父さんと僕とニュクス親衛隊[5]



 それから、なんだかみんな僕らに優しい。寮へ帰る道だって順平とジンが荷物を持ってくれたし(綾時は「ニュクス様のお手を煩わせるわけには参りません」とか言われて荷物を奪われていた。でも荷物持ちはいつもジンだ。タカヤはフリーダムなのだ)、チドリは岳羽にあやされている。僕はと言えば、綾時にハンカチで顔を拭われながらのろのろ歩いていた。
「大丈夫?」
「……ん、」
「もう泣かないで。いい子だから、ね」
「ん……ごめん」
 僕は申し訳なくなって、綾時に謝る。順平が暗い雰囲気にならないように気を遣ってくれたんだろう、明るい声で「なに食いたい?」と言った。
「えーちゃんもちーちゃんもさ、なんでも好きなモン言えよ。美味いもん食ってさ、元気出そうぜ」
「うん、そうだ。可愛い子に涙は似合わないからね」
 綾時が僕の頭をぽんぽんと撫でて言う。チドリはぼそぼそ「ハンバーグ」とか言って、順平に「よし任せろチドリン!」とか喜ばれている。
 僕はそこで足を止めて、頭を振った。
「あ……俺は、いい。先帰ってる」
「え? どうしたの、疲れちゃったかい? あ、じゃあ僕も」
「い、いい。綾時、腹減ってるだろ。みんなと一緒に行けよ。……あの、俺に構うこと、ないし」
 僕は「それじゃあ」と言い置いて、変な顔をしているみんなに背中を向けて、逃げ出すみたいにしてその場を後にした。すごく居心地が悪かった。結局僕が全部悪かったのだ。そのことに思い当たって、ひどい自己嫌悪に陥っていた。
 僕は今にも泣きそうな気分だった。多分今の僕は順平あたりに「っとによぉー、しょーがねーなおめえはよー」とちょっと突付かれただけでも、多分大声を上げて泣き出してしまうだろう。自分が情けなくて仕方がない。でも僕にだってプライドはあるし、これ以上みんなに迷惑を掛ける訳にはいかない。
 ひとりでポートアイランド駅まで辿り着いたところで、僕は自分の鞄をジンに預けっぱなしだったことを思い出した。定期も財布も鞄の中だ。手ぶらで、モノレールには乗れない。しょうがないので、溜息を吐いて、巌戸台分寮への長い道のりを歩き始めた。まあ歩けない距離ではない。港区は狭いものだったし、どちらかといえば落ち付いて頭を冷やす時間が取れるのはありがたいことだった。寮へ着く頃には火照った頭も冷めていることだろう。





 モノレールを使うと早いのに、徒歩だと分寮までは大分遠回りになってしまう。橋をふたつも越えなきゃならないのだ。ポロニアンモールを過ぎてムーンライトブリッジに差し掛かったところで、僕は後ろから呼び止められた。
――ちびくん! 栄時!」
 綾時だった。ひどく慌てた顔で僕のところまで駆けてきて、息を切らせながら、ほっとした様子で「やっと追い付いた」と言った。
「ぶ、無事かい? 誰かに絡まれたりしなかった?」
「……なんで。心配性だな」
 僕は無理に微笑んだ。この様子だと、僕を追ってきたせいでまた食いっぱぐれてしまったのだろう。僕は本当に申し訳なくなってきて、「もう構わないでいいって言ったのに」とぼそぼそ言った。
「俺は、もう綾時がいなきゃなんにもできない子供じゃない。実際今までちゃんとひとりで生きてきたし、そんなふうに心配することなんて何にもないんだ。綾時はちゃんと、自分が楽しいって思うことをすればいいよ。わざわざ俺の面倒見て、せっかくの学生生活なのに、そんなの勿体無いだろ」
「えっ……ど、どうしてそんなこと、」
「だって俺、綾時の邪魔になりたくない。俺は我侭だし、どうしようもない奴だし、綾時がなんで愛想尽かしちゃうのかも、今はちゃんと分かるんだ」
 僕は唇の端をぎゅっと下げる。また泣きそうになってくるのを堪えて、綾時に「ごめんな」と言う。
――望月」
「あ、」
 綾時がびっくりしたみたいに目を見開いた。僕は綾時と仲の良いクラスメイトだった頃は、彼をそう呼んでいたのだ。久し振りに呼ぶ名前は、自分でもちょっと特別なものみたいに聞こえて、ドキドキする。僕はこの呼びかたも割と好きだったのだ。
「ごめん望月。俺、お前好きなんだ。……親子だけじゃ嫌なんだ」
「……黒田くん、」
 綾時も困った顔で、僕を去年の秋に出会った頃のように呼ぶ。そうすると、すごく懐かしくて変な気分になってくる。くすぐったいあの頃の日常が蘇える。僕らはもしもう一度初めて会っても、ちゃんとお互いを愛することができていたのだ。
 彼は僕の名前を見て、『一文字お揃いだね』と嬉しそうに笑っていた。それは当たり前のことだった。僕の名前は綾時の名前から一文字貰って、彼が一生懸命考えて付けてくれたものなのだ。
「……お父さんなのに、男なのに、お前のこと好きになってごめんな。特別になりたいとか思って、ほんとに悪い。俺みたいなどうしようもないやつが、誰かの特別になんてなれるわけ――
 叩かれた。綾時はまた目を潤ませている。彼は泣き虫なのだ。
「このっ、親不孝者ー! ばかっ、ほんとに君はばかだ、ばかばかっ!」
「……うん。そうだよな。俺、ほんとに綾時を不幸にしてる。こんな奴が子供なんて、綾時が可哀想だ」
 また叩かれた。今度は抱き締められた。きつく抱かれて、綾時は僕の耳元で何度も何度も君は馬鹿だと言っている。
「なんでっ、そういうことを言うの! 幸せだって、自分のことちゃんと好きだって言いなさい! ねえ、お願いだから……!」
「……そんなの、綾時、無理だよ。たまに考えるんだ、俺は本当にあなたの子供だったのかなって。誰かがへまやって取り違えちゃったんじゃないかって。だって俺には、綾時みたいに綺麗な世界なんか見えない。全部まっすぐに受け取ることができない。すぐに嫌なことを考えて、ひとを嫌いになっちゃうんだ。俺、綾時に全然似てないよ。どんなに頑張っても、駄目なんだ。綾時みたいになれないんだ」
「そんなの、僕が綺麗なわけないでしょ。綺麗なのは君だ。君が綺麗だから、僕は、」
 僕はちょっと笑って、「もういいんだ」と言った。
「特別はいっぱいあるんだから、ひとつくらい見捨てても誰も怒らないよ、綾時。重いだろ。もう充分たくさんもらったんだから、俺には奇跡みたいなものなんだから、もっと綺麗なものはいっぱいあるんだから、昔みたいに無理して背負っていくことはないんだ」
「……君はっ、僕がいなくなっても大丈夫だって言うの……?」
 綾時はひどく傷付いた顔をしている。僕だって痛い。でももう子供じゃないし、綾時が僕を特別なものだって扱ってくれる理由が親子だってだけなら、僕はいつか彼から離れていかなければならないのだ。大きくなったら、巣立ちが訪れるのはすごく自然なことだ。僕はぎゅっと奥歯を噛み締めて言う。
「……大丈夫じゃ、ないけど、なんとか我慢できるよ。そういうのは得意なんだ。今までだって平気だった。だからこれからも大丈夫だと思う。俺は――
 そして、僕は言う。
「俺には、あなたのそばにいる資格は、」
 そこで、僕は綾時にキスされて、口を塞がれた。離れた彼は青白い顔でいて、少し震えている。綾時はすごく怖いことを切り出すみたいに、怯えた顔で僕を見た。
「……今、君、死んじゃおうって考えたでしょ」
「え……あ、なんで綾時、」
 僕は驚いた。昔の僕の頭の片隅を掠めた衝動だ。今になってもまだ消えきってはいなかったみたいだ。
 僕にとっては馴染んだものだ。たぶん、僕の幼馴染たちも同じようなものだろう。他人にも自分にも、自分の身体の価値を軽んじられていると、稀に『もういいかな』という狂暴で空虚な気分になることがある。
 僕らはごく自然に手首を切る。チドリは生命の泉を持ってるせいで死ねなかった。僕は、縛り付けられて死ねなかった。ジンはタカヤに心酔しているから死なない。タカヤはああいう性質だからそもそも死ぬわけない。
 綾時がじっと僕を見つめている。なんで彼は、僕の考えまで分かってしまうんだろう。
「分かるよ、そういうのは。匂いで分かっちゃうんだ。……どうして、君はあんなに生きてることを喜んでいて、すごく綺麗な光が見えたのに、なんでそんなこと言うの」
「……だって、俺には価値がないって。男子でも女子でもおんなじだって、綾時がいらないって言う俺なんて、俺だってそんなの、」
「そんなこと言うわけないでしょ!? 僕はね、僕が言いたかったのはそんなことじゃないよ。男の子だからとか、女の子だからとか、そういう理由で僕は君を大事にしてるわけじゃない。君だからだよ。僕は君だから好きになったんだ。君を特別にする理由を、親子だからだって言い訳もしない。僕は、望月栄時、君が好きです」
 綾時が僕の手をぎゅっと握る。彼の顔は一生懸命だった。僕は、綾時のその顔がすごく好きだった。そういう時、彼は世界中で一番綺麗な魂を持っているんだという気がした。そして僕はそんな時、あんまりに彼の命の灯が眩しくて不安になる。僕は本当にこの人に愛される価値を持った人間なのだろうかと。僕は、暗い闇の中で今にも消えそうに燃えている、弱い蝋燭の火みたいだった。
 でも綾時は一生懸命僕なんかに好きだって言う。彼に好きだと言われると、僕は嬉しくなる反面、すごく胸が痛くなる。綾時が何かを選び損なっている気分になる。後悔するんじゃないかと思う。でも綾時は僕に好きだと言う。
「君を愛しています。僕は一生掛けて君を守る。こんなに君を泣かせて、僕はどうしようもない奴だけど、君が生ききって死を迎えるその日まで、君を何より大切にするから。きっと最期に笑顔で死んでいけるように、幸せにしたいんだ。
だからお願いだから、君自身にひどいことを言わないで。僕は幸せですって言って、笑ってて。僕は君の笑顔が何より好きなんだ。君が笑ってくれるのが、僕の幸せなんだ」
「……でも綾時、俺、綾時にそんなこと言ってもらえるくらい、一生懸命で、綺麗で、そんな奴じゃないんだ。ひねくれた考え方しかできないし、嫌なことばっかり考えちゃうんだ。綾時が他の奴見たら嫌だと思ったり、俺だけ見て欲しいとか、人の繋がりってものがどれだけ大事なのかって俺は良く知ってるのに、こんな子供みたいな我侭言ってばっかりで、多分これからもずっと綾時を困らせるよ」
――確かに、この世界は綺麗なものばっかりだ。君が生まれた世界だもんね」
 綾時は微笑んで、僕を見つめて言う。
「でも僕が手を繋いで歩くのは君だけだよ。最期の一瞬まで、僕はもう二度と君の手を離さない」
 僕はちょっと驚いて、呆気に取られた。これじゃまるで、
「……なんだかプロポーズみたいだけど」
「僕はいつも君にはプロポーズしてるつもりなんだけどね」
「え?……あ、うん。……そ、っか」
 僕は呆けた顔のまま、何度も頷いた。死神のプロポーズってのは、なんだかすごいものだと思う。最期ってところに妙に説得力があって、僕は心臓をぎゅっと掴まれた気分になった。心音が早くなる。身体が熱くなってくる。僕は俯いて、居心地悪くて目を逸らしながら、綾時に訊いた。
「……でも、あの、呆れてないか? その、俺、……馬鹿なことばっかり言って。みんなに迷惑掛けて、我侭言って、綾時、俺のこと嫌いになってないか?」
「僕はなにがあったって、君を悪く思うことはないよ。ただ君が自分にひどいことを言うと、僕は自分が情けなくて本当に嫌になるんだ。僕は君を幸せにするためにここにいるのに、何をやっているんだってね」
「あ……ごめん。……あの、綾時」
「うん」
「俺、そんなこと言われていいのかな」
「君だからだよ。もっと自分をちゃんと見てあげて。君はこんなに可愛くて、綺麗で、僕もみんなも君のことが大好きなんだ」
「…………」
 僕は赤くなる。そういうふうに言われると、すごく恥ずかしくなってくる。
「ね、栄時」
 綾時が僕に微笑み掛けて、すっと頬を撫でた。
「僕は君のものだよ」
 僕は更に顔を赤くした。綾時があんまり綺麗に笑うせいだ。僕は頷く。そうすると綾時は嬉しそうな顔をする。
「……ちゃんと我侭、聞かせてね?」
「ん……」
「僕のこと、好きかい?」
「うん……綾時が、好きだ」
「君自身のことは?」
「……わかんない。けど、嫌いって言わないように、がんばるよ。綾時が駄目って言うなら」
「うん。僕はずっと君のそばにいるからね。――大きくなったら、パパのお嫁さんになってくれる?」
「ん……なる」
「ねえ、僕らの赤ちゃん、男の子かな。女の子かな」
「……たぶん、男の子。……あの」
「うん?」
「……その、名前も、考えてみた。ちょっと、決めた、かも」
「えー、僕にも相談してよお。ふふ」
 綾時は不満そうに言うくせに、すごく締まりのない顔をして笑っている。彼は本当にいつものままだった。僕が女の子になったからって、僕に特別に優しいわけじゃない。
 そこで僕はようやく、僕はいつでも綾時に特別に扱われていたんだということを知る。ぐるぐる同じ場所を回り続けていたことに、やっと気付いた迷子みたいな気分になる。綾時は僕がどうなったって、男子だって女子だって、多分人間じゃなくなったって、もし見るにたえない異形の姿になったって、変わらず愛してくれるだろうということを理解する。
 そうしているうちに綾時の腹がぐうと鳴る。僕は綾時と顔を見合わせて、ちょっと笑い、「ごめんな」と謝る。
「……悪い。俺のせいで食いっぱぐれたな。帰ったら何か作るよ。何でもいいから。何が食べたい?」
「ん、」
 綾時はにこっと微笑んで、すごく優しい声で言った。
「君が、食べたいな」
 僕は俯いて真っ赤になりながら、「うん」と頷く。綾時は本当にいつも思ったことをストレートに言うのだ。まわりくどい言いかたをしない。ちょっと直球過ぎる。
 でも僕は綾時のそういうところが好きだと思う。彼の一生懸命なところが、僕はすごく好きなのだ。





◆◇◆◇◆





 翌朝も、いつもと変わらない一日のはじまりだった。朝から玄関でまた綾時が靴がないと情けない顔で嘆いて、例のニュクス親衛隊だかなんだかが綾時にかしずいて、僕は綾時に優しくされるチドリの手から上履きを奪い、そこでまた喧嘩になる。
 みんなより少し遅れて順平が登校してくる。彼は取っ組み合う僕とチドリを見て、朝から疲れた顔をしている。
「……またですか、リョージくん」
「またですね、順平くん。君も大変だね」
「お前もな……でもちょっと、チドリに、嫉妬、されちゃった。一番好きって、言われちゃった。『私の順平』って言われちゃった。どうしよう。正直めっちゃくちゃうれしくて、嬉し過ぎる」
「僕も、なんかもう、ちびくんに更にめろめろになっちゃった。どうしよう。ドキドキしちゃう。なんであの子あんなにかわいいんだろ」
「チドリッ! お前絶対泣かせてやるからな! 背中に鉛筆の削りカスを入れてやる!」
「……そっちこそ、パンツの中にいっぱいミミズを入れてやる」
「えっ……ご、ごめんなさい。気持ち悪い……」
 全部いつも通りだ。僕は男子制服で、誰も僕の身体の異変には気付かず、「よおおはよー」と軽く挨拶して通り過ぎていく。
「はいはい、もー喧嘩しないの。じゅんぺ、チドリさんお願いね」
「おうよ、任せとけって。お前もえーちゃん離すなよ。暴走するから」
「当然です」
 そして僕は綾時に手を引かれて、予鈴を聞きながら、廊下を歩いていく。
 今日も一日が始まる。















[お父さんと僕とニュクス親衛隊:終]





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