父さんと僕とニュクス親衛隊[1]



「あ、あー……」
 朝から綾時がすごく情けない顔をして、自分の靴箱を覗いている。僕は「どうした」と声を掛けてやってから、ああなるほどと理解した。なるほど。
 綾時の靴箱は空だったのだ。上履きが無くなっている。綾時の私物が何でも良いから欲しかった女子の仕業か(綾時はすごくモテるのだ。たまにちょっとイラッとするくらい)、好きな子を盗られてやっかんでいる男子の仕業ってところだろうと、僕は見当を付けた。
 前者なら綾時はたぶん「男冥利に尽きるねぇ〜」と締まりのない顔をして笑っているんだろうけど、後者なら僕がなんとかしてやらなきゃならないだろう。
 僕のお父さんを苛める奴は、ハルマゲドンで髪の毛一本残さず宇宙から抹消してやる。『最強』を舐めないでもらいたいものだ。
 でも僕は、すぐに僕の予想がどれも外れていたことを知る。





「おはようございます、ニュクス様」
「まだ寒い日ィが続くさかい、上履きを温めときました」





「……お前らの仕業かよ」
 僕は呆れてそいつらをじろっと睨んだ。朝早くから玄関で綾時の前に跪いている三人は、あまり認めたくないが、僕の幼馴染だ。タカヤとジンとチドリ。なんでか分からないけど進級したら同じクラスにいた。これも宇宙の力だろうか。だとしたらこんな力いらない。
 彼らは綾時を崇拝している『ニュクス親衛隊』のメンバーだ。相変わらず滅びを崇めているらしい。ニュクスの化身の綾時が御神体なのだそうだ。生神様ってやつらしい。
 あんまりご利益は無さそうだけど、僕はちょっと綾時を見て考える。幸せそうな笑顔だけは、確かに見ているとこっちまで幸せになれそうだ。
 メンバーは今のところ三人だけだ。僕は毎日勧誘されているけど、正直あんまり関わりたくない。
「えーと、あのー……温めたって、誰が……?」
 綾時がぎこちなく彼らに声を掛けている。気持ちは分かる気がする。いつも半裸のタカヤとか、変な大阪弁のジンとかに人肌で温められた上履きなんか、僕でも履きたくない。頼まれたって嫌だ。
「はっ、その辺は心得とりますさかいに。チドリです」
「マジですか!」
 綾時がぱあっと顔を輝かせる。本当に彼は分かりやすすぎる。彼の女好きはもう一種の病気なのだ。治る見込みは無さそうだ。
「君みたいな美人が? なんかすごく感激だなあ、でもちょっと悪いことしちゃったな。どうだい、今度お詫びに食事でも……」
 綾時は目をキラキラさせながら、チドリの手を取って口説きはじめている。この光景を順平に見せてやりたい。多分スープレックスくらいは期待できる。
 僕はチドリが差し出している綾時の上履きをばっと奪って、ぎゅっと胸に抱いた。
「……このくらい、俺がやる」
 案の定、チドリは『ハア?』とでも言うみたいな白けた目を僕に向けてきた。
「テメーは引っ込んでろ、このファザコン野郎。お前のニュクス様を見つめる目は妙にキラキラしてて気色悪いんだよ」
「お前の順平を見つめる目は妙にきらめいてて気持ち悪いんだよ」
「オウム返しでそれ仕返しのつもり? もうちょっと頭使って口を訊けば。だからお前はバカなのよ。バカオナシが」
「バカじゃない」
「ほんとバカ」
「お前がバカだ」
「お前はバカだ」
「バカじゃないもん!」
「バカだもん」
「お前絶対泣かせてやるからな」
「その言葉そっくり返すわ」
「順平にフラれろ」
「ニュクス様にフラれろ」
「…………」
「…………」
「……どうしたんかな……」
「想像しちゃったんじゃないですか。フラれた未来を」
 その通りだった。大体綾時は気が多過ぎるのだ。女の子みんなに優しいし、僕は男だし、そのうち『やっぱりこーいうのって良くないと思うんだよね……君にとっても、僕にとってもさ。ねえ、もう普通の親子に戻ろう?』とか言われたらどうしよう。僕は立ち直れない。死んでやる。
「あーハイハイ、チドリもやめいって朝から。ニュクス様の前やろ」
「ほらちびくん、美人に向かって失礼なこと言わないの」
「なんで私が怒られるの」
「なんで俺を怒るんだよ」
「似たもの同士の不思議ちゃんやなあ……」
「ジン、禿げろ」
「そうだ禿げろ」
「そうですよ、ジン。こういうのは不思議ちゃんではなく『ツンデレ』と言うんです」
「あんたどんどん俗っぽなってくなあ……」
 僕らが玄関で騒いでいると、いつもちょっと登校が遅い順平が顔を出して、「よぉ何やってんのよ?」と言った。
「おっはよーチドリい、教室まで一緒に行こうぜー」
「……うん」
 チドリは素直に頷いて、順平と一緒に行ってしまった。二人の幸せそうな後姿を見ていると、なんだかちょっとむかついてきた。僕への態度と全然違う。あいつはなんで僕だけこう目の敵みたいにするんだろう。腹が立つ奴だ。
「っと、僕今日日直だ。職員室に寄ってかなきゃ。悪いけど君たち、うちのちびくん頼めるかな。転んだり誰かに苛められたりしないか心配で心配で」
「……綾時、ちょっと心配性過ぎる。俺もう十八だぞ」
「はっ。この命に代えましても、彼をお守りします」
「お前もそんなつまんないことに命を使うなよ」
「どうせあなた殺したって死にませんから、このくらいは軽く言えます」
「それかよ」
 僕はじとっとタカヤを睨んでやった。予鈴が鳴って、僕は慌てて駆け出す。いろいろ大変なことや辛いこともあるけど、僕はなんとか今を生きている。





◇◆◇◆◇





 四限終了のチャイムが鳴り響くと同時に、綾時は津波みたいに押し寄せてきた女の子に流されて行ってしまった。まるで波に乗り損ねて、海のなかに沈んでいくサーファーみたいな感じだった。
 数の暴力にはさすがに僕や親衛隊も逆らえず、また逆らう気も起きず(だって柔らかい腕や胸や、たまに唇に揉みくちゃにされる綾時はすごく幸せそうな顔をしているのだ)、黙って見送る。これはもう昼休みの恒例行事だ。
 鐘が鳴って五分後には、昼休みの教室は嵐のあとでぽつぽつ家具や看板が寂しげに漂着した海岸みたいな様相になっている。静かなものだ。
「綾時はマジすげーな……」
「うん、すごいよな」
 順平がぽかんと口を開けて、もう誰もいない教室の入口を呆然と見ている。僕もたぶんおんなじような調子だったろう。
「……なんかここって、『チクショーうらやましーぜ! オレも女の子たちに攫われた〜い』とか言わなきゃならねェ所……なのか、ねえ……」
「でもあれってどっちかって言うと、ダウン後の総攻撃だよな」
「あ、うん。オレっちも実はそう思ってた。ほんとは」
「綾時、大変だな。生きてればいいけど」
 僕は溜息を吐いて、鞄から弁当を三つ取り出す。ひとつは僕の、もうひとつはアイギスの、それからもうひとつは綾時のだった。でも綾時は、あの様子では五限が始まるギリギリの時間にならなきゃ帰っては来られないだろう。またズタボロになって戻ってきて、鳥海先生に「イジメ? それイジメ? やめてよねーうちのクラスにそんなのあるわけないよね」とか言われてしまうのだ。これも恒例だ。
「弁当一個余った。順平、食う?」
「おっ、待ってましたっ! いやー悪いねえ、お前も大変だな、せっかく大好きなパパに作ってきてやったのに」
「べつにいい。女の子が作ったごはんなら、多分俺のより綾時も嬉しいだろうし。……ただちょっと、いらないって一言言って欲しいけど。そしたら作らないのに、もったいない」
「ん、ま、オレっちの糧になるから無駄にはしねッス。いただきまっす」
 僕とアイギスと順平は三人並んで手を合わせる。順平は嬉しそうににこにこしながら、「お前ほんとキレイな弁当作るよな」と言った。
「どんどん上達してるじゃん。いつでも結婚できるぜこれ」
「ん……頑張ってるもん。食事は生きてて一番大事なとこだし、家族の体調管理は俺がしっかりしなきゃって思って」
「ほんっとデキたお子様だよお前。なぁ、ダメダメリョージんトコよりうちの子にならねぇ?」
「綾時がダメダメだから俺がしっかりしなきゃってなっちゃうんだよ。なあ、アイギス」
「そうですね。でもわたしはあなたのお母さんなんですから、いつもそばであなたとついでに綾時さんを守ります」
「うん」
「リョージの奴はついでなんだアイちゃん……」
「綾時さんはもういい大人なので、もう少ししっかりしていただかないと困ります」
「うん、ほんとにそうだ」
 僕はなんだかほんわかしながら、弁当箱の蓋を開ける。ふと席の前に人が立っていることに気付いて、僕は顔を上げる。見慣れた顔がいる。チドリだ。
「おっ、チドリン、今日はあいつらと一緒じゃねえのか? なら一緒にメシ……」
 ぱっと白い包みのようなものを突き出される。見るとそれは、どうやら弁当箱のようだった。チドリは相変わらず感情の乏しい目でじっと順平を見ている。僕はそこに、長い付き合いだが、今まであんまり見たことがない種類の光を見る。それは期待だとか、緊張だとか、照れだとかを混ぜこぜにしたようなものだった。あのチドリがだ。ありえない。
「……お弁当」
「え……えええっ?! オ、オ、オレにっ?!」
「他に誰がいるの」
 順平が目を丸くして、大声を上げた。顔が真っ赤だ。僕は冷静に、ああこれが青春って奴なんだなと考えていた。微笑ましい奴らだ。
「あ……あ、うん。さ、さ、サンキュ……」
 順平はしどろもどろになりながら弁当の包みを開け、――そして、頬を赤らめた顔のままで硬直した。
 僕も横から覗き込んでやって、見なきゃ良かったと後悔した。まず平べったくて、妙に脚が多い天ぷらが見える。タコとかイカとか沢蟹とか言ったものじゃないことは、そのかたちから容易に知れた。蜘蛛だこれ。
 爪楊枝に刺されてケチャップを掛けられている小魚は、金魚だった。出目金だ。殿様蛙の煮付けも添えられている。ごはんのような白いものも、たぶん米じゃない。うっすら透き通った白い粒の中で、何かが蠢いている。たまに全体がぼこぼこ泡立っている。
「……カオナシのお弁当なんて、食べないでよ」
 ちょっと頬を赤らめて、怒ったようにチドリが言った。いつもなら順平はまた鼻の下を伸ばしてでれっとしているんだろうけど、今はそんな余裕もないのか、顔を蒼白にしている。彼の顔中には、脂汗が浮かんでいる。
――えっと、あのね、そのね、気持ちは、スッゲ嬉しいのね。でもチィちゃん、これは」
「お前は順平を殺したいのか? これは弁当とは言わない。最終兵器だ」
「バカッ、エージ! いくらアレでももーちょっと言い様ってモンが……!」
 その瞬間、チドリの顔からすうっと表情が消えた。いつもの能面みたいな顔になって、彼女は無気質な目で順平を見た。
「……『アレ』」
「え、あっ、あああ、いやあの、そのっ、気持ちだけはすごく嬉しいっていうか?! ほ、ホントに、いやその違くて、」
「……別にいいよ。こんな『アレ』なんかより、カオナシの美味しいお弁当食べればいい」
 チドリは、顔には出さないものの、かなり怒っているみたいだった。長い付合いだ。そのくらい分かる。彼女はすごい目で何故か僕を睨んで、





――お前、嫌い」





 例の殺人弁当を振り被り、僕の顔面に思いっきり叩き付けた。





 ――僕は、





 綾時の言葉を思い出していた。





『ちびくん、ねえ、僕が大事にしなさいって言ってたもの、覚えてるかな』





 僕は頷いて、『ベストスリーだね』と言う。





『僕のからだ、約束、それから、』





 綾時は僕の髪に触り、頭を撫でて、にっこり笑って言った。





――『かわいい女の子』ね』





 僕は怒りを堪えるために、うつむいて何度も何度も繰り返して自分に言い聞かせる。
「望月家……望月家三ヶ条……女の子には、何されても怒っちゃダメ……」
「えっ、えーちゃあぁあん?! 目がちょっと普通じゃないデスよ!!」
 僕の名前は望月栄時。綾時の子供だ。綾時を悲しませるような悪い子には絶対にならない。
 全身が、ぶるぶる震える。でも大丈夫だ。僕は我慢が得意なのだ。いい子だし。
「死ね、ばかおなし」
 チドリは、机に突っ伏して得体の知れない異形まみれになっている僕に唾を吐き掛けて、ぷいっと顔を背けて行ってしまった。唾を吐いてやりたいのは僕のほうだ。
――は……はるまげ、」
「スススストップうう! えーちゃんいい子だから! 後生だから、なっ?! あとでクリームソーダとチーズケーキ食べさしたげるから! なっ!? プリンも付けたげるから!!」
「ちっ……チドリいいい! ぜっったい! 殺してやるっ! 『最強』に逆らったことを燃え尽きて灰になるまで後悔させてやるっ!!」
「お、落ち付いてー! アイちゃんもなんとかして! たすけて!!」
「子供の喧嘩に母親が口を出すのは野暮というものです」
「ハルマゲは子供の喧嘩の域越えてっから!!」
 僕はあんまりに腹が立ってしまって、頭のなかが真っ赤になっていた。絶対ひどい目に合わせてやる。泣かせてやる。チドリなんか大嫌いだ。





◇◆◇◆◇





 僕の名前は望月栄時。ちょっと前まで、黒田栄時だった。春休みに綾時と桐条先輩が色々駆け回ってくれたおかげで、また僕は子供のころと同じ望月姓で過ごすことができるようになっている。僕としては嬉しいことだけど、学校のみんなにとっては困ってしまうところもあるらしい。
「あの、黒田くん……じゃなくって、望月くん……ええと、お兄さん? 弟? うーん、えっと」
 僕を名前で呼ぶほど親しくない人は、僕のことをどう呼べば良いのか分からなくなってしまうようだ。三年F組には望月という男子生徒がふたりいて、兄弟ってことになってはいるけど(まさか同い年で親子だとは誰も思わないだろう)、どっちが兄で、どっちが弟なのかは分からない。僕にも分からない。綾時は僕のお父さんだから歳上で、また子供だから歳下でもあるのだ。ややこしくて人に説明するのは随分骨が折れるし、信じてはもらえないだろう。
 紙面では「望月(綾)」と「望月(栄)」と記されている。順平が言うところによると、「モテ望月」と「非モテ望月」だとか呼ばれていることもあるらしい。僕がもてないんじゃなくて、綾時のもて方のほうがおかしいのだ。そこのところだけはみんなに分かって欲しい。というか、最初に言い出した奴を殺したい。
 ともかく僕はそうやって呼び方に困られると、「呼びにくかったら前のままでいい」と答えることにしている。僕にとってはどちらも僕の名前だし、誰かを困らせたくて望月を名乗っている訳じゃないのだ。
――呼んだ? なにか用か」
「あ、うん。今日の当番、箒お願いできるかな」
「ああ……」
 僕は掃除の当番表を見る。掃除時間は既に始まっているのだ。頷き、箒を受け取って、まだなにか言いたそうにしている女生徒に首を傾げる。
――なにか?」
「あ、あの……あそこの人、黒田くん仲良いよね……その、なんか言ってくれたらなって」
 女生徒が指差している先には、教室の隅で奇妙なポーズを取ったままじっとしているタカヤの姿があった。僕はげんなりして、頭を抱え、「断じてそんなことはない」と言った。
「仲良くなんかない。絶対ない。全然知らない人」
「あ、そ、そう?」
「うん……でもなんとかしとくから。ごめんな」
 僕は放っておくわけにもいかず、渋々タカヤの傍に寄って、箒で怖々彼を突付いた。でも反応はない。僕は深々溜息を吐いて、箒を振り被った。
「五秒以内に起動しないと首を狩るぞ」
――おや、カオナシじゃあないですか。おはようございます」
 こいつは妙なポーズのまま、どうやら眠っていたらしい。目も開けたままだった。相変わらずなんだか薄気味悪い奴だ。
「おまえ、きもちわるい。死ね」
「いきなり何を言い出すかと思えば。ジン、何か言ってやりなさい。カオナシはたまに暴君になりますよね」
「……いや、わしごめん、今ちょっと状況的にカオナシに加勢したい気分」
「まったく、ほんとどうしようもないなタカヤは。お前も思うだろチドリ――
 僕はふっと振り返って、チドリを呼んで、





――かえしてよ!」





 彼女の怒鳴り声を聞いた。
 見ると何人かの女生徒に囲まれている。なんでか彼女らの手には見慣れたスケッチブックがあった。
「なんやなんやアレ」
 ジンが眼鏡を弄りながら、興味深そうに身を乗り出した。相変わらずの野次馬根性だ。タカヤもようやく起き出してきて、「学園生活の薄汚い影の部分ですねえ」とか分かったふうなことを言っている。





「望月くんに構ってもらいたいからって、ちょっかい掛けないでよ。ちょっと調子乗り過ぎじゃない?」
「ほんとほんと。ちょっとカワイイからっていい気になってるけど、望月くんはあんたなんか眼中外なんだから」
「さっきだって、あんなことするなんて信じらんない。頭おかしいんじゃないの?」
「かえしてよ! かえしてっ!!」





「……綾時と一緒にいるから目を付けられちゃったんだな。もうほんと、しょうがないな綾時は。誰彼構わず良い顔し過ぎるからこんなことになるんだ」
「カオナシ、いくらあのお方のご子息のあなたでも、ニュクス様を貶めるような物言いは赦せませんね」
「……お前ら、相変わらずツッコミ所ズレとるのお……どっちかっちゅーと、ニュクス様ちうよりも、」
 すごく鈍い音が聞こえて、僕らは三人揃って首を竦めた。
「出ましたね、チドリの刑死者アッパーカット。アレを食らって立っていられる者はそういませんよ」
「いきなり必殺技出すなよな。もうちょっと組技とか小技とか織り交ぜて欲しかった。三点減点」
「呑気に実況しとる場合かいな! 助けたらんかい! こーいう時のトモダチやろ!」
「じゃあお前助けに行けよジン。俺は嫌だぞ。今あいつに近付いたらポイズマキックとかチドリバリアとかに巻き込まれるぞ」
「カオナシ、ムドオンチョップの脅威も忘れてはなりませんよ」
「お前ら相変わらずごっつ薄情やのお……! わしもセクシー腕ひしぎダンスがめっちゃ怖い」
 僕らは三人でぼそぼそ言い合いながら、とりあえず様子を見ることにする。チドリは変にプライドが高いので、下手に助けに入るとすごく怒り出すのだ。
 そうしているうちに女子のひとりが、自棄っぱちになったように、チドリのスケッチブックを振り被って、





「こんなものっ、」





 窓の外に向かって、投げ棄てた。
 チドリのお気に入りが、ゆるやかに青い空に吸い込まれていく。
 僕はその瞬間のチドリの顔を見た途端に駆け出していた。箒を放り棄て、窓枠に足を掛けて、スケッチブックを追い掛けて跳ぶ。僕は走ったり跳んだり転んだりすることに関してはちょっと自信があるので、女子の腕力で投げられたスケッチブックに追いつくのは、そう難しいことじゃなかった。
 ただ、問題なのはその後だった。僕らの教室は三階にあって、空中の僕と遠い地面を隔てるものがなにもないという点がいささか問題だった。どうしよう。
「カオナシッ」
 足首を勢い良く掴まれた。ジンが僕を追い掛けて飛び出してきたようだ。
 でも彼の割合小さい身体は、僕を教室へ引き戻すにはほんのちょっとだけ背丈が足りなかった。
「ジン!」
 タカヤが手を伸ばし、ジンの足首を掴む。どうやらこれで墜落死は免れたようだ。
 でも僕らは掴まれた反動で、まるで鞭がしなるような具合に、勢い良く校舎の外壁に叩き付けられた。もろに顔面からだ。
「ふたりとも、無事ですか?」
 ずるずる引っ張り上げられて教室に戻ると、ようやく人心地がついて、僕とジンはへたり込んで溜息を吐いた。
「痛い! めっちゃ痛い! 頭禿げるかと思た!」
「安心して下さい、元からです」
「……鼻が低くなったような気がする」
「安心して下さい、元からです」
 僕はとりあえず、所在無さそうに突っ立っているチドリに、スケッチブックを突き出した。彼女はなんだか、気のせいじゃなければ、泣くのを我慢しているような、苦い顔をしている。苛めに遭ったのがそんなに堪えたのだろうか。チドリなのに。
「ん」
「…………」
 反応がない。僕はしばらくそのままの姿勢で、チドリがスケッチブックを受け取るのを待っていたが、
「……死ねっ!!」
 感謝もされず、罵られて殴られた。ただでさえダメージを受けている顔面を思いきり拳で突かれた。あんまりだ。僕が何をしたって言うんだ。鼻が折れたらどうしてくれる。絶対あとで泣かせてやる。
 チドリは僕と同じようにジンのことも沈めて、僕から奪ったスケッチブックを大事そうに抱えて、乱暴にドアを開け、教室から走って出て行ってしまった。
「あー、掃除なんざかったりー……うおっ、どーしちゃったの、おいっ!」
 良いタイミングで順平が戻ってきた。僕はなんだか脳震盪を起こしたのか、意識がぐらぐらしてきたが、タカヤが僕とジンを担いで「こちらはお任せ下さい」と言っているのを聞いた。
「あなたはチドリを追い掛けて下さい。あちらのフォローは頼みます」
「え、なに? また喧嘩?」
「まあそんなようなもんです」
 断じて違うと僕は言いたかった。だって僕は何もしていないのだ。一方的に殴られただけだ。これはもしかしたら苛めって奴なんじゃないだろうか。





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