とあの子と二度目の冬[1]



 栄時は体調を崩してしまうことが多い。
 子供の頃からすごく病弱で、良く熱を出して寝込むことがあった。僕はその度に心配で心配で仕方がなくて、泣きそうになって、逆に苦しんでいる栄時に「大丈夫? ひどい顔」と聞かれたものだった。
 彼はあまり運動神経は良くなかった。跳び箱を跳ばせれば鼻をぶつけて顔中血まみれにしていたし、運動会の障害物競争なんて、まるで漁師が仕掛けた罠に掛かってしまった魚みたいに、網に引っ掛かったまま力尽きてぱたっと倒れてしまうことがあった。彼は物静かな学究タイプで、あまり身体を動かすことが得意ではなく、争いや諍いを好まず、絵本と生き物を愛する優しい子供だった。
 ――という話をすると、何故かみんなびっくりした顔をする。順平は「嘘吐け、お前の目にはフィルターが掛かり過ぎてる! あいつの取り柄は人外の体力と攻撃衝動だけだぞ!」と反論してきた。もちろん何度か殴って、重りを付けて寮の浴槽に沈めた。
 ジンは「いや、いくらニュクス様の言わはることでもそればっかりはアカンのです! あいつは意味もなく人の爪を、数を数えながら一枚ずつ剥がしてニヤニヤしているようなサディストの快楽殺人鬼なんですわ!」と反論してきた。みぞおちに重いのを一発食らわせた後、バリカンで剃り込みを入れて、順平と一緒に沈めておいた。まったく彼らは僕の可愛い子供を何だと思っているんだろう。栄時に失礼だ。
 どうやら僕の知る栄時と、僕の目の届かないところにいた栄時の印象ってものは、大分違うみたいだった。僕の手を離れてから十年間の栄時は、どうやら風邪ひとつ引かず、傷を負っても異様な回復能力でもってすぐに癒えて、疲れを知らず、怪力と俊足を誇り、戦闘センスが仲間内で頭一つ分飛び抜けているような、完璧な子供だったみたいだ。
 十年、彼の心のなかでは、僕のとなりにいた彼は、いつも危なげな小さい子供の姿をしていたから、僕はちょっとしたずれのようなものを感じていた。
 でも僕は去年の秋に出会った栄時の姿を思い出す。何をやっても完璧で、僕はそんな彼に大分憧れたものだった。綺麗で、格好良くて、みんなそんな彼が好きだった。
 ――今年の春あたりから、栄時はまた体調を崩してしまうことが多くなった。その理由を僕は漠然と理解している。僕が彼を離れたせいだ。死を胎内に宿していた彼は、死から一番近いところにいて、また遠い場所にあった。僕は知らず母を守っていたのだった。
 




 昨晩も帰ってくるなり、栄時はぼおっとした顔で、食事も取らずにベッドに入ってしまった。最近は大分寒くなってきたから、身体を冷やしてしまったのかもしれない。ちょっと油断するともう駄目なのだ。
 思った通り夜半過ぎから熱を出した。僕が様子を見に行くと、毛布に包まってかたかた震えていて、寒い寒いと言い続けていた。
 僕はこういう時、また彼の身体に宿ることができたらなと考える。そうすれば誰より近くで栄時を守れるのだ。でも僕はもう、きっと二度と、あの暖かくて優しい闇の中へは戻れないんだろうということを理解していた。人は二度死ぬことができないのと同じように、二度生まれるために孕まれることはないのだ。
「大丈夫? ……大丈夫だからね、僕、ちゃんとずっとそばにいるから、へいきだよ」
 僕は言う。栄時は申し訳なさそうな顔になって、「ごめん」と謝る。僕は「こんなの我侭のうちにも入らないんだから、もっと頼ってよね」と言う。栄時は寂しがりで甘えんぼうだけど、甘えることが下手なのだ。いつも自分の望むことよりも先に僕のことを気遣ってしまう。こういう時、僕は自分の不甲斐なさを痛感する。子供に信頼されるよりも心配されてしまう父親って、ちょっと情けなさ過ぎる。
「……風邪、かな。わりと気を付けてたんだけどな」
「うん。偉いね、ちゃんと自分の身体、大事にしてるもんね」
「ん……だって、綾時、心配させちゃ駄目だから」
「うん」
 僕は嬉しくなってちょっと笑う。栄時が昔よりもほんのちょっと、自分の身体に目を向けてくれるようになったことが、僕はとても嬉しい。ここにいて本当に良かったとほっとする。
「いい子だね」
「……子供じゃないから」
「うん。偉いよ」
「……ん」
 栄時は照れたようにちょっと顔を赤くして頷いて、それから小さなくしゃみをした。やっぱり寒いらしい。





◆◇◆◇◆





 翌朝、僕はげっそり落ち込みながら栄時の額にぴたっと手を当てていた。
――あっつい」
 僕は呆然と呟く。熱が上がっていた。目はとろんとして熱っぽいし、嫌な咳をしている。栄時は「へいきだよ」と何でもないふうに言うが、平気な訳はない。
「今日は寝てなさい。僕がついててあげるからね」
「……今日綾時、古文と歴史の追試じゃん。俺の心配なんかしてる場合かよ。ちゃんとテスト受けてこいよ。せっかく勉強したんだから。俺嫌だぞ、来年綾時が卒業できないとか、再来年大学で俺のほうが先輩になってるとか」
「うぐっ……で、でもそんなことよりもね、」
「綾時、駄目だから」
 すっぱり斬り捨てられてしまった。僕はこの間の試験の結果を、今更だが呪ってしまった。数学や化学、英語、世界史なんかは得意だ。僕は一応ちゃんと一度大学を出ているし、それなりに頭を使う仕事にも就いていたことがある。でも駄目だった。古文や日本史なんかは、僕にとってはまるで他の星の出来事のようなものだった。すごく苦手なのだ。
 こんなことになるんならもっと頑張っておけば良かったと思う。今更だけど。時は待ってはくれないのだ。
「はよーッス……リョージ、えーちゃん無事?」
「あ、じゅんぺ。俺は全然大丈夫。それより綾時だよ。悪いけど、ちゃんと学校まで連れてって欲しいんだ。今日追試なんだから」
「アララ、リョージくん、ぼくとおそろいだね」
「棒読みでひどいこと言わないでよ! だってしょうがないじゃない、あれだけはすっごく苦手なんだから」
「……オレっちとお揃いってそんなひどいこと? うわ、すっげ傷付く。お前ほんっとちょっとダメダメだよなぁ〜、えーちゃんを少しは見習いなさいよ。全教科パーフェクトの満点王、ウチに転校してきてから学年トップの座を常にキープする天才の親がそんなんじゃダメダメだろほんと」
「ダメダメって何回も言わないで。ぼ、僕だってちゃんと頑張ったんだから」
「ふーん。古文は?」
「……十三点」
「おっ、スゲ、二桁じゃん。オレ八点。歴史は?」
「……十三点」
「……お前、それはアレか? 十三番の自分のアルカナにちなんでるのか? わざとやってるのか? それとも何かの呪いか? オレっち十五点。よっしゃ、リョージに勝った」
「あぁあ、すっごいくやしいっ……!」
「……底辺の争いは醜いから止めろよ。もう、早く行けってば。遅刻するから」
 栄時に怒られてしまった。僕は本当にダメなお父さんだ。そこで僕はふと、順平が何でもない顔をして栄時の部屋に入ってきていたことに思い当たり、慌てて彼を廊下に押し出した。
「ちょっ、なに女の子の部屋に勝手に入ってきてんの君って奴は! ダメなんだからね、うちのちびくんだけは! ちびくん、君もね、年頃の女の子なんだからもうちょっと気を付けて。順平なんかに、そんなカワイイパジャマ姿を見せちゃダメだ。ごめんね、すぐに追い出すからちゃんと毛布被ってなさい」
「えっ、何そのすっげー失礼な言い草! なんかむかつく! オレはえーちゃんを心配してだな、下心なんかほんとなくてマジで、」
「ダメだ。君とおんなじ空気なんか吸ったらちびくんが妊娠する。うちのちびくんは繊細なんだからね」
「繊細とかそーいう問題じゃねえじゃん! ちょっとえーちゃん、何か言ってやって!」
「もー、朝から元気だなお前ら……頭痛いんだから静かにしろよ。俺は男だし、そういう変な冗談あんまり好きじゃない」
 僕は順平と顔を見合わせて、栄時を見る。自然、視線はその身体に行ってしまう。柔らかい輪郭、膨らんだ胸、綺麗な顔(これは元からだ)、細くてしなやかな身体のライン(これも元からだ)、僕らよりも大分小さい背丈(これもだ)。どこからどう見たってかわいい女の子だ。
「……なに?」
「あ、いいいいやっその、うん。……ごめん、な?」
「順平、僕のちびくんをいやらしい目で見ないでくれるかい。宣告するよ」
「宣告好きだなお前……! そ、そろそろ出ようぜ。ガッコ遅れるし、うん」
「行くわけないでしょ、僕にはちびくんの看病って何より大事な役目が――
「だから大丈夫だってば。俺もう子供じゃないし、ちゃんと寝てれば治るよ。薬も飲むから。順平、頼んだ。今度ワック奢るから、綾時学校まで連れてって」
「よしきたえーちゃん! でもホントだいじょぶか? マジ無理すんなよ?」
「大丈夫だから。大丈夫じゃないのはお前らの追試」
「縁起でもねーこと言うなよえーちゃん……! 今度はなんとかなるって! たぶん!」
 そして僕は順平にマフラーを引っ張られて、ずるずる引っ張られていく。
「はーなーしーてー!!」
「行ってらっしゃい、二人とも。綾時、心配掛けてごめんな」
 『ごめんな』とかそういうのは、ちゃんと治ってから聞きたいと僕は思ったが、成す術なく栄時を残したまま、学校へ連行されていく。





「え、アイギス? なに言ってんの? 明日まで整備でラボから戻れないって言ってたじゃない」
 登校してまず、ゆかりさんからそれを聞いた途端、僕はさあっと青ざめた。そうだ、忘れてた。彼女が苦しんでいる栄時を放っておくわけがないから、きっとついててくれるだろうと考えて、さっき無理に自分を納得させたばかりだったのに、それじゃ今日は本当に栄時は寮のなかで一人きりなんじゃないか。僕は慌てて教室を出ようとして、また順平にマフラーを掴まれた。
「離してー! かえるっ、えーじが! えーじが死んじゃううー!!」
「心配なのは分かる! でも風邪くらいじゃ死なねーから! つかお前はどこまで過保護なんだ?!」
「うう、えーじ、えーじっ……」
 僕が首を絞められて泣いている間にも、チャイムが鳴って、鳥海先生が入ってきて出席を取り始め、なんとなく今更帰り辛い雰囲気になってきた。
「望月さん、欠席。望月(栄)くん、欠席。望月(綾)くん……は、アレなんでソレ泣いてるの」
「イヤ、こいつすげーブラコンでその、今日風邪引いて寝込んでる兄弟が心配で心配で仕方ねーらしッスよ」
「ふぅん……今日は望月ハットトリック一族はグダグダね。まったく、ややこしいっての。大体あんたたちね、転校するなら一気に攻めてきなさいよ。まぎらわしいったら……もう、カブって面倒だから他のクラスに分散させて欲しいもんね。エージたん……じゃなくて望月(栄)くんだけで充分だわ」
「先生、今あの、『エージたん』って」
「聞こえないわね」
 3-Fには三人の望月がいる。
 まず僕望月綾時、それから兄弟ってことになっている望月栄時、親戚ってことになってるアイギス望月。春休みが終わって進級したての頃は、みんな随分びっくりしたものだった。いきなりまた出戻ってきて、学園のアイドルみたいなふたりと、家族としてひとつ屋根の下に暮らしていることをすごく羨ましがられたりしたものだった。もっとも僕らは寮暮らしなので、屋根の下にはほかにも沢山住人はいる。
 春休みが明けてから急に仲良くなった僕とアイギスのことについても、いろいろ言われた。それに関しては、アイギスの「十年前に大喧嘩をしました。でも栄時さんのおかげで仲直りしました」という、大雑把だけど決して嘘じゃない説明が受け入れられている。まるで僕が女の子にひどいことをしたような内容がちょっと気になったけど、まあ間違っていないんだからしょうがない。
 僕らはすごく仲の良い家族として受け入れられていた。でもきっと誰も、僕らがほんとは『お父さんとお母さんと子供』なんて関係だってことは知らない。すごく仲良しの兄弟として知られている。






 もう本当に、追試なんてやっている気分じゃない。僕は、寮のあの何もない部屋のなかで、ひとりきりでベッドに伏せっている栄時を想像してみた。あの子は寂しがり屋だから、きっと今頃すごく心細い思いをしているだろう。耳がきんとするような冬の静寂に耐えきれなくなって、身体を起こし、天井をぼおっと見上げて、溜息を吐く。
 『綾時、早く帰って来ないかな』と彼は言う。気丈に送り出してはみても、彼は熱のせいですごく弱気になっているだろう。そして窓から外を覗く。そこには行き交う車や、背広を着て歩いていくサラリーマンの姿が見える。『まだ帰ってくるわけないよな』と彼はちょっと苦笑する。それから咳をして、小さな声で僕の名前を呼ぶ。でも僕は今まだ学校にいるから、帰ってはあげられないのだ。
「ああぁあ……」
 ダメだ。想像すると更にいたたまれなくなってきた。生まれたばかりの子犬を棄ててしまう飼主になったような気分だ。
――望月くん、ちょっと聞いてますか? ねえちょっと、授業中にぼーっとしない」
「え? あ、はい……」
 僕は呼ばれてのろのろ顔を上げる。先生が僕をじっと見ている。男性教師ならこのままトリップしていたろうけど、相手は女性だったから、綺麗な声に呼び戻される。
「もう、さっきから呼んでるんだから。ほら前に出て、ここ解いて」
「はい……」
 僕は頷き、のろのろ立ち上がる。隣の席の女の子が、僕を心配そうに見て、「大丈夫?」と訊いてくれた。僕は無理に笑って、なんとか頷く。たぶん大丈夫。栄時は大丈夫じゃないかもしれないけど。
「先生、望月くんその……あんまり体調良くないみたいだし、他の子のほうがいいんじゃないですか?」
「だよね、すっごい辛そうだもん……先生ちょっとひどくない?」
「ねえ。こーいう時は順平くんとか指名してさ、面白い答えを期待したほうがいいんじゃない」
「ね、今日カリスマいないから教えてもらえないもんね」
「だーっ、オレっちだってやるときゃやれるっつの! エージがいなきゃお手上げ侍みたいなことゆーな!」
「えーじ……僕のえーじ……」
「あ……ダメだこれ。リビングデッドがいる。りょーじー、還ってこーい」
「望月って、ちょっとびっくりするくらいブラコンだよな……」
「しょーがねーよな……だってお前、もし栄サマみたいなカリスマが兄弟にいてみろ。オレ毎食フルコース作るぞ」
 僕はぼんやりしながら黒板をチョークで引っ掻き、数式を解いていく。まだ午前中で、あと何時間もの間、まだ寮に戻ることはできないのだ。やっぱりここは抜け出して、帰ってしまうべきだろうか。でも追試をすっぽかしたりしたら、また栄時に怒られる。
――はい、良くできました。戻って……あれ、望月くん?」
 大体僕はちょっと情けなさ過ぎる。子供より頭の悪いお父さんってどうなんだろう。でも、それは栄時の頭が良過ぎるのが問題なのだ。あの子はちょっと賢過ぎるんだと思う。
 なんでもできるし、なんでも理解する。うちの子は天才なのだ。あの子が駄目なのは、サンタさんとカマキリくらいなものだ。ちなみにカマキリは僕も駄目だ。
 でもサンタさんへの誤解は去年のクリスマスに解けたらしく、今年は来てくれるのを楽しみに待っている、らしい。「クッキー焼いてあげるんだ。すごく忙しくて大変そうだから。あ、でも影時間が無くなったからもう来てくれないのかな」と悩んでいた。
 まったく、なんであの子はあんなに可愛いんだろう。思わず抱き締めてしまいそうになった。でも駄目だ。サンタさんの正体、実は僕なんです、なんて言える訳がない。僕は彼の夢を守るためなら命だって賭けられるのだ。
「あの……望月くん? なにこれ? こんな問題あの、出されたって先生、解けないんですけど。あの先生ね、数学好きだし、数字も大好きなの。ほんとよ。でもあの、出たのも普通の大学だしね、わかんないこともあるの、数学者じゃないからね。ちょっと本当に、もう赦して欲しいのね。当てちゃってすみません。ごめんなさい。先生やっててごめんなさい。恥ずかしいです」
「……望月、追試とか言ってなかったか? 頭悪いんじゃねぇの? アレなに? 右手になんか憑依してんの?」
「綾時君が頭悪いわけないじゃない! 古文と歴史以外は全教科満点だったって。あれきっと先生が悪いんだと思うな」
「あの二教科さえなきゃ、栄サマと学年トップ争いだったもんね。さっすがカリスマの兄弟よね」
「つーか、望月兄弟、すげー……」
「おいリョージ、還ってこーい!」
「あいたっ」
 ふいに頭に消しゴムが投げ付けられて、僕ははっと我に返った。今僕は何をしていたんだったか、栄時のことで頭がいっぱいで思い出せない。確か、授業を受けていたのだ。
 僕はなんでか教室の前に立っていた。黒板には白いチョークで数式や英文や図式が書かれている。僕の字だ。内容はほとんど授業に関係がなさそうなものだった。隣では先生が泣いている。僕は慌てて、「どうしたんですか」と訊いた。
「あ、あれっ? すみません、ぼーっとしちゃってて。先生、大丈夫ですか? 美しいあなたに涙は似合いませんよ」
「教師……辞めようかなあ……」
「え、ええっ?」
 僕は困惑してみんなのほうを見たが、みんなも変な顔をして僕を見ている。女の子たちは「綾時くんすっごーい!」と誉めてくれたので、僕は単純に嬉しくなって、笑って手を振った。なにをやったのか覚えてないけど。





戻る - 目次 - 次へ