たすけて、こわい、」 『うん。偉いね。ちゃんと言えた。君の心のままに、我慢しないで』 綾時はほっとしたような声で、僕を誉めてくれた。頭を撫でてくれた。そして、僕はそれがすごく嬉しいと感じる。幸せだ。綾時と今一緒にいられることが、僕はすごく幸せだ。 『ねえ、ちゃんと言えるだろう? 君は何を求めているんだい? これからの、未来の話だよ。ほんの少しだけど、僕は君の望みを叶えたい。君の心を、僕にも見せて欲しいんだ』 僕は頷く。そして一生懸命に考える。僕が僕に望むこと、僕がしたいことを考える。 「……学校、行きたい」 『うん』 「みんなと話して、遊んだり、勉強したい」 『うん』 「学校終わったらシャガールでクリームソーダ飲んで、チーズケーキ食べて、休みの日にはみんなといろんなとこ遊びに行って、」 『うん』 「進級して、それから先も僕はずっと僕でいたい。生きたい。死にたく、ない、」 『うん』 「僕はこれからも、綾時と一緒に生きたい」 『――うん』 綾時は大分迷って、でも頷いてくれた。 僕は、それがすごく、すごく嬉しかった。 「順平も岳羽も山岸も、真田先輩も桐条先輩も荒垣先輩も、天田もコロマルも、――綾時とアイギスも、みんな、みんなが好きだ。いなくなるなんかいやだ。滅びるなんか絶対いやだ」 『うん』 「僕、幾月さんが嫌いだ。怖い。もう言うこと、聞きたくない」 『うん。大丈夫、僕がここにいるよ。君を守る』 「……僕は、こんな我侭言って、また失望されるかな。みんなみたいに棄てられちゃうのかな」 『ううん。もういいんだ。君は、誰かに望まれるままを行う機械じゃない。僕の大事な、可愛くて綺麗な、自慢の子供だ。君は君が望むものになりなさい。これからいっぱい笑って、いっぱい泣いて、ほんの僅かな時間だけど、普通の高校生として生きるんだ。奪う僕が言うことは赦されないけど、たとえ一瞬でも、僕は君のなかの夜を照らすひかりになりたい。ほんとにほんとに、僕は君が好きだよ。何より愛してる。僕が焼かれて君が少しでも長く生きるなら、僕は何度だって、いつまでだって焼かれ続けよう』 綾時はそうして、優しい異形の手で、僕の涙を拭う。 『――愛しているよ、僕のちびくん。さ、もう泣き止んで。笑って。君の笑った顔、僕は大好きなんだ』 綾時に表情はない。綾時には貌がない。でも僕はこんなにあたたかいひとを、綾時のほかに見付けたことがない。 綾時は優し過ぎる。僕が泣きたくなるくらい。 僕は無理に笑おうとした。泣きながらで、あまりちゃんと笑うのも得意じゃないから、たぶんすごく不恰好だったと思う。でも綾時はとても安心したようで、『よかった』としみじみ言った。 |