僕らが寮の前に降り立った頃、時刻はもう深夜を過ぎて、朝方近くになっていた。でもラウンジの明かりが、扉の曇ったガラス越しに、仄かに零れてきていた。
 僕はちょっと不安になって、綾時を見上げる。綾時は『大丈夫だよ』と虚ろな声を震わせる。僕は頷く。これ以上、綾時に心配を掛けるのは嫌だ。
『……またね』
「うん」
 僕は扉を開ける。なかに入り際に振り返ると、綾時はもういなくなっていた。
 ラウンジの時計は午前四時を示していた。
 ソファの上にはみんながいた。僕を癒してくれたらしい岳羽と山岸、順平、桐条先輩と真田先輩、小学生の天田はソファにもたれて眠っている。コロマルは尻尾を振って僕を迎えてくれた。壊れてしまったアイギスの姿はまだない。
 みんなはじっと押し黙って、帰ってきた僕を見つめている。僕は、何か言おうとする。でも上手い言葉が出てこない。でも黙ったままでいるわけにはいかない。僕はみんなの傍を離れて、リーダーとしての責務を放り出し、彼らの敵にすらなったのだ。
 まず謝らなければならないだろう。綾時も悪いことをしたら、まずは『ごめんなさい』だと言っている。
 でもみんなはきっと赦してはくれないだろう。元々僕の役目なんてものは、彼らを統率して戦うことだけなのだ。
 『心なんていらない』なんてずうっと考えていたような今までの僕には、仲間たち同士の連帯感や結束感と言ったものに対する感じ方も、彼らとは随分違うものだったような気がする。僕は彼らをチェス盤の駒として見る。だから順平は怒ったのだ。岳羽は「何を考えてるのかほんとにわかんない」と言うのだ。先輩たちは怒るのだ。
 でも、僕はここへ帰って来たのだ。
「……ごめんなさい」
 僕はまず、謝る。『謝って済むかよ』と順平は怒るかもしれない。
 だったらどうしたらいいだろう。僕は、彼らに嫌われて口もきいてもらえないことを考える。すると身体が震える。
 元々僕の存在なんて空気みたいなものだったと思う。僕自身がそう感じているのだ。十年前に綾時が死んだ時に、たぶん一緒に死んでしまった僕の、抜け殻だとか、幽霊だとか言ったようなものだ。
 でも嫌われるのは怖いし、また順平にひどいことを言われるのも怖い。『怖い』っていうのは、ちゃんとした心の動きなんだと綾時は言っていた。でも僕はこいつが嫌いだ。心臓が縮こまってしまって、息が詰まってしまう。
「……ごめんな、さい、」
 声が震えて融け出す。さっきやっと収まった嗚咽が、また漏れてくる。僕は泣く。泣いたってどうにもならないのに、上手く抑えられない。泣くのは無能がやることだってドクターは言っていた。綾時は赦してくれるけど、でもきっと綾時だけだ。僕を世界でたったひとりだけ好きでいてくれる綾時だから、どうしようもない僕のことも赦してくれるのだ。
「……僕、ぼくは、……ご、め、」
「あー……、わかったから、泣くなって。苛めるわけでも怒るわけでもねーんだから。……その、怖いですから」
 順平が弱りきった顔でソファから立ち上がって、僕のところへやってきた。
「ゆかりッチ、ハンカチ持ってる?」
「え? あ、え、あ……うん」
 岳羽がポケットからハンカチを取り出して、おずおず順平に渡した。
「ほらよ。拭けよ」
 僕は頷いて、順平に差し出されたハンカチを受け取る。でもぎゅうっとそのまま握り締めてしまう。僕は怖くて動けなくなっている。みんなが怖いわけじゃないと思う。でも、ちょっとでも動いたら、なにかに絡め取られてしまいそうな、漠然とした不安が僕を覆っている。ぼくはただ口のなかで、何度も「ごめんなさい」と繰り返すことしかできない。
「顔。……きたねーから。すげえぐちゃぐちゃで」
「……ん、」
「あーもう……しゃーねぇな……」
 順平が僕の手からハンカチを取り上げて、僕の顔を拭う。僕はされるがままになっている。それから僕は背中を押されて、ソファに座らされた。みんなが、じっと僕を見ている。僕は泣いていることが恥ずかしくてたまらなくなる。でも上手く抑えられない。
 どうにか収まるまで、みんなはじっと僕を待っていてくれた。
「落ち付いたか?」
「はい……」
「それより君、身体は大丈夫なのか」
「……はい。春までは、生きます。たぶん。それまでにニュクスが来るけど」
「あの、火傷……」
「……?」
「あー……駄目だわこりゃ。お手上げ侍」
 順平が僕の頭をぽんぽんと叩いて言った。
「話はできそうか」
「はい」
 僕は頷く。真田先輩は僕を見て、満足そうに「よし」と言った。
「……何があった」
「…………」
「あいつから、大体の話は聞いている。十年前に起きた事故のことはな。お前がデスを宿していたこと、あいつと親子だってことは知ってる。だが俺たちはお前自身に起こったことは何も聞かされていない。プライベートに口を出すつもりもないがな。ただこいつだけは聞いておきたい。――何故ストレガなんかと一緒にいた」
「……仲間だから、です」
 僕はなんとか声を絞り出す。真田先輩が眉を上げる。彼が何か言おうとするのを、桐条先輩が目で制した。
――順を追って話してくれないか」
「はい……」
 僕は頷く。どこから話せばいいのかしばらく考えて、結局はじめから話すことにする。僕自身自分の身の上に起こった出来事が、なんだかまとまりが無さ過ぎて良くわからないのだ。
「七歳の頃に、両親が離婚したんです。僕はお父さんと一緒にいたかったんですが、裁判とかなんだか難しい理由があったみたいで、お母さんのところへ連れていかれました。はじめのうちはいつもどおりだったけど、お母さんの仕事が忙しくなって、ラボで暮らすようになってから――あ、お母さんは桐条グループの研究員だったんですけど、なんだか変になってしまったんです。ドクターと、あの、幾月さんと出会ったくらいから」
「君は子供の頃から幾月と知り合いだったのか?」
「はい。何だか、怖い人でした。決まった言葉以外で返事をすると、すごく怒るんです。僕に『貌無し』とかあだ名を付けて、『王子様になるんだ』とか、『君は神の子だ』とか、変なことばっかり言う人で、……僕をシャドウ抑制実験に使い始めたのも、あの人でした」
「……ちょ、なんだその、しょっぱなからヘヴィ過ぎるだろ、それ。おかしいだろ。ママさん何にも言わなかったのかよ?」
「お母さんは、なんだか幾月さんの言うことを何でも聞いてた。実験に使われたり、起きた時に、その……全身包帯だらけだったり、何かの手術をされてたんだと思うんだけど、その時も何にも言ってくれなかった。『怖い』とか『助けて』とか言うとすごく怒られるんだ。それからしばらくして、お母さんが幾月さんと再婚するとか言う話が出て、そんなことになったら僕はもうどこへも逃げられないって思って、怖くなって、僕は、」
 また思い出して、苦しくなってきた。僕があんなことを言ったから、綾時は巻き込まれてしまったんだ。
――綾時に、たすけてって。あんなこと言わなきゃ綾時はまだ生きてたのに、僕が助けてくれなんて言ったから、僕を連れて世界中逃げまわってやるって。でも結局僕のせいで実験事故に巻き込まれて、綾時が死んで、僕は」
 僕はまたかたかた震えを感じる。すごく寒くなってくる。あの日の光景が目の前に蘇えってくる。綾時が僕を背負って、ゆっくり歩いている。その身体は黒ずんでいる。死に掴まれている。でも僕のために微笑んでいる。
「大丈夫?」
 岳羽が僕の顔を覗き込んで、心配そうにしている。彼女が僕の手を握ってくれる。
――悪いな。無理はするなよ」
 真田先輩が僕の肩を抱いてくれる。僕は「はい」と頷く。このくらいなんてことはない。綾時が感じている怖さに比べれば。
「……大丈夫。それからデスを宿したままラボに収容されて、実験で出来た影時間のタルタロスを探索するために、ラボに集められてペルソナ使いに作り変えられた孤児たちを統率する任務につきました。僕はペルソナ使いを統率するために作られたんです。タカヤとジンとチドリは、最後まで生き残ったチームメンバーの中にいました。僕が新しい指令を受けて港区を離れるまで、彼らとは仲間だったんです」
「……え。お前チドリ知ってんの? ガキの頃から?」
 順平が食い付いてきた。そう言えば彼はチドリとすごく仲が良かったのだ。僕は「うん」と頷いた。
「なんか……パンツの中に情欲の蛇とか入れられて苛められた」
「…………」
「……たまにマジックハンドとかも入れられた」
「…………わりぃ」
 なんで順平が謝るんだろう。
「しかし、新しい指令とは?」
「デスの凍結指令です。僕があんまり小さいと、アルカナを倒して、デスをうまく育てられないかもしれないからって。病院でベッドに縛られてずっと眠っていました。四月にスイッチが入れられて、頭のなかを掃除されて、新しくシャドウ掃討とペルソナ使い――ここにいるみんなの統率を、担当の幾月さんに命令されるまで」
――じゃあお前、『前の学校』とか無かったのかよ。転校って、ありゃウソか?」
「……月光館の、初等部に通ってた」
「……ええっと、つかぬことをお聞きしますが、なんかずっと寝てたとか言ってたじゃん。それって、いつから?」
「たぶん、九歳くらいだと思う……」
「……それから、ずっと寝てたの?」
「うん……」
「今年の春まで?」
「うん……」
「……オレは精神年齢九歳の子供に、ライバル心ムキムキで突っ掛かって行ってたの?」
 順平はまるで子供に接するみたいに僕を見て言う。僕は「子供じゃない」と控えめに反論する。
「それで、どうしてお前はストレガにのこのこついて行った」
「……道具は、使う人間がいなくたって動き続けるべきだって。幾月さんの求めることを考えてたら、僕はそうするしか」
「だったら何故、あいつらのところじゃなく、ここへ戻ってきた?」
「……僕は、」
 そして僕は顔を上げて、目を擦り、言う。
「……僕は僕のまま、少しでも長く、未来まで生きたいです。来年の春まで普通の学生をやりたいです。学校に行ったり部活に出たり、みんなと遊んだりしたいです」
――決めたんだな」
「はい」
 僕は頷く。
――僕、何だってします。戦闘だって、サポートだって、何でも言うこと聞きます。だからお願いです、ここで、戦わせて下さい。……もう一度、綾時のところへ行きたいです」
 僕は頭を下げる。もう僕は決めてしまっていた。僕は滅びたくない。ほんの僅かな差だったとしても、僕は僕として生きて、僕がいなくなった後にも誰かの中に残る存在でいたい。僕の価値を感じて欲しい。
「なら、まずはその甘ったれた喋り方をなんとかしろ。泣くんじゃない」
――はい。了解しました。僕……俺は、泣いてなんかいません」
「美鶴、どう思う」
「そうだな……現時点では彼が一番適任だ。今までもそうだったし、これからもそうだろう」
「……らしい。これからもしっかりやれよ。お前がリーダーなんだ。……誰か文句のある奴はいるか」
「そんなこと言われたって、彼しかいないでしょう」
「ほんとほんと!」
「これからもよろしくお願いします。リーダー」
 天田が半分寝ながら、眠そうに言う。岳羽が呆れる。山岸が笑う。順平は「しょーがねぇなぁ」と溜息を吐く。
 僕は口元を引き締めて俯く。「ありがとう」と言う。たぶん今、僕はすごく嬉しいと感じている。でもすごく我慢しても涙が零れてくる。
「……泣くなって言ってるだろう」
「……泣いてないです。これは塩水です」
「体液ですらないというのか」
 真田先輩が僕の頭を撫でてくれている。僕は残されたほんの僅かな時間を、彼らと一緒に生きていくんだと、思う。





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