ンゴンリンゴン、鐘が鳴る




 声がきこえる。
「十年だ。私は十年の間、母胎に育まれる私を見守ってきたんだ。私は彼の中に、私のあるべき姿を見た。あれは私にもっとも相応しい姿なんだ。母は私の望みを何でも叶えてくれる。私の望むままに。十年前、あの子が滅びの皇子を孕んだあの時、私は正直絶頂の恍惚を感じたものだよ。大いなるものの啓示を聞いたんだ。愚かな人類が滅びた後の世界で、私は皇となるべく選ばれたんだ」





 声がきこえる。
「そんなものは貴様の妄想だ! 崇高なものじゃあない、貴様とはなんの関わりもない、ただのシャドウだ!」





 ぼくのおなかのなかから、声がきこえる。ドンドンドアをたたく音。心臓の音。ぼくが、こわくてこわくてたまらない音。でもその中でぼくは声をきく。『おかあさん、おかあさん』と甘えた声をだして、くすぐったそうにくすくすわらっている。
 ぼくはやわらかい夜のなかで、ころころころがってはしゃいでいる、ぼくとおんなじくらいの子どもの手をつかんで、きゅっとひっぱりあげる。「こぉら」とおこる。
「いつまでここにいるの。もう行かなきゃ」
 その子は急におびえた顔になって頭をふる。『いやだよおかあさん』とぐずりだす。
『いきたくない。僕、おかあさんとずうっといっしょがいい』
「でもね、もう大きいんだから、ここはせますぎるから」
『だって僕、出てったらきっとおかあさんを悲しませるもの。おかあさん、おねがいです、どうか僕をここに置いてください』
「……僕だって、ほんとは。でもね、君が僕を悲しませることにはならないよ。僕は君がどんなだってかわらずすきだよ。君がうまれた時にはまっさきによろこぶし、怖いものからちゃんと守ってあげるから。ここのそとでも、君が手をつないでくれるなら、僕の怖いのもきっと消えてなくなると思うんだ」
『おかあさんは、なんにも知らないから。あたまの中まで真っ白で、きれいだからそんなふうに笑えるんだよ。――あ』
 ぼくのこどもはすごく怖がって、顔を上げた。ふるえている。
『鐘が鳴ってるよ。こわいよ。おかあさん、ちゃんと僕をつかんでてよ、つれてかれちゃうよ――
 ぼくはあんまりその子がこわがるので、ぼくもこわくなって、しっかりその子をだきしめようとした。でももうぼくの手はその子のからだをすりぬけてしまう。
『おかあさん、』
 あの子が泣いてる。くろいぺらぺらした手にひっぱられて、どんどんぼくから遠ざかっていく。ぼくはあの子の名前を呼びながら、必死においかける。「かえして」と叫ぶ。
「僕の子供、かえして!」





 声が聞こえる。
「母よ、私に祝福を与えたまえ」
 ぼくのおなかの皮をつきやぶって、小さなあかんぼうの手が出てくる。ぼくはいたくて、からだをおりまげようとして、「じっとしてなさい」とドクターにおこられたのでやめた。そうだ、ぼくの赤ちゃんが出てくるジャマをしちゃいけない。ぼくはおかあさんなんだ。このくらいガマンしなきゃ。
――あ、あっ」
 せなかにいやなあせが、じわっとういてくる。ぼくのあかちゃんは、外をすごく怖がっていたけど、おっかなびっくり顔を出す。貌はない。ぼくにも貌がない。おそろいだと思う。ぼくらはにている。こういうの、何ていうか、ぼくは知ってる。遺伝っていうんだ。ぼくのからだをけずって、くだいて、ぼくの可愛いその子のためにぼくがしてあげられることは、ぼくが持ってるせいいっぱいをかきあつめて持たせてあげることしかない。これからの長い旅のじゅんびだ。






『たくさん、いっぱい持ってって。全部持ってったっていいよ。おかあさんには、もう使いようがないんだからね』
 ぼくはいろんなものをその子にわたす。くらい道のりを転ばないで歩けるように、ぼくの生命の火が燃えるろうそくを。世界のなかにひとりで困ることがないように、いろんな思い出を削り出して、知識を。それから、ほんのちょっとしか持ってなくて申し訳ないんだけど、ぼくの心を。くだけてこなごなだけど、ないよりましだ。かきあつめて持たせてあげる。
『おかあさん、こんなに持ってったら、おかあさんはどうなるの?』
 その子は不安そうにぼくのかおを見る。ぼくはやさしくいいきかせてあげる。
『いいから、持ってきなさい。これをきみがもってるうちは、僕がそばで君を守ってあげられるから。おかあさん、そのくらいしかできないから』
『でもおかあさん、空っぽになっちゃうよ』
『うん。だいじょうぶ――僕は、これをもらうね』
 ぼくは怖がりのその子から影をわけてもらう。
『これで君がそばにいると思ったら、なんだって平気。おかあさんだもの。――僕が見られなかったものをたくさん見て。僕にはもう心はないから、なにも綺麗だと思うことはできないけど、大切な君にとって、世界がすごく広くて、優しくて、美しいものだといいな。そういうふうに感じてくれるといい』
『おかあさん……』
 ぼくはわらってその子をおくりだす。
『いってらっしゃい、僕のかわいい子。いつまでも元気でね。ずうっと、そばで、君を愛するよ。そのことをどうかわすれないで』
 ぼくにはなんとなくわかっていた。子どもを産み落としたあとのぼくには、もうなにもすることがない。あとはこぼれていくだけだ。流れて、すぎさっていくだけだ。
『僕をどうかわすれないで』
 ぼくは涙を流す。子どもをおなかのなかから送り出すおかあさんのきもちが、いまになってやっとわかった気がする。心配で、さみしくて、でもうれしくて、胸がつまる。「いってらっしゃい」ともういちどぼくはいう。






 そして世界の枠のなかへ、その子がやってくる。まっくろのあかちゃんだ。ぼくのおなかからがんばってはいでてきて、ぼくのむねにすいついてあまえる。
 ちいさな肺にいっぱいに空気をすいこんで、そしておおきな声で泣きだす。産声を聞いて、ぼくはたしかにぼくの役割がはたされたことを知る。さよなら、おわかれだ。ぼくは考える。ぼくはもう空っぽで、夏じゅうなきわめいて、子どもを産んで、秋になって地面に落ちた蝉だ。あとはだれかにふみつぶされたり、アリにたべられたりするだけだ。そしてぼくはなにものこらずきえてく。
 ぼくの子どもは黒いたくさんの手に取り上げられて、ぎらぎらした夜空へと消えていく。
 ふわっとからだが浮いた。
――いい子だ、よくやった。君は最期まで、完璧に役割を果たした。やはり君は素晴らしいよ。――かあさん」
 へんなのとぼくは思った。ドクターが、ぼくをそんなふうに呼ぶのはへんだ。すごくいやな気分になる。ぼくが、結局どんなにがんばってもこの人を最後まで『お父さん』と呼べなかったのとおなじで。
 ぼくはドクターにだきあげられて、黒いもやもやした影たちの群れのなかにほうりこまれた。
「さあシャドウたち、母の胎盤を喰らうがいい。美しい母の亡骸を大いなるものに還したまえ」
 ぼくにぺらぺらの黒い手がのびてくる。
――黒田! くそ、なんだこれは!」
 だれかがぼくを呼ぶ。この声とトーンは、きっと真田先輩だ。でもどうしてか、あんまり自分のなまえって気がしない。ぼくには、もっとほかの、ちゃんとしたなまえがあったように思う。なんだっけ。かんがえてくと、すごくきもちわるい。
「テメーら、止めろ! なにやってんだエージ、さっさと起きろ! オメーらしくねぇよ、さっさと目ェ覚ましてそいつらぶっ飛ばしちまえよ!!」
 この声は順平だ。えーじ、それはちゃんとぼくのなまえって気がする。呼んでるのが順平ってのが、なんだかおもしろくないけど。
 影の手が、ぼくにまとわりつく。手足にもおなかにもむねにもかおにも。みんなぼくをおかあさんとまちがえているんだろうか、すごく甘えた声でないてる。まったくそんなわけない、ぼくの子どもは、かわいいあの子ひとりきりなのに。
「なんだ、今頃起きたのか。君たちは、見なかったんだね。実に、残念だ。新しい私が、この影時間の皇となった姿……まったく素晴らしいよ」
「……ハア? ちょっ、外しなさいよこれ! アイギス! 彼を助けてよ! あんたもさっさと起きなさいよ! このままじゃ影人間に――!!」」
 アイギス、そのなまえがすごく気になって、ぼくは顔を上げようとする。黒いうすっぺらい手がぼくを目かくししてる。でもうっすらとすけて見える。アイギス、ぼくの、
「もう、遅いんだよ。私はもう生まれ変わったんだ。十年、長い年月だった。ようやく私は産まれたんだ。愛する母の子宮から、この腐り掛けた世界を救う為に――
 ぼくは影たちの環のなかへとろとろ融けていく。まるで羊水に浸かってるみたいに、ひどくしずかなきもちになる。あの子もぼくのなかにいたころは、こんなふうなきぶんだったのかな。
 ぼくは、しずんでいく。





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