僕が「さよならだ」と別れを切り出すと、彼はしばらくぽかんとしていた。それは子供の僕よりも子供っぽくて、いつもならそのことで彼を一言二言からかって、僕は笑ったろう。人にからかわれることが嫌いな彼は顔を赤くして怒るだろう。そっぽを向いてふてくされてしまうかもしれない。
 でも僕は冗談を言ったり、カオナシをからかったりする気分にはなれなかった。何年も何年も長い間(ということになるんだけど、一日が一時間の影時間しかない僕にとってみたら、せいぜい半年くらいのものになるらしい。この間カオナシが教えてくれた。彼は僕の二十五倍の速度で歳を取っていく)憧れていた朝日の柔らかくて透明な光も、僕に新鮮な驚きや喜びを与えてくれることは無かった。僕はやるせなかった。それも生まれてこの方最高にやるせなかった。
「お別れだよ」
「嘘だ」
「僕は君を離れていく。僕らは同じものじゃないって、僕は理解しちゃったんだよ。だからもうひとつではいられないんだ。永遠なんてないんだってのは分かってたけど、さすがに堪えるよ。僕は君を誰より愛してた。多分君が君を愛するよりもずっとね」
「変な冗談言うなよな。びっくりするだろ。なあお前、こんな朝なんかに出てきて大丈夫なのかよ。融けたりしないのか?」
 カオナシはわざと理解しないふりをした。信じたくないんだろう。僕だって信じたくない。彼から離れたくない。
 愛すべきもう一人の僕、たとえば僕の中に僕自身の好きな場所と嫌いな場所があるとして、僕の好きなところだけを集めてかたちにしたものがきっと彼なんだ。僕は本当にそう思っていた。信じていた。信じていられた間は幸せだった。
 今はもう、彼が可哀相だった。可哀相なカオナシ。彼は被害者なのだ。何も悪いことなんてしていないのに、ただちょっと運が悪かったというだけのことで、彼は全てを取り上げられて、そこに誰も望まないものを流し込まれた。そして彼はそんなもので一杯に満たされてしまった。
 本当に可哀相なカオナシ。いや、それは彼の本当の名前じゃない。彼の名前は十年前に取り上げられていた。彼はカオナシで、ナナシでもあるのだ。
 本当の彼はとても綺麗で小難しい名前を持っていた。僕には読めないくらい難しい名前だった。でも綺麗だった。僕が羨ましくて僕もそんなのが欲しいよって言いたくなるくらいに綺麗だった。
「君に好きでいてもらえるうちに消えてしまえて良かったよ」
「は? なんでそんなこと」
「本当のことを思い出したら、きっと君は怒って僕をなじるよ。その時になったら君はずるいって泣くのかな。あいつ逃げやがってってさ」
「なんだよ、何言ってんのか全然分からない。変に不安になるようなこと言うの止めろよ。なあ、止めろってそれ」
「でもね、君は僕が守る。たとえ全てが終わっても、君だけは、――だから僕がいなくなっても泣かないでカオナシ。悪いのは僕なんだ。じきに君が僕を恨んで、僕のことを嫌いになっても、僕は君が好きだよ。誰より愛してる。だって僕にはほんとにほんとに、君しかなかったんだ。あのね、君が僕の半分だって信じていられたから、僕は僕のことを好きでいられたんだ。今までね。今ではどうかな。わからないけど――ああ時間だ。もう行かなきゃ」
 僕は最期にカオナシに手を振って、「今までありがとう」と言った。お別れの言葉なんて考えていなかった。考えたこともなかった。僕とあの子が離れ離れになるなんて、たとえこの星が何度壊れようが、ありえないことだったからだ。何も知らなかった頃の僕にとって。
 僕は朝の空気に融け、どちらが右で左で、どっちが上で下で、僕は誰で何で、そういうこと全部が何もかも分からなくなりながら、その中で大声で泣き喚くカオナシの姿を見ていた。泣き声を聴いていた。視界は掠れていた。彼は僕よりも随分大きいのに、僕よりも小さな子供みたいに、大きな口を開けて、とても悲しそうに泣きじゃくっていた。思えばいつもぴんとしている(彼は誰よりも強がりだ。ほんとは僕と同じくらい弱虫のくせに)彼のそんな姿を見るのは初めてだった。いつもの彼はそれはそれは静かに泣くのに。
 泣かないでもう一人の僕、離れ離れになっても変わらず君を愛してるから、と僕は考えた。そう言ってあげたかったんだけど、あいにく僕の口はもう融けて影もかたちもなくなっていた。
 泣かないで愛してるから、と僕はもう一度考えた。そばにいるから、僕らは同じもの、一緒のもの。意識が混濁しはじめる。
 僕は愛するから、一緒のものだから、また会いにいく。同じになりたい、ひとつにもどりたい。ずっと友達だよ。





 多分それが種のようなものになったのだろうと思う。





 僕は同い年の同じ性別の同じクラスの友人を、愛してしまいました。傍にいたい、ひとつになりたい、セックスしたい。離れたくない。お嫁さんにしたい。そうしたら、もう一生一緒だ。愛してる。
 たくさんのものが混ざり合っていた。そこから色んなピースを取り出して、パズルみたいに組み立てた。何とまあ変なことになったものだ。
 でも実の所、僕はそれらを結構気に入っていたのだ。
「ねえカオナシ、夢を見ていたよ。とても素敵な夢だったんだ」
 僕は目を開き、もう一度閉じ、また開いて、長い間もう一人の僕だった少年に笑い掛けた。上手く笑えているかは分からない。笑うってのがどういうことなのか、僕には本当は良く分からない。
「夢の中では僕は望月綾時って名前のひとりの人間でね、かわいい女の子が大好きで、たくさん友達もいたんだ。毎日学校へ通って、勉強して美味しいものを食べて、寝て起きて遊んで、何もかもがそりゃあ楽しかった。君にもう一度初めから出合い直して、恋なんかしてみちゃったりもしたんだ。同じ男同士なのにおかしいなって最初はちょっと悩んじゃったりして。笑っちゃうでしょ、おかしいね」
 僕の足元には、ばらばらになった機械のパーツが散らばっている。無残な格好で横たわるアイギスが、機械の目で虚ろに僕を見つめてきていた。でもさっきまでみたいに、そこに感情らしいものを読み取ることはできなかった。彼女と戦うのも実に十年ぶりだ。
「ほんとに楽しかったんだ。まるで僕が人間みたいで、みんなに触って、みんなも僕に触れたんだ。昔みんな僕のことが見えなかった時に、君がそうしてくれたみたいにさ。誰も変な顔しなかった。僕がいることが当たり前みたいな顔をしてくれていたんだ。僕はシャドウなのに、みんな僕を人間みたいに扱ってくれたよ」
 ムーンライトブリッジの上には、美しい満月が掛かっていた。いつかカオナシと二人で見た滅びの星だ。僕は約束した。いつか彼をあの星に連れて行ってあげると。その約束が意味することの恐ろしさを、あの頃の僕は何も知らなかったのだ。
 僕は顔を覆った。視界が暗くなった。何も見えなくなったけど、何もかもを無かったことにすることは、やはりできなかった。
「目覚めたくなんてなかった。ずうっと夢を見ていたかったよ。でも永遠なんてない。やっぱりないんだ。僕と君が別々の存在になってしまったみたいに、すべては移り変わっていく。ほんとにいい夢だったんだよ。君に沢山話して聞かせてあげたいや」
 カオナシは僕を責めることは無かった。うっすらと微笑んでいた。そこだけは僕はとてもほっとしていた。彼に嫌われずに済んだことにほっとしていた。
 カオナシの手が、労わりと優しさを感じさせる穏やかさで、僕の頬を包んだ。
「僕もきっと同じ夢を見ていたんでしょう。僕らは同じものだ。あなたと見た夢はそう悪くなかった」
「君がそう言ってくれると救われるよ」
 僕は彼を抱き締めた。でも僕らの心音は、今はもう大分違っていた。僕らは同じものじゃない。同じ生き物ですらない。
「おはようございます、宣告者デス皇子様。あなたの目覚めを心よりお待ちしておりました」
「うん」
 僕は頷いた。
 その夜、僕は全てを知った。ひどい現実の全てを知った。美しかった眩い日々は、まるで夢か幻だったみたいにさらさらと壊れた。
 多分、その時に僕もどこか壊れてしまったんだろう。多分そうなのだ。





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管理人:ゆりんこ 2007年04月29日〜