お父さんと僕と愉快な誘拐犯[2]
「おい、無事か、お前ら」
荒垣先輩が、携帯を折り畳んでコートのポケットに仕舞い込んで、僕らを呆れた目で見ている。真田先輩が「そんなわけないだろ」と文句を言った。
「無事に見えるかシンジ」
「とても痛いです。……真田先輩、呪います」
僕は溜息を吐いた。本の束を抱えて、前が見えず、えっちらおっちら歩いてくる真田先輩と衝突して、雑巾がけ担当の僕はバケツをひっくり返して大変なことになってしまった。制服がびしょ濡れだ。
「もー、ちゃんと前見て歩いて下さいよ」
「見ていたぞ。前を向いて歩いていた。ただ見えなかっただけで」
「先輩ほどの人なら、心の眼で人の気配を察知してください。フェザーマンはこないだ目隠しされても敵の気配を辿って戦闘員を倒してましたよ。格好良かったです」
「むっ、それもそうだな。すまん黒田。今度詫びにプロテインを奢ってやろう」
「いりません。もっといいもの奢ってください。お菓子とか。ああ先輩、靴も服も濡れてませんね。良かった」
僕はほっと胸を撫で下ろした。僕の制服なら別に汚れたってそう目立たないが、真田先輩の私服は、相変わらず絶対に着たままカレーうどんを食べに行けなさそうな、真っ白のスーツなのだ。埃混じりの汚れた水なんか掛かったらひどく目立ってしまうだろう。洗濯も大変そうだ。クリーニングに出さなきゃならないだろう。
床に溜まりになってしまった水を雑巾で拭っているところで、『しょーがねーな』って顔をした荒垣先輩に引っ張り起こされて、「テメーそんな格好のままでいるな」と怒られてしまった。
「風邪引くだろうが。そんくらい分かるだろ」
「はい……あ、連絡してもらっちゃってすみません、ありがとうございます。今日携帯忘れちゃって。うちの綾時すごく心配性で、帰りが遅くなったら泣いちゃうと思うんで」
「馬鹿野郎、親父さんを呼び捨てにすんじゃねぇ」
「……綾時さん?」
「……父さんでいいだろうが。おいアキ、なんか服の替え貰ってこい」
「あ、僕が行きますよ。ちょうど手が空いたとこですから」
天田がぱたぱた資料室の扉を開けて、広い廊下へ出て行く。僕と真田先輩は、美鶴先輩のお見舞いにきたついでに、美鶴先輩の仕事部屋の整理と掃除を任されてしまったのだ。
天田はさっきまで美鶴先輩に林檎を剥いてあげていた。僕が横で「そういうのなんか大人っぽいな」と誉めると、彼は「まあ大人ですからね」と得意そうに言っていた。僕はいつもはまるかじり派だ。へたも種も食う。と言ったら、そういうのはあなたと幼馴染がただけですよと返された。そうなのか。
「大体種なんか食べたらダメですよ。お腹の中で芽が出てしまったらどうするんですか」
「えっ……芽、出るのか?!」
「出るんじゃないですか? きっとそのうち何年も掛けて育って、口から生えてきますよ」
「う、嘘だろ。そんなの嫌だぞ。ずっと口開けっぱなしでいなきゃいけないじゃん」
「自業自得です」
という会話をさっきやった。思い出して、僕は憂鬱になる。本当に生えてきたらどうしよう。
不安がっているうちに、天田が帰ってきた。彼はなにやら重たそうな服を抱えている。そんなに本格的にちゃんとした服じゃなくて、ただシャツとズボンがあればいいだけなんだけど。僕はちょっと申し訳なくなってしまった。
「ただいま、服お借りしてきました。ちょうどそこでメイドさんに会って」
「……おい、これってメイド服じゃないのか。黒田は男だぞ」
「いいんじゃないですか? きっと似合うし」
「そういう問題じゃない。いいか天田、そういう倒錯した嗜好は駄目なんだ。もっと硬派に生きろ。俺たちがお前くらいの時には――」
「ああ、天田悪い。ありがとう」
僕は礼を言って、天田から服を受取った。この際着られればなんだっていい。美鶴先輩に頼んだら、袖を通すのが申し訳なくなってしまいそうなスーツとかが出てきそうだから、ここは天田の判断が正しいところだろう。僕は庶民なのだ。
「お前も普通に着るんじゃねえ! せっかくアキが珍しくまともなことを……え?」
荒垣先輩が怒鳴り掛けて、そこでぴたっと止まった。硬直している。真田先輩も固まっている。天田もぽかんと口を開けている。
「どうした?」
僕は制服の上着を脱いで、シャツのボタンを外しながら、首を傾げた。なんでそんな宇宙人でも見るみたいな目で僕を見るんだ。
「く、黒田」
「はい」
「お前は女、だったのか」
荒垣先輩が、ものすごく居心地悪そうに、ごほん、と咳払いして、僕から目を逸らしながら言った。真田先輩が「そんなわけはない!」と叫んでいる。
「馬鹿な、俺は見たんだ! 真夏の浜辺でも、深夜の露天風呂でも、あそこにあったのはまぎれもなく男の筋肉だった! 胸板だ! なんだその軟弱な胸は?! ――そ、そうか。黒田、お前そう言えば、最近体調を崩して部活に出ていないと言ってたな。鍛錬を怠ると、鍛えた筋肉はそんなふうに……俺も気を付けよう」
「天田、とりあえずアキを蹴っとけ」
「了解です荒垣さん。なんですかっ、なんであなたそんな美味しい目に? 一緒に海? 一緒にお風呂? なんて羨ましいっ……!」
「ご、誤解だ! 俺は無実だ! おい黒田っ、何とか言ってやれ! というか、年頃の娘が人前で着替えるな! 破廉恥な!」
「天田、なんかよくわかんないけど、真田先輩はなんにもやってないぞ。ただちょっと美鶴先輩たちと、お風呂でバッタリ顔を合わせて処刑されただけで」
「アキいいっ! テメ、女の風呂覗くような奴に成り下がりやがったのかっ!」
「違います荒垣先輩。真田先輩は覗いたんじゃなく、もうどっぷり混浴でした」
「なお悪い!」
「黒田っ、お前これ以上誤解を招くようなことを言うなっ! それよりなんだその身体は?! 服を着ろ、服をっ!」
「はあ」
僕は頷き、とりあえず服を着ようとして、背中のチャックが上まで上がらなくて、困ってしまった。
「あだだ……先輩、ファスナー上げてくれませんこれ」
「え」
荒垣先輩と真田先輩が顔を見合わせて、僕を見て、また顔を見合わせた。
「アキ……お前、やれ」
「なっ、シンジッ、なんで俺がっ!」
「可愛い後輩だろうが」
「うぐ……」
真田先輩がぎこちない、機械みたいな動作で僕のところへやってきて、のろのろとファスナーを上げてくれた。僕は「ありがとうございます」と礼を言う。
「……その、黒田」
「はい」
「お前は、女なのか」
「男ですけど、なんかこないだ気がついたら女子になってました。ユニバースだから」
「そ、そうか。ユニバースだからな。そうか、うん」
僕らがわいわいやっていると、うるさかったのか、仮眠を取っていた美鶴先輩が起き出してきた。寝起きでぼーっとした顔をしている。彼女は僕を見るとしばらくなにか深い思考の渦の底に潜ったような顔になったが、やがて頭を振って、「何だそれは」と言った。
「あ、すみません、制服濡らしちゃったので、服借りちゃいました」
「いや、そういうことじゃないんだ。そうじゃない。そうじゃなくて、」
美鶴先輩はすごく難しい顔をしていたけど、「まあいいか」と、なんだかちょっと赤い顔をして言った。
[綾時、巌戸台分寮]
「――黒田くんの反応、ありません。やっぱり黒沢さんに連絡したほうが……」
「や、ヤベーっしょ。もしかしたらあいつ、宇宙人と間違えられて、日本政府に拉致られたのかもしれねーし……今頃解剖されてたりして……」
「順平、君あとで絞首刑ね。風花さん、ありがとう。チドリさん、君のほうは?」
「はい、ニュクス様。反応、ありません。ただ……」
「ただ?」
「この港区のなかでは、私のメーディアに対して、最近常にジャミングが発動されています。この性懲りもない、アホみたいな嫌がらせは、カオナシの仕業に間違いないかと」
「……あの……チィちゃん、またあいつとなんか喧嘩、したの?」
「二日前、カオナシが私のプリン、勝手に食べたから」
「あ、ごめんね、うちの子が……」
「仕返しにパンツの中にカマキリの卵を入れたら、口を訊いてくれなくなった」
「…………」
なんでチドリさんは、ことあるごとにあの子のパンツの中になんか入れるんだろう。
「と、とにかく良かったじゃん。えーちゃんのペルソナが発動してるってことは、まだ生きて――ひいっ痛い! ヒゲ抜かないでリョージさん!」
「縁起でもないこと言わないでよ! 生きてるにきまってるでしょ?! 無事なの!」
僕はまた心配で心配で、目に涙がじわっと滲んできて、たまらなくなってしまった。栄時はきっと今頃すごく怖い思いをしてる。僕はなんでなんにもできないんだろう。
「その、さっき掛かってきた番号、分かります?」
風花さんが心配そうに僕を覗き込んできてくれた。僕は「うん」と頷く。
「これ、発信元分かるかな、風花さん……」
「って、そうだよ! こういうオオゴトんなってる時こそ桐条先輩じゃね?!」
「あ」
僕はぽんと手を打つ。そうだ、あの人なら、きっとなんとかしてくれる。
「そ、そうだ。誰か番号知ってる? 僕教えてもらえなかった。美鶴さん、ガード固いよね」
「オレっちも……つーか、桐条先輩にケータイ番号訊こうってお前の勇気に感心する。でもあの人なら、エージの為ならミサイルでも撃ってくれそうだもんな」
「あ、私持ってる、番号」
「ゆかりッチ! 神!」
「ありがとうございますゆかりさんっ!」
「掛けるね。えーと、――あ、もしもしー? 美鶴先輩ですか? ……アレ? 声ちょっと疲れてません……? 風邪ですか? えっ、倒れたって、大丈夫なんですかそれ……え、お見舞いって、誰が? え? なにそのメンバー? ……あの先輩、もしかして、その顔ぶれのなかにうちの栄くんいたりしません……?」
僕らはわけがわからず、顔を見合わせて首を傾げた。
[栄時、美鶴先輩んち]
「まあメシでも食えや」と言われて、久し振りに荒垣先輩の手料理をごちそうになっていたところに、美鶴先輩の携帯に電話が掛かってきた。また仕事絡みなのかな、大変だな、と考えていたけど、どうやら違うらしい。
「――は? ああ。いるぞ。それよりなんだかその、ちょっと見ないうちに、大分変わったな。彼は。え、ユニバース? そうかなるほどな」
僕は首を傾げた。呼ばれたろうか。
「僕おでんの卵って好きなんですよね」
「しっかり食えよ天田。食って食ってデカくなれ」
「無論そのつもりです。まず手始めに黒田さんを追い抜かさなきゃなりませんね。あと一年くらいかなあ……」
「そんな悲しいことを言うな。俺だってまだまだ成長期だ。これから伸びる。ちゃんと毎日牛乳飲んでる」
「でもあなたもう十八でしょう?」
都合の良い時だけ大人扱いされた。うんざりだ。
僕らは引っ張り出してきた机の上に鍋を置いて、おでんを囲んでいた。荒垣先輩は「寝かせねぇと味が染みこまねぇ……!」と嘆いていたが(この人のこの主婦っぽさは何なんだろう)、十二分に美味しい。というか、すごく美味しい。コツを訊くと、ダシの配合率と圧力鍋なんだそうだ。さすがだ。なんだか何を作った時もその答えが返ってくる気がするが。
美鶴先輩は「テーブルクロスに新聞紙……?!」とか「おいこの袋のようなものはなんだ? 飾りか? それとも食べられるのか?」と非常に興味津々だ。大喜びだ。この人は庶民の味を娯楽かなにかだと思っているらしい。
それはまあともかく、僕の家でも、「おふくろの味」ってのはわりとみんな大好きだ。鍋物なんか作ると、製作者はまず「お母さん!」とか泣き付かれる。なんだかなと思うけど。
「おい黒田、なんだかお前妙なことになっているぞ。ちゃんと連絡は入れたんだろうな」
「えっ? あ、はい。さっき荒垣先輩が」
「心配すんなつっといたぞ。なんかあったのか?」
「それがだな。良く分からんが、誘拐されたとか騒ぎになっているらしい。警察沙汰一歩手前だそうだ」
「は?」
「なんだかものすごく人相の悪い男に車に連れ込まれて攫われたそうだ」
真田先輩が、美鶴先輩が、天田が、つられて僕も、荒垣先輩の顔を見る。確かに人相が悪い。何人か殺してそうな顔をしている。いい人なのに。
「おいっ……なんでそこで俺を見る?!」
「……お前、望月と面識が無かったんじゃないか? まだ顔を合わせていなかったろう」
「荒垣さんて、顔と素行で損してますよね。中身は見た目と正反対なのに」
「お前の人畜無害な見た目を少し分けてやれ、天田」
「先輩、大丈夫ですよ。わかる人にはちゃんとわかってますから」
僕らはフォローしているつもりなのだが、荒垣先輩は機嫌を損ねてしまったみたいだ。この場合見た目がアレだって言われてショックを受けてるのか、いいひとだって言われて照れてるのか、どっちだろう。
「しょうがないな……黒田、望月だ。代われ。心配を掛けてすまなかったとちゃんと謝っておけよ」
「はい」
僕は頷いて美鶴先輩から携帯を受けとって、耳に当て、なんだか変なことになっちゃったな、と居心地悪い気分で、「りょーじ?」と呼び掛けた。あ、『お父さん』て呼ばなきゃならないんだっけ。荒垣先輩にちょっと睨まれてしまった。
『ちっ、ちびくん! 無事かい?! ひどいことされなかった? て、貞操は無事かい? 赤ちゃんデキてないっ? その、たとえ君が汚されちゃっても、僕は君が変わらず好きだよ。愛してるから、だから自暴自棄にだけはならないで。生きててくれさえすればいいんだから……!』
綾時の声は涙声で、なんだか内容もかなり混乱しているようで、わけがわからない。なんだか心配させちゃったのかな、と僕は考える。
「え? なにそれ。ごめんな、なんか心配掛けたみたいで。学校の帰りに偶然真田先輩に遭ってさ、先輩免許取ったばっかりとかで、そのまま美鶴先輩のお見舞いについてきてたんだ。そのまま仕事の手伝いとかしてた。先輩たち、みんな相変わらずだぞ」
『……え?』
回線の向こうで、綾時の呆けた様子がありありと伝わってきた。
[綾時、巌戸台分寮]
僕は固まってしまった。栄時の声は相変わらずで、今はちょっと幸せそうで、『荒垣先輩におでん食わせてもらってるー』とか無邪気に言っている。
僕はぐにゃっとなって、座り込んでしまった。安心したのかなんなのか、気が抜けちゃったとか、そんな感じだ。
僕はすごく心配して心配して、最悪のことまで想定してお先真っ暗になっていたのに、栄時の命にもし何かがあったら人類みんな滅ぼしてやるとか考えてたのに、あの子のこの楽しそうな声って何なんだろう。
僕がもう使いものにならないと踏んだのか、順平が僕の手から携帯を取り上げて、耳に当てた。
「あーえーちゃん? かわりました。伊織順平です。……その、何してんの?」
栄時の声が、かすかに通話口から漏れて聞こえてくる。
『あ、じゅんぺ。美鶴先輩んちで、なんかいろいろ手伝い。真田先輩と荒垣先輩と、天田も一緒。なんか心配掛けたみたいで悪い……けど、俺が誘拐なんかされる訳ないじゃん、最強なのに。はは、ばっかだなあお前ら』
「……『はは、ばっかだなあお前ら。俺が誘拐なんかされる訳ないじゃん』らしいデスよ?」
「…………」
「『おでんホント美味い。荒垣先輩最高。泣きそう』って言ってマスよ?」
「…………」
僕はのろのろ手を伸ばし、順平から携帯を奪い返し、耳に当てた。僕は自分の手がちょっと震えているってことに気付いた。
「――栄時……」
『あ、りょーじ、』
「……帰ってきたら、君僕の手で処刑するから」
『……えっ、ちょっ待っ綾時っ、俺が何をしたって――』
「まったくもうっ、どれだけ心配したと思ってんのっ!」
僕は勢い良く電話を切って、「あの子はもう!」とかなり憤慨してしまった。無邪気なのは可愛いけど、僕はほんとにほんとに、ものすごく心配したのだ。ほんとに、たまにはちゃんと怒ってやらなきゃならない。
「……自業自得、です」
「……死ねばいいのに」
「可愛い子はたまに苛められるくらいがいいよね」
「あの……あんまり可哀想なことはしないであげて下さいね……」
女の子たちがほっとしたように、もしくは恨み半分でそんなことを言っている。
[順平、巌戸台分寮]
エージが帰ってきたのは夜九時過ぎだった。
影時間にウロウロしてたオレらにしてみればまだ早い時刻だったが、これでも「遅くなってスマン」って感じらしい。真田先輩がリョージに謝ってた。
エージは嫁入り前の箱入りのお嬢かよと突っ込もうと思ったが、ちょっと考えてみたら不覚にも『そうだったかも』という気分になっちまって、なんだか無駄になにかに負けたような気分になった。頑張れオレ。
寮の外に乗り付けた車の中ではまだ一悶着あるらしく、エージの「帰りたくないー! お父さんが怒ってるー!」という声が聞こえてくる。あいつはテストで0点を取ったちっさい子供か。可愛いなこの野郎。
しばらくして、荒垣さんに脇に抱えられたエージが、泣きべそで分寮に帰ってきた。その途端、寮にいたメンバーが全員もれなく固まった。オレも固まった。なんでお前はメイド服なんか着てるのかと。可愛いじゃねぇかと。
「すまねぇな、親父さん。コイツを返すのが遅くなった」
「君は、さっきの凶悪誘拐犯っ!?」
「…………」
荒垣さんがリョ―ジに指を差されて凶悪誘拐犯呼ばわりされ、エージを降ろしたあと、そのままラウンジの奥で尻尾をぶんぶん振っているコロマルに、取り縋るように抱き付いている。
コロマルがあの人を慰めるように、「くぅーん」と泣いている。あの人はあんな外見だが、わりと傷つきやすい繊細な人間なのだ。メシ作るの上手いし。
「シンジ、そう落ち込むな。俺たちはちゃんとお前のことをわかっているぞ」
「そうですよ、元気出してくださいよ。今日はこのままコロマルお持ち帰りしちゃいましょう。一緒に寝ていいですから。なっ、コロマル」
「ワン!」
真田さんと天田とコロマルが、荒垣さんを慰めている。あそこだけ空気が違う。
そしてこっちにも、また別の意味で空気の違う奴らがいる。リョージとエージだ。リョージはものすごくおどろおどろしいオーラを纏っていて、お前ニュクス・アバターモードん時より大分怖いぞ、とオレはツッコミたかったが、怖くて言えない。
「栄時……なんて格好、してるの……?」
「えっ……あの、制服濡らしちゃって、美鶴先輩んちで服借りて、」
「……服濡らしちゃうようなナニをやってたの……?」
「え、あのごっ、ごごごめんなさい、調子乗ってすみません、」
あのエージが『調子に乗ってすみません』ときた。マジビビリまくった顔をしている。涙目で、顔は真っ青だ。
あいつはそういう顔をすると、ものすごくいじめたくなってしまう。いじめて君だ。
リョージに大分誤解されているようだったが、エージ本人は欠片も自覚ない感じで、すみませんすみませんと謝っている。そしてそのままリョージにひょいっと抱えられてお持ち帰りされる。
ふと思ったが、エージはちょっといろんな人間に気安く抱えられ過ぎだ。不憫になってきた。あいつは身長180センチの逆三角形のマッスルボディを夢見る漢なのに、いつまでもちまちましていて、最近成長したトコと言えば、あっちょっと乳デカくなったんじゃね、って感じなのだ。根本的なところでなんか違う。ズレてる。
オレらは階段の上に消えていくリョージとエージを見送って、なんだかくたびれた心地で、「まあ一件落着って奴でいいんかねぇ」と顔を見合わせた。
「……栄くん、ちょっと可哀想だったかな」
「ま、リョージがえーちゃんにご無体できるわきゃないじゃん? どうせデコピンとかそんなだろ」
「そうですよね」
オレたちは、そう思ったのだ。でも、
「ぎゃああぁあっ!!」
「…………」
「ごめんなさ……すみま……もうしません、お願いやめて赦して、」
「…………」
「りょうじいいぃっ、おれっ、それ死んじゃ……わああぁあん!」
「…………」
「生まれてきてすみませんでした!!」
「…………」
皆、さあっと青ざめる。最強のエージの絶叫なんか初めて聞いた。
「……少し、行き過ぎ、でしょうか。後で栄時さんの心のケアが必要かもしれませんね」
「悪い……俺たちは、そろそろ帰る。な、なぁシンジ」
「あ、ああ……そうだな」
「ええ、もうちょっといません? せっかく面白いものが見られるかもしれないのに」
「……あの、カラオケ、とか、いかね? すげーオールしてー気分」
「いい気味……」
「まあ、壁越しに断末魔とか、聞きたいもんじゃないよね……」
一体、上で何が起こってるんだ。
[順平、通学路]
翌朝、いつにも増して、エージが猫背だった。
「えーちゃん、その、だいじょぶ?」
通学路を歩きながら、オレは言う。エージはまだ真っ赤な目で、ふるふる首を振る。『だいじょぶくない』と言っているらしい。
「うう……お尻痛い……ものすごい叩かれた。俺なんにもしてないのに、りょーじのばか……」
「お尻叩かれたんだ。そそ、そっか。うん」
「百回も叩かれたんだぞ! 真っ赤になってる……ううう」
かなりヘロヘロになってるエージには悪いが、オレはちょっとほっとしてしまった。尻百叩きくらいなら、まあいいんじゃないかと思う。断末魔みたいな悲鳴が聞こえたから、てっきり殺人事件が起こったのかと思っていた。
それよりリョージが、あのエージに対して、まず間違いなく仲良し親子以上のなにかを抱いているだろう男が、エージのメイド服だとかそんないろんなものにぷつっとキちまって、一線を越えちまったんじゃなくて、良かった。
エージはこんなナリだが、まだまだお子様なのだ。
オレにとってエージは一種の聖域なわけで、ちゃんとまっとうに幸せになれよー、って感じなのだ。近親相姦とかはマズいだろう。
いや、万一エージもちゃんとオッケーって感じになってアリだとしても(心苦しいが)、もうちょっと時間が必要だろう。だってこいつの中身はアレだ、天田よりもガキんちょなのだ。頭の中身って問題で。なんだかオレのほうが、娘の心配をする親父の気分になってきた。あれ、娘だっけ息子だっけ。なんかもうどうでもいい。
オレはちらっとエージを見て、「何分だっけ」と腕時計を見たエージの細い腕に、ミミズ腫れみたいな痕があるってことに気付いて、ものすごく慌ててしまった。
「ああああの、えーちゃん? 手首のソレは何ですカ?」
エージは『もー聞いてくれよ』って顔をして、むくれている。その顔はすごくガキっぽい。でも手首のソレはなにエージさん。
「ああ、ひどいだろこれ、縛られてさ。首輪まで付けられて、繋がれて、ベッドに。俺はコロマルじゃないんだぞ、まったくもう」
「……え。ちょっ、マズいだろ。ヤバいだろ。お子様相手にそのプレイはダメだろ……!」
「だよな。怒るなら口で言ってくれればもうしないのに。俺だっていい大人なのに、あんまりだ」
「そ、それその、えーちゃん? 怒られて、たんだよな? お仕置き、なんだよな。……その、突っ込まれてたり、しないよね?」
「は? なにに?」
エージがきょとんとして、首を傾げている。オレはわざとらしく咳払いして、「いやなんでも」と濁しておいた。『ちんこ突っ込まれてませんヨネ』、なんてこの子に訊けるわけがない。聖域なのだ。
そうしてタラタラ歩いていると、リョージが「や、おはよー」とやってくる。昨日の夜とは打って変わって超ゴキゲンだ。お前は一体エージに何をしたんだ。エージ、お前の顔を見た途端、ビクついてオレの影に隠れてるんですけど。
「あれ、どしたのちびくん?」
「うっ……いやその、お父様、……なんでもないです」
お父様ときた。
「あれ、まだ痛い? やり過ぎちゃったかな。でも僕ほんとに怒ってたんだから。もう心配させないでよ」
「うう……もう悪いことしません」
いやエージ、お前はなんにも悪くない。悪いことはしてない。
なんだかこいつはいつも大人の理不尽に振り回されているような気がする。可哀想な奴だ。涙目が痛々しい。
「ふふ、君にそういう顔をされると、僕なんだかいろいろハジけちゃいそう」
「ハジけんな! ちゃんと大事にしてやれよお子さんを! こんないい子どこ探してもいねーぞ!」
「……んっ」
「えーちゃあぁん! 顔を赤らめて頷かないで! 帰ってきて! お前までハジけちゃダメっ!!」
「……でも、綾時に怒ってもらえるのは、ちょっと嬉しいと思うし」
「いやいやいや、怒っても普通は首輪とか緊縛とかナイから! ありえねーから!」
「心外だよ。まるで僕がいつもちびくんを縛ったり結んだりしてるみたいに言わないでよ。いつもは大事にしてるもの。ちゃんと、すごくすごく優しくしたいと思ってるんだ。でもごめんね、君があんまり可愛くて、たまにキレちゃって、僕は自分が恥ずかしいよ」
「……ううん。綾時なら、俺、いいから」
「君らそれ朝から通学路でする話じゃないから! なんかお前らの声でそういうこと言うと、変にやらしく聞こえんだよ!」
なんだこの親子は、この親子はなんなんだ。オレは「もう勘弁してください」と泣きそうになりながら訴えた。聖域はなんとかこの手で守らなきゃならんと使命感に燃えつつ。
[お父さんと僕と愉快な誘拐犯:終]
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