じめてのVディ~チドリンと下僕の弟~




 2011年2月13日、日曜日。午前五時。私は同じ寮の、ひとつ下の階に住んでいる人間の部屋の扉をピッキングして侵入し、口を開けて間抜けな顔で寝ているそいつの首に、鎖斧を振り下ろした。
 その男は私と同じく、いつ寝首をかかれるか知れない環境で育ったせいか、危機感知能力だか反射神経だかが馬鹿に良いので、咄嗟にゴロンと寝返りを打って避けた。
 目を擦りながら顔を上げる。まだ起き上がらない。寝汚い奴だ。
「もー、なんなんだよ朝から……あれ、チドリじゃん。おはよ」
「おはよう、カオナシ。ちょっと顔を貸して欲しいんだけど」
「えー……今日……は、日曜じゃん……寝かせろよ。寒いし、布団の外出たくない……」
「望むなら、もう二度と布団から出られなくしてあげてもいいけど」
「なに、急ぎ……?」
「とても」
 カオナシはぶつぶつ文句を言いながらも起きて、「まあ座れよ」とか言っている。
「急ぎだつってんのに聞いてないのお前。胸揉むぞ」
「お前だって俺が朝弱いの知ってんだろ。ていうか……あれ……お前、今さっき俺のこと殺そうとしてなかったか?」
「気のせいでしょ。お前は被害妄想がちょっとひどいんだよ」
「ああ、そうか、うん」
 駄目だこいつは、どうやらまだ使い物にならないようだ。
 私は渋々カオナシの勉強机に座り、顎に手を当てて辛抱強く相手が起動するのを待った。いつもなら今の内に仕留めてしまっているところだけど、今日はこいつに大事な用事があるのだ。まだその時じゃない。
 ようやっとカオナシの目からぼんやりした色が薄れたあたりで、私は切り出した。
――お前、明日何の日か知ってる」





◆◇◆◇◆





「……買い物についてきてくれって、それなら先に言えば良いのに」
「うるさいな」
「大体寝てるところに斧振り下ろされて、俺が避けなかったらどうなってたんだって……」
「お前なら大丈夫だ」
「そういう信頼のされ方は全然嬉しくないぞ。……それに、その、間が悪かったらどうすんだよ……今日日曜だし……」
「は? 何を言ってるの。お前が今まで生きてて間が良いことなんかあったっけ」
「そ、そういうことじゃなくって! と、ともかくもうこんなことすんなよ。大体買い物なんて朝五時って店も開いてないだろ。急いだって仕方ない」
 カオナシはどうやらすごく臍を曲げてしまっているみたいだ。私の知ったことではないけど、でもやっぱり何だかんだ言って、こいつは昔から誘いも頼みも断わらない。これは最近知ったんだけど、父親のニュクス様に『女子には絶対服従』って奴隷根性を叩き込まれているせいらしい。情けないやつだ。
 午前十時、私はカオナシを引っ張ってポロニアンモールにやってきていた。シャッターが開いたそばから、商店街に入っていく。
「行くよ、カオナシ。ぼっとしてるな、このトーヘンボク」
「なんかお前順平への態度と俺への扱いが違い過ぎるぞ。可愛い弟をもうちょっと大事にしろ」
「姉を敬いもしないくせによく言う。可愛いとかお前が言うな。きもちわるい」
「もー、なんで俺を誘うんだよ……こういうことなら岳羽とか山岸とか、女子を誘えば良いじゃん。俺は男なんだぞ。貰う側だ。……今までお母さんにしか貰ったことないけど」
 むくれているカオナシの後ろから、ぎゅっと胸を掴んでやる。柔らかい乳房を揉んでやる。「ぎゃあ!」と悲鳴が上がる。
――男。これで」
「せ、セクハラー! 綾時に言い付けてやるっ!」
「お前またソレ。なんでそんな気持ち悪いくらいファザコンなの」
「き、気持ち悪いとか言うな! いいじゃん別に。お前には関係ないだろ」
 カオナシはぷいっと顔を背けて、「チドリのばか、ばかっ、横暴だっ」とかぶつぶつぼやいている。
 こういう頭の弱そうなところは、本当に昔と何も変わらない――と思っていたら、どうやら十年ほど寝ていたらしい。どうりで全然おつむが成長してないと思った。見た目は割とカッコ良くなってるのに。相変わらずちびだけど。
「ほらカオナシ。せっかく連れてきてやったんだから、ちゃんと働け」
「うう……むかつく。――順平、その、けっこー、シンプルなやつが好きなんじゃないか。アーモンドチョコとか。ていうかもうふつーに売ってるやつでいいんじゃないか?」
「……普通は、イヤ」
「でもあんまり気合い入れ過ぎるとお前、また毒々最終兵器じゃん……」
「毒々、なに」
「い、いや、えっと。あ、そ、そうだ。カッコいい型とか探してさ、手作りチョコとか作って、順平びっくりさせてやろうぜ!」
 「どうだすごい思い付きだろ!」とかカオナシがにこーっと笑っている。
 こういう顔をすると、こいつはニュクス様とそっくりになる。私は黙ったまま頷く。
 まあいつもはものすごく可愛げのない奴だけど、こうして妙にゴキゲンな顔で笑ったりしてると、ちょっと「可愛いやつだなこいつ」と思ってしまうところもあるのだ。
 いくら可愛くなったって、こいつが冷血で無慈悲な大量殺人鬼だってことは変わらないけど。
「お、俺も手伝うからな!」
「……なんでお前そんな乗り気なの。お前まさか順平のこと好きなの」
「へんなこと言うなよ。その、僕はただ、チィねーさまのためを思って」
 なんでかカオナシの顔には脂汗が浮いている。言ってることも棒読みだ。
 さっきから「毒々はだめだ毒々はイヤだ」とか「俺はリーダーなんだから、仲間は俺が守らないと」とかわけがわからないことをぶつぶつ呟いている。
 こいつちょっとキてるなと思いながらも、私はとりあえず頷いてやる。私のためにっていうのは、確かにカオナシにしては良い心掛けだ。





◆◇◆◇◆





 私は、去年の春までほとんど買い物なんてしたことなかった。欲しいものなんてスケッチブックと鉛筆だけで、必要になるものは影時間になればなんでも手に入った。
 大体は順平に教えてもらった。一個一個だ。でも順平は優しいし、うるさくしても嫌な感じはなかった。目の前のバカとはすごい違いだ。
「チドリ、お前バカだろ。チョコだって。チョコを買うんだって。バレンタインってのは、チョコをあげる日なんだから、チョコの割合が多いほど何ていうか、良いんだよ。製菓材料売り場以外での買い物は禁止だ。――ああ、やると思った。製菓材料売り場でも、蝋燭とかは禁止だから。ほらもうチョコとナッツでいいじゃん。他いらないじゃん」
「お前が買い物しに来たわけじゃないじゃん……あ、感染った。腹立つ」
「はいここはもう終わり。……あれ? 財布は」
「なにそれ。欲しいもの取ったら走って逃げればいいんじゃないの」
「……そういうことだろうと思った。いいか、万引きしたチョコなんて貰っても絶対順平喜ばないぞ」
 カオナシは生意気な顔で、「まったくもーチドリはしょうがない」とかぶつぶつ言いながら、レジで会計を済ませている。いい子ぶりっ子しやがって。
「……なんでお前が払うのよ」
「俺だって払いたくない。でも目の前で女子が万引きするのを見過ごしたら、絶対綾時に怒られる」
 こいつの価値観は全部ニュクス様基準か。
 買い物を済ませてモールの噴水の前のベンチに座って、カオナシが書いてきたらしいメモを二人で覗き込んだ。忘れ物チェックだ。
 こんなどうでも良い覚え書きなのに、綺麗な字だなと思った。なんだかむかつく。こいつを誉めてやると無性に負けた気分になるので、私はなんにも言わないでおく。
「チョコレート、アーモンド、フロストくんの型、ラッピング用品、カード、よし、任務完了だ。……これでは毒々にはなりようがない……俺はやったぞじゅんぺっ……」
「……なに?」
「い、いや。よし、帰ろうぜ。……でも日曜なんかだと、絶対順平寮にいるよな。バレるよな」
「…………」
「バレるのヤなんだろ?」
「……いや」
「……どうしよう。階段に疾風最強の万物流転使えるノルンを置いて、降りて来られないようにするとか」
「それだ。お前意外と頭良いな」
「……意外? 俺は普通に頭良いぞ。天才だし」
「お前は天才と言うか紙一重なんだよ」
「むかつく……お前だってキてるとか言われてるくせに……」
「キてるのはお前だ」
「……この場で泣かせてやろうか」
「お前こそパンツの中に蛇入れて鳴かせてやろうか」
「だ、だからなんでパンツなんだよ、いっつも! セクハラ!」
「お前って時々ものすごく苛めてやりたい顔するよな」
「お、俺は苛められっ子じゃない! 強い子だから!」
「カオナシのアホ。ニュクス様がこないだお前は最強のバカだって言ってたぞ」
「な……! う、嘘吐け! りょ、綾時がそんなこと言うわけないじゃん!」
「いや、言ってた、バカな子ほど可愛いって言ってた」
「え……可愛いのか? ……あ、そう」
 カオナシはなんでか顔を赤らめて、俯いてもじもじしている。頭の上にお花が咲いている。お前バカだって言われたのは良いのか。そんなでいいのか。
 こいつは沈着冷静で能面の人でなしかと思っていたら、とんだ恋愛バカだ。というかファザコンだ。もうお手上げ侍だ。
「じゅ、順平もチドリ可愛いって言ってたぞ」
「……………そう」
 真顔でそんなことを言われたら、すごい困る。私は悔しいけど顔が熱くなってきた。
 こいつのこういうところは、なんだか苦手だ。たまにすごくストレートになる。可愛げがないのに慣れてるのに、すごく困る。





◆◇◆◇◆





 寮に戻って、記帳を見ると、順平はどうやら外出しているらしい。私たちが出て行った直後くらいに出て、まだ帰ってきていない。カオナシは「あ、綾時もいない……順平と一緒かな」と嫌そうな顔をしている。
「あのふたり、一緒にすると絶対なんかやらかすんだよな……おとなしくしててくれたら良いけど」
 私はドレスの上から引っ掛けていたコートを脱いで、カオナシに突っ返した。帰り道に、寒いからとかなんとかで、強引に被されたのだ。
 タートルネックのセーター一枚のお前のほうが余程寒そうだろって言っても、「女子は黙れ」とか横暴なことを言われた。お前その胸にくっついてるマシュマロは何なの。
「あーあ、明日はバレンタインなんだよな……綾時は大変だろうな」
「……お前はあげないの?」
「冗談だろ。ただでさえ毎年ものすごい量貰ってくんのに、俺まであげたら綾時が可哀想だ。大体俺は男だから貰う方だって言ってんのに」
「……可哀想なの?」
「あ、順平は大丈夫だぞ。多分ものすごい喜び方するんじゃないか。あいつ去年俺と一緒に残念会やってたし」
「お前がもてないのは分かるけど、順平は意外……」
「なっ、お、俺は、去年風邪引いて寝込んでて、だからもし普通だったら多分誰か一人くらいはくれた! ……義理チョコとか」
 カオナシは自分で言って落ち込んでしまったらしい。「俺は順平より非モテ……」とかしょんぼりしている。こいつが順平よりもてると思っていたことが驚きだ。
「お前が順平と張り合おうなんて百年早い。女みたいな顔しやがって」
「うっ」
「ネクラ。アホ。腰抜け。貌無し名無し、考えなし。甲斐性もなし。いいとこもなし」
「ううう」
「ちび。ひ弱、貧弱。お前のいいとこは頭のアンテナだけだ、この非モテ男」
「うう、俺なんか、俺なんかっ……」
 カオナシは項垂れている。ちょっと調子に乗っていたみたいだけど、どうやらちゃんと自分を正しく知ってくれたみたいだ。よかった。
 こいつはたまにこうやって調教しておかないと図に乗るから、放っておけない。







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