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寮の扉が見えた頃には、自然に競争のようなことになっていた。僕らは駆ける。僕は足にはちょっと自信があったが、順平は僕の制服を掴んで後ろにやる。ずるい、ルール違反だ。 結局最後は同着で、僕らはラウンジに転がり込んだ。 「伊織順平、ただいま帰還しましたッ!」 「ただいま、帰りました」 「遅いぞ」 「おかえりなさい、ふたりとも」 ラウンジには珍しく人気が無かった。真田先輩と山岸とコロマルだけだ。珍しいメンバーだった。 僕と順平が顔を見合わせると、真田先輩が「調子が悪いらしい」と教えてくれた。 「天田は風邪を引いて部屋で寝込んでる。岳羽も体調が良くないようだ。今日のタルタロス行きはなしだな」 「桐条先輩は?」 「アイギスの様子を見に行った」 「あの、私ちょっと天田くん見て来ますね」 「ああ山岸、頼んだ」 山岸がぺこっと頭を下げて二階へ上がっていく。どうやら風邪が流行っているみたいだ。この寒さじゃ無理もないかなと考えて、僕は急に悪寒を感じて、くしゃみをした。 「うわ、やめろよオイ、お前もじゃねえだろな〜」 「気を付けろよ」 「はい……あ、なんか気持ち悪」 僕は咽の奥にどろっとした重苦しい感触を覚える。あんまりはしゃぎすぎたせいだろうか。ちょっと気分が悪くなってきた。口を押さえてのろのろトイレに向かう。 「お、んだよオメデタかよ、誰の子だよ」 「お前の子じゃないのは確実」 順平の軽口に軽口で返して、僕は洗面台の蛇口を捻り、勢い良く水を出して手のひらで掬い、喉に流し込む。水を飲めば少しは落ち付くかと思ったが、駄目だったみたいだ。温かいものが込み上げてくる。 何か変なもの食べたっけと僕は考える。別にいつもどおりだ。みんなで一緒にはがくれのラーメンを食べたきり。それからポテトチップス。少しのチョコレート。順平に貰った飴。食べ過ぎってことはないだろう、いつもこのくらいだ。 もしかしたらほんとにつわりかもなと僕はちょっと考える。そして馬鹿馬鹿しくて赤くなる。僕は男だ。いくら綾時と寝たからって、妊娠するわけがない。 (……あ。なんか、すごい、苦し) 僕はかがんで少し咳込む。白い洗面台にぱっと赤い滴が飛び散る。 (え) ぼやっとした不安を感じ取った途端、急に喉を強く絞られる感触があって、僕は激しく咳込んだ。唇がわななく。僕の喉から、込み上げてきた体液が勢い良く零れる。吐き出したのは、でも胃液じゃない。真っ赤だ。 (あ、) 僕は膝をつき、洗面台のへりに縋り付く。また咳込む。ペットボトルの蓋を開けて逆さまにしたみたいに、僕の喉からどくどく温かいものが零れていく。僕は混乱する。そんなつもりじゃなかったのに、なんでこんなものが出て来るんだ。 「おい、具合は――おいっ!」 後ろから様子を見にきてくれたらしい真田先輩の声が聞こえる。大分慌てた様子で、それから僕の肩を掴む。僕はようやく息を吸って、吐いて、振り向く。あんまり苦しくて、怖くて、目がじわっと熱くなっていた。 「どうした!」 「せんぱい……すみませっ、おれ、そんなつもりじゃ、なかったのに、」 「しっかりしろ!」 「こんな、血が、っあ」 僕はまた咳込む。洗面台も床も、手も制服も血だらけだ。真田先輩が強張った顔で、僕を抱いて背中を撫でてくれている。先輩のシャツにも僕の血が飛び散って、斑になる。 「どしたん? 騒いで……う、うわ! おまっ」 順平もやってきて、ひどく驚いた様子で慌てている。僕は喉を掻き毟る。苦しい、怖い、まるで見えない誰かがすごい力で僕の首を絞めているみたいだ。でも僕の手は、誰の手にも触れず、ただ皮膚を引っ掻いて抉るだけだ。 「首、絞められっ……息、できな」 「――! 順平! シンジの机の上だ! 遺品箱の中から薬を持ってこい、まだあるはずだ!」 「りょ、了解ッス!」 順平が足を踏み鳴らして駆けていく。余程慌てているようで、あちこちに身体をぶつける音が響いてくる。 僕は怖くなる。震える。まだその時じゃない。こんなに苦しいのは嫌だ。僕はまだ、 「せん、ぱ……こわ、い、死にたくないです、――りょおじぃ……っ!」 前にも同じようなことがあった時には、怖いなんて感じなかった。 あの時は死ぬことなんて怖くなかった。でも僕はいま、はっきりと怯えていた。 僕は死ぬのは嫌だ。まだもっと長く生きたい。死にたくない。 「落ち付け、大丈夫だ」 真田先輩が僕を宥めてくれる。 やがて順平が戻ってくる。 先輩が無理矢理僕の口の中に小さなカプセルを突っ込む。すると、途端に僕を苛んでいた苦痛がすっと引いた。 「……あ」 僕のひどい焦燥も引いた。ようやくまともな判断力というものが戻ってくる。洗面台の水道は相変わらずすごい勢いで水を吐き出し続けている。僕は真田先輩にまるで小さい子供みたいに抱きかかえられて、二人で床にへたり込み、放心している。 ゆっくり頭を巡らす。先輩と順平が僕をじいっと見つめている。二人ともひどい顔だ。あたりはまるで影時間みたいな血だらけの様相になっている。僕と真田先輩の制服はひどい状態になっている。 そして鏡の中の僕の首筋には、くっきりと赤い痕が残っている。指の跡だ。何かとても大きな生き物が、思いきり絞めた痕だった。 「……もう平気か」 僕は、のろのろと頷く。もう苦しくも痛くもない。僕は多分、すごく不安そうな顔をしていたと思う。「ペルソナに襲われたんだ」と真田先輩が言った。 「黒い、貌のないシャドウみたいな奴だ。お前を焼いた奴だ。分かるか」 「……はい」 「死ぬのが怖いか」 「はい……」 「そうか。偉いぞ」 頭を撫でられた。誰かに優しくされると、僕は泣きそうになる。でもこれ以上格好悪いところは見せられないから、僕はぐっと堪える。真田先輩はまた僕を誉めるみたいに、頭を軽く撫でた。 綾時は『泣いていい』と赦してくれるが、男には我慢しなきゃならない時ってものがあるのだ。 僕は風呂場に放り込まれて、「ほんとすみません」と謝る。 「順平もほんとごめん。迷惑掛ける……」 「気にすんなよ。今度プリン奢れ」 乾燥機のなかで僕と真田先輩のシャツが回っている。面倒見のいい真田先輩はもとより、面倒臭がりの順平まで僕のフォローに回ってくれたのだ。あのまま男子トイレを放っておいたら、事情を知らない天田が降りてきた時に間違いなく混乱しただろう。 血を落としたあと、順平のシャツまで借りてしまった。部屋に服はあるからいいと言っても、とりあえず着とけと被されたのだ。そう言えば順平は僕に対しても面倒見が良かったのだ。しばらく突っ掛かられていたから忘れていた。 「ペルソナは呼べるか?」 「はい……」 僕は恐る恐る召喚器を頭に押し当てて、引鉄を引いた。 「来い、サタン」 ペルソナはいつもどおりだ。ペルソナカードのデッキの構成もいつも通り。僕は用心深くもう一度引鉄を引く。 「ルシファー」 二体のペルソナが顕在化する。通常通りミックスレイドも行えるようだ。 僕は安心して、溜息を吐いてペルソナを引っ込めて、「大丈夫みたいです」と言う。 顔を上げると、真田先輩と順平が固まっていた。 「……お前のペルソナは、なんというか、物凄くおっかないな」 「何スかね、こいつやっぱ最終兵器かなんかじゃねんスかね」 「……?」 「と、ともかくだ。暴走の心当たりはあるのか。以前はこんなことは無かったろう」 「……なんとなくは」 「なによ?」 「なんだか自分が半分になってしまったみたいな、すごく不安定な気がするんです。気を抜くと、俺がせっかく組んだペルソナカード・デッキなんか知らないみたいな顔をして、変なのが出てくる」 「デッキって何よ。カードゲーム?」 「……言ってなかったっけ。俺はいつもペルソナ喚ぶ時、カードを選んで頭を撃つんだ。一度に十枚まで組める。カードを組み合わせて新しいペルソナを創造する」 「いや、初耳。つーか、お前自分のこと言わなさすぎだろ」 「……これが当たり前じゃないのか?」 「いや、絶対違え。そもそもお前だけだろ、ペルソナ付け替えれんの」 「そんなことはない……と、思う。エリザベスも付け替えてたし」 「……誰それ外人?」 「エレベーターガールだよ。たまにお茶会に誘われる」 「う、上へ参りまーす?! おまっ、どんだけ手広いの! どんな仲?!」 「え……ハルマゲドン撃ったらメギドラオンを撃ち返される、そんな仲」 「何その最終戦争みたいな絆!?」 「今の所十戦一勝九敗だ」 「お前が負け込んでるの?!」 「うん。もうすごくボコボコにされる。こないだ一回勝ったから、次まで俺が最強」 「真田さん、コイツ心配するだけ無駄じゃないんスかね」 「俺もちょっとそう思った」 ふたりははあっと溜息を吐いて、ともかく気を付けろよと言った。 「……ストレガやシンジと似たような症状なんだろう。――例の、薬が」 真田先輩が苦い顔をしている。荒垣先輩のことを思い出しているんだろう。僕の肩を掴んで、心底弱りきったふうに目を閉じ、また溜息を吐いた。 「……効いたようだしな。薬を、飲んでいるのか。お前も」 「いいえ。今が初めてです」 「本当か?」 「はい。……あの、たぶんですけど」 「うん?」 「今までは綾時が、俺を守っていてくれたんじゃないかなって」 「…………」 「俺みたいなのを残して行くの、きっとすごく不安なんだろうなって考えると、すごく自分が嫌になります。俺、綾時は俺がいなきゃなんにもできないとか言ってるくせ、俺のが綾時がいなきゃなんにもできない奴だったんです」 僕は項垂れ、肩を落とす。自分が情けなくて仕方ない。僕はたぶん、自分の中に封印されていたものに、無意識のうちに依存していたんじゃないだろうか。そんな気がする。 「――しっかり、します」 「……ああ」 「もっと、強くなりたいです」 「それ以上強くなんなくってもいいんじゃないかなぁって、オレっち思うけどなぁ……なんか人間としての境界ギリギリのライン上を、高飛びの要領で既に飛び越えて行ってる気がするぞ、お前」 順平が良く分からないことを言った。 「これからは、薬を常に持ってろ。ただし本当にまずい時だけ飲め。さっきみたいな場合だけだ。そいつは副作用がキツい」 「はい」 僕は頷く。 「何かあったらすぐに言え。俺でも、順平でもいい」 「はい」 「順平、昼間はこいつを見てやっておいてくれ。心配でかなわん」 「ッスねえ、了解」 ふたりは項垂れ、弱りきった顔で、溜息を吐きながらぐりぐり僕の頭を撫でる。僕は「子供じゃないです」と反論したが、彼らに揃って「黙れ」と怒られた。 |