少し前までもうすごく遠い世界みたいに感じていたのに、僕はまたこの場所に戻ってきた。玄関からまっすぐ進み、購買部を覗いて、階段を上がり、綺麗な廊下を進むと『2−F』の文字が目に飛び込んでくる。それがすごく当たり前で、いつもどおりで、鼻の奥のあたりがじんとする。
 僕はちょっと気後れしながら教室の扉を開ける。
 一緒に登校してきた順平と岳羽に背中を叩かれて、「うん」と頷き、足を踏み出す。
「……おはよ」
 みんなが振り向く。クラスメイトたちの顔がある。見慣れたいつもの顔ぶれだ。僕の席もある。――綾時の席も、ある。一瞬だけ期待するけど、でもそこにはやっぱりもう綾時の姿はない。綾時はもう僕のように、ほんの僅かな間の普通の時間さえ過ごすことができないのだ。
 教室の後ろの席にいる友近が僕を見て、驚いたように目を丸くしている。彼は気だるそうに椅子に体重を掛けていたが、がばっと起き上がって僕に飛び付いてきた。
「うっわ、お前大丈夫かそれ?! やっぱあの話本当だったのか、火事の建物の中に飛び込んで子供助けたっての、ちょっお前、無茶し過ぎ!」
「……え? え?」
 僕は困惑する。てっきり「今までなにサボってたんだよー」と突付かれると思っていたのだが、全然身に覚えのないことを言われた。火事も子供も知らない。僕の火傷は僕自身のペルソナ能力でやったのだ。そこまで考えて、僕は自分が火傷を負っていたことをようやく思い出した。
 そう言えば、まだ岳羽と山岸に「ありがとう」を言っていなかった。あとで機会を見付けて礼を言っておこう。
「うわぁ、見てるだけで痛え……お前何日かまだ病院で寝てたほうがいいんじゃね? せっかく怪我してんのにもったいない」
「サボりたい病のお前と一緒にしてやんなよ。しかし、その身体じゃしばらく部活は無理だなぁ。鈍るなよ」
「うわー、お前せっかく綺麗な顔してんのに勿体ねー、早く治せよそれ」
 どうやら心配されているようだ。僕はくすぐったくなって、ちょっと笑って「ありがとう」と言う。
「心配してくれて嬉しいよ。俺は大丈夫だ」
「…………」
「…………」
 友近と宮本がぽかんと口を開けて顔を見合わせた。そして僕を見て、「なに?」と声を揃えて言った。
「あれ……えっ、お前、どうしちゃったの……『どうでもいい、ほっときゃ治る』っててっきり返ってくるものだと」
「いや、なんだかお前、感じ違くないか? 何かあったか?」
「なあ、絶対あったこれ。なんか、その……ええと、綺麗に、なったな、なんか?」
「なんだよそれ」
 僕は笑う。友近は相変わらず言うことがおかしい。
「いつも通りだよ。すごく普通だ」
「えー、そうか? あ、なんかいいことあったとか?」
「あったかも」
 僕は頷く。僕の大事な無くし物を見付けた。僕の中に、僕自身がいるということを強く感じる。空気がとても澄んでいるように感じる。冷たい冬の朝の空気も、少し寒いけど、それでも心地が良い。
 たぶんこれから退屈な授業が始まるだろう。たまに名指しで当てられるかもしれない。昼休みには屋上へ行って、この街を眺めよう。僕が今を過ごした景色を、少しでも鮮やかに憶えておきたいと思う。授業が終わってからはどうしよう。
 今日は僕は何をしよう。
 僕はそのことが楽しみでたまらない。何だってできる。僕には今日がある。限られた、すごくいとおしい一日だ。
「あー、お前もしかして好きな奴ができた? そういう顔してるぞ」
「うん。できた」
 僕はちょっとはにかんで微笑む。
 僕は綾時が好きだ。みんなが好きだ。仲間たちも、クラスメイトも、部活のメンバーも、僕と関わりを持ってくれた街の人たちも、この港区すべて、巌戸台の年月の経過を感じさせる建物の群れも、ワックの新作バーガーも、ポートアイランドのスクリーンショットも、僕自身が感じることができるすべてのものが、僕はとても愛しい。
 そしてそう感じる僕の心というものを、はっきり意識することができる。僕は、僕の心がすごく愛しいと思う。
「ちょ、マジで?! き、聞き捨てならんぞそれは! 聞かせろ! と、歳下? 歳上?!」
「歳上……あ、歳下、かも」
 僕の大好きなその人は僕より大分歳上で、でもまだ産まれたばかりで、子供っぽくて頼りなくて、でも世界で一番格好良い、僕のヒーローだ。
 僕はそう言いたかったけど、きっと笑われるだろうから、黙って微笑む。
「としっ……上級生か? 下級生か? いや、どっちなんだ、上か下かハッキリしろよ! お前ばっか秘密主義はずるいぞ!」
「カリスマぁー! 他人のモノになんかならないで!」
「僕の妖精のままでいてください!」
「というか私と付き合って下さい!」
「パンツ下さい!」
 なんだか変に教室がざわざわしている。いつもこんなに騒がしかったろうか。僕は首を傾げて、「なぁ、授業終わったらどっか行こ」と友近を誘う。
「今日暇?」
「も、もちろん! それは期待をしてもいいと!」
「お、俺も行くぞ!」
「お前は筋トレでもしてろ宮本ッ!」
「どこ行こっか。ラーメン? カラオケ?」
「何だよ、面白い相談か? オレっちも混ぜろよ〜」
「ん、遊びに行く話」
「おっ、じゃ、特別に今日はお前に伊織順平スポットを教えてやろう! 大人の遊びを伝授してやるぜ!」
「……ちょっと、変なこと教えんじゃないわよ」
 順平が悪のりして、岳羽が冷たい視線を向けている。友達と騒いでいると、僕は日常のなかにいることを強く感じる。
 僕はふっと綾時の席を見る。心配性の綾時のことだから、今も僕のことを心配そうに見ているのかもしれない。僕は微笑み、心のなかで『僕は大丈夫』と呟く。綾時がそばにいてくれるなら、僕は大丈夫だ。
 僕は今僕自身の人生を生きている。





◇◆◇◆◇





 日が落ちた。僕と順平は身体を縮めながら、寮への帰途につく。夜が来ると、途端に気温は随分下がって、息をするだけでも口の中が凍り付きそうだ。
 思えば僕らふたりが並んで帰ることは、同じ寮生で仲間なのに、そうなかったような気がする。
「うぁあ、さみぃ」
「うん、寒いな」
 月光館の制服は冬を越すには少し薄過ぎるんじゃないかと思う。僕は真冬でも半ズボンで過ごす天田が信じられない。でも多分子供の頃に月光館に通っていた僕も、特に気にもせずにあの初等部の半ズボン姿で長い冬を過ごしていたのだ。子供は体温が高いから平気なのだろうか。良く分からない。
 空気はどんどん冷え込んでいく。身体に篭ったぬくもりを少しでも逃すまいと、知らず知らず背中が丸くなる。
 思えばこれが、僕がひとりで過ごす初めての冬なのだ。十年前まではお父さんが一緒にいた。今までは僕の子供が一緒にいた。今の僕のなかは、住人が出て行った空きのアパートみたいだった。しんとして空っぽだ。だから余計に僕のなかの空洞にまで冷気が入り込んで、身体の芯まで冷えるのかもしれない。
 僕の中から出て行った綾時は今頃どうしているだろう。この寒空の下で独りぼっちで、寒くないだろうか。寂しくないのだろうか。僕から離れて初めて出会う冬を、きちんと過ごすことができているのだろうか。
「……綾時、寒くないかな」
 不安で、僕はぼそぼそ言った。順平が黙って僕の背中を叩いてくれた。心配すんな、と言っているのだ。
「……げ。お前、手」
「ん?」
「真っ赤んなってんぞ。霜焼けなんぞそれ。手袋は?」
「持ってない」
「いつものポケットに手ェ突っ込んで歩く癖はどうしたのよ」
「ああ……転んだ時に顔を打つからやめろって、」
「綾時?」
「うん。昔、言ってたのをなんか思い出して」
「……構わねーから手ェ隠しとけ。オレが許す」
「了解」
 僕は頷く。ポケットにいつも通り手を突っ込んで、自分の身体をきちんと意識してみる。
 手がすごく冷たい。両耳もだ。首も冷たい。綾時みたいなマフラーが欲しいかもしれない。ミュージック・プレイヤーはこの間僕が火葬してしまって、使い物にならなくなっていたが、スペアのストラップとヘッドホンをくっつけられて、いつも通り僕の首から下げられている。こいつがないと、途端に僕は不安になる。お守りのようなものなのだ。
 いつも音楽で紛らわせていないと、自分の心臓の音が急に激しく聞こえてきて、それがすごく怖くなる。僕は生きているんだということを感じるのが、僕は怖かった。
 今はたぶんもうそんなことはないと思う。僕は僕自身の心臓の音が心地良いし、愛しいと思う。僕がここにいる証だ。綾時が十年間ずっと僕の傍で聞いていたリズムだ。
 プレイヤーは、今は僕を安定させる装置ではもうなかった。ただ楽しかった子供の頃を思い出す。誕生日のプレゼントの包みを思い出す。今はもうない旧式のプレイヤーと、綾時の得意げな優しい笑顔を。
 僕が焦げたプレイヤーを指で弄んでいると、気になったのが、順平がとんと僕の胸を突いた。
「その、プレイヤーさ」
「うん?」
「溶けてるじゃん」
「うん」
「買い替えねぇの?」
「……別に、特別に音楽が聞きたいっていうよりも、お守りみたいなもんだからこれで平気。今はちゃんと自分の音を聞いてるほうが安心する」
「自分の音?」
「うん。心臓」
「ん?」
「心臓の音」
「……そっか」
 順平が無理に口の端を上げた変な笑いかたをした。僕が「どうした」と聞いても、ごにょごにょ言葉を濁すだけだ。変な奴だ。
「リョージの奴がお前のこと心配すんの、なんか分かる気がすんなぁ、オレ」
「……なんだよ」
「お前って意外とすげえファザコンだったんだな」
「うん。……変でいいよ。誰に笑われても俺綾時がすごく好きだし」
「はは、どーしようもねぇよソレ。ゆかりッチとタイだって」
 順平が笑う。笑って、ちょっと照れ臭そうに帽子のつばを下げる。
「その、あれ、こないだ言ったじゃん。うちの親父、ヘタ打ってさ、借金まみれでアル中っての。ええと、お前もしさ、そーいうのって、どうよ?」
 僕は借金まみれでアルコール中毒の綾時を想像してみた。予想以上にひどい衝撃だった。
「……考えただけで泣きそうになってきた」
「じょ、ジョーダンだって、ホントに当て嵌めるなよ。お前んちとオレんちが違うのは当たり前だろ」
「でも、もし仮にそうだったとして、僕がなんとかしなきゃいけないと思う。まずはキャッシュカードを没収して、相手の女の人のとこ行って謝って、綾時のことだからどうせ相手が一人や二人じゃないだろうから大変だろうけど」
「……なんでそんなに具体的なのよ。女絡み限定?」
「うちの両親の離婚、綾時が女の人にだらしないのが原因なんだぞ。そういうところはすごく嫌いだ」
「……あ。空から泣き声が聞こえる」
「でももう俺がなんとかするしかないだろ。ふたりっきりの家族なんだから。アルコールなんかに逃げなくていいように俺が守るし、借金だってなんとか返すよ。綾時はほんとに頼りないし情けないし、ほっとくと何にもできないから、俺は生まれた時から一生あの人の面倒見るって覚悟はできてるんだ」
「お前みたいなのは特殊な例だって分かってっけど、そっか」
 順平は微妙な顔でいる。渋いふうで、でも笑い出したいような、変な顔だ。
「綾時がお前のことめちゃめちゃ好きなの、なんか分かる気がすんなぁ、オレ」
「……いきなりなに」
 僕はちょっと赤くなってしまう。順平はいきなり何を言い出すんだ。
「オレさ、正直親父のこと軽蔑してたんだわ。酒なんかに逃げたってどーにもなりゃしねーのにってさ。でも逃げたいって気持ちも、なんか今んなってやっと分かるんだわ。オレはぜってーマネしたくねーけど」
「うん」
「でもなんか今はさ、すげー顔見てーかも。どうしてんのかなとか。オレのどうでもいい親父はぴんぴんしてんのに、お前んとこはとかなんかさ、ああ、悪ィな」
「別にいい。気を遣わなくて」
「……春んなって進級したら、春休みにいっぺん実家戻ってさ。なんか、いろんな話、してーんだ。ダチのこととか、チドリのこととかさ。多分、お前を見ててアテられたんだと思う」
「うん。いいと思う。……俺の話も、するのか?」
「……まあ、してやってもいい」
「うん」
 僕はくすぐったくなって、俯いて微笑む。多分順平のことだから半分悪口に違いないけど、僕は確かに彼の中にいるのだ。順平は呆れたふうに「そんな嬉しいことかよ」と言っている。僕は頷く。順平は照れ臭そうに帽子のつばを深く下げる。
「まぁウチの親父は、ともかく……オレ、いつかガキできることになったとしたらさ、相手とか想像もつかねぇけど。お前みたいなガキ欲しいわ、ほんと」
「俺?」
「パパ、パパ言ってさ、どこ行くんもついてきて、仕事から帰ったら真っ先に飛んできて、玄関まで迎えに来てくれんの。まだまだちっこいのに『俺がいなきゃパパはだめだー』とか言ってんの。可愛いぜソレ、親父の身になって考えてみたら、すっげえ。あー、なんか無性にガキ欲しー」
「十七だろ、まだ。何言ってんだ」
 僕はなんだか順平が妙に親父臭いことを言っているのがおかしくて、笑う。順平も妙なことを言っているって自覚はあるのか、顔がちょっと赤い。
「お前生まれ変わったらウチ来いよ。いつかさ。大事にしてやるから」
「残念。俺綾時以外は父親とは呼ばないって生まれた時から決めてる」
「『お父さん』って呼んでやったことあんのかよ」
「ううん。なんか友達みたいでいいだろ。一番の友達なんだ」
「うあぁ、やっぱオレっちお前欲しいわ。ぜってーウチの子にお前の名前付けてやる!」
「絶対やめろ、イヤだバカ」
 僕らは笑う。じゃれる。駆け出す。駅から寮までの道のりを、縺れて転がるように走る。そうしていると妙に楽しくなってきて、寒いことも気にならなくなって、いつしか忘れている。





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