カレンダーの上に一般的な冬が来て二日目に、先月いなくなった僕の小さな友達が帰ってきた。
僕らはちょっと特殊な再会の仕方をした。彼はいつのまにかあの小さな子供ではなくなっていて、名前も顔もまるきり別人になっていた。比喩ではなく別人になっていた。
ただ、確かに喜ばしいことではあった。僕は彼をとても愛していたし、彼は僕のたったひとりの友人だったのだ。もう二度と会えないかもしれないなんて悲観的なことを考えていた最中だったので、僕は素直に嬉しかった。
でも僕はその喜びを表現することがどうにも上手くできない。どうすれば良いのか分からないというのが正直なところだった。昔みたいに彼の身体を抱き上げてくるくる振り回したり、抱き締めて頭を撫でて「よく帰ってきた」と二人で再会の喜びを分かち合うことはどうにも難しそうだった。
僕の友人ファルロスは、ちょっと見ないうちに物凄く遠い世界の人間になってしまっていたのだ。この世界で一番偉くなっていた。僕が崇拝するデス皇子様その人が、成長したファルロス本人だったのだ。
これには僕もかなり驚いている。確かにこれまでにも僕は、皇子様とファルロスの姿を重ね合わせて見てしまうことが良くあったように思う。二人はとても良く似ていたのだ。風貌や声、話し方、人の話を聞かないマイペースなところなんかがそっくりだ。同一人物だと言われるとああなるほどと納得せざるを得ない。
なにせ皇子様は絶対で万能の存在なのだ。ほんの数日で十歳も歳を取ったって不思議じゃない。
ともかく、ファルロスが望月綾時様だった。これは僕にとって結構な衝撃だった。僕はあの僕の半分を持っているファルロスを、これから名前に『様』なんて付けたりして、皇子様と呼んで傅かなきゃならないようなのだ。なんだかむずむずする。
僕は『よお、久し振り。お前僕のこと一月も忘れてやがって、怒るぞ』とか、『でももう一度会えて嬉しい。もう絶対僕のそばを離れるんじゃないぞ、わかったな』とか、ちょっと気を抜くと口に出してしまいそうになる。なにせ生まれてから十年ずっと一緒にいた仲なのだ。僕はそれを押し止めるのに結構な努力をしていた。今や彼はもうファルロスじゃなくて、望月綾時様、でもなくて、宣告者デス様なのだ。僕の主であり、僕の皇子様であり、僕の神なのだ。気安い態度や無礼な物言いは許されない。
彼はと言えば、さっき僕らがアジトへ戻ってきてからというもの、ずっとぼおっとしていて、目の焦点も曖昧だ。まだ記憶の混濁のなかにあるのかもしれない。
心配だったが、明け方頃になるといくらか落ち付かれたようで、まだ大分気だるそうだったが、「カオナシと話をしたいんだ」と言い出された。
「少し出ないかい。外の空気が吸いたい」
「はい」
僕はすぐに頷き、僕の仲間達に「お前ら絶対ついてくんなよ」よ言い聞かせておいて、アジトを出た。皆は随分僕に嫉妬混じりの恨みがましい視線をくれたけど、皇子様のご命令なのだ。僕は悪くない。でも多分後でいくらか苛められるような気がする。理不尽だ。
今僕らは長鳴神社近くのアパートの一室にいる。以前から『非常用』に手に入れていた住処だった。ぼろの上に前の住人が首吊り自殺をしたとかで、幽霊が出ると噂になっている。そのせいで結構広いのに家賃が割合安い。手持ちのない僕らが住み付くのは、昔から大体がそういう物件なのだ。
巌戸台分寮には、多分もう二度と戻ることはないだろう。
僕らはもう多分昼間の月光館学園高校の校門をくぐることもないだろう。必要がなくなってしまったのだ。
冬の朝方だけに、外は随分冷え込んでいた。僕はコートを脱ぎ、皇子様の肩に掛けた。彼は首を振って「必要ないよ」と言うが、僕が「どうか着ていて下さい」とお願いをすると、「うん」と頷かれた。
二人でゆっくり長鳴神社の階段を上っていく。僕は彼と何度もこの階段を上ったことがある。ファルロスとだったり、クラスメイトの望月綾時とだったり、僕の敬愛する皇子様とだったり、何度もだ。
皇子様はまだ随分と顔色が悪かったが、僕の顔をじっと見て、昔を思い出して懐かしむような顔つきで微笑まれた。
「久し振りに会えて……ってことになるのかな。嬉しいよカオナシ。まあ僕らはいつもみたいにずっと一緒にいた訳だけどね」
「はい」
「僕を恨んではいないかい」
「ありえません」
「僕は君を離れて君を忘れていたんだ。君を裏切ったということになるんじゃないかな。いつもみたいに怒らないのかい? ああ、この前は少し怒っていたじゃない」
「あなたが僕を離れても忘れても、僕は何も変わらずあなたをお慕いしています」
「よしてよ。あのカオナシにそんな堅苦しい喋り方をされたら息が詰まってしまうよ」
皇子様は肩を竦めて、少し呆れたみたいに僕を見た。僕も相手があのファルロスだと思うとちょっと変な感じだった。
「でも、あなたは僕の皇子様なんです」と僕は困惑しながら弁解した。
「その、あなた……が、デス皇子様だというのは、予想外でしたが……」
「もう名前で呼んではくれないんだね」
「あなたは、僕の主ですから」
「いつものように僕をもう一人の自分として見ることはもうできない?」
「…………」
「僕はね、シャドウたちに傅かれるのは何とも思わないんだ。そういうものだって知ってる。でも君まで彼らみたいに僕を皇子様って呼んで頭を下げてるのを見るのは、なんだか複雑だよ」
「…………」
「別に意地悪をしているつもりじゃあないんだ。そんなに困った顔をしないでよ。前にも言ったでしょ、全ては移り変わっていくものなんだって。昔を懐かしむことはできるけど、もう過去は戻ってこないんだ。どんなに君と僕がひとつだったあの頃に戻りたいと望んでもね。君があの頃みたいにいつまでも無知でいてくれたら、僕は随分救われたろうに」
「……申し訳ありません」
「いいよ、君が謝ることは何もない。言ってるでしょ、意地悪をしているつもりは……いや、なくても、君を苛めていることにはなるのかな。カオナシ、手を」
僕は皇子様に求められるままに手を差し出した。彼は無造作に僕と手を繋いだ。冷たい手だった。
彼が子供だった頃に僕と繋いだ手とは、随分感触が違っていて、僕はまたそこで混乱することになる。どうやら彼は沢山の顔を持っているらしい。僕はそれを知らなかったから混乱しているのだ。
「全部僕が壊すんだって」と彼はまるで他人事のように言った。
「僕の夢に出てきたトモダチをだよ。順平くんとかゆかりさんとか、風花さん、美鶴さん、アイギスさん……はもう壊れちゃったか。天田くんにコロマル、真田先輩、僕彼に君を取られやしないかって冷や冷やしてたんだよね。それから学校の可愛い女の子たち。君の兄弟と、君のことも、全部、全部だ。僕は確かにみんなを愛していたんだ。壊そうなんて微塵も思ってなかった。大事に大事にしたいと思ってたよ。今がずっと続けばいいって思ってた。でももう、終わっちゃった」
「はい」
僕は頷いた。皇子様はとても世界を惜しんでいるようだ。彼はこの世界に執着しているらしい。僕は何も惜しくはないが、彼が悲しんでいるのを見るのは辛かった。
「もっとも、全部壊れてしまえばいいって思ったこともあるんだよ。君が人間たちにひどい目に遭わされているのを、触れない僕が何もできないまま見ていた時なんかね。僕は君のなかで、君が強く感じた感情を栄養に貰って育ったんだ。恐怖や憎悪や諦めや殺意や……だからあんな眩しい世界があるなんて全然知らなかった。もし僕らが普通の人間なら、ああして楽しくてしょうがない毎日を送れたんだと思うととても残念だ」
皇子様は溜息をついて頭を振り、「僕にせめてできることは、多分誰も苦しめずに静かに世界を終わらせることなんだろうね」と言われた。
「怖い思いや痛い思いなんて、誰にもさせたくはないよ」
「普通は死の間際は、怖かったり痛かったりするものです、多分。でも死そのものが辛いわけじゃない。僕は待っていますから」
僕は「ずっと待っていたんですから」と言う。皇子様は「うん」と頷かれ、「頭がおかしくなりそうだよ」と言われた。彼の唇は硬く引き結ばれ、手は震えていた。
「僕はね、さっきまではすごく普通だったんだ。そう思い込んでいたんだよ? まあ僕がそう仕向けた訳だけどさ。友達もいたんだ。君以外に初めてできた人間の友達がさ。それが全部滅びてしまうんだって。僕が、僕のせいで」
「きっと全部夢だったんです、皇子様。楽しい夢を見ていたんですよ。ご安心下さい、カオナシはここにおります。夢じゃないです。あなたが目を覚まされてもおそばにいます。どこへも行きませんから」
皇子様はいつもよりも随分血の気のない顔で、「うん、いてよ」と頷かれ、僕の手をすごく強くぎゅうっと握った。
「君が、いてくれてほんとに良かった。ほんとに、怖いんだ。離れないでよ、約束だ。絶対ここにいてよ。お願いだ」
「はい、あなたの望み通りに」
「まだひどく頭が痛いんだ。君がいないと、僕はどうなってしまうんだろうって、だめだよ、考えたくもないよ」
皇子様は乾いた声で「命令だよ」と言われた。いつも言われる『お願い』ではなく、それが僕に彼の感じておられる恐怖がどれだけのものかということを理解させた。彼が何かをすごく怖がっていると考えると、ひどくやるせない気持ちになった。そばにいながら、僕は彼が何を怖がっているのかも分からない。僕には彼が怖がるものを取り除くこともできない。
◆
皇子様はすごく寒そうに、身体を縮こまらせて蹲り、震えている。「寒い」という。
もう十二月なので寒いのも無理はないとは思うが、彼の寒がり方は異常なくらいだった。風邪をひかれたのかもしれないと思って身体に触れてみても、相変わらず冷たい。僕よりも随分冷たい。まるで死人みたいだ。そう思って、僕はまあそういうものなんだろうなと思い直した。無理もない。皇子様は死神なのだ。生きている人間じゃない。僕が良く知っている彼はまるきり人間にしか見えなかったので、たまに忘れそうになる時があるが、彼は不死身の宣告者なのだ。
「暖房の温度を上げました。まだ寒いですか?」
「ううん、いいんだ。暖房とか、そんなじゃなくて、カオナシ、こっちへ来て。そばにいて、僕に触っててよ」
彼はベッドの隅で頭を抱えて、まるで小さなファルロスだった頃みたいに僕を呼んだ。僕は「はい、あなたの望み通りに」と頷き、皇子様の身体に触れ、背中に手を回して抱き締めた。皇子様はしがみつくみたいにして僕の背中を抱かれたので、なんだか本当にあの大人びていてマイペースで我侭な小さなファルロスをあやしているような気分になってきた。
「大丈夫です、カオナシがここにいます」
「僕が薄くなっていくのが分かるんだ。どんどんどんどん、なにか、上手く言えないんだけど、僕が変わっていくんだよ。君がくれたものが、どんどん薄まっていくんだ」
「変わりたくない」と彼は言う。僕は何と言って良いのか分からない。
「怖がらないで下さい。あなたは僕が守ります。もしもあなたがどんなに変わってしまっても、カオナシは変わらずあなたのそばにおりますから」
「本当に?」
「はい、お慕いしています」
「僕がもしひどい化け物になっちゃっても?」
「はい。それがあなたなら、僕は、ええと……ガムテープやボールペンなんかでもあなたに変わらずお仕えしますから」
「……そんなものにはなりはしないだろうけど。もう、君ってば相変わらずだ」
くたびれた顔だったが、皇子様はそこでやっと笑って下さった。僕はほっとした。
最近皇子様はあまり笑われなくなった。学生をやっていた時分にはあんなにいつも楽しそうに笑ってばかりいらしたのに、このところずっと塞ぎ込んでいる。
そして苛々している。こうやって塞ぎ込んでいる時もあれば、たまに癇癪を起こすこともある。その時は、何もかもが上手くいかない子供みたいになられてしまう。つまり泣いたり僕らを部屋から追い出したり物を投げたりされる。
あの穏やかなファルロスや望月様を知っている僕にしてみれば意外だったが、彼は大分不安定に見えたし、宣告者としての役割の重さに押し潰されそうになっているように見受けられた。
思えば彼は今までに理不尽や挫折と言ったものをあまり経験されていないのだ。僕が全力で守ってやって――いや、守らせていただいて(本当に変な感じだ、この僕があのファルロスに敬語なんて)きた。多分慣れていないのだ。
まったく不愉快な事態だった。彼の重荷を僕が肩代わりできれば一番良いのだが、世界ひとつをまるごと滅ぼすなんて大それた役割は、僕の手には余る。僕は最強で無敵だが、自分の立場ってものはきちんと理解している。僕は個人なのだ。
「君とこうやって話している時だけ、僕が人間だったことを思い出すよ」と皇子様は言われた。
「我侭ばかり言ってごめんよ。僕を嫌いになりはしないかな」
「あなたに必要とされると、僕はとても満たされるんです。どうかカオナシを必要としてください」
皇子様はまた弱々しく微笑まれた。そして「ねえ」と何かを言い掛けられ、「やっぱいいや」と言葉を濁す。
最近はそんなことが多い。
「なんですか?」
「うん……君は自分のことを何も思い出さないんだね」
「はい。僕に思い出すべき特別なことなどというものはありませんから。あまり思い出したくもない」
「うん」
皇子様は頷かれた。そして僕を憐れまれるように目を細めて、「ごめんよ」と言われた。
◆
彼が言う変わるというのがどういうことなのか、初めのうち僕には良く分からなかった。
日が経つにつれて、ようやくなるほどと理解できるようになった。つまりまず、あの穏やかなひとがあまり笑わなくなったところから、彼は既に変わりはじめていたのだ。
僕は彼の部屋のドアを叩き、「皇子様」と呼び掛けた。返事はなかったが、構わずに「食事をお持ちしました」と声を掛けた。やはり返事は無かった。
部屋のドアには鍵なんて上等なものはついていない。こういうところはかなり申し訳ないなと思う。皇子様ともあろうお方が住むには相応しくないのだ。
僕は左手で食事を乗せたトレイを抱え、右手でドアを開けた。カーテンが引かれ、部屋は暗かった。彼は明るいのが嫌いなのだ。
テーブルの上にトレイを置いて、ベッドにぼんやりと座り込んでいる皇子様に「タマゴのサンドイッチです」と話し掛けた。
「それからホットミルクも」
僕は皇子様の足元に跪き、彼の手を取って、「あなたは何も間違っていないんです」と慰めた。彼の頬に涙は流れてはいなかったが、目は赤くなっていた。
「もう一週間何も口にされていません。せめてミルクだけでも飲んでください」
「そんなものは必要ない」
彼は久し振りに口を開かれた。最近は何を言ってもだんまりだったから、僕はちょっとほっとした。
でもほっとしてる場合じゃない。彼はもう一週間も食事を取っていないのだ。僕なら間違いなく衰弱しきっているだろう。経験があるから分かる。
「しかし、お身体が」
「わかるだろう、僕はシャドウだよ。食事なんて必要ない。君らが言う意味での食事はね。言っている意味が理解できるだろう」
僕は頷いた。
「君らの食事は必要ない。僕の食べるものはなに? 言ってみて」
「シャドウは、人の心を糧とします」
皇子様は「そう」と頷かれ、僕の頬をそっと撫でられた。声はまるで粉々になったガラス片のように虚ろで冷たかったが、触りかたは以前と同じで優しかった。
「食い殺されたいのかい?」
「あなたになら僕は構いません」
僕は頷いた。彼になら食われても構わないと思っている。常日頃思っている。僕の忠誠心ってものは、結構伊達じゃないのだ。
皇子様は急に泣きそうな顔になって、僕に手を伸ばし、多分昔のように抱き付こうとされたんだろうが、途中で止めて腕を引っ込めた。
僕は、かなり失礼かとは思ったが、彼の背中に腕を回して撫でた。今はもう幾分か彼のほうが身体が大きいので、あまり上手くあやすことはできそうになかった。残念だ。
「どうしてこんなに優しくしてくれるんだい」
皇子様は震えながら、妙なことを言われた。すごく今更だ。「カオナシはあなたの為にあります」と僕は答えた。
「そんなことはないんだ」
「いいえ、これだけが僕の本当です」
「全部幻想なんだよ。夢でさえなかった。僕と君が同じものだっていうのも、世界中でたったひとりきりの友達だって言うのも、名前も、過去も記憶も、なにもかも嘘っぱちだったんだ。ただ綺麗なものを繋ぎ合わせて作ったまがいものだ。――目を覚ましたくなんてなかったんだ。僕は君から全部奪って、君をいいように作り変えたんだ。君は僕を恨んですらくれない。僕が、そう仕向けたんだ」
「――可哀相な皇子様」
「僕を憐れんでくれるの、カオナシ」
彼は苛ついたように声を荒げて「やめてよ」と吐き捨てて、僕の胸に額を押し付けた。いつも穏やかな彼がこんなになってしまっているのを見るのは、僕としても辛かった。
「僕を怒ってよ」
声は随分くぐもっていた。泣いているのかもしれない。
僕は彼の頭を撫でて、柔らかくて細くて癖のある髪を梳いた。学生をやっていた頃のようにぴったりと髪を撫で付けていないと、彼は昔のままの結構な猫っ毛だった。
「君は本当のことを何も知らないから、僕なんかに優しくしてくれるんだ。僕だけいろんなことを思い出してしまう。いつもそうだよ、君は無知なままでなんにも知らない。僕がどれだけそんな君のことが羨ましかったか、君は知ってるかい? 僕らはほんとはおんなじものなんかじゃないって知った時に、僕がどれだけ絶望したのかって、分かるかい」
彼はそこで、僕の両腕を掴んで、顔を上げた。相変わらず顔色は紙のように白かった。目は僕を見てはいなくて、焦点がぶれていた。見たくないものからなんとか視線を逸らそうと努力しているようにも見えた。
でも結局彼は最後には僕の顔を見て、とても悲しそうに目を眇められた。まるで交通事故に遭った友達の折れた足でも見ているような顔つきだった。
「十年前の、ほんとの話だ。あの日、君は僕と一緒に生まれたんじゃない。君は事故に遭ったんだよ。それまで七年間普通に生きてきた人間の子供だったんだ。君はただ、ラボから逃げ出した僕と出会って、ちょうど一番近くにいたっていうだけの理由でデスの封印の器に使われたんだ。あのアイギスに。今まで彼女にとても大事にされたろう? 彼女は君を監視していなければならなかったんだ。そして負い目を感じていた。君という個人の人生を、運命を完全に損なってしまったことをね。ただの小学生だったんだ。両親もいた。僕らに出会わなければ、君は――」
皇子様が教えて下さるほんとの話というものは、僕にとってまるで現実味のないものだった。僕は僕が普通の小学生で、人間の両親というものに囲まれている光景を、上手く想像することができなかった。「わかりません」と僕は正直に言った。
「あなたに出会わないというのがどういうことなのか、僕には理解出来ません。もしもあなたに出会わなければ、僕は今頃あのS.E.E.Sや影時間に象徴化してしまう人間達みたいに、安穏と生きていたということでしょうか? じゃああなたのことも知らずにいたんでしょう、多分。そんなもしもは考えたくもない。アイギスが僕にあなたを封印したというのなら、僕は彼女に感謝しなければならない。おかげであなたと会えた」
「だから、違うんだよ。君は普通に幸せに一人の人間として生きていたんだよ。僕が台無しにしたんだ。怒ってよ。僕の普通を返してくれよって、君はすごく僕を恨んでいいんだ」
「申し訳ありませんが、そのご命令は聞けません。あなたと共にいた十年を、僕はどうしても悪く思うことができない」
僕は生まれてから過ごした十年を、まあろくでもなかったし、もう一度繰り返せと言われたら絶対にごめんだが、悪く思うことはできない。ずっと一緒にいたファルロスを憎むなんてこともできない。まあ彼が僕をほったらかしてどこかへ行ってしまった時なんかは結構彼のことを恨んだものだったが、どうしたって嫌いにはなれないのだ。「何も悪く思わないで下さい」と僕は彼に言った。
「なんであなたが僕に負い目みたいなものを感じているのかは分かりませんが、僕はあなたが好きなんです」
皇子様は悲しそうに頭を振られて、「こんな状況じゃなきゃ、君に好きだって言われたら、僕はすごく嬉しかったのにな」と言われた。
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