ょっとだけずれた日々(8)




 大晦日の一週間前に僕の記憶は還ってきた。十二月二十五日、クリスマスの日だ。
 毎晩日付変更線を過ぎた直後に、僕自身の記憶操作は解ける。そして影時間の終わりと共に、また『ごく普通の十七歳の男、栄時のトモダチ』に戻る。今夜は戻らない。ずっとほんとの記憶を持ったまま。
 栄時は相変わらずだ。帰国子女のクラスメイトの僕をとても愛してくれている。はじめのうちはぎこちなかった甘え方も、ようやく硬さが抜けてきた。
 どうやら肌を触れ合わせて体温を分け合うことが、すごく好きみたい。ほっとするんだろう。僕らはほんとはこんなことしちゃいけないんだけど(だって仮にも親子なわけだし)、それでも僕が彼に触りたいのは本当だし。
 後悔はしていない。彼も、してないといいけど。
「後悔してない?」
「なに今更言ってんの」
 ベッドの上で、栄時が首を傾げる。彼の身体は汗と精液でどろどろだ。顔はまだ赤くて、目も潤んで艶めいている。
 栄時が僕を抱き締めて、「そんなわけない」と言う。
「僕お前とこういうことできて、多分嬉しいんだと思うから、止めとけば良かったとかそんなのない。ないから、ちゃんとここ、いろよ」
「うん。よかった」
 僕は微笑み、栄時にキスをする。舌を絡めて、もう一度彼を押し倒し、まぐわる。様々なルールやしがらみを一つずつ棄てていく。
「りょおっ、じ」
 栄時がすごくエッチな顔で喘ぐ。この子はほんとにいつのまにかこんなに大人になっちゃったんだなあ、と僕は変な感慨を抱いてしまった。





 僕はほんとの記憶の中では怖がって泣いてばかりのあの子を守る為に、また彼の隣に戻ってきたのだ。彼が幸せな最期を迎えられるために。
 ちょっとだけ事故はあった。栄時は最期の時間が来る事を、なにも知らずにいるはずだった。
 でも彼は知ってしまった。影時間に関係する事象以外の記憶は、僕には弄くることができない。
 だから彼は最期の日がじきにやって来ることを知ってる。でも穏やかに過ごしている。僕が隣にいて嬉しいと言ってくれる。
 できるならこのまま死なせてあげたい。もう「僕のせいで綾時とアイちゃんが死んだんだ」とか、「十年前に僕が死ねば良かった。全部僕のせいなんだ」なんて言わせたくない。泣いて欲しくない。普通の高校生の少年として、ごく普通に、愛する人々に看取られて死んで行って欲しい。





「僕、綾時と出会えただけで、生まれてきて良かったって思えるよ」





 栄時が言う。それで僕は報われた気分になる。よかった。





◆◇◆◇◆





 十二月三十日水曜日、冬休みに入って四日が過ぎた頃のことだ。アイギスが還ってきた。
 彼女はラウンジに現れるなり、出会い頭に僕に銃撃をくれた。
「良くもぬけぬけとこの場所に……! 今度は必ず仕留めます!」
 ちょっと困ったことになった。その場に居合せたメンバーは頭を抱えて床に伏せて、「寮の中で発砲すんなー!」と悲鳴を上げている。
 とにかく栄時を抱いて守り、『戦車』にアルカナシフトして彼女の銃撃を流した後で、僕は「アイギス、話があるんだ」と切り出した。
「大事なことなんだ。君にどうしても聞いてもらいたい」
「あなたと話すことなどありません。その人を解放しなさい、あなたを倒すことが私の使命!」
「おい……なんかダメ出しがものすげーひでーことになってんぞ……」
 順平くんが、カウンターの陰から頭を出して、慄いたように言う。栄時も困り果てた顔で困惑している。
「アイギス、どうしたんだ? 彼もペルソナ使いだよ。綾時は仲間なんだ」
「どうして……この人に、みなさんに一体何をしたんですか! あなたは、シャドウの」
「アイギス!」
 口調を強めて、「やめなさい」と僕は言う。アイギスがびくっとして口篭もる。
「大事な話なんだよ。君にとっても、何より大切なものの話だ。……上においで。悪いけどみんな、僕とアイギスさんと、二人で話をしたいんだ。すぐに終わるから待ってて」
「いや……その、悪いこた言わねーから止めといたほうが……今アイギスとお前と二人きりになるのって、間違いなく自殺行為だと思うぞ」
「大丈夫だよ。彼女は僕を殺せない。『僕は人間だもの』。ね? だから栄時もここで待ってて。心配はいらないから」
「いや、ダメだ。お前ら二人きりになんか、危なっかしくてできない。俺も行こう」
「ダメだ」
 僕は首を振って、栄時を諭す。僕のことを心配してくれるのは嬉しいけど、彼の前でできる話じゃない。
「君はここにいるんだ」
「しかし……」
「いいね」
「でも綾時」
「僕の言うことが聞けないのかい」
「……ごめんなさい」
「謝った!?」
「オレらの暴君があのへタレに押しで負けた!?」
 寮生みんな唖然としている。僕は「さあ行こうか」とアイギスに頷いて見せた。
「……不本意だが俺はここで待ってる、けど、アイギス。綾時を傷付けるな」
「…………」
「綾時に危害を加えたら、君のこと嫌いになるぞ」
「……あなたに嫌われたら、わたしはお終いなので、我慢します」
「アイちゃんも自分の欲求に正直になってきたね……」
 そして僕は歩き出す。アイギスも渋々と言った調子でついてくる。





 作戦室の扉を開けて、アイギスを先に中に入れてあげた後、扉を閉めて鍵を掛けた。彼女は栄時に釘を刺されたせいだろう、僕に向かって攻撃するつもりはないようだった。
 もっとも彼女が最大火力でもって僕を倒そうとしても、全ては無駄に終わる。僕を殺せるのはあの子だけだ。
「明日の夜、栄時は死ぬ」
 僕は話を切り出す。アイギスが目を見開く。すごく自然な、人間みたいな動作だった。
「君と戦ったあの夜の思い出は、僕が隠した。みんな何も覚えてない。知らない。ごく普通の日常の中で、普通の学生として……まあペルソナ使いではあるけど。あの子は死んでいく。僕も消える」
「どうして……どうしてあの人が死ななければならないんですか。あなたが連れて行くんですか? そんなことさせない。あの人はわたしが守る。あなたの好きにはさせない」
 アイギスが、栄時との約束も忘れて僕に銃口を向ける。彼女の顔には恐怖の色が見える。感情がある。
「もうすぐ終わりが来る。僕は、僕にできることならなんでもする。あの子のためなら、僕は何にだってなれる。君と同じようにね。……もう怖がらせたくなかったんだ。泣いて欲しくもなかった。謝ってなんて欲しくなかった。謝らなきゃならないのは僕のほうだ。アイギス、君も知ってたんだろう? デスを封印された器は、役割を終えた後は罅割れ、壊れて消えていく」
「嫌です、そんなのは、あの時のわたしの判断のせいで――
「君は最善を尽くした。それで良かった。君があの時あの子の中に「僕」を入れてくれなきゃ、世界はもう終わっていたんだ。あの子もいなかった。十年経って、僕らがもう一度出会えることは無かったんだ。ありがとう」
「あなたにありがとうなんて言われたくありません。そんなこと言うくらいなら、なんとかして。返してください。わたし、機械だから命と呼べるものはなにも持っていないけど、わたしを全部あげます。メモリーもAIも、なんだって、だからほんのちょっとでもあの人を生かしてください、お願い……」
「そんなことを言うもんじゃない。命に代わりはないよ。そういうことができる人種も確かにいるけれど、死は必ず訪れるものなんだ。もうあの子を怖い夢から救い上げてあげたい。だから明日の夜まで、アイギス、彼に穏やかな時間を過ごさせてあげたいんだ。僕らが喧嘩をすると、あの子はきっと悲しむ。いつもそうだったろう?」
「不本意です」
 アイギスは、硬い声で僕を拒絶する。でも多分、僕は彼女の気持ちを理解することができる。一応明日の夜まで休戦ってことになるだろう。その後僕は消えてしまうだろうから、きっともう二度とダメ出しを食らうことはできないだろうけど。
「そんな怖い顔をしないの。美人が台無しだ。君はあの子とおんなじ、僕にとって子供みたいなもんなんだから……」
 撃たれた。銃弾が僕を殺すことは無かったけど、彼女は本気だった。「二度とそういう口を訊くな、です」と凶悪な顔をしている。年頃の女の子って難しいなあと僕は思った。






◆◇◆◇◆





 そして最後の夜がやってくる。栄時は相変わらず元気で、そこに死の影は見えなかった。数時間前までは。
 冬休みを馴染んだ自室で、友人と一緒に過ごしたいって理由で外出許可を取り付けて、彼はこの巌戸台分寮に戻ってきていた。辰巳記念病院のドクターたちも、栄時があんまり元気なもんだから、データの方を疑っているみたいな感じだった。すぐに一時退院の許可をくれた。
 夕食を取った後、あの子は「ちょっと疲れた。寝る」と自分の部屋に引っ込んでしまった。
 僕はベッドの端に座り、栄時の手を握って、ずっと彼の背中を撫でてあげていた。
「苦しくはない?」
「うん。ただすごく身体が重いだけ。苦しいとか全然ない。なあ、俺死ぬのかな」
「そう思う?」
「なんとなく」
 小さな声で話をしていると、控えめなノックが聞こえた。「はい」と僕は返事をする。
 ドアが開いて、アイギスが顔を出す。彼女は、なんだか懐かしい青いサマードレスを着ていた。真冬には少し寒々しい格好だったけど、僕も人のことは言えない。寒そうな格好だって良く言われる。
「りんごを剥いたんです。食べてくださればいいなって……」
 アイギスはそっと周りを確認して、部屋に入り、冷蔵庫の上にお盆を置いてドアを閉めた。コソコソしてるからどうしたのかと思えば、どうやら彼女は夜間は男子の部屋に入ることを禁止されているらしいのだ。規則に絶対服従のプログラムを組まれた彼女がルールを破るって、すごいことだ。僕はちょっと感動した。
「綾時さん、あなたはまた抜駆けをして。この人の一人占めはさせません」
「はい、ごめんなさい。あの、髪の毛引っ張るのやめてくれないかな。地味に痛いよ」
「栄時さん、食べられますか?」
「うん、ありがとう」
 栄時は頷く。起き上がろうとするんだけど、ごろん、と寝返りを打つだけだ。
 起き上がれないんだ。僕はそう気付いて、背中がぞわぞわした。
 僕は死神になった。死そのものに。この子の終わる時間をはっきりと知っている。
 でも、知ってたけど、いざその時を迎えると、なんだかすごく切なくなった。寂しい、悲しい、それから、ほんのちょっとの安堵。
 もうそんなに死に物狂いで頑張ることはないんだ。
 僕は栄時の上半身を起こして、支えてあげた。栄時はアイギスに「はい、あーんして下さい」って、りんごを食べさせてもらっている。
「美味しいですか?」
「うん。なんか変な感じだ。二人が仲良いなんて」
 栄時がおかしそうに微笑む。僕とアイギスは顔を見合わせる。僕も微笑む。でもアイギスは、心外だって顔でぷいっと向こうを向いてしまう。
「二人とも、ここにいて」
「うん。いるとも。今晩中そばについてる」
「どこへも行きませんから、安心して下さい」
「うん。良かった」
 それからぽつぽつ話をした。十七歳になった栄時は寡黙な子だったけど、今日は良く喋った。
 四月にこの港区へ来てからの思い出、初めてシャドウやペルソナを見て驚いたこと、仲間のこと。順平くんの話は、悪口しか出てこなかったけど。
「それで、あいつ僕に「話し掛けるな」とか言ったんだぞ。僕はなんにも悪いことしてないってのに」
「そりゃひどいね。失礼だよ。順平くんがダメなのはみんな知ってることなのに、君をやっかんでひどい仕打ちをするなんて、なんて身のほど知らずなんだろう」
「そうですね。毎朝帽子の中にタランチュラを入れて差上げたいです」
「……ええと、まあそんなに悪い奴じゃないと思うんだけど、うん」
 穏やかに時間は過ぎていく。栄時はくすぐったそうな顔で、いろんなことを教えてくれた。例えば、名前のこと。
「僕の名前って、両親から一文字ずつ取って付けられたんだって。栄時っての」
 僕はアイギスの顔を見る。彼女は首を傾げて、「なるほどなー」って言ってる。
「あなたは、その名前が好きなんですね」
「うん、大好きだよ。僕の誇りだ。この名前で呼んでくれる人がいるうちは、僕はきっと独りじゃない」
 栄時が言う。彼の顔には、死の恐怖はない。安らかで、楽しげで、幸せそうだ。
 そこでふうっと電気が消える。影時間が訪れる。
 時は来た。
 最後まで怖いものから守ってあげられて良かった。僕は栄時の手をきゅっと握る。手はもう冷たい。僕とおんなじくらい。
 死者の体温だ。
――ありがとう。楽しかった」
 栄時が微笑む。その笑顔は、すごく透明で、綺麗だった。
 僕は頷く。アイギスも、「はい」と言う。
「お父さん、お母さん」
「……え?」
 僕は、驚いて目を見開く。記憶操作は完璧だったはずだ。僕は、念入りに怖い思い出を隠しておいたはずだ。
 だから栄時はなにも知らない。覚えてない。普通の高校生として死んでいく。





 そのはずなのに、なんで。





 なんで、僕のことが見えるの。





「栄時? 君は、覚えてるの? 僕のことが分かるのかい?」





「ごめんな。綾時、頑張ってくれたのに、終わりまで何でもないふりできなくてごめん。でも最後だから、どうしてもちゃんと言っておきたいことあって。……僕は、あなたがたが誇れる良い子にはなれなかったけど、ふたりの子供で幸せでした。僕を愛してくれてありがとう、生まれてきて、あなたたちに会えて良かった。……綾時、アイギス。ふたりとも、大好きだ」





 そして、綺麗に微笑む。鮮やかな花のように。精一杯に命を咲かせて、彼は笑う。





――栄時はあなたがたを、世界で一番愛しています」





 そしてあの子は目を閉じる。
 時が壊れる。世界も壊れる。
 僕の周りで、音を立てて全部が崩れていく。
 この子は僕の世界そのものだったんだと、はっきりと僕は悟る。





 ぼろぼろ、涙が零れる。とめどない。頬を伝い落ちて、栄時の美しい死顔を濡らしていく。
 僕の涙は、赤い血の色をしている。





 僕は栄時の手をぎゅっと握る。もう人のかたちは崩れはじめている。触ったところから、あの子の身体はどろっと融けていく。
 せめて、最期はひとつに還りたい。僕は、そう強く望む。栄時に融けたい。栄時を食べたい。





 ぱあん、と乾いた音がした。頬を張られたのだ。僕を叩いたアイギスは、まるで泣いてるみたいな顔をしていた。





「させません。わたしも、」





 ぐっと腕を掴まれる。彼女の綺麗な青いセンサーが、ゆらゆら揺れていた。
 辛そうで、苦しそうだ。
 でもその顔は、安堵して微笑んでいるようにも見えた。
 彼女は唇を震わせて、





「一緒に」

















◆◇◆◇◆















 その後も僅かな間、世界は続いたかもしれない。続かなかったかもしれない。
 でも僕の記憶はここまでだ。
 望月綾時という人間の、死のほんの僅かな一瞬前に目の前に現れたのは、微笑んでいる愛する家族たちの姿だった。





「綾時、なんで泣いてんの? ……またなんかダメ出ししたのか、アイギス」
「心外です。私は関わりありません。綾時さんが泣こうが喚こうが、私の知ったことではありません」





 泣いてないよ。僕はパパなんだから、大事な家族を守る強い男なんだから、泣いたりしてる場合じゃないんだ。たとえどんなに辛くても悲しくても。自分のことがいやになっても。





「もう泣かないで。僕らがいるよ。世界中のみんなが綾時のことを嫌いになっても、僕らだけは、あなたのことを愛してる」
「私は愛してません。……でも、そろそろ泣くのは止しなさい。子供の前で、いい大人が恥ずかしいとは思わないのですか。あなたは栄時の父親なんですよ。しっかりしていただかなければ困ります」





 ほんとにそうだ。しっかりしなきゃ。僕は大好きなちびくんのパパだってのに、ちょっと情けなさ過ぎる。
 栄時は優しいから僕を赦してくれるけど、僕は僕のことが赦せない。





「綾時のせいじゃない。綾時は悪くない」
「いいえ、あなたが悪いんです。女たらしで、私も栄時も貴方の病気にどれだけ泣かされたことか」
「……うんまあ綾時が悪いのかも。でも僕らは、あなたを赦すよ」
「不本意ですが、泣いているひとを責めることはしません」
「もう自分のせいだって落ち込むのは止めろよ。誰が追い掛けてきたって、僕らがあなたを守ってあげる」
「栄時を守るついでですけどね」





 僕は今、きっとすごく幸せな夢を見てる。
 ううん、今までのことが全部夢で、これがほんとならどんなに良かったろうね。
 また三人で一緒に暮らすんだ。家族が誰一人欠けず、誰にもひどいことされずに、いつまでもいつまでもいつまでも、静かに、幸せに。






「だからもう帰ろう」
「うちに帰りましょう」





 うん、もう帰ろう。きっとこの先の僕らには、楽しいことしかないんだって信じよう。
 沢山沢山ちびくんと遊ぶんだ。たまにアイちゃんとあの子の取り合いっこなんかしたりして。





「わたしは負けませんからね」





 うん。お手柔らかにお願いします。






「おかえりなさい、綾時。お仕事、お疲れ様」






 うん。もう、どこへも行かないからね。







































 そして僕は、今度こそほんとの眠りについた。
























(ちょっとだけずれた日々、アナザーエンド、おしまい)




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